【既刊サンプル】左衛門どのの事など……!
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この時、陽炎は舞いに舞い上がっていた。というのも、とうとう手に入れたのだ、――いわゆる『惚れ薬』を! これを使う相手は当然決まっている。そう、愛しの君。甲賀弦之介ただ一人だ。

まさかそんな物が本当に存在するはずがないと思われの方もいるだろうが、ここは甲賀卍谷、薬事において秀でた知識を持つと今なお伝来されている甲賀忍者の巣窟なのだ。惚れ薬といった浮世離れした物が存在したとしてもなんら不思議ではない。

それなのに、なぜ陽炎は惚れ薬ごときに浮き足立っているのか。それはこの薬の強力な薬効であった。なんとこの液体薬、作った人間曰く、経口摂取でなく目や鼻などの粘膜や、更には皮膚からの微々たる摂取でも効果が見込めるらしく、この薬に触れたが最後。摂取した人間は自分の意思とは裏腹に、最初に見た人間を好きになってしまうという、なんとも倫理に反した超強力な劇物だったのだ!

こんな物を陽炎に与えればどうなるかなんて陽炎の気持ちを一ミリ足りとも知らない弦之介以外であれば行きつく考えはみな同じであろう。であるのに、どうして陽炎がそんな薬を手にしてしまったのか。それは陽炎も忍者であり、得意とする忍法の関係上、そういった類の物が必要になる時はないとも言い難い。よって、たとえ危険性を含んだ人物であれ、申し出さえあれば、甲賀でも特に薬学に秀でた薬物開発班お手製の妙薬を手に入れることが出来るのだ。

陽炎はこれからを思うと面白くて仕方がなかった。たとえ外道と呼ばれようと関係ない。外野からの声なんか全く気にならないし聞こえない。最終的に結ばれてしまえばコチラのもの、正気に戻る前に既成事実を作ってしまえば私の勝ち。陽炎はこの日の為に、日夜行為中は毒息を漏らさぬよう修行に打ち込み、見事、毒息のコントロールを身に着け、最大三十分の息止めを成功させていた。

準備は万端、時は来た! 朧め、せいぜい爪を噛んで悔しがれば良い! 陽炎はめくるめく未来を想像し、思わず声に出して笑った。勝ち戦ほど面白いゲームはない。陽炎は丸い薬の詰められた簡易爆弾を卵でも温めるように手の平で包み込み、恍惚として眺めた。その時を待っていてくれと言わんばかりに……。

 

「しかし、どうしたものか、――」

 

 陽炎は甲賀頭領弾正の屋敷、もとい弦之介の屋敷の門の影に身を潜ませ時を狙っているのだが、朧との祝言を間近に控えた弦之介の周囲は、陽炎以外にも反体制組織などの過激派勢からの奇襲に主人の身を案じ、最近は特に警戒を強めているようで姿を現さなかった。恋愛は障害が多ければ多いほど燃えるというが、事実、弦之介の顔すら見られない日々が続けば続くほどに文字通り陽炎の恋心は燃え盛るのだった。夢中になるがゆえに、こうやって弦之介に嫌われかねん行動をとってしまうのも全ては愛のせいであるのだ。誰も責める事は出来まい。

 

「弦之介さま……」

 

 陽炎はため息混じりに名を呼び、身体を震わせた。積もり積もった思いに、最近では弦之介の名を聞くだけで身体は過敏にも反応し、『げ』から始まる言葉を聞くだけでビクリと肩を跳ねさせる。完全に末期だ。

 陽炎が呟きで自分を慰め、上の空あるその時だった、――ついに弦之介が屋敷より姿を現した。

 

(来た……!)

 

 陽炎は待ちに待った瞬間に胸躍らせた。とうとう、弦之介さまが私のものに……。いや、とうとうわたしは弦之介さまのモノになれるのだと。――

 陽炎は手筈通りに音もなく物陰から弦之介に近付くと、陽炎に気付いていなさそうな弦之介の横顔を見た。……間違いなく弦之介に違いない。陽炎は手に持った爆弾を、腕を振り上げなにも知らない弦之介に向かって投げつけた。

 

「弦之介さま覚悟……!」

「なにっ、――」

 

 弦之介は驚きの声を上げながらも瞬時に両腕で顔面を覆い直撃を免れた。しかし、表面に衝撃を与えれば弾けるように設計されている爆弾ゆえ、思惑通りまんまと弦之介に炸裂した。頭から液体をかぶる瞬間は、弦之介と陽炎の二人にはスローモーション再生された世界であった。

 

「くっ、――」

「やったか……!」

 

 顔を覆い、身悶える弦之介の様子を期待に満ちた表情で陽炎は見守る。悶える弦之介を目の当たりにすると、待ちに待ったこの時が来たのだと優越感さえ湧いてくる。さぁ、早く顔を上げて、その目でわたしを見てくれと陽炎は弦之介と距離を詰め、毒に変わりゆく息を飲み込み、その瞬間を迎えようとしていた。

 しかし、それも叶わぬ夢であった。

 

「左衛門!」

 

 弦之介と陽炎の間の地面からニュッと姿を見せたのは霞刑部。彼は俯く弦之介に向かって左衛門と呼んだ。

 

「左衛門……だと?」

 

陽炎は自分の耳を疑った。……そうなのだ。この弦之介、実は弦之介の影武者を自らかってでた左衛門だったのだ。

 陽炎は腹立たしさに奥歯を噛み締めた。こんな薬,怪しまれるリスクを考えるとそう何度も手に入れられるわけではない。そんな大事な大事な物を、左衛門ごときに邪魔立てされるとは。許すまじ。――

 

「おい,これは何たる所行じゃ」

 

 刑部は陽炎に詰め寄った。

 

「弦之介さまでなければ関係ない」

「弦之介さまなれば一大事ぞ」

「言われずとも、承知の上じゃ」

「たわけたことを……!」

 

 なにを言っても脹れている陽炎に話にならん、と刑部は顔を背け,未だに手で顔を覆い俯いている弦之介姿の左衛門に、刑部はしっかりしろと肩を掴み揺さぶった。

 

「……その声は刑部か」

「おお、無事か!」

「ああ、……朦朧とはするが、どうってことはない」

 

 左衛門は息絶え絶えに呻きながらも刑部に受け答えし、顔を上げた。

 

「あ……っ!」

 

 その瞬間、陽炎は思い出したように声をあげた。

 

「なんじゃ、大声を出して」

 

 刑部は呆れたように言った。なにも知らないのだから無理もない。

 

「刑部どの……、今、左衛門どのに見られましたか……?」

「あ、ああ。それがどうした」

「ああ、なんてことを」

「だから、なにを言うて……」

「刑部どの、左衛門どのは……」

「言いたいことがあるならはっきり言え。……まぁ、今は静かだが、左衛門もこう見えて怒っておろうから後で謝れよ」

「そうじゃなくて……」

「しつこいぞ、陽炎。左衛門からもなにか言うてや、――」

 

 刑部は言葉を失った。左衛門に意見を求め視線を送ったが最後。気付いてしまったのだ。……自分を見る目がいつもと違うことに。

 

「左衛門……?」

 

 刑部の顔がみるみるうちに歪んでいく。というのも、いつもは起きているのか?と訊ねたくなる左衛門の細い目が、この時ばかりは弦之介の顔も相まって余計に目一杯開かれていたからだ。

 そしてその表情は網膜にまでその姿を鮮明に焼け付けんとする写真機のようであるから見られている側からすれば余計にギョッとする。それが、熱でもあるかのように徐々に顔を赤く染め上げていく気の知れた仲間であれば尚更だ。

 

「おぬし、左衛門になにをした」

「世の中、聞かぬ方がよいこともありましょう」

 

 陽炎の顔色は考えたくもない、これから起こるだろう大惨事を想像し気分を害している。しかし、赤ら顔の左衛門は陽炎なんて気にも掛けず介抱する刑部の首に腕を絡めた。その異常な行動に刑部は背筋が凍った。

 

「まさかとは思うが……」

「そのまさか、と申したら……」

 

 刑部は「冗談は止せ」と叫びだしたかった。状況が状況なのだ。陽炎が弦之介さまを好いているのは鈍い弦之介さまを除けば周知の事実であるし、なにより自分の首に巻きつく左衛門の腕の動きの艶めかしさだ! ――自分の考えが正しければ、左衛門にぶつけられたこの液体は……。

 

「刑部、――」

 

 左衛門の声に刑部ははっとした。声の調子がいつも通りであるからだ。……さすがに考え過ぎだったか。刑部は心の底からほっとした。しかし、左衛門ほどの男が、簡単にこんな罠なんかに引っ掛かるはずがないのに、陽炎に誑かされて見くびってしまうとは悪いことした。

左衛門には一言スマンかったと声を掛け、おぬしもまだまだだと笑い話をして、すべて丸く収めよう。そう思ったのだが、やはりそうはいかないらしかった。

 

「おまえ、わしを誘っておるのか」

 

 そう言った左衛門は別人のようなすわった目をしていた。

 

「……なにを言っておる」

「裸でおねだりとはとんだ淫乱入道じゃ」

「淫乱入道……っ!」

 

刑部は思いもよらない言われ方に動揺を隠せなかった。

 

「弦之介さまが言葉責め……っ!」

 

 陽炎も違う意味で動揺を隠せなかった。

 

「そうじゃ、いい歳した男が全身をつるつるにさせ忍法にかこつけて露出とは淫乱で変態としか言えぬだろう」

 

左衛門は刑部に巻き付けた腕をそろそろと下へ移動させた。全裸の刑部であるから事に困ることはない。うなじから鎖骨を焦らすように指で滑っていくと刑部の発達した胸部をするりと撫でた。その性的な動きに刑部は思わず息を詰まらせた。

 

「良い反応をする……」

 

 左衛門は挑発的に乾いた唇を舐めた。

 

「ぐぅ……っ!」

 

刑部が裸でいるのをこれほど後悔するのは後にも先にもこの日が最後だろう。男である自分が男にいたぶられるほど屈辱的なことはない。

 

「弦之介さまが色っぽいお声を……!」

 

そして陽炎は刑部に迫る弦之介姿の左衛門を見て、いろんな意味で卒倒しそうだった。しかし、左衛門には嫌がる刑部や複雑な陽炎の気持ちなどつゆ知らず、誰も止めないのをいいことに行動は更にエスカレートした。刑部の筋肉隆々とした雄々しく膨らむ胸を揉んだり、引き締まった尻を撫で回したり、好き勝手である。

 

「止めろ、左衛門!」

 

 様子見をしていた刑部であったが、とうとう声をあげた。悪ふざけにしては度が過ぎると言うのだ。

 

「誘っておいてその言いぐさか……」

 

 手を止めた左衛門に安心したもつかの間、左衛門は刑部の足を掬い、地面に突っ伏させ、腕を背中にねじ上げると、空いた方の腕で頭を地面へと押さえつけた。

 

「人が黙っておったら調子に乗りおって……」

「わしはおぬしを愛しただけじゃ」

「黙れ、返り討ちにしてやるぞ」

「言葉に気をつけろ。聞き分けのないやつには……調教あるのみ」

 

 左衛門は刑部の姿を見下ろしせせら笑うと、唸り声をあげ抵抗をする刑部と更なる行為に及ぼうとした。刑部の貞操危うし! だが、今は地面にぴったりと刑部の身体が密着した体勢だ。これ幸いと刑部はありったけの力で左衛門を振り払うと、足早に地面へ姿をとけ込ませ難を逃れた。

 

「ふっ……恥ずかしがりおって、可愛いやつよ」

 

 左衛門は舌打ちの一つもせずさわやかに言い切った。まるで夏の透き通る風のようである。普段の左衛門であれば信じ難い光景だ。

 

「左衛門どの」

「ん?」

 

 陽炎は左衛門に声を掛けた。多少様子はおかしいが、刑部以外には正常であるようだ。陽炎は深刻

な顔をして、

 

「せめて忍法を解いてからにしてくださいまし」

 

 と言った。弦之介姿であれは、陽炎にとって心臓に悪い以外なにものでもない。

 

「おお、忘れておった」

 

 左衛門はつるんと顔を一撫でし戻すと頭を捻った。

 

「しかし、厄介じゃ。姿を消されては見つけ出すのも一苦労」

 

左衛門はぼやきながらも、宛もなくこの場から去っていった。陽炎はその後ろ姿を黙って見送っていたが、小さくなっていく背中を眺めているうちに事の大きさに気付いていった。――

 

「大変なことになった!」

 

 胸をざわつかせる陽炎は、今だけは愛しの弦之介よりも、惚れ薬ですっかりうつけとなった左衛門のことでいっぱいであった。

 

 

 

 

 

 少女と女性の合間を行き来する年頃の彼女は、それはそれは魅力的で、男ならばむしゃぶりつきたくなること請け合いの美貌の持ち主だ。その容姿ならば、大抵の男であれば陽炎がほんの少し気のある素振りをしてみせれば、例えどんな屈強な男であれ、いとも簡単にコロリとオチてしまうだろう。ただ一人……陽炎の意中の相手である弦之介以外は。弦之介も罪な男である。猛烈な陽炎のラブコールにも気付きやしないで甲賀の朧姫の事しか見えていない。……とんだ朴念仁である。

 今回のような悲しき事件は、もしかすると弦之介の身の振りさえ違っていれば回避できたかもしれない。

 

「大変なことになった!」

 

 陽炎は変わりきった左衛門の後ろ姿を見送って、放心状態でこう呟くことしか出来なかった。しかし、だんだんと冷静になっていく頭がこのことをどうにかして穏便に済まさなければと警鐘を鳴らす。もし、これが甲賀中に知れれば忍者の厳しい規律において自分の身が危ない。なによりも名家である家系の先祖末代までの恥を自分の手によって作ってしまうことになる。自分の行動のあまりの重大さに感情に任せた行いを後悔した。

 だが、時すでに遅し、今は被害を最小に抑える努力をするしかない。そのためには協力者が必要だ。さすがの陽炎も自分一人で左衛門をどうにかできるとは思っていない。

 現時点で左衛門のことを知っているのは当人の左衛門と被害者の刑部の二人。協力を求めるならばその二人の為に必死になれ、口も堅い信用出来る者の方が好都合。一瞬、豹馬なども考えてはみたが、頼れる存在ではあるが豹馬ではあまりに弾正に近く、後から大目玉を食らう可能性が高いと思われるので駄目だ。ならば、二人と立場も近く仲も良さ気な丈助と考えたが、これもお調子者ゆえに助けを求めたら一斉に言い振れそうだと首を振った。   

やはりこの状況下ならばあれに頼むしかないか。――

 陽炎はほぅっと息を吐くと、その人物が居るだろう方向へ歩きだした。

 

 

 

 その人物は甲賀屋敷からほど近い、藁葺き屋根の典型的な農家風の家に二人で住んでいる。十人衆では比較的に庶民派な住居ではあるが二人で住むには丁度良い、なにものにも代えがたいマイホームなのである。

 

「たしかこのあたりのはず……」

 

 陽炎は不安げに辺りを見渡した。ありがちな藁葺きゆえに家構えがどこも似たり寄ったりで目的地が本当にここで合っているのか自信がなかったのだ。初夏ゆえに何処の家も少しでも風を通そうと戸を開け広げているからコッソリと中を拝見して判別出来るのだから、まだマシではあるのだが。

 陽炎は通りがかりにまた一軒、それらしい家を玄関から伺い覗こうとした。すると、それとほぼ同時に大きな影が陽炎の目の前に飛び込んできた。

 

「兄さまのばかぁ! もう兄さまなんか知りません!」

 

 それは如月左衛門の妹、お胡夷であった。まさしく目的の人物、たったひとりの仲間候補であった。

陽炎はお胡夷のただならぬ様子に驚いた。あの常に爛々としたお胡夷が大きな瞳一杯に涙を溜めているではないか。

 

「何事じゃ」

 

 陽炎は目が合ったきり動かずにいるお胡夷に聞いた。

 

「兄さまが、弾正さまのお屋敷から帰られてから、兄さまの様子がおかしいのです!」

「なんと」

 

 陽炎はあえてとぼけた。その原因を作ったのは紛れもない自分だと出会い頭に告白するほど空気の読めない人間ではないし、正直者ではない。事情を説明するのはお胡夷を落ち着かせて泣き落としでもしてやって丸め込んだその後だ。陽炎はそんな考えなど微塵も知らないだろう強張るお胡夷の背中を優しく擦ってやった。

 

「わたし、こんな兄さまを見るのは初めてで……いつも、優しくてかっこいい兄さまが……。どうすれば良いか分からないのです、いつもわたしが泣いたり、困ったりした時はいつも兄さまが示してくれるから……」

 

 お胡夷は陽炎の姿を見て緊張の糸が切れたのだろう。お胡夷は大きな体を縮こませ自分の背中を擦る陽炎に縋り泣きついていた。尊敬する兄のあの痴態を見ればお胡夷がこうなるのも無理はない。この姿を見ては陽炎も罪の意識を感じずにはいられなかった。

 

「すまない」

「えっ、――」

「それよりこの腕を放しておくれ」

 

 陽炎は自分の体に巻き付くお胡夷の腕をちょいとつついた。今の状況に罪悪感に苛まれているのは事実だが、だからといって事実を言うのはまだ早い。それにお胡夷の特異体質に包まれた状況でお胡夷が逆上ともなれば文字通り絞られかねんのだから余計に言えない。

 

「あ、わたしときたら……」

 

 お胡夷は少し辛そうにする陽炎から瞬時に腕を放し、頬をうっすら紅潮させた。自分の行動を恥じたのもあるが、麗しの美女陽炎を無意識でありながらも抱きしめてしまったことへの高揚からである。美しい女を愛でるのは何も男だけではない。女であっても妬みや僻みの対象にさえならないような美女相手ではもはや同じ生き物というより、見事な装飾品や澄んだ宝石と同じく、ただただその美しさに溜息を吐く対象になるだけである。お胡夷の場合、それに付け加え兄に育てられたという環境から姉という存在に憧れを抱いている節があるので年上の女性への憧れは一塩なのだ。お胡夷はさっきまでの悲壮感はいずこ、頻りにもじもじとしている。

 

「無礼をお許しください」

「気にせずともよい、それよりも左衛門どの、だろう」

「はい……!」

 

 お胡夷は嬉しそうに返事をした。それに陽炎は安心したような笑みを浮かべると、左衛門のいる方向を鋭い目付きで睨みをきかせ、一礼したのちに如月家へと足を踏み入れた。

するとそこには昼間だというのに布団を敷いて眠っている左衛門がいた。

 

「なっ……」

 

 予想外の左衛門の行動に陽炎は絶句した。お胡夷は申し訳なさそうに俯いている。

 

「あれは眠っておるのかえ?」

 

 陽炎は左衛門に指を差し聞いた。日ごろより目の細い左衛門であるから目を瞑っているのかいないのか見分けがつかなかったのだ。

 

「いえ、起きております。生まれてこの方、長い付き合いではありますが、わたしもあんなに目を見開いておられる兄さまを見るのは初めてです……」

「そうか、あれで見開いておるのか……」

「だから余計に心配で」

「そうか……」

「それに、ひとりごとがすごいのです」

 

 お胡夷は陽炎に聞けと言わんばかりに陽炎の背中をぐいっと押し、左衛門に近付けた。陽炎は一瞬怯んだが、さっきまでのお胡夷の様子を見る限り余程ひどい内容を呟いているに違いない。陽炎はコクリと喉を鳴らし、覚悟を決め、こちらを気にする素振りもない自分の世界へと陶酔する左衛門に静かに近付いた。

 

「……」

 

 今、陽炎と左衛門との距離は三〇センチくらいだ。それでも何を言っているのか聞き取れない。

 

「もっと、もっと近付かないと聞こえませぬ」

 

 そういうと、お胡夷は見本とでも言うように自分の耳を左衛門の顔と引っ付くのではないのかという距離まで近付けた。

 

「やはり、このくらい近付きませぬと」

「それはやりすぎじゃないの?」

「いえいえ、そんなことはありませぬ」

「それだけ近付かなければ聞こえぬようなら害もないし、そのままで、――」

「陽炎どのは兄さまがこのままよからぬことを呟きながら寝たきりになっても良いのですか?」

「うう……」

 

 自分のせいで左衛門がこうなった手前、お胡夷の問いかけになんとも答えられなかった。一度は同情を引いた兄への一途さが、今は一番恐ろしい。

 陽炎は半ば嫌々ながらもお胡夷に言われた通りに左衛門の傍にしゃがみ込み、耳を口元にまで近付けた。すると、うっすらとしか聞こえなかった声もはっきりと聞こえた。

 

「もっと近うよれ、わしの子猫ちゃん、――」

 

 確かに、陽炎の耳にはそう聞こえた。間違いなく左衛門が言ったのだ。あの左衛門がこんな歯の浮く台詞を言ってのけたのだ。その息を多く含んだ声に陽炎は眉を顰めた。お胡夷は悪い夢でも見ているようだと、現実を受け入れまいとして両耳を手で塞いでいる。左衛門は更に刑部の幻でも見ているのか間近にいる陽炎を強引に抱き寄せ、布団の中に引き入れようとすると、

 

「――でなくば、おぬしの体じゃあ布団からはみ出よう。なに、知らぬなかでもあるまい。ウブなやつよ」

 

と、陽炎をぐぃっと抱き締め頬擦りをした。これにはさすがにしでかした事に責任を感じ、大抵の事は見ないふりをしてやろうとしていた陽炎も我慢ならなかった。

 

「わたしのどこをどう見て刑部どのと申されますか!」

 

 陽炎は叫ぶと、左衛門の頬をぴしゃりと引っ叩いた。叩かれた左衛門の頬は赤くぷっくりと腫れている。

 陽炎はそれでも痛がる素振りもせずひとりごとを続ける左衛門から這い抜けると、軽く乱れた着物を整えた。しかし、これで分かった。

 

(左衛門どのには刑部が見えておる!)

 

 そうなのだ。この左衛門、傍から見ればおかしいことこの上ないのだが、彼の目には刑部が、いうなればエア刑部が見えているのだ! というのも周囲の景色に同化してしまう刑部なのだ。今の思考の行き届かない左衛門ではここに刑部がいるかどうかも判別できず、居ないものを居ると思い込んでしまっているのだろう。こういった行動をしてしまうのもすべては強力な惚れ薬の影響だ。

陽炎は自分の用意した惚れ薬に恐怖さえ感じた。恋とは愚かになる事というが、惚れさせる為とはいえ、相手の知能をここまで退化させてしまうことになろうとは……。

 

「陽炎どの?」

 

 お胡夷が冷や汗をかく陽炎の顔を心配そうに覗き込んだ。

 

「お顔の色が優れないようですが……」

「大丈夫」

「そうですか……」

 

 お胡夷は手ぬぐいを持ち出して陽炎の額の汗を押さえた。陽炎もまさかそこまでだとは思ってもみなかった。陽炎は再び左衛門を見た。相変わらずである。……もう潮時なのかもしれない。

 

「お胡夷、怒らずに聞いておくれ……」

「なんでしょう」

「わたしのせいじゃ。……左衛門どのがああなったのは」

「え、――」

「わたしが、惚れ薬なんか使ってしまったから……」

 

 お胡夷は陽炎の言葉に目を丸くした。

 

「なんてことを……」

「許せとは言わぬ。しかし悪気はなかった……」

「そんな……」

「すまない!」

「陽炎どのは兄さまを好いておられでしたか!」

「えっ?」

「えっ?」

 

 陽炎とお胡夷に静かな間が一瞬できた。互いに重要な部分が食い違っている。陽炎はその誤解をどうにかしようとみるみるうちに沸き立ち声を荒げた。

 

「なっ、なにゆえそうなる……!」

「ならば言ってくだされば惚れ薬なんか使わなくともこのお胡夷、協力いたしましたのに!」

「違う、あれは事故で……」

「惚れ薬を間違えて他人に盛る人がどこにおりましょう、照れ隠しも大概にしてくださいまし」

「だから、左衛門どのが弦之介さまに化けていたせいで……」

「照れ隠しは結構、わたしは二人が恋仲になるのは大賛成ゆえ。しかし、その割には陽炎どのがやって来たにも関わらず、一度は大胆になりながらも、なにゆえ兄さまはあんなに無反応なのですか。女に恥をかかせるなんて男として最低でございまする」

「……それは、薬で惚れた相手が刑部どのでござるゆえ」

 

 これにはお胡夷もヒャッ、と悲鳴を上げた。

 

「それで兄様は……、合致がいきました。せっかく勇気を出して兄さまに告白したのに裏切られるなんて可哀想な陽炎どの」

「だから違うと申して……!」

 

 お胡夷は騒いでいる陽炎をよそにもぞもぞと動く兄の左衛門を見た。

今も兄は見えない刑部相手にあんなことやこんなことを……。お胡夷は突如として妹に性的交友関係をほのめかす言動を始めた兄に戸惑いやこれまで感じたこともない嫌悪感でいっぱいだった。できることなら見たくなかったと思っていた。しかし、今は違う。

 

「で、刑部どのは今あそこに?」

 

 お胡夷は陽炎に聞いた。陽炎も逃げる刑部の背中を見送ったきりだが、さっき左衛門に巻き込まれた時は気配を感じなかった。

 陽炎は静かに首を振ると再び左衛門の方を見た。すると透明な刑部越しに左衛門と目があった。

 

「あ……」

 

 うろたえる陽炎とは別に、左衛門は自信に満ちた笑みを浮かべ、居ない刑部の頭を優しく撫でた。

 

「さっきからやけに賑やかだと思うたら、観客が増えたわ」

気付くのが遅すぎだろうと言いたかったが、その意思さえ削がれる左衛門の姿と、観客呼ばわりに陽炎とお胡夷は吃驚した。だが、今の左衛門に場の空気など読めるわけがない。二人の顔色を伺うこともなく、左衛門は更に行為を続けようとする。

 

「せっかくじゃ、見せつけてやろうかい」

 

 そう言った左衛門は見たことないくらい満ち足りた良い顔をしていた。その姿を見て陽炎は思った。いっそこのまま、放っておいてやった方が左衛門は幸せなのではないか? と。

たしかに左衛門は薬のせいでこの有様だが、今の左衛門だって左衛門に違いないのである。左衛門いつもしれっとした顔でいる左衛門がこれだけ夢中になれるのだからその邪魔をするのはあまりに可哀想だ。それに刑部しか見えていない今の左衛門を今までの左衛門に戻そうと周囲に妨害される姿は、弦之介を好いているのにそれが叶わない運命である陽炎自身の姿とも重なる。人は生きているうちに趣味嗜好は変わっていくものなんのだから、左衛門も切っ掛けはどうであれ今の左衛門も左衛門として認めてやるべきなのではないか。それに左衛門が刑部と結ばれさえすれば刑部には悪いが、自分もまた左衛門を気にすることなく弦之介を思う日々に戻れ、全てが丸く収まる……。

 陽炎は瞼をギュッと閉じ、左衛門に背を向けようとした。しかし、それを引き留める者がいた。

 

「陽炎どのはそれで良いのですか!」

 

 お胡夷が陽炎に向かって叫んだ。

 

「陽炎どのは、兄さまがずっと刑部どのしか見えないままでいても平気なのですか!」

「なにを言って……」

「だって今、逃げようとしたじゃないですか」

「逃げるなんて……、人聞きの悪い」

「では知らないふりをしようとしたのですか、忘れようとしたのですか?」

「だから違うと、――」

「わたし、陽炎どのが兄さまを好きだって聞いた時はびっくりしましたが、とても嬉しかったんです。わたしにこんな綺麗なお姉さんが出来るんだって」

「だから勘違いだと何度言えば……」

「それに、兄さまだって陽炎どのを……」

「っ、――」

 

 陽炎はお胡夷の言葉に赤面させた。最後まで聞かずとも分かる。左衛門が自分を好いていたということを。 

陽炎はこれまでに左衛門を意識した記憶は微塵もなかった。弦之介に大忙しだった。しかし、左衛門の方といえば会話の中で自然を装いつつ、たまにではあるが陽炎にセクハラまがいのこと言って反応を見たりしていた。陽炎はそれをとんだむっつり助平な男と聞き流していたのだが、それも実は自分を好いていたがゆえの所業だとすれば……。

 

「わたしはなんてことを……」

 

 陽炎は肩を震わせ手で口を覆った。

 

「自分を責めないでください、兄さまだって陽炎どのにこんなに心配されてきっと喜んでおられますよ」

「お胡夷……」

「わたしには分かるのです。兄さまは陽炎どのに救われるのを心待ちにしております」

「わたしに出来るだろうか……」

「出来ます。わたしも出来る限りお手伝いいたします」

「お胡夷……」

「陽炎どの……」

 

 この瞬間、お胡夷と陽炎の間に強い絆が生まれた。――この二人が結託し、左衛門の暴走を止める……! とうとう役者が揃ったのだ。

 

「左衛門どの、――」

 

 陽炎は左衛門に足音も立てずに再び近付く。

 

「左衛門どの。先程の無礼は詫びますが、どんな事情であれ、かような貴方様は見とうございませんでした」

 

 陽炎は低い声で言った。

 

「少々痛むやもしれませぬが、我慢してくださいまし」

 

 陽炎は髪に刺したかんざしを一本引き抜くと逆手に構えた。そのかんざしの妖しく光る鋭利な先端に左衛門も身の危険を感じたのか体を跳ねさせ、身じろぎした。しかし、お胡夷がそれを許さない。左衛門が陽炎に気をとられている隙に素早い身のこなしで左衛門の手足を縺れさせ、背後から絡みつき易々と押さえつけた。

 

「離せ! お胡夷」

「兄さまの申しつけとて、今度ばかりは聞けませぬ!」

 

お胡夷は叫んだ。

 

「今の兄さまは兄さまではありませぬ。さぁ、早く陽炎どのやってしまってください!」

「左衛門どの覚悟っ、――」

 

 陽炎は切羽詰まった声を上げ、かんざしを握った腕を左衛門に振り落した。しかし、それはここに居ないはずの人物によって阻止された。

 

「刑部どの……!」

 

 左衛門と陽炎の間にはまたもや刑部が立ちはだかっていた。そう、刑部はあの時、左衛門から逃げて行ったと見せかけて姿をくらませ、大変なことをしでかした陽炎が、これからどんな動きに出るのかを気配を消し気付かれないように近くでずっと監視していたのである。状況は違えども、これで二度もまたとない機会を邪魔された陽炎は刑部の腹部から数センチ前で寸止めさせた切っ先を怒りでカ

タカタと震わせた。

 

「なにゆえ邪魔をされるか、刑部どの」

「なにも、殺すこともないだろう」

 

 刑部は一向に引かぬ陽炎に怖気付くこともなく真っ直ぐに陽炎を見た。その姿を見た陽炎は軽く舌打ちをすると、凄みを帯びた声で刑部に詰め寄った。

 

「殺す?たわけたことを、――」

「ならばそれはなんじゃ」

「……わたしたちは兄さまがこれ以上刑部どのに粗相をさせまいと考えたまで、……もとより殺す気など毛頭ございませぬ」

「なに、――」

 

そうなのだ。左衛門を二人で打ち負かそうとしているようだったが、別に殺そうというわけではない。このかんざしだってフェイクであり、実際には刀背打ちで左衛門の意識を手放させ、その間にお胡夷と左衛門を介抱する作戦であった。

 

「余計なことをしやって、たわけめ」

 

 などと陽炎は刑部を一喝した。だが、それが仇となった。その光景に気をとられ、お胡夷の力が緩んだ一瞬の隙を狙い左衛門は拘束を器用にすり抜けたのだ。

 

「しまった……!」

 

 お胡夷は左衛門が抜けたと同時にまた捕まえようと腕を伸ばしたが、相手も忍者。簡単には捕まってくれない。

 

「刑部、おまえも来い」

「わしは行かぬ」

「待ちや!」

 

 刑部へ手を差し出す左衛門を逃すまいと、陽炎は手に構えていたかんざしを左衛門の足に向かって放った。だが、仲間を貫くという一瞬の気の迷いがその命中力の妨げとなり、かんざしはむなしくも床板に軽い音を立て突き刺さった。こうして、陽炎たちは手中も同然であった左衛門をあっけなく逃してしまったのだ。

 

 

説明
バジリスクプチオンリーの際に発行致しました左衛門×陽炎本の一部です。
一部、左衛門×刑部があったりカオスですが、一応ラブコメです。
サンプル部分には登場してませんが、地虫×お胡夷要素もうっすらあります。
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バジリスク〜甲賀忍法帖〜 陽炎 如月左衛門 お胡夷 サンプル ラブコメ 

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