GIOGAME 14
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第十四話 名も亡き者が咲きし日に

 

オズ・マーチャー。

経歴という経歴を捨ててきた男にとって己の本当の名前など無い。

もう実家は存在せず親類縁者は皆無。

実名で呼ばれるような地で働いていた事はなく、属する組織で呼ばれる事もない。

名前だけなら三十通り。

偽の経歴だけなら二十五人分。

殆ど真実と言えるのは彼が嘗ての超大国にある世界一有名な諜報機関に属しているという事だけ。

西アジアから中東、アフリカ北部を主な活動拠点としていた彼にとって最も大きな顔は武器商人という職業。

運び屋と武器商人とマネーロンダラー。

それぞれに同業者達が営んでいた三つの商売を一体として統括する事で武器の小売業において彼は戦場という市場を席巻しつつあった民間軍事会社達を相手に商売を成功させた。

彼はさながら生存競争の過酷な地域の『火種を落としながら歩く亡霊』(ウィル・オー・ザ・ウィスプ)。

周辺国のパワーバランスの微調整役として重宝されていた経緯から彼の活躍は世界の大半の国で悉く評価される悪名高いものとなってしまった。

そんな彼がアフリカでの疫病の大流行を機に姿を消したのは裏の仕事は潮時に来ていると悟ったからだった。誰にも言わないものの彼にとって日本は最後の任務を終える地だ。

もはや表立った行動を取れば命の危険がある彼にとって、最後の任務はスパイ生活のおまけに過ぎなかった。

上司にスパイを止めると言い出し、最後に頼まれ事を引き受けた。

その程度の話のはずだった。

「・・・・・・・・・・・はぁ」

故に甘く見ていたのかもしれないと彼は思う。

平和な国で探し物をする。

きっと、探せばすぐに見つかる。

そんな事を漠然と思っていたのだから。

彼の上司は彼に日本へと持ち込まれた兵器を探し出すよう依頼した。

それはアフリカにおいて使用され、何の因果か日本国内に持ち込まれた。

それがどんな形をしたものなのか彼は知らない。

どんな性能でどんな威力なのかも知らない。

知らされた情報は持ち込まれた期日と持ち込んだ業者と名前のみ。

「・・・・・・・・・・・はぁ」

彼は嘆息する。

血の染みと骨だけが残存する部屋の中、げっそりした顔で視線を死体から逸らした。

蠅や蛆がいない。

裸電球なんてものが未だにぶら下がっているコンクリート壁のワンルーム。

周囲を調べ、血が乾いてカサカサになったスーツから幾つかの免許証やカードを拾い出し、その場を後にする。

「帰ってシャンパンでも開けるか」

ボソッと愚痴りながら廃マンションの階段を下りる彼は夏の陽気を感じながら乾き切った血がパラパラと落ちる免許から業者の素性を推し量った。

(日系九世か八世辺りが妥当だとするなら・・・)

死んだ男達のカード類の中から一枚の名刺を見つけてオズは相手の素性に当たりを付ける。

(新手の和僑系の犯罪組織か? 厄介だな)

日本人が海外において犯罪組織を作る事は稀な事例だったが、二千年代初頭に始まった日本の移民政策において海外へ移住した日本人が自警団や日本人街の発展と共に日本古来のヤクザの如き組織を形成していったのは歴史的事実だ。

その類の組織と何度か仕事をした事のあるオズにとっては華僑系の組織程に派手で数の多い連中ではなく、堅実で手堅い商売で稼ぐ印象がある。

そういった海外で成功した和僑系の組織が祖国へと逆輸入され、韓・中・露系の人種に浸食されたヤクザや暴力団、マフィアなどの勢力図に食い込んでいるとアジアの片隅で聞いた噂を思い出す。

彼にとって死んだ運び屋達は日本で始めて見る和僑系の末端組織の構成員だった。

(連中は日本人と見分けが付かないし、目立つ存在じゃない。こうして死人が出てる以上は何らかの動きがあるはずだが、部屋は荒らされたり立ち入った痕跡も無かった)

薄らと埃が積もった部屋の床から判断して死んだ構成員が最初から切り捨てられていた可能性が高い。

死後の構成員をほったらかしにしているのも妙なら連絡を取れなくなった構成員のアジトに何のアプローチもしていないのも妙な印象を受ける。

血が固まった床には外からの靴跡が一つもありはしなかった。

(とりあえずは身元を洗うか)

彼はビニール袋に再び遺留品を入れて鞄にしまいこんでマンションを後にする。

都市部へと向かうバス停の待合所で数十分待ち、バスで移動して駅から電車を乗り継ぎ、目的の駅の裏手から自転車で移動し、ようやく現在の住処へと辿り着く。

古びれた二階建ての『アパート』とやらはオズにとって今までの居住環境の中で六番目ぐらいには寛(くつろ)げる場所となっていた。

二階に上り自分の部屋に入る。

爆弾がいつの間にか仕掛けられている事もない部屋こそオズにとっては最高の部屋と言えた。

鞄を放り出し入居時にさっそく入れた最新式の冷蔵庫からオズは冷やしたシャンパンを取り出そうとして自重する。

まずは肴の用意しなければご機嫌な晩酌とはならない。

「♪」

冷蔵庫の中から幾らかの食材を取り出す。

金さえあれば大概のものが揃うと言っていた黒人の言葉をオズは日本に来てすぐ理解する事となっていた。

ネット上なら殆ど何でも揃うのは当たり前。

特定の地域だけに存在するようなコアな品でもなければ見つからない食材は無かったし、オズが食してきたものの殆どがそういうコアなものではない。

作るのが面倒な時はコーラとピザなら瞬時に電話一本で届き、『テンヤモノ』と呼ばれる日本独自の様々な料理もやはり電話一本で届く。

大型の高級百貨店やスーパーではこのご時勢にも関わらず品物が溢れ、日本独自の商品や新鮮な海産物が並ぶ光景は驚くべきものだ。

そんな日本の普通の品揃えがオズにとっては日本を夢の国と認識させるのに十分な効力を発揮していた。

オズが幾つかの肴を作り終えた後、シャンパンを取り出し、さて食うかと小さなちゃぶ台の前に座った。

壁に賭けてあるディスプレイを起動し、ネット上のニュースを閲覧し始める。

「?」

グラスに注がれたシャンパンに口を付けようとした時だった。

音が壁を通して漏れ聞こえてくる。

『ひさしげ様!! 今日はちょっと新しいお菓子に挑戦してみた次第ですわ!!』

『何かこのチョコ・・・アルコールの匂いがしないか?』

『ダ、ダメ!? ひさしげ!! そんなもの食べたら!?』

『こ、これ・・・めっひゃ、の、のどらけるわぁああああああああああ?!』

『純度百パーセントのアルコールですから!! でも、すぐ気にならなくなるって家の者が太鼓判を押してくれましたの!! これでひさしげ様も心が広くなって、わたくしに目一杯優しくなるかもしれないと!!』

『ひ、ひさしげ!! ペー!! ペーしなさい!!』

『おれはひうか!!』

『あぁあ!? ひさしげの顔がもう真っ赤に?! こ、これ以上そんな危険なものひさしげにあげちゃダメなんだからシュレン!! って、ひさしげも何でもう一粒食べようとしてるの?!』

『なんらーか。もう一ひろつほひくなるあひというか』

『ああ?! もう呂律が回ってない!! ひさしげ!!』

『ひさしげ様!! ピ、ピスタチオを食べさせてあげますから、あ、あ〜〜んて口を開けてくださいませんか?』

『?・・・あ〜〜ん』

『ひさしげダメ!? それ以上は今まで積み上げてきた威厳とか尊厳とかその他諸々が大変な事になっちゃう!?』

『ひさしげ様が実はこれ程アルコールに弱いなんて・・・これからも色々とお作りしますわ!!』

『うーいっく?』

ガヤガヤと喧(やかま)しい隣に何を言うでもなく、オズがシャンパンを飲み干す。

(あれが【AS】の手下なんて誰が信じられる?)

肴を口にして喧騒を聞き流しながらオズは隣の部屋に引越しの挨拶に行った時の事を思い出す。

数日前に済ませた挨拶の傍ら、やはり隣の男は二人の少女に囲まれて喧しい朝を送っていた。

唖然としたのは少女達と男が何やら同居紛いな関係であるという事だった。

日本は性に開放的な場所だと聞いていたがこんな狭いアパートに自分より十歳くらい下の少女と住まい、朝や夕方に如何にも品の良い少女が出入りする生活は日本ではありがちな普通の事なのかと首を傾げざるを得なかった。

面と向かって貴様はASの手下かと聞いてこそいなかったものの、凡そ少女達に振り回されながら困った笑みを浮かべる青年はオズからすれば無能そうという一言に尽きる。

日本なら普通学校に通っていそうな同居している方の少女は常に青年と行動を共にしているし、ハイスクールに通っているらしき品の良い少女は一目で上流階級の人間と見当が付いた。

無能そうな青年がどういう状況になれば、こんな生活を送る羽目になるのかとオズは日本の不思議を思わずにはいられない。

唯一の救いと言えば隣から喘ぎ声が聞こえてこないという事実であり、オズは毎日のように繰り広げられる二人の少女と青年のコメディーをBGM代わりに日夜活動を続けていた。

肴とシャンパンが尽きた頃、少女達の喧騒は消えて、隣から物音が消える。

靴音からすぐに今夜も青年と少女はいないのだろうとぼんやりオズは知った。

ソレらしい行動は青年がASと何かしらの仕事をしているからという言葉で片付けて、オズは自分の仕事へと入る。

幾つかの秘匿回線を繋いで情報を売買する。

ものの一時間でディスプレイには送った男達の情報が映っていた。

【大牙会】

男達の所属していた組織の名前が即座に出た。

脳裏を探るがまったく記憶にない組織だった。

組織に関する情報を画面越しに相手へ要求するも明日と素気無く返されて交信を終了させる。

(・・・・・・風呂にでも行くか)

仕事を明日に回してオズは近頃気に入っている日本独自の場所である【コウシュウヨクジョウ】へと向かった。

極めて稀な話だったがオズは内心で日本をもう気に入り始めていた。

 

銭湯の談話ルームでコーヒー牛乳を一気飲みするのが日本の仕来り。

そう信じて疑わない少女ソラ・スクリプトゥーラは今日も今日とて腰に手を当てていい飲みっぷりを披露していた。

「おやおや。今日も凄いわねぇ」

「ありがとうございます。おばーちゃん」

番台に座る老婆がニコニコして言うとソラが微笑み返した。

老婆がいそいそ傍らにある冷蔵庫から牛乳瓶を取り出してソラへと差し出す。

「え?」

「ほら、あの人にも上げなさいな。他の人には秘密よ?」

老婆の温かな言葉にソラが牛乳を受け取って再度礼を言って頭を下げる。

そのまま青年外字久重の下に駆けていくソラを老婆はやはりニコニコしながら見送った。

僅かに上せた様子で空いているソファーに身を沈めていた久重の頬にひやりとした感触が奔る。

「?! ソラか?」

「ひさしげ。はい」

「どうしたソレ?」

「番台のおばーちゃんに貰ったの」

「礼言ったか?」

「うん」

「そうか。悪いな」

「ひさしげ。こういう時はありがとう、でしょ?」

「・・・違いない」

苦笑して久重が立つと番台の老婆に軽く頭を下げた。

再びソファーに身を沈める久重の横にソラがそっと腰掛ける。

壁に掛けられたテレビからは旬の過ぎた芸人が失笑に近い笑いを取るのに必死な姿が映し出されている。

意識だけは横に向けている久重にソラがこれからの事を訊く。

「ひさしげ。今日はどうするの?」

「少ししたらアズと合流する。今日は怖いヤクザ屋さんとの折衝に借り出されるらしい。ジオプロフィットの地権絡みだからって話だが、まぁ・・・ただのボディーガードだな」

「ジオプロフィットの地権?」

「現実の場所への滞在で色々と利益を受けるのがジオプロフィットだ。だから、誰もが人の集まる場所や条件の良い場所を探してジオプロフィットを設定したがる。だが、一箇所に複数のジオプロフィットを置くと周辺に人が集まらない空白地帯が出来たりする。そうすると大手の広告代理店が徒党を組んだら卑怯だろって話になるわけだ。だから、設定には限界が設けられてる。つまりジオプロフィットの設定に定員があるんだが、それが利権化しててな。その場所に対しての定員に結構な金が動いたりする。そしてダフ屋行為ってのが発生するわけだ。最初にジオプロフィットを設定する気の無い連中が大勢その場所の定員に応募して、定員を獲得したら売り払う。色々な規制をしてるが巧妙にすり抜けて書類審査では落とされないヤクザ屋さんのダフ屋部門が残る事もある。今回の依頼はそういう連中から定員に割り振られる書類を回収する事だ」

「ねぇ。ひさしげ」

「それでオレ達が――」

「ひさしげ・・・」

ソラの小さな声に久重が横を見た。

「まだ、気にしてるの?」

「・・・気にしてないって言ったら・・・嘘になるんだろうな」

「ひさしげが止めてあげなかったら止まらなかったかもしれない。普通の人間や警察には勝てないし捕まえられない相手だったのはひさしげがアズに調べてもらった通り。ひさしげは正しい事をしたって私は思う」

「正しい事、か。どうだろうな・・・ただの自己満足だったかもしれない。必要な事だったとは思うが、オレはあれが正しい結末だとは思ってない」

「どうして?」

「正しい事なら人殺しをしてもいいわけじゃない。必要に迫られるから、自分の様々なものの為に誰かを殺すのが普通だ。よく戦争では兵隊に罪を問わないって言葉が使われるが、アレは正しい事をしたから罪に問われないわけじゃない。言ってる意味解るか?」

「たぶん・・・」

視線を俯かせたソラの頭に手を置いて久重が続ける。

「オレは殺す必要には迫られてなかった。極論するとあそこで逃がして関わりを絶っても良かった。それは道徳的には悪い事かもしれないが、自分が人殺しになるよりはずっとマシだったかもしれない」

「ひさしげ。あの人はもう死んでた。それを無理やりNDで繋いでただけ・・・ターポーリンの時にも言ったけど、ひさしげは死体を死体に戻しただけ」

「一種の治療薬を打ち消したって言葉の方がオレ的にはしっくりくる・・・」

ソラが久重を見上げてハッキリと告げる。

「あの人はそもそもターポーリンより酷かった。頭部の殆どが残ってなかったから・・・たぶん脳内の電気信号の動きだけをNDが擬態して人格をエミュレートして動かしてた可能性が高い。だから、ひさしげが悩む必要なんて無い。NDが人格のあるように死体を見せかけてただけなんだから」

ソラの沈んだ調子に久重が反省した。

自分の保護者であった博士とやらが創ったNDで人が不幸になった。

そんな事実を受け止めるソラの方が自分よりも辛いかもしれないと考えてすらいなかった自分の愚かさに久重は冷静さを取り戻した。

「ごめんな」

「何でひさしげが謝るの? 必要ない」

「そういう気分だからだ。それと・・・ありがとう」

そっと頭を撫でて久重が立ち上がる。

「行くか?」

「・・・うん」

ソラが自然に久重の手を取った。

「さっさと行かないとアズにどやされそうだ」

久重がおどけて言いうとソラは思わず笑う。

「アズが怒ったらどうなるの?」

「それはまぁ、知らない方がいい」

「?」

「あいつが怒ったらそれこそ合衆国大統領だろうがマフィアのドンだろうがただじゃ済まない」

互いに顔を見合わせて・・・思わず噴出した二人はそのまま外へと向かった。

 

二十一世紀も半ばを過ぎた日本では二十四時間開いている火葬場も珍しくない。

そんな場所の一角、チラホラといる人々の端で青年と少女が暗闇を見つめながら他の人々と同様にその時を待っていた。

風御とセキ。

二人の間にはもう一時間以上会話が無かった。

「ありがとう・・・」

ポツリとセキが呟き、風御が不思議そうに訊く。

「何で?」

「きっとあの人も嬉しいと思うから・・・」

「死人は何も思わないでしょ」

「それでもきっと・・・」

「これはただの感傷。それは誰だって解ってる」

「・・・・・・」

「日本じゃ死ねば誰でも仏ってね。形の上で死者に敬意を払ってるだけさ」

「あたし、あの人と少ししか話さなかったんです。でも、あの人はあたしにとても優しくしてくれた」

目に見えて落ち込んでいる少女を前にどうしていいか風御には解らなかった。

傷ついた女を慰める方法なら知っている。

一人ぼっちの女を立ち直らせる方法も理解している。

しかし、風御には落ち込んでいる少女の扱い方が解らなかった。

どうしてかと己に問い掛ければ少女のような無垢な人間とは縁が無く、汚れた人間ばかり見てきたからだとの連れない答え。

「日本人の男を誘拐して達磨にして弄んでたにしては?」

セキが無神経な風御の発言にキッと顔を上げる。

「君だって解ってるはずだよ。セキちゃん」

「そんなの・・・解りません」

膝の上で拳を白くなるまでセキが握り締める。

「最後に残った事実は彼女の境遇が不幸で、彼女は他人を不幸にする人間だったって事だけだ」

「―――――」

「あの刑事に根掘り葉掘り聞かれた時、僕は納得した。そして、幾らかの事情も知った」

「あの人は!? 移民だったから!」

「移民だったから不幸だったし、移民だったから人殺しをした? 違うでしょソレ」

「あなたはどうして!!」

セキがやり場の無い怒りに泣きそうに風御を睨む。

「僕にとって事実と真実が違うものだから、かな」

「事実と真実って何ですか!?」

周囲に他の人間はいなくなっていた。

「彼女は不幸になりやすい移民て立場で偶然その不幸のど真ん中に落っこちた。彼女は不幸の中で誰かを不幸にする道を選んで他人を虐げる側に回った。それが君の目を逸らそうとしてる事実」

「なら、真実は?!」

「彼女は僕と出会って女の喜びを知った。そして、彼女は君っていう仲間を得て、時間を少しだけ共有した。僕と君の真実はそれしかない」

「それが真実だって言うんですか?」

「それで十分じゃない? 世間では移民の猟奇なサイコ女が不幸な過去から日本人を襲ったって話になってる。別に間違ってないし正す必要も無い。けど、僕と君に残された真実は他の人間とは違う。彼女は普通に笑えたり誰かを思いやったりできる人間で、ほんの僅かな時間かもしれないけど、共に交わった」

「それが・・・真実なんですか・・・」

「君はそれ以上の真実が必要だと思う? 僕はごめんだよ。彼女は「どうしようもなかった」から僕と出会った。僕と出会ったから彼女も君と出会った。それだけが価値ある真実ってやつでいい」

「あの人は優しかった・・・優しかったんです・・・・・・」

ギュッと風御の胸を掴んで少女が頭を預けて嗚咽する。

「ああ、知ってる」

声を押し殺して泣く少女を前に何もしてやれないから、風御はただされるがまま胸を貸す。

「一つだけ確かなのは彼女が最後に笑ってたって事さ」

「・・・見たんですか?」

「一応、死体を引き受けたから見られる事になって、ちょっとだけ」

「あの人は笑っていましたか?」

「頭部も無ければ手足も無い。それでも彼女は笑ってた。ホント羨ましいぐらい綺麗に・・・だから、僕は彼女を笑って見送る事にする。彼女に僕と君が出来る最後の事はそういうのでいいんじゃない?」

見上げてくる顔の涙をスーツの袖で拭って風御は笑みを浮かべる。

それを見つめてグッとセキが涙を押し殺した。

何度も失敗しながら、やがてボロボロな笑みを浮かべる事に成功する。

「それでいい。そっちの方が可愛いよ。セキちゃんは」

「ちゃん付けしないでください・・・」

その泣き笑いの少女をそっと立たせて風御が迎えに来た施設の人間に向かい合う。

「ご遺体の方を冷まし終わりましたので・・・」

「はい。すぐに」

そう言って風御がセキに手を差し出した。

「今日、君は一つ大人になった」

「大人になったらからって、良い事がありますか?」

「何にも無いよ。けど、誰かの為に笑顔を浮かべられるなら、それはきっと素晴らしい事だから」

差し出された手を取ってセキが歩き出す。

長い廊下を歩く傍ら、風御の手が大きい事にセキが気付く。

ナヨナヨした印象しかなかったはずの男が自分よりずっと大きいのだと初めて知った気がした。

「あの人は・・・天国に行けたんでしょうか」

「宗教なんて当てにならないと相場は決まってる。僕が信じるのは一つだけ」

風御が静かに答える。

「彼女は僕の人生で背負う一人になった。だから、天国でも地獄でもなく彼女は僕の中にいる」

「ロマンチストなんですね」

「いや、ただのオプティミスト」

「楽観主義なんて、あなたらしいです」

風御が皮肉げに笑った。

「神は土から男を創り、男の肋から女を作った。最後の審判の日、人は裁かれ信仰ある者は天国に信仰無き罪人は地獄に、そう宗教家達は説く。けど、死んだ人間は日本なら灰になるしかない。最後の審判で甦りなんてしない。灰は何も語らないし、灰は何も喋らない。焼け残った骨すらやがては風化する」

「なら、何が残るんですか・・・」

「決まってる。記憶だよ」

「だから、自分の中にいる・・・?」

「僕にとって彼女はそんなに重要な人間じゃない。それでも忘れられない人になった」

「・・・あたしも、です」

目の前にある扉が施設の人間の手で開かれる。

その先には白い台の上にただ白い粉の塊だけがあった。

風御は内心で少しだけ安堵する。

少女にまだ人の骨を拾わせるのは早い。

それはもう少し少女が歳を重ねてからでいい。

そう思う。

「大丈夫?」

「はい」

しっかりと手を繋いで風御とセキは一歩前に踏み出した。

 

此処では無いどこか。

今では無いいつか。

彼女は一人空白に佇む。

「・・・・・・・・・・」

彼女の人生の大半は哀しい事や辛い事の方が多かった。

だからか、彼女はいつの間にか信じていた。

自分は移民だから、ガイコクジンだから、肌の色が違うから、日本人じゃないから、貧乏だから、「どうしようもない」のだと信じていた。

「・・・・・・・・・・」

けれども、彼女は知ってしまった。

人は違っても分かり合えるのだと。

大好きだったデパートの屋上で一人寂しく思っていた彼女に声を掛けてくれた人がいた。

最初、彼女はその人が自分を日本人と勘違いして話し掛けて来たのだと思った。

しかし、その人は彼女に最初にこう言ったのだ。

『移民なのに此処が好きだなんて変わってますね』

それから彼女は何かに導かれるようにその人と話した。

沢山、沢山。

その人は優しい瞳で頷いては話をずっと聴いてくれた。

まるで夢のようだったと思う。

ずっとずっと酷い事ばかりだった人生の中で兄以外に安らげる人を初めて見つけた。

「・・・・・・・・・・」

その人の近くで安らいで、また別の人と出会った。

今度は自分と同じ「自分」を見つけた。

その瞳は昔の自分だった。

本当に信頼出来る人以外は拒絶して他の何もかもを敵視してばかりいた。

それでも絶望をまだ知らず、それでも愛するという事を信じていた。

遠い過去の自分に彼女は思った。

こんな自分なら、その人に本当の安らぎを与えられるのだろうと。

何もかもを絶望して、全てを失って、誰かを虐げていく事でしか、自分を保てない。

抜け殻のような自分より相応しいのではないかと。

「・・・・・・・・・・」

彼女はその人の下を去る事にした。

寂しくて寂しくて彼女は兄を求めた。

そんな彼女が最後に出会った人はとても優しい人だった。

その人は彼女に醜さを教えてくれた。

彼女が目を逸らし続けたものを指摘してくれた。

終わりもなく苦しみ続けた人生に最後を与えてくれた。

「・・・・・・・・・・」

彼女は思う。

空白の最中で思う。

人は分かり合える。

赦し合えなくても、どんなに醜くても、争っていてさえ、その努力を放棄しないならば。

「・・・・・・・・・・」

彼女は啼く。

空白に呑み込まれながら一人啼く。

自分の罪に、自分の境遇に、自分の愚かさに、自分の醜さに、自分のどうしようもなさに、啼く。

やり直せたらと、未練だらけだと、死にたくなんかなかったと、それでもどうしようもないから、啼く。

「・・・・・・・・・・」

 

彼女は思った。

 

たった一つの願いを。

 

また、いつか、会いたい。

 

そんな刻を、そんな世界を思い描く。

 

胸にした言葉を抱いて彼女は笑みを浮かべ終わってゆく。

 

「・・・・・・・・・・」

 

最後の、最後の最後の、最後の最後の最後に、彼女は確信した。

 

結局のところ、自分は今幸せなのだろうと。

 

それが彼女に残った最後の真実なのだろうと。

 

「ありがとう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

空白にはもう誰もいない。

 

ただ、言葉の余韻だけが、終わりもなく、空白に、響き続けていた。

説明
終わりの中、彼女が見つめたのは・・・・・・。
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