戦極甲州物語 拾漆巻
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 小笠原・諏訪の信州連合軍は笹尾砦に続いて中山砦も陥落させ勢いに乗っていた。笹尾砦攻略に占領軍として500を残し、続いて中山砦にも500を残して現在は7000で韮崎へと向けて進軍している。

 

「これはまた、諏訪頼重殿らしくもない。以前の武田ならばともかく、今の武田のどこに恐れを感じると?」

 

 大口を開けて笑う男を前に、頼重は必死に感情を抑えていた。どうせこの男はこうだとわかっていたからゆえだが、それでも目の端がひくついてしまう。頼重の横に控える兵もそれに気づいており、主たる彼同様に男の調子に乗る軽さを知っているからこそ、黙っていることはできなかった。

 

「恐れながら申し上げます! 少なくとも武田の伏兵が我らの背後にいることはもはや疑いようもなきことでございます! このまま軍を進めてもしもの事態ともなれば――」

「たわけ! たかが一兵卒如きが軍議に口を出すでないわ! 分を弁えよ!」

「っ……」

 

 男に睨まれ――あの武田の騎馬武者たちに囲まれ、殺気をぶつけられたことに比べれば何のことはないが――早馬の兵は黙らざるを得なかった。内心では叫び返してやりたい気持ちで溢れているが、それで自らの主の立場を悪くするわけにもいかない。ただでさえ諏訪氏は一度武田と結びついていたが故に、小笠原氏から反感を買っている。名目上とは言え、守護は守護。その名を利用したがる者たちに、諏訪を討つ口実を与えてしまうなど論外だ。

 

「諏訪殿の顔に泥を塗る真似と知れ、痴れ者め」

「…………申し訳、ありません」

「……守護殿。配下の無礼は平にご容赦頂きたい」

 

 兵が頭を下げると同時、頼重も頭を下げた。主にそうさせてしまったことを、兵は唇を噛みながら悔やむ。それでようやく満足したか、男は鼻を鳴らして兵を下がらせた。配下の兵が肩を怒らせて早足に陣幕の外に出ていく様子を見てから、頼重は顔を戻す。

 

「守護殿。改めて進言しとうございます。一度進軍を止め、中山砦にて様子を見るべきかと」

「諏訪殿。ここまで来て何を怖気づくことがあろうか。敵は我らの半分も生きておらぬ小娘ぞ? 兵力も我らのおおよそ半分の4000。加えて武田は北方の一揆勢をも敵に回しておる。さらにじゃ。北条までもが攻め寄せ、大将の若造すらおらず、兵も割くより他なく……いっそ同情すら覚えるこの状況で怖気づく理由などないではないか」

「もっともでございます」

 

 そんなことはお前に言われずともわかっているわ!

 そう叫べたならばどれだけ気が晴れようか。無理やり出兵させられているだけでも気に食わない中で、頼重の鬱憤は溜まるばかり。なれどここで冷静さを失ってしまえば終わりだ。

 

 ……そう、終わり。

 

 小笠原長時などより武田の脅威を直接受け、時には共に行動したが故に、頼重は武田を知っている。だからこそ今回の武田の動きは不可解に過ぎた。余計に慎重になるべきなのだ。

 

「しかしあの早馬が伝えた内容、これを無視するわけにはいきますまい。伏兵の存在はもはや明らか。それも精鋭の武川衆ですぞ?」

 

 軍議の席に広げられた地図。先ほどまで使っていた地図はすでに長時によって放り捨てられていた。今頃は陣幕の外で燃やされていることだろう。

 おかげで早馬が来るまで気持ち悪いくらい機嫌のよかった長時が、今や不機嫌も不機嫌。眉を寄せ、こめかみに青筋を浮かべ、貧乏ゆすりをして。こんな姿を見せるから守護としての権威も落ちる。器が知れる。此度の戦に共に出兵したことをまた後悔したくなってくるのも致し方あるまい。

 

「いざ韮崎で戦うそのときまで彼奴らの存在を隠しておけば、我らは背後から伏兵の急襲を受け、不意打ちに混乱し、武田はその隙を突くことも出来ましょうに。にも関わらず、わざわざ我らにその可能性を見せびらかしたのです。せっかくの好機を潰してまでこのような行為に出たからには、それ以上の策があると見るのが妥当というものでございましょう」

「ならば逆とてあり得る。そんな策があると見せかけ、実はもうない。目的はあると見せかけ、我らの足を止め、あわよくば撤退させようとしているのやもしれぬ。小賢しい猿知恵よ。そのようなものに恐れをなして退いたとあれば、兵力差にもかかわらず及び腰となった臆病者と誹りを受けよう」

 

 長時の意見も充分にあり得る。武田がこちらより北条を重視しているのはその兵の割き方からして明らかだ。出来る限りこちらを早々に片付け、北条に向かいたいのだろう。兵を損なうことなく、こちらを引かせられれば確かに武田の利は大きい。

 だがそれは、脅威が頼重たちだけならばだ。

 西にはまだ一揆勢という脅威を抱えている武田。信州勢だけを引かせたところで武田は一揆勢を放置することはできまい。特に、一揆勢との調停に向かったと思われる武田信廉は一揆勢に捕らえられている可能性が高い。一揆勢に接触した後、甘利虎泰と横田高松だけが数騎の兵に追われていたと報告にもあった。身内、それも当主の妹が捕らえられている。つまり、ここで頼重たちが引き上げたところで、武田軍は兵を引くことができないのだ。

 そうなると武田の利は小さい。そのくらいのことすら武田には理解できる者がいない、所詮策など真似事で武田の本質は力押しなのだ。

 ……と、そう思うほど頼重も楽観的ではない。

 

「お言葉ながら、猿知恵にしては動きが細こうございます。此度の早馬の件にしても、その早馬だけを狙ってきたようにも見えませぬか? それにあの偽の地図や帳簿にしても、甲斐をまるで知らぬ輩どころか幾度も侵攻している我らの目ですら欺くほどの出来でございました。一朝一夕に用意できる代物ではございますまい」

「偶然であろう」

「守護殿。偶然で切り捨てるのは尚早というものではありませぬか?」

「諏訪殿。貴殿こそ何にでも結び付けようとしすぎではないかな? 憶測は結構だが、策に囚われすぎるのが貴殿の短所よ。策士、策に溺れるという言葉もある」

 

 頼重自身、慎重なのは長所であり短所でもあると思っている。対極的に大雑把な長時だが、小笠原家の内紛を抑えた男でもあり、幾らなんでもこの事態に猿知恵だの偶然だの、そんな言葉で事態を軽んじる人物ではない。

 

(く……もしや武田の最大の狙いはこれか?)

 

 長時の言はもっともであるように聞こえるが、彼は頼重の方を見ず、腕を組んで顰めっ面の態度を崩さない。これは完全に人の言を聞く姿勢ではない。

 子供と侮っていた相手にここまで騙されていたことに気づくこともできなかった。それで不意打ちを食らったならば手痛いが、武田はその手を使うこともなくあからさまに馬鹿にしたように教えてきたのだ。ただでさえ、こちらより北条の方が強敵だと言わんばかりの武田の動きもあったというのに。圧倒的優位なまま進軍できるならそれに越したことはないと思って気にしないようにしてきていたのに、ここにきて精神的に上から見下ろされているかの如き状況……それが腹に据えかねるのだろう。こうなれば絶対に武田を倒さねばこの男の気は済むまい。

 信濃守護である小笠原氏。諏訪氏が諏訪の地の支配にこだわりがあるように、小笠原氏もまた信濃守護であることに固執する嫌いがある。長時はその小笠原氏の当主だ。守護として隣国の守護である武田に侮られるのは自尊心が許さないのではないだろうか。

 長きに亘り武田と信濃の勢力は争ってきた。頼重たちに対武田の経験があるのと同様に、武田にも対信州勢の経験がある。武田信繁や信玄の実力は未知数だが、武田は甘利虎泰を始めとした名将揃い。彼らならこの作戦を考えついても納得できる。いや、むしろそう考えるべきではないのか。

 

(だとすれば……甘利が追い立てられたという話も嘘の可能性が……いや、そもそもにして一揆自体が、ということさえもありえるのではないか?)

 

 一度浮かんだ疑念は次から次に頼重の中で別の疑念を生じさせ、膨らませる。

 一揆を主導するのは信虎によって殺された山県・馬場・内藤・工藤の4家。武田を恨む理由はある。しかし彼らがそれでも武田に忠義を尽くそうとしていたとしたら……?

 考えなかったわけではない。だが武田家臣団は個々の独立意識が強いゆえ、今こそ決起するというのも別段おかしいことではない。ただでさえ最近では小山田氏に穴山氏が武田と距離を置いていたこともある。穴山氏こそ信繁傘下に加わっているが、小山田氏は明らかに北条と通じている。同様に4家が武田を見限ったとしても何もおかしなことはない。

 

(まだ甲府にまでは至っていないとは言え、ここはすでに武田の領国深く。武田は韮崎に布陣してから一向に動かぬ。我らと一揆勢を共に迎撃するには、けだし七里岩により南北に分断された道が合流する韮崎に布陣するのが適当だが……彼奴らの狙いは本当にそれだけか?)

 

 一揆勢は甲府へと攻め上る様子がない。だからと言って武田も安心して兵を韮崎より先に進めるというわけにはいかないだろう。韮崎で待ち構えるのは別段不思議なことではない。

 しかし兵力差が大きく、如何に武田と言えども、次に控える北条との戦いを考えれば兵力の損失は避けたいはず。ならば策が仕掛けにくい平地を戦場に選ぶのは如何なものか。頼重たちが進軍するこの台ヶ原口は途上に中山砦を持ち、左側は急流の釜無川に七里岩の岩壁、右側は甲府の山々が広がり、大軍が大きく広がって進軍するにはやや困難な道だ。寡兵で迎え撃つにはこのような地形を利用しない手はないはず。なのに中山砦は放棄し、地形すら利用せず、平地の韮崎で待ち構える。まるで甲斐の奥深くにまで誘い込むようではないか……!

 

(考えられないことではない……ええい、先んじて手を打っておくべきであった。私としたことが……!)

 

 悪い方悪い方にいく思考。そういう予想をしていながらも頼重はここまで来たわけだが、もちろん楽観視はしていない。伏兵に気をつけていたし、本国からの連絡も欠かさず行って高遠の動向も逐一把握している。それらすべてを加味し、進軍するという長時に異を唱える必要はなしと判断してきた。

 であるにも関わらず、こうまで頼重を追い立てるのは、偏に此度の武田の動きが読めないからだ。自身がこれまで警戒してきたことさえも、武田はすべて見越した上でさらに今回不可解な行動を取ってあからさまに仕掛けてきた。自身が掌の上で踊らされている気がしてならない。

 

「……守護殿。1つ提案があるのですが」

「撤退の選択肢はない」

 

 その返答は想定済みだ。問題はここから。上手く言い回して負の印象を与えかねない言葉を避ける。

 

「もちろんです。我らとてやられっぱなしというわけにもいきますまい。目には目を、策には策で返すのです。武田の本分は野蛮な力押し。策などと小癪な手を使ってきておりますが、所詮は真似事の範疇。策というものの何たるかを教えてやるのも年長者の務めでありましょう」

「……聞こう」

 

 まずは第一段階通過だ。頼重は頑なになっている長時の関心を引いたことにまずは安堵した。

 

「武田の主力は韮崎に留まったまま。私の予想では、おそらく甲斐領内奥深くに我らを誘いこむことにあるものかと」

 

 伏兵の存在をばらした今、長時の考えが正しければ武田はこちらを撤退させたいことになる。対して頼重の考えは、何らかの罠を張ってあり、罠と伏兵による本隊との挟撃を以ってこちらを討つというところ。

 

「罠と分かっていて飛び込んでいく必要もないでしょう」

「ふん。如何に武田が精強でも小娘が率いる今、真正面から挑んでも充分に勝てよう」

「守護殿の勇猛ぶりは私とて疑いません」

 

 内心では『勇猛も過ぎれば蛮勇だがな』と指摘しつつ、頼重は自身の思い描く構図に近づけるように話す。何のことはない。狡猾な高遠頼継に比べれば長時如きを誘導することくらい、大した労力ではない。

 

「しかし武田には?鬼美濃?を始めとした歴戦の将がいることをお忘れなきよう」

「む……」

「守護殿。武田だけを見るのではなく、武田討伐後のことをお考えあれ。我らは北条と結んでいるわけではありませぬ。ゆえ、武田討伐後は北条との争いに発展する可能性があります。そのとき無駄に兵力を削ってしまっていては、北条の脅威に我らは下手に出るしかなくなります」

 

 北条は強い。

 北条と領地を接すれば、信濃の諸勢力にも影響を与えることは必至。信濃には上杉と結びついている勢力が多い。特に佐久地方の笠原氏などの勢力は上杉と懇意の関係にある。北条が甲斐をものにすれば、信濃の勢力は選択を迫られる。勢いに乗る北条か、関東管領の上杉か。残念ながら信濃の諸勢力ではこの両氏に自分たちだけで盾突くのは無理だ。何らかの外交努力は必要になるだろう。この戦国乱世の世、外交には軍事力が必ずと言っていいほど大きな影響を及ぼす。もし頼重たちの国力や兵力が疲弊していたら、そこに付け込まれかねない。上杉には長野業正、北条には北条早雲……どちらも油断のならない相手なのだから。ただでさえ国力で劣る以上、出来る限り不利な要素は排除すべき。

 

「……武田といい北条といい、忌々しい限りだ。武田はまだいい。仮とは言え、甲斐守護職にある家だ。だが北条は違う。所詮は執権北条氏の名を騙る卑しい者ども。そのような輩にいいようにされてたまるものか!」

「その通りでございます」

 

 長時が机を叩いて怒声を上げるのを、頼重は表向きは同意するように頷きつつ、口の端がつり上がるのを抑えていた。

 小笠原氏など、今や名ばかりの守護。上杉も同じようなものだが、まだ関東の勢力に影響を与える程度には権勢が残っていることに比べれば、信濃一国すらも持て余す長時よりまだまだ油断ならない。だが長時は小笠原氏が守護職にあることを誇っているし、守護職への執着もかなりのもの。ある意味、長時にとっては北条は武田以上に疎ましい存在なのだ。その辺りを突けばこう言い出すのは目に見えている。

 

「で、何とする?」

 

 自ら身を乗り出して聞いてくる長時に、この軍議の主導権を握ったことを確信しながら頼重は続けた。

 

「武田の策に乗ってやる必要は皆無。我らは中山砦まで引き、時を待てばよろしいでしょう。武田はこちらを早期に片付けて北条に当たりたい様子。ならば武田がどう動くかを見定めてからでもよろしいかと。武田の娘が軍を取って返したならば我らは追撃すればよし。動かなければ北条がどんどんと甲府に迫る……どのみち動かざるを得ないのです。されば用意した罠も伏兵も結局使えないままに終わる、という流れとなりましょう」

「ふふ、なるほどな。しかし諏訪殿はよいのか?」

「と申しますと?」

「先ほどから諏訪殿は及び腰……いや、失礼。本国のことが気がかりなのであろう? 高遠と武田が接触したとのことだからな。諏訪殿としてはできる限り早く帰国したいのではないのか?」

「これは手痛いところを突かれました」

 

 長時の言う通り、頼重としては気になる話だ。先ほどの早馬が持ってきた信濃の様子。武田の者が高遠城に入って行ったらしい。何らかの接触があったのだろう。

 もちろん無策ではない。頼継が下手に動けないように長時にはあらかじめ頼継に動かないように指示させている。名ばかりの小笠原氏だが、それでも信濃の一勢力に過ぎない高遠には面倒なことになるはず。高遠が兵を集めだしたらすぐにわかるように間者は潜ませてあるし、何より頼重は『本国危急の際には諏訪軍は即時引き上げる』ことを今回の出兵の絶対条件として長時に了承させている。

 

「そうならないためにも、我らは劣勢に立たされてはならないのです。私が劣勢下にあると知れば高遠めは動くでしょうからな」

 

 頼重は現状で頼継が動く可能性は低いと踏んでいる。連合軍・一揆勢・北条軍に攻め立てられている武田が劣勢なのは言うまでもないことであり、その武田と組んだところで高遠に利はほとんどない。武田が北条を追い返し、一揆勢を鎮圧し、信州勢を押す勢いともなれば、武田軍と組んで頼重たちを挟撃できるから組む価値もあろう。だが劣勢下の武田と組んでも、高遠はほとんど得るものがない。

 

「――よかろう。進軍を停止し、この一帯の制圧を進める。伏兵がいるやもしれぬとなれば、もう一度一帯を洗い直す必要もあろう」

「お聞き届け頂き、感謝いたします」

 

 慇懃に礼をしつつ、その奥で容易いものだと嗤う。そして頼重はもう少し欲を言っても通じるかと思い、論理を組み立てていく。

 

「では守護殿。中山砦は笹尾砦よりは大きめとは言え、さすがに7000の兵を収容できるほど大きいものでもありませぬ。ゆえ、中山砦へは守護殿が入られませ。我が軍は中山砦の麓に陣を敷き、一帯の警戒にあたりましょうぞ」

「慎重なことよ」

「此度の出兵は守護殿の意向。当然、総大将も守護殿でありますがゆえ、総大将を城の外に置くわけにもいきますまい」

「はっはっは、よい心がけだ、諏訪殿」

 

 総大将の立場にこだわりはない。長時はあるようだが。

 

(仮に撤退の憂き目に立った場合、武田に追撃などされては堪ったものではないからな。せいぜい武田の追撃を抑えてくれれば御の字よ)

 

 退路の確保は鉄則だ。伏兵の存在がある以上、退路が塞がれていてもおかしくはない。撤退時に前から伏兵、後方から武田主力に追撃をかけられたら、大きな被害は免れまい。前にだけ集中できるのならそれに越したことはない。今回の出兵は小笠原軍が5000を占める。中山砦はそれでも人数過多の状態になろう。撤退時は手間取ることになるだろうし、背後からの追撃の壁として使うには充分だ。

 

「そろそろ朝飯時です。飯の支度をさせましょう」

「うむ。食い終わったら中山砦まで一旦後退する」

 

 各将たちに伝令を送り、周知させる。

 しばらくすると長時と頼重の食事を持った兵たちがやってきて毒味を行う。長時よりも慎重に毒味をさせるあたり、性格が表れていると言えよう。

 

(にしても惜しいのは北条と一揆勢、これらと手を結べぬことよな。まったく、この考えなしの守護殿のせいで……)

 

 頼重としては北条と一揆勢と手を結べる方が断然良かった。一揆勢にはこれまで争った武田の者も大勢いるから難しいかもしれないが、北条となら一時的でも手を結ぶことは充分可能であったろう。これができれば武田を東西から挟撃することも充分可能であったろうに。

 長時はどちらとも手を結ぼうとしなかった。北条に対しては先の通りの態度であり、一揆勢にしても甲斐に侵攻して早々に小淵沢近辺で小笠原軍が火を放ってしまったため甲斐の民衆感情を悪化させてしまっており、一揆勢の対信州勢への警戒ぶりは強まってしまっていた。いちおう頼重は使者を送っておいたものの、丁重に追い返されていた。

 

「うむ、勝ちが見えた戦とあれば飯も美味い。代わりを持て」

 

 暢気なものだと頼重は小さくため息をつく。兵がすぐに代わりの飯を持ってくるがその量が少々物足りないのか、長時はもっと豪快に入れて来いと文句をつけたところ、兵は申し訳なさそうに答えた。曰く、兵糧を運ぶ荷駄隊の到着が遅れている、と。頼重はそこに割って入った。

 

「……荷駄隊は今どのあたりにいると言ってきておるのだ?」

「いえ、それはわかりかねますが」

「待て。遅れるという知らせも来ておらぬのか?」

「は、はい」

 

 頼重が茶碗と箸を置いて体ごと兵に向くと、兵は何か失態を犯したかと不安そうにする。

 

 

 おかしい。

 

 

 本国からの定時報告は当然ながら、荷駄隊にも情報連携は常に行えと諏訪軍では徹底させている。遅れているだけならまだしも連絡すらないというのはおかしい。伏兵に襲われたのか? それとも……。

 

「――急ぎ様子を見て参れ! 中山・笹尾の両砦にも使者を放ち、警戒を厳にさせよ!」

「は、ははっ!」

 

 長時が心配性だなと苦笑する中、頼重は矢継ぎ早に命令を下し、諏訪軍には即時臨戦態勢を整えるように指示。将の性格は軍にも表れるのか、小笠原兵に対し、諏訪兵の動きは機敏だった。

 そんな中、陣幕のそばにまで聞こえてきた蹄の音。大将たちの陣そばまで馬で乗り込んでくることが許されている者など限られている。頼重の予想通り、陣幕を払って入ってきたのは――背中と肩に折れた矢が刺さったままの兵だった。その様子にさすがの長時も異変を感じて立ち上がる。

 

「何があった!?」

 

 兵は跪き、痛みを堪えた押し殺した口調で告げる。

 

 

 

 

 

――笹尾砦、武田軍の急襲を受け、陥落。

 

 

 

 

 

「何だと!?」

「武田が笹尾砦に!? 馬鹿な! どこから笹尾砦へ向かったというのだ!?」

 

 武田が韮崎から笹尾砦へ向かうには、頼重たちが信濃から甲斐の中枢たる甲府へと至る侵攻路同様に3つ。頼重たちが進んできた台ヶ原口と、一揆勢が陣取っている逸見筋側、そしてもう1つは七里岩の上を通る道だ。だが最後の道も一揆勢が当然回り込んで警戒しているので、笹尾砦を落とせるほどの兵員が通ったとなれば一揆勢に動きがないわけがない。

 

「た、武田軍を率いていたのは、おそらく武田信廉かと思われます! また武田軍の中に、山県・馬場・内藤の旗も確認しております!」

「一揆勢が武田と共に動いていると!?」

「たわけ! 一揆勢が武田と和解したとでも抜かすのか!?」

「て、手前にはそこまでのことは……ただ農民たちの姿はありませんでしたので、一揆勢といっても本当に山県らの手勢のみだったようですが」

 

 陣幕の外にまで声は届いていたからか、兵たちが騒然とし始めたのがわかる。悠長に飯など食っている場合ではない。頼重が陣幕の外に見える七里岩の方に目を向けると、兵たちも同じことを思ったのか七里岩を見上げ、そして韮崎の方角を、笹尾砦の方角を確認し始める。

 一揆勢を率いていた工藤を除く3将が武田と共に動いている。それはすなわち、一揆勢が武田と和解したということ。

 いや、和解ではあるまい。

 

(和解して早々に武田と動くなど、行動が早すぎる。始めから示し合わせてでもなければ……おのれ、武田め! 一揆そのものすらも謀の1つだったか!)

 

 さすがにそれは……と先ほど思った自分を殴りつけたい気分に襲われながらも、頼重はどうすべきを考える。もちろんどうするもこうするもない。笹尾砦は甲信国境を守る砦。信濃からの侵攻上、どうしても通る道にある砦である。これを奪われたとあっては、退路や補給路を断たれたも同然。このまま進軍することはおろか、様子を見ていることさえもできる状況ではない。それらは兵糧があって初めてできることなのだから。

 

「守護殿! ただちに撤退を!」

「わかっておる! だが武田方の兵もそれほど多いわけがない……全軍で舞い戻る必要もあるまい」

「何を……!」

 

 長時の考えなどすぐにわかる。ここまで来て侵攻を諦めることなどできないと言いたいのだろう。戦という戦すらもしていないのだ。戦いもせずに逃げ帰りましたでは信濃守護として云々……なんてことを考えているというところか。

 怒鳴ってやりたい。事ここに及んでまだそんな悠長なことを言っているのかと。

 だがやめた。どうせ無駄に終わる。時間がもったいない。それならば……!

 

「では笹尾砦には私が向かいます。何があるかわかりませぬ。諏訪全軍で向かいますので、守護殿は中山砦へ」

「う、うむ」

 

 敵中に残りたいのなら好きにしろ。貴様の未練に付き合って全滅の憂き目に遭ってたまるものか。

 頼重は無言のうちに罵りつつ、陣幕の外へと向かう。

 陣幕の外では先ほどの早馬の兵が待っており、話を聞いていたのか、すでに頼重の馬をそばに控えさせていた。頷き、馬に跨る。

 

「これより我が諏訪軍は笹尾砦の奪還に向かう! 後ろには小笠原軍がいる形となるが、伏兵の存在もある。全方位に注意せよ」

「はっ!」

 

 

 

 

 

 信州勢のこの動きはすぐに武田の知るところとなる。

 七里岩より立ち上る一筋の狼煙によって。

 

 

 

 

 

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 諏訪軍が招集され、その場を発してからおおよそ半刻後。先んじて先遣隊を派遣しており、進路の安全を確保するとともに、伏兵への警戒に当たらせてあるため、諏訪軍は可能な限りの早さで笹尾砦へと向かっていた。

 

「高遠に動きはあるか?」

「いえ、そうした情報は入ってきておりません。しかし殿、本当に小笠原軍と離れてよろしいのですか? 我らが武田に勝る要素といえばやはり兵力。我ら諏訪の2000が離れれば、小笠原軍5000では……」

「わかっている。だが笹尾砦を取られた今、本国からの物資は滞り、いざというときの退路すらも塞がれたに等しい。我らの兵力は1万に近い……1万を支えるだけの兵站の確保。これは死活問題ぞ?」

「…………」

 

 最悪、敵領内で食糧を確保するという手があるにはある。だがそれはすなわち、武田領内での略奪行為。それがどれだけ民衆感情を悪化させるか……特に諏訪の家は諏訪大社を守る家。諏訪大明神を奉る諏訪の家が他国で略奪行為に及んだだのと、これがどれだけ諏訪の家への汚名へと繋がるかわかったものではない。そんな口実を諏訪氏総領を志向する高遠に与えてしまえばどうなるか。それこそ火を見るより明らかではないか。

 もちろん、これだけ策を弄した武田の狙いが信州勢の兵力分散にあったというのはもうわかる。だがそれでも、退路も補給路も失った以上、兵の士気はだだ下がりであり、この上三方を敵に囲まれてしまっているという状況が拍車をかけている。打開するには笹尾砦の奪取は必要不可欠。

 

「是非もない状況に追い込まれている。こうするしかないように我らは誘導されたのだ」

「それでも前に進むという選択肢はあるのではないですか、殿? 兵力で勝る我らがこれを活かすには、やはり敵とぶつからねば意味がありませぬ」

「我らが強引に進軍する可能性……今の武田がそれを考慮しておらぬとは思えん。いや、必ず考えている。そもそも武田の気質は正面から荒々しく戦うことだからな」

 

 強引に攻め立てれば勝ちの目はある。だが場所が悪い。ここは釜無川を中心にして左手を七里岩の断崖、右を山々によって挟まれた地形。この地形では大軍が大きく広がることは不可能であり、山や七里岩の上から攻撃を仕掛けられれば手の出しようがない。

 

「そもそもにしてこの台ヶ原口を選んだ時点で、我々はすでに武田の術中にはまっていたのだ……!」

 

 台ヶ原口の道は七里岩と山々に挟まれた、言うなれば狭い『回廊』だ。こうすることで大軍の行動を制限することが目的にあったのだろう。おそらく強引に兵を進めれば、韮崎に至るまでの道のりは左右からの奇襲の罠だらけ。この上、武田が一揆勢の民衆たちをも自軍兵力として動員していたら、もはや勝ち目はない。

 

「信じられん……これが武田の戦いか? 当主が代替わりしただけでこれほどまでに武田は変わるのか?」

 

 信じられない。その気持ちが本当に強い。長時ではないが、やはり頼重もそういう意識が拭い去れない。

 

 

 

 が、状況は信じるしかない方向にどんどんと進んでいく。

 

 

 

「長時様からの伝令です! 諏訪様! いずこに!?」

「私はここだ!」

 

 小笠原の旗を背負った兵が慌ててやってくる。その顔は驚愕に震えていた。

 

「何事だ?」

「た、武田の奇襲です! 我が軍は不意を突かれて完全に混乱! 諏訪様、助勢を!」

 

 それを聞いても別段頼重は驚かなかった。当然、予想していたことだからだ。

 だから逆に伝令兵がそこまで慌てている理由の方がわからない。諏訪軍が進発してかなり経つ。小笠原軍は中山砦に向かったはず。すでに着いていてもいいだろうに。

 

「奇襲か。しかし5000もいながら何を慌てるか。城門を閉めれば防ぐは容易かろう」

「それが! 武田は我らが中山砦に着く目前の位置で奇襲をかけてきまして……!」

「なに……!? 馬鹿なことを申すな! 武田の主力が陣取っていたのは韮崎であろう! いくらなんでも4000もの軍勢が韮崎から半刻たらずで中山砦付近まで来れるものか!」

「本隊を離れたのは先鋒隊おおよそ1000のようです! た、ただ攻撃を仕掛けてきた軍勢は明らかにそれ以上の数で……おそらくは一揆勢が混じっているものと思われます!」

「それにしても早すぎるわ!」

「夜のうちに韮崎を発っていたものかと……!」

「物見は何をしていた!? 寝てでもいたのか!」

 

 頼重の驚愕はまだまだ終わることはない。だがそれが終わるころには全てが終わっていることだろう。

 武田の反撃は、すでに始まっていたのだから。

 

 

 

 

 

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 一方、まさにその武田軍の動きに翻弄されていた小笠原軍は、完全に混乱の極みにあった。

 

「も、申し上げます! 武田軍主力が韮崎より我が方に向けて進軍してきているとのことです! ですが、その数が減っているとのこと! ?鬼美濃?の原を始め、初鹿野・秋山・諸角らの将の姿が見当たらないとのこと!」

「なぜもっと早う気付かなんだ!? 一揆が芝居だったということは、そやつらはもうこちらに向かってきているということではないか!」

「そ、それが、韮崎を発した奴らが明らかに一揆勢の方向に向かって行ったからでして……どうも地図には書かれていなかった抜け道があったらしく、迂回して回り込んだようです! 物見たちもてっきり一揆勢に急襲をかけるのだろうと思ってしまい……!」

「ぐう……! おのれ、小癪な小娘め……ならば小娘から潰してやるわ! さすれば笹尾砦を取られていたところで問題はあるまい! 将と主力を潰せば武田は勝手に瓦解する!」

「と、殿! それだけではありません!」

 

 長時の言うことも一理ある。一時的に退路と補給路を取られても、信玄の首を取り、武田の主力を潰すことができれば、如何に笹尾砦を奪われていても挽回は可能だ。

 しかし伝令の兵が続けて伝えようとしたことは、そんな長時の狙いなど分かっているとでもいうかのような内容で。

 

「一揆勢がこちらに向かっているとのこと! 率いているのは甘利と横田とか!」

「ぐぬううう……! 謀ったな、あの老いぼれ! 一揆勢に追い立てられたというのは嘘か!」

「と、殿おおおお!」

 

 さらに右側から陣幕を払って入ってくる兵。だが彼は何も言わない。恐怖だか走ってきた疲弊だかで声を出せないらしく、ただ七里岩の方を指差すだけ。

 だが、それで充分だった。

 

 

 

 

 

 七里岩の断崖の上。横一列に並ぶ旗、旗、旗――。

 武田菱に紛れる、『花菱』の家紋に『紅白三本棒縞』の旗とその周囲を守るように立つ『隅立四つ目結』――甘利家と横田家の旗印!

 

 

 

 

 

「長時様! 山の方からも何かが来ます!」

 

 逆の方角、山の方に目をやれば、砂煙を上げて何かが下りてくる。何か、などと愚問だ。この蹄の音を聞いてわからぬわけがない。

 山の中、道なき道。生い茂る草木から突然その姿を見せたのは――武田の騎馬兵!

 旗印は――教来石家を先頭に10以上の家々の旗が。

 

 

 

 

 

「「「「「かかれええええええええ!」」」」」

 

――オオオオオオオオオオオオオオオオ!

 

 

 

 

 

 家々の当主だろうか。ある者は野太い、ある者は透き通る声色で、ある者は愉快そう。だが調子に違いはあれ、彼らは先頭に立ち、一目散にこちらへと突っ込んでくる。

 

「くっ、武川衆か!」

「長時様! 七里岩の方からも武田の騎馬隊が! 釜無川を渡って迫ってきております!」

「む、迎え撃て! 迎え撃つのだ! 数は知れている! 数で押し返せ!」

 

 そう、数は知れている。少なくとも七里岩の上の甘利や横田の部隊はすぐには下りてこられない。ならば今優先すべきは騎馬隊だ。それほど数は多くない。冷静に対処すればいい。

 が、今の小笠原軍に冷静さを求めるのは……無理というもので。

 兵たちが悲鳴を上げる。悲鳴は連鎖し、恐怖と混乱を助長する。寡兵でありながら小笠原の軍中に猛然と突っ込んでくる武川衆たちの勢いと気迫に完全に飲まれてしまっていた。折しも朝飯後で気が緩まっていた最中。警戒していた外側の部隊が崩れれば中央の部隊は統制も満足に取れない状態だった。そこを武川衆が散々に突き崩し、縦横無尽に暴れ回る。

 とどめには七里岩の方から甘利隊と横田隊による矢が降り注ぐ。上からの一方的な狙い打ち。もはや狙いなど付けずとも矢の雨を降らせるだけでいいのだ。矢は長時の方にも襲いかかり、馬から転げ落ちる。長時が乗っていた馬が矢を食らい、長時の方に倒れて下敷きになりかけて。

 

「小笠原長時! いざ出会え! 我こそは武川衆が1人、教来石信頼なり!」

「あ、こら! 姉を差し置いて1人で手柄を独占しようなんて弟にあるまじき行いなのですよ!」

「早い者勝ちだ、姉上!」

「ほっほ〜う。ならば私も負けられないのですよおおおお!」

 

 そんなやり取りが聞こえると、長時は「ひいっ!?」と裏声など上げて地を這った。敵味方の兵たちの間から馬の頭らしきものが行ったり来たり。普通ならふざけているのかと怒るところだが、恐慌をきたし始めた長時にはそれすらも恐れに変わる。

 

「殿を守って砦へ引け! 急げ!」

「は、ははっ!」

 

 腰を抜かしたらしい長時を抱え起こし、兵たちは長時を別の馬に乗せる。小笠原の将は彼が逃げ出したのを傍目に、自身は馬のそばに立ったままで指揮を取る。長時とは違う。兵を見捨てて逃げてどうするのか。

 

「落ち着けえ! 敵はわずかな数だ! 隙を付け! 囲いこんで1人1人討ち取れ!」

 

 全員が立ち直るまではまだ時間がかかるだろうが、将の周囲にいる兵たちは徐々にその瞳に活力が戻ってくる。家臣たちが将を取り巻く中で、将は七里岩の方を一瞥した。

 

(甘利と横田に動きはない。この近辺に下に降りる道もないからな。矢の雨は面倒だが、奴らとて無作為に放ち続けるわけにもいくまい。混戦になればどこに武川衆がいるかわからなくなる。まさか精鋭を巻き添えにするとも思えん)

 

 せっかく沸き立つ士気を落とすような真似はすまい。信州勢が浮足立っているのは武田の勢いによるところが大きい。兵力差では圧倒的に信州勢が上なのだ。

 だが地形は最悪だ。現在、中山砦へと引き返している小笠原軍の右側には釜無川、そして前にも山より流れてきた、釜無川と合流する川が。前方と右側を川に挟まれ、左方からは武川衆の攻撃。このまま川に追い落とす気だろう。その勢い――すなわち士気が低下すれば一気に武田は押し返すこともできようが。

 とは言え。それをあの七里岩の上にいるであろう老将がわかっていないはずがない。では次はいったい何をする気か。将は憎々しげに、今一度七里岩を見上げた。

 だが彼はすぐに意識を前方に戻さざるを得なくなる。その視界に、後方の韮崎方面からこちらへと向かってくる軍勢を捉えて。

 

 

 

 

 

-4ページ-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちっ、もう始まってんじゃないのよ! ほらほら、行くよ! 気合入れていきな!」

「諸角隊は左から回り込む! 続けえ!」

「武川衆に手柄を取られちゃだめっスよ! 信繁様や信玄様たちにいいトコ見せるの! 秋山隊、突貫するっス!」

「バカヤロ! お前は右端からって手筈だろうが! 突貫は俺と原の姐さんの役目――」

「突撃いいいい!」

「聞けよ、こら!? だあもう、仕方ねえ! 初鹿野隊、右端に回り込むぞ! 虎繁のバカを援護しろ!」

 

 武田軍主力の先鋒部隊。

 彼らは小笠原軍を囲い込むように散開する。

 正面から飛び込んでいくは原勢と秋山勢。虎胤は近くまで来るといきなり馬から飛び上がり、空中で槍、それも長柄の槍をそれとは思わせない速さで振り回し、着地前に振り下ろす!

 土砂が舞い上がり、勢いで兵士たちが吹き飛ばされる。火薬を使ったかのような、地鳴りさえ伴う破壊。もはや槍ではない。あれは鈍器だ。兵たちが取り囲もうとするも、その槍を全身で回転させる! 脇腹に食らって骨が豪快に折れ、くの字になって白目を剥く兵もいれば、首を綺麗に刎ねられる兵もいる。果敢に――というか、もはや恐慌状態になって我武者羅に向かって行った1人の兵は「おっ、いいねえ! 度胸のある男は好きだよ!」と笑う虎胤が横回転から槍を振り上げ、今度は思い切り振り下ろした槍に脳天をぶちのめさたれた。頭がかち割れる……どころか、その兵は頭部が陥没し、胴体に頭部が埋まってしまうという信じられぬ状態に。

 

「ほらほら、どうしたのさ! 中山砦じゃあ、アタシを尻尾巻いて逃げたへっぴり腰だって馬鹿にしてたのは知ってんだよ! へっぴり腰かどうか試してみりゃどうだい!」

 

 長槍を肩に担いで挑発する虎胤。彼女が一歩進めば小笠原兵が五歩は退く。虎胤はその光景に愉快どころか不機嫌そうに眉尻を吊り上げた。

 

「こんのへっぴり腰が! 男なら向かってきな! 小笠原の男は肝っ玉の小さい男ばっかりかい!?」

 

 その声だけで戦意を失ったか、腰を抜かす兵もいる。それでも地を這って逃げようとする。

 これが?鬼美濃?か。まだ離れているにもかかわらず、彼女の怒声に心臓を鷲掴みにされたような圧を感じ、小笠原の将たちは言葉を失くす。

 

「むふ♪ 原様のおかげで楽々進めるわ〜」

「こやつめ!」

「危なっ!」

 

 虎胤が暴れる脇をすり抜けて虎繁は敵を蹴散らしていく。が、横合いからいきなり槍が! 虎繁は上体を反らし、刀で槍を受け流す。槍が刀を滑り、火花が散った。虎繁はほっと一息つく。が、小笠原兵はそれを油断と取ったか「その首もらった!」と叫んで再び突き込んできた。

 が。

 

 

 

「――あん?」

 

 

 

 それまでの軽快な口調はどこへいったか。虎繁は地の底から引きずり出してきたような声で、兵の槍を掴んだ。見た目は華奢な年若い少女。なのに掴まれた槍は押すことも引くこともできない。

 

「あんたさ、いま私なら簡単に討ち取れるとか思ったでしょ?」

「ひっ……!」

 

 口を突いて出たのは本能的なものだった。逆光によって虎繁の顔は影になっているのだが、赤い瞳だけがこちらを睨みつけているように見えるのだ。おまけにこのドス黒い声。兵にしてみれば、虎胤よりこの少女の方が鬼に見えた。

 

「舐めてんじゃねーわよ、雑魚がああああ!」

 

 その声に兵が怯んだと同時、虎繁は振り下ろした刀で槍を真っ二つに切り裂く! さらに槍を持ち直し、それを兵に向けて思い切り投擲!

 槍は見事に兵の首に突き刺さり……彼は折れた槍を構えた姿勢のままで後ろに倒れていった。

 そばにいた別の小笠原兵は彼の倒れていく姿を呆然と眺めていたが、馬がそばに寄ってくるのを感じて振り仰いだ……ことをすぐに後悔する。赤い瞳に見下ろされて。一瞬で体温を奪われたような寒気に襲われ。

 

「覚えときなさい! 私は秋山虎繁! ゆくゆくは武田四名臣の1人になって、そして……そして! 信繁様の嫁になる女だああああああああ!」

 

 という叫びと共に斬られた。もはや彼が最後までそれを聞いていたかはわからない。

 

「……ふう。そのためには信玄様にまずは認めてもらわないといけないからね〜。手柄上げてかないと」

「つまんねえことをほざいてねえで戦え、アホゥ!」

 

 背後から虎繁を突き刺そうとしていた兵が逆に背中から斬られて斃れる。虎繁は自身を助けてくれた相手を見やり、そしてため息をついた。とても命の恩人に向ける態度ではない。

 

「てめえな……礼の1つくらい言えよ」

「ありがとござましたー」

「嫌っそうだな、こら!」

 

 そりゃそうだ。信繁の嫁になった自分にうっとりしていたところなのに盛大に邪魔されたのだから。だが忠次にしてみれば戦場で妄想にふけるなという至極真っ当な文句があるわけで。だが虎繁には知ったことではない。言わずもがなである。そして忠次もいい加減彼女はこういう人間なのだと、もう嫌と言うほど知っている。

 

「ああくそ、何でこんな奴のお守りをしなきゃなんねえんだ……俺だって手柄を上げてえってのに」

「小笠原長時! いざ出会えええええ!」

「おおおおい、こらああああ! 1人で突っ込んでんじゃねええええええええ!」

「ふざけおって! 戦場で女の尻を追い回すたわけが!」

「ああ!? 誰がじゃこら!」

 

 やけくそ一発! 立ちはだかった小笠原の騎馬武者の顔面を拳で殴る。馬が互いに走っていて相対速度も考えれば相当な速度だったこともあり、歯が何本も折れて悲鳴にもならない呻きを上げて武者は馬から落ち、そのまま大の字で気絶した。忠次は馬を返し、そして馬を操り、武者の顔を何度も踏ませる。

 踏ませる。

 踏ませる!

 踏ませる!!

 

「俺の苦労が分かんのかてめえ!? 日々あいつのお守りさせられる身にもなってみやがれ! 俺は怠け者じゃねえ! 常日頃からあれのお守りしてんだ! そりゃ仕事なんか怠けたくもなるよなあ! 何だったら代わってやろうか!? 代わってやるよ! つか代われやおらああああ!」

「ぶがっ、ぐふっ、がへっ、もがっ、ぼへっ……!」

 

 武者の顔がもはや凹凸のない平面顔になっていく。だがちっとも気は晴れない。晴れるわけがない。

 悩みの種はこうしている間にも豆粒くらいになるほど先に行ってしまっているのだから。忠次は悪態をつきつつ、馬を走らせて追いかけるのである。

 

「皆々様、お願いですから自分の隊の指揮をしてください……まあ、こうなることはわかってましたが」

「諸角様、指示を!」

「まったく……私だってお守りなんて嫌なんですよ」

「も、諸角様!」

「ああもう! 原隊、そのまま原様の周囲の敵を仕留めよ! 秋山隊は初鹿野隊と共に敵を牽制し、一所への兵力集中を妨害! 我が隊は武川衆と共にこのまま左側面より敵を押し込め! 川に追い立てるのだ! どの隊も中心へは行くな! 行けば甘利様・横田様の両隊による矢の雨の餌食になるぞ!」

 

 3人の目立ち過ぎる将たちのおかげで虎定にはまったく敵が寄ってこない。無視されているわけではないのだが、どうにも地味すぎるのだろう。そんなこと、虎定にもわかっている。それが指揮を取る上で邪魔されないので助かるのも。信玄がそれを見越して虎定に4隊の総指揮を任せていることも。

 だが虎定は複雑な気持ちのまま。それでも実に的確な指示を飛ばしていくのであった。

 

 

 

 

 

-5ページ-

 

 

 

 

 

 『甲州擾乱・武川合戦』は、後世、武田信玄を語る上で決して外されることのない戦となる。

 『武田信玄』が歴史の表舞台に姿を現し、彼女の生涯を支える知略の高さがこの若さにしてすでに現れていた証として。

 父・武田信虎と、兄・武田信繁が起こした甲斐の騒乱を鎮めるために、彼女が描いた戦絵図がついに日の目を見た瞬間として。

 彼女こそが、真の武田の主であると。

 そして彼女のこの作戦を支えた最大の功労者である武田信廉と武田信龍、3人の姉妹の勝利なのだと。

 はるか後世に残る資料や物語にも、そうした記述がほとんどである。

 

――『私は支えられていたからこそ、あの勝利があったのです』

 

――『私たちの誰か1人でも欠けていれば、今ここに私たちと武田の家はなかったでしょう』

 

――『私は戦っていただけ。初陣ゆえの未熟ぶりを晒しながらも、武田の恥とならぬようにと必死だっただけだ』

 

 だが僅かに。

 誰が残したかも知れない。公的なものでもない。

 時に日記のような、時に歴史物語のような、とりとめのない記述。

 そこには、彼女たちが武川合戦を振り返った言葉として、こう記されている。

 

――『武川の戦こそ、私たちが初めて勝利した戦。そう――』

 

 

 

 

 

――『まごうことなき、私たち4人の、勝利であった』

 

 

 

 

 

――続く――

 

 

 

 

 

 

-6ページ-

 

【後書き】

 対信州勢方面でも反撃を開始!

 ここ最近、どうにも重い話ばかりですいません。そこでというわけではないのですが、ちょっと虎胤たちを使いました。戦の雰囲気台無しだなと私自身も思っていますが、小笠原長時が拙作ではちょっとテンプレ的なやられキャラなので、どうせやられるなら面白おかしく負けてくれと。これが信繁と綱成の戦いでやってたらものすごくドン引きですけども、まあ、相手がテンプレのやられキャラだったらマシかなと。

 ……にしても虎胤を書いているとどうしても伊達の鬼庭義直が被ってきてしまうなあ。義直は好きなので、その影響か? どこかで差異をつけていかないと。

 

 小笠原長時と諏訪頼重に関わらず、信濃の諸勢力は連合したり衝突したりの繰り返しです。武田と村上の争いは武田の信濃攻めでも特に有名ですが、信虎時代には武田と村上は協力したこともありますしね。群雄割拠の戦国時代においても、信濃は特に入り乱れが激しい地の1つだったと思われます。

 それゆえに互いの信頼関係は相当低いものだったのではないかと。所詮は一時のものであり、例え連合を組んでいたところでその連携度・信頼度は低いものだったでしょう。織田信長と徳川家康の同盟は戦国時代の中でも本当に強固なものとして知られていますが、信濃の勢力たちにそれを求めるのは無理からぬものなのかもしれません。

 

 という私の考えから、拙作では信繁と信玄たちにはその辺りを突かせました。慎重な諏訪頼重と大雑把な小笠原長時。性格が対極だからこそ連合も組み難いと。戦力の集中は信玄が師とした孫武も説いた戦略の基本です。しかし今の武田軍は分散して対処せざるをえない状態。ならば敵にも分散を促せばいい。もちろん相手もそうは分散してくれない。だったら分散せざるを得ない状況を作れ、という論法ですね。

 

 ちなみに虎胤たちが一揆勢に向かうと見せかけ、信州勢の物見(偵察)たちを欺き、迂回して敵の不意を突いたのは、『甲陽軍鑑』で描かれている韮崎合戦から採用したものです。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は夜のうちに川を越え、朝方に敵の横合いから不意を突かせたとあります。

 

 信繁と信玄が仕掛けた策はまだ続きがあります。信繁だけでなく、信玄たちにもスポットを当てつつ、甲州擾乱は中盤に入っていきます。

 ……てか、まだ中盤。話数的にいい加減終盤に入っていかないと……。

 

 また下手くそながら簡単な図を載せておきました。参考程度にどうぞ。

 

 以下は頂いたコメントへの返信です。

 

>通りすがりのジーザスルージュ様

 歴史の知識は一般より多少は、というくらいかと思いますよ。書くに当たって本やネットから時々に情報を仕入れているだけで、深い話にまでついていけるほどではありません。(苦笑)

 馬兜? ダブルですよ?(笑) 2と3の男女信春が共にいますよ? あれを被っていない信春なんてありえない!(マテ

 信繁の方も主人公ですから忘れているわけではないのです。ただ話の展開のさせ方書き方でちょっといろいろ試しているので、もう少しだけお待ち願えますか?

 

 それでは失礼いたします。

 

説明
戦極甲州物語の18話目です。
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コメント
待ちますとも、いくらでも!今回のはシリアスを台無しにしておつりがくるくらい爽快で良かったです。でも虎繁さん……それ無理ゲー乙。今のブラコン真っ只中のシスターから兄上取ろうとか……戦争ですぜ。 というか、鬼美濃は両方とも長篠まで無傷で通るのかな? それとも片割れだけなのか。信春については同意です(通りすがりのジーザスルージュ)
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