営業三課・秋山悠輔のとある災難【その1】 |
今日、一日だ。
今日一日がんばれば、日本に帰れる。
そんな日のことだった。
秋山悠輔が、「彼ら」と出会ったのは。
総合商社エウレカ商事・海外貿易事業本部第一営業部・営業三課主任の秋山悠輔は、中国大陸の東北のはずれの、乾いた空気と殺風景な白い土壁の異郷の風景の中に、キャスター付きトランクのハンドルを握って立っていた。
びしっと決めた背広のスタイルは、その風景にどう見たって溶け込まない。
整髪料で後ろになでつけられたヘアスタイルに、冷徹な印象を受ける眼鏡といういでたちは、外国からやってきたビジネスマン以外のなにものでもない。
秋山はこの地にポンプを売りに来ていた。上下水道というインフラがあまり整っていない地域に、とりあえず井戸を掘って水を賄ってもらうためのものである。小型で高性能のものを売りに来た。電気も引かれていないところでも使えるように、バッテリーで動くようになっている。
今日で営業活動はすべて終わった。たった今、最後の一件の営業先を回り終えて、宿泊先のホテルへ帰ろうと営業先の会社(当地の表現では公司)の建物から出てきたところだった。
明日、いよいよ日本に帰れる。
やれやれ、やっとだ。
秋山の肩から仕事の重圧がなだれ落ちていく。
大陸に渡って、かれこれ三週間が過ぎていた。秋山にとってこんな長い出張ははじめてだった。しかも、初の海外出張だというのに、たったひとりで放り出されたのである。本当なら先輩社員と二人で来るはずだったのだが、その先輩が出発直前に虫垂炎にかかってしまい、出張を断念した。だったら、誰か別の人間に差し替えるとか日程を延ばすとかすればいいのだが、会社というものは融通が利かない。中国語が少しばかりできるというだけで、秋山は単身で中国大陸への営業に送り込まれたのである。
秋山はもともと営業畑の人間ではない。
大学は工学部を出て、技術者になるはずで社会に出た。しかし、時代は技術者を求めてはいなかった。不本意ながら営業という職種を選ばざるを得なかった。就職難の時代だったから、好き嫌いを言って入られなかったのである。そんな消極的な理由で受けた就職試験に、就職氷河期ながら採用されたのは、学生時代に中国大陸を自転車旅行した経験があって、若干の中国語が話せる、ということが人事の目に留まったためらしい。それで、勤続8年。なにかしら納得の行かないまま、ずるずると営業職を続けている。
はっきり言うと、今の状況には不満だらけだった。
そんな態度は恋人の可奈恵との空気にも影響を与え、最近はどうもギクシャクした関係が続いていた。結果、出張直前に喧嘩をしてしまった。喧嘩の決着をつけないまま――おそらく、秋山が謝ることになるのだろうが――出張に出てしまっている。
心の中にもやもやしたものを抱えたまま、飛行機に乗り込むのは避けたいことではあったが、こうなってしまった以上仕方がない。秋山は腹を決めて、異国の地で営業活動に励んだ。数週間の大陸行脚は、幸か不幸か、秋山の頭から恋人との喧嘩のことなど、どこかに追いやってくれていた。
いや、いったい、何が原因で喧嘩したかも、今となっては思い出せないのだが。
それくらい些細なことで言い合いをしてしまったのだ。
可奈恵とは大学時代から付き合っていて、秋山とは別の会社で働いている、広告デザイナーである。結婚のこともそろそろ真剣に考えないといけない時期に来ていた。
しかし、秋山には迷いがあった。
――俺は、このままでいいんだろうか。
俺のやりたいことって、こんなことだったんだろうか。大学で好きで学んだ工学の知識が、今の仕事に生かせているんだろうか。やり直すなら、今が最後のチャンスじゃないのか。
秋山の将来に対するヴィジョンが揺らいでいるのだ。それは、彼の言動の端々に意図せぬ形で現れる。そんなことの積み重ねが、可奈恵をいらだたせるのだ。そしてそのことは、秋山自身にもうすうすわかっていた。わかってはいたが、自分では打開する術が見出せないでいた。
この仕事が一段落したら、可奈恵とじっくり話し合うべきかも知れない。
秋山は、ホテルに戻って一人になるたび、そんなことを思い始めていた。
まあ、可奈恵が話し合う気があればの話だがな。
返すがえすも、喧嘩のまま出てきたことが悔やまれる。何かきっかけでも作れれば。
――土産か…。
仲直りのしるしに、という年でもないが、せっかくここまできたのだから何も買って帰らないというのももったいないような気がする。
秋山がそんなことを思いついたのは、宿への道を歩いていて小さな雑貨店が目に留まったからである。
彼女、あんなものが好きだったな。と、秋山はその店に立ち寄ろうとした。
アジアン・エスニックと呼ばれる、竹や、細い足で編んだような籠や手提げバッグ、シルクのポーチや型染めのテーブルクロスや、色鮮やかな幾何学模様を織り込んだタペストリーなどである。
日本で買うとそこそこするものも、現地で買うと驚くほど安い。
秋山はその店に足を向けようとした瞬間、待てよ、と思い直した。
可奈恵はデザイナーである。従って、美的センスは、可奈恵のほうがはるかに勝っている。下手に彼女の気に入らないものを買って帰って、文句を言われるのは気分が悪い。
秋山は、店先で踵を返そうとした。
そのときである。
店の中からなにものかが飛び出してきて、秋山に激しくぶつかった。
その勢いで、秋山は舗道に大きく尻餅をついた。ぶつかってきた相手は少年だった。
少年は謝りもせず、ひっくり返った秋山を逆に睨み返すと、一目散に走り出し、すぐにどこかに見えなくなってしまった。その直後、店の者と思われる若い女がものすごい形相で走り出てきて、大声で悪態をついた。
少年の走り去った方向へ、八つ当たりのように怒鳴るだけ怒鳴り散らすと、女は店に戻って行った。
どうやら、少年は盗みを働いたらしい。
秋山は、その一部始終を舗道に座り込んだままぼんやりと見ているしかなかったが、ふと気が付くと、手の中に見覚えのないものが入っている。人形というか、玩具というか。それとも、置物なのか。
パンダの上に、小さな女の子が乗っている、彩色された陶器の人形である。旅をしている姿を象ったものらしく、パンダの背中にはつづらや「酒」と書かれた数個の甕、大根や唐辛子が乗っている。
よく見ると、パンダには更なる特徴があった。左目が、十字に傷ついている。片目のパンダ、なのである。
変わった人形を作るやつもいるもんだな、と秋山は一瞬感心したが、さっきの物取りがドサクサ紛れに自分の手に押し付けて行ったのだとしたらややこしいことになる、と気が付いた。
下手をすれば、泥棒の片棒担ぎである。
「邦人ビジネスマン、中国で窃盗」
などという文字が、新聞に躍るのが目に浮かんで、とっさに秋山は首を振って打ち消した。
そんなことになったら、会社は即クビに間違いないし、可奈恵ともおしまいだ。
何とかしないと、と立ち上がって店の中に入っていこうとしたが、なぜか、秋山の足はその場を動こうとしなかった。
さっき店から出てきた女の店員は、見知らぬ外国人が道に転がっていのにもかかわらず、その手の中にあった置物には、まったく気が付いた様子がなかった。
もしかすると、この店の売り物ではなかったのかもしれない。
それに、名乗り出たところでモノを返して感謝されればいいが、逆に疑われて警察を呼ばれでもしたら釈明するのに時間が掛かるし、このまま犯人の少年が捕まらなかったら、秋山の拘束は解かれないことになるかもしれない。
異国での刑事事件は、巻き込まれたら一巻の終わりだ。
そんな思いが無意識に働いたのか、秋山は、そのパンダと女の子の人形を脇に抱えたまま、ゴロゴロとキャスター付きトランクを引きずりながらホテルに向かって歩き出した。
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某懸賞に応募した作品の書き直し&ブローアップ版です。 ひょんなことから異世界に紛れ込んだサラリーマンのお話。第1話。 |
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