ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都 第一章02
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 ーー京の都は、その成り立ちからして呪われている。

 

「ま、これは石流君からの受け売りだけどね」

 二十里海は艶のある唇から舌先を覗かせると、軽く片目を瞑ってみせた。生徒達をぐるりと見渡すと、京都出身の安倍以外は、皆怪訝そうに眉を寄せている。

「どうして呪われているんですか?」

 教卓正面の席に座ったシャーロックが、素直に疑問を口にした。大きく首を傾げた姿勢のまま、興味津々に二十里を見上げている。その横では、コーデリアが頬を小さくひきつらせていた。どうやら二十里の言葉を額面通りに受け取って怯えているらしい。

 一方でその隣りに腰掛けたエルキュールは、眉を八の字に寄せて教壇を見上げていた。どうやら二十里の発した言葉の真意が計り取れず、かつそれが石流の発言である事が気にかかっているようだった。同様に気にしている生徒は他にも大勢いて、ミルキィホームズ達の真後ろの席に座る根津もいつになく真面目な表情で眉を寄せ、配られたプリントを見つめている。

 生徒たちの様子に、二十里は唇の端を小さく持ち上げた。本人には無断で引用したが、授業の取っかかりとしては十二分な効果が出ている。

 しかし、教壇前の机の一番左端に座っている譲崎ネロは、肩肘をついたまま訝しげに二十里を見返した。

「呪いなんてあるわけないじゃん」

 石流さんすっごく古いからなーと、本人が聞いたら怒りそうな軽口を叩き、両手を軽く持ち上げて肩をすくめている。

「それにさ、呪われてるなら今住んでる人とかどうなるのさ?」

 ネロは、馬鹿馬鹿しいと言いたげに片眉を持ち上げている。そして真後ろの根津の隣りに座っている安倍へと顔を向けた。

「だろー、安部?」

 すると安部は、至極真面目な面もちをネロへと向けた。

「といわれても、石流さんのその言葉は、ある意味正しいのだよ」

「はぁ?」

 安部の返事が予想外だったのか、ネロは目を丸くしている。

「少なくとも当時の人々は信じていたし、信じていた以上、それは存在していたんだ。そもそも平安京が作られたきっかけは怨霊封じの為だし、実際、至る所に結界が施されていたいたのだよ」

 安部は眉間に小さく皺を寄せ、両腕を組んだ。その言葉に二十里も頷き、ネロへと目を向けた。

「まぁ君の言うように、ボクも、呪いなどという美しくないものは存在していないと思っているけどね」

「はぁぁ?」

 自分で口にしておきながら否定するかのような物言いに、ネロは二十里へと顔を戻し、訝しげな眼差しを向けた。

「だから、石流君の受け売りだって言ったじゃないか」

 大きく眉を寄せるネロを見下ろして、二十里は肩をすくめた。

「というわけで、これまで研修旅行で回る場所について幾つか解説してきたけど、この授業では、そもそものきっかけである平安京の成り立ちについて説明するよっ」

 教壇の上でくるくると回りながら、二十里は胸元を見せつけるように大きくはだけさせた。そして白のチョークを手に取って、黒板に「794年、平安京、桓武天皇」と書き綴っていく。

「じゃぁ、まずは遷都された経緯について説明しようか」

 二十里が配ったプリントを見るように指示すると、生徒たちは一斉に手元の用紙へ目を落とした。そこには、平安遷都までの流れが簡単な年表付きで記されている。

 平安京へ遷都したのは桓武天皇だった。

 だが彼にとっては二度目の遷都である。

 通説として、桓武天皇は政にまで影響力を及ぼし始めた寺院系勢力を一掃する為、奈良の都・平城京から遠く離れた地へ遷都する計画を立てたと言われている。そこで最初に目を付けたのが、山背国長岡村だった。その地に建造され、のちに長岡京と呼ばれる新都は、しかし完成を待つことなく、十年程度で放棄されることとなる。

「何故かというと、それには彼の弟が密接に絡んでくるんだ。まぁそれを説明する前に、少し桓武帝から遡ってみようか」

 二十里は、小刻みな音を立てながら黒板に「天武天皇、天智天皇」と書き綴った。

「そもそも桓武帝が遷都を敢行した理由の一つに、藤原氏と他の豪族たちの対立と、壬申の乱にまで遡るエンペラーの後継者争いも絡んでいたんだよ」

 壬申の乱とは、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子との間で発生した、皇位継承を巡る戦争である。

「ところがこの大海人皇子は、資料をよく読みとると実は天智天皇の兄ではないかという説や、エンペラーの血縁ではあっても天智天皇とは血が繋がっていないのでは、という説もあってね」

 結局この戦争は約一ヶ月に渡って繰り広げられ、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。以降、天智天皇の血統は歴史の表舞台から暫し消え、細々と続くこととなる。

「けれど天武帝の直系が、数代後の称徳女帝で絶えてしまったんだ。そこで再び天智帝の末裔が、藤原氏によって表舞台に引きずり出されたのさ」

 それが、既に老齢だった白壁王であった。のちの光仁天皇である。

 彼は聖武天皇の娘・井上内親王を妻に娶っていた。だから二つの血統を繋ぐ皇族として妥当とされたのだろう。そして彼女との間にもうけた他戸親王が皇太子となった。

「この時、のちの桓武帝となる山部王は父の即位によって親王となって、ようやく朝廷の要職についたんだ。それが確か34歳の頃だったかな?」

 それまで彼の地位が低かったのは、ひとえに母の出生による。彼の生母は、百済からの亡命民の後裔だった。当時は母親の身分も重要視される時代だったから、年下の他戸親王の方が、天武、天智両方の血統を継ぐ者として重宝されていたのだろう。

 だが暫くして、井上内親王と他戸親王は、光仁天皇を呪詛したとして皇后と皇太子の地位を剥奪され、幽閉された。そして三年後の同日に死んでいる。その死因については当時の記録にも明記されていない。だが同日に二人とも死んでいることから、暗殺されたとみられている。

 その事件後、山部親王が皇太子となり、父を長年に渡り補佐していった。やがて桓武天皇として即位し、父の意向から実弟の早良親王を皇太子に据えた。

「こうして帝になった桓武天皇は、様々な改革に乗り出したのさ」

 二十里は教壇に両手を突き、再び生徒達を見渡した。

 殆どの生徒達は、授業の最初に配られたプリントを目で追いながら二十里の講義に耳を傾け、時々メモを取っている。

 最前列の席に陣取るミルキィホームズ達も、今のところは居眠りすることなく、真面目に授業に耳を傾けていた。シャーロックはプリントを両手で掴み、教壇の二十里を見上げながら小さく頷いているし、その横のコーデリアも、シャーペン片手に真剣な表情でプリントの年表に線を引いている。その隣のエルキュールは、熱心にプリントに視線を注いでいたが、時々左横のネロへちらちらと物言いたげな視線を送っていた。二十里が横目でネロを伺うと、彼女は興味なさげに肩肘をついた姿勢を取り、プリントを見下ろしている。

「だけどそれから暫くして、平城京では天災や疫病が相次いだんだ」

 二十里は黄緑色の派手なジャケットを両手で掴むと、白い肩を露出させた。

「当時の人々は、死んだ井上内親王と他戸親王が怨霊になって、その仕業だと考えたのさ」

「でも怨霊って、幽霊の事ですよね?」

 二十里の説明に、コーデリアが片手を小さく挙げた。

「当時の人々が恐れたのは分かりますが、とても非現実的というか……」

 細い眉を寄せるコーデリアに、二十里は頷いた。

「そうだね。それはボクもナーンセンスッだと思っているよ」

 再び頬をひきつらせる彼女を安心させるように、二十里は穏やかな微笑を浮かべると、軽く肩をすくめた。

「でもね、死んだ人間が怨んでいると感じるのは、あくまでも生きている人間だとボクは思うのさ」

 いつになく真面目な口調で、二十里は言葉を続けた。

「負い目や良心の痛みを感じているからこそ、天災や疫病や起こった時、死者の怒りだと怯えるんじゃないのかい?」

 静かにそう告げると、二十里は生徒達を見回した。安部は二十里の言葉に小さく頷いているが、殆どの生徒は実感が伴わないようで、きょとんとした表情を浮かべている。

「そこで彼らは、怨みを残して死んだと思われる人を神様として奉り、その怒りを静めてもらおうとしたんだ」

 二十里は赤のチョークを手に取ると、黒板に「御霊信仰」と書き綴った。

「その辺りはこの国の人の独特の宗教感だからね。外から来たボクらにはちょっと分かりにくい」

 指先についたチョークの粉を払いながら、二十里は大げさに肩をすくめてみせた。

「それらを理解しやすくなるのが、この国の古人曰く「お天道さまがみてる」っていう言葉かな?」

 そう口にした時、二十里の視界の端で、ネロが正面を向いたまま背後の席にいる根津へ、後ろ手で何かを渡しているのが見えた。根津はそれを受け取ると、机の下に隠すように広げ、怪訝そうに眉を寄せて見つめている。

 二十里は僅かに眉を寄せながら、説明を続けた。

「お天道っていうのは太陽のことでね。つまり悪事をどんなに隠そうとしても、天にいるゴッドは常に見ている、全てお見通しって意味なのさ」

 他人の目を意識しがちな国民性も出てるよねぇ、と二十里が苦笑を浮かべると、つられたように数人の生徒も笑みを浮かべた。幽霊が闊歩している意味ではないと分かったのか、コーデリアも安堵したように吐息を漏らしている。

「あとこの国の面白いところはね、神社に御霊として奉られている事は即ち、彼らは無罪であるという事を意味しているってことなのさ」

 二十里は、教卓の上に置いたプリントに視線を落とした。

「確か他戸親王と井上内親王は、キョウトの上御霊神社に奉られているよね」

 上御霊神社は平安京の中にあり、皇居から鬼門方面にある。平安遷都後すぐに建設された神社で、怨霊となった人々のみを奉り、やがて応仁の乱の勃発地ともなった。

「つまり当時の人々も、その二人が無実の罪ではめられたと知っていたってことさ」

「どうしてその二人が無実って分かるんですか?」

 二十里の言葉に、シャーロックが右手を真っ直ぐに挙げた。

「うん?だって、動機がないだろう?」

「動機?」

 二十里が笑みを湛えて見返すと、シャーロックは挙げた手を下ろし、青い瞳をしばたたかせている。

「だって、光仁帝は天皇になった時点で既に老齢なんだ。ただ待っていれば他戸親王はエンペラーになれるのに、どうして「帝が早く死にますように」って母子で呪う必要があるんだい?」

「あっ」

 二十里の解説に、シャーロックはようやく気付いたという風に目を見張った。

「となると、この二人が居なくなって誰が得をしたんだろうね」

「えーと、それってつまり、桓武天皇ってことですか?」

 二十里が目を細めると、シャーロックは細い眉を寄せた。

「まぁ、部下である藤原氏が、自らの利益の為に皇太子の首をすげ替えようと謀った事であっても、その庇護を受けていた桓武帝が、全く預かり知らぬわけじゃないだろうからね」

 だが、彼がどこまで関わっていたか、そして関わっていなかったのか、それは当時の記録から推測するしかない。

「その一方で、天武帝の直系は絶えていても傍流はまだ残っているわけだし、平城京には天武系に助成する勢力も根強かったのさ」

 現に、桓武天皇の弟である早良親王は出家して東大寺の僧侶となっていたが、父が天皇になった事で還俗し、次の皇太子となった。当然そのツテで、東大寺の僧侶たちの政治的発言力は強まっただろう。

「ま、それなら新しい家に引っ越して、心機一転したくなっても不思議じゃないよね」

 そうして、まずは長岡京の建設が着手された。

「だけど多くの豪族達が新都には反対した。何故馴染んだ奈良から出ていくのかっていうのもあっただろうし、単純に派閥争いの一環ってのもあっただろうね」

 ところがここで、大事件が起きる。

 新都造営の責任者である藤原種継が、建設途中の長岡京で暗殺されたのだ。すぐさま犯人探しが行われ、藤原氏に敵対する多くの有力豪族が捕縛された。

「そしてその中に、血を分けたブラザーであり、皇太子である早良親王もいたってわけさ」

 だが彼は、身に覚えのない事だと自ら食事を絶つことで主張した。そしてそのまま衰弱していき、長岡京の中にある乙訓寺で死亡する。だがその遺体はそのまま流刑地である淡路島へと流され、そこで埋葬された。

 同様に万葉集で有名な大伴家持も、事件直前に病死して故人であったにも関わらず、この事件の主犯の一人とされた。そして官位を全て剥奪された上にその遺体をわざわざ掘り起こされ、流刑地へ送られている。

「ま、こういう死に方をすれば当然、怨霊になるって皆思うよね」

 それから暫くして、桓武帝や藤原氏の縁者が相次いで死去し、長岡京には疫病が蔓延した。これらは全て早良親王の祟りだと恐れられた。

「そこで桓武帝は弟が死んだ地でもある長岡京を捨て、新たな都の建設に着手したのさ」

 それが平安京である。当時の最先端科学であった風水をもって四神相応の地が探し出され、長岡京から少し離れた山背国葛野が選ばれた。

 東に鴨川、西に山陽・山陰道、南にはーー今は埋め立てられて跡形もないが当時は存在した巨大な湖ーー巨ぐら池、そして北に船岡山。そこに四方を護る神獣ーー東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を配置すると見立て、鬼門を封じるように寺社が配置された。

 そうして張られた結界が功を奏したのか、万代宮(よろずのみや)ーー永遠の都と讃えられ、千年以上もの長きに渡り、この国の首都として栄えることとなる。

「新しい都の名前には、普通は長岡京のように地名をつけるのだけれど、この新都には「平安たれ」という願いを込めて、平安京と名付けられたんだ」

 そこまで説明すると、二十里は横目でネロと根津の方を伺った。根津がネロの背をシャーペンでつつき、後ろ手に差し出された掌に何かを載せて渡している。しかし根津は二十里の視線にすぐに気付くと、取り繕うようにプリントを手にとって視線を落とした。

「だけどその平安京もね、結局は「平安」じゃなかったのさ」

 皮肉だねぇと含み笑いを浮かべつつ、二十里は説明を続けた。

「政争の起きる場では当然無実の罪で陥れられた人々もいる。そういう人達は当然怨霊として奉られる。だから百年も経たないうちに、平安京の中は怨霊だらけになってしまったわけさ」

 祟道神社、上御霊神社、下御霊神社、北野天満宮、藤森神社、今宮神社。これらは全て、疫病や怨霊を鎮めるために創建された神社である。

「研修旅行では、これらのうち北野天満宮に行くはずだよ」

「でも先生、北野天満宮って、学問の神様じゃないんですか?」

 授業中でも制服ではなくジャージを身につけた眼帯の少女が、困惑した面もちで片手を小さく挙げた。

「今ではね。でも奉られているのは歴史的にも祟り神としても有名な、菅原道真だよ」

 二十里は大きく頷くと、彼女へ目を向けた。それを合図に彼女は手を下ろし、真っ直ぐな瞳で二十里を見返している。

「菅原道真は死後怨霊となって、自分を讒言して太宰府へ流した藤原時平を祟り殺し、内裏に雷を落として自分を貶めた貴族達まで殺したと言われている。だから雷神として奉られているんだ」

 だが、身分が低かったものの学業で左大臣にまで上り詰めた経歴から、徐々に学問の神として崇められていったと語る。

「でも、菅原道真は本当に藤原時平を怨んでいたのかな?」

 二十里が微笑を向けると、眼帯の少女は僅かに首を傾かせた。ポニーテールに結んだ黒髪が、その弾みで小さく揺れている。

「道真は恨み言をこぼすでもなく、太宰府で穏やかに暮らしていたという資料もある。だから現実的に考えるなら、道真が大怨霊に祭り上げられたのは、都に残っていた道真派閥の学者達がその権威を高めたいという思惑や、道真の処遇に後ろめたさがあった貴族の悔恨が絡み合った結果じゃないかな?」

 つまり怨霊とは、真実を知る人間の後ろめたさや、告発からくるものではないか。二十里は自分の考えを述べると、前髪を片手で払った。

「つまり、生きている人間が一番怖いってことだねっ」

 そう結論づけ、二十里は教壇に両手を置いて教室内を見渡す。

「というわけで、石流君の言う「平安京はその成り立ちからして呪われている」とは、それだけ当時の政争が激しかったってことを意味してるのさ」

 やらなければ自分がやられる。そういう時代だった。

 されど、弟を陥れて殺した兄の心境や如何に。

 そして、兄に陥れられて死んだ弟の心境や如何に。

 だが、それらを断ずるのは生者であろう。

 桓武帝は、外交では未だ朝廷に従わない東北の民を討伐し続け、内政では様々な改革を成し遂げた一方で、怨霊の魂鎮を何度も続けたという記録が残っている。

 数々の革新を打ち立てて政治に邁進したとみるか、死なせた自分の弟達に怯えながら一生を終えたとみるか。それは歴史家や民俗学者が判断することだと二十里は結んだ。

「ところで」

 二十里は素早くネロの席へ足を向けると、彼女が手元に広げていた紙切れを横から奪い取った。

「あっ!」

 ネロが小さく抗議の声を挙げる。

「美しいボクを何故見なァい?」

 二十里は、手にした紙切れを自分の眼前へとかざした。小さな折り目が幾重にも付いたノートの切れ端には、やや丸みを帯びた文字で「エリーが石流さんの様子が変って気にしてるみたいなんだけど、どう思う?」とあった。その下には根津の角張った筆跡で、素っ気なく「いつもと一緒だと思う」とある。さらにその下には「お前、石流さんとよく一緒にいるだろ?何か知らない?」「考えすぎじゃねーの?」「ホントに?」「嘘ついてどーすんだよ。つーか、先生がこっち気にしてるから回すのはやめろ」「だが断る」「てめー!」というやりとりが続いていた。

「ふむ?」

 二十里は小さく息を吐き出すと、ネロと根津を見比べた。

「君たち二人は何をしてるんだい?」

 二十里が眉を寄せると、根津は言葉を詰まらせて顔を伏せた。一方、ネロはバツが悪そうに目をそらせていたが、やがてぽつりと呟いた。

「根津のせいでーす」

「ちょっ、お前、俺のせいにするなよ!そもそもお前が最初に寄越したんだろーが!」

 根津が慌てた様子で身を乗り出し、抗議の声をあげる。だが二十里がじろりと睨むと、二人共押し黙った。

 二十里は再び、手にした紙切れに目を移した。

 確かにここ数日、石流は表向きはいつもと大差ないものの、一人でいる時は物思いに耽っているような様子が伺えた。彼にしては珍しく眉間に迷いを滲ませ、溜め息を漏らしている。うわの空という程ではないが、掃除をしながら時折どこか遠くを見ているような眼差しに、石流は何かを隠していると二十里は確信していた。それが何かはまだ掴めていないが、先日のアンリエットとの会話から、かつて彼が捨陰天狗党に居たことがあるのは間違いないと推測している。

 生真面目な人間ほど、内に抱え込む事が多い。

 しかし彼の微妙な違いは、普段から注意深く彼を観察していなければ分からないだろう。それ程小さな違和感にエルキュールが気付いているというのが、二十里には意外だった。

「対象をじっくり観察して普段との相違を探すというのは、探偵として必要な素養だけどねェ」

 二十里はエルキュールの方へ顔を向けると、彼女のプリントの上に、手にした紙切れをそっと置いた。細い指をメモの上に置き、ネロと彼女にだけ二人のやりとりが目に入るようにする。エルキュールに暴露した事にネロが講義の眼差しを向けたが、二十里は鋭い眼差しを返してそれを牽制した。

「気になるなら直接本人に聞いてみたまえ」

 エルキュールは二十里から差し出された文面に目をやって、気まずそうに唇を尖らせてふてくされるネロと、微笑を浮かべて見下ろす二十里を見比べた。戸惑った面もちだったが、すぐに状況と意図を察して頬を朱に染め、顔を伏せた。

「はい……」

 黒髪から僅かに覗く耳の先まで真っ赤に染まっている。

 だが彼女の性格からして、それだけの為に直接尋ねに行くというのは無理だと二十里には予測できた。自分だけがそう感じているのではないかと不安に思っているだろうし、石流は絶対に「気のせいだ」の一言で否定するだろう。だからこそ、彼女から相談されたであろうネロが、石流と親しい根津に尋ねたに違いない。

 ならば、それ以外のきっかけなり話題が必要となる。

「ふむ?」

 二十里は顎に手をやると、思案するように小さく首を傾げた。エルキュールの心情はさておき、彼女に訊かれた時の石流の言動と、彼がそこまで思案している内容には非常に興味がある。

「そういや石流君が、古今和歌集は輪のように繋がるとか、百人一首は呪いの歌集だって事も言ってたね」

「はぁ?何それ?また呪い?」

 ネロが両眉を軽く寄せた。二十里が告げた言葉の内容よりも、小言や説教なしに授業を再開した事を訝しんでいるようだった。

「他にも優秀な歌人がいたり、採用されている歌人でも他にもっとエクセレントな歌があるのに、何故か百人一首には駄作と評される歌が多いそうだよ。あと採用されている歌人の殆どが生涯不遇だったり、死後怨霊になった人ばかりだとも言ってたね」

「そうなんですか……?」

 二十里が説明を続けると、予想通り読書好きなエルキュールが興味を示した。顔を上げて眉を寄せるエルキュールを横目で伺い、二十里は教壇へ足を向けた。

「百人一首といえば、六歌仙が有名だよね」

「それじゃ、もしかして小野小町や在原業平も……?」

 エルキュールの問いに、二十里は肩をすくめてみせた。

「それこそ不遇だった人達の筆頭じゃないか」

 二十里はゆっくりと教壇へ戻ると、生徒たちを見渡した。

「確か在原業平は桓武天皇のひ孫だよ。だから天皇になってもおかしくない血筋さ。ところが祖父の平城天皇、つまり桓武天皇の息子だね、彼が上皇になった後に平城京で乱を起こしてね。……えーと、何だっけ?」

 腕を組み、左の人差し指でこめかみを軽く叩く二十里に、安部が小さく挙手をした。

「薬子の乱です、先生」

「そうそう、それそれ」

 二十里は大きく頷くと、苦笑を浮かべた。

「寵愛していた藤原薬子にそそのかされて、せっかく遷都した平安京から、再び平城京に戻そうとしたのさ。結局その反乱は数日で収まったんだけどね。で、平城上皇は罪には問われなかったものの、出家した。当時の出家は、二度と政治には関わりませんという意思表示だったからね。一方で息子の阿保親王、つまり業平の父は太宰府へ流されて、以降も不遇の人生を送ったんだ。そして業平ら子供たちは、在原の姓を賜って臣下に下ろされて、皇位継承からは外されたってわけ。ま、これは業平が生まれる前に起きた話だけど」

「あれ、でも平城天皇の次の天皇って、平城天皇の子供じゃないんですか?」

 シャーロックが大きく首を傾げた。同じ疑問を持った生徒は他にもいたらしく、彼女の発言に小さく頷いている。

「確か平城天皇の次は嵯峨天皇で、彼は平城天皇の弟だったはずだよ」

「何で子供が居るのに弟が跡を継いでいるんですか?」

「確か禅譲がどうとかこうとか言ってたような……?まぁここまでくると完全にボクの専門外だから、気になるなら石流君に訊くか自分で調べたまえ」

 二十里が降参するように両手を軽く挙げると、生徒たちは不満げな表情を浮かべた。

「って、なんでですかー」

「仕方ないでしょ、ボクの専門は美術とトイズ学なんだから」

 不満げに眉を寄せるシャーロックを見下ろし、二十里は拗ねるように唇を尖らせた。そして横目でそっとエルキュールを伺うと、彼女は顔を伏せたまま、こくりと小さく頷いている。

 文学が好きな彼女のことだから、おそらくこれで動くきっかけとなるだろう。石流本人には自覚がないようだが、彼は妙に彼女を気にしているところがある。それに仲間である自分達とは立ち位置が異なる彼女と会話することで、彼に何かしらの心境の変化をもたらすかもしれない。

「それに平城天皇には、幼少時から早良親王の怨霊に祟られていたという話があってね。しかも一緒に乱を起こした藤原薬子は、長岡京建設時に暗殺されたあの藤原種継の子供なんだ。なかなか因縁めいてるとは思わないかい?」

 そう苦笑を浮かべると、二十里はネロと根津へ顔を向けた。二人とも怒られなくて済んだと安堵した表情を浮かべている。しかし、二十里が唇の両端を大きく持ち上げると、二人は目を見開き、びくりと肩を振るわせた。

 友情は美しい。

 だが授業中というのはいただけない。

「キョウト関係の授業は教科書がない分、資料を探したり、石流君から延々と話を聞かされたりして、準備がかなり大変だったんだよね……」

 二十里は軽く眉を寄せると、黄緑色のジャケットをばさりと脱ぎ捨てた。そしてうろんな眼差しを二人へと向ける。

「せ、せんせー、乳首すっごく伸びてますよ……?」

 根津が怯えた声を漏らした。ネロは椅子から半ば立ち上がり、根津と手を取り合ってカタカタと小さく震え始めている。

 シャーロックとコーデリアがそっと目をそらしたまま木製の椅子を引き、ネロの横でおろおろと狼狽えているエルキュールの手を取って、椅子ごと彼女を避難させた。根津の隣に腰掛けた安部も、シャーロック達のように椅子に座ったまま、そっと机の横側へと回り込んでいる。その一方で、根津の背後にいた赤縁眼鏡の女生徒は妙に目を輝かせ、二人と二十里の様子を見守っていた。

「さぁ、美しい僕を存分に、そしてしっかりと見たまえ!」

 二十里が教壇から足を一歩踏み出すと、ネロと根津が声を震わせた。

「うわぁぁぁ、伸びすぎて気持ち悪りぃぃぃ!」

「こっちくんなぁぁぁ!」

 しかし、皆の注目が自分に集まっていることに、二十里は恍惚とした表情を浮かべている。

 そして二人の悲鳴が教室中に響き渡った。

 

 

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 ーー何をしているのかしら、あの二人。

 授業中だというのに、ネロと根津が二十里の目を盗んでメモのようなものを回している。

 アンリエットは眉をひそめた。

 しかし、二十里は平安京の成り立ちについての講義を続けながら、訝しげな視線を時折二人に向けている。その様子から察するに、二人の挙動にはもう気付いているのだろう。自分が口を挟むまでもないようだと、アンリエットは手元の書類に目を戻した。

 書類の白い表紙には、筆で書いたような「研修旅行日程表」という文字が縦に並び、その横には「決定稿」というハンコが押されている。次のページからは、研修旅行の日程や宿について、五ページに渡って事細かに記されていた。キョウト市役所が手配した旅行会社からのFAXで、行動計画は最初に提示されたものと大分変わっている。

 アンリエットは、研修旅行での訪問先を石流に一任していたが、彼は翌朝には修正案を提出してきた。一日目のスケジュールはそのままだったが、二日目以降は大きく変更が加えられている。アンリエットはそれを確認してから、石流にFAXを送信させた。すると先方は、それを元にした修正案をすぐに送り返してきた。そうして詳細を詰めるために文面でのやりとりが数回続き、その度に石流に確認させるような形をとったが、先程最終案が送信されてきた。見たところ問題はなさそうだったから、当日はこのスケジュールで動くことになるだろう。

 一日目は洛東、二日目以降は洛西が中心の為か、旅行会社とキョウト市役所が手配した宿は、嵐山の温泉旅館だった。アンリエットがネットで検索して調べてみると、渡月橋を渡ったすぐ先にあるらしい。嵐山は観光地ではあるが、市街地から離れている分、夜は静かで落ち着けるという評判だった。

 急ぎの案件が一つ片付いて、アンリエットは小さな吐息を漏らした。

 アンリエットの木製のデスクの上には、折り畳まれたノートPCと旅行会社から送信されてきたFAX、そして石流がミントティーを注いだティーカップが置かれている。

 アンリエットはティーカップに手を伸ばし、湯気の立つ薄い琥珀色の液体を口にした。ミント独特の清涼感が口の中を満たし、鼻孔から抜けていく。

 アンリエットは一息吐いてティーカップを戻すと、再びFAX用紙を手にした。表紙を含めて全部で六枚あるそれを隅々まで確認し、最後のページをめくったところで手を止めた。

 左上の隅に、目立たないよう小さく81/100、38/100、20/100と数字が記されている。しかも81/100だけ丸で囲まれていた。PCで作成されたと覚しき文面の中で唯一、手書きされている。

 そしてその数字の横には、何か書き込んだものの消したような後があった。掠れていてよく読みとれないが、ひらがなの「つ」と、縦の棒を書く途中で止めた「g」に見える。

 アンリエットは柳眉を寄せた。

 数字をメモしたままうっかり送信してしまったかのようだったが、日程表に添えられた丁重な文面からは担当者の品の良さを感じ、初歩的すぎるミスを犯しているようには思えなかった。数字には何か意味がありそうだったが、かといって関連性を見いだせない。

 もしやと思い、アンリエットは机の引き出しから、これまで旅行会社とのやりとりを保管したファイルを取り出した。そして先方からのFAXを、日付順に机上に並べてみる。

 すると最初のFAXには何も記されていなかったが、こちらが返信してからの二回目の最後のページに、やはり左上の片隅に小さく「335/1111」と手書きされていた。その次のFAXにも最終ページの同じ場所に「30/100」とある。どうやら送信時に書き加えられたものらしい。

 335/1111、30/100、81/100、38/100、20/100。

 今まで気にも止めず、書かれている事に気付きもしなかったが、3と8ばかりが並んでいるこれらの数字に共通性は見いだせなかった。あえて言うなら分母の「100」だろうが、何故最初だけ「1111」なのか、それすらも見当がつかない。

 誰に向けたメッセージだろうと思案し、すぐに思い至って、アンリエットは眉間に皺を寄せた。書類の最終確認は自分が行っていたが、書類の作成、先方への送信は石流に一任している。ということは、これは相手が石流に向けたメッセージと見なすべきだろう。

 もしやと思い、アンリエットはこちらから先方に送ったFAXをファイリングしているページを開いた。そしてそれらを取り出し、机上に広げた。

 案の定、こちらから送信したFAXにも、左上の片隅に手書きで数字が記されていた。こちらが二回目に送信したもの、つまり「335/1111」と記されたFAXの返しには「35/100」、次の返信には「84/100」とある。この丁寧で直線的な筆跡は、石流のもので間違いない。

 だがこれらの数字は、アンリエットは目にした覚えがなかった。となると、おそらく石流が送信する直前に書き加えたものなのだろう。

 アンリエットは首を捻った。

 一体どんな意味があるのか。知りうる限りの数字の暗号解読を脳内で試してみたが、どれもしっくりとこない。

 しかし何よりも、石流が自分に隠してこのようなやりとりを先方としているという衝撃の方が大きかった。

 石流は、アンリエットの心情を察するのは早いものの、こちらの本意とは若干ずれた解釈をするなど、少しばかり抜けたところはある。だが部下として、そして怪盗として信頼できる男だった。愚直なまでに忠実だが決して盲目的でなく、アンリエットが自暴自棄になっていた「あの時」も、彼女の真意を知った途端、三人の中で真っ先に反旗を翻してきた。それは決して疎ましいものではなく、むしろ頼もしいと彼女は感じている。

 アンリエットは小さく息を吐き出すと、再びティーカップに手を伸ばした。カップの端に口を付け、唇を湿らせる。

 旅行会社の担当者名には、全て「筑紫澪」とあった。名前からして女性なのは間違いないだろう。しかし学院からのFAXには、アンリエットの名前しか記載していなかった。だから彼女は、石流がこの学院に所属している事を知っていて、なおかつ何らかの手段か情報で、彼がこの書類に関わっていると気付いたのだろう。おそらく最初の「335/1111」で試し、それに気付いた彼が返した数字で、それを確信したに違いない。

 どこで気付いたのか。そしてこの数字は何か。

 アンリエットは静かにティーカップを戻すと、再びFAXへと目を向けた。

 石流の方は、彼女が知人であれば、FAXに記された名前ですぐに気付いたはずだった。ならば個人的に連絡を取ればいいのに、わざわざ公用の文書の片隅で返しているということは、何らかの事情があって、二人とも表だって連絡できない状況なのではないかと推測された。

 例えば相手も偽名であるとか、こちらと同様、表記されている人物とは別の者が実務を行っている場合が考えられる。

 アンリエットが眉間に皺を寄せて思案していると、不意に二十里の講義が耳に飛び込んできた。

「そういや石流君が、古今和歌集は輪のように繋がるとか、百人一首は呪いの歌集だって事も言ってたね」

 思わず顔を上げると、二十里は意味心な笑みを浮かべてエルキュールを見下ろしている。

 その言葉で閃くものがあり、アンリエットはFAX用紙に記された数字をメモ用紙に写すと、FAXを元のファイルに戻し、引き出しに仕舞った。そしてノートPCを開き、マウスを動かしてスリープ状態を解除する。そして検索画面で「百人一首 35」と打ち込むと、すぐに該当するページが表示された。リンク下に表示される文面から百人一首の和歌が詳しく記されていそうなページを選び、それをクリックする。

 数秒も立たないうちに画面が切り替わり、「人はいさ心も知らず古里は 花ぞ昔の香ににほいける」という和歌が表示された。百人一首の35番目に収録されている和歌で、紀貫之の作だという。和歌の下には歌の解説や現代訳語が記されていて、アンリエットはそれらを目で追った。

 この歌は「人はさあどうでしょうか、貴方の心の内はわかりません。しかし、昔馴染みのこの土地では、花だけは昔のままの香で匂っていることです」という意味になるらしい。サイトに記された解説によると、紀貫之が暫くぶりに訪れた奈良の長谷寺で、参詣する際に常宿としていた宿の主に「いつも待っていたのに」と皮肉を言われた為、梅の花を手折って一緒に贈った歌だという。元々は古今和歌集に収められている歌が、百人一首にも採用されたと記されていた。いかにも風流なやりとりだが、相手の心変わりを疑ったやりとりからこの宿主が女性ではないかという見方もあり、恋歌とする解釈もあるらしい。

 しかしアンリエットは、紀貫之が「古今和歌集」の編者の一人であることに注目した。

 もしやと思い「古今和歌集」で検索すると、その書物に掲載されている和歌は、全部で1111首なのだという。

 そこで335番目に掲載されている歌を調べてみると、小野篁の「花の色は雪にまじりて見えずとも 香をだににほへ人の知るべく」という歌が出てきた。「花の色は雪に紛れて見えなくても、せめて香だけでも匂ってくれ。どこに梅の花があるか人にわかるように」という意味になるらしい。

 どちらの和歌も、梅を歌った和歌だった。そしてサイトの解説によると、二人とも和歌だけでなく漢詩にも長けているという共通点があるらしい。しかも小野篁は、研修旅行の1日目で回る場所に関わる人物でもあった。

 つまり石流は、和歌の意味だけでなくこれら全ての要素を踏まえた上で百人一首の紀貫之の歌を選び、それを示す数字で返したのではないだろうか。だからこそ、相手は彼だと確信したのではと思われた。

 知識がなければ出来ない芸当だろう。しかし。

「随分とキザですわね……」

 アンリエットは思わず苦笑をこぼした。和歌を介したやりとりは彼の風貌に似合っているが、何もかもが遠回しすぎるように感じる。

 おそらく引用された和歌は、「貴方がそこにいるかどうか隠れていて見えないが、いるのなら応えてほしい」といった解釈になるのだろう。それに対して石流は「人の心はさておき、そちらの景色は変わっていないのでしょうね」と返したといったところだろうか。

 これならば、おそらく他の数字も全て百人一首を示しているに違いない。そう考えたアンリエットは、ノートPCに向き合うと、再び両手を動かした。最初に開いたサイトには百人一首が収録順に並んでおり、和歌の部分をクリックすると、詳細な解説ページに飛ぶようになっている。

 まずは二人のやりとりの流れを把握しようと、アンリエットは梅の歌の次に書かれた「30/100」が示す、30番目の和歌をクリックした。

 すると、壬生忠岑の作品で「有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし」という和歌が出てきた。

 彼も古今和歌集の選者の一人だという。「有明の月が無情に照っていたあの別れ以来、暁(明け方)の月ほどつらい思いをさせるものはありません」という意味になるらしい。

 解説によると、当時の恋愛は、男性が女性の元に通い、夜明け前に帰る形式だったという。だからこそ暁の別れはつらいものだったらしく、またその一方で、男性が訪ねていっても女性に相手にされないケースもあったという。故にこの歌は、つれないのが「月」か「女」で解釈が分かれるとのことで、「月」ならば恋人と一夜を過ごした後の名残惜しさ、「女」ならば、会ってもらえなかった悲しさとなるとあった。

 一方で、石流はこの歌に「84/100」と返している。84番目の歌は藤原清輔の歌で「長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき」とあった。「長く生きていれば、今はつらいと感じている現在もまた、後で懐かしく思い出されるのでしょうか。つらく苦しいと思っていた昔の日々も、今になってみると恋しく思われるのですから」という意味になるという。

 二つの和歌の解説を見比べて、アンリエットは再び眉を寄せた。

 相手の和歌はどう解釈すればいいのか分からないが、引用している相手が女性という点から「あの時の別れを思い出して辛い」という意味だと思われた。そして石流の方は、「そんな事もありましたが今となっては懐かしいですね」と返しているのだろう。

 アンリエットは、最初は二人で昔を懐かしんでいるのではないかと思ったが、それだけではないような気がした。二人の間に、微妙な温度差があるような気がする。その背後にあるものを汲み取ろうとして瞼を閉じーー突如教室から根津とネロの叫び声が響いて、アンリエットは思わず顔を上げた。

 声のした方に目を向けると、根津とネロが手を取り合って震えている。彼らの視線の先には、上半身裸になった二十里がいて、乳首を長く伸ばしながら徐々に距離を縮めつつあった。

「こっちくんなぁぁぁ!」

 ムチのように伸びた乳首を見て、ネロが悲鳴を上げた。

 が、二十里はネロにゲンコツを一つ落とすと、そのまま根津へ腕を伸ばした。後ろ向きに脇へと抱え、尻を叩いている。どうやら伸ばした乳首はフェイントだったらしい。

 おそらく、授業中にメモをやりとりしていた事へのお仕置きなのだろう。

 アンリエットは小さく溜め息を吐くと、最後のFAXにあった三つの数字に目を移した。

 まず「81/100」だが、サイトをみると、81番目の歌は「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」という藤原実定の歌だった。「ほととぎすが鳴いたのでその声の方を眺めたが、もはやその姿は見えず、ただ明け方の月だけが西の空に残っていることよ」という意味になるらしい。

 解説によると、ほととぎすは、夏を告げる鳥として歌によく詠まれたという。平安期においては、第一声の初音を聞くために夜明けまで待つほど好まれた鳥で、姿は見えずその美しい鳴き声の存在として詠まれる傾向にあったらしい。また有明の月もよく詠まれる題材で、恋人との別れの象徴でもあり、この和歌は、ほととぎすに託した恋人との別れという解釈も成り立つということだった。

 次に「38/100」だが、これは醍醐天皇の中宮・隠子に仕えていた右近という女性の歌で、「忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな」とあった。「忘れられていくこの身をつらいとは思いませんが、いつまでも愛してくださると神に誓った貴方が、それを破ったことで天罰を受けて命をなくすのではないかと心配です」という意味になるそうなのだが、相手を思いやる歌か恨みの歌かで解釈が分かれるという。前者であれば、捨てられても恨まないという女心になるが、後者なら「天罰がくだって死んでしまうかもしれませんよ」という真逆の意味になるらしい。

「……これはどちらの意味なのかしら?」

 アンリエットは思わず声を漏らした。これまでの言葉遊びのようなやりとりとは違い、ただならぬ雰囲気を感じる。

 そして最後の数字「20/100」は、「わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ」という元良親王の歌だった。「あなたとの噂が立ってしまい、会うこともままならない今は、どうなっても同じです。難波の海にある澪標(みおつくし)のように、この身を尽くし破滅させてでも貴方に逢おうと思います」という意味になるらしい。解説によると「澪標」というのは、航海する船に水脈を知らせる標識として海に立てられるもので、身を滅ぼすという意味の「身を尽くし」の掛詞だという。だからこの身は破滅してでもまた会いたいと、半ば開き直っている状況なのだという。

 アンリエットは三つの和歌をPCのモニターに表示させて、小首を傾げた。

 恋人との別れを象徴した歌と、捨てられた女の歌と、何が何でも会いたいという熱情が籠もった歌。

 ばらばらのようでいて、共通したメッセージを持っているようでもある。それに二つ目の和歌には「心配している」と「恨んでいる」の二通りの解釈があった。だからこれら三つの和歌を合わせると、「別れた恋人が恨みつつもまた会いたがっている」という解釈にも取れるだろう。しかしその一方で、捨てられた女から石流への宣戦布告のようにも感じられた。

「石流さん、昔キョウトで何かしたのかしら……?」

 アンリエットは頬に片手をあて、モニターを見つめた。

 大抵のことには二つ返事で承諾する彼にしては珍しく、キョウトへの同行を躊躇っていた。そして、捨陰天狗党を非常に警戒していた。以上の事から、アンリエットも彼がかつて捨陰党員だったのだろうと見当を付けている。

 しかし、それだけではない予感がした。

 かといって、まさか恋愛関係を拗らせた結果、キョウトに居られなくなったというわけでもないだろう。

 ホームズ探偵学院での彼は、職員としても異性としても女生徒からの人気が高いようだった。ラブレターを送ったものの丁重に断られたという女生徒の噂話は耳にしたことがあるし、現に彼の手料理や彼自身を目当てに、現状の学院に舞い戻ってきた節のある生徒もいる。だが、女性関係で浮ついた噂は、学院でも怪盗方面でも耳にしたことがなかった。生真面目な彼のことだから、おそらく身持ちは堅いのだろう。

 アンリエットは、胸の下で両腕を組んだ。

 以前読んだ書物によれば、かつて忍の一族は、抜けた者には厳しく追っ手を差し向けたという。

 ならば彼は、今も追われているのだろうか。もしくは、二度とキョウトに足を踏み入れないという条件でも出されているのだろうか。

「どちらにしろ情報が少なすぎますわね」

 彼にこの三つの数字を見せるべきか否かと暫し逡巡し、アンリエットは再びティーカップに手を伸ばした。ゆっくりと薄い琥珀色の液体を飲み干し、ティーカップを戻す。そして決定案として送られてきたFAXの束を手にし、ノートパソコンを閉じた。

 

-3ページ-

 

 椅子から立ち上がり、執務室の扉を開けて廊下へと出る。教室のざわめきが廊下にまで漏れていたが、アンリエットは教室とは反対側へと進み、調理室の前に立った。

 廊下側には窓はなく、中の様子は伺えない。

 アンリエットが扉をノックすると、「どうぞ」と低い声が返ってきた。横開きの扉を滑らせて開けると、部屋の中央にあるガスコンロの前で、石流漱石はこちらを向いて立っていた。既に夕食の仕込みに入っているらしく、青い炎が揺らめくコンロの上には大きめの鍋が設置され、コンソメと鶏肉の香ばしい香りがふわりと漂っている。

 アンリエットは、思わず眉を緩めた。

「如何されましたか、アンリエット様」

 石流は眩しそうに目を細め、微笑を浮かべている。

「紅茶のおかわりでしたら、すぐにお持ちいたしますが」

「いえ、そちらは結構です」

 アンリエットは半分開いたままの扉を閉めると、石流へと向き直った。

「石流さん、貴方にお見せしたい物と、お聞きしたい事があります」

「はっ、何でしょう」

 アンリエットは単刀直入に口を開くと、手にしたFAX用紙を差し出した。

「これは……?」

「先方から送られてきた、研修旅行の最終案です。問題ないとは思いますが、石流さんにも一応確認して頂こうと思いまして」

「それでしたら、お呼びいただければすぐに向かいましたのに……」

 石流は申し訳なさそうな表情を浮かべると、腰の白いエプロンで手を拭った。そしてアンリエットからFAXを受け取り、ゆっくりとページをめくりながら、丁寧に文面を目で追っていく。

 アンリエットは、彼の視線に注視した。

 やがて最後のページへと辿り着くと、彼はまず最初に左上へと目をやった。それらの数字を確かに一瞥したが、しかしその眼差しに変化は見られない。それから本文を眺めると、再び表紙が表になるようにページをめくり、顔を上げた。

「特に問題ないかと思います」

「そうですか。では先方にその事を伝えておきましょう」

「でしたら、私がやっておきますが」

 石流の申し出に、アンリエットは僅かに眉を寄せた。普段であればその気遣いを有り難いと感じただろうが、今は妙に胸の奥底がざわめいている。

 アンリエットは、唇を真一文字に結んだ。

 自分の知らないところで見知らぬ女性と何をしていようが、彼には彼の事情があるのだから、自分には関係のないことだった。そして干渉するべきことではない。それなのに、何故か裏切られたような錯覚を受けた。

 その一方で、かつて自分が犯した過ちと、まだそれに謝罪出来ていないという後悔が自分の中で渦巻き始めている。そしてこのまま放置すれば、やがて彼が自分の前から立ち去ってしまうかのような気がして、形容しがたい焦りと動揺まで沸いてくる。

「アンリエット様……?」

 スカートの裾を掴み、険しい面もちで顔を伏せるアンリエットに、石流はFAXを手にしたまま狼狽えた。

「如何なされましたか?どこかご気分でも……」

「今度は何と返すつもりですか」

「え?」

 思わず口にした言葉に、石流は目をしばたたかせた。

「そのFAXの最後のページに、81/100、38/100、20/100という数字がありますよね」

 そう告げると、石流は僅かに目を見張った。

「確認してみたら、前回とその前のFAXにも数字がありました」

 冷静に返そうとすればする程子供が拗ねたような口調になり、アンリエットは柳眉を寄せる。

「石流さんも、それに数字で返していますよね?」

「それは……」

「その数字は百人一首を示しているのではないのですか」

 問い詰めるような口調になるが、止めることが出来なかった。一気に吐き出してアンリエットが顔を上げると、石流の琥珀色の瞳は、迷うように小さく揺れていた。だがすぐに小さく息を吐き出すと、彼はアンリエットを真っ直ぐに見返した。

「申し訳ございません」

 石流はFAXを左手に持ったまま右手で頭上のコック帽を取ると、深々と頭を下げた。

「無用のご心労をお掛けしたくなかったものですから」

 彼は顔を上げると、コック帽を左脇に挟んだ。

「彼女は……そこに名がある筑紫澪は、古い友人なのです」

 そして眉間に深い皺を寄せ、アンリエットへと目を向けた。

「そして捨陰天狗党員でもあります」

「え?」

 予想外の告白に、アンリエットは強く握っていたスカートの裾を離した。

「彼女は私の個人的な連絡先は知りませんし、私も知りません。それに彼女の立場を考えると、こちらから彼女に連絡を取るのもはばかれましたので」

「何故です?」

 アンリエットが尋ねると、石流は目を伏せ、眉間に皺を寄せた。

「おそらく彼女は、今では捨陰四天王の……幹部の一人になっているはずです」

 耳慣れない単語にアンリエットが僅かに眉を寄せていると、石流は彼女へと切れ長の瞳を向けた。

「捨陰天狗党は石川五右衛門を党首として、その下に四人の幹部がいます。彼らは四天王と呼ばれ、四神の名を冠した部隊をそれぞれ率いています」

「四神というと、朱雀、玄武、青龍、白虎ですね」

 アンリエットの言葉に、石流は頷いた。

「はい。党員はトイズの有無に関わりなく、各自の能力に合わせ、陰陽五行の属性に合わせた各部隊に配置されます」

 陰陽五行とは、火、水、木、金、土の五つの属性のことだった。それらを四神に照らし合わせると、朱雀は火、玄武は水、青龍は木、白虎は金となる。

「ですが、それでは一つ属性が余りませんか?」

「はい。その土属性は麒麟部隊と呼ばれ、方位では中央に位置することから、石川五右衛門直属の部隊となっています。場合によっては、党首の代行としてその長が立てられることもありますが、他の部隊の長と違って条件が一つ」

「それは?」

 アンリエットが問うと、石流は淡々と言葉を続けた。

「党首の血縁者であるということです。すなわち、麒麟部隊の長が次の後継者を意味します」

「随分と詳しいのですね」

 淀みなく説明を続ける石流にアンリエットが素直に感心していると、彼は小さく息を呑んだ。僅かに顔を強ばらせ、視線を床へと落としている。

 しかしすぐに意を決したように、顔を上げた。

「私もかつて、幹部候補生でしたので」

 そして再び深く頭を下げた。

「黙っていて申し訳ありませんでした」

 その場で土下座しそうな勢いに、アンリエットは慌てて彼を制した。

「では、今は捨陰党員ではないのですか」

「はい。既に出奔して抜けた身ですから」

 顔を上げた石流は、真正面からアンリエットを見つめた。目元を僅かに緩め、唇の端を小さく持ち上げている。

「今の私は、貴方の牙。怪盗帝国のストーンリバーです」

 そう告げる彼は、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。

「何があろうと、それだけは今後も決して変わりません」

 彼は両目を軽く細め、力強く断言した。アンリエットはその眼差しを受け止めたものの、僅かに目をそらせた。彼の眼差しが真っ直ぐすぎて、アンリエットには眩しくすら感じる。

「ですが……また私は過ちを犯すかもしれませんよ」

 自分の中に残る後悔と僅かな不安を微かに漏らすと、彼は眦を緩めた。

「その時は、今度そこ我々が止めてみせます」

 石流は、穏やかな口調で返した。

「完璧な人間など存在しません。人である以上、過ちは犯すものです。だからこそ、我々スリーカードが貴方のお側に居ますし、ずっと居たいと思っています」

 その声音には気負いや悲壮さは微塵も感じられず、ただ冬の陽射しのような柔らかさと静かさを漂わせていた。

 怪盗帝国の首領として、自分は何をしたいと思っていたのか。そして何を成し遂げるべきなのか。

 それらを見失い、投げ捨てた後悔と後ろめたさは未だ根強く残っている。しかし彼の言葉で、幾分か和らいだような気がした。

「……有り難う」

 アンリエットが顔を上げると、彼は静かに微笑を返した。何故だか、以前よりも頼もしくなったように感じる。

 そう感じる自分が急に気恥ずかしくなって、アンリエットは話題を変えようと口を開いた。

「ところで石流さん」

「はい」

 暫し躊躇った後、これくらいならば許されるだろうと、僅かな好奇心と共に率直な疑問を口にした。

「貴方はこの人と恋人同士だったのですか?」

「は……?」

 石流は、一瞬何を言われたのか理解不能になったようにぽかんとした表情を浮かべた。切れ長の瞳が大きく見開かれ、何度か瞬く。しかしすぐに頬を赤くして、FAXやコック帽を持ったまま大きく両腕を振った。

「ちょ、ちょっと待って下さい!誤解です、それはッ!」

 彼にしては珍しく大袈裟な身振りで身を乗り出し、目を剥いている。

「彼女はただの幼馴染みで、気が置ける古い友人なだけで……!」

 強い口調で否定する石流に、アンリエットは苦笑を浮かべた。

「あら、そうだったのですか。その数字にある和歌のやりとりから、てっきりそういう関係かと」

「あれはただの言葉遊びというか……特に深い意味はないというか……」

 石流は軽く目を伏せ、語尾を濁した。

 彼にしては珍しく取り乱している。

「彼女は、水だけでなく液体であれば自由自在に操ることが出来るトイズを持っています」

 石流は小さく咳払いをすると、未だ赤い顔を冷やすように右手を額に当てた。

「そして視覚範囲だけでなく、位置さえ把握していれば、ある程度離れた場所からでも水を動かすことが出来ます」

「それは随分と強力なトイズですね」

 アンリエットが率直な感想を漏らすと、石流は微笑を浮かべ、片手を額から離した。

「水を操ることまさに雨乞小町が如し、と一目置かれていましたから」

 少し懐かしそうに目を細め、コック帽を被り直している。

「ですが、トイズが強いだけでは幹部だと判断できないのでは?」

 アンリエットの反論に石流は小さく頷くと、手にしていたFAXを差し出した。

「実はこの表紙の文字は、石川五右衛門の筆跡なのです」

 その言葉に、アンリエットは一番上にある表紙の筆文字へ目を落とした。PCソフトで書かれたものだとばかり思っていたが、石流によると、筆と硯で半紙に書いたものをPCに取り込んだり、コピーしてFAXにそのまま使っているらしい。

「だから彼女が幹部だと?」

 アンリエットが尋ね返すと、石流は小さく頷いた。

「怪盗帝国に関する報道で、私がヨコハマに居るのは知られていたでしょう。ですが、まさか探偵学院に潜入している事まで把握されていたとは想定外でした」

 そして彼は、申し訳なさげに視線を床へと落とした。

「ですので私が同行していると、その……アンリエット様の正体が捨陰に知られる危険が……」

「そうでしたか」

 彼がキョウト行きを妙に渋った理由が判明し、アンリエットは密かに安堵した。

 だが、捨陰天狗党側はあの紙切れ一枚で、石流にだけ分かるように色々伝えてきたことになる。

 ならば彼らの目的は何なのか。

 それをアンリエットが尋ねる前に、石流が口を開いた。

「おそらく石川五右衛門の目的は、私の捕縛でしょう」

 そして眉を小さく寄せ、唇の端を微かに持ち上げた。

「だから彼女は、この数字で忠告してきたのではないかと思います」

 石流はこれらの数字が、アンリエットの推理通り古今和歌集と百人一首を示していると説明した。引用した意味合いも、最初の和歌は石流とコンタクトできるかどうかの意味合いが強いという。そして二つ目の数字は、彼が出奔した夜の光景に似た和歌を引用して昔を懐かしみながらも、二度目の本人確認をしていると語った。

 そして三つ目の三つの数字は、何が何でも彼を捕縛しようとする動きが捨陰の中にあると忠告しているのだという。しかし、最後の三つの和歌をどう解釈すればそうなるのか、アンリエットにはよく分からなかった。

「何故貴方が狙われるのです?」

 率直な疑問を口にすると、石流は言葉を濁した。

「……正直、私にも分かりません」

 眉間に皺を寄せ、口ごもる。おそらく嘘ではないのだろうが、僅かにアンリエットからそらされた視線には、微かに戸惑いの色が滲んでいる。

 アンリエットは、石流の手にあるFAXへ、紫水晶のような瞳を向けた。

「しかし、その方は何故ここまでして貴方に?」

「昔馴染みですから、何か思うところがあったのではないでしょうか」

 石流は、アンリエットの視線に釣られるように手にしたFAXに目を落とした。僅かに細められたその眼差しは、何か懐かしいものでも見つめるようで、柔らかな印象を受けた。

 しかし、差出人の彼女とて捨陰に属する以上、ましてや彼の言うとおり幹部だとしたら、こうして密かに石流に情報を伝えることは、組織だけでなく党首・石川五右衛門への裏切り行為になるのではないだろうか。だとすれば当然、発覚したらただでは済まないはずだ。いくら昔馴染みでも、そこまでの危険を冒すものだろうか。

 それに、そもそもこれが彼女の独断である証拠はない。石流は自分への忠告だと話したが、実はまだ別の意味があって、石流はそれを隠しているのではないかという疑惑をアンリエットは抱いた。

 彼の言う通り狙われているのが石流ならば、これは石流を返してもらうという、怪盗帝国や自分への密かな宣戦布告にも受け取れる。

 アンリエットは、石流をまっすぐに見返した。

「貴方ならこの三つにどう返しますか」

「そうですね……」

 石流は顎に片手をやり、天井へと目をやった。

「63/100、といったところでしょうか」

「それは……?」

「今はただ、思ひ絶えなむとばかりを、人づてならで、いふよしもがな」

 石流は、噛みしめるようにゆっくりと和歌を口にした。

「それはどういう……?」

「そうですね。「今となっては、ただもう諦めましょうという一言だけを、せめて人づてでなく、直接貴方に言う術があればいいのに」という感じでしょうか」

 微笑を返す石流に、アンリエットは僅かに眉を寄せた。

 それでは「何が何でも会いたい」という相手に、「直接会って別れを告げたい」と返しているようなものではないのか。

 アンリエットは、石流を見上げた。

 彼は僅かに目を細め、琥珀色の瞳をこちらに向けている。その眼差しからは、彼がFAXの相手へ向けている感情は読みとれなかった。だが、自分に向けられた忠義は偽りではない事を明確に語っている。

 信じよう、と彼女は思った。

 彼が全てを打ち明けないのは、自分を案じ、無用な心配をかけたり負担をかけたくないと配慮する故だろう。ならばそれを察して口にしないのも、上に立つ者の務めだと思案する。

 アンリエットは小さく吐息を漏らすと、最終案を了解したという返事を送るように伝えた。石流は「畏まりました」と小さく頷いている。

「それで……アンリエット様、一つお願いが」

「なんでしょう?」

 アンリエットが小首を傾げると、石流は眉を寄せ、切れ長の瞳を細めた。

「今夜、夕食後に外出許可を戴きたいのですが」

「それは別に構いませんが……どちらへ?」

「ヨコハマ郵便局です」

 ヨコハマ郵便局は、市街地にある市役所近くに建っている。そこならば夜遅くまで窓口も開いているが、学院から歩いていくには少しばかり離れすぎていた。それに夕食後の時間ともなると、バスの本数は一気に減っている。

「でしたら二十里先生に車を出して貰いますか?」

「いえ、走ればすぐですので」

 アンリエットの申し出を、石流は丁重に断った。

 おそらく怪盗時のように夜の帳に潜み、屋根づたいに走って向かうつもりなのだろう。確かに彼の足ならば、直線的に目的地へ向かえる分、タクシー等の交通手段を使うよりも速いだろう。

「気をつけて下さいね」

「はい」

 アンリエットが気遣うと、石流は微かにはにかんだような笑みを浮かべた。

「それとこの日程表を元に、生徒用の旅のしおりを作って頂けますか?」

「了解しました」

 彼は二つ返事で了承すると、厨房の奥にある棚からクリアファイルを取り出した。そしてFAXが濡れないよう、その中に挟み込んでいく。

 アンリエットは扉に手を置くと、肩越しに石流をそっと振り返った。FAXを見下ろす彼の横顔は、いつも通り無表情に近い。だがいつになく険しく感じた。しかし彼はアンリエットの視線に気付くと、眦を緩めてこちらへと顔を向けた。その目礼にアンリエットは唇の両端を持ち上げて微笑を返し、そっと厨房の扉を開けた。

 廊下に足を踏み出し、後ろ手にそっと閉める。

 既に授業は終わっており、教室からは生徒達のざわめきが響いていた。幾人かの生徒は鞄を手に廊下に出ており、アンリエットに気付くと会釈を返してくる。

 生徒たちに笑みを返すと、アンリエットは床へと目を落とした。

 石流が綺麗に掃除したそこには、塵一つ落ちていない。

 アンリエットは顔を正面へと上げると、ミルキィホームズ達がいる教室へと足を向けた。

 

 

-4ページ-

 

 執務室の前を過ぎ、開け放たれたままの扉から中を覗くと、二十里が教卓の横にある自分の席で、赤ペンを走らせていた。おそらく午前中に行ったテストの採点だろう。

 そしてそこから少し離れた教室の中央辺りに、根津、安部、ブー太、そして眼帯にジャージ姿の女生徒と赤縁眼鏡の女生徒、ツインテールに水色のリボンをつけた女生徒が雑談をしていた。

 いつもならまだミルキィホームズも教室に残っている時間だが、その姿はない。アンリエットが訝しんでいると、彼女に気付いた根津が、机に腰掛けたまま顔を向けた。

「あれ、アンリエット様、さっきミルキィホームズが探してましたよ」

「あら、そうですの?」

 アンリエットは執務室と教室の境にあるガラス戸へ顔を向けたが、執務室には誰も居ない。

「入れ違いになったみたいですわね」

 軽く溜め息を吐くと、眼帯の女生徒が小さく首を傾げた。

「今までどちらに?」

「石流さんに用事があったものですがら、厨房の方へ」

 アンリエットは教室へ足を踏み入れ、ゆっくりと彼らに歩み寄った。

「研修旅行のしおりを作って頂こうと思いまして」

「あー、そういや旅行中の見学先やルートって石流さんが決めてるんだっけ?」

 何気なく吐き出された根津の言葉に、赤縁眼鏡の女生徒が興味津々な眼差しを向けている。

「そうなの?」

「うん、なんかキョウトには詳しそうだからって、アンリエット様が」

 そう返しながら、根津は傍らを過ぎていくアンリエットへ目を向けた。その視線を受け、アンリエットは彼の傍らで足を止めると、皆に向けて小さく頷く。

「旅行会社と相談しながらですけどね。先程向こうから決定稿が送られてきましたので」

「おや、するとアレで本決まりですか」

 顔を上げた二十里に、アンリエットは頷き返した。

「ところで、ミルキィホームズは何と?」

 彼女たちの方から自分に用事があるというのは珍しい。アンリエットが小さく首を傾げていると、根津が口を開いた。

「研修旅行中、飼ってるあのぶさ猫をどうしようって」

「あぁ、あの子ですか」

 シャロが「かまぼこ」と名付けている三毛猫は、仮宿舎でも彼女たちと一緒に暮らしている。決して美猫ではないが、愛嬌のある顔立ちと体型は、アンリエットも嫌いではなかった。

「そういえばすっかり忘れていましたわね」

 ゲージに入れれば新幹線にも乗せられるとはいえ、流石に研修旅行にまで同行させるわけにはいかないだろう。

 アンリエットは、大きめの胸を乗せるように両腕を組んだ。

 今までは、ミルキィホームズが数日間学院を空ける事があっても学院そのものは動いていたから、彼女たちが留守中でも食事には困っていないようだった。生徒達がパンやにぼしをこっそり分け与えている光景を、アンリエットは何度か目にした覚えがある。

 だが今回の研修旅行では、学院が完全に空となる。いつも通り放置するのは流石にまずいだろう。

「石流さんに猫用の扉を部屋のドアに付けて貰うか、G4の銭形のトコに預かって貰おうかって相談してましたよ」

 眉を軽く寄せるアンリエットに、根津が言葉を続けた。

「どうして銭形さんに?」

「猫、いっぱい飼ってるんだそうです」

 そう補足したのは、赤縁眼鏡の女生徒だ。

「でしたら、夕食の時にでもミルキィホームズに確認しないといけませんわね」

 アンリエットは軽く吐息を漏らすと、再び胸元で腕を組んだ。もしかしたら、ミルキィホームズはヨコハマ警察まで出掛けたのかもしれない。

 ならば彼女たちの用事はとりあえず夕食時に聞くとして、アンリエットは根津の横にいる安部へと目を向けた。

 彼は、石流同様キョウト育ちーーというよりもこの国の生まれだから、自分たちよりは百人一首には詳しいだろう。

 石流が自分にした説明を疑っているわけではない。しかし、石流が言った通り彼が狙われているのであれば、あらゆる可能性を考慮して、様々な解釈を検討してみるべきだろう。

 それにここにいる生徒達も、根津以外はミルキィホームズ同様に探偵を目指している。だから怪盗である自分達とは違う着眼点を持っているかもしれない。

 アンリエットの視線に気付いた安部が、緊張した面もちを向けた。

「な、何でしょうか、会長」

「ええ、ちょっと貴方にお尋ねしたい事がありまして」

 上擦った声を漏らす安部に、アンリエットは柔らかな笑みを返した。

「キョウトで100と言えば何がありますか?」

「え?100ですか?」

 安部は腕を組むと、微かに首を傾けた。

「百万遍という地名があります」

 そして天井へ目をやりながら、言葉を続けた。

「あとは……そうですね、先程授業で二十里先生がちらっと話していた百人一首でしょうか」

 それ以外はちょっと思いつきませんと頭を下げる安部に、アンリエットは「有り難うございます」と小さく頷いた。

「あの、それが何か?」

「ええ、ちょっと気になる事があったものですから」

 アンリエットは教壇まで歩み寄ると、白のチョークを手に取った。そして、FAXにあった八つの数字と、石流が口にした数字を書き綴った。そしてFAXにあったように81/100だけ丸で囲った。

 

 335/1111、30/100、81/100、38/100、20/100

  35/100、84/100、63/100

 

「皆さんはこの数字が何だと思いますか?」

 生徒達は一様に目を丸くし、黒板に書かれた数字を凝視している。二十里は片手でペンを弄びながら、細い眉を軽く寄せた。

「アンリエット様、なにこれ?」

 根津が大きく首を傾げている。他の生徒達も同様にきょとんとしているが、安部と眼帯の女生徒は、思い当たる節があるように思案している。

「……もしかして百人一首ですか?」

 眼帯の女生徒が口にした言葉に、安部も同意するように頷いた。

「下の100が百人一首であることを、上の数字が歌番号を指しているように思うのですが」

「やはりそう思いますか」

 アンリエットは、手にしたチョークを静かに置いた。

「上と下の数字は対応するのですか?」

「ええ、どうやらそのようです」

 赤縁眼鏡の女生徒の質問に、アンリエットは小さく頷いた。

「上は女性、下はそれに対する男性からの返しだと思ってください」

 そして上の最初の数字だけ古今和歌集を示したものらしく、最後だけ三つでひとまとめなのだと説明した。

「それで、これはどういう……?」

 眼帯の女生徒が、訝しげな眼差しをアンリエットに向けた。彼女の意図が掴めず、細い眉を寄せている。

「何かのテストですか?」

 二十里が目を細め、唇の両端を大きく持ち上げた。それにアンリエットは苦笑を返し、事実を誤魔化しながら説明した。

「いえ。最近読んだ本に載っていて、その解釈しかないのだろうかとちょっと気になったものですから。私も百人一首には詳しくないですし、それで皆さんの意見を聞いてみたくて」

 その言葉に生徒達は納得したように頷くと、それぞれ考え込んだ。やがて鞄から自分の端末を取り出し、操作し始める。

 一方で二十里は机上に肘を突き、交差させた細い指の上に顎を載せた。口は挟まず、ただ無言で生徒たちの様子を見守っている。

「ロミオとジェリエット的なものを感じます」

 最初にそう呟いたのは、ツインテールの女生徒だった。二つに分けた長い黒髪と水色のリボンを揺らし、端末から顔を上げている。

「30、38、20って全部恋歌ですよ。下の方は最後の63だけが恋歌ですが、これって恋人との仲を引き裂かれた男の歌ですよね」

 ロマンチックなやりとりだとうっとりする彼女に、眼帯の女生徒が反論した。

「それにしては、一方的すぎないかな」

 彼女は鎖帷子の上にジャージを着用した姿だったが、まだ真冬日が続くにも関わらず、太股を剥き出しにしている。

「上の女は未練たらたらだが、逆に男の方はもう過去の事だと割り切っている雰囲気がある」

 そして端末を手に、小さく首を傾げた。

「逆に気付かないで返しているとしたら、男の方はかなりの鈍感じゃないか」

「そんな、石流さんじゃあるまいし」

 根津が軽口を叩いた。その言葉に周囲の生徒も一緒になって笑っている。その中で二十里は眉を広げ、アンリエットをちらりと一瞥した。

「私は、上と下の男女は知り合いで、とりあえずは良好な関係かと思います」

 小さく咳払いして、赤縁眼鏡の少女が口を開いた。

「最後の上の数字は、一見すると振られた女の恨み節っぽいですが、それだと丸で囲まれた81だけ浮いてる感じがするんです」

 そして端末を机上に置き、人差し指だけ伸ばした左手を顎へとやった。

「だから、これだけ何か別の意味があるように思えます」

 次に口を開いたのは安部だった。

「平安時代では、うぐいすといえば初音のことです」

 初音というのは季節に初めて鳴く声を指すのだと、安部は説明した。

「ですのでもしかすると、この歌は初音という名の別の人物を指しているのではないでしょうか」

 首を傾げながら話す安部に、根津が口を挟んだ。

「そうすると、初音という人が、その二つの和歌の心境になってるって男に伝えているってこと?」

「なんか修羅場っぽいブー」

 ブー太が漏らした感想に、アンリエットは思わず苦笑を漏らした。

 予想通り、女生徒達はが恋愛的な解釈をしていた。だからそれもあながち間違いではないのだろう。それに根津が何気なく口にした解釈が、石流の説明に一番ニュアンスが近いような気がする。

「それでアンリエット様、彼らの中にエークセレンットな正解はありましたか?」

 二十里はキャスターの付いた椅子から立ち上がると、社交ダンスで女性を誘うかのような、仰々しいお辞儀をしてみせた。

「いえ、実は私にもよく分からなかったものですから。だから皆さんの意見をお伺いしたのです」

 アンリエットはそう告げ、黒板消しを掴んだ。そして書き記した数字を綺麗に消していく。

「それなら石流さんに訊いてみましょうよ」

 赤縁眼鏡の女生徒が、胸元で両手を叩いて提案した。

「二十里先生が、石流さんはこういうのには詳しいってさっき授業で言ってましたし」

 目を輝かせている彼女の横で、眼帯の女生徒は二十里の方へと顔を向けた。その弾みで、ポニーテールにした長い黒髪が小さく揺れている。

「そういやさっきの授業、どこまでが石流さんの受け売りだったんですか?」

「イッツ、シークレェット!」

「どうせ全部なんだろーがっ」

 目を閉じて大袈裟に肩をすくめてみせる二十里に、根津は呆れたように吐き捨てた。

「……あの、アンリエット会長」

 恐る恐るといった風情で安部に呼びかけられ、アンリエットは黒板消しを置くと、ゆっくりと振り返った。

「はい、何でしょう?」

「石流さんってキョウト出身なのでしょうか?もしくは大学で日本史や日本文学史を専攻していたとか」

「さぁ。お聞きしたところ、キョウト生まれではあるようですが。でもどうしてそう思うのですか?」

 アンリエットが尋ね返すと、安部は顎に手をあて、眉を寄せた。

「いえ、私もキョウトにいる間に一通り学びましたが……その時に教わった内容と似ていたものですから」

「何か問題でも?」

「いえ、その、あまり通説ではない視点だったものですから……まるで同じ先生に教わったかのような感じがしまして」

 安部は不思議そうに首を捻っている。

「石流さん、妙に古臭いトコロがあるからなー」

 根津の軽口に、赤縁眼鏡の女生徒が頬を小さく膨らませた。

「そこがいいんじゃない!」

「そうかぁ?」

 力説する女生徒に、根津は気圧されたように肩をすくめた。

「そういえば、百人一首は完全に頭の中に入っているようでしたわね」

 アンリエットがそう呟くと、眼帯の女生徒が目を丸くした。

「そうなのですか?」

「実は、先程用事のついでに同じ事を訊いたのですが、すらすらと説明して下さいました」

「おや。どんな答えだったんです?」

 アンリエットの言葉に、二十里も興味深げな眼差しを向けている。

「そうですね、皆さんと大体同じ感じでした」

 唇の端に小さな笑みを浮かべて返すと、ツインテールの女生徒は興味津々な眼差しを安部へと向けた。

「じゃぁ、安部君もやっぱり古文とか歴史には詳しいんだ?」

 決めつけるようなその口調に、安部は視線をさまよわせた。

「いや、その、私は古文方面はちょっと苦手で……」

 いつもは自信に満ちた口調が、しどろもどろになっている。

「キョウトの人間だからって、誰も彼もが詳しいわけじゃないのだよ」

 溜め息と共にがっくりとうなだれる安部に、眼帯の女生徒が「ドンマイ」と肩に手を置いた。その様子に、二十里は苦笑を浮かべている。

「ビューティフルな怪盗は、予告状や現場にそういう文献や文学から引用したものを残す者もいるからね。最近はすぐに端末で検索できるけど、小林オペラのようにオールマイティな雑学を身につけておいた方がいいよ?」

「うわ、珍しく先生らしいこと言ってる……」

 きりりとした表情で吐き出された二十里の言葉に、根津は頬をひきつらせた。

「あ、それで思い出したんだブー」

 根津の近くにいたブー太が、手元の端末から顔を上げた。

「キョウトといえば、最近変な噂が流れてるみたいなんだブゥ」

 そして端末を操作し、アンリエットの方へ端末を差し出した。

「これだブー」

 アンリエットはそれを受け取り、画面をみる。モニターには、国内で最大規模の利用者を誇り、誰もが匿名で書き込める掲示板が表示されていた。しかし匿名である分、嘘と真実、善意と悪意が入り乱れている。様々なジャンル別に話題が細分化されているが、彼が指し示したのは、その中でも怪盗限定の話を取り扱った場所だった。

「学院の生徒として、こういう場所に出入りするのはあまり関心できませんね」

 アンリエットはこの掲示板の存在は知っているものの、自ら見ることは殆どない。生徒会長としての見識を小さく漏らすと、ブー太はぼそぼそと言い訳した。

「情報収集の一環だブー。それに見るだけで書き込んでないから大丈夫だブゥ」

 生徒達もアンリエットの背後に回り込み、画面へと目を落としている。

「キョウトで天狗を見たんだけど」というタイトルの下に、ただ短く「なにあれ?」と書き込まれていた。そしてその下に、状況が大雑把に記されている。

 どうやらこのスレを立てた人物は、キョウト旅行中、ホテルのベランダで恋人と夜景を楽しんでいたら、屋根伝いに走っていく黒影を幾つか見つけたらしい。目を凝らしてよく見るとカラス天狗のお面をつけいて、忍者っぽい格好をしていたと記述されていた。夜なのに何でそんなに見えるんだ、という突っ込みがその文章の下に入っていたが、スレを立てた人物に「だって俺、視覚強化のトイズ持ちだし」と返されている。

「あ、私もそのスレ見ましたよ」

 アンリエットの手元を覗き込んで、赤縁眼鏡の女生徒が呟いた。

「調べてみたら、他にも目撃談があるみたいです」

 彼女によると、ブログなどネットの界隈で「キョウトで変なものを見た」という話がちょこちょこ出回っているらしい。

 アンリエットは再び端末に視線を落として、文章の続きを追った。

 最初はスレを立てた人物への質疑応答ばかりだったが、「俺も見たことある」という他の目撃情報が書き込まれ、やがてスレは、雑談を交えながら捨陰天狗党の噂や情報を語る場と化した。

 キョウトの地下には凄い宝が隠されているという噂があり、捨陰党がそれを守っている、または独占しているという話があるらしい。そしてその宝を手に入れれば不老不死になれるという話や、石川五右衛門は代替わりしている振りをして、実は戦国時代からずっと同一人物であるという説まで紹介されていた。憶測が憶測を呼び、さらにはそれを面白がった会話が飛び交って、混沌とした雰囲気を醸し出している。

 また、以前に比べキョウトに現れる怪盗が増えたらしく、捨陰天狗党を見かけた旅行者の画像や動画がネットに流れ始めているということも記述されていた。何故かそれらは片っ端から削除されていくそうだが、消される前に第三者が保存したものが出回っているのだという。

「最近、妙に捨陰天狗党関連の話題が多いんですよね」

 赤縁眼鏡の女生徒は自分の端末を操作し、アンリエットに別のサイトを指し示した。そこには旅行者が撮影したと覚しき黒服の人物が数人写った画像が表示されている。遠目ではあったが、白い長髪のカツラとカラス天狗の面で頭を覆い隠し、黒の忍者服のようなものとマントに身を包んでいるのが分かった。瓦屋根の上に立った彼らは日本刀を構え、ピエロのような格好をした怪盗らしき人影と戦っているように見える。

「この画像は、週刊誌に載っていたのが転載されたものです」

 彼女が口にした雑誌はあまりメジャーではなかったが、他の雑誌よりも探偵や怪盗の話題を頻繁に取り扱っていることで知られている。

 最近はネットと同様に、こうした雑誌にも捨陰天狗党の話題が載る事があると彼女は話した。

「でも表にこれだけ出ているってことは、怪盗の間ではもっと話題になってるって思うんですけど」

 初めて目にする画像と話に、アンリエットは柳眉を寄せた。

「それはいつ頃からですか?」

 手にした端末をブー太に返すと、彼は「つい最近だブー」と答えた。それまでは、殆ど話題になっていなかったらしい。

「記事を遡ってみたら、探偵博が始まった頃くらいから急に出るようになったような?」

 そう返したのは赤縁眼鏡の女生徒だった。

 アンリエットは、二十里へと目を向けた。この手の情報に一番詳しいのは彼だ。

 すると二十里はウィンクを返して、アンリエットがヨコハマに戻ってきて学園を再建し始めた頃から、急に捨陰天狗党の噂が出回り始めていると話した。

「でも、捨陰がキョウトに永遠の命を手に入れられる宝を隠してるってありますけど、永遠の命だなんてかなり胡散臭くないですか?」

 赤縁眼鏡の女生徒は、そんなトイズや宝は聞いたことがないと鼻先で笑っている。

「うむ、確かに私もキョウトでは聞いたことがないな」

 安部も同意し、大きく頷いた。

「でも、なんかロマンチックじゃない?手に入れたくなる気持ちも分からなくはないけど」

「それなら永遠の若さもないとダメじゃないか?」

 ツインテールの女生徒の感想に、眼帯の女生徒が肩をすくめた。彼女によると、神に願って掌に載せた砂の数だけの寿命を手に入れたものの、同時に若さを願わなかったせいで、老婆の姿でその長い時間を生き続けることになった女の話がギリシャ神話にあるらしい。

「でもでも、アンリエット様は、永遠の命が手に入るとしたら欲しいですか?」

 無邪気に声を弾ませる根津に、アンリエットは目をしばたたかせた。

 永遠の命。

 それは権力者を中心に多くの人間が望み、渇望したものだった。だが同時に、誰も手に入れることができない宝でもある。だからこそロマンもあるが、アンリエットは小さく肩をすくめた。

「私には必要ありませんわ」

 その答えに、根津は大きな瞳を瞬かせて「どうして?」と小首を傾げている。その素直な反応に、アンリエットは笑みをこぼした。

「人は生きているからこそ変わり続けます。いわば、変わり続けているということが生きている証なのです」

 そう告げると、アンリエットは生徒達を見渡した。皆目を瞬かせてはいるものの、真剣な眼差しを返している。

「ですが永遠とは、変わらないことです。自分だけがそれでは、つまらなくないですか?」

 そこで一息吐くと、アンリエットは唇の両端を小さく持ち上げた。

「探偵であろうと怪盗であろうと、お互いのライバルがいるからこそ、満たされるのです。永遠の命を手に入れたところで、独りきりでは意味がないのではないでしょうか」

 例え永遠の命を手に入れても、そこにライバルたるミルキィホームズが居なければ意味がない。

 流石にそれは口にしなかったが、アンリエットは唇に微笑を浮かべた。

「もし永遠というものがあるとするのなら、歴史上の人物のように後世にまで語り継がれることだと、私は思います」

 アンリエットが出した結論に、二十里は「ビューティフォー!」と呟き、胸元で両手を叩いている。

「さて、ユー達はそろそろ下校したまえ!」

 そして話題を打ち切るように生徒達を急かすと、くるくると回りながら肩を露出させた。

「まだまだ陽は短いからね。明るいうちに美しいボクが見送ろうッ」

 ジャケットを脱ぎ捨てる二十里の金髪が、夕陽に反射してきらきらと輝いている。

 アンリエットが窓辺へと目を向けると、青空に白く煌めいていたはずの陽は赤みを増し、空の半分以上を焦がしていた。薄く広がった白雲も紅に染まり、ゆるゆると流れている。

 二十里の言葉で生徒達は席を立ち、それぞれ鞄を手にして廊下へと出た。アンリエットも生徒達と一緒に足を進め、仮校舎の外へと出る。

「気をつけて帰りたまえっ」

「はーい」

「根津君、またねー」

「アンリエット会長、さようなら」

「はい、また明日」

 仮校舎の入り口で、二十里は上半身裸のままくるくると回っている。それを華麗にスルーしながら、生徒達はその横に佇むアンリエットや根津、ブー太に手を振り、校門へと去っていった。

 アンリエットは暫し生徒達の後ろ姿を見送ると、仮宿舎に戻るという根津とブー太、そして教室に戻る二十里と別れ、池の方へと足を向けた。なんとなく、そちらにミルキィホームズがいるような気がしたせいもある。

 暫く足を進めると、茂みをがざがざと揺らして、見覚えのある三毛猫が姿を現した。

 

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「にゃーん」

 アンリエットが足を止めると、その足首に身体を摺り寄せてくる。アンリエットは身を屈めると、両手でかまぼこを抱き上げた。かまぼこはアンリエットの胸元に前足を乗せた姿勢で大人しく抱かれていたが、ふわふわとした頭を撫でると、再び「にゃーん」と鳴いた。

「流石に貴方を連れていくわけにはいきませんわね……」

「にゃー」

 アンリエットの言葉に、かまぼこはまるで「仕方ないね」と頷くように返してくる。

 アンリエットは思わず眉を緩めた。そしてかまぼこを抱いたまま、再び足を進めていく。

「貴方の飼い主はどこにいるんでしょうねぇ」

 かまぼこに語りかけるように呟き、道を進んでいくと、やがて前方から複数の少女が談笑する声が耳に入った。

「そうなんですかー?」

 この朗らかな声音はシャーロックで間違いない。

 自然とアンリエットの歩みが早くなり、木々が茂った道を抜けると、視界が開けた。蒼く揺れる水面と、その畔に腰を下ろしたミルキィホームズが目に入る。

 背を向けた彼女達の正面に、ホームズ探偵学院の制服とは違った、黒のセーラー服に身を包んだ女生徒がいた。長い黒髪をシャーロックのように後頭部で輪にし、頭上では球形の髪飾りを二つ、小さく揺らしている。

 アンリエットは、記憶を手繰った。確か彼女の名は、森・アーティ。少し前に転校してきた生徒だったはずだ。

 そして斡旋した転入先を思い出そうとして、アンリエットは強い違和感を抱いた。

 ミルキィホームズと根津以外の生徒には全員、学院を破壊する前に転校先を斡旋していた。それなのに、彼女の転入先についての記憶がない。それどころか、食堂や校舎内で彼女を見かけた覚えすらなかった。

 ここ数日、頭の片隅に引っかかっていた違和感がそれなのだと思い至り、アンリエットは目を見張った。そして、シャーロックに投げかけようとした言葉を呑み込む。

 森・アーティは、シャーロックの隣でにこやかな笑みを浮かべていた。そしてアンリエットの視線に気付き、杜若色の瞳をこちらへと向けた。唇の片端を大きく持ち上げ、大きな瞳を細めている。

 友好的な笑みのようでいて、目は笑っていない。

 アンリエットは、反射的に息を呑んだ。頭の片隅で、危険だと知らせるシグナルが点滅している。

 胸元のかまぼこが、小さな唸り声をあげて毛を逆立てた。

「あ、アンリエットさーん!」

 アンリエットに気付いたシャーロックが、手招くように大きく手を振った。その言葉にネロやエルキュール、コーデリアも振り返った。

「あ、会長!」

 コーデリアは嬉しそうな笑みを浮かべている。その隣でエルキュールは小さく会釈し、ネロはシャーロックと一緒になって両手を振った。

 アンリエットがゆっくりと歩み寄ると、胸元にいるかまぼこにネロは目を丸くした。

「あれ、なんでかまぼこと一緒なの?」

「先ほど、校舎近くで見つけたものですから」

 しかし、かまぼこは森・アーティに向かって唸り声を上げたままだ。

 ネロはアンリエットの胸元からかまぼこを強引に抱き上げると、その頭を撫で回した。

「どうしたんだよ、お前、なんか不機嫌だぞ?」

「ふみゃー……」

 ネロに撫で回され、かまぼこは迷惑そうに目を細めている。

「皆さんはここで何を?」

 森・アーティを横目で伺いながらアンリエットが尋ねると、シャーロックがにぱっと笑った。

「アーティちゃんから色々お話を聞いていたんです」

「先輩たち、キョウトに行くらしいですねー?きゃっ、羨ましいですぅ」

 森・アーティは胸元まで両手を持ち上げると、唇を突き出した。

「それでアーティが教えてくれたんだけど、キョウトにはすっごいお宝があるらしいんだよ!」

 ネロが目を輝かせ、アンリエットへと身を乗り出した。

「宝?」

「うん、捨陰天狗党がキョウトのどこかに隠しているらしくて、色んな怪盗が今まで狙ったけれど、誰も手に入れられなかったんだって!」

 アンリエットが尋ね返すと、ネロはうっとりとした表情を浮かべた。

「きっとすっごい財宝なんだよ!」

 売れば大金持ちになれるに違いないと話すネロに、コーデリアは軽く溜め息を吐いた。

「アーティさんの話だと、そういう金銭的なものじゃなくて、永遠があるって話じゃなかったかしら?」

「永遠?」

「ええ、それを手に入れれば、永遠を自分のものにできるっていう話を、さっき森さんが」

 思い出すようにゆっくりと言葉を続けるコーデリアに、アンリエットは森・アーティへと顔を向けた。アンリエットは牽制するように鋭い眼差しを投げかけたが、彼女は意に介する風もなく、ただにこにこと笑みを浮かべたままでいる。それがとてつもなく不気味に感じられて、アンリエットは唇を結んだ。

 その一方で、ネロとコーデリアが口論を続けている。

「永遠って言われてもさ、抽象的すぎて意味が分からないよ」

「そうかしら?でもなんかロマンチックじゃない?」

「コーデリアは相変わらず夢見がちだなぁ」

 ネロがそう笑うと、コーデリアはむっとしたようだった。

「なによ、ネロはすぐにお金お金って」

「だって、それがないとどうしようもないじゃんか。僕は現実的なだけだよ?」

「まぁまぁ、コーデリアさんもネロもその辺にして下さい」

 さらに口論を続けようとする二人を、シャーロックがなだめている。エルキュールは眉を八の字に寄せ、ネロのスカートの裾を引っ張った。その所作に、ネロはふてくされたように唇を尖らせ、そっぽを向く。拗ねたようにかまぼこを撫でるネロに、コーデリアは頬を軽く膨らませながらも、仕方ないと言いたげに眦を下げた。

 それまで成り行きを見つめていたアーティが、アンリエットへ笑みを向けた。

「会長さんは、キョウトの捨陰天狗党が隠す宝についてご存じでしたかぁ?」

「……噂だけですが」

 無邪気さを装って探りを入れるようなアーティの声音に、アンリエットは端的に返した。

「やっぱりぃ、会長さんも気になりますぅ?」

「いえ、特には」

「あ、でも会長さんはもうそれを手に入れてるかもしれませんねぇ」

「え?」

 アンリエットが訝しげに見返すと、アーティは唇の両端を大きく持ち上げた。

「いますよね?会長さんの身近で、永遠をもたらすトイズの持ち主が」

 とっさに誰の事を言われているのか分からず、アンリエットは眉をひそめた。身近と言われてすぐに思い浮かぶのはミルキィホームズとスリーカードの面々だが、彼女たちが該当するとは思えない。

 それに彼女はアンリエットの裏の顔を知っているはずがないのだから、身近な人間といえば学院の人間を指していることになる。

「どういう意味ですか……?」

 慎重に尋ね返しながら杜若色の瞳を見返すと、アーティは眉を寄せて、口元に笑みを浮かべた。

「いえいえ、気付いていないなら別にいいんですよぉ」

 そして小さく首を傾げ、大きな目を猫のように細めた。

「忘れて下さいねっ、きゃはっ」

 その笑い声と共に、頭上の髪飾りが大きく揺れた。と同時に、夕陽を反射したかのような煌めきが目に飛び込んでくる。

 アンリエットは、アーティの言葉に小さく頷いた。

 何かを問い詰めようとしていた気がするが、その輪郭を明確に思い描こうとすればする程、頭に霞がかかったようにぼやけ、霧散していく。

 きっと重要なことではないのだろうと思い直し、アンリエットは小さく息を吐き出した。

「……ところで森さん、貴方は今までどちらの学院に?」

 目元を緩めて尋ねるアンリエットに、アーティはぺろっと舌先を出している。

「イギリスのポワロ探偵学院ですぅ」

 その言葉を受けて、コーデリアが口を開いた。

「でも暫くは、私たちと一緒にここで頑張ってたのよね」

「ですですぅ」

 アーティは小さく頷き返している。

「でも探偵博の頃に、実家に呼び戻されちゃったんだっけ?」

「そうなんですよぉ。私も先輩達と一緒に頑張りたかったのに、転入先が手配されてるならそっちに行きなさいって、無理矢理連れ戻されちゃって。てへっ」

 小首を傾げるネロにアーティは首をすくめ、再び舌先をぺろりと出した。

 アンリエットは微笑を浮かべてその話を聞いていたが、内心軽い違和感を抱いた。何か大事な事を忘れているような気がするが、それを思い出せないもどかしさが喉元までこみ上げている。

 何故そのような焦りを抱くのか分からず、アンリエットは軽く眉を寄せた。

「じゃっ、そろそろ帰りますねーっ」

 アーティは腰を上げると、膝元とスカートの裾を軽く払った。

「え、アーティちゃんもう帰っちゃうんですか?」

「はい、これ以上遅くなるとお父さんに怒られちゃうんですぅ」

 眉を寄せるシャロに、アーティは両手を頬に当て、残念そうに顔を曇らせている。

「また石流さんのご飯が食べたいですねーっ」

 そう話すと、アーティは片手を小さく持ち上げ、ミルキィホームズに軽く手を振った。

「ではバイナラ、きゃはっ」

 そしてきびすを返し、仮校舎へと続く道を駆けだした。しかしすぐに道を逸れ、茂みへと身を踊らせていく。

 がさがさと遠ざかる音を耳にしながら、アンリエットは眉間に皺を寄せた。「石流さんのご飯」という一言が、脳内に広がる霞を僅かに切り開き、違和感を拾い上げる。

「貴方達」

 アンリエットの低い声に、ミルキィホームズは怪訝そうに振り返った。

「はい?」

「アーティさんが食堂でどの席に座っていたか、覚えてますか?」

「え?」

「えーっと?」

 アンリエットの問いに、シャーロックとネロは大きく首を傾げた。

「あの……私達の席は、皆とは区切られていましたので……」

 か細いエルキュールの言葉に続けるように、コーデリアが頷く。

「死角になってて見えてなかったんじゃなかったかしら?」

 彼女たちの返答に、アンリエットは顔をしかめた。

 食堂ではミルキィホームズの席は隔離されていたから、いくら仲が良い後輩といえ、その席が目に入っていなければ覚えていなくても仕方ないだろう。だが、全ての席を見渡せられる場所に座っていた自分ですら、彼女の席がどこにあったのか思い出せない。

 彼女は本当に石流の食事を口にした事があるのだろうかという疑惑が、そっと頭をもたげてくる。

「でもアンリエットさん、それがどうかしたんですか?」

 シャーロックの言葉に、アンリエットは我に返った。彼女に目を向けると、小首を傾げて無邪気な笑みを浮かべている。

「そんなこと、別にどうでも良くない?」

 その傍らでは、ネロがのんきに笑っている。

「いえ……。何かとても重要な事だったような気がしたものですから」

 アンリエットがそう答えると、エルキュールは心配げな表情を浮かべた。

「考えすぎ……なんじゃ……」

「お疲れなんですよ、会長」

 コーデリアもエルキュールに同意し、眉を寄せている。

「そう……でしょうか……」

 自分を取り囲み、心配そうに見上げるミルキィホームズの顔を、アンリエットは見渡した。ネロに抱き抱えられたかまぼこも、いつの間にか唸るのを止めてアンリエットを見上げている。アンリエットと目が合うと、かまぼこは「みゃーん」と鳴いた。

「ネロ、かまぼこはなんて言ったんですか?」

「気をつけて、だって。何にかなぁ?」

「暗くなってきたから、池に落ちないようにって意味じゃないかしら?」

 コーデリアの言葉に、エルキュールも頷く。

 しかしアンリエットは、別のものを指しているのだろうと直感的に感じた。

 池へと目を移すと、赤く焦げた空に白い雲が浮かんでいる様が写っている。そして水面が夕陽を反射し、黄金色にきらきらと煌めいていた。

「そうですね……そうしますわ」

 アンリエットは、かまぼこの頭をそっと撫でた。かまぼこは、気持ちよさそうに目を閉じている。

 アンリエットがミルキィホームズを促そうとして、背後から土を踏みしめる足音が響いた。振り返ると、木々の向こうから制服姿の根津が姿を現した。

「アンリエット様……?」

「あら、根津さん」

 アンリエットが応えると、根津は緊張したように顔を強ばらせた。

「その、出掛けたままなかなか帰ってこないから、ちょっと心配になって」

 そう呟きながら頬をかく。しかしその背後にミルキィホームズがいるのに目を留めると、訝しげに眉を寄せた。

「お前ら、そんなとこで何してんだよ?」

「アーティちゃんが遊びに来てたんですよー」

 シャーロックがにぱっと笑みを浮かべると、根津は訝しげに眉をひそめた。

「アーティ?誰それ?」

「ボク達の後輩だよ。まぁ根津は知らなくても仕方ないけどさ」

 小馬鹿にするようなネロの口調に、根津はむっとした表情を浮かべている。

「大体根津がちゃんとしないから、ボクの会長が忙しくて大変なんじゃないか」

「ちょっ、なんで俺のせいになんるんだよっ」

 そして、そのまま二人のいつもの軽口が始まっていく。徐々にムキになっていく二人の表情に、アンリエットは思わず笑みをこぼした。

「あ、やっと会長笑ったねっ」

 アンリエットが小さく漏らした笑い声に、ネロは嬉しそうに口元を持ち上げた。根津は頬を僅かに赤面させているが、ネロと一緒に安堵したような表情を浮かべている。

 余程疲れた顔をしていたのか、怖い表情になっていたのだろう。

 アンリエットは小さく息を吐き出すと、ミルキィホームズへと向き直った。

「皆さん、暗くなりますから早く戻りましょう」

 そして眉を緩め、微笑を湛える。

「さぁ、石流さんの美味しいご飯が待っていますよ」

「はいですー!」

 ミルキィホームズを促すと、シャーロックはアンリエットの右腕に自分の両腕を絡ませた。そして急かすようにその腕を引っぱっていく。

「急ぎましょう、アンリエットさん!」

 その二人の先を、ネロがスキップしながら進んだ。

「ボクのごっはん、ボクのごっはん!」

 そう歌うネロに呆れた眼差しを向け、根津がその横を歩いている。

「今日の晩ご飯は……何でしょうか……」

「この香りはきっとシチューよ!」

 エルキュールとコーデリアは、アンリエットとシャーロックの後を付いて歩きながら、楽しげに言葉を交わしている。

 一行は、夕闇が迫りつつある森の道を急いだ。

 

 

→3へ続く http://www.tinami.com/view/500011

 

-6ページ-

引用・参考文献

 

*図説 地図と由来でよくわかる!百人一首(吉海直人 監修/青春出版社)

*光琳カルタで読む百人一首ハンドブック(久保田淳 監修/小学館)

*新版 古今和歌集 現代語訳付き (高田祐彦/角川ソフィア文庫)

*日本の歴史4 平安京(北山茂夫/中公文庫)

*QEDシリーズ(高田崇史/講談社)

*日本史の旅 京都の謎 伝説編(高野澄/祥伝社黄金文庫)

*怖い怖い京都(入江敦彦/新潮文庫)

*京都魔界地図(綾辻行人/PHP)

*京都魔界案内(小松和彦/光文社知恵の森文庫)

*歴代天皇事典(高森明勅 監修/PHP文庫)

*日本の怨霊(大森亮尚/平凡社)

*怨霊の古代史 藤原氏の陰謀(堀本正巳/北冬舎)

*あなたの知らない京都・異界完全ガイド (別冊 歴史REAL) (洋泉社)

*京都・異界をたずねて(文・蔵田敏明/淡交社)

 

説明
二十里先生の楽しい日本史の授業とアンリエットさまの麗しい古文がはっじまっるよー!
pixivだと二つに分割していますが、こっちは字数制限に引っかからなかったのでひとまとめにしてみました。
▽最初【http://www.tinami.com/view/421175】
▽前【http://www.tinami.com/view/421177】
▽次【http://www.tinami.com/view/540513】
<ご注意>
▼アニメ二期最終回直後の設定です。
▼本編で描写されてないのをいいことに京都の設定を捏造しました。
▼一部キャラの過去を捏造しました。
▼京都方面でオリジナルキャラがちょろちょろ出てきます。▽腐成分はないよ。
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