長いトンネルを抜けると憂国であった |
年末の娑婆というのは然しどうしてこうも賑やかなモノなのか。
私の場合は年末など此の世は地獄も甚だしいといった具合に感じられるというのに、まるで人々は、徒《あだ》の火宅《かたく》という言葉も知らぬ勢いで騒いでいるのだ。我が国の行く末もとことん不安材料に充ち満ちているなと溜息を落とす。零れ落ちた溜息は、誰かが拾う事もなく虚しく転がり、何処かへと消えていった。
黒い苦渋に満ちた液体を一口啜ると、頭が冴えたような錯覚を覚える。
「街ノ方ハ少々五月蝿イ感ジデスガ、ドウデスカナ? 貴方モ此ノ店デ新年ヲ?」
私の向かいでは、先ほどから犬の紳士が何やら喋っているが、気のせいであろう。多分其の様な予感がした丈であって、実際は珈琲の味による幻聴の類だったというのが精々の落ちだ。幻覚に反応したところで得るモノは無いし、また反応しなかったコトで失うものも恐らくは無いであろう。地の底の火に追われる師の如く、私の財布の中もやはり火の車と云ったところなのだ。責め焼かれ苦痛を得たところで、失うものなど元より所有してはいないのだから。
華爛《カラン》……という、心地良い高さの鐘の音が鼓膜を揺らす。
どうやら店内に一匹の客が入ってきたようだ。
「イラッシャイマセ。一名様でよろしかったデショウカ。ハイ、生憎と一名様のお席というと少しお時間が……は、相席でヨロシカッタで? はい、畏まりました」
此処で私は一つ溜息を吐く。聞こえてしまったモノは仕方ない、恐らく私の元へと店員は現れ、スミマセンがアチラのお客様と相席……などと宣うのだろう。私は、もう一つ溜息を吐いた。
店員が此方へと寄る。が、そのまま私の前を通り過ぎ、私のやや左前の席……其処に座る老人へと相席の願いを申し出に行ったのだ。
拍子抜けである。
何故であろうか。平生ならば私の元へと相席の願いは来る筈である。別に他の人間でも佳いのだろうが、然し其れは私の席ではイケナイという理由には為り得ない。まあ強いて問題をあげるならば、私のテヱブルには犬の紳士が既に座っているという点だろうが、然し其れも理由としては弱い。犬の紳士が座っているように思うのは、泥水の苦みによる私の幻覚から来るモノであり、実際其処には誰もいない筈だからだ。
私の左前の卓へと着いた客は、よたよたといった感じで椅子へとよじ登った。どうやらこの客には少し高すぎたようだ。
近くで「ハハ、アレヲゴ覧ナサイ。体ガ小サイ、脚ガ短イトイウノハ大変デスナ」という幻音が聞こえた。
然し――
しかし、兎とは古来より高い場所が得意な動物ではなかったか。跳ぶという機能に特化した脚を持つ恐ろしい生物だと記憶していたが、間違いだったのか。私の記憶は藁半紙の様に信用出来ないモノだとは心得ているが、だが其れは藁半紙の様に信用出来るというコトの裏返しであろう。
「随分ト長イ耳デスナァ。アレ程ノ大物ハツイゾ見タ事ガアリマセンヨ。四百程度ジャア世界ハ狭イコトデ」
ふうむと悩んだ末に、此処で私は、つい先まで気付かなかった、若しくは触れようとしなかった事実に着目した。成る程、耳の長さであったか。新たな客としての此の兎は、一種異様な程に耳が長かったのだ。確かにそうだ、私の記憶でも兎とは耳の長い動物だった。一人納得するが、其れでも此の兎はぞっとする程に危険であるような気がする。第一、アレ程に長い耳ともなると、ウッカリ首が絞まってしまうのでは無いかと心配になる。音を聴くという点では評価されるのかも知れないが、然しコレでは一概には歓べぬ。長すぎる耳とは自死の危険性だけで無く、幻聴の可能性も高めている筈だから。
長い耳の生物は、どうやら青人参のジュースを注文したようだ。
店員が去る。
品が届くまで暇であろうと考えた私は、其れ迄の間この客と雑談をしようと思う。
失礼ですが、貴方、その耳はどうしたのでしょうか? 少々長過ぎやしませんか?
「いやいや、実は私もこの耳にはほとほと困り果てているのです。余りにも長すぎて何をするにもこの通り……引きずって歩くのがやっとなものでして」
苦労察します。然しどうしても云いたいのですが、やはり其程に長いとうっかり首が絞まったりしてしまうのではないでしょうか? そうでしたら危ないですので床屋にでも行って短くして貰ってはいかがでしょう?
「それはそれは、ご心配有り難う御座います。ところでですが、貴方様は私共のコトをご存知で……?」
スミマセン、兎という生物は今日初めて見たばかりでして、詳しい事は何も知らないのです。
「そうでしたか。いやいいんです。実は貴方様が言った通り、毎年明けになると自分の耳で死ぬ兎が増えてましてね」
ほう、それはヤハリ長さの所為で?
「基本的にはそのような感じらしいですね。首が絞まったという例は聞いた事がアリマセンが、耳に餅を詰まらせて死んだり、耳を轢かれて死んだりなど……恐ろしい事です。おぞましい事です」
心中察します。然しそうなるとますます切った方がよろしいのでは?
「いやそうもいかないのですよ。切れよ切れよと言われる方が……勿論同族ではありませんが……結構いらっしゃるのですが、私共の耳とは短くするといけないのですよ。呪いなのです」
呪いですか。
「そう、呪いです。短くしようとして鋏で切った友人は死にました。短くしようと万力で押し縮めた友人も死にました。また凍らせて縮めようと冷蔵庫へ入った親戚も死にました。皆、短くしようとすると死んでしまうのです」
それは……恐ろしいですな……。
「皆、去年死んだのです。それも不思議な事に年始に……。今年は長いトンネルの様でした。長くて、暗い年でした。ええ、ですから私も……貴方様の言う通りに短くはしたいのですが……」
いえ、いらぬ言葉だったようで申し訳ない。
「いやいや、紳士の様な言葉でした、有り難う御座います」
其処まで話したところで、店員が兎に飲み物を運んできた。カボチャスープだった。
誉め言葉のつもりだったのか、紳士の様なという例えは酷く不快だったが、決して表情には出さなかった。
「随分ト不思議ナ話デスナア、短クスルト死ンデシマウ……不思議ナコトデス。トコロデ時計ヲ見テクダサイナ、後少シデ年ガ明ケマスヨ」
私は唐突に、そして何気なく時計を見た。
十一時五十数分。
水彩の腕時計は所々滲んでいて正確な時間は読みとれなかったが、そろそろ年が明けるようだ。
三十二個先の卓では、緑の連中が眠りながら踊っている。
五十隣の席では、若い機械がちびちびと呑っているようだ。
不意の静けさ。
成る程、嵐の前の如く……か。
たく。
たく。
たく。
「」
視界が白けたかと思った其れは音によるモノだったようだ。水爆の様に頭を割る店内風景。爆音というには余りにも凄まじい音。音。音。
店名があちこちで聞こえる。老いも若きも生物も無生物も一斉に店の名を叫び、新しい年の幕開けを祝うのだ。
すっかり視界に白が焼き付いた私は、先の兎と乾杯をしようと思い、左前を見た。
兎は死んでいた。
嗚呼、きっと新年が五月蝿かったのだろう。憂き事態だ。
黒毒を一息で飲み干し、死兎に黙礼をして、炸裂の街へ出る。
「アアッ! シ、死ンデイル……。マ、マサカ音ヲ塞ゴウトシテ……ナントイウコトダ、コレガ呪イナノデスネ。オオ、オソロシイコトデス。ア、貴方、待ッテ、何処へイクノデス」
街が白に湧いている。
トンネルの外、それでも幻音が響いた。
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ウサギの話。 とことん無視される犬の紳士が大好きです。 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくおねがいします。 |
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