牢獄の愛魔法使い 一話 |
牢獄の愛魔法使い
交わしたのは永遠の契約。
求めたのは世界を少しだけ幸せにする力。
蒼き雷の魔法を得た少女は魔法使いの世界へと歩を進めた。
そして、後の社会を大きく変える長い三年間が始まる。
一話 魔女法第八条・すべて魔法は人民を幸せにするために使われる
天を貫く摩天楼。
宙に浮かぶ幾多の建物。
空を突き抜ける魔光。
――日本は、魔法使いの国である。
続く少子高齢化、環境汚染、未来の見えない国の行く末を憂いた時の首相は、ある決定を下した。
少子化を防ぐために、子どもを生ませるための法の公布だ。
一子もうける度に、多額の給付金を与える。ただそれだけの法だったが、不景気の世の中、これを頼る人々は多く、瞬く間に日本の若年層は膨れ上がった。
老人が多ければ、それを支える働き手もまた多ければ良い。単純で的を得た対策は見事に成功し、第二次団塊の世代と呼ばれる青年層が労働力となり、日本は以前よりずっと安定した国となった。
だが、その団塊の世代が子どもを作り始めると、今度は新たな問題が出て来てしまった。
第二次団塊の世代の子ども、いうなれば第三次団塊の世代が住むためには、日本という国は狭過ぎる。
かといって、海外に出してしまうのはもったいない。
そこで、同時期に研究が進んでいた魔道書研究の成果が活かされることになった。
魔道書、グリモワールの研究とは、古の魔法や悪魔といったオカルティックなものの研究で、行き過ぎた科学が環境を破壊したことから、科学技術の発展を自重していたこの時代、真剣に取り組まれていたものだ。
信じられないことだったが、かつて魔法や悪魔は実在し、悪魔契約によって魔力を得た人間、つまり魔法使いは、現実に活躍していたというのだ。
石油に代わる新たなエネルギー、魔力もその存在を認められ、遂に日本で実践投入の運びになった。
それまで美しいだけで無価値に思えた宝石が、多大な魔力を持つことが判明し、それをコアとすることによって巨大な建造物を天へと浮かす技術が発明される。
エレベーターや飛行機も魔力で動き、空気の薄い高所では、魔法の力でわずかな酸素で活動出来るようになった魔法使い達が活躍し始めた。
それまで飛行機が飛んでいた空は、瞬く間に箒を使って飛ぶ魔法使いが溢れ、日本の魔法使い人口は過半数を超えようとしている。
以前の自動車感覚で箒が飛び、地上に住むのは魔法の適正のない者と、新技術について行けない一部の老人だけとなった。驚くことに、多くの高齢者が魔法使いとして高い実力を発揮したのだから、絵本にあるような仙人のような老魔法使いとは、実在するものなのだろう。
――さて、地上に一人、この春に実施された魔法使い試験に落ち、魔法使いになる未来を諦めた少女が一人いる。
絵本の中の魔法使いには、いつも憧れていた。
空を飛ぶ魔法、腕を使わずに物を動かす魔法、どんな怖い魔物だって倒してしまう魔法。
それが現実にあるものだと知った時、わたしは将来、魔法使いになることを決めた。
魔法使いになること自体は、そう難しくはない。そうお母さんやお父さんも言ってくれた。実際に二人とも、才能はそこまでないみたいだけど、箒で近くのスーパーに買い物に行けるぐらいの魔法使いだ。
わたしも、物語に出て来るほどすごい魔法使いじゃなくて、日常を少しだけ便利にする魔法を使えるようになれれば、と思っていた。
だから、魔法の参考書を買って読み込んだ。
魔法使いになるためには、まず魔法学校に通わないといけない。
魔法学校は十五歳から通う学校。つまりは高校と同じで、これを卒業した後、魔法大学に進むことも、そのまま社会に出て行くことも出来る。最近のスタンダードではやっぱり、大学まで進むらしい。
そして、学校というからには、通うためには試験を受けないといけない。
けど、わたしの決意は固く、絶対に受かるために猛勉強を中学一年の時から重ねた。
部活も、アニメを見ることも、ゲームをすることも、漫画を読むことも、全部を犠牲にして、ただ勉強だけをした。
そうしてやって来たこの春、わたしは試験を受けた。
一次試験、ペーパーテストにわからない問題はなくて、百点は確定だった。
二次試験、適正試験。受験者に魔法の適正があるかを測る試験で、あらかじめ用意されている魔力測定器というものを握り締め、それに表示された値が一定以上なら、一次試験にさえ通っていれば合格になる、というもの。
こればっかりは、予習のしようもない。わたしに魔力が少しでもあれば合格。なければ……。
両親が魔法使いなのだから、わたしにも魔力はある。それが普通の考えで、わたし自身もそう信じていた。
魔法使いになりたいと思う。その時点で、自分に隠されている魔法の才能に気付いているということで、なろうと思えば絶対に魔法使いにはなれる。そうわたしは思っていた。
けれど、測定器が見せた数字は、合格値の5に満たなかった。4や3なら良かった。けど、出て来た数字は0.3。生涯魔法使いにはなれない、そう言われたのと同じだ。
見かねた試験官の先生が、魔法学者の道を教えてくれた。それだけの予備知識と、勉強する意欲があれば、必ず学者として成功すると。
でも、わたしは学者の道を選ぶことなんてしたくなかった。
自分で使えない魔法に、一体どれだけの価値がある?わたしは、魔法を使いたい。人の使う魔法を研究したり、魔法使いを育てるような職業になれるはずがない。
その結果、わたしは学校に通うこともなく、春からアルバイトを始めた。
魔法使いになれないなら……自分で魔法を使うことが出来ないというのなら、いっそ魔法とは関係のない人生を送った方が良い。
コンビニ、喫茶店とバイト先を変えて、最終的に花屋に落ち着いた。
魔法も好きだったけど、美しい花を見るのも好きだ。
元々わたしは、記憶力や集中力といったものはある方なんだと思う。あっという間に花の名前、その開花時期、花言葉に至るまで、花の知識を深めていくことが出来た。
もう魔法に関わることは出来ないけど、そんな日々は楽しかった。間違いなくわたしは満たされていた。
魔法使いを見上げる度に少し胸は痛んだけど、魔法と無関係な生活を謳歌していた。
――だけど、そんな生活はある日、小さな変化を迎える。
初めは小さな変化、それが大きくなり、わたしの人生までもが大きく捻じ曲げられていく。
「こんにちは。アヤメの花束を作ってもらえますか?」
わたしこと、佐金美静は、魔法使いである池垣菖蒲さんに出会った。出会ってしまった。
「これ?アイリス・ブーケっていうの。意味はそのまま、アヤメの花束だね。ふふっ、私と同じ名前の箒だから、一目惚れしちゃったの」
菖蒲さんは初め、わたしの店、オオヤギ生花店のお客さんとしてわたしの目の前に現れた。
花屋なんて、魔法使いは絶対に見向きもしない店だと思っていたのに、箒で店の前に降り立った菖蒲さんは、自分と同じ名前のアヤメが好きだから、という理由でその花束を買って行った。そして、それからウチを気に入ってくれたのか、しょっちゅう来てくれるようになった。
ぼんやりとしていて、優しげで天然っぽい菖蒲さんだけど、魔法使いとしてはかなりの凄腕で、まだ二十二歳なのに、実績のある魔法使いとして高い評価を得ている。……魔法使いになれないわたしにしてみれば、嫉妬の対象になるぐらい、優秀な人。
でも、わたしは菖蒲さんのことを嫌いになるどころか、どんどん彼女に惹かれて行くのを感じた。
彼女は、自然体でいるだけなのに、人に好かれる才能のようなものを持っている。本当にすごい人にはオーラがあるというけれど、菖蒲さんにはそのオーラというものが備わっているのだと思う。
「ところで、美静ちゃんはもう魔法学校に通っててもおかしくない年だよね?」
三回目に会った時、一番恐れていた質問が菖蒲さんの口から飛び出した。
多分、相手が菖蒲さんじゃなくて、信用出来ないと判断していた相手なら、わたしはその質問に答えることなく、無言で応対をしていた。けど、菖蒲さんだから、わたしは全てを打ち明けようと思った。
どうして?わからない。どうしてわたしは、菖蒲さんをここまで信頼しているのだろう。彼女に言ってもなんにもならない。そんなの、わかっているのに。
悲劇のヒロインぶって、慰めて欲しかった?――違う。これは打算なんかじゃなく、もっと純粋で、直感的に彼女に打ち明けようと思っただけだ。
「はい。わたしは、魔法学校に入りたくて、ずっと魔法の勉強をしていました。……でも、わたしには魔法の才能がないんです。測定器でほんの少しの魔力しか検出できなくて、一生魔法使いにはなれないって」
言葉にすると、改めて悲しみが溢れ出して来た。
わたしは、魔法使いになれない。
魔法使いを志していた女の子にとって、この現実がどれだけ重くのしかかったのか。きっと、菖蒲さんには理解してもらえない。彼女は間違いなく、天才なのだから。
それでもよかった。魔力のないわたしが出来ることは、既に魔法使いになっている人を応援して、彼女達に自分の分も魔法を使って、活躍してもらうことを期待するだけ。
菖蒲さんに夢破れたわたしのことを知ってもらって、更に頑張ってもらえれば、それだけで良かった。
「ひっ……えっぐっ、そうだったんだ……美静ちゃん…………。わ、私、本っ当に、ごめんなさいっ……」
「え、ええ?そ、そんな。別にわたしは、もうその辺り完全に諦めてますし、菖蒲さんには頑張ってもらいたいって」
……聞いてない、かな。
菖蒲さんは、いつも大体こんな感じに、ころころとその表情を変える。他人に感情移入し過ぎてしまって、まともに会話が出来なくなる。そんなタイプなのだと思う。
わたしが彼女に惹かれた理由の一つは、多分これ。
彼女を泣かしてしまうつもりはなかったんだけど、わたしの気持ちになってくれて、こうしてわたしのために泣いてくれる。これは菖蒲さんが優し過ぎるからこそ、起こってしまうことだ。
「ひっく。……でも、美静ちゃん。私と似た波長を感じるし、てっきり魔法の才能があると思ったんだけど」
「そ、そうなんですか?けど、試験用の計測器が狂っているはずありませんし、わたしはやっぱり、才能がないんです。残念なことですけど」
何やら菖蒲さんは、わたしの腕を掴み、脈を測るように手首を握ると、目を瞑った。
……また聞いてないな、これは。
「菖蒲さん……?」
「うん……この血流、間違いない。美静ちゃん、そりゃ、魔力計測器で魔力が検出できないはずだよ」
「えっ?」
わたしは基本的な魔法の知識を勉強したけど、本職の魔法使いだけが知れるような、高度な知識はまるで知らない。だから、今の菖蒲さんの行動が意味することはわからないし、その言葉の真意もわかりかねている。
――けど、どうやら菖蒲さんが、わたしに追い打ちをかけるような不吉な言葉を発しているようにも思えなかった。
彼女がそんなことをする性格じゃないのもそうだし、直感がそう告げている。わたしの勘なんて、大したものだと思えないけど。
「美静ちゃん、他の人より脈が取りづらいって、言われたことあるでしょう?」
「えっと……そもそも、そんなに脈自体測らないので、よくわからないです」
「ま、まあ、そっか。まだまだ若いもんね。……私も若いよ!?」
「すみません、訊いてません」
な、なんでこんなに必死なんだろう。
わたしにとって菖蒲さんは、頼りになるお姉さんではあるけど、年寄りだなんて思ったことは一度もないのに。
「でも、そうなの。あなたの脈は弱くて、測りづらいの。けど、それにはちゃんとした理由がある。普通、脈が取りづらいというのは、血の巡りが悪いか、腕に脂肪が付き過ぎて脈が弱く感じられるかのどっちかだけど、美静ちゃんはどっちでもないよね」
「は、はい。多分」
「だから、美静ちゃんの脈は、すごく静かなの。あ、名前にも静かって字が付いてるね」
「そ、そうですね」
えーと、菖蒲さんと話していると、話が脇道逸れて行くのは基本だから、あんまり気にしないようにしている。
子どもみたいに何事にも興味を持つから、こうして話があっちに行き、こっちに行きしてしまうんだろうな。今だって、なんとなく静かという言葉から、わたしの名前を連想したみたいだし。
「なんで静かっていえば、血にそういう機能が備わってるんだと思う。すごくない?血に銃でいえばサイレンサーみたいな機能があるんだよ。脈拍を測るのなんて、看護師さんぐらいしかいないのにね」
「脈を取られにくくする機能が血にある、ですか……。変な話ですけど、それとわたしの魔力にどんな関係が?」
「だから、魔力があるからこそ、そんなことになってるんだよ!魔力を含む血液、っていうのかな。つまり美静ちゃんは、魔力のある場所が普通の人と違うってことだね」
「は、はあ」
「え、ええー?ちょっとクール過ぎるよー。確かそういう魔法使いって、皆大魔法使いと呼ばれるぐらい偉大な人になってるんだよ?」
「そうなんですか……?」
にわかには信じがたい……というか、一度試験に落ちた身としては、とても信じられない。
わたしに魔力があるのだという話もそうだし、それどころじゃなく、大魔法使いになるぐらいの才能があるなんて。
このまま花屋として、地上で一生を終えると思っていたのに。
「普通、魔法使いは洗礼と呼ばれる儀式を経て、大気中や自分の体にある魔力を使って、魔法を使えるようになるのね。ここでいう体にある魔力というのは、ビタミンとかたんぱく質みたいな、栄養みたいなもの。消費されれば体からなくなるし、また摂取すれば蓄積される。
……でも、美静ちゃんは血の中に魔力を持ってるみたい。この魔力を引き出すのは普通の方法じゃ無理で、簡単にいえば、人間一人じゃ無理。その血の魔力を使って、悪魔と契約、使役をする。そうすることで得られる魔法の数々は、洗礼によって得たそれを大きく凌駕する……ってことみたいなの。そんな魔法使い、まずいないから私も会ったことないんだけどね」
「……なんだか話を聞いただけだと、すごく物騒な感じですね」
「確かにそうかも。でも、契約者に相応の魔力があれば、悪魔は従順みたいだよ?」
「相応の魔力がわたしにあるんですか?」
「うーん、脈を取っただけじゃよくわからないけど、多分あると思うよ!血に魔力があるって時点ですごいんだから!」
「そ、そうなんでしょうか」
「た、多分」
どうしよう。菖蒲さんってすごい魔法使いのはずなんだけど、本人のぼんやりとした性格も相まって、いまいち信じられない。
う、うーん。わたしに魔力があるなんて、本当はすごく嬉しいんだけど。
「でも、それってすごくイレギュラーなことなんですよね。魔法学校に入ることって出来るんですか?」
「今の技術だと、血液中の魔力を測定する方法なんてないから、なんとも……。個人的に悪魔と契約して、その魔法を見せちゃえば、文句なしで合格点だと思うんだけどね」
「悪魔との契約って、個人的に出来るものなのかな……」
「その辺りは、私もよくわからないからね……。うーん、ちょっと時間をもらえれば、調べてみるよ。今度来た時で良いかな?」
「あ、はい。わざわざありがとうございます。菖蒲さんも、お仕事大変でしょうに」
「ううん。未来の仕事仲間のためなんだから、全然苦にはならないって。それに私、美静ちゃんのこと好きだしっ」
「あ、ははっ。そうですか。……わたしも、菖蒲さんは好きですよ」
「やった。両想いだねっ」
もちろん好きって言っても、友達というか、人として好きってだけなんだけど。……菖蒲さん、ちゃんとわかってくれてるかな。
基本的に天然なこの人は、その辺り勘違いしてそうでちょっと怖い。
「えーと、はいっ。いつもありがとうございます」
今日も菖蒲さんの注文は、アヤメの花のブーケ。
これを何に使っているのか、よくわからないけど、いつも買って行ってくれている。結構大きな物だし、安い買い物ではないんだけど。
「今日も奇麗だね。アヤメって、五月の花なんだよね」
「はい。でも、最近は自然のものより、上で人工栽培されているものもありますから、いつでも手に入りますよ」
「でも、このお店は地上で栽培しているお花だけだもんね。うん、香りも良い……」
紫の花の匂いを嗅いで、菖蒲さんは箒――自分の名前を冠した相棒――で飛び去って行った。
魔法使いが箒に乗って空に飛び立つ。いつ見ても、何度見ても、感動と憧れと、悔しさを覚えざるを得ない光景。
でも、今日のそれは、いつもより晴れやかな気持ちで見送ることが出来たと思う。
ほんの可能性が見出されただけ。このまま、また絶望を味わうことになるかもしれない。だけど、示された未来に、今だけは酔っていたかった。
「美静ちゃん!こんにちはー!」
「いらっしゃいませー」
丁度一週間。菖蒲さんが箒でやって来る。
菖蒲さんの格好は、多くの魔法使いが制服のように着こなしているローブ姿ではない。
もっとスマートで、格好良くて、「普通」っぽい、ブラウスにブレザーという、学生のような出で立ち。
長く、美しい黒髪に、紺色のブレザーが決まっていて、可愛いとか奇麗というより、格好良さを感じる。そんな他の魔法使いとは見た目からして違う菖蒲さんが、わたしは好きだ。
「よっ、と。この店の前は、いつも奇麗に掃除されてるよねー。いつか掃除してあげたいって思ってるんだけどなー」
「気が付いたら、わたしが掃除してますから。……って、空を飛ぶための箒で掃除なんかして、良いんですか?」
「ふふっ。どうかな。そんな話全然聞かないけど、魔法使いにとって箒は商売道具みたいな物だからね。もし掃除に使ってても、自分では言わないのかも」
そんな大事な箒を掃除に使おうと思う人なんて、菖蒲さん以外にいないと思うけどな……でも、だからこそ菖蒲さんは身近に思える。嫌みっぽくなくて、でも、オーラはあって……本当に不思議な人。
「それより美静ちゃん。ちょっと長いお話になりそうなんだけど、中入れてもらって良いかな?」
「はい。大丈夫ですよ。椅子と、お茶も出しますね」
「あ、いやいや。全然お構いなく」
「わたしのために、貴重なお時間を割いてもらったんですから、これぐらいのおもてなしはさせて下さい」
「え、そ、そう?うーん、じゃあ、お願いしようかな」
「はいっ」
他のお客さんはあんまり来ないだろうし、菖蒲さんぐらいの常連さんなら、これぐらい丁寧な応対は普通だと思う。
無骨な丸イスなのが心苦しいけど、椅子をお出しして、店長の趣味で揃えられているハーブティーを淹れる。
ちょこん、と意外に可愛らしく座っていた菖蒲さんにそのお茶を渡すと、わたしも椅子を出してそれに腰かけた。
下ろしていると邪魔になるから、仕事中はポニーテールにしている髪のリボンを解くと、はらり、と髪がエプロンの上に零れるように広がった。
全然おしゃれなんかしないわたしだけど、髪は茶色。中途半端に染めているから、黒い部分も多いけど。
「うひゃー……。美静ちゃんが髪を下ろしてる姿って、初めて見たかも」
「あ、はは。そうですね。そんなに奇麗な髪じゃないので、菖蒲さんに見られるのはちょっと恥ずかしいです」
「ううん。全然そんなことないよ。うんうん、この茶色と黒色が混ざり合った、こう、カオス!って感じに野生味があって、マニアックな魅力があるよ!」
「ま、マニアック……」
「あっ、けなしてないよ!?」
「は、はい。わかってます」
菖蒲さんは色々と素直な人だから、わたしも言葉通り素直に受け取れば良いとわかっている。
他の魔法使いとは、このせいで上手く行ってないのかもしれないけど、お世辞を言って本心を隠されるより、わたしは菖蒲さんみたいな人の方が好きだ。
時々、ぎくりとさせられるようなことを言われるところも含めて。
「でね、悪魔契約の話なんだけど」
「はい。そんなに文献が残っていたりするものなんですか?」
「うーんとね。現代の書かれた資料は、全然なかったよ。ケチな話だよね。自分のやったことを記録しようとしないで、未来の有能な魔法使いの未来を断とうとするなんて。魔法はまだまだ発展して行くべき分野なのに」
菖蒲さんは、むすーっと頬を膨らませて怒った。童顔のわたしとは違って、大人びた奇麗な顔立ちなのに、そのアンバランスさが不思議に思える。
気に入らないこと、不条理には本気で怒って、共感出来ることには全力で頷く。それがこの年にもなって、当たり前に出来るなんて。どうしてこの人は、そこまで自分に、全てに、正直でいられるのだろうか?
「だけどね。昔の奥義書、魔法の秘伝を記した本を読んで行くとね。色々なことがわかったよ。さすがに借りることは出来なかったし、メモするのもあんまり良くない内容みたいだから、私の記憶を頼りに話すんだけど……」
そこから話は、理論的なものに移って行った。
といってもそこまで難しいものではなく、きちんと魔法の基礎を勉強していたわたしには、すらすらと理解することの出来るものだった。
悪魔との契約の危険性も説かれていたけど、書物の内容は、おおよそ悪魔は恐れるに値しない、魔法使いにとって良き相棒(つまり使い魔)となってくれる存在だ、というものだった。
前に菖蒲さんが言ったように「相応な魔力」さえあれば、そう難しいものではないのだと。
「後、悪魔の召喚の呪文なんかも覚えて来たけど、それはまだ教えなくて良いよね。今教えちゃっても、忘れちゃったら意味がないし」
「そうですね。……でも、悪魔さえ召喚して、契約を交わしたら、わたしは」
「私達魔法使いの仲間入り!魔法学校は、秋の入試もあるし、この九月から晴れて美静ちゃんも魔法学生だね!」
「魔法、学生……」
ずっと夢見ていた、何よりも尊い響き。魔法使いを志す者の第一歩。
そこから大成するか、大衆の中に埋もれて行くかは、自分の努力と才能次第。でも、魔法をその手にすることは、間違いなく誇れること。――少なくとも、地上で暮らす人にとっては憧れの的となる。
魔法使いの使命は、その力を使って人間社会を更に豊かに、便利に、平和で、安全なものにすること。どこか漠然としたその使命は、社会奉仕を基本にして遂行される。
そう、菖蒲さんも、魔法使いを職業として名乗っているからには、公務員として国のために働いている。新たな宝石の採掘や、魔法学者の新理論の実践、時には魔法使い同士の軍事衝突……華やかな魔法使いの世界には、同時に死の危険が付きまとう。安易にそれを目指すことは、褒められたことではないのかもしれない。
――でも。でも、わたしは魔法使いになりたい。職業は魔法使いが良い。それが、夢だった。
「美静ちゃん。ちょっと気が早いかもしれないけど、悪魔との契約はいつにする?もちろん、私もちゃんと立ち合うよ。乗りかかった船だもんね」
「ありがとうございます……。えっと、再来週の日曜って、都合が付きますか?来週でも良いんですけど、そこはその、まだ心の準備が……」
「うん、適当に都合を付けるよ。まあ、いきなり悪魔と契約する、なんて大変なことだもんね。それに、学校に入るなら、お仕事もやめないといけないし」
「そうですね……。このお店には、本当にお世話になりました」
今までわたしを雇ってくれた。そして、菖蒲さんと会うきっかけにもなってくれた。
もしもここではなく、別なお店で今も働いていれば、わたしは菖蒲さんと出会えていない。あまり流行ってないお店だったけど、ここで働いていて、本当に良かった。
「あ、それから今日この後、お仕事が終わってからで良いんだけど、ちょっと一緒に来てもらって良いかな」
「菖蒲さんと、ですか?」
「うん。毎週この日、つまり水曜日には、休みをもらってるんだよね。アヤメを毎回買わせてもらってる理由、そろそろ教えちゃおうかなって」
「理由、ですか」
わたしはまだ、菖蒲さんの私生活は全然知らない。ただ、すごい魔法使いで、アヤメの花束を買って行き、次の週にはまた買いに来るということだけ。
そんなに早く花が駄目になるとは思えないし、ただ家に飾るためだけに買っているのではないことは、なんとなく予想が付く。
花を使った魔法もあるそうだけど、それなら魔法で育てられた花の方が触媒としては優秀なはず。なら、その使い道は?
「それじゃ、お店が閉まる頃にまた来るね。その時までに花束は用意してくれたら良いから。……じゃ、ハーブティーご馳走様でした。ちょっと匂いが独特で、飲みづらいね」
「あはは、同感です。……では。お待ちしてますね」
自分の分のお茶を用意しなかった理由は、これ。
ハーブティーという字面だけを見ると、すごく上品でおしゃれだけど、実際はちょっと癖があって、好みがはっきりしているタイプの飲みものと思う。
わたしは苦手だったけど、菖蒲さんも苦手みたいで、ちょっと嬉しい。
「はい、菖蒲さん。ご注文の花束です」
「ありがとー。それじゃ、お代はこれね」
ウチのお店の従業員は、わたしと店長の二人だけ。女性二人で夜遅くまで営業するのは危険ということで、夜は七時までしか開けてない。逆に朝の開店も七時。寝起きの悪いわたしには中々これが辛くて、慣れるまで大変だった。
今では朝から笑顔で接客出来ているけど、たまにボロが出たりして、タイミング良くそれを店長が見ていたりするものだから、小言を頂くことが結構あったり。……本当、見られたくないものほど、人に見られるものだなって思う。
「菖蒲さん、歩いて来られたんですか?」
「うん。街中で箒を乗り回す訳にもいかないでしょ?それに、魔法使いもたまにはちゃんと地面を歩かないと。私、こんな年からお婆さんみたいに箒を杖にしないと歩けなくなるなんて嫌だもん」
「あはは、そうですね。……でもそんなの意識する魔法使い、他にいないんじゃないですか?」
「そうなんだよねー。地面を歩くなんて、ださいとかなんとか……人間が四足歩行から二足歩行に進化したのは、歩きながら物を持つためなのに、歩くのを放棄してたら、足が腕になっちゃうぞー!とか思うんだよね」
「よ、四本腕に進化するんですか……」
想像してみると、ちょっと、いや、かなり怖い。箒に乗って、四本の腕で物を掴んでいる新人類……クモみたいですごく嫌だな、それ。
「ま、それは良いや。そんなに遠くないからついて来て。楽しい場所に行く訳じゃないけどね」
「は、はい」
日の暮れた街を、菖蒲さんと一緒に歩く。なんてないことのはずなのに、気分はまるで大冒険。これから、どんなところに行くのだろう?そればっかりが気になってしまう。
相変わらず菖蒲さんの後ろ姿は、いかにも「出来る女性」って感じで格好良く決まっていて、どこか憂いを帯びた表情で歩いていると、なるほど、彼女は本当に偉大な魔法使いなんだ、と素直に尊敬してしまう。
「あ、可愛いわんこだー。わんわんっ」
……黙っていれば。
「可愛いわんちゃんですねー。ダックスフンドですか?」
「えっ?ヨーキーですけど……」
「あ、あー。そんな名前の犬もいましたよね」
菖蒲さん。ダックスフンドとヨーク・シャーテリアは明らかに違う犬だと思います。
……すごく失礼な話だけど、菖蒲さんって魔法の才能の代わりに、色々な面が残念な感じがしてならない。喋らなければすごく美人だし、格好良い人なのに、そこがちょっと勿体ない。完璧過ぎる人より、その方が親しみが持てるけど、残念でならないっ。
「私、一度ペットって飼ってみたいんだけど、中々難しいよねぇ」
「お仕事の間、構ってあげられませんからね……。菖蒲さんって、一人暮らしなんですよね?」
「うん、そうなんだよー。前までは友達とルームシェアしてたんだけどね。今は一人暮らしにはちょっと広過ぎる家で、寂しく暮らしている訳。……はぁ、美静ちゃん、私と一緒に暮らしてくれない?」
「ええ?わたしも一応、社会人なのでその気になれば大丈夫ですけど……」
「じゃあ、真剣に考えておいてくれない?わたしの家の近くに魔法学校あるしね。ちょっとレベルの高いトコだけど、美静ちゃんなら間違いなく合格だよ」
軽い気持ちで言ったつもりなんだけど、本気なんだ……。もしかしなくても、菖蒲さんって寂しがりなのかな。
……でも、わたしも菖蒲さんと一緒に暮らせるなら、それも悪くないと思う。親元を離れることには不安があるけど、頼れる(はずな)お姉さんである菖蒲さんが傍にいてくれるなら、きっと楽しく、充実した毎日が送れる。そして何より、現役の魔法使いとして活躍している菖蒲さんに魔法を教えてもらえるんだから、これほど心強いこともない。
一つ気がかりがあるとすれば、どうも菖蒲さんが生活面では頼りなさそうなことだけど……大丈夫だよね。今まで菖蒲さん、生きて来れたんだし。
「あれ?……菖蒲さん、こっちって」
何度か足を運んだことはある。すごく寂しげで、悲しい場所。
人生を終えた人が埋められ、残された人が時々やって来ては、冷たく、小さくなったその体に語りかける場所。
「うん、お墓だよ。お墓参りに付き合わせちゃうなんて、非常識だよね。ごめんなさい。……でも、一度美静ちゃんを紹介したかったの」
菖蒲さんは霊園へと入って行き、その中で一際立派なお墓の前までわたしを案内してくれた。
洋風の墓石に英語で刻まれた名前は、ヤナイレイナ。柳井玲菜。その名前には、見覚えがあった。
「柳井、玲菜さん……もしかして」
没年は、一年前。間違いない。この人は、去年亡くなった当代一の天才魔法使い、『氷聖』と呼ばれた柳井玲菜さんだ。
「私なんかよりずっと有名だから、知っているよね。一応私、玲菜の親友、ってことだったんだ。ルームシェアをしていた相手というのも、玲菜のこと」
「そう、だったんですか……」
「ちょっとごめん。玲菜とお話するね」
柄杓で墓石に水をかけ、線香を換えて、菖蒲さんは花束を墓前に供えた。瑞々しいアヤメの花達が、薄暗い中でも輝いているように見える。
「一週間ぶり、玲菜。今週も私なりに頑張って来たよ。この子が、先週も話した美静ちゃん。ポニテ好きのあなたにしてみれば、最高なんじゃない?……っと、まあそれは良いや。今度、この子が悪魔と契約するの。私がちゃんと見ているから大丈夫だと思うけど、良ければあなたも応援してあげてね。……じゃ、また来週。そろそろアヤメのシーズンも終わるし、何か別の花を考えておくね」
すっ、としゃがんでいた菖蒲さんが立ち上がって、わたしに小さく微笑みかけてくれた。
立ち去る前に、わたしも墓石に一礼して、小さく「失礼します」と先輩の大魔法使いに挨拶をさせてもらった。
「玲菜の死因って、一般にはどんな感じに公表されてるの?」
「え?えーと、仕事中に事故死、とだけ」
「なるほど、事故死、か。大人の社会って、変だよね。平気で嘘が蔓延して、それが本当のことのように思われちゃう。上が左を右といえば、明日からそれは右で、その逆もまた然り。玲菜は刑死したんだよ。今時、絞首刑。すごいよね。魔法の時代に、そんな前時代的な儀式が未だに残ってる」
「えっ……?」
さらりと菖蒲さんは言ってのけたけど、今わたしは、とても大変なことを聞いてしまった気がする。
あの柳井玲菜さんが、刑死した?そんなことが、本当にあり得る話なのか?
「詳しくは話せないけどね。この世界は狂ってる。それだけは美静ちゃんにも意識しておいてもらいたいかな。……はい、じゃあ今夜はもうちょっと、遊んでから帰りましょう?美静ちゃん、門限とかって大丈夫だよね?」
「は、はいっ。もう一応、その辺りは社会人ですから」
「なら、カラオケでオールとかも大丈夫だよね!よーし、行こうっ」
「オールはさすがにちょっと、明日の仕事にも差し支えますし……」
「良いではないかー良いではないかー」
「だ、駄目ですっ」
菖蒲さん、酔ってない、よね?どうもテンションが素面っぽくないというか……さっき見せた暗さの反動?
まだわたしは、いまいちこの人のことがわかっていない。悪い人じゃないのは間違いないけど、まだまだ菖蒲さんにはわたしの知らない一面がありそうだ。そういえば、まだ魔法使いとして活躍している姿は見たことがないし。
「おっ、誰かと思ったら、菖蒲か?ようよう、地上に会えるなんてなー」
なんて思いながら薄闇の街を歩いていると、道路の向かい側に一人の女性の姿が見えた。妙に男らしい口調とは裏腹に、奇麗に染められた金髪が印象的な美人さんで、見た感じ菖蒲さんと年はそう変わらないみたいだ。服装は菖蒲さんのブレザーよりかっちりとしたスーツ。これまたあんまり魔法使いっぽい見た目じゃない。
「那美子。こんばんはー。こんなところで会うなんて、本当に奇遇だねぇ」
「ちょっと待っててくれよー!信号変わったらすぐそっち行くからー!」
「オーケーオーケー。美静ちゃん。彼女、私の同僚の日向那美子ちゃん。私と同期で、好敵手と書いて、ライバルと読む感じの関係の子かな。予想が付くと思うけど、元レディース。まあ、全然怖くなくて、すごく仲間想いの良い子だけどね。本人否定するけど」
「な、なるほど」
そっち系の人だったのか……差別みたいな言い方だけど、魔法使いにはそういう人もいるんだな。ちょっと意外かもしれない。
信号が変わると、すぐに那美子さんは全力ダッシュで横断歩道を渡って、菖蒲さんに衝突するぐらいの勢いで迫って来た。身長高いし、スタイル良いしで、かなり威圧感があるな……。
「よう!まさか、示し合わせてないのにお互いオフの時に会えるとは思ってなかったぜ。今日は、墓参りだったよな?」
「うん、そうだよ。今その帰りで、この子と遊ぼうと思ってねー」
「へぇ、魔法使いの子じゃないよな?」
無遠慮に、だけど人懐っこそうな笑みを浮かべながら那美子さんは、じっとわたしを見つめた。
大きなこげ茶色の瞳にわたしの姿が映り込んで、なんだかそれがすごく恥ずかしい。頬が赤く染まっていくのが自分でもわかった。
「将来有望な魔法使いの卵にして、私の可愛い可愛い妹分、ってところかな。あー、あんまりちょっかいかけないであげてよ?」
「わかってるって。もう紹介されたけど、あたしは那美子。よろしくな」
「あ、はい。美静です。よろしくお願いします」
「おー、赤くなってる。こいつぁ確かに可愛いな。あたしはこいつより普通だから、安心してくれよな」
菖蒲さんより、普通……その基準だと、少なくとも一般人じゃない気がするんだけど、間違ってないのかな。
でも、取っ付きにくい人じゃないみたいだ。さすが菖蒲さんの友達だけある。
「で、那美子。このまま女子三人でガールズトークに花を咲かせるのも良いけど、他にすること、あるんじゃない?」
「へへっ。さすが、物分りが良いぜ。美静、タイミングが良かったな。今から、先輩の魔法ってもんを見せてやるぜっ」
「え、ええ?」
「私と那美子は同僚で友達だけど、出会う度に必ずする、儀式……みたいなのがあってね。ずばりそれは、決闘!魔法使いの決闘を見るのなんて、初めてでしょ?」
「はい……で、でも、こんな街中で出来るものなんですか?」
魔法使いの決闘とは、魔法使いの仕事の中でも最も危険なものに分類されるものだ。内容は単純。魔法使いが互いの秘術の限りを尽くして、相手を打ち倒してしまうことを目的とする戦闘。多くは相手の戦意を喪失させれば勝ちになるのだけど、結果、相手の命を奪ってしまう場合もある。
魔法学生ならまだしも、立派な魔法使いである二人が決闘するとなると、こんな街中でしていては通行人や建物に甚大な被害が出ることが予想される。おいそれとは出来るはずないんだけど。
「まあ、魔法使いじゃないお前がそう思うのもしゃーないわな。安心しな。魔法使いは自分達が喧嘩する場所ぐらい、自分で確保出来るんだぜ」
「魔女法では、魔法使いの決闘は反転結界の中でのみ許されている。反転結界とは、二人以上の魔法使いが合意の上で織り成す大規模の領域型結界魔法。昼が夜、夜が昼、結界内の時間が反転することからこの名が付けられている。
反転結界は中心地から半径ニキロメートルの範囲内に別次元の結界世界を構築する。これを反転世界と呼び、反転世界は決闘の決着が付けば崩壊、反転世界で起きた事象は現実世界に影響を及ぼさないことから、決闘に便利である。……と、出典は私の脳内ウィキペディアでしたっ」
なるほど……なんとなくイメージが出来る。
簡単に説明してしまえば、一般人に迷惑をかけないように決闘専用の世界を作って、そこで魔法戦を行う、と。そういうことか。
「もちろん、私と那美子が仲悪いから戦うんじゃなくて、お互い切磋琢磨するための腕試しだから、本気でやり合うって訳じゃないから安心してね。美静ちゃんにも魔法を間近で見る良い機会だし、観戦するといいよ」
「は、はい。是非お願いします」
初めて見る菖蒲さんの魔法。魔法学校をとっくに卒業して、華々しい成果を既に打ち立てている人が使う魔法なのだから、低レベルなはずがない。普通は絶対に経験出来ない、貴重な一戦を見ることが出来るのだと思う。
想像するだけで胸が高鳴り、わたしもそんな魔法の世界の一員になれると思えば、興奮で目頭が熱くなるほどだった。
「よし、じゃあ始めようぜ」
那美子さんが箒を高く掲げ、それに呼応して菖蒲さんも箒――アイリス・ブーケを空に掲げ、那美子さんのそれと鍔迫り合いするように交わした。
「反転結界を形成する際は、決闘を行う魔法使い同士が武器を交わし、誓いの言葉を唱える。誓いの言葉というのは、魔法使いになる時に決める、自分への戒めや、魔法を使う目的を明らかにするものだね。美静ちゃんも、必ず決めることになるよ」
「そうなんですか……」
「堅苦しく考える必要はないことだけどね。自分の想いを率直に言葉にすれば良いと思う。後、決闘の時に必ず唱えるんだから、自己紹介的な意味を込めても良いかもね。まあ、その辺りは私達が唱えるのを見ていればわかるよ」
それから数拍置いて、箒を重ね合わせた二人が厳かに誓いの言葉を口にする。
その姿は絵本の世界にいるような――魔法使い。
『輝ける未来を――!』
『煉獄の果てに救いを!』
波紋が広がるように冷たくも温かくもない風が吹き、わたしはその中に包まれ、あまりの風圧に目を瞑った。
そして目を再び開いた時、周囲に他の人はいなかった。菖蒲さんと那美子さんの他を除いては。
「相変わらず、那美子の誓いって芳し過ぎて、聞いてて胸焼けしそうになるよね……」
「なっ、誰が中二病だ!これは一応、あたしの使う炎の魔法と煉獄をかけて、それから不良からの脱却を誓った言葉なんだよ!そういうお前は、漠然としててよくわからねー誓いじゃねぇか!」
「わ、私も雷の魔法と輝きっていうのをかけて、明るい未来が作れれば良いな、って思って一日寝ずに考えて決めた言葉なんだから!」
決闘はもう始まっているのか、絶妙に低レベル(?)な舌戦がいきなり繰り広げられている。
わたしはどちらもそれらしくて、素敵だと思ったけど、まず誓いを罵り合うことから魔法使いの戦いは始まるのだろうか……もし恥ずかしいポエムみたいな誓いにしちゃったら、それを一生ネタにされたりするのかな。わたしの時はきちんと決めないと。
「単純に服が先に損傷した方の負けで良いよね?同時の場合は損傷が激しい方、何を賭ける?」
「そりゃあ、夕飯代だろ?こちとら腹減ってるんだ。負けたら黒豚カツ定食千五百円な」
「じゃあ、那美子が負けたらスペシャルエビフライ定食千三百円!……あれ、微妙に私の方が安いっ」
「細かいことは気にするな!」
「ま、負けなければ良い話だよね」
決闘って、賭けごとになるのか……やり過ぎたら破産しそうだし、気を付けないと。
それにしても、偉大な魔法使い同士の戦いなのに、夕食代を賭けるなんて、どこまで庶民的……。この人達、ただのOLのお姉さんなんじゃないかな、という気もして来る。特に那美子さんはスーツ姿で、いかにもそれっぽいし。
「じゃ、那美子、一、ニの、三!で開始ね」
「おう」
「一、ニの……いきなりドーン!」
い、いきなり菖蒲さんの箒から一筋の稲妻が走った!?明らかにフライングだけど、これっ。
「へへっ、お前のフライングはいつもわかりやすいんだよ!」
威力を犠牲に発生をひたすらに早めたのか、魔法で作り出したとは思えないほど素早く稲妻は那美子さんに宙を這うように肉迫する。でも、予めその軌道を読んでいたのか、那美子さんは素早く箒で飛び出して、逆に菖蒲さんの背後を取った。
「死ねバーカ!」
「うっさい、おっぱいバカ!」
那美子さんの箒から大きな火球が飛び出し、それを菖蒲さんの雷球が相殺した。誓いの言葉通り、菖蒲さんは雷、那美子さんは炎の魔法を得意としているみたいだ。……この際、子どもの喧嘩みたいな言葉は無視することにしておこう。
「悔しかったら、飛行性能で私に勝ってみなさいよ!おっぱいが重いせいでスピード出ない癖にっ」
「何ぃ!?それはお前の雷魔法が飛行強化に特化しているからだろうが!」
今度は菖蒲さんが箒に跨り、瞬時に空へと飛び上がった。箒の先からはまるでブースターのように電気が放出されていて、バチバチと弾けるような音と一緒に、目にも留まらぬ速さで空を駆け巡る。那美子さんも飛び上がるけど、その速度はとてもじゃないけど追い付けるほどのものじゃなくて、小さな雷球の狙いの的とされるだけだ。
飛んで来た雷球は、自分の体を包み込むような那美子さんの炎にかき消され、今度はその炎が壁のように飛び出し、菖蒲さんの飛行を妨害する障壁となった。そこで菖蒲さんは那美子さんの頭上を位置取り、なんとそこから一気に急降下――!正に雷が落ちるような勢いと速度で、切り揉み状態になりながら落下した。
すんでのところで那美子さんは急発進して避けるけど、アスファルトに舗装された地面を抉る強烈な雷撃は、地上から上空にまで届くほど大きな稲光を生じさせる。それに動きを制限された那美子さんに向けて、最初の不意打ちにも使った高速の雷撃が放たれ、それが見事腰の辺りをかすり、勝負が決した。
正に電撃戦といえるような、高速、熾烈を究める魔法戦。名のある魔法使い同士だからこそあり得た、夢の決戦なのは素人目にも明らかだった。
「あーっ、くそっ!やっぱり、炎は雷と相性悪いぜ」
「あはは、炎は火力は高いけど、発生速度と拘束力には劣るからね。その点、雷は威力も強ければ発生も早い、最高の魔法なのだっ」
「燃費がクソ悪いけどな……。おい美静。こいつに変に影響されて、雷の魔法を習得することだけはやめておけよ。半端な魔力じゃ、魔法の方に振り回されて散々な目に遭うからな」
「は、はい」
何の魔法を習得するか、か。悪魔と契約して魔法を得るなら、予め自分の使いたい魔法を得意とする悪魔を召喚する必要があるのだろうか。なら、早い内にどんな魔法が良いかを決めておかないと。
烈風を使役する風魔法。爆熱を操る炎魔法。障壁形成に長けた土魔法。毒と肉体強化の金魔法。癒しを本分とする水魔法。攻防のバランスに優れる最強の氷魔法。スピードと殲滅力の雷魔法。神の奇跡を己が力とする光魔法。相手の魔力を吸収、反射する邪法の闇魔法。
知識として知っていたそれ等の魔法だけど、今こうして実際に行使されている姿を見て、やっぱり菖蒲さんの雷の魔法が眩しく、羨ましく映った。電光石火の空中戦、しなやかに、そして荒々しく振るわれる雷の槍。単純な理由だけど、派手でこそ魔法。見栄えが一番美しい魔法を、わたしも習得したいと思った。
「ったく。お前の魔法は化け物みたいな速度で成長しやがるぜ。法衣ぶち抜いて、軽く痺れたんだからな?」
菖蒲さんの雷の直撃を受け、焼き焦げてしまったスーツを魔法で修復しながら那美子さん。法衣とは、魔法使いの着る衣装のようなものだろう。伝統的にはローブだったりするけど、今の時代、スーツやブレザーが魔法使いの衣装になっていたもそこまで不思議ではない。
「日々是精進。現状維持に甘んじてたら、後ろから追い上げてくる新人達に追い越されちゃうよ?」
「美静みたいな、か。あたしもこれでも、お前より仕事は能率よくこなしてると思うんだけどな」
「しゃかりきに仕事をこなすだけが魔法修行じゃあないよ?私はほら、オフを大切にして、ストレスなく魔法を究めてる感じ」
「そういうこと言うのは、天才だって決まってるんだぜ。お前、自覚ないだろ」
「いやいや、私もすぐ近くにとんでもない天才がいたから、その辺りの気持ちはよくわかるよ。毎晩毎晩、涙を枕で濡らしてねぇ。……あ、なんか違う」
「こんな馬鹿に才能でも実力でも負けてるのか……」
菖蒲さん……わたしに対してはお姉さんっぽく振る舞っていたけど、同年代の那美子さんと話していると、途端にボロが出まくりだ。その辺りも味というか、可愛さというか、嫌いではないけど。
と、二人の面白おかしいかけ合いを見ていると、薄暗くなった現実世界を反転させた夜明けの反転世界が徐々に色を失い、陽炎のように揺らめき、消滅して行った。
「結局、この反転世界ってのは、上っ面だけの世界。ハリボテの中で戦ってるようなもんなんだよな。ま、ゲーム感覚でやる決闘で街を壊す訳にもいかねーけど」
「そう考えると、ちょっと寂しくもあるよね。でも、反転世界の中でだけは私たちは自由。ハリボテの舞台で精一杯道化役者を演じるのも、悪くないんじゃない?」
「お前、たまにそういうネガネガしたこと言うよな……。ま、それじゃ飯だ。美静の分もあたしがおごってやるよ。出会いの記念みたいなもんだ」
「良いんですか?」
「職業魔法使いはそこまで薄給じゃないんだぜ。お前もそこそこ楽して金を稼ぎたけりゃ、精々学校で優秀な成績残して卒業して、就職を有利にすることだな」
「は、はーい」
魔法使いって、給料良いんだ……菖蒲さんはそういうリアルなことを話さなかったから、初めて知った。
憧れの魔法使いの給料の払いが良くて、それ目的で魔法使いになる人がいると思うとちょっと悲しいけど、菖蒲さんや那美子さんがお金儲けのために魔法使いを職業にしているんじゃないということはわかる。そして、わたしも人のために魔法を行使出来るような魔法使いになりたい。
悪魔との契約、つまり魔法使いへの第一歩を目の前にして、わたしはその決意を改めて固めた。
二人がよく利用するという洋食屋さんは、意外と大衆的な、どこか野暮ったい店構えで、わたしみたいな貧乏社会人一年生でも違和感なく入れるようなお店だった。
店頭のディスプレイには、先ほど話に出ていたエビフライ定食やオムライスといった定番の洋食のサンプルが並んでいて、全体的に値段も抑え目。だけど、どれも美味しそうなメニューばかりだ。
「いらっしゃいませー。いつも通り二名様……って、違うの!?」
「そこまで驚くか?菖蒲の知り合いだよ。魔法使い見習いってとこだな」
お店の中に入って行くと、すっかり常連なのだろう。ウェイトレスさんが那美子さん達の顔を見て二人席に案内しようとして、少しオーバーな驚きの表情を見せていた。
しかし、このお店の店員さんの制服は、女性はメイドさん、男性は執事さんを意識しているらしい。洋食屋のイメージには合っているけど、コスプレ色が強くて一般受けはしなさそうだな……。
「あー、はい。じゃあこっらのっせっどぞー。ごっくりしゃーせー」
「ウェイトレスの接客態度が最悪ってオーナーにクレーム付けとこうか?お前、コンビニのバイトじゃねーんだから、ちゃんと日本語ぐらい喋れ」
「はいはい。こちらのお席にどうぞ、ごゆっくりお寛ぎ下さいませ。ご注文お決まりでしたら今お伺いしますがっ」
「あたしはオムライス、デミグラスソースで中身はバターライスな」
「あはは、私のおごりじゃなかったら、安いの頼むんだ。私はスペシャルエビフライ定食。美静ちゃんも同じのにしない?すっごく美味しいよー」
「え、えーと。わたしはエビとかカニとか、食べれないので……那美子さんと同じオムライスにしておきます。ソースはケチャップで、中身も普通のチキンライスで良いですが」
「はいはーい。オムライスデミグラスソース、バターライスが一つ、ケチャップ、チキンライスが一つ、スペエビ定食一つですね。しばらくお待ち下さいやせー」
メイドさんコスのウェイトレスさんは、いまいちやる気なさげにオーダーを伝えに行く。なんというか、この二人が行くお店だけあって、個性的な人だな……無個性を地で行く応対をしているわたしにしてみれば、あの自然体がちょっと羨ましいかもしれない。
「あいつ、あたしの昔馴染みなんだよ。いってみれば、舎弟ならぬ舎妹ってところだな。もう立派な正社員なのに、まだバイト気分が抜け切らないな……」
「堅苦しくなくて良いけどね。あ、もちろん私は、美静ちゃんの商売人の鑑みたいな接客態度も大好きだよー」
「そ、そこまでですか?」
「真面目で良いことだよ。魔法学校もその意気で真面目に通えば、美静ちゃんなら主席卒業も楽勝だね。だって、ずっと適当してた私で次席卒業出来たんだから」
「そうだったんですか……」
やっぱり、菖蒲さんはものすごく優秀な学生だったんだな。今こうして魔法使いとして成功しているのだから、それで当然かもしれないけど、改めてそう言われると、そんな人に仲良くしてもらっていることが誇りにも、プレッシャーにもなってしまう。これで悪魔と契約出来なかったら?出来たとしても、凡庸な魔法使いで終わってしまったら?
元々わたしは、あまり楽観的な人間ではないのかもしれない。ちょっと前までは未来の期待に震えていたのに、今では暗い予感に身を震わせてしまっている。でも、こんな考えではいけないともわかっている。魔法は精神も大きく影響するのだから、弱気になっていては上手く行くものも失敗してしまう。……ものすごく失礼な言い方だけど、菖蒲さんぐらい頭空っぽにして、楽観するぐらいでいかないと。
「いやぁ、でも、学校に通っている間中、そして今も、那美子には全然敵わないところがあるよねぇ」
「なんだよそれ、嫌みか?お前、何から何まであたしより優秀じゃねーか。魔法の才能は半端ないし、顔も良い、体もすらーっとしたモデル体系。金持ちだし、あの玲菜と幼馴染。料理も得意で、裁縫も得意で……あーもう!ぶん殴りたくなって来たぞ、おい」
す、すごい……そこまで何もかも出来る人だったんだ。菖蒲さんって。
おっとり天然なところを見ていて、てっきり料理なんかは下手そうだと思っていたのに、いわゆる才色兼備のお嬢様ってやつなんだ……普通の勉強はちょっと苦手かもしれないけど、そこまで完璧超人とは。
「いやいや、那美子には私にはない、その脂肪の塊があるでしょ?結構羨ましいんだから」
「わざわざ嫌な言い方すんなっ。普通に胸と言え!」
「胸が大きい子って、頭空っぽってよくいうけど、那美子はそこまで馬鹿じゃないよねー。そこまでは」
「うっせぇ、あたしより頭悪い癖に。お前、英語で一月から十二月まで言えるか?」
「そ、それぐらい言えるよ!えーと、ノーベンバー、セプテンバー……」
「お前の中で一年は十一月から始まるのか?」
そして、想像以上に頭が残念だった!ボケじゃなく素で言ってるみたいだし、前に思った、魔法の才能に他の才能を吸われてるってのは外れてないのかも。魔法使いをしているんだから、魔法の知識さえあれば良い気もするけど。
……それにしても、改めてわたしの前に座っている那美子さんを見ると、そのスタイルの良さに圧倒されてしまう。菖蒲さんは確かにスレンダーで、全体的にほっそりとしているけど、那美子さんはその逆を行く肉感的なボディの持ち主だ。
シャツのボタンの上の方が開いていて、そこから豊かな谷間が見えている、それがたまらなくセクシーで、程よくむっちりとした二の腕や太ももは、女のわたしでもちょっと触ってみたいな、なんて思ってしまう。金髪に染めているからか、どこか日本人離れしたアメリカ辺りのモデルさんみたいな雰囲気もあって、見れば見るほどすごく華やかな見た目の人だ。
「ま、まあ、細かいことは良いんだよ。私はそんなことより、那美子のおっぱいの秘密を、ですね……」
「はぁ?んなもん何もねーから。普通に飯食って、寝てたら育ったんだから種も仕掛けもねーよ。ま、お前みたいな持たざる者には理解出来ないだろうがな」
「持たざる者って、私は普通にあるよ?八十五もあれば成人女性として十分でしょ」
「あたしより十センチも小さいなんて、普通に貧乳だろ?」
「……八十五で、貧乳…………」
わたしは、七十三しかない……那美子さんとは驚異、いや、胸囲の二十センチ差だなんて。それはつまり、わたしはもう女であるかどうかすら怪しいレベル、と…………。
「み、美静ちゃん、このおっぱい馬鹿のことは気にしないで!それにまだ美静ちゃん、十五歳じゃない、これからまだまだおっきくなるって」
「ここ一年、大きくなってないんですけど……」
「…………。よ、寄せ上げやパッドという選択肢もあるよ!」
「偽乳は嫌ですよ……」
お母さんも小さいし、そういう星の下に生まれちゃったのかな、という気はしていたけど、もうワンカップ、大きくなりたかったな……大きい人を見る度、そう思う。
「いやでも、大きくても良いことってそんなないぜ?服のサイズは中々ないし、肩こるし、男からも女からも見られまくって、すげーめんどいんだよ」
「でも、やっぱり女の子として生まれた以上は、大きい胸には憧れますよ……。その方が同じ服を着ていても、映えますし」
「それはあるよねー。胸大きいと、ほら、こんな風にあざとい谷間アピールも出来るし」
那美子さんの大胆に開かれた胸元を指差す。何度見ても、自己主張が激しい谷間だ……。呼吸の度に上下しているのがはっきりとわかるぐらい大きくて、柔らかな胸だというのがわかる。
「こ、これは暑いから開けてるんだよ。ちゃんとボタン止めてると、なんか首締まりそうになるし」
「おっぱいあるからねぇ……。私なんてほら、ボタン一番上までしてるよ。全然きつくないし、暑くもないけど」
「あーあー、わかったよ。認めてやるよ。お前とは違って肉が付いてるから暑いんだ。別に胸をアピールしてる訳じゃないから、そこ勘違いするなよ。美静も」
「は、はい」
頬を赤く染めて、那美子さんは必死に弁明している。……ちょっと可愛いかも。
言葉遣いが荒いし、恐ろしげな印象を受けそうになる那美子さんだけど、そんな男っぽい振る舞いの中に見える可愛らしい仕草や言葉はどきっとさせられるし、これがいわゆるギャップ萌えなのかもしれない。後、攻められると案外弱いみたいだし、菖蒲さんになんだかんだで優しいところを見るに、これはヤン(キー)デレ?リアルで見るのは初めてだな……二次もしばらく禁止してたから、すごく久し振りに思える。
「そして、ここで脈絡なくパイターッチ!おーぅ、やーらけーやーらけー」
「ふぇっ!?お、おま、何勝手に触ってやがんだっ。んあっ、やめろっ……」
「あ、菖蒲さんっ?さすがにそういうのは、こういう公衆の面前ではっ」
「このお店の名物みたいなもんだから大丈夫ー」
「あー、それなら良いかも……」
「おまっ、美静ぅ!簡単に裏切るんじゃねぇっ」
那美子さんの胸、菖蒲さんの手の形に自由自在に変形して、すごい……。ブラやシャツを挟んでいるのに、こんなにふわふわ感がわかるなんて、相当柔らかいんだろうな……わたしとは大違い。
……なんて考えてたら、どんどん鬱になって来た。やっぱり、大き過ぎる胸は罪悪だ……全国の貧乳の敵としか思えない。
「ふぃー。たまにこうしてほぐさないと、肩こるんでしょ?」
「肩がこることと、胸揉むのは全然関係ねぇ……」
それからばらくして、料理がやって来た。
値段の割に少し量が多くて、全部は食べきれなかったけど、オムライスは優しいケチャップの味がすごく美味しかった。また今度、個人的にも来たいな、と思う。
食事の後、用事があるということで那美子さんと別れて、もうしばらく菖蒲さんと一緒に夜の街を適当に冷やかして回り、十時前ぐらいに解散になった。
もう菖蒲さんの口からは玲菜さんの名前も、その死にまつわる話も、一切出て来なかった。でもわたしには、一瞬だけ見せた菖蒲さんの影のある顔が忘れられなくて、多分、一生忘れないんだろうな、と思った。
水曜日。菖蒲さんが来る日は、どうしても朝から背筋が伸びて、いつもよりはりきってしまう。
わたしは本当に彼女のことが好きなんだな、と思う。以前見せた影といえる顔も含めて、わたしは菖蒲さんという人を尊敬の対象として認識している。
これから始まるであろう、魔法学生としての菖蒲さんと一緒の生活を思うと、嬉しさと、一かけらだけの不安と、無限の期待が湧き上がって来て、店長に突っ込まれるぐらいわかりやすく鼻歌を歌いながら仕事をしていた。
そして三時過ぎ。いつも菖蒲さんはこれぐらいの時刻にやって来る。
アヤメの代わりの花束は、奇麗な百合が入ったので、それが良いと思う。……他意はない。菖蒲さんにある意味でアヤメ以上に似合う花の気もするけど、他意はない。
――だけど、とうとうその花束を、玲菜さんのために備えることはなかった。
やたらと、外が騒がしい。わたしが最初に感じた異変は、外から聞こえる男女の悲鳴のような、罵声のような、様々な声。
この辺りはそんなに人通りもないはずだし、もし人がいたとしても、大騒ぎするような繁盛している店はないし、人々の声が上がるというだけで異常なことだ。菖蒲さんは魔法使いの世界では顔が知れた人だから、噂されるようなことはあるかもしれないけど、今までそれはなかった。なら、それも違うはず。
店を空ける訳にはいかないけど、店先から身を乗り出して外を見た。
すると、信じられない光景が目に飛び込んで来た。……信じられない?いや、信じたくないんだ。まさか、彼女が……菖蒲さんが、血塗れの手で箒を掴んで杖にして、お腹の辺りを真っ赤にしてこの店の方に歩いて来るなんて、あり得ない。あり得てはいけないのだから。
「――菖蒲さん!?」
今にも崩れ落ちそうな彼女を、待ち構えている訳にもいかない。わたしは駆け出して、頼りなさげに歩く彼女の細い体を抱き留めた。生温かい血が体にまとわり付き、彼女の体温が血と共に失われているのだということを嫌でも理解させられる。
「美静、ちゃん……。よかった。最後に会えて」
「ど、どうしたんですか?それに、最後なんてっ……」
「ふふっ、色々と裏切られて来た私だけど、最後の望みは叶えてもらえるんだね。……神様がもしいるのなら、意地悪だよね。望みが叶った時、私はもういないんだから」
「弱気なこと言わないでくださいっ。すぐにお店で傷の手当てをしますから!」
菖蒲さんの体は軽いはずなのに、いざ自分一人でその体を抱えると、ものすごく重く感じる。それは、彼女がもう自分で自分の体を支えられないから?――いや、そんなはずがない。菖蒲さんがこんなに早く死ぬなんて、あり得ないんだから。
引きずるようにお店にまで菖蒲さんを連れて行き、わたしの上着を布団代わりに店の床に敷いてそこに寝かせた。応急処置の道具しかこの店にはないけど、止血して、救急車を呼べば……。
「美静ちゃん。もう、あんまり余裕ないみたいだから、言いたいこと、全部言うね。まずは、那美子に私の家のタンスを調べるように言って。そこに大事なことは全部残してるから」
「そ、そんなのは良いですから!まだ治療すれば大丈夫なはずです、だから喋って体力を消耗しないで!」
「治せる傷なら、もう治してるよ。私だって、治癒魔法ぐらい使えるんだから……。それより、美静ちゃんには、悪魔の召喚の呪文を伝えておかないといけないの。文字にしちゃいけないことだから、今、じかに伝えるしかない……。この感じだと、一回しか言えないと思うから、一字一句、逃さず聞いてね…………」
もう呂律の回らなくなって来ている菖蒲さんが、息を吐くのと同時に言葉が漏れ出るように発音されて行く。その様子を見ていると、これが彼女の遺言なのだと思わずにはいられなかった。
わたしに出来ることが何かあるとすれば、その最後の言葉をきちんと聞き届けること……。最後までわたしのことを想ってくれる、最高の先輩の手を握り続けてあげることぐらいだろう。
「ありがと……美静ちゃんの手、柔らかいね。じゃあ、言うよ……――」
『我はここに汝を呼ぶ。我は汝に命ずる。汝はネビロスの下僕、汝の名はグラシャ=ラボラス。我が声を地獄の片隅で聞いたならば、速やかに現れよ。そして、我に汝の持つ力の一切を与えたまえ。我は佐金美静。さあ、来たれ。汝に命ずるは我が師……その命を賭した陣の招きに応じよ――!』
最後に、ナイフで傷付けた人差し指で魔法陣に線を一本描き足す。これが、契約の血。わたしと悪魔を結ぶ永遠の証。
コバルトの魔法陣が発光を始めて、少しずつ、少しずつ、その中心に男性のシルエットが形作られて行く。
わたしが召喚した悪魔は、グラシャ=ラボラス。翼を持った男性の姿で現れるという、殺戮の王。その魔法の性質は、全てを破壊する雷――菖蒲さんのそれよりも凶暴で、忌避すべき圧倒的な力の持ち主。
菖蒲さんが残してくれた魔法陣は、そんな悪魔を召喚するためのものだった。なぜ、彼女がそんな悪魔とわたしを契約させたがったのか、その真意はよくわからない。でも、わたしは疑問を持たずに契約に望んだ。
『小娘……貴様が、我の召喚者か?』
しがれた声が陣の中心から聞こえる。そこには、二メートルはあるかという長身の、背中に漆黒の蝙蝠の羽を持つ男性が立っていた。
その年頃は壮年で、まとう空気も凶暴そのもの。人外の存在だと明らかにわかる。
「ええ。グラシャ=ラボラス。わたしは今から、あなたを使い魔にする。それに抗うことが出来ないのは、わかってるわね?」
『よく出来た陣だ……。貴様の作ではないな?』
「ええ……さっきも言った通り、わたしの師匠が用意してくれた。そして、もうその人はこの世にいない。――さあ、契約を」
『新米と見て取れるが、この血の魔力、並大抵ではないな……。よかろう、我が力、貴様に与えよう。誓いの言葉を唱えよ。我が記憶と、その血に永遠に刻まれる誓いを――!』
「誓いは、一つ……聞け、殺戮の魔王よ!」
『未来に愛を、明日に輝きを』
「わたしは、この誓いを守り続け、縛り続けられる。もし魔法を行使する心に愛を忘れ、明日から希望を奪い去るようなら、わたしを喰らってくれて良い。ただし、その時が来るまでお前の魔法を使うことを許せ」
『よかろう……。その少女らしい純心が陰るその時まで、貴様は我が主だ。殺戮の禁法を手に、その愛とやらを貫き通すが良い』
魔法陣が再び光、悪魔の姿が消える。これで、契約は終わった。
実感はないけど、その気になれば魔法を使えるはずだし、箒で空を飛べるはずだ。
これで、わたしは魔法使いになった。菖蒲さんに全てをもらって、彼女の命と引き換えに魔法を得た。
夢にまで見た魔法使いなのに、わたしは喜ぶどころか、声もなく涙を流し続けていた。
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落選作の供養です! 魔法使いのお話を書くのは初めてだったりします SFを突き詰めたところに魔法を存在させた結果、こんな感じになりました |
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