流星
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 洋太は午後二十二時三十分、母の制止の声を振り切って、夜中に飛びだした。

 外は身を切るような寒さだ。耳当てがわりのヘッドフォンからは、少し昔に流行ったポップスに混じって、母の「待ちなさい、今何時だと思ってるの」という絞った声が聞こえてきた。

 洋太は運動が苦手だ。走るのは遅かったが、自転車を漕ぐのは速い。だから自転車で行こうと思っていたのに、運悪くキーを差し込んだところで母に見つかってしまった。彼は今、仕方なしに全力で道を走っている。追ってくる気配はないのに、吐く白い息を尾のようにぶら下げながら、猛然と走った。

 マフラーは呼吸の邪魔になって、途中で外した。シャツの首周りから冷たい大気が入り込んできて、火照った体にはちょうどいい。――そんなことを言っていられたのも、最初の五分だけだった。洋太はすぐに力尽きて、膝に手を突いて荒く肩で息をする。外れかかって落ちそうになったヘッドフォンを装着し直してひとしきり噎せかえると、今度は寒さで震えだした。

 ――なにやってんだろう、おれは。なにもかもがむちゃくちゃだ。洋太は自分にあれこれと批判的な思考を当てつけてみるが、今更後戻りをしたところで、父と母の雷が落ちるだけだ。

 マフラーを巻き直して、息が整うまでは歩く。走れるくらいに落ちついたら、また走るつもりだった。走るのは苦手だが、予定が狂って自転車を持ってこれなかった。このままでは『約束』の時間まで遅れてしまう。二十三時。場所は町はずれの高台。ちょっとした林になっていて、夜はさぞ不気味だろう。でも行くしかない。行かなければおさまりがつかない。

「……よし」

 一人の夜道で自分を励ます。

 人通りのない住宅街の中を、休んでは走りを繰り返した。自転車はいくら漕いでも平気なのに、すぐに足が痛くなってきた。最後の坂道にさしかかる頃には、足がだるくて一歩も進みたくなくなっていた。

 洋太は携帯を取り出し、画面を覗き込んだ。大きなデジタル表示で、二十二時五十二分と表示される。

 ――あと八分でここを登り切れば。洋太はカラカラに乾いた唇を舐め、ゆっくりと坂を登り始めた。ここを登りきったとは、最後の最後にスイッチバック式のようなかたちをした階段がある。そのことを考えると気が重かったが、どうにか「あと少しだ」と自分に言い聞かせ、着実に進んでいく。出発よりも遥かに鈍く覚束なくなった足取りで、洋太は―― ようやく約束の場所にたどりついた。

「はぁー」

 大きく溜息を吐くと、そのまま膝が折れた。手を突いた地面は冷たく、汗でぬめった手の温度がスッと逃げていくような感触があった。それがなんとなく心地よくて、洋太はしばらくぼうっと地面に手を突いたまま過ごしたが、ハッと気づいて携帯を取り出し、時間を確認する。二十三時三分。若干遅刻しただろうか。

 手にこびりついた土を祓うと、洋太は街が見下ろせる場所に移動した。

 ここから星を見る約束。運が良ければ流星群が見れるかもしれない。そう聞いた。思いっきり首だけで夜空を見上げると、曇天が渦巻く中にまばらに星が見えた。今宵は月もない。ただ暗い空間が広がっている。

 落胆はしなかった。そもそも、待ち人は来ない。わかっている。洋太は鼻を鳴らした。

 彼女は死んだのだ。つい一週間前に。交通事故だった。あまりに唐突だった。洋太の知らないところで、すべては終わってしまった。最近で覚えていることは、葬式の時に見たモノクロの写真だけだ。

 ――なにやってるんだろう、おれは。

 もう一度言う。誰も来るはずはない。約束を果たすべき人は、この場に”だれひとりとしていない”のだ。そう思った。しかし、

「なぁにやってんだおまえ」

 後ろで声がした。

 洋太は思い切り体を飛びあがらせ、声にならない悲鳴を上げた。誰かが来るなんて、これっぽっちも考えていなかった。

 振り返ると、友人の善樹が居た。中学に入ってからの友達で、クラスの中では比較的仲がいい。善樹はペンライトを片手に、おもいっきり訝しげに洋太を見ていた。そのまなざしが心に痛くて、なんと答えていいかわからなかった。

「なんでおまえがここにいるんだよ」

 歩み寄ってきた善樹が、少し憮然として訊ねてきた。

「それは――」

 洋太はなんと言っていいかわからない。洋太は自分がなぜここに来たのか知っていても、それをうまく説明することが出来なかった。

 困った顔をして黙りこむ洋太を善樹はしばらく睨みつけていたが、ややあって溜息を散らすと、

「約束、知ってたのか」

「うん、知ってた」

「盗み聞きか? あんがいシュミ悪いんだな」

「ごめん」

 聞くつもりはなかった―― とは言えなかった。

 そう。これは洋太の約束ではない。善樹と彼女の約束だった。洋太はそれを、たまたま放課後の教室で聞いてしまっただけだった。

 約束を果たす前に、彼女は死んだ。だから、善樹は来ないと思っていた。

「オレが来ないと思ってたのか?」

「うん」

「そっか。……うん、まぁ。ホントは来るつもりじゃなかったけど。なんとなく」

 洋太は善樹が怒っているのではないかと、俯いていた顔を少しだけ上げて、自分より背の高い善樹の顔色をうかがった。

 善樹は困ったような顔をしていた。釣られて洋太も、オドオドした表情を強める。

「……先越されるとはな。星は? 見える?」

「ちょっと、だけね。曇ってるからあんまり見えないよ」

「なんだよ、あんまり来た意味ないじゃねえか」

 そう言ってやれやれ、とかぶりを振る善樹はいつものおどけた表情をしていたが、それにもすぐに影が差す。

 急に善樹の顔から表情が消えた。洋太はそれにならって真顔を作ろうとするが、美味く言ったかどうか定かではない。冷や汗が背中を伝っている。

「……おまえさ、アイツと小学校から一緒だったんだろ?」

「うん。でもロクに話したことなかったよ。たぶん、言われなきゃクラスもずっと同じだって、知らなかったんじゃない?」

「ばぁか。おまえとずっと一緒だったって、オレに言ったのはアイツだよ」

「えっ?」

 善樹は洋太から眼を逸らす。

「知らなかったのは、おまえのほうじゃないの。中学に上がった時、おまえが一緒のクラスだったから―― 安心したって。何度も」

「…………」

 洋太は善樹がなぜそんなことを教えてくれるのか、さっぱりわからなかった。

 約束を盗み聞きして、勝手にこんなところまでやってきた「邪魔もの」である自分に。

 善樹は逸らした目を洋太に戻した。洋太もそのまなざしをまっすぐ受け止め、返す。二人とも微動だにしない。

「なんでさ」

「うん」

「なんでアイツ、オレのこと好きになったんだろう」

 泣き笑いのような顔になってそんなことを言う善樹。洋太は急激に胸が苦しくなった。

「わかんないよ」

「そうだな。もうわかんねえことだし。……それに、オレはわかんないほうがいいかも」

 そう言って、善樹は二三歩後ろに下がると、もったいぶって踵を返す。

「おまえさ、ここまで走ってきたの?」

「う、うん。母さんに見つかっちゃって自転車とって来れなかった」

「そっか。まあ、デコが汗でテカってるから、そんなこったろうと思ったよ」

 振り向き様、善樹はいつもの笑みを浮かべていたが、洋太は頼りになる明かりがない薄暗闇の中、善樹のまつ毛に涙がたまっていたように見えた。

「オレ、自転車で来たんだ。走って帰りたいから、明日まで貸してやるよ。じゃあな」

「ちょっと!」

 善樹は洋太が呼びとめるまでもなく走り去る。その場に残された洋太はしばらく呆然としていたが、大きなくしゃみをして我に帰った。

「帰ろう」

 呟いて、あのスイッチバック式の階段を下っていく。

 夜の空気はうんざりするほど寒いというのに、なぜか洋太は不思議な熱を纏っていて、寒さを感じなかった。

 階段を降り切った場所に、善樹が置いていった自転車が置いてあった。黒い、どこにでもありそうな、前にバスケットがついた自転車。塗装がところどころ禿げたバスケットの中には、派手な色の花がたくさんまとめられた、花束が入っていた。

 洋太は泣いていいのか笑っていいのかわからなくなって、結局泣きながら自転車を漕いで帰った。母と、起きて来た父に散々怒られた。

 

 

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