ハーフソウル 第十六話・光あれかし(最終話)
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一 ・ 天照らす女神

 

 少年はずっと暗闇の中に住んでいた。

 

 物心ついた頃から暗闇なのだから、それが普通としか思っていなかった。

 灯火ひとつ無い何処か。

 一日に一回だけ食事を運んでくる誰かがいる。

 その時だけ辺りは暖かい光がともって、ここがどんな場所なのか分かるのだ。

 

 冷たい石床に石壁。通風孔だけが申し訳程度に開いている。

 そして光が漏れる扉の方向には、いくつもの鉄の棒がはめこまれている。

 

 人が見たら、それは牢獄だと言うだろう。

 だが世界を知らない彼から見たら、ここは存外楽園ではあった。

 

 自分は何者なのか、何故ここにいるのか。そしてこの緩慢な時間はいつまで続くのか。

 それだけが少年にとっては気にかかる、たったひとつの事柄だった。

 

 ある夜、いつものように頭上から物音が聞こえなくなった。

 通風孔からは一条の月光が差し込み、夜半を知らせる。

 

 よくは分からないが、夜は頭上の何者かが眠っているのだろう。

 月光が消え外が明るくなる頃、頭上の者たちは起き出し、ここへと食事を運んでくるのだ。

 

 だがこの夜は違った。

 

 上へと通じる階段から降りてくる足音がする。

 いつもの男ではない。

 軽い足音は恐る恐るこちらへと向かって来ている。

 

 目を凝らすと、小さな燭台を持った子供が見えた。

 燭台の灯火に映える柔らかい髪は、仰いだ事も無い太陽を思わせた。

 

「ごめんなさい」

 

 不意に少女は口を開いた。

 涙をこぼしながら謝罪を繰り返す彼女を、少年はただ眺めるしか出来なかった。

 

「あなたをここに閉じ込めたのは、お父様なの。カイエ家から異形種が出たのを、知られないようにするために」

 

 イギョウシュ?

 

 イギョウシュとは何だろうか。

 彼が知っている言葉といえば、どうして生まれたんだとか、双子など生まれなかったと男が呟いていたものくらいだ。

 

 それからというもの、少女は両親の目を盗んではたまに地下牢へ来るようになった。

 彼女は少年の姉だと名乗り、言葉や文字を教えたり、外界の話をした。

 

 少年にとって姉はたったひとつの大切なものだった。

 こぼれ落ちる蜂蜜色の髪に、深森色の瞳。

 

 姉だけが自分を愛してくれる。

 彼女さえいれば何もいらないと、少年は心から願った。

 

 

 

 

 思いがけないソウの登場に、セアルは驚きを隠せなかった。

 対峙する代行者たちを横目に、彼はラストを探した。

 

 ラストはクルゴスがいた場所のすぐ壁際に倒れていた。

 シェイルードの生み出す力場は強力で、闘技場ほどの大きさがある部屋にも関わらず、ラストをも壁に叩きつけていた。

 意識を確かめようと傍によると、ラストはうめき声を上げながらも上体を起こした。

 

「何なんだあれは……。よくわからねえ力で吹き飛ばしてきやがった」

 

 兄の術符研究を見てきたセアルにすら、シェイルードの術の正体は分からなかった。

 それに間合いに入ったとしても、攻撃を読んで寸前で躱されたのでは手の打ちようが無い。

 

 代行者たちに目をやると、彼らは一触即発の状態で牽制し合っていた。

 そこには何人たりとも踏み入れる事の出来ない、死の領域がある。

 

 セアルにとっては水を差された形になったが、今は見守るしかなかった。

 

「どうなってんだ? 吊り橋の時の代行者じゃねえか。アイツ何でこんなところに」

 

 ラストが訝しがるのも無理はない。

 ここにいるはずの代行者といえば、クルゴスとマルファスだけのはずなのだから。

 

「よく分からないが、俺たちよりも前にここに来ていたようだな」

 

 仲間割れとも思える代行者たちの様子に、セアルは目を向けた。

 張り詰めた空気だけが、その身を凍えさせた。

 

 

 

 

「千年ぶりか。あの頃はまだヒトであったな」

 

 押し黙るソウに、シェイルードは嘲るように言った。

 

「姉上に何か吹き込まれたか? あれは魔性の女よ。目的のためなら手段は選ばぬ。この私のようにな」

 

「……あの人を侮辱するな」

 

 シェイルードの哄笑に、ソウは呟いた。怒りのにじんだ言葉に、シェイルードはさらに笑い声を上げる。

 

「篭絡されたか。まあよい。来るなら来い。下らぬ感傷などこの手で握り潰してくれる」

 

 黒衣をはためかせ、シェイルードは不敵に微笑した。

 その様子にソウは地を蹴り、一気に間合いを詰める。

 

 武器を持たぬシェイルードと太刀のソウでは、後者が有利に思えた。

 だが思考を読む王器の前では、その常識をも覆す。

 

 ソウの鋭い一閃を、シェイルードはカラスアゲハのように躱していく。

 常人には目にも留まらぬ体捌きでありながら、その全てを見切っているのだ。

 

「その程度では私には勝てぬ。女ひとり力ずくで奪えないような腰抜けにはな」

 

 半壊したドームにシェイルードの嘲笑が響く。

 

「力ずくで奪ったものに、何の価値がある。現にお前は手に入れられなかったのだろう? 一番欲しかったものを」

 

 ソウの言葉にシェイルードは嗤笑をやめた。

 冷たい深紅の瞳で、静かにソウを見据える。そこには激しい憎しみの炎が宿っていた。

 

「貴様は代行者でありながら、肉体の限界を超えると消滅するのだったな。ならば我が研究成果を見せてやろう」

 

 シェイルードが一言呟くと、辺り一帯に力場が形成された。

 強力な重力場なのだろう。大地の振動がびりびりと伝わってくる。

 

「何だよ、あれ……」

 

 不意にラストが天を仰ぎ、呟いた。

 セアルが見上げると、そこには通常の数倍以上はある巨大な赤い月があった。

 

「あれが力場の正体なのか」

 

 どちらともなく、そう言葉を切った。

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二 ・ 贖罪

 

 天に広がる巨大な月は赤く、ドームの開けた天井から覗いている。

 その大きさは今にも山岳遺跡を押し潰さんばかりだ。

 

「天と大地は相互干渉によって成り立っている。これを操る事が出来れば、巨大な力場を作り出せるのだ」

 

 シェイルードは満足げな表情を見せた。

 天変地異を司る業を身につけたとでもいうのだろうか。古代に栄えたとされる、幾何学図形を用いる符術とは一線を画している。

 

「あんなでかい月見たことないぞ。このまま落ちて来たりしないよな」

 

 ラストの危惧も致し方ない。崩壊したドーム一面に広がる大きさならば、空の大半が月で満たされていてもおかしくないからだ。

 

「分からない。あいつが言っている事が正しければ、月や星を自在に移動させられるのかも知れない」

 

 シェイルードの術が強力であるのは、その身で受けたセアル自身がよく分かっていた。

 その上王器で思考を読まれては、勝ち目は無いだろう。

 

 そのシェイルードと対峙するソウを見やると、事も無げに場に立ちはだかっている。

 携える太刀はセアルと戦った時の打刀とは異なり、人の背丈ほどもある業物だ。

 

 不意にソウが動いた。

 

 シェイルードの作り出した重力をものともせず、太刀を薙ぐ。

 人の目にも見えるのは力場の影響なのか。緩慢では無いものの、その太刀筋は速いと言い切れない。

 

 だがソウの太刀を避けたシェイルードは急に膝をついた。

 見れば衣の裾が裂け、左腕が肘から落とされている。

 

「真空の刃か。面白い技を使う」

 

 左腕を失いながらも立ち上がり、シェイルードは楽しげに笑う。

 セアルやラストの目には映らない衝撃波が、シェイルードの腕を落としたのだ。

 斬撃が生み出す真空は気化熱を奪い、その傷口は凍り付いている。

 

 人の背丈ほどもある刃から放たれる真空波は、ソウの間合いを格段に広げている。

 たとえ力場がドームを覆うほど範囲が広かったとしても、一瞬で標的に到達するだろう。

 

「だがあの月を見るがいい。獣人族であり、代行者『狂』であるが故に己の中の狂気を止められまい」

 

 シェイルードの余裕は、いずれソウが狂気に駆られるのを知っているからなのか。

 

「私の自我があるうちにお前を倒す。否、倒せなかったとしても、その力を殺ぐ事ならば可能だ」

 

 言い放つとソウは正面へと踏み込んだ。

 太刀を両手で握り、身を守るそぶりも見せないシェイルードへと真空刃を放つ。

 

 セアルには、不遜に微笑むシェイルードが見えた気がした。

 果たして真空刃は目標を逸れ、足元の石床を破壊する。

 

 左腕を損傷していても眉ひとつ動かさず、シェイルードはその場から微動だにしない。

 

 舞い上がる土埃とともにソウは跳躍した。

 右手に太刀を振るい、シェイルードの首を狙う。

 

 その刹那、かつてない威力の重圧がホール全体へとかかった。

 セアルとラストは圧縮された大気に押え付けられる。

 そのまま二人は石床へと叩きつけられ、肺を圧迫される息苦しさを感じた。

 

 ソウの刃はシェイルードの首へは届かず、寸前で止まっていた。

 対峙する二人の間には、一瞬空気すら無かったのかも知れない。

 

 傷を負っても流れ出ない代行者の血液はどろりと黒く、水分が蒸発して凍り付いている。

 

「遊びは終わりだ」

 

 凍える声でシェイルードは呟いた。

 

「貴様がいかに仲間を思おうとも、そんなものは何の役にも立たない。本当の望みは何だ? 綺麗事ではこの私は倒せぬ」

 

 残った右腕でソウの左肩を掴み、その握力で関節を砕いた。

 

「大方ここへ来たのもマルファスの差し金だろう。あれは本当に理解不能な奴だ。代行者という神にも等しい存在でありながら、欲望のままに生きようとしない」

 

「マルファスは私に望みを叶える機会をくれただけだ。使い魔のカラスを追って来たのは、私自身の意思」

 

 肩を砕かれたソウはバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。

 だがその時。

 一瞬の虚をつき、太刀の切っ先がシェイルードの首を掠めた。王冠が刃に絡め取られ、そのままそれを背後へと放り投げる。

 

「王冠を取れ、セアル」

 

 ソウは右手に太刀を構え直した。

 

「私は、お前の母親がどんな目にあっていたかを知っていたのだ。だが奴に勘付かれないがために救い出さず、結果的に見殺しにした。この命であがなえる罪では無いのは分かっている。すまなかった」

 

 それだけ言うとソウは再びシェイルードの正面へと立った。

 左肩は砕け、原型を留めない関節からだらりと腕だけが垂れ下がる。

 この男は、友が命をかけた未来を見守るためだけに生きてきたのだろうか。そのためにセアルやデルミナを犠牲にした事を悔やんでいるのだろうか。

 

 道を指し示すように現れては消え、忠告を与えてきたのは彼なりの贖罪だったのだろうか。

 

 そう思い当たり、セアルは唇を噛み言葉を発さなかった。

 王冠を拾い、両手にそれを包み込む。

 

 青白く輝く聖銀の王冠は、手の中で柔らかく光を放った。

 

 冷たい微笑を絶やさないシェイルードに、ソウは再び斬りかかった。その瞳はすでに冷静な彼のものではない。

 狂気に支配された鬼神と成り果てている。

 

「自ら死に急ぐか、つまらぬ男よ」

 

 ソウを一笑に付し、シェイルードは力場の壁を自らの周囲に張り巡らせる。

 それをものともせず、ソウはただひたすら斬りかかった。

 

 だが判断力を失い冷静さを欠いた状態では、代行者の身体能力をもってすら勝ち目は無い。

 程なく勝敗は決した。

 

 シェイルードにいくつもの傷を負わせ、その左腕を落としたものの、圧倒的な術力を有する彼にソウは打ち勝つすべを持たなかった。

 ゆっくりと膝を折り、シェイルードの足元へと倒れ込む。すでにその瞳は何も映さず、濁り始めている。

 

「さらばだ亡霊よ」

 

 表情ひとつ変えず、シェイルードは倒れたソウの頭蓋を踏みつける。

 薄い骨の割れる音が響くと同時に、シェイルードの足は石床の上に散らばる砂を踏みしめていた。

 傍らには首輪が音も無く転がり、月光を鈍く反射した。

 

「何て事しやがる……」

 

 敗者への冒涜にラストは憤った。

 今にも飛び掛らんばかりに拳を握り締める彼を、セアルが制止した。

 

「あの男は俺が決着をつけなければならない相手だ。これを預かっていてくれ」

 

 ソウが最期に託した王冠を、セアルはラストに渡した。

 

「代行者ですら勝てない強敵だ。俺自身が深淵とならなければ勝てないかも知れない。もし俺が自我を取り戻せなかったら、その時は俺を殺してくれ。この世界を護るために」

 

 セアルの言葉に、ラストは一瞬反応が出来なかった。

 むしろ心のどこかで、そう言われる事を恐れていたのかも知れない。

 

 理屈としては当然の成り行きだ。

 自我を失ったセアルは神の力を宿した器に過ぎない。

 

 深淵の大帝の、或いは主人となった者の思うがままに、セアルの尊厳は奪われていくのだ。

 

 最早セアルへの深淵の侵食は、誰の目にも明らかになっている。

 肌だけではなく髪も徐々に黒へと変貌している。すでに引き返せないところまで来ているのだ。

 ただ理解は出来ても、感情はそれに追随するわけではない。ラストは思いの外、自分が器用では無いと気付かされた。

 

「さっさと終わらせて来いよ。お前がどうなろうが、殴り倒して引きずってでも連れ帰ってやるからよ」

 

 ラストの答えにセアルは小さく笑った。

 恐らく見透かされているのだ。ラストの手を借りずとも、自我を失う直前に自ら命を絶とうとする事を。

 

 黒曜石の剣を握り締め、セアルは前へと進み出た。

 自らの道を切り開くために。

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三 ・ 渇望

 

 何かを恐れる心は、すでにセアルには無かった。

 

 そもそも自分は何を恐れていたのだろうか。失う事だろうか。苦しむ事だろうか。それとも真実と向き合う事なのだろうか。

 ただそこにはするべき事があり、それは自分にしか出来ない。

 

 強い意志は、彼に更なる力を与えた。深淵の三度目の顕現を受け入れたその身は、今まで以上の力に満ち溢れている。

 おおよそ生命とは対極に位置する力でありながら、その根源となるものは人々の意識が眠る深い海、心海だ。

 末席とはいえ神を宿した彼には、代行者ですら敵う者は少ないだろう。

 

「自我を保ちながら神を使いこなすか。面白い。だがその意識、いつまでもつだろうな」

 

 哄笑を上げながら、シェイルードはより重圧をかけた。天体を自在に操り、意のままに質量を増幅させる。

 背後でラストが苦しそうにうめくのが聞こえたが、セアルはただ前だけを見た。

 

 倒さなければならない相手。たとえ消滅させられなくとも、眠りにつかせられたなら、破滅を食い止める事が出来る。

 

 全身の筋肉に力を込め、セアルは跳んだ。

 剣を構え、シェイルードへと振り下ろす。

 

 渾身の一撃は力場に阻まれ、シェイルードは傷ひとつ負わなかった。

 凄絶な微笑を湛え、シェイルードは手も触れずにセアルを床に叩きつける。

 

 セアルは怯まず返す刃で横腹を薙いだ。

 予期せぬ行動に反応が遅れ、シェイルードはその一撃を無防備な左脇腹へと受けた。

 

 今はただひたすら、一瞬たりとも時間が惜しい。

 すでに髪は黒く染まり、姿だけなら深淵の大帝と変わらなくなっている。

 自我があるうちに眠らせる事が出来なければ、世界は文字通り水泡と帰すだろう。

 

 セアルの様子に、嘲笑っていたシェイルードの表情が徐々に変貌していく。

 余裕は消え失せ次第に苛立ちを募らせている。

 

「甘く見ておれば図に乗りおって。眠りに堕ちるがいい。深く昏い闇の底へ」

 

 じりじりと肥大化する超重力にセアルは耐えた。

 このままでは大地は崩壊し、世界もろとも飲み込まれ、光すら逃げ出せない深淵の底へと閉じ込められるだろう。

 

 ずしりと重くなった剣を両手で握り締め、セアルは立ち上がった。

 大切なもののために、全てに決着をつけるのだ。

 

 左脚を軸にし、剣の重量を乗せて力の限りに振り切る。

 遠心力によって加速された斬撃は、鋭い弧を描いて目標へと襲い掛かった。

 

 ガラス質の黒刃は狙いたがわず、肩口から胴へと斬り裂いた。

 

 ぱっくりと裂けた傷口は、どろりとした赤黒い内臓をさらけ出す。

 筋肉とともに腱も断たれ、体躯を支えられなくなったシェイルードは倒れ込み天を仰いだ。

 身を起こす事すら出来ないというのに、口からは淡々と呪詛の言葉が漏れる。

 

「貴様の負けだ。消滅が叶わなくとも、そのまま眠りにつけ」

 

 重い体を引きずりながら、セアルはシェイルードへと近寄った。

 消滅させるにしてもどうすれば良いか分からず、虚ろな表情で呟き続ける男に目をやった。

 

「これも天啓、天運なのか。あの牢獄から逃れる時に実の父親を殺した私が、よもやその側に回ろうとは」

 

 すでに何も捉えてはいない赤い眼は、ただ天から見下ろす巨大な月を映す。

 これほどまでに肉体を破壊されていても意識のある代行者とは、何故このような存在として生かされているのか。

 

「私は眠らぬ。最早眠りなど飽きた。この世界を破滅に導くまでは、眠りになどつかぬ」

 

 強烈な怨嗟の念に、セアルはたじろいだ。

 自由などすでに利かない体を捻り、右腕だけでひたすら這いずる。その姿は初めて見た深淵の大帝そのものだ。

 

 どこへ行こうというのか、シェイルードの進む先には玉座の間へ至る扉があった。

 逃げるつもりなのかとセアルは後を追おうとする。

 

 その時セアルの目に映ったのは、一人の黒い人影だった。

 

 扉からこちらを窺う人影は内部の様子を知っているのか、その場から動こうとはしなかった。

 近づくにつれ、その影はよりはっきりと姿を見せ始める。

 

 深紅に染まる月光の陰から現れたのは、イブリスだった。

 

「来たのね、セアル」

 

 うめくように彼女は口を開いた。

 

「あの夜、あの森であなたを見つけたくなかった。見つかってしまえば、お父様は必ずあなたを利用しようとするから」

 

 イブリスの手には短剣が握られているのが見える。

 

「お父様の命令には逆らえない。でも姉としてあなたを護りたかった。もう全てが遅いけれど」

 

 言うより早く、イブリスは短剣を振り下ろした。 

 刃はうずくまるシェイルードの心臓を貫き、屈み込む彼女の両手を赤黒く染め上げる。

 

「デルミナを逃がした時にこうしていればよかった。そうすれば誰も傷つける事などなかったのに」

 

 心臓を貫かれてさえ、シェイルードは眠ろうとしなかった。

 怨念のこもった双眸は未だ紅く燃えたぎる。

 

 イブリスが実の姉であるという事実は、セアルを打ちのめした。

 育ての父を殺す事でセアルを森の外へと誘い出し、再びウルヴァヌスの血月を仰がせ深淵を目覚めさせる。

 

 全てがパズルの欠片のように組まれていたのだろうか。

 ではそのために犠牲になった者たちの存在とは、何であったのか。

 

 この世に対する憎しみのままに、なお足掻く父を見つめイブリスは呟いた。

 

「お父様。もうやめましょう。どれだけ多くの命を奪っても何も変わらない。誰も幸せにならないのよ」

 

 短剣を握り締める手が微かに震える。

 そのしぐさにセアルは違和感を憶えた。

 

 止める間もなく、イブリスは自らの喉を切り裂いた。

 ほとばしる鮮血は、背後の石壁をねっとりと染め上げる。

 そのままイブリスは膝をつき、シェイルードの横へと倒れ込んだ。

 

「お父様の望みは分かっているわ。何十年も傍にいたんだもの。だから一緒に逝きましょう。冥府の果てまで」

 

 唇は微かに動いているが、吐息の漏れる喉はすでに呼吸をしていなかった。

 セアルは駆け寄り、倒れているイブリスをそっと抱き起こした。

 

 上体を起こされセアルを見やると、イブリスは小さく言葉を紡ぎだした。微笑むと彼女はそのまま大きく息を吐き、二度と目を開かなかった。

 

 例えようのない喪失感に、セアルは亡骸を抱きしめるしか無かった。

 父の仇と追っていた相手が姉である事も知らず、そして前へ進むための目標を失った。 

 

 血の気を失ったイブリスを抱えていると、いつの間にかラストが横へ来ていた。

 ラストは何も言わず、ただシェイルードだったものを見つめている。

 それはクルゴスと同じように砂山と化し、永遠の眠りについていた。

 

「……終わった、のか」

 

 ふとラストが口を開いた。

 

 冷たくなった亡骸を横たえ、セアルは立ち上がった。

 ラストの疑問も無理はない。

 

 そもそも終わりとは何を指すのか。

 マルファスは全てを終わらせると言っていた。ではその終わりはどこにあるのか。

 

 不意にセアルはマルファスを思い出し、辺りを見回した。

 彼の姿はおろか、ここへ来た形跡も無い。

 

 胸騒ぎがする。

 

 制御を失った月は巨大なままで、セアル自身も黒化した髪や肌が戻らなかった。

 意識は失わないものの、元に戻る気配すら無い。

 

「どうなっているんだ……」

 

 不安に駆られ、マルファスを探した。四人の代行者のうち三人が消滅した今、存在しているのは彼だけなのだ。

 

「全て終わったようだね」

 

 暗がりから声がし、セアルはそちらを振り向いた。

 見ると奈落の近くにマルファスがいる。

 今までどこにいたのか。気配すら消していたにしても、あまりに遅い登場だ。

 

 理由を問おうと、セアルはマルファスへと近づいた。

 背後からラストの声が聞こえた気がしたが、気付いた時には視界が歪んでいた。

 

「ようやくこの時が来た。ずっと待っていたよ。神を手にする日を」

 

 意識を失う直前セアルの目には、恐ろしく柔和なマルファスの微笑が見えた気がした。

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四 ・ 最後の代行者

 

 イブリスの亡骸を抱え呆然とするセアルを見やり、ラストはかつてシェイルードだったのものへと近づいた。

 クルゴスと同じように砂の山と化し、近くにはやはり首輪が転がっている。

 

 代行者たちは何に支配されていたのだろう。これ見よがしにはめられた首輪なのか、それとも自身の欲望なのか。

 セアルがまだ意識を失っていないのを確認し、ラストは慎重に辺りを見回した。

 

 明らかに違和感がある。

 

 この戦い自体、何かに仕組まれたようにしか感じなかった。

 そうでなければ、ここまで都合よく代行者が集まるだろうか。

 

 そもそも、ここに来ているはずのマルファスが見当たらないのが腑に落ちなかった。

 何よりも代行者が三人とも消滅した上に、この場には王器が全て揃っているのだ。

 

 辺りを窺いながら、ラストは黒曜石の剣を拾い上げた。これでラストの持つ王器は三種類になる。

 最後のひとつは、マルファスが所持する銀盤の王器だけだ。

 

 ふと、声が聞こえた気がした。

 

 セアルを見ると、声の方向を凝視している。

 果たしてそこには、マルファスが見えた。

 

 柔和な微笑みを湛え、奈落のすぐ傍へと立っている。

 ラストの鋭敏な勘が、非常に危険な状態だと告げる。

 

「やめろ! 近づくな!」

 

 声の限り叫んだ時には、すでに遅かった。

 セアルは意識を失って倒れ込み、それをマルファスが支えている。

 

 その時、聞いた事も無い奇妙な旋律がラストの耳へと届いた。

 韻律が何かの術と気付いた時にはすでに完了し、セアルはその場に立ち尽くしていた。

 

「そいつに何をした」

 

 月と同じ深紅の瞳はそのままに、セアルは虚空を見つめている。

 意識はある状態なのかも知れないが、そこに自我は無い。

 

「初めて見たのかい。これが『従属』だよ」

 

 その言葉とともに、マルファスはセアルの上衣を引き裂いて見せた。

 セアルの左胸、心臓の真上には円を基調とした奇怪な紋様が描かれている。

 

「今ではこの術を知る者は、僕以外にはサレオスくらいだろう。今はまだセアルの自我が残っているが、程なく深淵の大帝に固定される」

 

 マルファスの裏切りに、ラストは怒り狂った。

 

 碑文を破壊した今、新たに代行者は生まれない。

 それは残った代行者たちを倒させ、マルファスが全ての頂点に立つためのものだったのか。

 

 全てを終わらせるというのは世界を破滅から救うのでは無く、導くという意味だったのか。

 

「てめえ、よくもオレたちを嵌めやがったな。セアルを元に戻せ!」

 

「それは出来ない。僕はやらなければならない事があるから、邪魔をしないでくれ」

 

 マルファスが一言呟くと、彼らの間には薄い膜のような障壁が築かれた。

 近寄るだけでちりちりと焼け付くそれは、触れようものなら腕を吹き飛ばしかねない。

 

「キミは知っているかもしれないね。千年前にシェイローエが張った結界と同じものだ。彼女の邪魔をしようとしたフラスニエルは、その結界で右腕を吹き飛ばした」

 

 その言葉にラストは統一王の日記を思い出した。

 ある一部から子供の字のようにのたくっていたのは、利き手では無い左手で書いていたのだ。

 

「腕を吹き飛ばしたくなければ、そこで見ていればいい。キミには何もするつもりはない」

 

 マルファスの落ち着き払った言葉は、ラストをさらに逆上させる。

 

「自分に害が無いから見てろだ? 仲間に害があるなら見ていられるわけがねえだろ!」

 

 憤るラストを尻目に、マルファスはセアルの様子を見た。

 やがてセアルはゆっくりと天を仰ぐ。

 

 次にラストへと目を向けたそれは、すでにセアルでは無かった。

 ウルヴァヌスの夜、宰相クルゴスとともに目にした深淵の大帝そのものだ。

 

「お前か。息災であったか、人の子よ」

 

 亡者の声で言葉を投げかけ、身を翻す深淵にラストは歯噛みした。そして同時に悔しさがこみ上げる。

 セアルを救えなかった。魂が肉体から失われ、なお蹂躙される事実にラストは覚悟を決める。

 

 セアルの尊厳を取り戻さなくてはならない。

 彼の肉体は彼だけのものであり、誰かが踏みにじるなど許される行為ではないのだ。

 

 結界の向こう側では、マルファスと深淵の大帝がラストに背を向けて立っている。

 気付かれないうちにここを抜け出し、セアルを深淵の呪縛から解放しなければならない。

 

 術で作られた障壁は、ぐるりとラストを取り囲むように張られていた。

 頭上を見上げるとそこには何もない。大柄なラストよりもさらに高さのある障壁だが、上からなら抜け出られそうな空間がある。

 

 助走も無く、ラストは長柄をしならせその反発力と腕力だけで体を捻り上げた。

 障壁が靴底をかすめたが、他は触れることなく無事に結界を越える。

 

 近づくラストの足音に深淵が振り向いた。

 地獄の業火を思わせる深紅の瞳が彼を見据える。

 

「お前には用は無い。我が主はすでに決定した。審判の日はすぐ傍へときている」

 

 その言葉にマルファスも振り向きラストを見た。

 

「どうして終わるまで結界の内にいてくれない。ここからは何が起こるか分からないというのに」

 

 それだけ言うと、マルファスは深淵を手招いた。

 従属の術によって制御されている深淵は、おとなしくそれに従う。

 

 ラストが制止する間も無く、深淵はマルファスの眼前へと立った。

 

「あの男を殺さなくてよいのか、我が主よ」

 

 小剣を抜き放つラストを指し、深淵は呟いた。

 

「あれは最後の王となるべき者。手出しは無用」

 

 マルファスは今にも飛び掛ってきそうなラストへと言葉を投げる。

 

「ラストール。これから僕がする事を、よく見ておくんだ」

 

 そう言うが早く、マルファスは深淵の喉へと手をかけた。残った右手で剣を抜き放ち、その心臓へと刃を突き立てる。

 密着した状態で心臓を貫通した刃は、同時にマルファスの心臓をも貫いた。

 

 逃れようと深淵は暴れたが、がっちりと押さえ込まれていてはすべが無い。

 血を吐き亡者の絶叫を上げる深淵に、ラストは耳を塞いだ。

 

「神の意識を固定しても、肉体は人のままだ。『従属』の印を貫けば、そこにある神の魂を倒す事が出来るはず」

 

 なおももがく深淵を押さえようと、マルファスは少しずつ壁へと後退する。

 彼自身、弑神の剣による損傷が激しく、弱ってきているのはラストの目にも分かった。

 

「アンタ、何でこんな事を……」

 

 マルファスが自らの身を挺してセアルを救おうとした事に、ラストは問いかける。

 

「何でだろうね。いずれにせよキミを巧く騙せてよかったよ。敵を欺くにはまず味方からと言うからね」

 

 微かに笑いながらもその力は失われ、ついには深淵を押さえきれなくなった。

 マルファスの剣から逃れた深淵は耳をつんざく絶叫を上げ、のた打ち回る。

 

「許さぬ。この私を、深淵の大帝たる私をこのような目にあわせるとは」

 

 おびただしい量の血液を撒き散らしながら、深淵は石床を這いずった。その先にあるのは、ぽっかりと口を開ける奈落の底だ。

 

「この体の持ち主もろとも、深淵へと引きずり込んでくれる。何もかも、全てが死すべき運命」

 

 狂った哄笑を上げながら、深淵は奈落へと進む。

 

「やめろ!」

 

 セアルの体を道連れにしようと進む深淵を、ラストは追いかける。

 必死に右手を伸ばすが一瞬遅く、セアルの体は崖からずるりと落ちた。

 

 その時、夢で見たあの光景がラストの中に浮かび上がった。

 落ちていく女を掴もうと手を伸ばし、助ける事が出来なかったあの夢を。

 

 あの時のフラスニエルはすでに右腕を失っており、左手を差し出すのをためらった。

 それが彼の人生の中で、心を苛むほどの大きな後悔となっていたのだ。

 

「オレは諦めない!」

 

 崖の端に手を掛け、身を乗り出して限界まで右手を伸ばす。

 

 指先にセアルの衣服が触れ、ラストはそれをがっちりと握り締めた。

 意識のない体の重みが、全てラストの左手にかかる。

 治りかけの左手に激痛が走った。ともすれば失神しそうな痛苦に、彼は歯を食いしばって耐える。

 

「……だめだ」 

 

 ふと声が聞こえた気がした。

 地の底からこみ上げる亡者の声ではない。

 

「このままじゃお前も落ちる。だから放してくれ」

 

 体中の血を流しつくし、すでに自力で這い上がる力も残っていないセアルはそう呟いた。

 

「うるせえ! お前はレンを独りにするつもりなのか? 振りほどく力も残ってないなら黙ってろ!」

 

 その言葉にセアルは、残してきたレンを思った。

 他人に対してあまり心を開こうとしないあの子は、人の中で生きていけるのだろうか。

 

「まだ死ねない……。こんなところで」

 

 残った力を振り絞り、セアルは絶壁を掴み這い上がる。

 爪がはがれ血が滲んでも、さほど痛みは感じなかった。

 

 崖を登り切りラストを引き上げると、二人は脱力しその場に座り込んだ。

 セアルの左胸からは未だ血が流れ出しているが、あの奇怪な紋様は消えている。

 

「お前何で生きてるんだ? 心臓ぶっ刺しても死なないとか怖すぎるぞ」

 

「さすがに心臓をはずれているんじゃないかな。心臓を貫かれて生きているわけが無い」

 

 ラストはふとマルファスを思い出した。

 自らの心臓を貫いてまでセアルを救おうとした男はどうしたのか。

 

 見るとマルファスは先程の壁際に、もたれかかるように座していた。

 血は流れ出ていないもののその顔色は土気色で、瞼を開けなければ死体と見紛うほどだ。

 

「眠りの時が迫っている」

 

 マルファスは蚊の鳴くような声で呟いた。

 

「制御を失ったあの月は、間もなくこの一帯を押し潰すだろう。その前にキミたちはこの城を出るんだ」

 

 そう言うとマルファスは震える手で銀盤を取り出した。

 床にそれを置くと、小さく言葉を発した。

 それに応えるように銀盤は輝き、表面にどこかの部屋を映し出す。そこにはセアルの兄、サレオスの姿があった。

 

「サレオス。僕の声が聞こえるかい」

 

 不意に聞こえてきたマルファスの声に驚いたのか、銀盤の中に映るサレオスは辺りを見回している。

 

「全て終わった。セアルもラストールも無事だ。すぐに早馬と馬車を用意するようレニレウス卿に伝えてほしい。僕はこのまま眠る事にする」

 

 銀盤の中のサレオスは何かを叫んでいたが、セアルやラストには何も聞こえてはこない。

 

「大丈夫だよ。だって僕は死なないんだから……。明日かも知れないし千年後かも知れないけど、いつかは目覚める。それが不死人たる代行者だ」

 

 そこで銀盤は輝きを失った。映像も掻き消え、銀盤は元の鏡面へと戻る。

 

 その時突如轟音が響き、頭上の月が動き出した。

 深紅の月は空の大半を占め、今にも落ちて来るのではないかという不安に駆られる。

 

「早く行くんだ。僕の力はもうもたない。抑えるのもそろそろ限界だ。大丈夫、またいつか会える」

 

 銀盤を持っていくよう促し、マルファスは再び壁へと寄りかかった。

 崩れる天井を見上げ、セアルとラストは決断した。

 心の中で別れを告げると、そのまま踵を返し入り口へと走る。

 

 駆け出す二人を見送った後、マルファスは天を仰いだ。月は徐々に質量を増し、岩塊で造られた城は耐久力を削り取られていく。

 

「僕はいつになったら、キミの許へ逝けるのかな」

 

 懐かしい人を思い出し、微笑んだ瞬間。天井は崩れ、辺りは暗闇へと落ちていった。

 

 

 

 

 長い廊下を抜け、二人が外に出たその時、城は支えを失ったように崩れ落ちた。

 土埃が舞い、波打つ振動が岩山を揺るがす。

 

 全ての終わりを告げる崩壊に、セアルとラストはただそれを眺め続けた。

 

「これで終わったんだな」

 

 薄闇に崩れ落ちた城を見つめ、ラストは呟いた。

 セアルはそれに応えず、ただ瓦礫を見ていた。

 

 マルファスが初めてセアルの前に現れたのは、恐らく最初の血月の夜だったのだろう。

 あの夜セアルを殺せなかったサレオスは、マルファスに救われた。

 

 その時から、もしかするともっと前から、マルファスはセアルを見守っていたのだ。

 

 代行者であるマルファスが、何故そこまでしたのだろうか。

 その理由を何も言わず眠ってしまった今は、問うすべも無い。

 

 黙りこくるセアルに、ラストは何も言えず瓦礫に腰を下ろした。

 

 東の空がおぼろげに白み始める。

 長い夜が明けたのだ。

-5ページ-

五 ・ 光あれかし

 

 帝都からの早馬が到着したのは、山岳遺跡を脱出した二日後だった。

 

 出血のひどかったセアルは脱出直後に昏睡し、ただひたすら眠り続けた。

 髪も肌も黒く変貌した弟にサレオスはうろたえたが、二日、三日と眠り続けるうちに少しずつ元へと戻りつつあった。

 

 誰もが数日で目覚めると思っていたが、セアルは昏々と眠り続けた。

 いつ目覚めるのかも分からないまま月日は流れ、いつしか五年の歳月が経っていた。

 

 五年の間にセアルの体は地下廟のホール内に安置される事となった。

 柔らかく輝く光鉱石たちがセアルを照らし、安穏と眠り続ける顔を映し出す。

 

 がらんとしていたホールには花や木々が植えられ、地下でありながら清涼な空気が漂っている。

 

 セアルの眠っている寝台の傍らには、長い銀髪の少女が寄り添っていた。

 宮廷女官の衣装を纏い、長く伸びたセアルの髪を優しく梳いている。

 

 黒く変色していたセアルの肌は元の白い色に戻り、髪も毛先以外は蜂蜜色になっていた。

 髪を切ろうとハサミを持ち出した時、背後に足音が聞こえた。

 振り返るとそこには、彼女のよく知る黒髪の男が立っていた。

 

「……ラスト? あんたこの五年間どこ行ってたのよ」

 

 辛らつな口調で少女は男に詰め寄った。

 きつい言葉尻にも、安堵と喜びが入り交じっている。

 

「よおレン。どこって家に戻ってただけだぞ。二年前にばあちゃんが亡くなってさ。最後の親孝行に間に合って良かったよ」

 

「公爵様がラストの事ずっと探してたのよ。どうして帝都に戻らなかったの」

 

「レニレウスか。あいつ宰相に就任したらしいな。大方オレから借金を取り立てるつもりなんだろ。たまったもんじゃないぜ」

 

 踏み倒す気満々のラストに、レンは呆れた。

 

「オレが帝都に戻る理由は無いんだよ。継承権は放棄したし、侯爵家は姉上が継いでるんだからな。こんなところで縛られてるより、だらだら生きる方が性に合ってんだよ」

 

 そう言い放つと、ラストはレンの姿を眺めた。今は東アドナ風の服装ではなく、宮廷女官の衣装を着ていたからだ。

 

「お前は今どうしてるんだ? 見たところ城内に勤めてるようだが」

 

「皇女様の侍女をしているわ。話し相手くらいしか出来ないけど、とても良くして下さるの。城内で働いていれば毎日でもセアルに会えるから、サレオスお兄様と相談して決めたの」

 

 レンの言葉に、ラストは眠り続けるセアルを見やった。

 五年前、サレオスはセアルを森へ連れ帰ろうとしたが、周囲はそれに反対した。

 表面上は元に戻っているかも知れないが、いつ深淵の大帝として目覚めるか分からないというのがその理由だった。

 

 結果セアルは、聖別の結界がある地下廟へと安置される事になった。

 そのためにサレオスとレンは森へ戻る事が出来ずに、今でも城内に留まっているのだろう。

 

「こいつ、いつになったら目が覚めるんだろうな。場所が場所だけに、生きてるのかも怪しいが」

 

「変な事言わないでよ! 生きてるに決まってるでしょ。髪だってこんなに伸びてるんだから」

 

 ラストに背を向けて、レンはセアルの髪を切り始めた。

 黒ずんだ部分を丁寧に切り落とし、梳いて仕上げると、懐かしいセアルの姿へと戻っていた。

 どこかで見た既視感に、ラストは目を見張る。

 

「なあ、もうちょっと短く切った方がよくないか」

 

「眠ってる状態で短くしようとすると、後ろ側が変になっちゃうでしょ。起きてからでいいよ」

 

 そもそも目覚めるのがいつになるやらとラストは思った。

 

 彼このまま眠り続けた方がいいのだろうか。目覚める事を恐れられ、このような場所に置かれるなど、余りにも不憫ではあった。

 代行者や深淵の大帝が駆逐され、世界が救われた事など誰も知らないのだ。

 

 あの日から血月を見ないのは、山岳遺跡ごと破壊されたのだろうが、人々は血月の存在すら知り得ない。

 表向きはラストが宰相を駆逐した英雄という扱いになっている。

 だがそれは一人で成し得たものではない。

 

 セアルがいなければ、ここには到達出来なかった。

 

 思えば五年前、たまたま追いかけた奴隷泥棒が夢に出てくる女に似ていたのも、ただの空似ではなかったのだ。

 

 そういえば今日はあの日からちょうど五年目だ。

 意図せずその日に帝都へ戻るはめになろうとは、彼自身思ってもいなかった。

 姉の産んだ赤ん坊を見に来ただけなのにとラストは微笑んだ。

 

「何にやにやしてるのよ。気持ち悪い」

 

 この五年で思いのほか毒舌家になっているレンに衝撃を受けながら、ラストは違和感を憶えふとセアルを見た。

 

 動いている。

 

 微かだが、指先が動いたように見えた。

 気のせいかもしれないと思い直し、セアルへと近づく。

 

 精霊人の血が混じっているセアルは、年経た歳月を思わせない若さだ。

 それが余計に痛々しく感じさせる。

 

 見入っているとゆっくりと瞼が開いた。

 懐かしい深森色の瞳がラストを捉える。

 

 後片付けをしていたレンを、ラストは急いで呼んだ。

 驚いたレンは道具を放り出し、一目散にセアルの傍へと駆け寄った。

 

 未だ状況を理解していないセアルの手を握り、レンは涙ぐむ。

 

「まだ寝ぼけてるのか。何年経っても進歩の無い奴だな」

 

 涙をこらえきれないレンに背を向け、ラストは誰にも分からないよう、笑みを漏らす。

 レンは涙をこぼしながら、セアルを抱き締めた。

 

「おかえり、セアル」

 

「……ただいま」

 

 かすれてはいるが、しっかりとしたセアルの声で彼は応えた。

 

 悪い事は重なるが、良い事もまた重なるのかも知れない。

 ラストはふとそう思った。

 

 見上げれば天上の星々のように、光鉱石が瞬いている。

 光あれかし、と誰かが呟いた。

 

 

 

 終

説明
創作歴史と創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。武器戦闘をメインにしてあり、魔術はあまり描いていません。男主人公。最終話。16491字。グロ表現のため18歳以下の方は閲覧されないようお願い申し上げます。


あらすじ・最終話。宰相を消滅させたが、代行者『死』によって苦戦を強いられるセアル。そこへ現れたのは……。

最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。
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