ハーフソウル番外編1・侍女月伝
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一 ・ 予兆

 

 夏の日差しが、容赦なく石畳に照りつける。

 

 セアルとラストが帝都へ凱旋を果たしてから三年。

 長らく宰相に成り代わっていた代行者を追放した功績は大きかった。叙勲や爵位の話題も出たが、ラストはそれらを全て蹴った。

 名も身分も返上し、彼が去ってからはそれらの話題も沈静した。

 

 ラストが何故帝都を去ったのか人々は誰も分からず、噂は噂を呼んだ。

 皇子がレニレウス公爵を新宰相に指名した事が判明すると、誰もがラストの事は忘れ去った。

 

 

 

 

「わたしやお兄様に、何も言わずに行くなんて許せないわ」

 

 朝食の仕度をしながら、レンはぶつぶつと文句を言った。

 それも仕方ないだろう。彼女は三年前、セアルやラストと共にこの西アドナ大陸を旅した仲間なのだから。

 

 セアルが眠りについた今となっては、彼の兄であるサレオスに預けられている。

 それなのに帝都を去るにあたって、何も言ってこなかったラストに対する不満は大きかった。

 

「仕方ないさ。私たちはセアルが目覚めるのをこの帝都で待つとしよう」

 

 急ぎ仕度を整えるサレオスに、レンは怪訝な表情をした。

 

「あらお兄様。お急ぎなの?」

 

「ああ。今日は往診の予定が何件か入っているから、このまま出るよ。夜も遅くなると思う」

 

「そんな事言って、ゆうべもあまり食べなかったじゃない。無理しないようにしてね」

 

 サレオスの身を案じ、レンは声を掛けた。

 その言葉を微笑みで返すと、サレオスは思い出したように口を開く。

 

「そうだ。もうすぐ満月の夜が来るから、いつものように気をつけなさい。血月は消えたようだが、通常の月でも君のような獣人族には影響が大きいはずだ。満月の夜は外へ出てはいけないよ」

 

 それだけ言うと、サレオスは足早に自宅を後にした。

 

「わたしも急がなくちゃ」

 

 二人が間借りしている借家から城までは、急いでも四半刻はかかる。

 掃除もほどほどに、帽子を目深に被ったレンは、荷物を抱えて家を飛び出した。

 

 

 

 

 皇宮に到着すると、レンはまず厨房に顔を出した。

 侍従長や厨房長が朝の打ち合わせをするのが慣例なためだ。

 

 だがこの日は誰もおらず、厨房はがらんとしている。

 遅刻したせいかと辺りを見回すと隅の方で、今年配属された厨房見習いの少年が仕込みをしていた。

 

 年齢はレンとさほど変わらないが無愛想な少年で、彼女は今まで話した事すらなかった。

 仕事の邪魔をするのも悪いと思ったが、レンは思い切って少年に声をかけた。

 

「あの……。今日の朝礼終わっちゃいました?」

 

 急に声をかけられたのを気にも留めず、少年は黙々と仕込みを続けた。

 少しだけ振り返り、ぶっきらぼうに呟く。

 

「とっくに終わったよ。レニレウス公爵様が宰相に就任なさるっていうんで、祝宴の用意が忙しいのさ」

 

 少年の言葉にレンは驚いた。レニレウス公爵は三年前からの知人だが、最近あまり顔を合わせる事も無かったからだ。

 他の貴族たちに比べ、レニレウス公爵は誰にでも丁寧な受け答えをするために、使用人からも人気は絶大だ。

 それが彼なりの合理的手法なのだろうと、レンは思っていた。

 

「ありがとう! 知らなかったらお手伝いが出来ないところだったよ。……あなたの名前訊いてもいいかな」

 

「……シリカ。あんたは皇女付のレンだろ。有名だもんな」

 

「有名……?」

 

 その言葉にレンは口をつぐんだ。

 

「皇女直属の侍女な上に、それだけ帽子を深く被ってたら有名にもなるだろ。実はハゲてるとか噂されてるぞ」

 

 シリカの笑い声に、レンはむっとする。

 

「しかも帝国の英雄、ラストール様と一緒に旅をしてたんだってな。そりゃあ有名にもなるさ」

 

「何であんたにそんな事言われなきゃいけないのよ。教えてくれてありがと。それじゃあさよなら」

 

 長いスカートを引きずりながら、レンはあわただしく厨房を後にする。

 背後からはシリカの笑い声が響いた。

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二 ・ 不気味な手紙

 

 レンが急ぎ皇女の居室に向かうと、すでに皇女は身支度を整えた後だった。

 ずるずるとスカートを引きずるレンに、黒髪の皇女は微笑んだ。

 

「まあレン。今日は遅かったのね」

 

「すみません、アウレリア様。遅くなってしまいました」

 

「いいのよ。衣装合わせや装飾品選定も一人で出来るもの。あなたの意見が聞けるほうが嬉しいけど」

 

 今年で十九歳になる皇女は、未だ嫁ぎ先の目途も立たず、皇宮で暮らしている。

 双子の兄である皇子が手放したがらないとも、想い人がいるのだとも囁かれているが、それは誰にも分からない事情だった。

 

「あなたのスカートは、やっぱりちょっと長かったかしら。引きずっているのでは歩きにくいでしょう」

 

 かなり長めの衣装に、皇女はくすりと笑った。

 実際ぶかぶかの帽子に長めのスカートでは、不恰好この上なかった。ただレンにはそうせざるを得ない理由がある。

 

「でもこの格好じゃないと、耳や尻尾が見えてしまいます。獣人族だと知られたら、このお城にもいられなくなっちゃう……」

 

 千年も前に絶滅したとされている獣人族は、レンが唯一の末裔だ。

 月の影響を人間よりも大きく受けるために、長く迫害されてきた歴史があった。

 

 彼女の両親は物心ついた頃にはすでにおらず、たった一人で生き抜いてきた。

 奴隷狩りに遭ってこの大陸に連れて来られ、セアルに出会わなければ、今頃はどんな人生を送っていたのだろうか。

 

「そうね。この城にいれば、セアル様にお目にかかる事も出来るわ。あの方を、あのような場所に置くのも忍びないけど……」

 

 三年前セアルが眠りについた時、兄サレオスは故郷へ連れて戻ろうとした。

 だがセアルの内にある邪神が本当に消え去ったのかどうか、誰にも確かめるすべはなかった。

 皆がセアルを恐れ、目の届くところへ置きたがったのだ。

 

 そのために、セアルは眠りについたまま、城の地下廟へと置かれる事となった。

 城を建立した者が造ったであろう、結界が張られた地下の洞窟。

 地下神殿を保護するためなのか、他の目的があるのか。

 

 ただ管理し監視されるために、彼は今もそこで眠り続けているのだ。

 

「セアルの事は、仕方ないと思っています。レニレウス様が地下廟の話を提案して下さらなかったら、どうなっていたか分からないし」

 

 皇女も小さく頷いて、二人はそれきり黙り込む。

 話題を変えようと、レンはレニレウス公爵の話題を出した。

 

「そういえばアウレリア様。レニレウス様が新しい宰相様に就任なさるようですね。先程厨房で聞いて驚きました」

 

「ええ。皇子の希望だそうよ。あの方なら間違いは無いでしょうし……」

 

 そこまで言いかけ、皇女は口ごもった。

 

「……どうかなさいました?」

 

「いえ。皇女である私は、いずれ皇帝陛下か宰相が決めたお相手と、婚姻をしなければならないから。本当ならもうどこかへ嫁いでいる年齢なのだけどね」

 

 どこか寂しそうに笑う皇女に、レンは問いかけた。

 

「勝手に決められちゃうんですか? 好きな人がいたらどうなるんでしょうか」

 

「仕方ないわ。それが皇女に生まれた宿命だもの。でも、もしかしたらレニレウス様はご存知なのかも知れない」

 

「何をですか? あ、分かった! 好きな人がいるって事ですね」

 

 大声を出すレンに、皇女は顔を赤らめた。

 

「そうじゃなくて! 実は最近、変な男がうろついているようなの。皇子が警護の近衛を増やして下さったのだけど、どこから入り込むのか、手紙が差し込まれていたりするのよ」

 

 皇女は手紙をレンに差し出した。

 蝋の封印こそ無いものの、その紙は貴族が使用する上質なものだ。

 

「いずれ貴女を妻として迎えに行く。満月の夜を待たれよ。……何これ気持ち悪い」

 

 レンのしかめっ面に皇女も頷いた。

 

「誰だか分からないのが、なおさら不気味で。私が結婚しないのがいけないのなら、早く嫁がないと」

 

「そんな。アウレリア様のせいじゃないのに」

 

 貴族たちの理不尽さに、レンは言葉を失った。

 ラストが嫌がる貴族の束縛というものは、こういった息苦しいものなのかも知れない。

 

「いいのよ。さあお昼になる前に、セアル様の様子でも伺いに行きましょう。午後からは就任式の打ち合わせもあるようだし」

 

 優しく微笑む皇女の手をレンは取った。

 微かに震える彼女に、この人を守らなければと心に誓った。

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三 ・ ニチニチソウ

 

 皇女が就任式の会議に呼ばれた後、レンは厨房を手伝いに行った。

 本来なら主人である皇女を待つのが仕事だが、本人から他を手伝うよう仰せつかったためだ。

 

 二日後に迫る就任式典は来賓も多く、祝宴も数日間続くために厨房は多忙を極めた。

 おおよその来客数から配置に献立、配膳に至るまで厨房長が監修をしている。

 

 その中にシリカがいた。

 やはり厨房の隅で仕込みの手伝いをしている。

 

 塩漬け肉の状態を見ていた彼に、厨房長が別の指示を出した。

 ごった返す厨房の中で、シリカは正確に指示を聞き取り裏口へと走り去る。

 

 とても個別に指示を伺える状態ではなかったレンも、彼の後へとついていく事にした。

 シリカの後に続くと、彼は驚いた表情を見せた。

 

「皇女様の侍女が、こんなところで何やってるんだよ。厨房は汚れるんだから帰れ」

 

「汚れる事を気にしていたら、何も出来ないわ。手伝いも必要ないなら帰るけど」

 

 その言葉にシリカは黙った。そのまま二人で向かったのは、裏口の隅にある小さな小屋だ。

 

「燻製小屋だよ。ここで香木の破片を焚いて燻製を作るんだ」

 

 木製の扉を開けると、さらに奥に扉が見えた。充満する燻し煙に、レンは咳き込む。

 

「大丈夫か? お前変わった奴だな。普通の女は汚れと臭いを嫌がって、こんなところまで来ないぜ」

 

 シリカは笑いながら鉤付き棒を取り上げ、燻製の状態を見る。

 その手つきは慣れており、とても今年から厨房の手伝いをしているようには見えなかった。

 

「あんた慣れているのね。実家も料理屋なの?」

 

「いや。厨房長いるだろ。あれ兄貴なんだ。ガキの頃からちょくちょく手伝ってたから、慣れただけ」

 

 薫煙の状態を見ながら、シリカは楽しそうに答えた。

 確かにこの小屋は煙と臭いがひどいが、何故かそれはレンに三年前の旅を思い出させた。

 火をおこす場所を巡ってケンカしたり、セアルの料理がひどくてラストが作り直したり。思えば楽しい旅でもあったのだ。

 

「何で泣いてるんだ?」

 

 知らないうちに、レンは涙を流していた。

 急に恥ずかしくなり、必死に取り繕う。

 

「煙が目に入っただけよ。何でもないんだから。ここの臭いがちょっと懐かしいなとは思ったけど」

 

 レンの弁明にシリカは微笑んだ。

 

「そっか。やっぱりお前変わってるわ」

 

 剣ほどの長さがある鉤付き棒を振り回すシリカに、レンも微笑む。

 

「あんたも十分変わってるよ」

 

 香木の破片を継ぎ足し、二人は厨房へと戻った。

 

 

 

 

 厨房へ戻ると、先程の喧騒とは異なる空気が漂っていた。

 重苦しい雰囲気の中、厨房長と中年男が睨み合っている。

 

「この私の席は用意されていないだと? 下働き風情が、ふざけるのも大概にしたまえ」

 

 耳障りな甲高い声に、レンは思わず耳を塞ぐ。

 見れば身なりは良いものの、いささか品の悪い男だ。

 

 あいつまた来てるのか、と呟くシリカに、レンはそっと訊ねた。

 

「あのおじさん、よく来る人なの?」

 

「ああ。何かあるとすぐに文句をつけに来るんだ。銀食器が磨かれていないだの、味が濃いだの面倒な奴なんだよ」

 

 ぼそぼそと呟く言葉にも、男への苛立ちが垣間見えた。

 

「行こうぜ。あのおっさんは兄貴が何とかしてくれるから、ほっとけばいい。俺たちは別の仕込みをしないと」

 

 そろそろとその場を立ち去ろうとする二人を、中年男が見咎める。

 

「そこの小娘。お前は皇女のところの侍女だな。お前の女主人は十八過ぎて嫁にも行けないらしいな。どうせ裏で男でも囲っているんだろう?」

 

 男の言葉にレンは逆上した。

 目が熱くなり、肌がぴりぴりとする。

 

 今にも飛び掛りそうなレンを、シリカは制止した。

 

「だめだ。こっちへ来るんだレン」

 

 怒り狂うレンを引きずり、シリカは再び裏口から城内の敷地へと出る。

 燻製小屋とは逆方向へと歩くと、小さな花壇と白いベンチが見えた。

 シリカはレンを座らせると、自分も横へと座った。

 

「気持ちは分かるけど、あいつ腐っても貴族だしな。こっちから手を出したら、上の方々にまで迷惑をかける」

 

「そんなの関係ない! あの男、アウレリア様を侮辱したのよ。生まれて初めて引き裂いてやりたいとまで思ったわ」

 

 そこまで言うと、レンは押し黙った。

 あの時シリカが制止してくれなかったら、レンは獣人族の本能を呼び覚ましてしまっていたかも知れない。

 

 今まで怒った事が無いと言えば嘘になるが、先程のような感覚は初めてだった。

 体の中に流れる獣の血が、彼女を何かに変貌させようとしていたのだろうか。

 

「あの男、ブエル男爵って言うんだけどさ。アレリア公爵家の遠戚らしいんだよ。なのに公爵家の血筋である皇女を、あんな風に侮辱したんだろう」

 

 不意に考え込むシリカの横で、レンは花壇の花を見つめた。

 風に揺れるニチニチソウの白い花が、彼女の心を慰める。

 

「そういえばさ。最近不気味な野郎が、夜な夜な帝都に現れるらしいぜ。異国の仮面をつけた男って噂だけど、案外それがブエルだったりして」

 

 シリカは楽しそうに笑い声を上げたが、レンはとてもそんな気分にはなれなかった。

 

「わたし……もう行かなきゃ」

 

 落ち着かせてくれたシリカに礼を言い、レンは立ち上がった。

 

「大丈夫か? 無理すんなよ。満月も近いし夜でも明るいけど、後で送っていってやろうか」

 

 シリカの気遣いよりも、レンには満月の方が気にかかった。

 

「ううん。一人で平気だよ。それに兄がいるから大丈夫」

 

 それだけ言うと、レンは小さく手を振り駆け出す。

 後にはシリカと、風に揺れるニチニチソウの花だけが残された。

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四 ・ 満月

 

 皇女の居室へ戻ると、彼女は青い顔をしてレンを待っていた。

 震える彼女の手には、またしてもあの手紙がある。

 

「レン……。私怖い」

 

 怯える皇女をレンはなだめた。

 手紙を見るとただ一言。明日の夜に気をつけろ、とだけ記してある。

 

「確かに明日は満月だわ。夜でも明るいし、かがり火も焚かれているのよ。そんな日にどうして侵入しようとするのかしら」

 

 皇女の疑問も当然だ。それに皇女が住む後宮まで手紙を届けるなど、貴族でなくては出来ないだろう。

 

「例えばアウレリア様を狙うふりをして、別のものを狙っているとか。アウレリア様が狙われたら、そこに警備が集中しますし」

 

「別のもの……。宝物庫は地下と後宮に一箇所ずつあるわ。でもここまで大胆な真似をするほど、価値のあるものは無いはずよ」

 

 その答えに、二人は頭を抱えた。

 気をつけろと書かれても、一体何をどう気をつけろと言うのか。

 

「ねえレン、お願い。明日だけでいいの。この部屋に泊まってくれないかしら」

 

 不安に満ちた皇女の表情に、レンは頷かざるを得なかった。

 ただ、レンにも一抹の不安があった。満月だ。

 サレオスは外に出なければ良いと言った。ならば早めにこの居室へと篭れば問題は無いだろうか。

 

 昼間ブエル男爵に対して抱いた殺意すら、獣人族の血による本能なのか、満月の影響なのかが分からない。

 獣人族の生態に関して詳しい者は、もうこの世にはいないのだ。

 

 レンの回答に、皇女はほっとした表情をする。

 よほど手紙の男が怖いのだろう。

 彼女の細い指はレンの手の中にあっても震え続けた。

 

 

 

 

 翌日レンは事情を説明し、サレオスに宿泊の旨を伝えた。

 不安を与えないために、手紙の事は伏せた。ただ皇女が、式典の開催に緊張しているのだとだけ言った。

 

「外に出ないなら大丈夫だと思うよ。窓も鎧戸かカーテンで目隠しをしておいた方がいい」

 

 その言葉にレンは、やはり満月は面倒なのだと思い知らされた。

 満月のたびに家に閉じこもるのは容易では無い。

 

 サレオスはそのまま家を出ようとしたが、見ればテーブルには手をつけていない朝食が残っている。

 

「お兄様。やはり体調が良くないんじゃ」

 

 レンの指摘に、サレオスはゆっくりと振り返る。

 

「……笑わないで聞いてくれるか。実はその……結婚を申し込まれて」

 

「は?」

 

 思いがけないセリフに、レンは固まった。

 むしろ一番意外な状況だ。

 今までそんなそぶりも無く、いきなり結婚とはどういった事なのか。

 

「それで……。お兄様はどうお応えになったの?」

 

「何も。セアルが眠り続けている今の状態で、私が結婚をするなど考えられない」

 

「それはお伝えになったの?」

 

 そこまで問うと、サレオスは口ごもった。

 

「結婚のご意思が無いなら、きちんとお断りされた方がよろしいわ。先方も返事を待たされたのでは、お困りになるでしょう」

 

「いや……。意思が無いわけでは」

 

 歯切れ悪くもごもご言うサレオスに、レンは呆れた。

 

「もう。しっかりして。セアルが眠り続けているのは、仕方ない事なの。私たちが幸せになるのを拒んでも、目覚めるわけじゃないわ」

 

 レンの言葉に、サレオスはただこくりと頷いた。

 

「先方にお会いになるなら、ちゃんとお伝えしてね」

 

 とぼとぼと歩くサレオスの背中に、レンは念を押した。

 気付くと今日も予定の時刻を過ぎている。

 レンは帽子を目深に被り、急いで家を出た。

 

 

 

 

 皇宮に到着すると、待ちかねた皇女が出迎えた。

 あまり眠れていないのか、若干顔色がすぐれない。

 

 厨房にも顔を出さず、レンは皇女に連れられそのまま居室へと入った。

 不要な調度は他に移され、室内にはレンのためにしつらえたベッドがある。

 

「急にこんな事を頼んでごめんなさいね。でも私怖くて、とても一人ではいられないの」

 

 人前では気丈に振舞う皇女に、レンは心を痛めた。

 まだ午前中で日も高かったが、皇女に理由を説明し鎧戸を閉めた。

 

 レンが獣人族である事を城内で知る者は、セアルを除けば皇子と皇女、そしてレニレウス公爵だけだ。

 半分伝説と化してさえ、人間の獣人族に対する恐怖は計り知れない。

 

 いわれの無い理由で迫害された歴史の中で、獣人族はいつしか臆病になっていたのだろう。

 ただひっそりと息を殺し、誰にも見つからないよう生きて来たのだ。

 

 厳重な警備の中、二人は皇女の居室でじっと時が過ぎるのを待った。

 夕食も部屋へと運ばせ、二人で摂る。

 

 これだけの厳戒態勢を突破しようなどという者は、そうはいない。

 やはり他に狙いがあるのかも知れなかったが、今は皇女を護るのが先決だった。

 

 夜も更け、不安だけが募ったが、それぞれベッドへと向かった。

 二人とも眠れる気がしなかったが、廊下には近衛兵もおり、彼らの静かな足音だけが耳に届く。

 

 規則正しいその響きに、レンはいつしか眠りに落ちた。

 隣室からも物音がしないのは、皇女も同じように眠ったのだろう。

 

 静かな眠りを、不意に妨げる音がした。

 

 獣人族特有の鋭敏な聴覚は、何かの音を聞き分ける。

 明らかに近衛兵ではない靴音だ。

 

 音を立てないよう、レンは忍び足で扉へと向かった。

 静かに扉を開け、その隙間から辺りの様子を窺う。

 

 視界の外から、手が伸びて来るのに気付いた時にはすでに遅かった。

 口を塞がれ、暴れようとも押さえ込まれる。

 見れば複数の男たちが武器を手に、暗がりから現れたのだ。

 

 頭目と思われる男をレンは見た。

 その顔は紛れもなくブエル男爵だ。

 

「その娘は好きにしていい」

 

 男爵は下卑た口調で手下たちに告げる。

 

「後は手はず通りにしろ」

 

 レンは男たちに縛り上げられると目隠しと猿轡をされ、荷物のように抱え上げられた。

 叫ぼうにも声は出ず、ただ身をよじるしかない。

 

 皇女に危険を知らせようと暴れるが、それすら叶わず男爵は小さく笑い声を上げる。

 

「連れていけ」

 

 その言葉を最後に、レンは失神させられ城外へと運び出された。

 後には近衛兵の死体と、楽しそうに笑う男爵だけが残った。

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五 ・ 仮面の男

 

 目が覚めると、レンは硬い床に転がされていた。

 

 目隠しをされているために、ここがどこなのかは全く窺い知れない。

 カビ臭い空気と埃っぽさが、長らく使われていない建物とだけ告げる。

 

 手は後ろ手に縛られ、ほどく事すら出来なかった。

 見えない恐怖が、徐々に彼女を支配する。

 

「よお、起きたか姉ちゃん」

 

 男の一人が声をかける。

 目隠しと猿轡を乱暴に剥ぎ取ると、男は驚いた表情でレンに見入る。

 

「こりゃ上物だ。奴隷市場にでも連れて行けば、言い値で買い取る連中が山ほど出るぜ」

 

 下品な舌なめずりをしながら男は笑う。

 廃屋の壊れた屋根からは月光が落ち、レンの白銀の髪と白い顔を照らし出す。

 男の言葉に他の仲間たちも寄って来る。

 

「まだガキのくせにいい女だな。売る前にちょっとくらい傷がついても別にいいよな?」

 

 三人の男たちはレンを前に、どす黒い欲望をさらけ出す。

 縛られたまま後ずさりしながら、レンは男たちを睨み付けた。

 

 それを合図に、男たちはレンへと飛び掛った。

 レンは引き倒され、したたかに右肩を打ちつけた。

 その拍子に彼女の載帽が床へと転がり落ちる。

 

 月光の中、映し出された彼女の本当の姿に、男たちは固まった。

 

「何だこの女……。獣の耳が生えてるぞ」

 

「構う事はねえ。売る時に付加価値がついたってもんよ」

 

 男は構わずレンへと覆いかぶさった。服を引き裂かれ、誰にも見せた事のない美しい肌をさらけ出される。

 レンは泣き叫びながら、来るはずのない人の名を呼んだ。

 

 その時。

 

 男の一人が叫び声を上げて床へ転がった。

 驚き振り向いた仲間も頭を強打され、その場へ昏倒する。

 レンに覆いかぶさっていた男は肩に鋭い鉤を打ち込まれ、肉を裂かれて絶叫を上げた。

 

 見ればそこには、鉤付き棒を持ったシリカがいる。

 

「遅くなってごめんな」

 

 レンの縛めをほどき、床でうめく男たちを見ながら彼は言った。

 

「怪しい奴らがお前をさらって逃げるのを見たんだけど、途中で見失っちまった」

 

 彼女の本当の姿を見ても気に留めず、屈託無く笑うシリカに、レンはふと涙を見せる。

 

「なあ俺かっこよかった? ラストール様みたいだった?」

 

 全く緊張感の無いシリカに、レンは泣きながら微笑んだ。

 

「バカじゃない、あんた。何勝手に張り切ってるのよ」

 

 ラストに憧憬を持つ少年に、レンは苦笑いをした。普段はだらしない本人を目の当たりにしたら、彼はどう思うのだろうか。

 

 それと同時に、誰にも顧みられないセアルに対して心を痛める。

 彼らに近しいごく一部の者しか、セアルの存在は知らない。知られてはいけないのだとレニレウス公爵は言った。

 それが正しいかどうかなど分からない。知られなくてもいい。ただ目覚めてくれればと、レンは心から祈った。

 

 不意に、男たちが立ち上がった。

 それぞれの怪我は浅く、気絶するほどでは無かったのだ。

 

「おいクソガキ。よくもやってくれたな」

 

 豪腕から繰り出す重い一撃を、男はシリカの腹に叩き込んだ。

 言葉も発せず、シリカは床に沈む。

 レンはシリカを護ろうと彼の前に立つと、彼は逃げろとだけ呟いた。

 

 相手は大人の男三人だ。勝ち目は無い。

 それでも彼らは、セアルとラストはいつでもどんな戦いにも向き合って来た。

 

 一人で逃げるなど出来ない。

 

 それが彼女の出した結論だった。

 ここで逃げる事は可能だろう。だがそうしたら最後、二度とセアルの顔を直視出来なくなる気がした。

 

 レンは壊れた屋根から満月を仰いだ。

 白く美しい月。

 いつも怯え、避けてきた畏怖の対象。

 

 自らの恐怖を受け入れたレンに、月は青白く微笑む。

 

 次の瞬間、人の目には留まらぬ速さでレンは男に飛び掛った。

 獣人の戦い方など知らない彼女でも、どう動けば虚を突き、動揺を誘えるかは知っていた。

 

 それと同時に、満月を仰いだところで我を失う事は無いと知り、彼女は安堵した。

 レンを昏倒させ、ソウを狂わせたのは、血月の魔力だったのだ。

 

 急に眼前から消えたレンに、男は驚き辺りを見回した。

 視界の外から攻撃を繰り出すレンに、一人目の男はなすすべ無く倒れる。

 

 逃げるどころか戦いを挑む彼女に、男たちはいきり立った。

 手に手に武器を取り、レンへと立ちはだかる。

 

「待ちな」

 

 不意に声がし、三人は入り口へと振り向いた。

 逆光の中、そこには一人の男がいる。

 

 歩み寄る男の顔は不気味な仮面で隠れ、その手には木の棒が握られている。

 

「何だてめえは。獲物の横取りなら殺すぞ」

 

 怒り狂ったごろつきは、仮面の男へと斬り掛かった。

 宵闇の中、仮面で視界を遮られながらも、男は軽く身をかわす。

 体勢を崩したところへ、仮面の男が放った一撃がごろつきを昏倒させた。

 

「野郎!」

 

 仲間を倒され、もう一人の男が飛び掛った。

 それも難なくいなし、仮面の男は棒で打ち据える。

 

 一瞬の出来事だった。

 三人のごろつきたちはうめきながら床にはいつくばり、ある者は命乞いをした。

 仮面の男は慣れた手つきで三人を縛り上げ、床へと転がした。

 

「じゃあな」

 

 それだけ言うと、仮面の男はその場を立ち去った。

 後には呆然としているレンとシリカが残された。

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六 ・ 終幕

 

 仮面の男が気になったが、レンとシリカは急いで城へと戻った。

 

 皇女は無事なのだろうか。

 彼女にもし何かあればと思うと、レンは生きた心地がしなかった。

 

 廃屋は商業区の端にあり、城までは走っても半刻近くかかった。

 すでに空は白み、夜明けが近いことを告げている。

 

 二人が城へ戻ると同時に、皇女が走り出て迎えた。

 

「レン! 無事だったのね」

 

 皇女とレンは抱き合い、泣いて再会を喜んだ。

 居室へ戻り、二人はお互いにそれぞれのいきさつを語った。

 レンはごろつきに襲われたところを助けられた話を。皇女は見知らぬ仮面の男に救われた話を。

 

「仮面の男……?」

 

 皇女の語る仮面の男は、恐らくレンを助けた男だろうと思われた。

 

「私、その方を知っている気がするの」

 

 椅子に腰掛けながら、皇女はぽつりと言った。

 

「男爵に襲われて、もうだめと思った時、その方が来て下さったの。お名前を伺ったのだけれど、男爵を縛り上げるとそのまま行ってしまわれたわ」

 

 やつれた表情の中にも安堵を見せて、皇女はそう語った。

 心を落ち着けようと皇女自ら茶を淹れたが、その手はまだ震えている。

 

「男爵はどうなったんですか?」

 

「レニレウス公爵が駆けつけて、城内の一室に連れて行ったわ。男爵はアレリアの傍系だから、アレリア公爵が裁定を下す事になるんじゃないかしら。軽くても追放、重ければ断絶や投獄もありえるわ」

 

 ようやく落ち着いたのか、皇女は普段の凛とした表情へと戻っていた。

 

「今日はこれから新宰相様の就任式があるんですもの。いつまでも落ち込んだ顔はしていられないわね」

 

 皇女の笑顔に、レンも笑顔を見せた。

 レンにとっては、彼女の笑顔が何よりも嬉しかったのだ。

 

「さあ行きましょう。新しい帝国の門出よ」

 

 皇女が立ち上がるのに手を添え、レンは城内へと向かった。

 

 

 

 

 就任式は滞りなく終了した。

 この後三日三晩祝宴が続くために、厨房はごった返していた。

 

 すれ違えないほどの混雑の中、レンはシリカの姿を探した。

 いつも仕込みをしている隅にもおらず、彼女は裏口を抜け燻製小屋へと入る。

 

 相変わらず燻し煙の立ち込める小屋で、シリカは作業をしていた。

 扉を開けた時の空気の流れで、彼はレンに気付いた。

 

「ようレン。もう平気なのか?」

 

「それはこっちのセリフよ。あんた殴られてたじゃない」

 

「あんなの平気さ。兄貴にはよく殴られてるからな」

 

 大笑いをし煙で咳き込むシリカに、レンもつられて笑う。

 

「……助けてくれてありがとう。あんたが来てくれなかったら、わたし今頃……」

 

「気にすんなよ。もう忘れろ。お前が帽子で隠してた理由も、誰にも言わない。何もなかったんだ」

 

 シリカの言葉にレンは驚いて彼を見た。

 

「正直驚かなかったとは言わないけど、隠す必要もないと俺は思ってる。お前が何者でも、それは友達である事には関係ないだろ。地下で眠っているあの人も、きっとそう思ってる」

 

「知ってるの……。セアルの事」

 

 レンの表情に、シリカはにんまりと笑って応える。

 

「俺は英雄ラストール様の事なら何でも詳しいぞ! だからあの人の事も知ってる。まあ地下へ移送される時に、こっそり覗き見しただけなんだけど」

 

 胸を張るシリカに、レンは微笑んだ。

 

「あんた本当に変な奴ね。しょうがないなあ。今度五年前の旅の内容、教えてあげるよ」

 

 二人は目線を合わせ、にやりと笑った。

 

 

 

 

 一日目の祝宴も終わり、レンはようやく自宅へと帰る事が出来た。

 自宅へ着くと、血相を変えたサレオスが飛び出してくる。

 

「レン! 大丈夫だったのか」

 

 レンの無事に、サレオスはその場へとへたり込んだ。

 

「どうしたのお兄様。どなたから事件の事お聞きになったの?」

 

「いや……。ついさっきまで来客があって、その人から聞いたんだ。本当に無事でよかった」

 

 安堵のため息を漏らすサレオスに、レンは満月の話をした。

 血月とは違い、通常の満月は何も影響は与えなかったと。

 

「そうか。なら今後の心配は無いな。それはそうと、その……」

 

 サレオスは口ごもる。

 その様子にレンは何かを感じた。

 

「ご結婚なさる事にしたの?」

 

 容赦なく放った一言は、サレオスを封殺した。

 ただこくりと頷くさまに、レンはぽつりと呟いた。

 

「悪い事もあるけど、良い事もあるものね」

 

 欠け始めた月は、青白く二人を照らす。

 

「あら、でもわたし、これからどこに住めばいいのかしら」

 

 口を突いて出た疑問に、レンとサレオスは顔を見合わせ噴出した。

 笑いながら自宅へと入り、二人はひっそりとした祝宴を囲む。

 

 窓からは不気味な仮面がちらりと覗いたが、すぐに見えなくなっていった。

説明
セアルが眠りについてから三年後の話です。レンが主人公。12746字。

あらすじ・セアルが眠りについてから三年後。
皇女アウレリアの侍女となったレンは、彼女から不気味な手紙を見せられる。
ちょうどその頃帝都では、異国の仮面を被った奇妙な男が、夜の市街を徘徊しているという噂があった。
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