ハーフソウル 第十五話・運命との対峙
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一 ・ まつろわぬ者

 

 円形のドームを模した玉座の間に、ぼんやりと灯火がともる。

 

 クルゴスの登場に、セアルとラストは後ずさるしか無かった。

 後退したところで、背後に待ち受けるのは暗闇の底だ。背水の陣とも言えるこの状況でも、ラストは冷静さを失わなかった。

 

「クルゴス。てめえは何で代行者になった。自分のためか? それともフラスニエルのためか」

 

 ラストの意外な言葉に、クルゴスは硬直した。だが次の瞬間にはいつもと変わらぬ様子で、ラストを睨めつけた。

 

「このわしを愚弄するか。許さぬわ。来るがいい、ミカボシ」

 

 クルゴスが呼ばわると、明けの明星は燦然と姿を現した。

 輝けるその宝冠は、まさに天に瞬く厳星だ。

 

 黒の翼に七星杖刀を携えた巨大な異神に、ラストは驚きを隠せなかった。

 

「ミカボシよ。ラストール様を殺せ」

 

 主人の命に、ミカボシは翼を羽ばたかせ杖刀を抜き放つ。

 巨大な敵にセアルも剣を抜いた。だがラストはそれを制止した。

 

「アイツはオレが殺る。そのためにここへ来たんだからな」

 

 王器を構え、ラストはミカボシへと対峙した。

 相手は杖刀とはいえ、刃渡りだけ見れば斬馬刀や大太刀並みだ。そんなものを頭上から振り回されれば、付け入る隙も無いだろう。

 

 しかしラストはこれを好機と見た。

 ミカボシさえ倒せば、クルゴスと直接対峙する事が出来る。

 

 様子を窺っていると、ミカボシが動き始めた。抜き身をきらめかせ、真横になぎ払う。

 

 咄嗟に飛びのき、ラストは斬撃を目に焼き付けた。

 太刀筋には癖というものがある。攻撃に移る初動作、防御に入る時の体捌き。

 

 癖を見抜く事が、引いては隙を見つける呼び水となる。

 

 振り下ろす巨大な杖刀は、玉座の間を崩しかねない威力だ。

 すでにドームの高天井は一部が崩壊しており、岩塊が石床を叩きつけている。

 大地を揺るがす振動と共に上がる土煙は、彼の視覚を遮断した。

 

 土埃さえ斬り裂くミカボシの刃を躱しながら、ラストは背後へと回り込んだ。

 ミカボシから落ちる影は濃く、光ひとつ無い。

 

 額にある宝冠から発する輝きが、ミカボシの背後に巨大な闇を作り上げていたのだ。

 

 死角だ。

 

 ミカボシの巨躯と翼が遮蔽物となって、背後は完全に陰となっていた。

 人は蟻を踏み潰せる。だが相手が蜂ならばどうだろうか。

 

 王器に巻き付く真鍮の蛇を手鉤のようにひっかけ、ミカボシの背後へと素早くよじ登る。

 目標が眼前から消え失せ、自らの体にまとわりついている事にミカボシは気づいた。

 

 振り払おうと羽ばたき、もがくミカボシに、ラストは必死にしがみつく。

 

 業を煮やしたミカボシは得物を捨て、ラストを払おうと両手を伸ばす。

 その瞬間を彼は見逃さなかった。

 

 両手が彼を捕まえようと動きを止めた刹那、ラストはミカボシの頭上へと飛び上がった。

 そしてそのまま長柄を振りかぶると、渾身の力を込めて打ち下ろす。

 

 真鍮の蛇は黄金の弧を描き、ミカボシの額を打ち据えた。

 

 まばゆい軌跡はミカボシの巨躯を両断する。圧倒的な威力に耐え切れず、輝ける者は塵となって霧散していった。

 

「さあ、次はお前の番だぜクルゴス」

 

 王器を右手に握り締めながら、ラストはクルゴスを睨み付けた。

 まつろわぬ者とまで謳われた星神を征したラストに、クルゴスは憤怒の表情を見せる。

 

「おのれ……。ならば我が手で嬲り殺してくれるわ」

 

 クルゴスは杖を手に、前へと進み出た。

 材質こそ違えど、クルゴスの杖はラストの王器に酷似している。

 

「貴方様の王器を模して造り上げた杖。本来の使い方をとくと御覧あれ」

 

 かたかたと笑う骸骨に、ラストは身構えた。

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二 ・ 青銅の蛇

 

 クルゴスが持つ杖は青銅製で全体に蛇が巻きついており、ラストの王器とよく似た造形をしていた。

 

 ただ小柄なクルゴスより倍近い長さのために、どう扱うのかも推測できない。

 ラストは用心深く、相手の出方を窺った。

 

「貴方様の持つその王器は、もとをただせば杖。武器として扱うものではなく、主人を補助するためにある」

 

 クルゴスはそう言い放つと、体長よりもはるかに長い杖を、いともたやすく振り回す。

 そして石突を地に突き立てると、一言だけ呟いた。

 

 その瞬間クルゴスの前方に巨大な旋風が巻き起こった。轟々と唸りを上げる空圧は、瓦礫を巻き込みラストへと襲い掛かる。

 

 空気の歪みに気づいたラストは、素早く横へ飛びのいた。

 岩塊を含んだ竜巻は易々と玉座を破壊し、谷底へと消えてゆく。

 

「この杖は模造品ゆえ、たいした威力は期待できぬ。だが王器の杖ならば、このわしの力も補って余りあるはず」

 

 嬉しそうに笑うクルゴスを、ラストは睨みつける。

 杖形態の王器には、呪力を強化する力が秘められているのだろう。だが術に縁の無いラストには関係の無い話だ。

 

「そうかい。御託はいいからさっさとかかってきな」

 

 ラストは長柄を構え、相手との間合いを測る。予備動作の無い術を放ってこられると、彼には厳しい戦いになる。

 

「ならば我が呪言、味わうがいい」

 

 クルゴスが古代語を呟くと、天井まで達するほどの焔が巻き上がった。

 多少崩れ落ちているものの、密閉空間に等しいドーム内での燃焼は、セアルとラストの生命を脅かす。

 

 焔の竜巻は限られた酸素を取り込み、生ける者を窒息させようと膨れ上がる。

 

「このままじゃまずい……」

 

 熱風の中、ラストは活路を模索した。

 早く酸素を取り込まなければ、セアルともども窒息死してしまうだろう。

 

 ドーム内の酸素をあらかた燃焼し尽くしたのか、焔の勢いが若干弱まった。

 

 ラストは念じた。

 これまで散々賭け事をしてはきたが、それらは全て統計と記憶力、そして的確な判断によるものだ。

 地下廟の肖像画を思い出し、生まれて初めて、彼は運を天に任せた。

 

「この世に魂ってもんがあるなら、応えてくれ。オレに力を貸してくれ」

 

 そう呟くと、ラストは握り締めた王器を頭上に掲げた。

 力強いその姿は、統一王の肖像画を思わせる。

 

 次の瞬間、長柄はその姿を変えた。それは黒い胴に真鍮の弓はずを携えた長弓となり、ただ一本の矢をつがえている。

 たった一度だけの好機に、ラストは怯む事なく弦を引き絞った。

 

「そこから離れろ!」

 

 セアルに注意を促し、天井の裂け目を狙って矢を放ち、その場から退避した。

 

 矢は輝く弧を描き、不安定な支点を破壊する。

 わずかな間の後、岩塊はゆっくりと崩落した。新鮮な酸素が流入し、急激に一酸化炭素へと取り込まれる。

 

 鈍い爆音が轟き、一気に天井が崩壊した。

 激しい熱風を纏った爆発がドームを吹き飛ばす。

 

 最も焔の旋風に近かったクルゴスは爆風に巻かれ、激しく燃え上がった。

 だが代行者であるが故に、その肉体はたやすく眠りを受け入れない。

 

 肺が焼け、肉は溶けて黒く焦げようとも、クルゴスは必死にもがき続けた。

 

「もうやめろ、クルゴス」

 

 骸骨に近づき、ラストはぽつりと呟く。

 

「統一王の手記は全て読んだ。お前にはもう、存在する理由が無い」

 

 その言葉に、クルゴスは一瞬動きを止めた。

 焼け焦げた喉を震わせ、骸骨はカエルのようなくぐもった笑い声を上げる。

 

「存在する理由が無いだと? バカげている。何もかもがバカげておるわ」

 

 息も絶え絶えにクルゴスは天を仰いだ。

 地獄の底を思わせる眼窩に、天頂の星々が映る。

 

「ならばわしは何のために生を受けたのか。あの時に死んでおればよかったものを」

 

 ラストには、その双眸から流れ星が落ちたように見えた。

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三 ・ 歪み

 

 クルゴスは遥か遠い昔、東アドナ大陸で生を受けた。

 

 当時は四王国時代であり、軍事強国ダルダンと経済立国レニレウスの二強が覇権を争っていた。

 小国のネリアとアレリアは同盟締結によって、ようやくながらえている状態だった。

 

 西アドナの玄関口である港を保有しているのがレニレウス王国だったために、密輸や奴隷売買はレニレウス王国の専売特許とも言えた。

 

 その地形上、港を持てないダルダン王国はこれを是とせず、絶えず一触即発の状態だった。

 

 クルゴスもまた、奴隷として連れてこられた子供の一人だったのだ。

 彼は脱走を図ったがために殺されそうになったところを、当時のネリア王に救われて生き延びる事が出来た。

 

 フラスニエルの曽祖父にあたる王は、クルゴスを我が子同然にかわいがった。クルゴスもまた、王家に対して偽りの無い忠誠を誓った。

 

 代が変わり、フラスニエルが若くして王になった頃。クルゴスはすでに老人となっていた。

 何不自由無く教育を受け、代々の王たちのよき相談者となっていたが、所詮は家臣に過ぎない。

 

 長い時を経て、いつしかクルゴスは、自らの立場を忘れ去っていたのだ。

 

 

 

 

「もっと自分を必要として欲しい。そうでなければ王を思うまま操りたいと、お前は望んだんだ」

 

 ラストの言葉に、クルゴスは何も返さなかった。

 クルゴスの肉体は焼け焦げ、人ならすでに絶命している状態だ。

 ただ喉から漏れる呼吸音だけが、彼の存命を示している。

 

「フラスニエル様は、おいぼれはもう必要ないとおっしゃられた。ただ王の従兄であられるリザル様だけは、わしを哀れんで下さった」

 

 遠い記憶にすがるように、クルゴスは呟いた。

 

「そこで何も考えずに、終わっておけばよかったのかも知れぬ。だがわしはどうしても王に見せたかったのだ。王のために生き、王のために全てを捧げたこのわしを」

 

 未だ執念の炎を燃やす双眸に、ラストは哀れみすら感じた。

 力を追い求め、主人である王に敵対する事でその存在を知らしめようとした男。

 飽くなき欲望のために、人は生きているのか。

 

「ラストール様を初めてお見かけした時、あまりにリザル様に似ておられて驚いた。この方こそ我が王に相応しい。だから……」

 

「だからオレの両親や村の連中を殺したのか。それだけじゃない。先帝や父上まで……」

 

 クルゴスの勝手な言い分に、ラストは瓦礫を殴りつけた。

 拳は砕け辺りには血が滴ったが、肉体の痛みよりも心の痛みが凌駕していた。

 

「お前は何故それだけの力を持ちながら、国に対して尽力しなかった。どうして王ではなく、民を見れなかったんだ」

 

 クルゴスの横に膝をつき、ラストはうなだれた。

 その時、クルゴスに変化が見えた。ラストに対して差し出した指が、砂のように崩れてゆく。

 

「わしの望みは叶った。『王に我が存在を焼付ける』という願いが」

 

「何だよそれ。勝手に殺して勝手に死んで、そんな事が許されると思っているのか!」

 

 その言葉に、クルゴスがかすかに笑ったように見えた。

 

「ラストール様。貴方様は一生このわしを忘れる事が出来ますまい。無限に許されない罪こそ我が望み」

 

「ふざけるんじゃねえ! 殺された奴らは一体何だったんだ! 人を踏みにじっておいて、勝手な事言うんじゃねえ!」

 

 クルゴスの襟首を掴み、ラストは怒鳴った。

 

 次の瞬間、クルゴスの姿形は跡形無く崩れた。床にはぼろ布に包まれた大量の砂が残されている。

 ラストの指の間から滑り落ちた襟からは、首輪だけが転がり出る。経年劣化でぼろぼろになったそれは、留め金だけが鈍く輝いた。

 

 人は過ちを犯す。だがそれは巻き込まれた者たちには、関係の無い事なのだ。

 

 膝をつき身じろぎもしないラストに、セアルはかける言葉も無かった。

 彼自身母親の事を、クルゴスに問い詰めたい気持ちが強かった。

 だがラストの人生を大きく歪めた、クルゴスへの執念を優先した。

 

 どのくらい時間が経っただろうか。

 ふいに何かの気配を感じ、セアルは谷底へと目を向けた。

 

 先程の爆発で天井は崩落し、谷底近くの床も多くが砕けた。

 玉座があった場所を凝視すると、何かが蠢いているように見える。

 

 地面に這いつくばった『何か』は、次第に人の形を取り始める。

 

 黒く長い髪に褐色の肌。眼は血のように赤くその耳は尖っている。頭上に輝く王冠が、その風体をさらに異様なものにしていた。

 どこかで見知ったその姿に、セアルの口から意図せず言葉が漏れる。

 

「異形種……」

 

 その声に呼応するように、異形種と呼ばれた男はセアルを見て笑った。

 

「何とも懐かしい言葉よ。その言葉を知っているお前は何者だ? 異形種以上の異形を背負う者よ」

 

 ぞっとする微笑を浮かべ、男はセアルへと歩み寄る。

 その不気味さにセアルは剣を抜き身構えた。

 

 見た目こそ二十四、五歳だが、底知れぬ目の輝きに男の経てきた年月を感じる。

 

「さあ見せてみるがいい。お前の中の深淵を」

 

 崩れ落ちたドームから覗く月光が、男の王冠を妖しく照らし出した。

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四 ・ 血染めの月

 

 自らの同属であろうクルゴスが倒れ、その身が灰となろうとも、男の瞳は何も映さなかった。

 彼の前にあるのはただ、興味を引く実験動物だけだ。

 

 セアルは男が戴く王冠を見た。

 

 あの夜、イブリスが身につけていたものだ。トケイソウを思わせる刺々しい環冠は、まるで全てを拒絶しているように見える。

 

「イブリスはどこだ」

 

 自分でも驚くほど冷静に、セアルは答えを求めた。

 予想だにしない問いにも、男はにべなく呟く。

 

「あれは自ら牢に入った。使えぬ者は必要ない。どうでもいい存在だ」

 

 その感情が正であれ負であれ、何かしらの思いを抱くのはそれに興味があるからに違いない。

 だが『どうでもいい』のは、まるで気にも留めていない。路傍の石や雑草よりも価値が無いという事だ。

 

「自分の配下に、よくそんな事が言えるな。少なくともイブリスは、貴様の命令を全うしようとしていた」

 

 剣を向けられても微動だにしない男を睨めつけ、セアルは様子を窺った。

 この男は一体何者なのか。いつの間にここにいたのか。

 

「我が名はシェイルード。八英雄のひとりシェイローエの弟にして代行者『死』。そしてお前自身の父親でもある」

 

 セアルの思考を読み取ったかのように、シェイルードは笑った。

 だが何よりもセアルに衝撃を与えたのは、その男が自ら父親だと名乗りを上げた事だった。

 

「嘘ではない。姉上に眠らされた後、千年の時を経て目覚めた私は、いかに奴らに復讐出来るかを考えた。その結果が深淵を呼び覚ます事だったのだ」

 

 得意げに事の顛末をひけらかすシェイルードに、セアルは怒りを憶えた。

 

「ヒトの肉体を深淵の器にするには二通りある。そのまま神降ろしをして植えつけるか、胎児に神降ろしをするかだ」

 

 シェイルードは楽しそうに、恐ろしい所業を告白した。

 胎児というのは、間違いなくセアル自身の事だ。

 

「千年前、私はリザルという男に神降ろしをした。それ自体は上手くいったが、すでに自我を持っている者に植えつけても不安定だと知った。だから今回は胎児に植え付ける事にした」

 

 セアルは言葉を失った。

 シェイルードは、自らの行いを何とも思っていない。それどころか、それにしか興味が無いのだ。

 

 こんな男が実の父親かも知れない事実に、セアルは打ちのめされた。

 だが彼の中には育ててくれた父の思い出がある。自分の父親は、たった一人だ。

 

「貴様は父親なんかじゃない。俺には大切な両親がいる。兄も妹もいる。皆のために帰らなくてはならないんだ。たとえ貴様を倒してでも」

 

「兄? 兄だと? お前が兄と呼ぶ男が、何をしたかも忘れているのか、めでたい奴だ」

 

 薄笑いを浮かべながら、シェイルードは見透かすように目を細める。

 

「お前は何故、自分が鎖で繋がれるようになったか覚えていないのか? いつからそうしていた。思い出せないと言うなら、思い出させてやろう」

 

 月光を反射し、茨を思わせる冠が鋭い輝きを放つ。

 見ると青白い月は次第に赤黒く変色していた。

 

 赤と黒の世界。

 それを初めて目にしたのは、領境の森ではない。

 

 知らない記憶にセアルは翻弄された。

 では深淵が顕現したのは、ずっと昔の事なのか。

 

 動揺するセアルの眼前に、幼い頃の自分が幻灯のように映し出された。

 

 人でいえば九歳か十歳くらいだろうか。家人の目を盗んで、夜中に外へと抜け出そうとしている。

 この夜はひと月に一度の満月だった。

 漆黒の夜空に星々を従える青白い月は、子供心に興味をかきたてられた。

 

 雲ひとつない空ならばなおさら、黒い布張りのテーブルにあたかも砂糖をこぼしたような満天の星は、見る者を感動へといざなう。

 

 ふいに、白かった月が血を流し始めた。

 何かに斬られたかのように、ぱっくりと口を開けた傷からは、とめどなく赤がこぼれ落ちる。

 

 セアルは月が死んでしまうと思った。早く血を止めなければ。でもどうすればいいのか。

 

 彼は自らの両手にその血を受けた。

 こぼしてしまえば月を元に戻せないかも知れない。そう思い顔を上げると。

 

 そこにはセアルの知らない『何か』がいた。

 

 黒い体に赤い眼。人の形を留めていないその姿に、彼は後ずさった。

 

「逃げる事は無い。我が現身よ。お前の中に植えつけられた契約を履行する時が来たのだ」

 

 地獄の底でもがく亡者のように、それはセアルへと這い寄った。

 黒い指を伸ばしながら、愛おしそうにセアルの腕を掴む。

 

 悲鳴を上げ、セアルはその手を振り払った。

 抜け出してきた窓を目指して、彼は走る。

 

 窓へ手をかけ駆け上がろうとした瞬間、黒い手はセアルの足首を掴んで引きずり下ろした。

 地面へ叩きつけられる衝撃と恐怖で、そのまま彼は気を失った。

 

 屋外の物音に最初に気づいたのはサレオスだった。

 

 こんなに明るい月夜に忍び入る者などいるわけもない。だが念のため彼は長衣を羽織って廊下へと出た。

 森のざわめきが、ただ事ではないとサレオスに告げている。

 

 胸騒ぎがして外へと出てみると。

 

 果たしてそこには、彼の弟がうずくまっていた。

 

「セアル?」

 

 サレオスは静かに弟へ呼びかけた。

 しかしセアルはうずくまったまま微動だにしない。

 

「……邪魔をするな。この者は血月の祝福をその身に受けた。最早逃れるすべはない」

 

 突如セアルは、子供とは思えぬ声で話し始めた。

 

 サレオスは理解不能の事態に我を忘れた。父や祖父を起こす事も、術符を取りに戻る事すら念頭になかった。

 ゆっくりと振り返ったセアルの眼は血色に輝き、その髪や肌は黒い。

 

「異形種……」

 

 サレオスは古くから伝わる迷信を思い出した。

 黒い髪と肌を持つ、赤い眼の邪神。深淵の大帝と呼ばれる神が現世に顕現する兆候として、同じ姿形をした者が先駆けとして出現するというものだ。

 

 神話に関する研究を重ねられた現代では、それは何の根拠もない迷信でしかない。

 だが千年前までは、異形種として生を受けた者は一生幽閉され、その家系は断絶させられた。

 

 迷信と知られるまで、一体どれだけの不幸を生んだのだろうか。

 

「驚いたか? この肉体は我が深淵の器として契約された者。お前はこれを弟として随分かわいがってきたようだな。だがそれもこれまでだ。まずはお前を血祭りに上げよう」

 

 言うが早く、深淵の大帝と化したセアルはサレオスへと飛び掛かる。

 子供とは思えぬ俊敏な動作を、サレオスは必死に躱した。

 

 躱しながら、この場の収め方を模索する。

 

 だが頭上に煌々と輝く赤い月も、それに狂わされるセアルも、どのように対処すればいいのか。

 彼にはその知識が一切無かった。

 

 執拗な攻撃を避けきれずもんどりうって倒れると、弟の顔がすぐそばにあった。

 邪悪に歪んだ狂気の表情に、サレオスは失意し涙を落とした。

 

 赤ん坊の頃から、目に入れても痛くない程かわいがってきた大切な弟は、もうそこにはいない。

 そこにはただ、嬉々として血を求める狂人がいるだけだ。

 

 セアルの襟首を掴んで引きずり倒すと、サレオスはその細い首へと手をかけた。

 

 柔らかい子供の首を、あらん限りの力で圧迫する。汗とも涙ともつかない滴が、はらはらとセアルの顔へ落ちた。

 

 

 

 

「分かっただろう。お前が兄と呼ぶ男は、お前を殺そうとしたのだ」

 

 シェイルードの王器によって幻覚を見せられていたのか。セアルはがくりと膝をつき俯いた。

 本人も知らない記憶を暴き出され、セアルは衝撃のあまり言葉さえ口に出来なかった。

 

「分かったならよい。この父の許へ来るがいい。お前がこの狂った箱庭を壊す日が来るのを、どれだけ心待ちにしていた事か」

 

 凍りつく笑みを浮かべ、シェイルードは手を差し伸べた。

 セアルはゆっくりと顔を上げた。

 

 その双眸は紛うことなく、あの赤い瞳だ。

 

「そうだ。それでいい」

 

 勝ち誇ったように、シェイルードは哄笑する。

 夜の闇に響き渡る代行者の笑い声は、冷たい大気へと拡散していった。

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五 ・ 運命との対峙

 

 瞳に赤い輝きを宿したまま、セアルは立ち上がった。

 剣を両手に構え、シェイルードを見据えるその姿に、彼は笑うのをやめた。

 

「兄さんが俺を殺そうとしたのが本当だとしても。俺にはそれを責める事は出来ない。むしろその苦しみさえ理解できる」

 

 セアルの呟きに、シェイルードは口をつぐむ。

 

「だから俺は戻らなくては。生きてここから帰らなければならないんだ」

 

 横に剣を構え、セアルはシェイルードへと斬りかかった。

 斬撃を見切りやすい両手剣とはいえ、シェイルードはそれを易々と躱してくる。

 

 それも踏み込みや構えから見切っているわけではない。

 まるで攻撃を事前に知っているかのように、紙一重で躱すのだ。

 

 セアルは手の内を読まれていると悟った。

 嘲笑うようにすれすれで回避してくるシェイルードの傲岸さに、苛立ちを募らせる。

 

「どうした。私を倒せねばここから出るなど叶わぬぞ。さあひざまずけ。そしてこの父に刃向かった事を詫びろ」

 

 シェイルードが口の端に何かを呟くと、場には強力な重力が発生した。

 圧倒的な力に床へと叩きつけられ、セアルはその場に無理やりひれ伏させられる。

 

 腕に力を込め膝を立てようとしても、巨大な獣に押さえ付けられているかのように、ぴくりとも体を動かせない。

 

「無理に起き上がろうとすれば骨が砕けるぞ。さあ私に服従しろ」

 

 嗤笑し不遜な視線を注ぐシェイルードを、セアルは睨み付けた。

 

「ふざけるな。誰が貴様などに」

 

 セアルはありったけの力を腕に集中させ、体を押し上げる。

 大地を踏みしめてふらつきながらも立ち上がり、再び剣を構えた。

 

「俺の父親は、育ててくれた人だけだ!」

 

 ずしりと重くなった剣を振り上げ、力任せに横へと薙ぐ。

 深淵の力を宿した肉体は、驚異的な筋力で周囲の瓦礫を破壊する。

 

 忠告を受けていた二回目の顕現。だが眼前の強敵を倒すには、なりふり構ってはいられなかった。

 見れば傷痕の黒ずみは、セアルの指先や首筋にまで広がってきている。

 最早後戻りなど出来ない。

 

「思考を読む我が王器の前に、お前の攻撃など児戯に等しい。沈め。深淵の底に」

 

 シェイルードは再び詠唱を口にし、さらに大きな力場を作り上げる。

 崩れかけた壁に叩きつけられ、セアルは気を失いかけた。

 だが意志の力がそれを阻む。

 

 再び立ち上がろうとするセアルを、シェイルードは虫でも見る目つきで眺めた。

 

「何をしようともお前は私には勝てぬ。おとなしく従うつもりが無いなら、この場でくびり殺してくれる」

 

 セアルの喉に右手をかけ壁に押し付けながら、シェイルードは狂気の滲んだ微笑を湛える。

 獲物を嬲り殺す猛獣のように、シェイルードはじわじわと気道を圧迫した。

 殺すつもりならとうにやっているだろう。恐らくは気を失わせてから、従属の術を使うつもりなのだ。

 

 圧倒的な力に抵抗もむなしく、セアルの肺からは酸素が失われていく。

 振りほどこうとしてもまるで意に介さないシェイルードは、満面の笑みを浮かべた。

 

 その時。

 

 ふいにシェイルードの右手が緩んだ。

 力の限り振り払って飛び退き、セアルは激しく咳き込む。

 

「誰だ」

 

 よく知る代行者の気配に、シェイルードは誰何した。

 玉座の間に至る観音扉から、何者かの気配がする。

 

 床に突っ伏し息を荒げるセアルの目に入ったのは、蒼い衣の裾だった。

 蒼い衣装の男は鈍く輝く太刀を抜き放ち、玉座の間へ静かに入ってくる。

 

「貴様か。『狂』よ」

 

 特に驚いた様子も無く、シェイルードは背を向けた。

 

「クルゴスめがこの城へ逃げ込んだ時に感じた気配は、貴様だったようだな」

 

 その言葉にもソウは黙ったままだった。

 

「何をしに来た。ここには貴様の『望むもの』などないぞ。立ち去れ」

 

 シェイルードの放言を気にも留めず、ソウは太刀を構えた。

 

「私の望みは、千年前に戦友が命をかけた未来を護る事。お前の存在はそれを脅かすものだ」

 

 壊れ落ちた天井から覗く月は赤く、夜空すら深紅に染め上げていた。

 血染めの月光をその身に受けながら、ソウはシェイルードへと対峙する。

 

「今宵は楽しい夜だな。まさに代行者と深淵の集う蟲毒と呼べよう。ならば全てを食い殺した者が勝者よ」

 

 凄惨な笑みを浮かべ、シェイルードはソウへと向き直った。

 張り詰めた場に、夜の冷気が忍び寄る。

 

 夜空を仰いだセアルの眼には、月が血を流しているように思えた。

説明
創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。10619字。グロ表現のため18歳以下の方は閲覧されないようお願い申し上げます。

あらすじ・神の箱庭・西アドナ大陸。古の神をその身に内包した少年セアルは、自らが箱庭を破壊するために作られた存在と知り、神の代行者と対立する道を選ぶ。

宰相の潜む山岳遺跡へと足を踏み入れた二人。代行者たちとの決戦が幕を開けた……。
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