キスの味
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 私が初めてキスを経験したのは、中学二年生の春だった。相手は同じクラスの荒川理沙という女の子。そう、女の子である。私と同じ、女の子である。

 私と理沙が出会ったのは、二年生にあがった春のことだった。たまたま同じクラスになり、偶然席が隣同士になっただけだった。最初はそれだけのはずだった。理沙の印象は明るくて、綺麗なロングヘアーの似合う女の子で、一年の時から男子に人気があったようだ。クラスの事情などに疎い私はそういうことを知らず、理沙の存在も知らなかった。

「私、荒川理沙って言うの。小野さんよろしくね」

 登校初日、初対面にも関わらず理沙は隣の席の私にニコニコしながら言った。耳をくすぐるようなかわいらしい声だった。

「よ、よろしくね。荒川さん」

 ぎこちない返事を返す私を見て、理沙はふふっと笑った。

 それから理沙はどの辺に住んでいるのとか、趣味は何だとか、部活に入っているかなど色々と質問された。会話というよりは、質問攻めに近かった。質問に答えていると、どうやら理沙は私の近所に住んでいるらしく、好きな歌手などの趣味が合うようだ。

「何だか小野さんとは、すごく仲良くなれそうな気がする」

 満面の笑みを浮かべながら、実に楽しそうに話す彼女は見ていて飽きなかった。女の子の私から見ても、理沙のかわいらしさは理解出来た。

 その日の放課後、部活に所属していない私が帰り支度をしている時、

「ねえ、小野さん。一緒に帰ろう」

 理沙は相変わらずニコニコしながら言った。その笑顔を前に断る理由もないので、一緒に帰ることにした。

 私も理沙も、家が近い為徒歩での登下校だった。帰り道で理沙は歩きながら、私の好きな歌手の話をするので、会話が弾み、自然と仲良くなることが出来た。理沙と話をすることはとても楽しかった。自然と共通の話題があり、お互いの意見を素直に言えたが、楽しい帰り道もやがて終わる。

「あ、私こっちなんだ」

 十字路に差し掛かった時、理沙が指をさして言った。どうやら私の家とは反対方向の様だ。

「そうなんだ、私は逆であっちなんだよね」

 指をさしながら私も言った。

「そっか、でも割と近所だったんだね」

「そうだね、もしかしたら何度かすれ違ってたのかもね」

「あはは、今まで接点がなかったのが不思議なくらいだよね」

 そんな他愛もない雑談を十字路で数分交わし、

「じゃあ、また明日ね」

「またね」

 そういってお互い家路についた。私はとても仲のいい友人が出来たな、と陽気にスキップしながら家路についた。こんなに楽しい気分になれたのは、久しぶりかも知れない。

 翌日。私が登校していると、十字路で理沙を見かけた。理沙も私に気が付いたらしく、駆け寄ってきた。

「おはよう、小野さん。今日は小野さんの事待ってたんだ」

 どうやら理沙は、私の事を待っていてくれたらしい。

「あ、そうなの? ありがとね、荒川さん」

 お互いに挨拶を交わし、並んで学校までの道のりを歩いた。話題が尽きることもなく、学校についても話が終わることはなかった。新クラスになってからの係決めも、私と理沙は同じ生物係にした。生物係とは、去年からこのクラスにいる亀の世話をする係だ。私は動物が好きだったので、もともと生き物係にする予定だった。その話をすると理沙も動物が好きなようで同じ係になった。その後の給食の班なども、私と理沙は同じものを選んだ。理沙は顔の広さと人望の厚さからか、学級委員長に選ばれた。前のクラスから理沙と仲のいい子達とも仲良くなり、この日だけで私は友達がかなり増えた。積極的に交流をとるようなタイプではない私にしては、理沙と会っただけで随分と変わった様に思えた。この日も理沙と一緒に帰り、楽しく雑談しながら家路についた。これがいつもの日常となり、お互いに下の名前で呼び合うようになった。こんな楽しい日常がいつまでも続けばいいなと、その時の私は思っていた。

 しかし、そんな日常が変わってしまったのは、ゴールデンウィーク明けの頃だった。

 私は昼休みに、屋上に呼び出された。相手は同じクラスの男子、横山翼。顔だちもよく、確かサッカー部でキーパーをやって活躍しているとか。クラスの中心人物の一人で、少なからず恋心を抱いている女子生徒もいるだろう。そんな彼に私がなぜ呼び出されたのか、そんな疑問を抱きながら屋上へと歩みを進めた。薄々告白でもされるのではないか、そう思ったりもしたが、私に好きな人はいないし、恋愛とかちょっとよくわからないし、とりあえず考えさせてくださいとでも言っておこう。そう考えを決め、私は屋上の扉を開いた。

 結果だけを述べるのなら告白で間違いでないのだが、それは私に向けられたものではなかった。どうやら横山は理沙の事が好きらしい。私を呼び出したのも、理沙にラブレターを渡して欲しいという頼みからだった。今の人でもラブレターなんて書くのかとか、変な所に関心を持ちながらも、必死に頼んできたのでとりあえず手紙を受け取った。薄い青の封筒に、伝書バトのようなシールで封がしてある。手紙から誠実な人であるのはわかるし、何より同じクラスメイトだし、放課後にでも理沙に渡しておくか。そう思いながら便箋をポケットに閉まった。

 そして放課後になった。生き物係の日課となった餌やりを理沙としている時に、私は横山のラブレターを渡した。理沙がどういう反応をするのか少し気になった。

「これ、私に?」

「そう、同じクラスの横山から」

「そっか……」

 そう言って理沙は亀に餌をやりながら俯いてしまった。どこか遠くを見ているような目に私は不安を覚えた。そして聞いた。

「とりあえず読んでみたら?」

「いや、いいよ」

「えっ」

 私は驚いた。明るい理沙なら、笑いながら困ったなーとか言いながら、どうしようどうしようと慌てるものだと思っていたからだ。そして手紙を読もうともしないのだから、今まで見たことのない理沙の表情に私はより不安になった。

「せめて読んであげたら?」

 私は言葉を選びながら慎重に言った。放課後の教室には私と理沙の二人しかいない。言いにくい場面でもあるまいし、一体どうしたというのか。

「真弓」

 理沙がこちらを向く。どこかしら目が不安そうだった。

「何?」

「あの、あのね、真弓。私、実は好きな人がいるの」

 何というか、予想外だった。まあ年頃の女の子だし、普通に誰かに恋することもあるだろうが、クラスの人気者である彼女に好きな人がいるなんて考えもしなかった。

「え、ああそうなんだ。へー、理沙に好きな人がね」

 私も少し動揺してしまって、上手く言葉が出てこない。何とも言えぬ微妙な雰囲気になり、僅かな沈黙が流れた。気まずい。食卓で家族とドラマのラブシーンを見ているような気まずさだった。このままでは埒が明かないと思い、私は切り出した。

「ねえ、理沙の好きな人って誰なの?」

「……」

 理沙は答えず、また俯いてしまった。今まで恋の話や相談事などはしなかったが、私と彼女の仲なら何でも言ってくれると思っていた分、少しだけショックだった。

「あ、言いたくないならいいんだよ、全然無理しなくて」

「いや、そういうのじゃないの」

 理沙は顔を上げ、まっすぐに私を見た。何故か顔が紅潮しており、少し涙目のように見えた。

「私の、好きな人はね。……真弓、あなたよ」

「えっ」

 冗談でしょと言いかけた私を制すように

「私は本気よ。真弓、ずっとあなたの事が好きだったの」

 と理沙は言った。本気とはどういう事だろうか。意味なんてわかってはいたが、自分の想像と違うのではないかという期待を持ちたかった。が、目の前の理沙の表情を見るに彼女の本気という物が伝わってきた。

「えっと、その、何というか」

 相変わらず上手く言葉が出てこない。理沙の視線に耐えられず顔を逸らす。夕焼け色に染まる空を、亀の入った水槽が反射していた。女の子に告白されたという、今までにない、これからもないはずだった経験に私は混乱していた。今まで親友だと思っていた子が、しかも同じ女の子が、私を好きだという事実に。いつからだろうか、女の子を好きになる女の子ってどういうことなのか、疑問が疑問を呼ぶ。理沙の顔を見たいが、何を言っていいのかわからず、どうしたらいいのかわからず、そのまま時間だけが過ぎていく。

 五分は経たなかったと思う。沈黙を破ったのは理沙だった。

「真弓、こっちをむいて」

 理沙の手が私の両頬を包み、顔が彼女の方を向く。理沙の顔がすごく近くにあった。先ほどのように、紅潮した頬と涙目で。いつもより近い黒髪は、シャンプーのいい匂いがした。顔をロックされているが、私の目線は泳いだままだった。やっぱり理沙を直視できない。

「私ね、ずっと前からあなたの事が好きだったの」

 好きという言葉に私はビクッと震えた。恐る恐る理沙に焦点を合わせる。

「本当はね、一年生の時から真弓のこと好きだったの。背が高くて、すらっとしててかっこよくて、私の憧れだったの」

 面と向かって、しかもこの距離で言われると相当恥ずかしい。確かに私の身長は一六五センチもある。クラスの男子よりも高い、下手をすれば校内の女子で一番背が高いかも知れない。しかし、明るくクラスの人気者の理沙が私に憧れていたということが驚きだった。

「遠くから見ていただけだったけど、二年生になって同じクラスになって、しかも席が隣りだなんて夢みたいだった。でも真弓に嫌われないか不安だったの。一方的に思っているだけで、いきなり親しげに話しかけたりしたても大丈夫だかなって、すごく不安だったの」

 理沙に初めて話かけられた時を思い出す。ニコニコとしながら話しているようにしか見えなかったが、内心は不安だったのか。言われてみないとわからないことばかりだ、と私は思った。

「でもやっぱりおかしいよね。女の子が、女の子のこと好きになっちゃうなんてさ……」

「そんなこと」

 そこで言葉が詰まってしまった。別に変なことではないと思えた。当然色々な人がいる世の中だ、同性を好きになる人もいる。ただ、今回は相手が自分である。変じゃない、それはわかるのだが、理沙に何て伝えればいいのか。私は彼女を親友だと思っていたが、理沙はそうではなかった、むしろそれ以上に想っていた。友人としてではなく、恋人として。そう考えれば考えるほど、何を言っていいのかわからなくなった。

「変じゃない、とは思うけど……」

けど、けど。それ以上はやはり出てこない、話せない。

 そんな様子を見て、理沙はふふっと微笑んだ。

「真弓の言いたいことは分かってる。でもね……」

 そう言って理沙は軽く背伸びをして私にキスをした。唇にやわらかい感触が伝わる。突然の事に私は目を見開き、固まってしまった。一瞬だけの軽いキスだったが、私の思考を奪うには十分だった。

「これが私の気持ちなの」

 そう言うと、理沙は顔から手を離し、足早に教室から出ていってしまった。

 女の子に告白されて、キスされた。頭の中がそれでいっぱいになってしまって、しばらく動くことが出来なかった。私のファーストキスは、親友と思っていた女の子に奪われた。

 頭の整理がつかないまま、ぼんやりとした気持ちで家路についた。そういえば、一人で帰るのも随分久しぶりだなと思った。それだけ私が理沙と一緒にいたのだと実感した。そう思うと、先ほどのやりとりが思い出され、真弓の事が好きという言葉が頭の中でリピートされた。家に着き、制服のままベットに倒れこんだ。仰向けに天井を眺めながら、理沙の事を考える。最初に会った時から、今日の事まで。改めて思い返してみても、理沙が私の事を好きだなんて嘘や冗談で、本当は親友同士としか思えない。でも、キスされた。キスがこんなに力を持っているなんて思ってもいなかった。告白とキスさえなければ、ずっと仲のいい友達だったのに。そんなことを考えたが、理沙も同じ気持ちだったのかなと思うと、理沙が本気であることがよりわかってしまった。真弓が好き、その言葉が、声が何度も頭の中で反響する。私は唇に手を当てる。キスの感触、今もなお唇に残るあのやわらかい感触。その時は驚いて何も考えられなかったが、今思うとそんなに悪いものでもなかったような気がした。それは相手が理沙だったからなのだろうか。恋愛経験もキスの経験もない私にはわからなかった。ただ、理沙の事を考えると、もやもやとした気分になるようになった。今まで感じたことのない、もやもやとした気持ちに。

 理沙の事を考えると眠れないかと思われたが、考え過ぎの疲れからなのか、私はぐっすりと眠ることが出来た。学校に行くのが嫌というか、理沙に顔を合わせにくいというか、一日すぎた朝になってもかける言葉は見つからなかった。いつものように朝食を食べ、制服に着替え、家を出た。歩きながらも頭は理沙の事でいっぱいだった。

 十字路辺りに着くと、そこには理沙がいた。理沙は私に気が付くと、ニコニコしながら手を振って来た。いつもの光景だった。何一つ変わらない朝のやりとりだった。私は苦笑しながら手を挙げて、理沙のところへ歩いて行った。

「おはよう、真弓」

 昨日あんなことがあったというのに、いつもの声で、いつもの笑顔だった。

「お、おはよう」

 理沙の笑顔に面食らってしまい、ぎこちない挨拶になった。もっとも、どの道ぎこちない挨拶ではあっただろうが。

「じゃあ学校行こう」

 そう言っていつものように歩き始めた。学校までの道のりの会話も、いつもと何も変わらなかった。変に意識しているのは私だけの様で、理沙は何も変わらず明るいままだった。私の反応が薄くても、楽しそうに話を続けた。昨日のことは何だったのか、大げさな演技によるイタズラだったのか。いや、あの表情が演技だとは思えない。そんなことを考えているうちに学校に着いた。教室に入っても理沙の様子は何一つ変わらなかった。給食の時も、放課後の時も、帰り道の時も。いつもの様子で別れ、私は家路に着いた。私が望んでいた、親友としてのいつもの日常だった。しかし、これではないと思った。

 私は理沙に対して、以前より壁を感じるようになった。理沙と目が合ったり、話をしていると、どうしても告白やキスを思い出してしまうのだ。そして気まずさから曖昧な返事をしてしまう。理沙を見ることが出来なくなっていた。しかし、理沙の事が気になって仕方がなかった。私以外の人と楽しそうに話している姿や、体育などで別のことをしていても、何となく気になって理沙を目で追ってしまうのだ。以前よりもやもやとした気分は強くなる一方だった。理沙との関係を壊したくないと思いながら、理沙と向き合うことが怖かった。真弓の事が好き、気まずい関係が続いても、この言葉が消えることは決してなかった。そして、キスの感触も。

 それから三日ほど経った頃、私は横山に礼を言われた。

「手紙、渡しといてくれてサンキューな」

 いつの間にか理沙は横山の告白を断っていたのがわかった。律儀に私に礼を言う辺り、彼にはすぐにいい人が見つかりそうだと思った。

 その時私は何の考えもなしに横山に質問した。

「人に恋をするって、どういう気持ちなの?」

 それを聞いた横山は驚いていた。顔がそう言っていた。

「どうって言われてもなー。まあ理由はいらないとは言うが、実際は好きになったやつの事が気になってしょうがないとか何じゃね?」

 それを聞いて私は最近理沙の事ばかり見ていることに気が付いた。それが表情に出ていたらしく、横山はにやりと笑い。

「もしかして小野、好きなやついるのか?」

 その一言を聞いた瞬間、なぜだか顔が熱くなって、恥ずかしくなってきてしまった。多分顔が真っ赤になっていたと思う。

「おいおい、マジだったのか。へー、小野がねー。意外にかわいいところもあるのな」

 ますます恥ずかしくなってきたのが顔の熱さで分かった。しかし、横山の言葉で赤くなったのではなく、理沙の事を考えて赤くなったのだった。

どうやら私は理沙に恋していたようだ。今までそっけない態度をとっていたのも、私の気持ちに正直になれなかったからだろう。いつも彼女を目で追ってしまったり、話している時もついつい唇に目がいってしまっていたのも、全ては彼女に恋する気持ちからだったのかと実感した。いつの間にか、彼女を好きになっていたのだと。

 その後、茶化す横山に適当に話をつけ、礼を言った。彼は何で礼なんて言われたかわからず、適当な返事を返していた。でも、彼のおかげで私は自分の気持ちに気付くことが出来たのだ。素直に彼には感謝している。

 しかし、自分の気持ちに気付いてからという物、より理沙を直視できなくなっていた。恥ずかしさに拍車がかかって、目が合うだけで顔が赤くなるのがはっきり分かった。うぶな小学生みたいだなと我ながら思った。もしかして、理沙もこういう気持ちで過ごしていたのかなと思うと、何だか胸が切なくなった。理沙は私の事を好きだと言ってくれたが、私の中にも不安があった。一度私が断ったような態度をとったから、もう私なんてどうでもいいのかも知れない。そう思うと、言い出すことが出来なくなってしまった。好き、という言葉さえ。私を想ってくれていた人に、伝える勇気が私にはなかった。

 そして、私が自分の気持ちに気付いてから三日が過ぎた日の放課後の事。私と理沙は、いつものように教室の亀に餌をやっていた。夕焼け色に染まる教室で、亀に餌をやっていると、理沙の言葉と唇の感触が蘇る。今日に始まったことではないが、すでにあの日から一週間は過ぎようとしているにも関わらず、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。

「ねえ、真弓。ちょっと聞いてもいい?」

 珍しく理沙が私に質問してきた。

「何?」

目が合って少しドキドキしたが、少しずつ慣れてきたので、正面から理沙と向き合う。

「真弓に好きな人がいるって本当?」

「えっ」

 口から心臓を吐くかと思った。どういうことだ、横山辺りが何か言いふらしていたのだろうか。

「な、何で?」

 変に平静を装うとした結果、声がうわずってしまった。恥ずかしい、これじゃ言わなくても誰でもわかってしまう。私は隠し事が出来ない人間だと痛感した。

「真弓のいないところで少し話題になってたのよ。小野さんには好きな人がいるとか何とかって」

 全然知らなかった。いくら友人が増えたと言っても、クラスの事情に疎いのは相変わらずだったようだ。

「へ、へー。そうなんだ」

 好きな人ということを考えると、目の前の理沙を見るだけで鼓動が速くなっていくのが分かった。恥ずかしさで、顔の熱が上昇していく。

「ねえ、真弓。真弓の好きな人って誰?」

 何だか前に話した時と、立場が逆転しているような気がした。じっとこちらを理沙が見つめてくるので、私の思考は停止寸前だった。

「す、好きな人はね……」

 今言うべきなのだろうか。言ってしまったら、関係が崩れてしまいそうで怖かった。私はもじもじと俯いていった。いつからこんなに女々しくなってしまったのだろうか。好きな人の前だとこういう気持ちになるのだろうか。様々な思考が渦巻いたが、告白しようとしている緊張感が、私のぐらつく決意を固めた。

「私の、好きな人は……」

 俯いた姿勢から、理沙に向き直る。彼女の表情はいつものようにニコニコした表情だった。好奇心でわくわくしているような、そんな表情。その表情が私を惚れさせたのだろう。

「理沙……」

 消え入りそうな声でつぶやく。

「え?」

 どうやら聞こえなかったようだ。ここまで来てしまったら覚悟を決めよう。

「私の好きな人は、理沙。……荒川理沙」

 何でフルネームになったのだろうとか、その時は考えられなかった。理沙に告白してしまったという事だけで頭がいっぱいだった。

「うそ、何で?」

 理沙が両手を口元に当てている。もう言ってしまったのだからと、踏ん切りをつけ、私は自分の気持ちを伝えた。

「最初は、普通に仲のいい親友だと思ってたんだ。でも理沙に告白されて、理沙の事を意識するようになったら、段々気になって来ちゃって」

 自分で言っていて恥ずかしさで倒れそうだったが、私は続けた。

「それで、気が付いたらいつも理沙の事ばかり見てた。ずっと、ずっと理沙の事ばっかり考えてた。そうしたら段々自分の気持ちに気付いたの、理沙の事が好きになっちゃって、もうどうにもできないって」

 一呼吸おいて、私は告げた。

「理沙が好き。女同士とか関係ない、私は理沙が好きなの」

 しっかりと理沙を見据えて、はっきりと言った。

「……本当なの、真弓。うそじゃないよね?」

 理沙が前に見たような、紅潮した頬で涙目だった。表情から理沙の気持ちは伝わってきた。

「うそじゃないよ、私は理沙のことが好きなの」

 それを聞くと、理沙はぺたんと床に座り込んで泣き出してしまった。とっさの事に私はどう対応していいかわからず、おろおろしていた。表情から気持ちが分かったとか思いながら、好きな子が急に泣き出してしまったのを見て、おろおろするしか出来ない自分を情けなく思った。

「うれしい……」

 涙を拭いながら、理沙が言った。

「私ね、少し諦めてたの。真弓の反応を見たあの日から、やっぱり女の子を好きになるなんておかしいのかなって。真弓に好きって言った後、一人で帰ってる時に悲しくてずっと泣いてた。やっぱり言わなければよかったって、家に帰ってからずっと後悔してた」

 理沙は鼻をすすりながら、嗚咽混じりに続けた。

「だからまた明るく真弓に接すれば、今まで通りの関係に戻れると思って、自分に嘘ついてニコニコしてたの。でも、真弓は段々私に対する反応が曖昧になっていった。無理もないよね、告白された翌日にケロッと何事もなかったかのように振る舞ってればね」

 涙を拭い、ふふっと笑った。不覚にも、その仕草と表情をかわいいと思ってしまった。

「でも嬉しい。真弓が私の事好きになってくれたなんて」

 先ほどより顔を紅潮させながら笑顔で理沙は言った。

「私も好きよ、真弓。真弓の事、大好き」

 その言葉を聞くと、緊張で強張っていた体から力が抜け、へなへなと私も座り込んでしまった。

「よ、よかった……」

 我ながら情けない声を漏らすと、理沙はくすりと笑った。

「私が告白したときはそんな風にはならなかったのに、真弓って案外そういうの弱いのかな?」

 いたずらっぽい目でこちらを見る理沙。何も反論できない。

「あ、う、うん……」

 急にどうしたのだろうか、恥ずかしさが抑えきれない。両手で顔を隠すと、その熱が伝わってきて、自分が今どんな表情をしているかが分かった。告白が成功した嬉しさよりも、恥ずかしさの方が勝っているようだ。でも、気持ちを理解し合うことが出来た。女の子を好きになるって気持ち。お互いに想っていること。それだけで、心がいっぱいに満ちているような感じがした。

「とりあえず立とうか?」

 そういうと理沙は立ち上がって、私に手を差し出した。

「ありがとう」

 私は手を取って立ち上がった。改めて理沙に向き直ると、顔がゆるんでしまって、なんだかにやけてしまった。何をにやけているのだろう。私はこんなにも好きな人の前では、でれでれしてしまう人間だったのか。

「ねえ真弓?」

「な、何?」

 顔がゆるんでいるせいで、少し滑舌がおかしい。

「今度はさ、真弓からしてよ」

 理沙が上目づかいにこちらを見る。

「え、何を?」

「キス」

 端的に告げる理沙の言葉に私はどきっとした。この場所で経験した、あのやわらかい感触が再び蘇ってきた。理沙の唇に目が移る。やわらかそうで、潤ったピンク色の唇に、私の鼓動は高まっていった。

「理沙」

 理沙の両肩に手を置く。それを見て彼女は目を閉じ、少しだけ顔を上げた。はじめてみる表情に、私は興奮した。逸る気持ちを抑え、ゆっくりと唇を近づけていく。目を閉じ、唇と唇が軽く触れる。あのやわらかい感触が再び伝わってきた。自分からする初めてのキスは、とてもぎこちないものとなってしまった。でも、とても幸せだった。

 キスをしていた時間はほんの数秒だったのだろうが、私にはとても長い時間キスをしていたように思えた。唇を離すと、お互いにくすりと笑った。照れや嬉しさの混じった、そんな笑顔。幸せで、脳が溶けてしまうかと思った。キスの感触に酔っているというか、その場にふわふわと漂っている感覚がした。

「帰ろっか」

「うん!」

 理沙の言葉に私は力強く答えた。忘れていた亀に餌をやり、夕焼け色に染まる教室を後にした。その日は手を繋いで帰った。道行く人の視線が少し気になったが、彼らには仲良しの二人組程度にしか思われていないのだ。私たちは付き合っている。恋人同士なのだ。彼女の手を握り直すと、しっかりと握り返してくる。私より小さな手が繊細でかわいらしくて、手を繋いでいるだけで、私は幸福感の中にいた。手を繋いで歩いていると、いつの間にか別れる場所まで来ていた。楽しい時間ほどあっという間にすぎるものだ。

「じゃあまた明日ね」

「うん、また明日ね」

 いつものやり取りと何の代わりのない挨拶。しかし、今回は手が離れる。反対側の道路に渡った理沙が手を振っている。私も手を振って、その日は別れた。今日ほどまた明日ねという言葉に切なさと期待感を覚えた日はなかった。家に着き、ベットに倒れこみ、天井を見上げる。そうしてゆっくりしていると、今日の出来事に実感が湧いてきた。理沙と恋人同士になった。またキスした。唇に手を当て、感触を思い出す。そうするとまた恥ずかしくなってきて、近くのペンギンのぬいぐるみを思いっきり抱きしめた。そのままごろごろとベットの上を転がる。思わず、顔がほころぶ。好きな人を想うだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるのかと、恋とはすごいものだと私は思った。

 翌日も理沙と一緒に登校した。昨日のように手を繋ぐことはなかったが、以前よりも色々と話すことが増えた。私と理沙が付き合っているということは、当然秘密のようだ。クラスの人にも、家族にも。といっても、事実を言っても信じてもらえないだろうとは思った。そんな感じで私と理沙の関係は二人だけの秘密となった。秘密を共有する、二人だけのという言葉に私は踊るような気持ちだった。

 付き合うようになってから、お互いの家に泊まりに行ったりだとか、恋人同士がするように何度もキスをした。好きな歌手が同じだったから、寄り添って片耳ずつイヤホンを挿したりとか、学校では普通に振る舞っている分、二人きりになると抑えがきかなくなるというのか、ずっとくっついたりしていたと思う。そんな日々が続いて、夏休みになった。

 夏休みとはいえ週に一度、亀の餌をやりに私と理沙は学校に通っていた。その日はたまたま雨が降っていた。夏の気候も相まって、とてもじめじめとしていた。私と理沙は傘を差して学校に向かった。個人的には相合傘みたいにしたかったが、理沙に断られた。

「濡れちゃうでしょ」

 まあ、その通りだ。夏休みにはどこかに行こうとか、そういう約束をしてはいたが特段話が進むわけでもなく、どこかに行くというくらいでしかなかった。その話や、宿題の話をしながら学校に着いた。雨のせいもあってか、部活をする生徒もおらず、薄暗い校舎は午前中だというのに少し不気味に見えた。昇降口からあがり、職員室で鍵をもらって、教室へ向かった。室内のせいか、廊下はひんやりとしていた。

「何だか、いつもと違う雰囲気でいいね」

 隣を歩く理沙が言う。

「だって、学校は人が集まる場所でしょ? それが今は薄暗くて活気がなくて、ひっそりとしてるの。まるで、私たちしかいないみたいに」

 そんなことを言いながら手を繋がれる。私は周りを気にしながらも、その手を握り返した。繋いだ手の感触は廊下に似て、ひんやりとしていて気持ちが良かった。見慣れた光景も、人がいないというだけでこんなにも違って見えるのかと関心もした。

 教室を開けると、そこもまた一味違った光景だった。閑散とした教室、薄暗い教室に二人きり。なかなか味わう事のないシチュエーションに私は少しどきどきしていた。握った手が少し汗ばむ。その様子に気づいた理沙が、いたずらな目線を向ける。

「今、どきどきしてるでしょ?」

「い、いや全然」

 声が裏返った。やはり私は嘘をつくのが苦手なようだ。理沙がいたずらな表情から、甘い表情に変わる。

「ねえ……。今なら、二人っきりだよ?」

 甘い声が私の脳に響く。鼓動が速くなるのを感じ、握った手の感触がやたら生々しく感じてきた。

「理沙」

 向き直って理沙を見つめ、ゆっくりと顔を近づけようとした時

「ダメ、まずは餌あげちゃいましょう」

「う、うん」

 何だか上手く焦らされているみたいで、顔が熱くなった。でも嫌いじゃないと思う自分もいた。

理沙が亀に餌をあげている間、ずっと顔が赤くなったままだった。理沙とはもう何度もキスをした。今更珍しい事でもないが、誰もいない薄暗い教室で二人きりという状況が、私をいつも以上に興奮させていた。理沙の横顔が目に映る。いつもなら唇に行きがちだが、今日はなんとなく頬に目がいった。そういえば、頬にキスしたことないなと。いたずらな考えがよぎり、私はにやりとした。鼻歌交じりに餌をあげる理沙の横に、そっと近づく。目の前に健康的な色をした、やわらかい頬がある。指でつっつきたくなる気持ちを抑え、私はゆっくりと顔を理沙の頬に近づける。ちゅっ、と音をたてて私は理沙にキスをした。唇とはまた違ったやわらかさと、すべすべとした感触が伝わった。唇を離すと、理沙が顔を真っ赤にしてこちらを向く。いつもなら幸せそうにニコニコするのに、今回は目を丸くしている。

「な、何よ急に」

 あ、ちょっと焦ってるみたいだ。新鮮な表情もまた、かわいくていいものだと思った。

「ふふ」

 いつもと立場が逆転したみたいで、つい笑みがこぼれた。

「かわいいなと思って」

 普段なら絶対出てこないであろう言葉も、何故かこのときは自然に言えた。いつも以上の興奮が、私の常識を麻痺させていたのだろう。

「な、何言いだすのよ。もう」

 照れてる理沙がかわいくて、口元が緩む。だらしない顔をしていたと思う。でも、その気にさせたのは理沙の方だ。私は悪くない。気を抜いていた私に、不意打ちのように理沙がキスをした。頬にではなく唇に。

「んむっ」

 突然の事に思わず声が出る。短いキスが終わり、唇が離れる。

「お返し」

 ニコニコ笑って理沙が言った。今度は私が赤くなるのが分かった。いつも以上に鼓動が高鳴っている。お互いを見つめ合う。

「ねえ、真弓。たまには変わったキスしたいよね?」

「変わったキス?」

 変わったキスとは何だろうか。無知な私はせいぜい知っていて、舌を絡めあうディープキスくらいだ。そういえば、まだしたことがないなと思っていると、理沙がポケットから何かを取り出した。それは飴だった。黄色の包装紙から察するにレモン味だ。

「ふふ、初恋の味はレモンの味なんて誰が言ったんだろうね」

 微笑みながら理沙は包装を破り、黄色い飴を口に入れ、歯で挟んでこちらに見せる。

「食べたい?」

 甘い表情を見せる彼女を見て、私はもう抑えがきかなかった。

「んっ」

 強引に彼女の唇を奪い、続けざまに彼女の口に舌を入れる。やわらかい彼女の舌に触れると、理沙がびくっと反応するのがわかった。舌の感触を味わうように、舌と舌を絡める。キスの感触が気持ちよくて、頭がぼーっとしてしまう。段々と考えることが出来なくなっていく。口には甘ずっぱいレモンの味が広がる。とても、おいしい。それは飴のおいしさからなのか、理沙の唾液がそうさせるのか、舌の感触の心地よさにそんな考えはどこかに消えてしまった。お互いの口の中を飴が行ったり来たりする、もはやキスと言うよりは口移しだった。舌と舌の間から唾液と混じった甘い蜜がこぼれる。糸を引くように伸び、私の胸元に垂れる。制服に染みを作っているが、そんなことはどうでもいい。キスの快感に浸っていたかった。段々とお互いの息が荒くなり、キスがより激しくなる。口の中を蹂躙するように、舌が蠢く。気持ちよさで私も理沙も時々小さく喘ぐ。その喘ぐ声が耳をくすぐり、お互いの興奮を高めていく。じめじめとした室内の気候も相まって、汗ばむ。溶けるようなキスの快感に溺れるように、激しく求め続けた。

 そんな時だった、廊下から足音が聞こえた。突然の事に私は驚き、理沙から離れる。離れる際に、お互いの舌から伝った唾液が二人を繋ぐ紐のように見えた。汗ばむ額を手で拭い、興奮で荒れた息を整える。何事もなかったように理沙と亀の水槽を眺める。息は整えられても、先ほどの感触が残っていて、心臓の鼓動は高鳴ったままだった。そんな状態で隣に赤く火照った理沙がいて、シャンプーのいいにおいが鼻をくすぐる。今すぐにでも先ほどの続きをしてしまいたくなったが、近づく足音が私を冷静にさせた。

 そして、教室のドアが開けられた。ドアを開け放ったのは担任の篠田だった。

「お、雨の中ご苦労さんだな」

 気さくな印象を受けるしゃべり方のため、生徒の人気は高く、信頼できる教師の一人だ。

「雨が強くなる前に気を付けて帰れよ、いつもありがとな」

 そう言って彼は亀の様子を少し確認した後、さっさと帰ってしまった。いつもこのように、亀と私たちの様子を確認して、さっと職員室に戻っていく。キスの事で頭がいっぱいですっかり忘れていた。もし、あの時に足音に気付いていなかったら、大変なことになっていた。

「危なかったね」

 理沙が言葉とは裏腹に楽しそうに言った。

「ばれてもよかったみたいな顔してるけど?」

 そう言うと理沙はふふっと笑い、口元に指を当てる。

「だって、すごくキス上手だったんだもん」

 甘い表情で、恥ずかしげもなくそんなことを言うので、私の方が恥ずかしくなってしまう。口の中の飴玉をコロコロと転がしながら、じっとこちらを見つめている。

「ねえ……続き、しよう?」

 彼女の甘い誘惑に私は乗った。先ほどのように、絡みつく濃厚なキスを繰り返した。

 飴玉が溶けてなくなったころ、私たちのキスは終わった。快感でどうにかなってしまいそうだったが、幸せの中にいるような気分で、いつも以上に理沙が愛おしくなった。唇が離れ、舌先を伝う唾液が糸のように細く伸びて、切れる。何だかお互いの繋がりが途絶えてしまうみたいで、少しだけ切なくなった。キスを終え、感傷的な気分にでもなっていたのだろう。私はぎゅっと理沙を抱きしめる。シャンプーのいいにおいに混じって、少し汗のにおいがした。

「真弓、汗臭い」

 苦笑しながら理沙が言う。理沙もそうだよと言いたかったが、やめておいた。今はただ、理沙のぬくもりをずっと感じていたかった。

「でも、嫌いじゃないよ」

 耳元で理沙が囁く。吐息が当たってくすぐったい。幸せに満ちた時間がいつまでも続けばいいと思った。

 しばらく抱き合った後、私たちは帰ることにした。教室を後にして、廊下を歩いている時、私はなんとなく切なさを感じていた。初めてした、甘く濃厚なキス。それはとっても気持ちが良くて、すごく興奮もした。けど、何だか空しさも覚えてしまった。こんなものかと。理沙に対する気持ちに揺らぎはないが、あくまで同性という事が心のどこかに引っかかってしまった。キスより先の事とか、今後どうすればいいのか。中学二年生の私にはあまりに現実味のない話だった。理沙は何を考えているのだろうか。先に私の事を好きになった彼女。私の好きな人。これだけ時間を共有して、色々なこともしてきたはずなのに、そういった感情までは見えない。考え過ぎなのかも知れないが、考えずにはいられなかった。どことなく不安な気持ちになってしまっていたのだ。口の中に残るレモンの味が、先ほどの行為を生々しく思い出させる。

「何むずかしい顔してるの?」

 隣を歩く理沙が覗き込むようにこちらを見る。

「え、いや別に……」

 適当に答えてしまう。こんなことを聞くのは変だと思った。理沙の考えを聞いたとして、それが何になると言うのか。やめておこう、今はそういう事を考えたくない。

「私のキス、下手だった?」

「な、何を急に」

 私の思考は理沙の一言で一蹴された。恥ずかしさで顔が赤くなるのが分かった。

「いや、もしかしたら物足りなかったのかなーと思ってね」

「こんなところでそんな話しないの」

 いつもこんな風に理沙のペースになってしまう。考え事をしていたり、落ち込んでいたりする時も、理沙が話をするだけで私の考えなど無くなってしまう。何だか、今まで考えていたことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。

「雨、まだ止まないね」

 昇降口に出た理沙はそんなことを言った。外は登校した時と同じように、曇天でしとしとと雨が降り続いていた。私が昇降口で傘を差して外に出ようとすると、理沙はその中に入ってきた。

「濡れるの嫌じゃなかったの?」

私がそう聞くと、理沙はニコニコと笑った。

「濡れるのなんて、どうでもいいの。今は理沙の近くにいたいの」

 そういって、柄を持つ私の手に手を重ねる。

「ふふ、相合傘だね」

 理沙は満面の笑みで、恥ずかしげもなくそんなことを言う。今まで、今後の事などを色々と考えていた自分が恥ずかしくなった。誤魔化すためにも、私は外に出て理沙に言った。

「……帰ろっか」

「うん」

 寄り添いながら帰る雨道は、キスとはまた違った幸福感に満ちていた。先の事なんて全くわからないけど、今はただ好きな子が隣で笑っている。それだけで十分じゃないかと思った。最初は親友だと思っていたけど、今はかけがえのない大好きな人。彼女の小さい手が、ぬくもりが、愛おしく感じられる。やっぱり理沙の事好きなんだなと実感した。思わず顔がにやける。彼女の事、好きになってよかったなと。

「何にやにやしてるの?」

 理沙が私を見上げる。

「いや、理沙の事改めて大好きだなと思って」

 不安な気持ちが吹き飛んだせいか、自分に素直に言葉が出てくる。

「き、急に何よ。さっきまで難しい顔してたと思ったら、そんなこと考えてたわけ?」

 本当は違うけど、今はそんなことは関係ない。ただ、好き。

「そうだよ、理沙。大好き」

 空いている左手で理沙をそっと抱き寄せ、ぴったりとくっつく。

「もう、調子いいんだから」

 恥ずかしそうに顔を逸らす。その仕草がたまらなくかわいい。思わず頬ずりしたくなる。色々な表情を見せる彼女は、感情の起伏が激しくて、見ていて飽きない。あまり見せない表情にどきりとしたり、いつものニコニコした笑顔を見ると安心出来る。そんな表情を見ているとまたにやけてしまう。真っ赤な顔をした理沙が振り返る。

「……私も大好きよ、真弓」

 幸せな気持ちで浮かれているような気持だった。好きな人がいて、私の事を愛してくれる。これほど幸せなことはない。私は理沙に頬ずりする。最初は嫌そうにしていた彼女も、徐々に満更でもないような表情になった。寄り添っているだけで、こんなに幸せなのだ。キスなんておまけ程度でもいいように思えた。でも、気持ちを表すにはこれが一番いい手段だろう、気持ちもいいし。私はそっと理沙に顔を寄せる。人前なんて関係ない、見せつけてやろうという気持ちだった。理沙もそれに合わせて目を閉じる。幸福に包まれた状態でのキスは、いままでにない確かなものとなった。軽いキスだったが、心地よさは今までの比ではなかった。お互いに顔を合わせると、恥ずかしそうに笑い合った。

 先の事なんて全く分からないけど、今は好きな人が隣で笑っている。それだけで十分じゃないか。これからのことも二人なら乗り越えられる、こんなにも想い合っているのだから、きっと大丈夫。

 気が付くと、雨は上がっていた。曇天の隙間から、青空がのぞいていた。傘をしまい、理沙の手をとって私は歩き出した。これからもずっとこの関係が続くように願いながら、彼女の手を強く握った。握り返してくる感触を味わいながら、私はニコニコと笑っていた。先の事なんてわからないけど、好きな人が隣で笑っている。それだけで十分だと思いながら。彼女の手を引いて、私たちは歩き出した。

 

説明
※百合注意。
三題噺 「飴」 「鼓動」 「ひも」 作成日 6月20日辺り
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