夏の午後の思い出 |
昔好きだった女の子が、シナモンロールを良く食べていた。
スポーツ万能で、同じ陸上部だった彼女。今でも覚えている、短距離選手の彼女を、長距離練習の際に、いつも目で追っていた。明朗快活で、まぶしい笑顔に僕は惹かれた。
彼女が好物であるのに対して、僕はシナモンが苦手で食べられなかった。前に無理して注文したこともあったが、何とも言えない香りと甘みが僕には合わなかった。
部活帰りにはよく彼女とミスタードーナツに寄っていた。今思い返してみても、彼女はいつもシナモンロールを注文していた。
「……なあ、そんなに美味しいか?」
「もちろん! 一番好きな食べ物と言っても過言ではないわね」
そう言ってにこにこしながらシナモンロールをかじる。何とも言えない香りがこちらまで漂ってくる。
「なんかさ、においが駄目なんだよね」
そう言うと、彼女が顔をしかめた。
「においがって、それ生理的に駄目みたいじゃない」
まあ、あながち間違ってはいないように思えた。食べ物のにおいは特に重要視されるものだろうし。
「しかし、残念だなあ。同じ美味しさを共有出来ないなんてさ」
そう言って彼女は悲しそうな顔をする。相変わらず表情が豊かでかわいらしい。部活動時の真剣な表情とはまた違った表情に、ギャップを感じているのかも知れない。
「本当にな」
本心を隠しながら、僕は苦笑した。
残念残念、そんなことを言いながら彼女はシナモンロールをかじっている。その様子が小動物のようでかわいらしく見えた。
美味しさを共有出来ないというところもあるが、それ以前に彼女が僕の気持ちに気付くこともまずないだろう。
鈍感、と言ってしまえばそうなのかも知れない。が、この関係から携わることのない今に、居心地の良さを僕が覚えているのもあるだろう。そう、これ以上の関係を望むと壊れてしまいそうで、僕は怖かった。
まだまだ子供だったのだろう。
ミルクコーヒーを一口飲む。僕はいつもこのミルクコーヒーを飲みながら、彼女の話を聞くのだ。部活の話もあれば、愚痴もある。普通の高校生としては割とありきたりな会話だったのかも知れない。恋愛という一点を除いては。
彼女は僕の事を何とも思っていない、そんなことを考えると胸が痛くなる時もあった。心の奥底では彼女を求めていたのだろう。でも、勇気なんてなかった。このままでいいじゃないか、そんな言い訳をしながら、彼女の笑顔を見て満足感を得ていた。友達以上、恋人未満。それでいいじゃないか。
そんなことをしているうちに、僕の高校生活は終わってしまった。想いを伝えることもなく、淡々と。
「……で、そんな話を今の彼女にする心境はどうなってるの?」
目の前の席に座る彼女が怪訝な目を僕に向けた。
「いや、単純に昔の話がしたくなったというか」
そう言って、僕はシナモンロールをかじる。どこか懐かしさを覚える味だ。
「今は普通に食べられるのね、それ」
「ああ、そうだね」
アイスコーヒーを一口飲む。昔は苦くてとても飲めなかったが、今ではむしろこの苦味がクセになりつつある。
「ところで、妬いたりしないの?」
それを聞いて彼女が苦笑する。
「そんな可愛い人に見える?」
「それもそうか」
僕も苦笑する。
前に好きだった人と比較するのはあまりよくない気がするが、今の彼女といるこうした雰囲気も好きだ。以前より一歩進んだ関係ではあるが、お互いに気を張ることのない自然な雰囲気。明確な違いはあるが、これもまた僕の中で変わった所なのかもしれない。
彼女が紅茶を一口飲み、僕に言った。
「そういえば私、シナモンロールって食べたことなかったわ」
「食べてみる?」
「じゃあ一口」
そういって差し出したシナモンロールを彼女はかじる。
「……あんまり美味しくないわ」
「そうか、まあいつか好きになる時が来るかも知れないよ」
またアイスコーヒーを一口飲む。かつてはミルクコーヒーだったいつもの飲み物も、また変わった。カップに浮かぶ氷がカランと音を立てる。夏の午後の日差しを乱反射して、きらきらと輝く。変わっていくものもあれば、変わらないものもあるんだなと思った。
「それが、大人になるってことなのかもね」
「何を急に、寒いわ」
「はは、まだ夏は始まったばかりだよ」
苦味も甘みも、色々なことを経験して人は変わっていくものだ。それが大人になるという事かはまだわからないが、確実にあの頃と比べ、僕はだいぶ変わったと思う。
それが成長なのかはわからないが。
シナモンロールの味と、その思い出に浸りながら、夏の午後は過ぎ去っていく。
「今度は君の話が聞きたんだけど」
「割とデリカシーのない所はまだまだ子供の様ね」
呆れるように彼女が紅茶を飲む。
なるほど、やはり成長とは限らないのか。
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三題噺 「万能」 「乱反射」 「シナモン」 | ||
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