〔AR〕その7
[全1ページ]

 西から東へ、茜色から藍色に至るグラデーションが空を流れる刻限。

 ――『お嬢ちゃんは、魔法が好きかしら』

 そう書かれたページの片隅に、暖かい水滴がこぼれ落ちた。

「う……うううぅぅ……」

 書見台に向かい、紙の束の文章を書かれていた阿求は、堪えようのない涙を溢れさせていた。視界はもう数ページ前からぐちゃぐちゃだ。

 しかし阿求は涙を拭うこともせず、しめやかに、残された最後のページまでを読み切った。物語の締めくくりだ。それはとある魔法使い二人と、その二人を取り巻く者達の、暖かい箱庭の物語だった。

 書見台に紙の束を置いた阿求は、既に号泣状態であったのにも関わらず、さらに堰を切ったように、一層の感涙を迸らせた。

「うううぅぅ……なんて、なんて綺麗なお話なんでしょう……」

 着物の袖口で目元を抑えながら、阿求の嗚咽は止まらない。

 阿求は今日も一日『Surplus R』の小説を読みふけっていたのだった。

 『Surplus R』は、バイオネット上に幾つかの創作小説を発表していた。そのジャンルは幅広く、絵本のような御伽噺から、冒険活劇、ミステリ、サスペンス、ホラーに至るまでカバーしている。

 多様なジャンルの作品に共通する作風として、丁寧かつ緻密な心理描写と読者の感情を揺さぶる巧みな構成がある。それは時に、文字がナイフとなって心の傷を抉り出してくるのかと思えるほど、的確かつ苛烈であり、間違いなく読了には気力を要する。

 故に、阿求は『Surplus R』の作品の虜となっていた。魂を剥ぎ取られるかと錯覚するほどゾッとするストーリーもあれば、今の阿求のように感情を制御できなくなるほど泣かせてくるストーリーもある。あらゆるタイプの作品で、確かに心へと訴えかけるものを出してくるその筆力に、阿求は敬服すらしていた。

 阿求も生業として、宿業として筆を執る者である。しかし彼女が書くのは、あくまで事実を、真実を伝搬するために記される言葉だ。喜ばせたり楽しませたりするものではなく、突き詰めれば損得のために成立させねばならない。文脈に筆者の感情が介入することは避けなければならないし、そうなるよう感情を廃するよう努めてきた……と阿求は自分では思っていた。

 だからこそ阿求は、フィクション――言ってしまえば「事実でも真実でもない」言葉でもって心を動かす『Surplus R』に強い関心を抱いた。それはまさに自分にとって対極の存在であった。

 無論、阿求はこれまで、フィクションの存在に触れていなかったとか、心を打たれたことがなかったということはない。むしろ、始祖の古事記暗誦に始まり、九度打ち出された幻想郷縁起にいたるまで、その間に常人よりも遥かに多くの物語と出会ってきたはずだ。物語を読む、という行為そのものが、センセーショナルというわけではないだろう。

 そこで、では何故自分はこんなにも揺さぶられているのか、と阿求は自問自答する。『Surplus R』の作品がが自分にとって素晴らしいものだったのは間違いないが、それだけではない。きっとそれだけには至らない答えがあるような、気がしてならなかった。

 とまれ、物語を読了し、その余韻に浸る阿求の頭の中は、そういった目まぐるしい思考の輪廻によって、涙に曇った視界よりもさらにぐちゃぐちゃとなっていたのだった。

「阿求様、お客様がお見えで……ど、どうされました!?」

 そんなわけで、女中が要件を伝えに来たとき、阿求は咄嗟に自分の様態を取り繕うこともできなかった。

 

「もう夜も近いというのにすまないね、日中時間が取れなかったのよ」

 客間にて、阿求と客人は卓袱台を挟んで向かい合った。

「で、何か、随分慌ただしかったようだけれど、大丈夫かしら?」

「い、いえ……何でもありません」

 赤く腫れぼったい目の阿求は、その赤みと同じくらい頬を羞恥で染めていた。内心はある程度落ち着きを取り戻したのだが、未だ顔は上気したままだ。

「それにしても、藍さんがお出でになるのは珍しいですね」

「そうね。あの方はお忙しいので、私が代わりに使いとして来たのよ」

 今阿求の目の前に居るのは、八雲藍。九尾の狐にして、かの妖怪の忠実なる式神である。阿求とは、もちろんその繋がりの仲である。

「お忙しいというと、やはりバイオネット絡みですか」

「ええ。今しばらくはアルファ版の運用で手一杯とおっしゃっていたわ」

「アルファ版?」

 耳慣れない言葉だ。阿求が訪ねると、藍は言葉を間違ったと苦笑いを浮かべる。

「ようはお試し版ね。外の世界で慣例的に使われる」

「お試し版、ということは……やはりまだバイオネットは完成ではないということですか」

「そう。基本的な機能は今の段階でもほぼ揃っているけれど、特に運用面については、実際にやってみる必要があるからね」

「運用面……サービス開始から一ヶ月になりますが、日々対応が必要なことが増えている感じがしますね」

 阿求は慧音共々、人里のバイオネットの管理者的な役職をこなしていた。立ち上げの時から二人は様々な取り決めを人里の者達に提案してきている。

 バイオネットは着実な盛り上がりを見せているが、誰しもがその未知の技術に対応できているわけでもない。また、阿求の言う通り、バイオネットが始まってから、実に様々な問題が散発している。阿求と慧音は、バイオネットの利用者だけではなく、非利用者との折衷も行わざるを得ない状態だった。

「例えば、現在差し迫った問題の代表が、紙の流通ですね。人里での紙の流通量は比較にならないほど増加しまして、それで職人や問屋は対応に頭を捻っているとか」

「数年前から、幻想郷内での紙の流通は格段に増えた……とはいえそれは、単純に生産量が増えたわけではないからねぇ。迂闊に増産しようとしたら、必要以上の間伐や採取をしなければならなくなる」

 閉鎖空間であり、外からの物資の流入量も不安定である幻想郷において、自家資源をみだりに取り過ぎる事がとてつもなく危険なことだ。

 ましてや、ここは森羅万象に妖精や精霊、八百万の神が住まう世界である。乱獲などしようものなら、自分達の首を絞める前に、荒ぶる自然によって首をねじ切られることを、人々はよく知っていた。

「で、その原因はバイオネットの保存機能に由来するわけですが……私のように小説などの長文ならばいざしらず、なんでもないちょっとした言付けを保存するためにわざわざ紙一枚を買い求めるということも結構あるのですよ。無論、再利用を推奨してはいるのですが、一度紙にインクを使ってしまうと……」

「そして、紙自体も、質の悪いものであったらすぐに朽ち果ててしまう。特に外の世界から流れ着いた品物は、長く持たない類のが多いわね。メモ書き程度ならまだいいけれども」

「紫様は、その点について何か言ってませんでした?」

 阿求の質問に、藍は思案げに首を傾けながら答えた。

「それほど詳しくは聞いていないわ。ただ、将来的に場所に応じて端末数を増やすようなことはおっしゃっていた。現状、コミュニティに一律してひとつしか端末がない状態が、紙の保存という手間を要させる側面があるからね……」

 そこまで言って、藍は「おっと」と何かを思い出したような表情を浮かべた。

「すまない、順序が前後してしまったが、今日の用事はそれ絡みなんだ」

「どういうことです?」

「これだよ」

 そういって藍は、袖の中をごそごそと動かしたかと思うと、そこから何かを取り出した。

「阿求、貴方にはこれを試しに使って欲しいの」

 それは、何の変哲もない、阿求が毎日見ているような、巻物である。

「これは一見巻物のようだが、単なる巻物ではないわ。魔力文字の定着、保存性を強化したマジックアイテムよ。バイオネット端末で文字を転写できるのは勿論のこと、普通の紙に印字されたものを移すことも可能なの」

「ほう!」

 阿求は、藍の説明を聞いた瞬間、感嘆の声を上げた。期待に満ちた顔であった。

「私の予想が正しければ、その巻物は保存性と再利用を両立させられる、ということですね? 保存期間はどれくらい増えたんです?」

 現在、バイオネット端末が紙に魔力文字を転写した場合、最大でも半日程度しか保存されない。長い文章を手元に持ってこようとするほど、その制限がネックとなる。

「今のところ、一週間は何もしなくても残ることが確認できたわ。でもそれだけじゃないの。この巻物の印字部分には特殊な加工が施してあって、陽光を当てることで魔力文字を維持することができるのよ」

「それはすごい!」

 つまり、定期的に光を当てさえすれば、魔力文字を半永久的に保存出来るということだ。さらに藍は袖口から、魔力文字を任意に消すことが出来るという、まじないの刷毛を取り出し、巻物と共に阿求へと手渡した。

「注意点として、普通に文字を書くように、墨やインクを使うのには向かないことを覚えておいて。この巻物の技術は、今後バイオネットの端末にフィードバッグされる予定だ。そうなれば、紙に依存しない文字の保存方法が出てくるかもしれないわね」

「でも、いいんですか? 私がこんなものを」

「紫様が、貴方ならば使いこなせると考えて寄越したものよ。ならば存分に使う事が、紫様のご意向に沿うことになるはず」

「……端末を押しつけられたときといい、あの方からの信頼はなんか怖いですねぇ」

「まぁ、そういうなよ。あの方の考えはさっぱりわからないけれど、その行動に嘘はないことは私が保証する」

 藍は呵々と笑い、阿求の渋い表情を受け流す。

「そうだ、藍さん。ちょっとした相談なのですが」

「どうしたい?」

「素性を明かしていないバイオネット利用者に、手紙を送るということは、できるようにならないのでしょうか?」

 阿求は、今後のバイオネットの機能追加を希望する意図で、そのような疑問を藍にぶつけた。

「ああ、出来るよ?」

「え!?」

 そのために、何でもないような藍の返答には面食らってしまった。

「あー、そうか。匿名機能周りはまだそれほど理解されてないのかな……ま、仕様とはいえ推奨される使い方とは言いがたいからねぇ。説明書を読んでも見落とすくらい簡単にしか書いてなかった気がする」

「ど、どういうことでしょう」

「アノニマス……完全に匿名扱いにしていると無理だけれど、例えば匿名機能を利用しつつも、ペンネームなどの個人と関連づけられる情報を使っていた場合、そのペンネーム名義のアカウント……要は仮の郵便ポストのようなものが一時的に確保される。その状態であれば、後は通常と何ら変わりはない。まー、その当たりのセキュリティ周りは、実際のところシステムのユーティリティ面でサポートできているとは言えないのだけれど……」

「???」

 横文字だらけな藍の言葉は、阿求にはさっぱり理解できない。一拍おいてそれを察した藍は、自分の悪い癖が出た事を自戒し、説明の仕方を変えた。

「そうさな。ペンネームの話から繋げるとだね。バイオネットには少数ながら、自分の執筆した文章を公開している者達がいるだろう? そういった者達が、バイオネット上で使っている名前があれば、それ宛に手紙を送ることは可能ということだ。素性を明かさなくてもそれは適用される」

「あ、ああ、なるほど……」

 完全に概要を飲み下したとは言いがたいが、藍が自分にとって必要な情報を抽出してくれたおかげで、何となくのことはわかった。とにかく、阿求自身が望んでいるようなことは、実現できると見て間違いはないようだった。

「他に何か判らない事があったら、遠慮なく言っておくれ。今のアルファ版の段階では、そういった情報を拾い上げていくのも重要だから」

「はい、ありがとうございます……でも、今のところは大丈夫です」

「そう。じゃあ、いい時間だし、お暇するわ」

 阿求ははっと客間の外を見る。外は夜の手前まで暗くなっていた。思えば、藍が稗田家に姿を現した時点で、時刻は夕暮れ時であった。

「お送りします。今日はわざわざありがとうございました」

 女中達は夕食の支度などで忙しいだろうからということで、阿求は玄関先まで藍を送った。

 その後、程なく夕餉が済み、阿求は再度自室の机に向かう。

「さて……できるということがわかったのなら、次に決めるべきは……」

 阿求は、机の上に置いてあった古紙に鉛筆の先を落としながら、思案する。別にメモを取るわけではない。考え込むときは紙と筆を用意するのが阿求の癖であった。そもそも、稗田阿求の求聞持の法は、自身の思考さえ例外なく保持する。究極的には、自分以外の媒体に記憶を移しておく必要がないのだ。

 まずは何から切り出していけばよいか。考え出していくとそれは無辺際の広がりを見せる。あの作品はここがよかった、着想の元はあるのか、今度はどのような作品が出るのか……言葉にしたいことが多すぎて、まとまりようがない。相手の素性が判らない手前、どのような言葉にすれば失礼にあたらないかも、なかなか予測がつかない。

 そんなとりとめもない思考の中で、ふとした思いつきが駆け巡った。

「そうだ。試してみよう」

 未だ、阿求には、素性を隠してまでバイオネットを利用する意義というものがピンとこなかった。『Surplus R』はあれだけの素晴らしい小説を書ける作家なのだから、もっと堂々としても良いのでは……と、阿求は本気で考えていたからだ。

 しかし、発想の逆転がある。匿名機能の仕様を、「素性を隠す必要がある」とネガティブよりの解釈をするのではなく、「素性を隠した方が都合が良い」とポジティブに考える事もできるのではないか。

「そう、例えば……私がペンネームを用いたら、バイオネット上では『稗田阿求』ではなくなる……」

 夕餉前の、藍との会話が思い返され、阿求の思いつきと結びつく。

 途端に、得も言われぬ昂揚が阿求の首筋を這い上がってくる。それは好奇心と共に、ある種の悪戯心めいていた感情の湧出。

「いいですね。考えてみましょう」

 阿求は目を瞑り、己の知識に対して求聞持の法で問う。

(――自分で自分の名前を付ける――不思議なものね)

 瞼の裏には言葉の地平線。そこに稗田阿求が知り得ない情報はない。求聞持の法という思考の手は、一秒を無数に切り刻んだうちの一片の時間で、答えを汲み上げた。

(決めた! 私はこれから――!)

説明
twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。

前>その6(http://www.tinami.com/view/504350)
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東方 東方Project 稗田阿求 八雲藍 

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