桃の花 |
櫻が八分方開いて、そろそろ春の訪いが確かになろうという時分だった。十二歳になった武智麻呂は父より白足袋の若駒を貰い受け、それは嬉しげに騎乗し、都のあちらこちらへ出向いていた。冬には例の如く床に臥せりがちだったが、父からの思わぬ賜り物に、思わしくなかった体調もすっかり好転した。暖かくなってからこちらは、朝方に四書五経を読み、昼間は専ら馬を乗り回していた。遠乗りに行きたいとも思ったが、山の方はまだまだ寒い。それに邸の女達は、元来病弱な彼が遠出をするのを嫌がった。もう十二歳だと幾ら言ったとて、まだまだ十二でございます、と簡単に返されてしまっては為す術もない。それに無理をして遠乗りに行ったとして、体を悪くして帰って来たら、もう二度と馬に乗せて貰えない様な気がしていた。皆、過保護だった。或いは藤原の、内気で折り目正しい長子が可愛くて仕方が無いのかもしれないけれど、そろそろそれが煩わしいものと感じる時期だった。 花曇りの天候を気にする事も無く、颯爽と広い道を駆け抜ける。もうじき移ると聞き及ぶ新しき京は、何でも周礼に著された様な、自然の理に叶う立派なものであるらしい。未だ政に参じて居らぬ武智麻呂の耳に入るくらいに、新しき都は噂の種となっていた。区画が一定の路や家々。中央の壇上に坐す宮。これまでとは比較にならぬ程の広大な規模。武智麻呂の想像する新しき都からは、何かえも言えぬ文華の薫りが、馥郁と感ぜられる様であった。
「桃の花はまだ先であろうなぁ」
見事な枝振りの櫻の木の下、しかし考えたのは桃の花の事であった。武智麻呂は桃の花が好きだった。唐の文人は梅を愛で、倭の歌人は櫻を尊ぶが、彼にとって桃の花以上のものはあるまいと思われた。香りも、華やかさも、またその実も、或いは捻れた枝も、彼の愛おしく思うところだった。桃は神仙の世、別天地への入り口であると言う幻想が、彼を虜にしたのである。 陶淵明の詩、桃源郷の物語は美しかった。それは瑞々しく彼の心に響いた。病床で読んだ物語は、異国(とつくに)のそのまた向こうの事。高い熱が出ると、時に魂があくがれ出でる様に感じる事があった。三魂七魄の結びつきが弱いから、体が丈夫にならないのではないかと、夢見がちな少年は半ば本気で考えていた。彼の束縛を厭う魂は河を伝い、海を越え、陸地へ寄せ、山を越え、滝をくぐり、岩棚に沿い、遂に桃の林の奥に遊ぶ。花籠を持った仙女、羽扇を持つ老人、笙を吹く童子、羊脂(ひすい)の佩玉、真紅の飾り紐、青氈の褥、爛漫の春、酌み交わされる濁酒。そんな寝目(いめ)を見る。咳も、足先の冷えも、眩暈も、頭の疼痛も、燃える様に熱い胸も、苦しげに鳴る喉笛も無い。あれを幻と言うのなら、幻は幸いという名に違いなかった。
「借問游方士、焉測塵囂外」
弾んだ調子で声を出してみる。声変わりし切らない、些か掠れた音がしたけれど、満足だった。
「願言躡輕風、高舉尋吾契」
詩の先を継ぐ涼やかな声に驚いて、武智麻呂は馬首を巡らせる。目に映ったのは、あえやかな錦を纏う青年の姿。後ろの舎人に、大きめの鞍を置いた漆黒の馬を引かせていた。やや焦って下馬し、道を譲る様に一揖する。しゃちこばった様子が可笑しかったのか、青年が頭上で笑う気配がした。ちら、と視線を上向けると、目がかち合った。秀でた額が深慮を思わせ、また引き締まった唇が教養を感じさせる。けれどどうしてか武智麻呂は、眉間の麗しい人だ、と思った。やや太く引かれた眉と鼻筋が、一木造の彫刻を思わせた。
「櫻の下で桃を詠うとは、余程物好きと見える」
悪戯っぽい口調だったが、寧ろ誠意を感じる物言いに、武智麻呂はほっとして面を上げる。微笑みを湛えた青年の表情は謎めいていた。
「我々は冬の中に春を見出し梅を眺め、また春の盛りよと櫻を愛でるが、汝はそれとは違う様な」
のんびりとした口調で、問うて居るのか独白なのかもあやふやな物言い。武智麻呂もどう答えたものかと思案したが、青年は答えを急く素振りも見せなかった。
「吾は――信じて頂ける様な話かは分かりませぬが、桃園に遊んだ事が度々ある様な気が致します。それは熱を出して臥せって居る時で、そう言った際には何と申しましょうか、魂があくがれ出で仙境へと赴き、笙の音を聴いて桃の林を眺めて居る様な気がするのです」
誰かに話した事も無かった事だったけれど、この不思議な青年には、どうしてか通り一遍の事を言うだけの気が起きなかった。それは青年が余りに真っ直ぐに眩しく見えたせいでもあっただろうし、その邪気の無さが武智麻呂の警戒を弱めたせいでもあっただろう。そしてその様な一笑に付すにも値しない話を聞いても、青年は至極当然と言った具合に、深く頷いた。
「さぞ美しかろうなぁ。汝の魂は、真に麗しきものを良く知って居るのだな」
莞爾と笑むと、青年は櫻の低い枝を折りとり、舎人に手渡す。馬を残して先に行け、と命じると、他言無用の態で無頓着に樹の根本へ腰を下ろした。舎人は馬の手綱を手近な枝に括り、一揖して去る。
「座らぬか?それともこの様な処は憚られようか」
武智麻呂には地べたに座る等初めての事だったが、不思議と嫌な気にはならず、馬の手綱を櫻の幹に結ぶと其の儘すとんと隣に腰を下ろす。隣の青年の袍の裾が割れて、鮮やかな刺繍をした裳が見えた。華美な衣を好む様な男を、武智麻呂はこれまでに見た事が無かった。勿論朝廷にはそういった風流人が居るという事は何となく知って居たし、また女が着飾るのが如何に好きであるかも分かって居た。けれど絢爛な錦に身を包み、かつそれが自然と似合う男が居る事が驚きだった。そしてその華やかさに対して、青年には驚くほどの清新さが伺えた。その二つすら相反するものではなく、それがまた武智麻呂を驚かせた。華美と豪奢に埋もれる者は、さぞ栄華に倦み疲れた鈍重な者だろう、また或いは権威を振りかざす様な恐ろしき者だろうという思い込みが、彼の何処かにあった。その思い込みは勿論書物から齎されたものであったし、実際彼は書物の世界にしか生きて居なかった。そういった意味で、彼は世間知らずだった。一つ下の弟の方が、子供なりの世間を知って居るのだという事も、彼は何となく分かって居た。弟は健康で、書物よりも年頃の男の児らしく剣術を好んだ。幼い頃に武智麻呂は近寄らせても貰えなかった庭先で蛙を捕まえ、池に足を浸し、怒られても堪える事無く遊んで居た。羨ましいという訳では無かったけれど、これまで武智麻呂にとって現実という世界は――いつか入って行かねばならない世というものは、中途半端に遠い存在だった。けれどこの青年が座って居る様子、裳の模様、浅靴から覗く肌の色、冠からこぼれる髪一筋、それ等が彼にとっての現実を強くした。幻と違う論理で働く世界がある事、書物の中と違う言の葉で語られる世が在る事を、彼は唐突に感じ取ったのだった。
「――目の前に広がる世を」
唇から、ぽろりと言葉が零れ落ちる様な具合だった。武智麻呂自身、驚きながら言葉を口にする。何を話そうとして居るのかが分からなかった。己に焦り隣を見ると、凪いだ瞳がある。上手く言う必要の無い事が分かると、その途端に焦りと無言の呪縛は去った。
「吾の目の前に広がる現の世、吾がこれから生きて往かねばならぬ世を、捨ててはならぬと思うのです。けれど、吾は何とは無しに煩わしくも思うのです。幻の世で、吾は咳もせず、熱も出さず、胸の苦しみも頭の痛みも無く、安らかに居ります。寝目に見る仙境が慕わしい。けれど矢張り吾は、こちらへと還らねばならない」
あの世界が、本当の還る処ならば良かったのに。高熱が引き目が覚めると、其処は見慣れた薄暗い寝台。不安そうな付き人の女の表情、呼ばれて重々しく入って来る薬師の皺枯れた声。耳鳴りがし、血の気が引いた様に指先は冷たく、けれど胸は燃える様。魂は還る処を心得て居る、それがとても悲しい。時たま、庭先から弟の声がする。お辞め下さい、という制止も聞かずに走り回る音。やあ、とう、という掛け声。この世で生きている、命が脈打つ音がして居た。けれど己の中で、魂は今にも離(さか)らんとむずむずして居る。いっそ連れて往け、と居もしない案内人に密かに乞うた。
「吾は、弱き者でしょうか」
長くなって来た下げ美豆良を指で梳る。沈黙に耐えられそうに無かった。妙な事を言った自覚があった上、余りに不合理で我儘な内容の様な気がしたのだ。けれど沈黙は飽く迄穏やかに、そして唐突に破られた。
「影と」
穏やかな沈黙を破った青年の声は、意外な意味を象って立ち現われた。はっとして武智麻呂は面を上げる。若き貴公子の目は柔和ながら澄んで居て、墨を磨る時の様な心持になった。ややあって、に、と頬を崩して彼は笑い掛けて来る。気恥ずかしそうな、存外幼い笑みだった。
「吾は幼い時、影と良き友だった。夕暮れ時になると、影は細長くなるだろう?吾よりも足等数倍も長くてな、共に競って家まで帰ると、何時とて先に影が着いていたものだ」
ぽかんとして聞いていると、青年は可笑しそうに笑う。真の事よ、と言うと櫻の幹に背を預けて、少しばかり横着な姿勢になった。
「誰にもその事は話さなんだ。何とは無しにだが、分かっては呉れぬ気がして居った故な。但馬にも話してはみたが、笑われただけだった」
但馬、と呼ばれた者は、この青年にとって大切な人であるらしかった。響きが其処だけ重みを含んでいた。若しかすると、もう会えない人なのでは無かろうか、と武智麻呂は想像する。その様なものの香る口ぶりだった。
「いつの日からか影は動かなくなった。吾はそれに後から気付いて、随分と気を落としたものだった。言うなれば、影と心を通わせるこつを忘れてしまったのだろう」
春お決まりの東風が吹いた。袖を膨らませ、花弁を巻き上げて去って往くそれ。挨拶をされた様な気がした。
「汝も、いつの日か熱を出さなくなり、桃源郷に遊ぶ事が出来なくなるやもしれぬ。魂はその身にしっかと食い込み、どんなに苦しき恋をしようと彷徨う事等無くなるやもしれぬ」
青年は麗しい眉間を仄かに切なげに歪める。
「けれど若し叶うならば、その魂を遊ばせよ。心の赴くままに、麗しきもの、真なるものに遊ばせよ。吾は苦しき想いを胸に抱える内に、影と心通わす術を無くしてしまった。小さき事なのやもしれぬが、吾にとっては酷く惜しく、悲しく、手痛い事であったよ」
青年が、百歳(ももとせ)の翁に見える様だった。彼は何かに、確かに敗れていた。超然として捉え処の無い雰囲気も、若さを捨てた故と武智麻呂には思われた。彼の影は何処か遠い処へ旅立った仕舞ったに違い無かった。彼を置いて、彼の苦しみを置いて。苦しみが彼を大人にした。そして一足飛びにそれを通り過ぎ、彼は老いてしまった。水の江の浦島の物語の様に。
「幻の境に遊ぶ者を、そしてそれを慕わしく思う者を弱いと感ずるは、世が一つきりしか無いと思うて居る輩よ」
そう言い放つ彼は、既に青年に戻って居る。武智麻呂は不思議なものを見た様に思ったが、それもまた異なる世の在り様かと思えば得心がいった。
「汝がこれから世に出づれば、その様な輩は掃いて捨てるほど居よう。何も奴らの前で麗しき桃の話をせずとも良い。それは汝の心の最も奥、最も清き処に住まわせる思い出故な」
そう言って微笑む青年と、こうして櫻の樹の下で話して居るという事。東風が吹き、花弁が散り、錦の模様、裳裾の刺繍、ほつれた和毛(にこげ)、秀でた眉間、薫き染められた香、馬の息遣い、根の感触、それら全てを現に享受するという事。その否応も無い、疎んだ筈の現の世がこんなにも麗しいものだという事が、武智麻呂の胸にひたひたと押し寄せた。 寝目を見て居る様だ、と彼は平凡な感想を紡ぐ。いっそこの光景が、熱に浮かされた幻ならば得心がいったであろう。彼の心中には一抹の懐疑が在った。いつとて、その懐疑こそが彼を現に引き戻して来た。けれど此処は彼の本当に戻る処の筈だった。ならば、と武智麻呂は慎重に結論付ける。この青年は今此処に居て、そしてそれなのに驚く程、幻に近い。
「――あの」
考えあぐねて、武智麻呂は少しずつ冷え込んで来た空気を破る。青年はゆったりとこちらを向く。膝に肘を立て、その上に顎を預ける姿は一幅の絵を思わせた。
「貴方は――この世の方に相違ございませぬか?」
言ったら最後、天に飛び立ってしまいそうな雰囲気をして居たから、それを口に出すのは存外勇気がいった。だが意外にも青年は驚いた様に眉を跳ね上げる。少しの静止の後、耐え切れなかった様に哄笑する。その様子に逆に武智麻呂が驚くと、済まぬ済まぬ、と肩を叩かれた。
「いや、済まぬ。成程、吾も少しは自惚れて良い様だ。その様に世離れして見えたとは」
謎めいた言葉を口にして、尚笑いながら立ち上がり花弁を叩き落とすと、青年は黒駒にひらりと跨る。鈍い嘶きに合わせて首を撫でて宥めると、こちらを振り向いた。
「何、中々楽しきひと時だった。汝が言う通り吾が仙境の住人に見ゆるならば、名乗らずとも良いだろう。いずれ復た逢う予感もする故」
ぴし、と鞭を当てる音がする。馬は軽い調子で駆け出した。武智麻呂は何を言えば良いか分からず、その後ろ姿に謝辞を述べた。右手を挙げてそれに応える挙措のみが見え、後は春霞がそれを隠した。
ひょう、とまた東風が吹く。少し寒い。花弁が散る。夢の心地は未だ続いて居た。彼は一体誰だったのだろう。高貴な身分には違いなかったが、それだけの人でも無かった様に思われた。思い返すと、彼も武智麻呂が何者であるかを訊かなかったのが不思議だった。瑞々しく大らかな青年にも、また達観した翁にも見えた男は?み処無く。彼自身、余り何かに拘らない人物なのかもしれない、だから己の名さえ訊かなかったのかも、と武智麻呂は思う。未だ瞼の蔭には様々な残像が、鼓膜の裏には様々な残響が跡を留めていた。己の二の腕を?むと、微かに震えて居る。
「借問游方士、焉測塵囂外、願言躡輕風、高舉尋吾契」
恭しく桃源郷詩の最後の部分を唱えると、正面を向いて、深く呼吸をした。名残惜しいがそろそろ帰らなくては、と武智麻呂も手綱を解き馬に跨る。途端に視界があわあわと揺れた。嫌な予感がする。馬を促して走り出すと、どんどんと手に力が入らなくなる。頭が痛い。前かがみになって、兎に角見知った道をまっしぐらに邸へと向かった。いつもと同じ筈の道なのに、無味乾燥で、長いものに感じる。雑然とした家々や柵、土塀、黄土色の地面、どんよりとした空模様。午前中よりも一層重苦しいその色は、雨の到来を予感させて武智麻呂を恐怖に陥れた。馬は従順でしっかりとした足取りではあったけれど、その速度はどんどんと遅くなり、鞭を当てようと思うも、いつからか右手は空だった。視界は揺れ、脳裡はがんがんと反響し、音は撓んだ。先程感じた寒気は全身に広がり、手綱を引く手はかじかんで動かない程になって居た。胸が痛んだら、もう動けない事は分かって居た。それ迄に何としても帰らなければならない。けれど麗らかな午後なのに、不思議と周囲に人通りが無かった。助けも求められない。冷静に判断できないぼんやりとした頭で、武智麻呂は必死に考えた。此の儘何処かで耐えて居ても、苦しくなるばかりなのは目に見えている。けれど邸までまだ大分ある。これ以上進むのが無理なのも自明だった。人目につく処に転がって居れば、誰かが助けて呉れるものだろうか。それとも卑賤の者の目に留まり、身ぐるみ剥がされるだけだろうか。それに雨の心配もある。これで雨に濡れたら確実に死んでしまうという確信があった。
馬がぶるりと震え、遂に足を止めた。左手に芝と、柳が立ち生えている。芽吹いたばかりの葉が柔らかそうだったし、芝は土よりは優しい褥だった。雨は防げそうに無いが、これを見逃したら、もっと悲惨な場所に行き倒れる事になるのは必定だろう。お前は賢いな、と馬の首を優しく叩いてやると、誇らしげに嘶く。殆ど落馬する様にして芝に転がると、手綱を非常な努力の末、幹に結ぶ事に成功した。そのまま芝に伏せ、海老の様に丸くなって目を閉じる。胸が熱く感じられた。寒い。酷く寒い。遠い異国へ冒険をして来た様な気がした。その想像が彼を大胆にさせた。だから後先等考えず、ままよ、と半ば自棄になって意識を手放す。夢は見なかった。
目を覚ますと、其処は慣れ親しんだ寝台だった。己は柳の木の下で寝ていた筈だろう。それともあれすら寝目だったのだろうか?けれど芝のちくちくとした感触や、寒気や、馬の嘶きが嘘だったとは思えなかった。訝しんで寝返りを打つと、頭に鈍い痛みが走る。うう、と呻くと額から濡れた手巾が落ちる。それを載せ直すと同時に簾をくぐる音が聞こえた。大儀してそろそろと寝返りを打ち、部屋の入口の方を向くと、父がやって来るのが見える。無理をして行き倒れたのだから、きつい雷を落とされるか、仏頂面で心配されるかのどちらかだろうと考えていると、後に思わぬ人物が続いて居た。例の青年だった。何か小さな包みを手にしている。驚いて何も言えずにただ見つめて居ると、父が小さく笑って客人に倚子(いし)を勧め、自身も腰掛けた。
「武智麻呂、まずは皇子殿に礼を言わねばならんぞ。皇子殿が汝を助けて下さったのだからな」
父、不比等が青年を示して武智麻呂に言う。けれどその声は何処となく笑いが混じったもので、その様子が武智麻呂を益々困惑させた。上半身だけでも起き上がろうとすると、矢張り頭が痛んだ。隠そうと思ったけれど上手くゆかず、青年がやんわりとそれを制止した。
「礼には及ばぬ。寧ろ、一度別れた時に気付ければ良かったのだが。赦せよ」
済みませぬ、と言うに留めて、この不思議な青年を再度見遣る。皇子殿、と口の中で反芻する。どうして己が藤原の家の者と分かったのだろうか。目がそれを訴えて居たのだろうか、青年は可笑しそうに笑むと、軽やかに口を開いた。「不比等殿は知って居られましょうが、まるでご子息は狐につままれた様ですから、一つ成り行きを説明して宜しいでしょうか」
不比等は鷹揚に頷く。青年は武智麻呂の方に向き直った。
「さて武智麻呂殿、まずは話を混乱させぬ為にも、吾が名乗る必要がありそうだ。吾は穂積と言う。汝の従姉の但馬皇女に横恋慕してな、今は亡き高市皇子様や、汝の御父上にたんまり迷惑を被せた者よ」
抜けぬけと言い放つ様子に、武智麻呂は思わず父を見る。不比等は苦笑して何も言わなかった。
「順を追って話そう。汝と別れ、吾はそもそも不比等殿を訪ねる心積もりだった。藤原の邸へと進んで行ったのだが、何せ初めてで少々路に迷うた。暫くしてから見知った路に出で、これで安心と進んでいると汝が柳の下で倒れて居てな、放っても置けずにとりあえず汝の馬に乗せ、さてどうしたものかと考えた」
寝台から見ると、錦の袖口がきらりと光る。覗いた裳は矢張り見事な刺繍だった。寛いだ様子で、袍の襟を少し肌蹴させて裏地を見せているのが尚更風流に見える。その裏地も見事な唐渡りの織物で、臙脂の地に細かな模様が織り込まれて居た。
「まず吾は藤原の邸へと赴く途中よ。汝が何者かは知らなかったが、そうそう身分の低い家の者でもあるまい。まさか路で行き倒れて居た良家の子息を見て、藤原の家の者も無下にはすまいと踏んで、汝をそのままこの邸へと連れて行った。するとどうだ、何とこの家の長子と言うではないか。帰宅されたばかりの不比等殿に随分と恐縮されて仕舞い、邸は看病にてんやわんやでな。早々に退散して二日、またこうして赴いたという訳なのだ」
呆気にとられて武智麻呂は聞いていたが、やれ恥ずかしいやら申し訳ないやらで耳と頬が赤くなるのを感じた。穂積皇子は悪戯っぽく笑うと、くだけた様子で脚を組む。
「あの白足袋の馬は、不比等殿が与えたもので?」
「ええ。この子は生まれつき身体が弱く、何事もまるで老爺の様に慎重でして、このままではならぬと思いましてな。馬でも与えれば少しは外に出て無茶の一つもするかと」
存外早くやりおって呉れましたが、と冗談半分に言って破顔する。武智麻呂は珍しいものを見る思いで父を眺める。その様に思う父であった事を、今まで知らずに居た。
「あの馬は賢いな。倒れている汝に寄り添って、鼻先で撫でて温めて居った。大事にしなされ」 穂積はそう言うと、立ち上がって武智麻呂の枕元で膝を折る。手にして居た小さな包みを解いて見せた。陶器の壜が姿を見せる。ほんのりと甘い香りがして、昂ぶって居たものが休まる心地がした。
「蜂蜜をと或る筋より手に入れたので、見舞いに丁度良いと思うて持って来たのだ。湯に溶いて飲むと病に良いし、寝付かれぬ時にも利く。貴重なもの故、弟御に知られぬ様に心せよ」
そう言って武智麻呂の頭を一つ撫で、莞爾と笑む姿は矢張り幻の様な雰囲気を漂わせていた。何か言おうとしたのだけれど、それは喉の奥に留まって、代わりに穏やかな眠気がやって来た。額に手巾の代わりに載せられた手は、丁度良い温とさだった。今は亡き沙門定慧、病によって若くして死んだ不比等の兄の話を、武智麻呂は朧気に思い出す。歳の離れた弟だった不比等とは、殆ど一年程しか共に過ごさなかったらしいが、父は今でもその思い出を大切にして居る様だった。何くれとなく優しく、頼もしい兄であったらしい。兄が居たらこんな風なのだろうか、と穂積の清新で典雅な挙措を思った。幻の様な雰囲気を思った。心の内のもう一つの世を、受け入れ励まして呉れる方が居て良かった、と武智麻呂は心強く感じる。桃園に遊ぶ寝目を見るだろう。そして今日からは、熱を出さずとも魂は遊び出づるに違いなかった。それで良いのだ、と穂積の声が聞こえる気がする。
「かたじけのう御座います、皇子様」
桃源郷が見える。笙の音が響く。清冽な小川に散る桃の花弁。けれど仙女も、老爺も、童子も居なかった。武智麻呂はいつの間にか白足袋の馬を引いて居て、桃の林に迷い込んだ。麗しさにぼおっとして、あちらこちら、迷う事も恐れずに歩き回る。四肢は快活で、風は暖かだった。あちらの木、こちらの木の蔭を覗いて見るも、矢張り誰も居なかった。
『誰も居られないのだろうか』
不安には思わなかったが、残念に感じられた。桃園の広さはとんと分からず、歩いても歩いても果ての無い様に思われた。小川に沿って歩いてみようと思い立ち、くねくねと折れ曲がった川に即いてゆく。最初は水に浮く花弁の鮮やかさに見惚れていたものの、変わり映えの無さに飽きが来た。笙の音だけは変わらずに響く。誰が吹いて居るのだろうと思ったものの、何処から聞こえるのかが判然としなかった。これだけの木の多さでは当然の事かもしれないし、また現とは道理が違うのかもしれなかった。
『どなたか、居られませぬか』
寂しく感じて、思わず大きな声で呼ばう。己の声が響くのみで、辺りは笙の音を除けば沈黙の裡に在った。落胆して、緊張感を持たずに歩き続ける。桃の花弁を浅沓が踏む。馬が小さく鼻を鳴らす。足袋を履いたしなやかな脚をぴたりと止めたので、武智麻呂は訝しんで馬を見る。視線が左を向いて居る気がして、釣られる様にして左手を見る。
『あっ』
思わず声を上げた。木の根元に影が在る。それも人の影だった。ひょうきんな光景だけれど、更に驚いた事には、影が手を振っている。こちらへ来い、という合図にも見えた。
『ついて行こうか』
馬に問い掛ける様に目を向けると、脚を動かす気配がした。是、という事と了解して、大人しく影へと近づく。影も頷く様にして動き出した。案外敏捷な動きをしたから、武智麻呂は影を追うのに難儀した。桃の木陰を縫う様に進む。笙の音は段々と大きくなる様だった。 突然、強い風が吹く。沢山の桃の花弁が舞い上がって、淡い青空へと運ばれてゆく。恍惚として見入り、その景色に心を浸した。己の見る寝目は、己に優しい。けれど目を離した隙に、影は消えて居た。
『あれ』
不安に思い、また奇妙にも思って、恐る恐る周囲を見渡す。と、先程よりも鮮明に耳へと響く笙の音。すぐ近くなのは確実だった。馬を引き、あちらこちらと進んで行くと、或る木蔭から緑色の裳が見えた。金糸の縫い取りが華やかで、それが何者なのかが直ぐに分かる。ゆっくりと近づいて見ると、脇の火鉢で笙を炙って居る穂積が見えた。
『皇子様もこちらにいらしたのですか』
思ったよりも嬉しげな己の声に、武智麻呂はは少し気恥ずかしくなる。穂積はと言えば幻に在って尚幻の様な佇まいで、敷かれた不思議な色の毛氈へと武智麻呂を促す。手綱を枝に掛けて毛氈に座ると、穂積が小さく笑んだ。
『汝の魂が見えた気がしたので、続いて来たのだ』
矢張り不思議なお人よ、と思って武智麻呂は首を傾げる。
『その様なものを御覧になるので?』
『吾も初めての事故、真かどうか判じかねたがな。何事も無く着けたのだがら、まあ間違っては居らぬだろうよ』
素晴らしき眺めよな、と穂積は嬉しそうに言う。はい、と返すと、暫し其の儘無言だった。もう、この幻の世では、言葉等要らぬ程に満ち足りて居た。
『願くば輕風を躡み、高舉して吾が契を尋ねん――か。陶淵明が切に願った境地に、汝は瞬きををするが如く行き来するのだな』
『けれど皇子様も、此処では影を動かして居られました。道案内をして頂いて』
『ふふ、あれと遊ぶのは久しぶりでな。どうして、中々楽しい』
そして、と言って穂積は武智麻呂の肩を叩く。
『汝はこちらでは随分と饒舌だ』
当たり前なのやもしれぬが、と笑いかける姿は頼もしい。兄、という言葉が去来する。
『――はい、此処が…この桃園が、吾の心が思い描く世に御座いますれば』
『麗しいな』
『幻は麗しいものと決まって居りますから。桃も、小川も、空も、笙の音も。吾には皇子様も、そういったものに見えたので御座います』
含羞む様に笑う気配がする。可惜、と穂積は上擦った声で呟く。瑞々しい青年は笑って居る様で、けれど皺枯れた翁が泣いて居る様で。
『吾も未だ、童で居れば良かったものを』
また、大きく風が吹く。花弁が舞い上がり、二人の眼前を桃色で染め上げる。馬の嘶きが聞こえる。破邪の木の只中、塩辛い涙が落ちて染みを作った。一切が幻の中で、只一つ、それだけは彼の真実だった。武智麻呂はそれを想像して、けれど見返す程生意気にはなれず、只目を瞑る。暫くすると、凛とした笙の音が響き出した。桃花の眠りを醒ます音だ、と彼は思った。
了
説明 | ||
穂積皇子と藤原武智麻呂少年。武智麻呂が幼い頃、穂積皇子にその学才を認められたというエピソードを何だか凄く膨らませて。■少年の成長を書きたかったのに、とんでもない脱線かつファンタジー展開にご注意。武智麻呂のキャラが決まって無くて、設定ばかりがふらふらして居ります…。 | ||
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歴史創作 穂積皇子 藤原武智麻呂 | ||
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