〔AR〕その1 |
静かなる地霊殿。
荒くれ者の歓声も、地底生態系の怪物のうなり声も、旧灼熱地獄のマグマの胎動も、この屋敷の中に住まう者達には届かない。あまりに静かであるので、来訪者はこの空気に薄気味悪さを禁じ得ないだろう。暗闇から、何か飛び出してきてくれたほうが、いっそ安心するかもしれない。
古明地さとりは、そんな屋敷の中でもひときわ静謐すぎる、自身の書斎にいた。窓を背にし、机に向かって、滑らかにペンを走らせていた。
「……」
さとりと対面する古紙に、次々と文字が定着していく。文字は単語に、単語は文章に、文章は物語に。早くはないが、手は止まることなく、筋を露わにしていく。
わざわざ古紙に書いているのには理由がある。一つは、単純に地底では新品の紙が手に入りにくいこと。もう一つに、今書いているのはいわば下書きであり、今現在の構想を思うままに書き出している段階なので、改まって上質な紙に残すまでもないということだ。
もっとも、今書いているお話が、完成稿にまで至るかは、定かではない。なぜなら、話を書くという行為は、前述の通りさとりの趣味、膨大な時間を潰すための大いなる暇つぶしであり、特別な使命やモチベーションを伴うものではないからだ。書いているうちに飽きたり、全く別の話を考えることも珍しくはない。気まぐれで、今書き留めている古紙ごと、物語を投げ捨てることも、彼女は厭わないのだ。
ただ、それでも、さとりが長い年月の間に書き溜めた作品は、途方もない数に及んでいた。人間の寿命では一生かかっても網羅不能なのは間違いない。また、書痴の妖怪が居たとしても、途中で投げ出すのは請け合いだろう。個人が書いている故、ある程度作品のジャンルと傾向は固まっているという事実からも、そうなるであろうことは容易に想像がつく。
「……この辺にしましょうか」
さとりは、ひとりごちて筆を止めた。ペン先が最後に書いたのは読点で、丁度一区切りがついたようだった。
ペン立てに筆を置き、手のひらを眺める。白魚と表現するよりも白く細い指先には、インク汚れの曇りはなかった。それどころか、長年筆を持ち続けているにも関わらず、その指は、ペンタコをはじめ、わずかにも偏った変形が見られない。
これは妖怪故の現象といえた。人間であれば、日々の行動が肉体に刻まれていくものだが、妖怪は精神に存在を依存するがために、自分が自分であるという姿に固定される。何かしら身体を変化させる要因を受けても、妖怪として確固たる自我が存在するのであれば、それらは一切合切補正される。このために、人間からすれば、妖怪は年をとらないように見えるし、大けがをしても平気なように感じられるのだ。
そして、手というものは、手を用いる生き物にとって、一番良く目にしている器官といっても過言ではない。さとりは昔から、このつくりもののような自分の白い手を見続けている。そのため、どんなにそれを酷使したとしても、いづれは自分にとっての自分の手に戻るのだ。ちなみに、仮に執筆に入れ込みすぎて疲れたとして、眼精疲労や肩こりといった症状に見舞われることもまずない。
――ニャーン。
ふと、静謐を通り過ぎる、聞き覚えのある猫の声。さとりは多くの動物を飼っており、その中に何匹もの猫がいるが、ここまで通りのよい鳴き声のペットは、あの子しかいない。
さとりは自身の予感に従うまま、書斎のドアを開けた。すると、まさしくタイミングを計ったかのように、その足下に黒くて赤い猫が、ものすごい速度で転がり込んできた。
(さとり様! ただいま!)
「おかえりなさい、お燐」
さとりは、猫に視線を送った瞬間に、猫――お燐の思考を受け取り、挨拶を交わす。このレスポンスの速さは、お燐の溌剌さの現れであり、さとりにとっては非常に心地よいものだった。
さとりはお燐を抱き上げ、ビロウドの廊下を歩きだした。筆を置いた時点で、さとりは休憩のお茶を嗜もうと考えていたが、外に出かけていたお燐が戻ってきたのは好都合だった。お燐がいるだけで、ティーパーティは華やかなものとなる。今日の静寂はもう執筆時間のうちに満腹だった。
台所が隣接している、談話室の一つにさとりは入室する。先客の小動物系ペット達がさとりとお燐の姿に色めきたつ。お燐はさとりの腕の中をするりと抜け、仲間達と鼻をつき合わせる。ペット達がこういった仕草一つでコミュニケーションが取れるのをみて、さとりは時折感心と羨望を覚える。
ペット達の姿に後ろ髪を引かれつつ、さとりは台所で手早く紅茶とお茶受けを用意する。一式をトレイに乗せ、談話室のテーブルに向かったころには、テーブルの周りに爛々と目を輝かせたペット達が行儀良く待機していた。
さとりは、テーブルのやや端にペット用のおやつ皿を置き、自分はその対岸のソファに腰掛ける。さとりがカップに紅茶を注ぎ、それを口にした瞬間、ペット達は我先に皿に群がりだした。
唯一、お燐だけは、おやつに目もくれずにさとりの膝元に潜り込む。お燐はさとりのペットの中でも特に聡い猫であり、ほかの連中が食欲にかられた隙をついて、極上のスペースを独占するタイミングを心得ているのだ。
「食べなくていいの? お燐」
さとりはそういったお燐の狡猾さを知った上で問いかけた。お燐が今日外で何をしてきたか、想起を促すための発言でもある。余談だが、さとりが疑問系で言葉を発するときは、それはすなわち大なり小なり他者を精神的に誘導する意味があるのだ。これはさとり個人の性格ではなく、覚という種族の、呼吸レベルの特性であった。
(今日も神社のお姉さんに羊羹もらったから、お腹減ってないです)
スンスンとさとりの服の匂いを嗅ぐお燐。この場合の神社とは、博麗神社のことである。
「なるほどね。あなたは本当に要領がいいわ」
(おくうの分まで確保となると難しいですがね)
「食べるものね、あの子」
お燐とおくう――お燐の親友にしてやはりさとりのペット――が、紅白の巫女相手にねだる様が、お燐の想像を介してありありとさとりの目にも浮かぶ。
もっとも、今日はお燐だけが神社に赴き、おくうは妖怪の山の方に出張している。よって、そのビジョンはあくまでもお燐の想像あるいは回顧であり、現実ではない。さとりにとって、時折、他者の想像と実際に起こったことの区別が付きづらいことがあるが、これはもう仕方のないことだった。
(ああ、そうだ。神社で思い出しました)
「?」
お燐の思考におぼろげな部分が浮かび、それが鮮明となっていく様がさとりの心眼は捉えた。
だが、その前に、お燐の行動の方が目に付いた。名残惜しそうにさとりの膝から離れると、ソファのとなりで、ドロン、と変化したのだ。
「神社から地底へ帰る途中、紫<むらさき>のお姉さんが現れまして」
人間の姿になったお燐の言葉と思考が重なる。さとりにとってわざわざ確認するまでもないが、嘘も隠し事もない。
ただ、紫<むらさき>という言葉が引っかかり、お燐の次の行動を読む暇がなかった。
「で、突然さとり様に言付けと、渡すものがあると頼まれたんですよ。えーっと」
さとりはお燐の出方を待った。じっくり思考を読んでもよかったが、なんとなく、紫<むらさき>という言葉の予感として、お燐の認識だけでは理解しがたいものが考えられる。
お燐は、ソファの後ろに愛用の猫車を召喚し、そこから何かを取り出した。
「これなんですよー。あたいにはなんだかさっぱりわからないんですが、さとり様なら渡せばわかるって言われまして」
「ほう――」
さとりはお燐の手渡しを受けた。小さな荷物と大きな荷物。さとりは、第一印象に、場違いなしたきり雀を思い浮かべた。
小さな荷物。球面でありながら四次元的な幾何学さを感じさせる白黒の玉、陰陽玉だった。さとりの小さな手のひらから少しあふれるくらいである。
大きな荷物。さとりの胴回りよりも幾分か大きい、ずっしりとした固い、一見木のような質感に見えるが、違う、紙箱だった。
「箱には文字が書いてあるんですけど、これなんて読むんでしょう?」
「――そうね、これは」
箱に上面に打たれた大きなアルファベット。
それは、"BIONET"と書かれていた。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。 次>その2(http://www.tinami.com/view/504161) |
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