北郷一刀の奮闘記 第十話 |
「おはようございます。今日も良い天気ですね。」
水鏡先生は手を止め、こちらへと笑いかけた。
「ええ、おはようございます。」
彼女の言う通り、空はどこまでも青く澄み渡っていた。
丸く切り取られた窓からは、時折、涼し気な風が室内へと吹きかける。
それでも、額を流れる汗が静まる気配は無さそうだった。
「そろそろ、新しい服が必要かも知れませんね。その格好では随分と暑いでしょう?」
「いえ、まだ何とかなりますよ。」
全くの嘘だった。
本音はといえば、今直ぐにでも脱ぎ捨てたかった。
どうにも着物というものは、風通しが頗る悪い。おまけに汗も吸わず、こうも暑いと快適な着心地とは程遠くあった。
それでも、先生に余り迷惑を掛けたくは無かった。幸いにも働き口は彼女に斡旋して貰えたのだ。
衣替えは、初任給までの我慢である。
「そうですか? どうしても辛くなったら、言って下さいね。用意しますから。」
余り遠慮はなさらずに、との言葉を残し、先生は再び作業へと戻った。
包丁の刃と、俎板が当たる小気味の良い音が響く。
そんな彼女の服装は、最近までの着物――貴人服、とでも言えばいいのだろうか――から、懐かしく、
見覚えのある物へと変わっていた。
薄い布地で出来た衣装を合わせ、腰の辺りで一本の帯で留めている。
浴衣だった。
或いは、着流しや、小袖と言った方が正しいのかも知れないが、自身の持つ知識からでは細かな違いなど分かる訳もない。安易に浴衣と表現する以外に術は無かった。
ただ、あくまでも日本風に言えばの話であり、元からこの世界に存在しているものであった。
浴衣を広める、という密かな野望は、「これは大して珍しくはないわな。」との、おやっさんの言葉に儚くも無残に打ち砕かれた
のである。
まぁ、既に浴衣と似た物が存在するということは、わざわざ普及させずとも浴衣美人を堪能出来るので、個人的には何の問題もない。
浴衣美人。
先生の服装は、本当によく似合っていた。
淡い紫に、藍色の帯。近づくことも憚れる程に上品な装いである。
僅かに覗く首元は、触れただけでも色が変わってしまうのではないかと、思い込まされる程に白く。
簪でアップに纏められている髪が、何本か、解れて項の上へと掛かっている。
その様子が、何故か酷く自身の胸を乱した。
「どうか、しましたか?」
「いいえ、何でもありません。」
不思議そうに尋ねる彼女へと言葉を返す。
そして、部屋の隅に置かれた盥を手に取り、逃げるようにその場を後にした。
朝食を終え、昼までの講義に出る。
相も変わらず、室内は賑やかであった。
そこかしこに可愛らしい声が響いている。
女三人で姦しいとは良く言うが、女二十人では何と言うのだろうか。
そんな益体の無いことを考えていると、隣から呼びかける声がする。
今日のお隣は、巨達(向朗の字)ちゃんであった。
彼女も、衣替えを行ったようで、いつもよりも薄手の着物に変わっている。
そのせいか、その背丈には不釣り合いな胸部が主張を強めており、目のやり場に非常に困るのであった。
その事を意識しないように、彼女へと言葉を返す。
「な、なにかな?」
「お姉さま。私、先程から考えていることがあるのです。」
「考えていること?」
はい、と彼女は頷いた。
空色の髪が揺れ、甘い香りがする。
その髪色と同じブルーの瞳は、強い光を放っている。
「真名について考えていたのです。」
真名。
確か、簡単には呼んではならぬ神聖な名だと、先生は言っていた。
「何とも、哲学的なことだね。」
俺の言葉に、彼女は小首を傾げた。
「哲学とは、何のことでしょうか?」
この時代には、まだ哲学という言葉が存在しないのか、はたまた巨達ちゃんが知らないだけなのか。
どちらにせよ、少し困ったことになってしまった。
哲学など、どう言葉で説明すれば良いのだろうか。
それこそ、哲学的であった。
「言葉にすることは難しいのだけど、一つの物事に関して、どこまでもどこまでも、ただ只管に答えを求めて考えぬくこと、なのかな?」
ニュアンス的には近いはずだろう。ただ、確とした自信は持てなかった。
迂闊なことは言うまい。そう、一人心に決める。
「お姉さまは、博識でいらっしゃるのですね。私、そんな言葉を聞いたことはありませんでした。」
目を輝かせながら、彼女は言う。
尊敬の眼差しが痛かった。
「私も、本当はよく分かってはいないよ。そんな感じの言葉ってだけでね。」
「そうなのですか? 難しいものなのですね、哲学というものは。」
そう言うと、巨達ちゃんはうんうんと唸り始めた。
ころころと表情が変る様は、非常に可愛らしい。
一人、悦に入りながら彼女を眺めていると、巨達ちゃんは、はっとしたように顔を上げる。
「哲学とは何か。この答えを考えることこそ、哲学なのですね?」
その勢いのままに、髪を靡かせながら此方へと顔を向けた。
何か、胸の辺りで弾んだような気はしたが、敢えて考えないようにする。
「うん、まぁ、そう、かな?」
多少、興奮気味ながらも、彼女は花を咲かせたような笑顔であった。
「少し、話が逸れてしまいました。哲学も興味深いものでしたが、私が考えていたのは真名のことなのです。」
彼女は、両の手の平を、胸の前に祈るようにして合わせた。
そして、上目遣いにこちらを見上げる。
青い瞳は、どこまでも澄み切っており、吸い込まれそうになる。
ただただ、綺麗であった。
「真名を許す時期とは、いつなのでしょうか。」
彼女は言う。
「ある日、唐突に預けたくなるものなのでしょうか。それとも、何か、契機となる出来事があったりするのでしょうか。」
お姉さまは、どう思いますか。
そう、問いかけた彼女の双眸は、まっすぐと、こちらを見据えていた。
そんなことを聞かれた所で、答えようがない。
だからといって、そのまま思ったことを口にする訳にもいかず。
「許達ちゃんは、今までどのような時に、真名を預けたの?」
どこか、取り繕うような言葉を、彼女へと返した。
「私は、入塾する時に先生にお預け致しました。朱里ちゃんと、雛里ちゃんとは仲良くなってから、自然と許す形になりました。」
「なら、答えは出ているのではないのかな?」
俺の言葉に彼女は首を振った。
「確かに、私がどのような時、真名を相手に許すのかは分かっています。ですが、今回は……。」
そこまで言うと、巨達ちゃんは少しの間、口籠る。
果たして、何を見ようとしているのか、彼女の瞳はこちらへと向けられたままである。
どうにも居心地が悪かった。後ろめたいことばかりである。
思わず視線を逸らす。
それでも、彼女は言葉を発した。
「私は、私はお姉さまが、いつ、真名をお預けになるかを聞きたいのです。」
運が良いのか、それとも悪いのかは分からないが、彼女との話はここで打ち切りとなった。
涼し気な表情で、水鏡先生が姿を見せる。
それと同時に、ざわめいていた室内も落ち着きを取り戻していく。
隣に座った彼女も、何をか言いたげにしていたが、やがて視線を手元へと落とす。
そして、いつものように講義が開始された。
北郷一刀は、余り学業を好む人間ではない。
むしろ、臆面もなく嫌いだと言ってのける部類の人間である。
数学が嫌いであった。新しい公式を見る度に嫌気が差すのである。
出来ない訳ではない。どちらかと言うと得意な科目ではある。
しかし、理解できることと、それを好むかは別問題なのだ。
英語が嫌いであった。国内から出ないであろう将来を思うと、馬鹿馬鹿しく思えてくるのだ。
日本語さえ、しっかりと正しく使えるのならば、英語など必要が無いのではないか。
そういった思いが、未だに消えずにいるのである。
無論、学業を修めることは、これからの大学受験、就職活動を経て社会に出る為に、必要不可欠なものだということは、自身も充分に理解していた。
それでも、ままならないものが感情というものである。
嫌いなものは嫌いであった。
朗々と、彼女――先生は歌い上げるように論語の一節を口にする。
一拍の後、生徒たちは声を揃えて、先生の後に続き復唱した。
合唱でも聴いているかのような気分だった。
生徒たちの声は、寸分の狂いもなく揃いきって孔子の言葉を歌う。
同じ節で、同じ声で歌う。
その歌声は、どこか荘厳な響きを纏っていた。
どうにも、身が入らない。
思わず息が零れた。
講義を受けるようになって、そろそろ一月が経とうとしている。
読み書きも何とか様になり、今までは自習であったこの時間も、他の生徒と同じ内容を受けられるまでになった。
それだけ必死にやってきたのだ。
講義を受けながら、他のことを考えることなどなかったはずである。
久しぶりに、勉強嫌いが顔を出したか。
そんな事を考える。それが現実逃避だとは分かっていた。
集中出来ない原因など、分かりきっていた。
彼女の、向朗ちゃんの言葉が耳から離れないのだ。
真名を持たない人間が、真名を預ける時期など分かる筈もない。
彼女は彼女で、ある程度の答えが出ているようだった。
なら、なぜ彼女はあのような問いかけをしたのか。
考えても分からなかった。分かったとしても、無駄だとも思った。
向朗ちゃんの真意が理解出来た所で、結局その問いかけに答えることは不可能なのだ。
溜息を一つ、溢す。
彼女たちの声は、未だに続いている。
その言葉が、意味を成して自身の耳に届くことはなかった。
先生が立ち上がる。
室内が俄に騒がしくなった。
どうやら、本日の講義は終わったようである。
本来ならば、楽しい昼食の時間ではあるが、今日の所は素直に喜べそうにない。
隣から、じりじりとした視線を感じた。
「もう、二、三日、ゆっくり考えさせてくれないかな。」
俺の言葉に、彼女は柔らかく微笑む。その笑顔が、痛かった。
結局の所、ただ、先送りにしただけだった。
水鏡女学園の講義は、昼までである。
その後、教室に残る生徒は自習という形になる。
街に繰り出し、食事を取ってから、日が落ちるまで勉学に励む者もいれば、空腹を二、三時間堪えて家路に着く者もいる。
家業を手伝うために、そのまま級友と別れを告げる者もいたりと様々である。
俺はというと、いつものように先生の部屋へと向かっていた。
おやっさんの所へ向かうと、伝えるためである。
昼まで講義を受け、午後は労働に勤しむというのが、ここ二週間程の生活サイクルであった。
扉を軽くノックして、中の反応を伺う。
どうぞ、との答えを待ってから扉を開いた。
丁度良い所に、と彼女は言った。
「裏庭の書物庫から、書物を幾つか取ってきてくれませんか?」
「ええ、構いませんが、何を?」
「春秋とその左氏伝。それと尚書をお願いします。詳しいことは、ここに。」
彼女は、こちらに布を寄越す。
そこには丁寧な文字で幾つかの単語が綴られていた。
それを折り畳み、先生の部屋を後にした。
学園の入り口を出て、ぐるりと校舎を回る。
新緑の葉に、うんざりとする程の熱気を持った陽光が、きらきらと光を反射させた。
高い空には、白い雲がぷかぷかと浮かんで居り、いかにも気持ちが良さそうである。
視線を戻せば、庭で仲良く談笑をしている子たちがいる。東屋で肉まんを上品に囓っている姿を見ることもできた。
この暑い中でよく……。
等と思ってしまったのは、きっとまだ体が環境に馴染んでいないからであろう。決して歳のせいだとは思いたくなかった。
件の倉庫は木造である。
まだ、出来てから間もないのか心地の良い木の香りが辺りに立ち込めていた。
扉に手を掛けると、中から微かに声が届く。
「――は、―――で、――――です。」
「でも、――――――だよ?」
どうやら、少女の声である。
二人で何やら話し込んでいるのか、か細い声がぼそぼそと聞こえてくる。
倉庫は、生徒にも開放されており、勉強熱心な子が篭っているのだろうと、その時は思ったのだ。
――嗚呼、今でも夢に見る。
もし、要らぬ興味を持たなかったのなら、あのような惨劇に見舞われることは無かっただろうと。
だが、あの時の俺に、そんなことなど分かるはずもないのだ。
邪魔をしないようにと、静かに扉を開ける。
会話が止まないのをみると、どうやら気付かれてはいないようである。
そのままゆっくりと歩を進める。
書物庫内はきちんと整理されているようで、竹簡、書物が整然と並べられていた。
恐らく、分類もされているのだろうが、どういった基準でなされているのかまでは分からなかった。
書物庫はそこまで広くはないが、棚が手前に四つ、縦に並んでおり、奥にも五つ、同じように設置されていた。
入り口から一番近い棚を見ると、書物が隙間なく収められている。
思ったよりも骨が折れそうだった。
彼女たちに気付かれず書物を探すのは無理だろう。
断りを入れようと声の主を探す。
聞こえる声を辿っていく。
どうやら、書庫の右奥の方のようだ。
歩みを進めていけば、果たして、二人の少女が身を寄せ合い、こちらに背を向けて熱心に書物を読み込んでいた。
その後ろ姿には、見覚えがあった。
目の覚めるような、眩い光を放つ金砂の髪は、孔明ちゃんだろう。
隣に並ぶ、流れるようなスカイブルーのツーテールは士元ちゃんだ。
なるべく、驚かさないように声をかけようと思ってはいたが、この二人が相手ならば無理な話だった。
ならば、と開き直りいっそのこと驚かせてやろうかと思ったことは、一時の気の迷いだったと天に許しを請いたい。
そっと近づき、二人の肩を叩くと同時に、孔明ちゃんと士元ちゃんの顔の間で、
「わっ」
と、声を掛けた。
手を置いた肩が、びくんと震える。
「はわわーーーーー!」
「あわわーーーーー!」
鼓膜が破れるのではないかと思う程、大きな悲鳴を上げ、二人は一気に、猛烈な勢いで書庫の隅へと駆け出した。
危ない、と思った時には、もう、遅かった。
二人は、四つん這いになって、その小さな小さな頭を抑えていた。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
慌てて駆け寄り、二人に手を伸ばす。
ようやく、彼女たちは俺の存在を認めた。
「げ、元直さん?」
涙目になりながらも、士元ちゃんは確りと俺の腕を掴む。
同じように、俺の手を取った孔明ちゃんは、立ち上がり言った。
「酷いじゃないですか! 急に驚かせるだなんて……。」
叫んだせいで響くのか、彼女は額の辺りに手をやった。
その双眸は、やはりというか涙に濡れていた。
「本当に、ごめんね。まさか――。」
次いで口に出そうになった言葉を、何とか押し止める。
ここまで驚くとは思わなかった、などと、どうして驚かせた人間が言えようか。
二人がぶつけた所を、軽く摩ってやる。
瘤になってはいなさそうだった。
「ここで、何を? 勉強?」
落ち着いた所で、二人に尋ねる。
何の気もなしに発した言葉だったのだが、彼女たちは酷く狼狽した。
「え、えっと、その、似たようなものだとは、思います……。」
答える士元ちゃんの言葉にも力がない。
そうなると、当然、興味は二人が読んでいた本へと移る訳であり。
「何を読んでいたのかな?」
落ちていた本に手を伸ばそうとすると、もの凄い速さで奪われ背中へと隠された。
正直、ここまで俊敏な動作を、孔明ちゃんがするとは思ってもいなかったので、驚きである。
「ちょっと、待っていて下さい。」
鬼気迫る、彼女の剣幕に思わず頷く。
二人は背を向けると、ひそひそと何をか話し合い始めた。
「どう――う?朱里ちゃん。」
「見られたからには――――いかないし、いっそのこと――。」
「えぇ? 元直さんを?」
「雛里ちゃん。もう、後には退けないんだよ? だから、元直さんも――してしまえば。」
「で、でも……。」
「大丈夫です。 一度見てしまえば、いかに元直さんだってイチコロです。」
「そんなに上手くいくかな? ここは上手く――した方が……。」
「はわわ! 雛里ちゃんの方が過激です! と、とにかく、いざ、元直さんを美しく、耽美な世界に!」
イチコロってなにっ?
過激ってなにっ?
美しく耽美な世界って、何っ?
ところどころ聞こえる物騒な言葉に、俺の頭の中は絶賛混乱中であった。
決着が付いたのか、二人はゆったりと振り返った。
暗がりの中、その瞳だけが、獣のように炯々としている。
荒い息遣いが、こちらにまで届く。
そして、三日月のように、薄く切れ込んだ口で笑った。
逃げようとした。逃げられなかった。
恥ずかしいことに、腰が抜けていた。
手と、足とを使って、何とか後退る。目は、離せなかった。
退る度に、彼女たちは一歩、一歩、また一歩と詰め寄って来る。
背中がぶつかった。棚だった。
命運は尽きたのだと、悟った。
異形の二人は、もう目前だった。
後のことは、もう思い出したくない。
二人は、腐りきっていた。
北郷一刀の奮闘記 第十話 好奇心は男をも殺す 了
説明 | ||
お久しぶりでございます。 気が付けば、一ヶ月ぶっちぎっておりました。 なんというか、今回はちょっとばかり、一刀君には酷なお話かも知れません。 それでは、第十話になります。 |
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BLいらっしゃいませ(アサシン) やった、久々にまたほんわかとしたこの作品が読める・・・と思ったら真逆?の展開w先生とのイチャラブかと思ったのに・・・w(きまお) あの、まさかとは思いますが水鏡先生も腐…なんてーことは、な、ないですよ…ね?(ひさやすた) どこにいても腐ってるのか。悲しい2人の扱い…。(ミドリガメ) イチコロすぎて泣くしかない・・・(Yosuyama) あの本てどの辺に需要があるのだろうか・・・・、なんにしても腐臭がする(黄昏☆ハリマエ) 腐ってやがる、早すぎたんだ!……とでも言えばよいのでしょうか?(名作の台詞を汚してすみません)(h995) あの2人はこの外史でも腐っているのか?!(きたさん) |
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