何もない男
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男は何もかもがどうでもよくなってしまっていた。

変わらぬ毎日に飽き惰性で生きる日々。

明確な意思など存在せず、ただ死なぬだけの日々

食欲は日に日に落ちていき

睡眠時間は多くなり

酒の量は乗数の如く増え続けている。

すべては無気力から発生する諦めからである。

彼には輝ける未来も充実した今も美しき思い出も存在しない。つまらない、イタズラに命を消費するだけの怠惰な生活。

これから先のことも、また現状を打破しようとする気力も彼にはなかった。

そう。本当にこの男には何もなかったのである。

人より優れた長所も、劣る短所も信頼できる友人も愛する恋人も暖かい家族も!天は彼になにも与えはしなかったのだ!

 

幼い頃から親戚の家で腫れ物のように扱われ、学校では他人に関ろうとせず常に孤独に過ごす。彼にとって夢や生きる目的といったものは最初からなかった。テレビで見るヒーローや古今東西の英雄・偉人達も彼にとってはただの他人でしかなかったのである。

「憧れや尊敬なんていうものは幻想に過ぎない、他人を使って自己満足に浸りたいだけだ」

幼い頃から湧き上がっていた感情を、最近ようやく言葉にして表す事ができるようになった。彼は他人を他人としか見ていない。自分以外のすべての人間は自分とはまったく関係がなく、また興味も持ち得ないものと心得ていたのだ。彼は孤独であったが惨めではなかった。それは孤高といわれる貴族的な精神があるわけでも、また天才特有の唯我独尊的感性があったわけでもない。ただ、彼は生まれたときから一人であったという、ただそれだけの理由である。

 

しかしそんな彼の心に一縷の隙ができる。

彼は散歩が趣味であった。とくに朝日が昇って間もない早朝を好んだ。

一番の光を全身に浴びる植物。心地よい風。川のせせらぎ、鳥のさえずり。

人間と距離を置いてきた男にとって、自然の美しさこそ世界と接着部分であった。男はよく朝露を覗き込み花を愛でた。色彩豊かな季節の花々は彼の心に一時の潤いを与える。微々たるものだが、望みも欲もない彼にとってその瞬間こそ生への執着であり、また活力であった。

ある朝、彼が恒例の散歩をしていると、女性が一人、犬を連れて歩いているのを目撃した。何気なく目で追ってみるとあろうことかその女性は屈託のない笑みで彼に挨拶をしてきたのであった。彼は初めて人間を美しいと思った。黒く、吸い込まれそうな瞳。柔らかい声。上品にまとめられた艶やかな頭髪。細くしまった無駄のない肉体。

太陽よりも白く輝きを、月よりも深い光を彼は知ってしまったのだ。

それからというもの彼は四六時中彼女のことばかり考えるようになった。そして朝の散歩が前より一段と楽しみに思えてきた。

しかし彼は女性に対して気の利いたセリフも冗談も言うことができない。彼は悩んだ。未だかつて経験したことのない苦しみに頭痛と吐き気に苦しんでいた。この感情をどう発散させればいいのか。それまで常に孤独に染まってきた彼に、恋心というものをどう扱っていいのかなど知る術はない。彼は二十歳半ばにして始めて初恋のもどかしさと切なさを味わっているのだ。

 

男は彼女に会うことを恐れるようになり、とうとう散歩をすることができなくなってしまった。彼は酷く内気になり食事もとらずただただ酒を飲み眠るだけの日々が続いた。そして決まって彼女の夢を見るのであった。

いても立ってもいられなくなりある晩男は外に出た。夜ならば彼女と会うことはないだろうと思ったからである。

その日は晴れており、無数の星々が頭上で輝いていた。朝とは違った風の香りを感じ腕を伸ばす。夜の解放的な気分が彼の心を多少楽にした。

「あの」

軽くなった心に急に錘が積み上げられたような気がした。

彼は突然のことにどうしていいかわからず大量の汗をかいている。

「覚えてますか?朝いつも会う…最近全然見ないから心配してたんですよ」

思いがけない遭遇に心臓が飛び上がるほど鼓動を早めている。逃げ出したい衝動に駆られながらもなんとか一言だけ搾り出す事ができ男は歩き出した。

 

部屋にたどり着いた男は喜びに満ちていた。

彼女と出会えたこと。自分を心配してくれた事。そしてなにより会話ができたこと。それは彼にとってこの上ない幸福であったと同時に、また朝の散歩を許されたような気持ちになった。長い雨が明けたような晴れやかな気分になり彼はまた酒を飲んで寝てしまった。

 

翌日彼は早速散歩に出かける。新鮮な空気を吸い込み木々を眺める。日の光が目に入り快感を含んだ痛みを脳に伝える。

また彼女に会えるだろうか?そんな期待を胸に抱き、どこか落ち着かない面持ちで彼は足を速めた。そして思惑通り男は彼女と出会えた。しかし彼女はいつものような挨拶ではなく、軽く会釈だけのそっけないものであった。

いつもいる犬の代わりに、となりにいた男がアレはだれだと話しかける。近所の人よと彼女が答え、そのままどこかへ消えていった。

男はその後姿を眺める事しかできなかった。

 

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天涯孤独な男の葛藤
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