【うた恋い。】夢の夢(定家×式子様)
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 その日、宮中から火の手が上がった。

 

 炎は大火となって闇夜を煌々と照らし出し、地の上にあるすべてを長い舌で舐め尽くした。

 天に昇る黒竜のごとき煤煙を目にして、京の人々は雲間に天狗が飛んでいただの、数日前の御所に百鬼夜行が入っていくのを見ただのと、口々に言い合った。

 なに、火事は今に始まったことではない、と強気に振る舞う者も少なくなかったけれども、この不吉な色合いをした灯火は昔日より数百年にわたって国土に染みこんでいた信仰に、野卑な大槌が振るわれたことを意味していた。

 その証拠に、焼け跡からはやんごとなき方々の無惨な骸が見つかる。

 地獄の業火にでも晒されたかのような黒々としたご遺体は充分人々を震撼せしめたのだったが、それよりも、燃えてなお残るくっきりとした刀傷はついに不可侵の領域への闖入が起きたことを教えている。

 もはや天子といえど、乱世の習いに例外はない。

 それは、ごく最近あった幼い御門の入水においてもみなが抱いた無情ではあった。いつのまにか、それは哀ればかりか非情までも感じる事態になり代わっている。

 徒党を組んで都に乗り入れた賊にも、言い分がないではない。古(いにしえ)に皇位を簒奪したのは、死んだ御門とその一族であり、自分たちこそが正統なる血統だと称していた。その理屈からすると、不当に奪い続けてきた者たちを許すことなどできようはずもない。亡き御門に近しい親王たちは次々に賊の手にかかり、有力な公家屋敷も多くは襲われた。

 治安を預かる武家たちとの衝突も勢い激しさを増し、夜盗を討伐するといった小さな争いの段階を通り越し、長期化を暗示する内乱の様相を見せ始めている。

 聡い者たちはとっくに京を抜け出してしまい、かつて人で賑わっていた往来もすっかり寂れてしまった。痩せた犬が餌を求めてうろつく様は、辛うじて残る人たちの心を繰り返し痛めつけるのだった。

 永き天皇(すめらみこと)の御代も、ついには終焉を迎えるのやもしれない。とするならば、これこそが末法の世というものではなかろうか。

 貴賤を問わず広がる静かな諦念と絶望…… 八条院に住まう式子(のりこ)内親王も、そんな思いを強くしたひとりだった

 本来の主である叔母・ワ子(あきこ)内親王の姿は、そこにはない。

 京の制圧に手を焼いた賊は、政治的影響力を持つワ子内親王と結ぶことを画策する。しかし、勘所の鋭い彼女は使者が訪れる数刻前に落ち延びて、自ら所有する荘園のひとつに移動していた。

 共にあっては、却って危うい。

 時が迫る僅かな合間に、ワ子は幸薄い姪にそう言い聞かせた。一見同じ内親王という身分を冠しているようではあっても、前斎院として世事から距離を取った立場にある式子に駒としての価値はない。彼女と同様の状況にある親族たちは、逃げ出すことよりも息を潜めて嵐の通過を待っている。式子も、そうした方が安全だとワ子は考えたのだ。

 ご案じなさいますな、とふだんとつゆほども変わらぬ穏やかな微笑みで叔母を送り出した式子ではあったが、大儀を掲げて粗暴を働く者たちに盗賊の一味まで混ざっていることは家人(けにん)たちを通じて知っていた。乱れたとはいえ、公家にも武家にも一目置かれる叔母の住居を襲うような不埒ものばかりとは信じたくはなかったものの、彼らの尊崇を期待することも実に愚かしいことと、冷めた思いも禁じ得ない。

 彼女の繊細な神経では夜の帳が京に降りるごと、じわじわと押し迫ってくるような不穏な空気に気づかないふりはできなかった。

 ある昼下がり、変哲のない午後の日差しのなかで、彼女の全身を唐突な悪寒が走る。それは、斎院として十もの年月を捧げたことへの、天からの賜り物だったのだろうか。ともあれ、彼女はいよいよ覚悟を決めるときがやってきたのだと理解した。

 夕刻、ワ子が置いていった女房のひとりが慌ただしく彼女のもとにやってきて、通りを挟んだ一帯で火が放たれたらしいことを告げた。

 金品目的の物盗りであろうけれど、八条院に来て狼藉を働くやも、と青くなる彼女の不安は、なにも式子の身を思ってのみのことではないだろう。どうするのかと決を求められても、忘れ去られた内親王でしかない彼女には荒事への方策などあるわけもない。巻き込まれぬうちにおまえたちは下がりなさい、と答えるのがせいいっぱい。

 御門の娘とはいっても、時代の荒波に翻弄されるだけの半生で、皇女としての格別の矜持など持ち合わせていない彼女だ。それでも、いざとなれば自らの誇りくらいは守らなくてはなるまい……。彼女は叔母から出立前に賜った小刀をそっと袖のうちに潜らせた。

 せめて竜寿御前がおいでなら、と内親王の固く引き結んだ口元を見て、女房はそっと目尻を拭った。式子付きの女房、藤原俊成の娘・竜寿は気持ちのしっかりした女性で、姉たちの多くが要人のもとへ出仕しているせいか、こうしたときには頼りになる人物だ。残念ながら、ちょうど賊が挙兵する直前に、具合を悪くした父親の湯治に付き添うため、長めの宿下がりをしている。

 戻るに戻れず、今ごろは熊野の湯治場で気を揉んでいるでしょうか。

 心配する竜寿の姿とともに、ふと、彼女の心に別な面影が浮かぶ。

 世情のせいもあって、ここ何日か彼は訪れていない。最後はいつのことだったろうかと考えると、それがごく短い日にちであるのにも関わらず、随分と空いているように感じられる。

 そう。あのときは、送った恋歌への返歌を携えてきたのだった。明るい彼の軽口に笑い合ったことが大昔のよう。もう彼の和歌(うた)を耳にすることはないのだろうか。それは大きな心残りであるようにも思われた。

 ばたばたと、廊下を乱暴な足取りで近づく音が響いてきた。はっと、ふたりは身を固くし、部屋の奥へと後じさる。日は傾いてはいても、まだ明かりを灯すほどでもない部屋ではいずれに人がいるのかも判然としない。だが、足音の主は迷うことなく彼女の御簾を上げて、部屋をぐるり見回す。几帳の向こうで身を寄せ合う人影をその目で捉えると、よかったと、と屈託のない笑顔を作った。

「僕です。ご無事ですね?」

 女たちは顔を見合わせる。

「定家……?」

 どうして、と彼女が尋ねる前に、「家人にこの辺りを見にやらせたところ、不貞の輩がうろついているようだというので気になって」と一気呵成に説明する。そうしながらも彼は外に気を配り周囲を窺うことを忘れない。

「こちらでは危ういでしょう。ひとまずは、我が家までおいでください」

 否やを言わせぬ強い口調で彼は告げ、女房にも内親王の支度をするよう急かした。自分がいなければ、この女房をはじめとする何名かはすぐにでも八条院を辞することができる。少し思案してから、彼女は、そうですね、と頷いた。

 ワ子から留守を預かった数人を残して裏口から屋敷を後にした式子は、以前とはまったく異なる、殺伐とした世間の雰囲気に色を無くした。そう頻繁に出かけるような立場ではない。だからだろうかと思い返してはみても、焼けた空に遠く近くと立ち上る幾つもの筋は、野蛮なものを呼び込むための狼煙のように見えてならない。つい、ふらりよろめいた彼女の腕を、しっかりと定家は支える。

「牛車をご用意せずにすいません。あれは目立ち過ぎるし、そんな時間もなくて」

 彼は、家人からの話を聞くとともに飛び出したのだ。それを行き届かないと恨むことなどできるだろうか。彼女は、大丈夫です、と首を振る。

「でも、被衣(かづき)姿もいいですね」

 こんなときに何を言うのか、と呆れて返す言葉も見つからないでいると、定家の連れてきた家人のひとりがくすりと忍び笑いを漏らす。まあ、主従して、と彼女は被衣のなかで頬を赤らめた。

「不敬ですよ」

 わざと身分差を強めた抗議を聞いて、「ごめんなさい」と定家は素直に謝ったけれど、悪びれたようでもなく肩を竦める。

 八条と五条はほど近く、平時なら式子の足でもそれほど時間を要する距離ではない。とはいえ、荒くれ者がたむろしていれば迂回せざるを得ないし、獣がいれば追い払いもする。深窓の姫君を連れての道中は彼らが思う以上に手間取られ、途中から定家は彼女を抱き上げて進むことになった。

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 日もすっかり落ちて三日月が輝き出すころ、ようやく俊成の邸宅に到着した定家は、彼女を腕に抱えたまま屋敷のなかへと連れて行った。その界隈は辛うじて静けさを保っており、式子の目にも八条よりはずっと真っ当な暮らしができるように見える。

「父について出ている家人も多いので、人手は充分ではないんですが」

 言い訳のように彼は告げる。確かに使用人たちの数は少ないようだった。けれど、彼の口にする理由だけのことだろうか? 彼女は違和感を覚えた……。とはいえ、地位がかなり隔たる定家たちの生活を、そう詳しく知っているというわけでもないのだが。

 部屋の置き畳の上に彼女を下ろし、こんな場所しかなくて、と彼は謝りつつ、着替えと水を張った角盥を引き寄せた。家を出る前に、家人に言いつけておいたものらしかった。が、女房を呼ぼうとはしない。

「あまり式子様のことを知らせたくないんです」

 秘かにお連れできたのだから、という主張はもっともであるような気がする……。けれど、「失礼して」と埃にまみれた足に彼が手を伸ばしたので、彼女はびくりと身体を震わせた。彼は困ったように目を逸らす。

「その……。式子様に手ずからおみ足を洗っていただくわけにはいきませんし」

 下心を疑ったと思わせただろうか。衣の内側で真っ赤になりながら、「いえ、いいのです……。どなたか女人はいらっしゃらないのですか」と彼女はやっとのことで頼んだ。

 彼は、えーと、と視線を泳がせる。和歌の才は誰よりも秀でているというのに、ときおり、彼はそうして言葉を探す。隠し事のできない人間の証だ。

「正直に言うと、今、女手がないんですよね……」

「あの……? 奥方は……」

 定家は一年ほど前に六条藤家の娘と結婚している。女房が出払うとしても、正妻くらいは……。

 彼はばつの悪そうな表情をして、「それが、出て行かれちゃいまして」と口ごもった。まずいことを聞かれた、と思っているのがありありと見て取れる。重ねてどういうことなのか、聞くべきか。彼からすれば、話すべきか。お互いの戸惑う沈黙が流れてしばらく、「ま、そういうことなんです」と彼は開き直った様子で角盥を引き寄せ、許可を得ることもしないで彼女の足を簡単に拭った。

 着替えまでは彼が助けることはできないわけだから、ご自身でとお願いして部屋を退出し、彼は考え事をしながら廊下を行く。時を空けて麦湯でもお持ちしようか。灯台はひとつあれば充分だろう。一応は平穏であっても、あまりに派手に明るくしてもよろしくない……。

 彼は空を仰ぐ。

 澄み渡る夜空は、下界での騒ぎなど素知らぬ風だ。気兼ねして遠巻きに瞬く星々に囲まれる尖った月は、いつもよりもずっと弱々しく寂しげに見えてならない。

 それが式子内親王を想起させた。

 安心していいはずだ、あのまま八条院にいるよりはずっと。多少は強引だったかもしれない。だとしても、自分の判断が間違っているとは、彼は些かも思わない。それなのに、彼女の当惑が心に懸かる……。何を思い煩うことがあるのだろう?

 火に包まれる隣家を目の当たりにし、八条院に飛び込んだ彼が彼女を目にしたとき、どれほど安堵したかしれないというのに。

 足を止めて振り返る。ついさっき別れたけれど、あの高貴な女(ひと)は、本当にそこにおわすのだろうか。つまらないこととわかっていても、不安に捕らわれる。まだ衣を替えているかもしれない場所に踏み込むなど、到底許されない……。しかし、そのためらいは、彼女の実在を感じたい欲求には敵いはしない。

 彼は踵を返す、彼女のもとへと。

 果たして部屋では、被衣を外しただけの彼女がぼんやりと座り込んでいた。まるで、心を鬼に奪いでもされたかに。その名を呼んでも、ほんの少し頭を揺らせるくらいなので、彼の神経は酷くざわめいた。

「どうかされたのですか?」

 彼女が面を露わにしていることも忘れ、彼はつい彼女に駆け寄った。彼を認めた彼女は、いいえ、と力なく首を振る。そうは言っても何もないわけがない。彼は、「しっかりしてください」と彼女の顔を覗き込んだ。

 そこには、長い睫毛と優しげな瞳から湧き出でた大粒の雫があった。

「その……、式子様?」

 彼は努めて高さを抑え、「もう大丈夫ですよ、ここなら」と穏やかに諭す。ほぼ屋敷の外に出ることがないのだから、短い道程であっても荒れた市街を突っ切って八条から五条にやってくるのは、彼女にとって相当な衝撃だったことだろう。気ばかり急いて牛車を用いなかったことを、彼は心底悔やんだ。

「定家……」

 瞼を伏せれば、ぽろぽろと水晶のような涙が煌めき頬を伝い落ちていく。白い肌を流れる道筋は、どうにも鮮やかで薄暗がりにあっても艶めかしい。

 彼は労るように、そうっと彼女の頬に触れ、そこに彼女の細い指が重ねられた。

「本当に……。恐ろしいことです」

 はい、と彼も頷く。

「すぐに元通りの京に戻りますよ……」

 そうだろうか。定家の言葉は慰めに聞こえて、彼女は否定するでもなく肯定するでもなく、目線を流した。

 御門の威光が市井まで至ることはなく、道の角には飢えた子どもが力ない目でしゃがみ込み、その前には親らしき死体が転がっていた。野犬は腐肉を漁り、青天に散らばる黒い鴉たちは野獣の食い残しを狙って、くるくると舞っている。

 栄華を誇った京は、その華のときを終え、ただ、ただ朽ちていく……。

 そのありさまを直に見知った。

 死という怯えに充ち満ちた京のただ中で彼女の身を案じて腕につなぎ止めたのは、平時ならば近寄ることすら禁じられている下級貴族の定家と、その家人だった。彼女と同じく身を低くして争いを避けてきた同胞(はらから)は赴くことすらなかった。ましてや、天が助けただろうか? 

 彼がそうしたのは、ただひとつ。

 彼女も胸に抱いている、この想いゆえ。

 このような混沌にあって、人を突き動かすものがそれだとするなら……。この永き春の京で彼女は何を守って、何から逃げてきたというのだろう。

 もうわかっている。末法の世ではないとしても、御門を戴き、見目麗しい公達が天下について策定する世は終わろうとしているのだ。おそらくは、神事を司る神聖な血によってではなく、力を比べて生命を削るやり方で物事は動かされる。飛鳥の御代にあるごとく、世は大いに乱れ人は争い合うことだろう。

 その滅びる世界こそが、彼女の属するもの。彼女を羽交い締めるようにして多くの決まり事のなかに組み込んできた絡繰りが、まさに崩壊しようとしている……。その潰える音に耳を塞ぎ、ずっと何もせずにいた。

 一度は僧籍に身を置いた弟皇子の挙兵によって、式子たち血縁者は難しく微妙な位置に追い込まれた。彼を愚かだと言う人もあるだろう。けれど、その名を口にせぬよう控えながらも、兄も姉妹も彼の心を汲んでいた……。天に与えられた才覚を活かす自由があれば、と……! けれども、彼女にそのような勇気はない。この場から踏み出して、失っても良い、何かを掴み取ることなど、ついぞできずにいたのだ。。

 そんな人生も、間もなく終わる。

「式子様……」

 泣きやむことがなく困り果てた彼の声が、そばで響いた。

 接するかというほどの微かな感触が頬に当たり、涙の通り道に彼が口づけていることを、彼女は知った。抱きしめようと彼女の背に回された両腕はすんでのところで思い止まって、葛藤の数瞬を経てぎこちなく戻り、彼女の肩に留まった。

 どれほどの我慢を彼に強いてきたのか。

 この瞬間すら無理な願いを受け容れて、彼は彼女の尊厳を守りぬこうと努力している……。

 ていか。

 彼女は彼の胸に掌を当てて、その相貌を見上げた。戸惑う彼は、まだ幼ささえ残している。自分を偽ることのできない彼を最初、かわいい人と、彼女は評したのだ。

 彼からすれば、その濡れた睫毛は、朝露を乗せた若葉のように美しく艶やかで……。眼(まなこ)が離れてくれない。彼女は身を伸ばして、そうっと彼の唇に自分のそれを押し当てた。

「式子さ……」

 驚いて見開かれた瞳は喜びを湛えて溢れ、彼はその胸にしっかりと愛しい人を抱きしめた。

 永久にも思える長い口づけの後、彼女は「苦しい」と身体を引き離し、彼から顔を背けたまま大きく息をついた。胸の鼓動が痛いくらいで、そうと勘づかれるのはどうしても恥ずかしい……。などと羞恥しながらも、採った大胆な行動との差異に彼女自身、目眩を覚えている。

 あれだけ強固に彼女へと課せられていた頸木は、跡形もなく崩れ去った。なんと些末なことだったのか。大事に持ち続けていた金科玉条は粉々に砕け、もう霞としても残らない。

 どうでもよいこと―― そんな本心が、不思議でもあった。

「式子様……」

 意味をどう受け取って良いのか迷いながらも、彼は彼女の滑(すべ)らかな手を取った。これまで陽炎のように逃れるか、もしくは反応のなかった指が、今ははっきりと握り返してくる。ならば、それが答えなのだ。

 彼女は軽く頭を振った。

 もう内親王ではない。そんな身分は無くなった。

 いや、無くなるのだ。

「いいえ……。ここにいるのはただの女……」

 言葉は即座に全身に行き渡り、彼の目は優しく潤む。再び。今度は彼が彼女に近づき、唇が重ねられる……。そうして、ゆっくりと大切な女を畳に横たえる。

 のりこさま。

 嬉しげに、愛しげに囁く彼の声は甘い。

 彼女は手を熱い頬に当てた。

「その、灯台を……。せめて」

 彼も気づき、「別に、僕は構わないんだけど」と呟いてから、ふっと息を吹きかけて炎を消した。

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 翌朝、といえるのかどうか、だらしなく日が高くなってから、彼女は目覚めた。露わになった寝姿のしどけなさに恥じらいながら、彼女は未だ現(うつつ)に戻らない定家を見つめる。横顔を爪先でなぞれば、くすぐったいのか、彼は、ふ、と笑いを浮かべた。

 瞼を開けさえすれば。

 夢から帰りさえすれば。

 彼がいて、その腕に収まる自分という安堵を見いだせる朝。

 あなたは初めてだ、と言ってくれたけれど。

 そうではないことを、彼女は本能的に悟っていた。このひとときがどれほどの価値を持つのか、彼女にしかわからない。

 きっと永遠にわからない。

 彼女はそうっと彼に口づけ、起こさぬように静かに仮づくりの寝所を抜け出す。

 定家が眠りから覚めたとき、最初に目に入ったのは小袖に袴姿で髪をまとめる式子の後ろ姿だった。朝寝をしてもう少し愛し合おうと思ったのに、と残念に感じながら観察していると、それがどうやら着替えとは別の所作であることを察して、慌てて彼は起き上がる。

「式子様?」

 びくりと振り向いた彼女の手には、光る刃先があった。

自刃? まさか。最悪を想定した彼だったが、その刃が向けられているのは、つい数刻前まで彼が愛した彼女の身体ではない。

 髪だ。

 彼はその細い手首を押さえて留(とど)め、「どういうことですか」と詰問するも、ぎゅっと唇を噛みしめた彼女には返事の気配もない。

「その小刀を何に使うつもりですか。命でも絶つ気なんですか!」

 彼女は目を伏せる。

 国の枠組みが壊れてしまい、もう充分な威力を持たないのだとしても、彼女には肩書きだけが残される。役に立たない内親王という名前が要らぬ思惑を呼び込むであろうことは、世間知らずの彼女にも容易く想像できた。そうでなくとも、姫君であった彼女にできることは何もない。つまりは、どう鑑みても足手まといなのだ、と言葉にするには彼の剣幕は激しすぎた。

 無理矢理に彼は小刀を奪い取り、遠くへ投げ捨てて彼女の両肩を掴む。

「それとも、髪を落として尼寺にでも行くんですか! 僕を置いて!」

 愛された幸せな記憶のみを胸にしてしめやかに世を去ることができたら、どんなにか……。けれど、それは彼には理解できぬ心境だろう。

 定家は苦しげに眉を寄せ、瞳を曇らせた。

「昨日……。僕に抱かれたのは、同情ですか」

 違う。彼女は強く首を振った。

「私は、重荷にしかならぬでしょう……」

 涙が幾筋も流れ落ちて涼しげな声の邪魔をする。やっとそう口にすると、さらに苦悶の度を増した定家は低く呻いた。

「そんなに、信じられないのですか……」

 気を取り直して彼は、きっと彼女を正面から見据えたが、その強い視線をまともに浴びる覚悟は、彼女にはまだない。

「案ずることはないんです。今日にでも、僕の荘園に避難するつもりですから。あなたとともに」

 それは、と彼女はわなないた。彼には家族がある……、独り身の彼女とは異なって。

「あなたには、正室も、お子もおられるでしょう。夫として、親としての務めはどうするのです……」

 皮肉な笑いを浮かべ、彼は、「それは何かの冗談ですか」と彼女を責める。

「とっくに離縁されましたよ……。当然じゃないですか」

 彼は、彼女を力の限り抱きすくめた。

「すべて放り出して、あなたのもとへ参じたんです。そんな男を許す妻がいますか。僕はあなたを選んだんだ……。それでも、まだあなたは言うんですか」

「そんな……」

 悲痛のあまり頽(くずお)れた彼女の頬を、彼は両手で挟み込み、ぐっと目線を合わせた。「軽蔑しましたか」と尋ねる定家にも悲哀が見て取れる。くったりと力を失ったまま、彼女は微かな動きで否定した。

「酷いことをさせたと、むごい仕打ちをさせたと思う気持ちは本心なのに。それなのに」

 彼女は悲しげに目を細める。

「嬉しいと感じてもいるのです……。なんて」

 罪深いのでしょう、愛するということは。

 隠し通すべき、諦めるべきとどれほど縛り付けようと、一度解(ほど)けてしまえば己の欲の深さを思い知らされる。あれほど決して求めるまいと言い聞かせてきた日々が、たった一夜で泡と消えていく。

 それは僕も同じなのだと、彼は彼女に口づけた。昨夜の逢瀬が幻ではないと確かめたくて。あの白い媚態が真実あったことなのだと感じたくて。

 桜貝のような唇は、彼に応じてくれた。

「僕と一緒に来て」

 彼は、二度と彼女を失わぬようしっかり抱き留める。

「それにもう手遅れです。朝方、あなたが眠っている間に使いをやったから……。妻と一緒に向かうって」

 彼女は目を丸くして彼を凝視する。しまった、と彼は気後れしつつも、「勝手にそんな風に言って怒りましたか」と彼女の機嫌を伺う。

「迷惑でした?」

 そうではなくて。

「あなたという人は……」

 悪戯を咎められた少年のようにたじろぐ彼に、彼女は優しく儚げに微笑んだ。

 何も持たぬ私を、それでも構わないと言うのなら。

「いいわ……。あなたがそう望むのなら」

 今度こそは牛車でと考えた定家だったが、京の秩序はますます危うく、一刻も早く出立した方がよいと家人も言うし、式子も平気だと健気を見せるので、より早い馬を使うことにした。昼過ぎには住み慣れた町並みを離れ、地方にある荘園に赴く。ほどなく内乱は泥沼化して京は荒れに荒れたので、彼の決断は正しかったことがわかるのだが、何にせよ、それはもう少し時を空けてのこと。

 俊成や姉たちの消息も知れなかったものの半年も経つと文が舞い込むようになり、ちょうど京を出てから一年余りが過ぎたころ、よく見知った者が定家の荘園を訪れた。門の辺りで伸びた梅の枝ぶりを診ていた定家は、市女笠を下ろして喜色を露わにした女を前に、とても驚き、次に喜び、最後にうろたえた。

 それはすぐ上の姉、竜寿だった。

 彼女は彼の振る舞いにためらうこともなく、「父上は長旅には耐えられないので、私が代理で元気な顔を見に来たのよ」と供とふたり敷地に足を踏み入れる。

「ここにいることは便りにあったけれど、本当に良かったこと! さあ、あなたの姉をもてなしてくれるわね?」

 それはもちろん、と頷きつつも目が泳ぐ。「おかしな子ね」と竜寿の方は慣れたもので、気も早く旅装を解く仕草をしながら、母屋へとさっさと歩いていく。それに従うようについて行きながら、「まずは先に言わなきゃいけないことが」とその意向に反して歯切れも悪く、定家は彼女に話しかける。

「まずは部屋に通して旅の疲れを癒やさせて。それからでもいいでしょう」

 強気な姉は、戸口を潜った。

「お客人ですか」

 奥からまろやかな声が鈴のように響く。ああ、六条の、と思いかけて、彼女は首を傾げた。それにしては声色が違いすぎる……。そのくせ、妙に聞き覚えがあった。

 以前と同じく優雅な足取りでやってくる、おっとりとした女人を確かめて、彼女は叫び出さんばかりに驚いた。

「の……、式子さ」

 行方知れずと噂されていた彼女がここに。ご無事だったのかと歓喜に溺れそうになった瞬間、その腕にある赤子に目が留まり、竜寿は卒倒しそうになった。

「定家! あんた……!」

 うーん、と彼は気まずそうに唸るばかりで、式子はといえば、「これは……。どうしましょう」と困ったように微笑を湛えている。いっそ気を失った方が楽だと竜寿は念じたが、むろん、そんな願いが叶うことはなく、ひとまず屋内に身を落ち着けて、弟から事と次第を詳しく聞くことにした。

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 一通りの事情を知っても、竜寿は定家を諫める気持ちを押さえ込むのにひどく苦労した。「ほかにどうできたっていうのさ」と居直る彼を何度か殴ってやりたいのは山々だったけれど、若干ましになった世情のおかげで通じた京と公家たちの状況を思えば、確かに方策があったとは考えられない。定家が式子様をお救いしたのは手柄ではあったが、従前から惹かれあうふたりのこと、枷を失えば、早晩こうなるのは防げないことでもあった。

 と、自分を納得させようと努力してみるのだが、不敬の思いは拭い去れない。いずれにせよ子どもまでいるのでは、どれほど弟を睨んでみても後の祭りだ。

「やっと寝付いてくれて」と疲れを滲ませながらも式子が部屋にやってくる。定家は彼女を労り、その身に付きそうようにして置き畳に座らせてから、息子を誰が見ているのかを問うた。「家人のひとりがしばらくは」と返し、彼女は定家の差し出す麦湯をほうっと一口飲み下した。

「よく寝てくれる子で助かります……。今日は伯母君がいらしたので、高ぶってしまったのでしょうね」

「あなたに似て、繊細な感性の子なんですよ」

「どうかしら。あなたのように自分の強い子かもしれませんね」

 竜寿がいるのも忘れたかのように、ふたりは、「ふふ」と微笑み合う。彼女は、さりげなく嘆息した。何をかいわんや。

 斎院を降りられてのち、数年にわたり内親王の側近くに仕えてきた。さまざまな機会を共にさせていただいたことと思う、そう自負している。それでも、こんな笑みにはついぞ出会ったことがない。

 それは罰当たりなことかもしれない。分を弁えず畏れ多いことかもしれない。けれど、彼女にはもう言葉を見つけられない……。

 彼女は姿勢を正して深くその頭を下げ、お初にお目に掛かります、と挨拶を述べる。意図を掴めずに顔を見合わせる弟夫婦に構わず、竜寿は口上を継ぐ。

「和歌以外のことは、とんと取り柄のない子ですが、よろしくお願いします」

 顔を上げられないのは、目頭の熱さを知られたくないからでもある。ようやく竜寿の配慮を把握して、「こちらこそ」と式子も礼を取り始め、定家姉弟は慌てて止めた。

「いや、それはだめですよ」

 どうして? 彼女は小首を傾げる。

「定家(さだいえ)殿の妻として、ご挨拶をいただいたのですよ」

「それなら僕があなたの分までやります」と定家は居住まいを正し、畳にこすりつけんばかりに頭を下げる。

「ありがとう、竜寿御前」

 滑稽なほど大げさな彼の姿に、ふたりの女はつい吹き出してしまう。

「それじゃ、あんた飛蝗じゃないの……。本当に」

 馬鹿な子ね……。

 二日ほど滞在して去る前に、「父上にはしばらく伏せておきましょう」と竜寿は定家に提案した。再婚のみ告げておけばそうそう来られる距離でなし。幸い俊成は式子と対面したことはないので、万一の場合でもなんとかごまかしは効く、と彼女は考えた。

「恩に着ます」

 姉が味方となり、一番の難関に対応してくれることがわかって、彼はひとまず安心した。「あんたのためじゃないわよ」と彼女は呟き、「大体、こんなことが露見したら、父上は倒れてそのままあの世に行きかねないわ」という。それはもっともだと、定家はしたり顔で頷く。

「頭固いからな、入道殿は」

 調子いい弟を、彼女は強く小突いた。相変わらずではあるけれど、これと心を決めれば一途な質だから、きっと妻を大切にし続けることだろう。それが救いだ。

 別れを告げて庄屋を後にした竜寿は、京のどの邸宅よりもこぢんまりとした荘所の全景を見渡せる丘で足を止めた。

 小さくて、ささやかな生き方。

 華美でもなく、政治と文化の中枢から遠く隔たりすぎた鄙の地。でも、そこで式子様は見つけたのだ。

 京にいては決して手に入れられないものを。

 さあ、長(なが)のお暇を申し上げよう。寂しさを抱え、彼女は荘所に深々と頭を下げる。

 さようなら、式子様。

 彼女が敬愛し、心底大切に想っていた高貴な方は、もういない。

 

 *

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 争乱の舞台となった京では、数年後、やっと新しい天皇が即位されたが、かつての内裏を取り戻すことは叶わなかった。書物は定家をはじめとする公家たちによって多くが保護されていたけれども、文化を培う場としての土壌をすっかり失ってしまったのだ。

 その間、定家と式子は田舎での暮らしを保ち、期待はしていなかったが、長男以外にも子どもに恵まれることができた。

 妻になり母になっても、彼女は変わらず美しい。

 聖なる斎院、貴き姫君とは異質の側面を身につけても、彼女の息づく一瞬一瞬は、美そのものだった。

 豊かな四季に囲まれた日々は、彼女の感性を瑞々しく開花させる。宮中でひっそりと咲いていた時代と違い、体得に基づく力強さと鮮やかさをともに内在させ、万葉の昔のように和歌の音ひとつ一つが輝いていた。

 愛妻だからといって、諍いひとつない、という夫婦でもなかった。些細な行き違いから、言を強くすることもあり……。いつかは、近隣の有力者に招かれて遅くに帰宅した定家が、ひどく酔っていたので、式子は拗ねてみせさえした。そんな場合ですら、彼は彼女を愛していた。皺の一本、白髪の一筋でさえも。

 幼いころから本能的に嗅ぎ取っていた、普遍であり不変の美。移りゆく花の色のなか一瞬だけ存在し、夢と現を介在するもの。和歌のなかに見出そうとしていたそれは、彼女の裡にこそあった。紙の上に留まらない、現実の光彩がそこにあって、彼と周辺に惜しみなく降り注がれる。それはときに愛であり、哀であり、靄のように漠然とした感情の揺れ動きであったりした。

 芸術とは、美とは何だろう。

 ときおり、彼は考えた。

 眠る嬰児を見下ろす優しい瞳の色合い。彼の腕のなかで喘ぐ淫らな紅い唇。そのすべてが彼女であって、彼との間に生じたごく個人的な時間の欠片でしかない。それなのに、それは紛うことなき永遠でもあるのだ

 こんなことがあった。

 酷く寒い冬、喉が弱い定家は数日ほど寝込んでしまった。夜半、高熱に浮かされ目覚めた傍らには彼女がいて、彼の額に冷水で絞った布を置いてくれた。水桶には、外から取ってきた雪の塊が浮いており、触れる指先は氷のように冷えていた。

 病のせいか、ふいに猛烈な後悔に呵まれ、彼は「すまない」と謝った。

 こんなことをさせていい女ではない。尊崇を忘れたことはないけれども、自分の我が儘で彼女をただの女にしてしまった。

「いいえ」と式子は優しく微笑みかけた。「苦しいとき、側にいて世話を焼ける……。それが私にとってどれほどの幸福なのか、あなたは知らないのですね」と。

 美しいがゆえに愛するのではない。愛するからこそ、彼女はより美しい。

 美とは、いのちの煌めきだ。それはふとした場面にちらりと顕現し、人の心を焼き焦がして消滅する。閃光を現世に留めようと足掻いてきたけれども、傲慢な野心だったのかもしれない。身の上を行き過ぎる光を、その本質のままに触れぬことが真実の姿とは言えまいか。それを、いのちの営みと言うのではないか。

 彼の瞳に映る彼女は、永遠だった。

 二十年ほどの年月が穏やかに流れ、彼女は子と孫に囲まれて先に逝った。

 彼女が産んだ子どもたちのひとりは、両親の才能を受け継いで伸びやかに育ち、今では遠い地で幕府に仕えている。

 京も随分と落ち着き、失われたかつての雅びを求め、彼の住まいを訪なう者もいる。教えの助けとするため歌論書を認め(したた)めつつ、一方で、定家は自分と彼女の私家集をまとめようとしていた。

 ついに、彼は表現の一線を越えることはなかった。

 無限の可能性を持ちながらも卵は孵化することなく、彼は一介の田舎歌人として生を終える。天賦の才を研ぎ澄ますことによってあり得たかもしれない、過去に誰も到達しえなかった高みに羽ばたくことはとうとうできなかったのだ。

 その代わり、彼らの和歌は力強く世界と結びつき、これから口ずさむ人は、禁じられた恋とその恋人たちの行く末を瞼の裏にはっきりと思い描けることだろう。

 失ったものはあるかもしれない。得られるはずだったものも。

 直に話題にすることはなかったものの、やがてふたりの仲を察したらしい俊成は定家の才を死の間際まで惜しんでいたという。彼は、息子ならば自分にはなし得なかった偉業ができると信じていたのだ。父の期待も、わからないではない。

とはいえ、他にどうできたというのだろう。定家たち歌人が活躍できる場は壊され、選択肢はなかった。

 そして、駕籠の鳥でいたとしたら、彼女があれほど豊かな笑みを見せることはなく、夫へ、子へ、孫へ、ひいては目にする色とりどりの季節の訪れ、庭木の巣で育つ小鳥の雛など、小さな驚きと喜びの連続するこの世の万(よろず)へと心を広げることはなかっただろう。

 数十年を経ても今もありありと思い出されるすべての日、すべての夜の彼女は、彼の現実であり、彼が獲得したものだ。その積み重ねのうえに、ふたりの和歌がある。

 彼は墨をすり、筆を取る。

 さあ、今日も和歌を写そう。先日は、つい居眠りをしてしまって一日を無駄にした。

 ……ていか。

 懐かしい声色に息を呑み、彼は振り向く。そこには末の孫娘が控えていた。

「お祖父様、どうかされましたか」

 柔らかい微笑も、涼しい声も、彼女は式子によく似ている。さんざん、家族にそう言われ続けて慣れている彼女は、ふふ、と口元を袖で押さえた。

「また、お祖母様とお間違えになったの? そんなに似ているの?」

 式子の没後に生まれた彼女は、祖母の顔を知らない。

 ああ、よく似ているよ、と答える祖父の手元を覗き込み、彼女はさらりと一句を黙読した。好奇心に輝く双眸は、むしろ若いころの定家を思わせる。

「お祖母様の和歌ね。でも、もうお年なのだから無理はなさらないで」

 肝に銘じよう、と定家は忠告を受け容れて和紙に視線を落とすが、さらに凛と声が鳴る。

「定家……。和歌を」

 今度こそ明瞭に響いて、彼は立ち上がり周囲を見渡した。空耳だろうか? それにしてはくっきりと、空に残るごとくに彼の名が。

 孫娘は怪訝そうに祖父を見上げる。彼女には聞こえていないのだ。

 ああ。では。

 彼はぎゅっと胸元を掴む。切なくて、苦しい。向ける相手を亡くして眠っていた想いは、瞬時に息を吹き返す。

「呼んでいる……。式子様が」

 様? 誰のことを言っているのだろうと、少女は首を傾げた。

「どなたのこと? お祖母様なの?」

 だが、案じる言葉は彼に届かない。

 呼んでいる。

 彼女が、僕を。

 

 ―― 詠いましょう、定家。

 

-6ページ-

 はっと、彼は文机の上で目覚める。あれほど注意されているのに、また微睡みに落ちてしまったようだ。これでは叱られてしまうな、と考えつつ、彼は外の日差しを見やったが、幸い、そう時は過ぎていない。

 だが、目に入る覚えのない景色に彼は慄然とした。

 どこだろう、ここは。

 見える緑は山あいであることを告げていたが、鄙の田舎とは到底思われない。

 彼は、写し書くためにまとめた和歌の紙片を探す。手元に束ねておいたのだから、風で飛ばされたにしてもすぐ近くにはあろうに、それも見あたらない。

 ああ。

 彼は深くため息をつく。次第に思い出されてきたのだ、種々のことを。

 ここは嵯峨の山荘で……。あれは。

 夢。

 そうと自覚するとともに甦る、妻となった彼女の姿。その鮮やかさが胸を切り裂くように痛く、生々しい愛おしさが彼の心を押し潰す。けれど、違うのだ。

 あれは幻。

 夢の通い路は、一体自分をどこに連れて行ったというのだろうか、と彼はひとり痛哭する。夢とは信じられぬ鮮明さであればこそ、別の世界、別の国で起きた異なる本当かもしれない。

 だが、ここではない。

 事実は玉石混淆に混じり合う白波となって彼の内側に押し寄せ、ささやかな夢の残照を洗い流そうとする。

 そうだ。彼女は内親王として生きて不遇のまま亡くなり……、数十年余。

 机にあるのは、鄙で詠んだ和歌の数々などではなく、彼が日々記してきた公家としての足跡であった。近頃は過去の事柄を整理し書き直しており……、それがゆえに夢に迷ったとでもいうのだろうか。

 彼らは想い合い、求め合いながらも、この世で添い遂げることはなかった。

 空事だとわかっていても、なお思い切れない。あんな人生もあり得たのかもしれない。あれほど豊かな微笑みをして、あの方が生きてゆける場所が。

 そこでは、彼は和歌の道を突き詰めることはできなかっただろう。磨き抜かれた感性のみが達する向こう側を知ることはなく、彼は秀歌を産出した一歌人として生涯を閉じたことだろう。

 どちらも垣間見た彼には、すでによく諒解できていた。

 得たもの、得られなかったもの。

 彼は、彼の日記に書き留めた彼女の個人的な記録を切り捨てようとしていた。そうすることで、式子内親王のさまざまは人の記憶に封印され、世間には純粋に歌人としての事績だけが残される。

 あの世界の永遠は、人としてのもの。

 この世界では……。

 彼は、脇に置いた手紙の束から彼女の筆跡を見出し、かつてその唇から生まれ出でた言葉を追いかける。

――玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 

  忍ぶることの よわりもぞする

 たった三十一文字。

 それだけの言葉が教える永遠。そこには、彼の夢に現れた彼女は息づいてはいない。誰かを想う心が彩なす普遍の美が、ただ、結晶になって煌めいている。

 選択肢はなかった。選ぶことはできなかったのだから、これが、この世界での彼らの有り様。

 そんなことはとうの昔に受け容れていたことだのに、それでもなお胸に閊(つか)え、老境にいる彼を打ちひしがせるのは……。

 彼女を、幸せにしたかったからだ。

 寄り添って共に生きたかった……。もしも。

 もしも、選ぶことが彼らに許されていたならば。

 いいや、それは繰り言でしかない。

 彼は、日記の文字を指で辿り、彼女との過去を追憶する。ふたりだけが抱いていればよい真実がそこにある。気遣いなく雑多に収集された真では、いつか意味は失われ、言葉は誤った思いこみと誤解、あらぬ想像という虚飾にまみれてしまうだろう。死に絶えて昔時に埋もれる人の生を、のちに推し量ることは端から無理な話なのだ。

 時に漂流し時代が変わるとも、なおも残るのは、こころ。それに他ならない。想いから抜き出された貴石のような美だけが、真を人に伝えることができる。

 彼は、彼女をそこにつなぎ止める。つなぎ止めたい。

 永遠の、運命の女。

 想いは幾つもの時節を越えて、いつかはあらゆる人々に届くだろう。

 繊細で激しく、美しくも儚い……。

 

 彼が誰よりも愛した恋しいひとの面影として。

説明
定期ツイート「天皇制が憎い」から。時代背景とかよくわかりません。その辺大体です。■大事なことなので、ここに記しますが、八条と五条は1.3キロほどだそうです。夜這い可能ですね!■表紙素材はこちら(http://www.flower-photo.info/ )からお借りしました。
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うた恋い。 藤原定家 式子内親王 

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