恋姫†無双 外史『無銘伝』第10話 (1)
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 劉氏伝 天下分かつ咆哮

 

 

 

 (作中、地名が結構出るので、わかりにくい場合『むじん書院』http://www.project-imagine.org/mujins/さまの、「三国志地図」http://www.project-imagine.org/mujins/maps.html内、東南部(揚州・荊州)をご参考に。)

 

 

 

 

「今日は暖かいな」

 何も無い草原、そのど真ん中で寝転がっている女の子が、楽しげに言う。

 少女は土埃にまみれてはいるが、上等な素材で作られたいかにも貴人の為の服を身に纏い、ころんと寝転がる。

 そのゆったりとした上着には細やかな刺繍が多くほどこされていた。中でも目を引くのは十二支を表す動物たちの姿だ。ネズミを背負った牛を先頭に、最後尾に豚、胸元から背中を通り足元まで、一つの列をなして競争している絵になっている。

 そのほかにも細かい部分に配慮と工夫、興趣が行き届き、一つの芸術品のようだった。

 そして少女はそれを気にかけない、よく言えば自然な、悪く言えば子供なふるまいをしていた。

 とはいえ、本当に子供なのであるから無理もないのかも知れない。

「そうですね」

 隣に立つ女が相槌をうつ。

 こちらは少女というよりは女性、というべき妙齢の娘。

 先の女の子と同じく、高貴さを示す装束を着ているが、着こなしが堅く、仕事のため、役目のための服という感じがする。

 実際、彼女自身、自分が着ている服を制服としてしか見ていなかった。

「こういう場所も悪くない。そう思わぬか蔡炎?」

 女の子がころん、と寝返りを打つ。

 蔡炎と呼ばれた女は、困ったような表情で、

「…………そう、でしょうか?」

 と首を傾げる。

 なにせなにもない場所である。

 城、町、村どころか人家も無い。

 綺麗なものがあるわけでもなく、珍しいものがあるわけでもない。

 だだっ広い草原。

 ただそれだけだ。

「長安も良かったがここも良い。ずっとここでこうしていたいくらいじゃ」

「それは困ります」

 蔡炎は、困る、と言いつつも、ふふ、と唇に笑みを浮かべた。

「そうよの。それではまわりが迷惑か」

 少女は体を起こし、立ち上がる。

「では冠を」

 蔡炎は小脇に抱えていた大仰な冠を両手で示し、少女の頭にのせた。

「と、お顔に汚れが」

 ハンカチに水をつけ、少女の顔をぬぐう蔡炎。

 少女は心地よさそうに目を細める。

 子猫みたいだ、と蔡炎は思った。

 明るい栗色の髪、毛並みの良い猫の手触り。

 十二支の争いから外れた、のんきな子猫。

 丁寧な手つきで汚れを清め終えると、少女は目を開いた。

 空色の瞳が、やさしげな光を宿している。

「月も待っていよう。馬車へ戻ろう」

「はい」

 二人は歩き出す。

「ここも良かったが、洛陽も良いところであろうなぁ」

 明るい声色は、本心からそう思っているという証拠。

「はい。陛下」

 蔡炎はかしこまって頷く。

 二人は歩く。

 乱世の都、混沌の渦中へ向かって。

 

 

 

 荊州、襄陽城――

 この地、この城にて戦いが始まって六日目。

 一見、戦いは変わらず続いているように見えた。

 孫策軍の包囲は続き、第二壁への攻撃も打ち寄せる波のごとく途切れることが無い。

 襄陽守備の劉表軍は、遊軍である黄祖軍団を丸ごと失い、反撃の術を無くした。

 それ故、戦いは一方的なものとなった。

 孫策軍の猛攻をただただしのぐ劉表軍、といった図である。

 しかし……。

 孫策軍の将、軍師は入れ替り立ち替り、戦場から姿を消していた。

 戦場を放棄して彼女たちが向かったのは、ほかでもない、襄陽城第一壁南門に設置された孫策軍本陣である。

「精鋭のみを選りすぐり、直ちに襄陽城を出立し、一路長沙へ向けるべし!」

 速攻を言う者あり。

「作戦は変えず、劉表が襄陽に軍を分け差し向けるのを待つべし!」

 待機を言う者あり。

「乾坤一擲! 全軍南下し劉表軍を殲滅すべし!」

 力攻めを言う者あり。

 大小合わせて数十策、わずか一日の間に孫策の前に示された。

 が、それらに大した差は無く、おおよそ上の三つに集約される。

「時間が無い……! どの策をとるにしても、今日明日で決めなきゃ……!」

 本陣の中心で、孫策が目を血走らせて全ての案を吟味し直している。

「これとこれを組み合わせて……必要な兵糧が……動かせる兵力が……」

 陸遜もまた策を作戦として練り上げる作業に余念が無い。

 二人とも昨日から寝ていない。

 夜を日に継いで軍師、参謀を諮問した二人は、一つの共通した結論を導き出す。

「全軍で南下するのは無理ね……」

「はい」

 孫呉全軍二万が南下したとして、北に襄陽の二万五千、南に約八万の劉表軍に挟まれれば、ひとたまりもない。

 いくら孫呉が中華有数の精強な軍勢だとしても、孫策が小覇王と称される英雄であったとしても、十万の軍に囲まれて無事でいられるわけが無い。

「かといって、ただ待機しているわけにはいかないわ」

「…………はい」

「精鋭をどうにか長沙まで送って、蓮華達が逃げられるよう道を切り開くか……!」

「軍勢を二つにわけ、一方はこのまま攻城を継続する振りをし、南方の劉表軍を分裂させ、そこに楔となる数千を突き刺す……決死の戦いになるでしょう」

「そうね……残りの、包囲を続ける部隊もまた、劉表軍を引きつけるために、逃げることは許されない。そして精鋭部隊は敵中をくぐり抜けて戦いを挑み、敵地に囲まれながら味方の脱出を図る……どちらも、決死」

 孫策は宝刀、南海覇王を抜き、その刀身に孫呉の紅い旗を映す。さながら、血刀のごとし。

「死地にはすなわち戦う…………」

 『孫子』九地篇に曰く。

 それは彼女の体に流れる、孫子の血か。

 それとも、物心ついたときから今まで、常に一線に立ち続けている戦士としての血か。

 どちらにせよ、彼女の赤い血は、戦いの時を知る。

「決戦あるのみ……!」

 

 

 同じく襄陽城、北郷軍本陣――

 

「ふうむ……」

「ううん……」

「…………ちっ」

 本陣には、孔明、厳顔、華雄、そして俺の四人がうちそろい、苦い顔をしている。

 孫策軍とは違い前線での戦いは無く、監視哨戒、兵站警護、あとは牽制程度。将軍師全員が本陣にいても、十分可能な役割ばかりなのであった。

「……撤退の準備をするべきかと」

 孔明が口を開く。

 小さな声ではあったが、それは冷たく、軍議の場に染み渡った。

「……では、準備をば」

 厳顔が起立する。

 が、すぐにはそこから動こうとはせず、ちらりと俺の顔を一瞥した。

「……待って」

 俺はこれまた小声で呼び止めた。

「はっ」

 厳顔はすぐに着席した。

「既に勝敗は決したと思います」

 と、孔明。

「ここから孫呉の勝利はあり得ません」

「だろうな」

 華雄が同意する。

「衆寡敵せず……儂も、そのように思いまする」

 厳顔も同じく。

「…………わかっている」

 俺も、それを否とは言わないが……。

「これ以上長くここに留まれば、わたしたちも雲霞のごとき大軍に巻き込まれ前後不覚、行くも帰るも難しく……」

「ついには、全滅に至る、か?」

「ここが引き時」

「待ってくれってば!!」

 結論を急ぐ三人に、つい声を荒げる。

 三人の口がぐっと結ばれる。

 がりがりと頭を掻き、そのまま片手で頭を抱える。

 がんがんと、頭が痛む。

 脳裏に蓮華の顔がちらつく。

 冥琳や亞莎の顔も。

 叫び出したくなる。呼吸が安定しない。

 目の前の何もかもを、破却したい衝動に駆られる。

 喉が渇き、水を飲み、咳き込む。

「ご主人様…………?」

 様子のおかしさのためか、朱里が俺の顔をのぞきこむ。

「大丈夫だ」

 眩む視界を、唇をかんで正常に戻し、深呼吸して心を落ち着かせる。

「孫呉を、見捨てなきゃならないか……」

 その言葉に、厳顔と華雄が目を見合わせ、朱里が困った顔をする。

 沈黙が訪れ、それが二、三分続いた後、孔明が答える。

「孫策さんは家族、重臣を失うかどうかの瀬戸際。たとえ不利でも、たとえ兵の大半を失おうとも、劉表軍との戦いを避けるはずはなく、死戦を挑むのは確実です」

「ううむ……その心、個人としては賞賛したいところじゃが」

 桔梗が天を仰ぎ、目をつむる。

「我らが同心するわけにはゆくまい」

「…………ふん」

 華雄が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「んん? 葉雄どのは何か不服か?」

「…………孫策に同情するわけでは無いが」

 眉根にしわを寄せる。

 彼女は孫策の母、孫堅に煮え湯を飲まされた経験がある。

「劉表の戦い方は面白くない。十万の兵が旗下にあれば、天下すら狙える。それがなんだ! 孫呉一つに兵を隠し、姉妹を分断して惑わせ、まともに戦おうとせん!」

「兵は詭道なりじゃ」

「分かっている! だが気に食わん!」

 ガンッ、と卓を叩く。

「…………といって、私たちにできることは……」

 と、小首をかしげる孔明。

 そして、ポンと手を叩いた。

「我が軍が捕虜とした劉表さんの親戚、劉磐さん。あの人を孫策軍に差し出し、交渉材料として使ってもらうというのは……?」

「ううむ……劉表は応じぬのでは?」

「俺もそう思うけど……でも、やらないよりはましか。あ、そうだ、その劉磐は何か情報を漏らしてくれた?」

「いえ…………尋問はしていますが、何も」

「そっか。それはそれで仕方ない。拷問とかはなしでね?」

「はい。心得てます……それでは、劉磐さんを連れて孫策さんの本陣へ」

「あ、ああ」

 それでいいのか? それだけでいいのか?

 肌が粟立つ。

 間違えれば、ここで、蓮華を、雪蓮を、孫呉の皆を失う。

 じゃあどうするんだ、ってことに答えが出せなくて、自分自身に怒りが湧く。

「お館様」

 と、顔を伏せていた俺の元に、桔梗が歩み寄ってきた。

 そして、彼女はすっと俺の手を握った。

「思うところがあるのならば、遠慮無く、お命じ下さいませ。我らはお館様の臣下、そして同胞……仲間ではございませぬか」

「そ、そうです……! ご主人様の、そんなお顔、見たくありませんから……!」

「……二人とも」

 胸が苦しくなった。

 これは、なんだろう。

 感動?

 違う。

 もっと後ろ暗い……。

 心の痛みを抱えたまま、孫策軍本陣へ向かった。

「ああ、北郷」

 取り次ぎの兵を通して来着を伝えると、わりとすぐに面会がゆるされた。

 本陣には俺のよく知っている四人、すなわち、孫策、黄蓋、陸遜、甘寧が揃っていた。

 どうやら今は周泰、韓当、程普が城攻めにあたっているようだ。

「こちらから呼ぼうと思っていた所よ」

 孫策は、目元にうすく隈ができてはいたが、想像より疲弊してはいないようだった。

「そうだったのか。邪魔じゃ無いなら良かったよ」

「北郷軍に、孫呉を除く軍の襄陽撤退を主導してほしいの」

 早口で雪蓮は用件を告げた。

「必要な船や物資はこちらで用意するわ。ただ、人員は割けないから、先に撤退路を確認しておいて。資料は、と……地図は悪いけど書き写してくれる?」

 矢継ぎ早に言う孫策。

「襄陽から撤退するのか……!?」

「あなたたちだけね。私たちはギリギリまでここで戦うわ」

 と、こちらを見たまま、無意識なのか意識的なのか、卓上に広げられた地図の襄陽あたりを指で叩く。

「ここでということは、孫権さんたちがいる南部に兵は送らないのですか?」

 朱里の質問に、孫策は黙り込む。

 誰一人、口も体も動かさず、静寂に場が包まれる。

「…………良いのでは無いか。この者たちになら」

 黄蓋が言う。

 そしてその言葉に、甘寧も陸遜も反対はしなかった。

「……そうね」

 孫策も同意した。

「諸々含めて、二千。敵の網目を通せるのはそれが最大だと判断したわ」

「二千……!?」

 決して多いとは言えない。

 なにせ南には八万の劉表軍が控えているのだ。

 四十倍の敵。それはとても真正面から戦える数では無い。

「率いるのは甘寧と周泰。……二人に、敵への奇襲と足止め、そして長沙の味方の脱出を図ってもらうことになる」

 視線を甘寧に向けると、彼女は、いつも通りの……いや、いつも以上にキツい眼差しで、こちらを見返した。こちらに悪意があると言うよりは、戦意に溢れているという感じ。

「勝算……いや、成算は、あるのか?

 訊くと、雪蓮は目を細めた。

「厳しいわね」

「……厳しいのは百も承知」

 甘寧が小さく呟く。

 彼女からしてみれば、主である蓮華の危機。

 自分の命など二の次なのだろう。

「こっちはこっちで、少しでも多くの劉表軍を、少しでも長く引きつけねば……」

 黄蓋が弦を引き絞った弓のような、張り詰めた声で発言する。

 北と南。どちらも死戦。

「…………そうなると、俺たちは役に立てないか」

「そうね。さすがに、巻き込む気は無いわ」

「……それに、こちらの捕虜も足しにはなりそうにないです」

 と、孔明。

「捕虜?」

「ああ。昨日の戦いで、黄祖の副将を捕虜にしたんだ」

「劉表の親族で、劉磐という将です」

「劉表の、親族……?」

 ピタ、と雪蓮の動きが止まる。いや、元々、卓子をトントンする指以外動いてなかったけど。

「交渉の材料になるかなと思って」

「ふむ…………どうかしら? 伯言」

 話を振られて、陸遜が顎に指をそえ、一秒二秒考える。

「可能性は……あるかもしれません。しかし、となると劉表のいる南に連れて行かないとなりませんね」

「劉表は襄陽にはいないの?」

「南に八万もの軍勢がいるなら、襄陽に籠もってはいないかと」

「なるほど…………」

「加えて言えば、劉表と交渉するなら、もう一人こちらから送らなければならないですね」

「あー……そうか……」

 雪蓮が苦笑する。

「思春と明命じゃ……交渉できないわね」

「魯粛ちゃんあたりに任せましょうか〜。行軍がちょっとだけ遅くなりますが」

「そう…………ね……」

 雪蓮の歯切れが悪い。

「……?」

 一同が彼女の顔を見る。

「絶対駄目ですよ孫策様」

 陸遜だけは孫策の内心を理解しているのか、眉を顰めた。

「…………可能性を僅かでも上げるなら、私自ら行くのが一番……」

 本陣がどよめいた。

「な、なにを……!」

 黄蓋は、手傷を負ったかのような、苦しげな顔になった。

 隣の甘寧も、珍しく主君に何か言いたげな表情をしている。

「交渉するにしても、奇襲するにしても、私が一番うまくやれる……!」

「馬鹿なことを言うでないわ!!」

 今度は怒りを露わにし、卓を両手で叩く黄蓋。

「お主は孫呉の王なのだぞ!? 賭けに使う駒ではない!!」

 祭の迫力に気圧されながらも、雪蓮は口をつぐむことは無く言い返した。

「蓮華は次の王になる子よ!? 次代の命を守るためには、当代の命を賭けなきゃならない! 君主さえも駒になることが、必要とされているのよ!」

「だからといって……! ……主を……むざむざ、死に向かわせるようなことを……」

 目に見えて分かるぐらい、祭はショックを受けていた。

 孫呉は一度、主を失っている。

 孫堅。江東の虎と呼ばれた、雪蓮や蓮華、小蓮の母。

 大陸を所狭しと駆け回り、戦い抜いた女傑。

 黄蓋はかつてその孫堅に仕え……そして、その死を経て、今孫策の下にいる。

「の、穏……! 止めろ……!」

 諫言するはずの黄蓋がどんよりと沈んでしまい、慌てて甘寧が陸遜をつつく。

「ええ〜? 難しいですよ〜」

 ちょっと泣きそうな顔をする穏。

「異議が無いようなら、この線で進める。いいわね?」

 孫策がたたみかけるように会議をまとめにかかる。

「ぃ……」

 異議あり!

 とは、部外者の口からは言えないな……。

 ちら、と俺は陸遜を見る。

 朱里や、他の将たちも同じく、彼女を見る。

「な……なんで皆さんわたしを見て……はぁ」

 陸遜はため息をつき、観念したのか、顔つきを引き締めた。

「孫策様」

「なに?」

 小覇王は下手なことを言えば、ただではすみそうにない殺気を放っている。

 その中を、陸遜は諫止のために口を開いた。

「軍師として、進言させて頂きます」

 陸遜が、孫策と正対する。

「確かに、交渉を有利に進めるなら、孫策様が直接劉表と対面する方が良いでしょう。少なくとも、会談の場につける可能性は高いです。ですが、それでも交渉が不首尾に終わったら、どういたします?」

 軍師の問いに、孫策は即座に答えた。

「派手に暴れて引きつけて、その隙に甘寧と周泰を動かすわ。劉表軍の力を分散させられれば、長沙からの脱出も少しは容易に――」

「劉表が野陣では無く長沙から離れた城に本陣を置いていたらどうするんです? 暴れ回るのはいいですが、人は混乱したとしても城は混乱しません。今の状況で城壁一つ越えるのにも数日の時間がいるのに、より不利な状況で何ができるでしょう?」

「っ……、なら、長沙の劉表軍包囲陣に突っ込んで、急所を露出させる。そこに蓮華たちが突入すれば、万の敵でも道が開け――」

「それをやるのは思春ちゃんと明命ちゃんです。そのような作戦は、二人が最も優れているからこそ、抜擢したのでしょう? まさか、本当に、奇襲でも思春ちゃんや明命ちゃんに勝ってるとお思いですか?」

 ぐっ、と孫策は言葉に詰まった。

 そこへさらに、

「……付言すれば」

 と、甘寧が控えめに申し添えた。

「私と明命の二人ならば、どちらか片方が作戦中窮地に陥ったとしても、独力での打開を想定して、もう一方は作戦を継続することができます。しかし、孫策様が危機となれば、話は違ってきます」

「私が……見捨てろと、命令しても?」

「………………雪蓮様が蓮華様を見捨てないのと同様、孫呉旗下全ての将は、雪蓮様を見捨てることはできません」

 その言葉に、雪蓮は俯いて唇をかんだ。

 本当はわかっているのだ。

 雪蓮も。

 合理的に考えれば、思春と明命に任せて、雪蓮はここで戦った方が良い。

 それが、雪蓮、蓮華、二人とも生き延びるための、最善の道だ。

 けれど――

 

「後悔したくない……」

 誰にも聞こえない声量で、呟く。

 それは、俺の言葉だったのか、それとも雪蓮の言葉だったのか……。

 

 手の届かないところで、大切な誰かが死んでいくこと。

 そんな理不尽を。

 味わいたく無い。

 たとえ手が届かなくても、それを理由に諦めたくなんてない。

 そう思った。

 自分にできることを、全てやり尽くしたい。

 そう感じた。

 だから――

 雪蓮の気持ちが痛いほど俺にはわかった。

(自分に、できることを――)

 やる。

 やり尽くす。

 俺は、心の中で一歩踏み出して、今まで踏み入れなかった境界線を、越えた。

 さっき感じた心の痛みがやわらぎ、かわりに、茨の道を素足で突き進む意志が、芽生えていた。

 

 

「では…………軍使は、魯粛ちゃんに任せるということでよろしいですね?」

 時間を十分にあけて、陸遜は確認した。

 無言の君主を前に、常人なら逃げ出したくなる空気の圧力をはねのけて。

「…………それでは、作戦は先ほどの通り。細かい点は明命ちゃんが来た時に通達します。ひとまず解散を――」

「ちょっといいかな?」

 俺は手を上げた。

 視線が一斉に俺に向けられる。

 朱里が、また俺が突拍子も無い提案をするのではと恐れ、俺の顔を見る。

「甘寧達が出発するのはいつぐらいになりそう?」

「ええと……、そうですね……準備もありますし」

 陸遜が計算し、

「明後日の夜明け前……になると思います」

「そっか。それじゃ、それまでに劉磐を連れてくるから」

「は、はい…………それだけですか?」

「うん」

 頷いて、俺は立ち上がった。

「え、ご、ご主人様?」

 孔明もつられて立ち上がり、そして、そのまま俺が孫策軍本陣を退出するのを見て、それについてきた。

「あの…………あれで良かったんでしょうか?」

「良くない」

 良いわけが無い。

 こんな事態になった理由や原因はいくつかある。

 劉表がだまし討ちのような形で孫策軍を二分したというのが第一だが、孫策軍側にも非がある。

 孫策軍が劉表を侮っていたこと。

 劉表軍の質を低く見積もり、それに重ねて、数まで見誤った。

 それはおそらく、孫策一人の責任とは言い難い。周瑜や陸遜ら軍師の読み誤りもあったのだろう。

 孫策軍全体としての行動が、初手から失敗していたのだ。

 

 だがしかし、それらとは別次元の問題として、俺の失敗がある。

 

「朱里。葉雄……華雄と厳顔を呼んでくれる? それと、人払いを」

「は、はい!」

 北郷軍本陣近くになり、俺は孔明を先行させた。

「はぁ〜……ふぅ……」

 一人になって、深呼吸する。

 そして、数分前に決めた覚悟とともに、前を見る――

 本陣、軍議の間には、北郷の十文字旗と、劉備の劉旗が掲げられている。

 それを見つめても、覚悟が揺らがないように、歯を食いしばり、拳を握り固めた。

 

 

 

「……おっしゃってる意味が……よくわかりません」

 朱里が混乱した目で俺を見上げた。

 三国有数の軍師である孔明がわからないとなれば、他の二人はもっとわからないだろう。

 案の定、華雄と厳顔は、首をかしげたり、うなったりを繰り返していた。

「ご主人様が未来から来た、ということは、知っていますし理解もできます」

「うむ……」

「……まぁな」

 三人の共通認識はそこで止まっているようだった。

 この世界の人たちの北郷一刀に対するイメージは、「天の御遣い」という噂がはじめにある。

 だから、その正体が「未来から来た人間」である、というのも比較的受け入れられやすい。

 事実、それを説明した劉備軍の中枢メンバーはそれをすんなり受け入れているし、他の勢力である公孫賛や賈駆も、ひとまず納得はしてくれていた。

 厳顔や華雄もまた、そこに不審を抱いているふしはない。

 が、ここに、またさらに複雑な事情が加われば、どうだろう?

「時間が繰り返されている……というのは……?」

 そう、今の俺には、未来から来たことによる歴史知識だけでなく、この地この場所で、彼女たち、三国志世界の住人達と過ごしたという、経験、記憶がある。

「たとえれば……死んだ後に、また生まれたときからやり直し、みたいなものかな。知識とか経験を引き継いで」

 実際には、ループする直前に、俺が死んだのかどうかはわからない。

 あの悪夢が、本当の意味でどう終わり、今ここに至ったのか、俺は知らないのだ。

「俺には、皆と一緒に、この世界で生きた記憶があるんだ。まだ、朱里たちとは数ヶ月、桔梗や華雄たちとは一ヶ月ちょっとしかたってないけど……もっと、もっと長く共に生きた思い出がある」

 そしてそれは、

「桃香たちとだけじゃない。曹操や、孫策達とも」

「……え」

 朱里が、ぽかんと口を開けた。

「俺は…………彼女たちの真名を知っている」

「なんだと……!?」

 華雄が立ち上がり、眉をつり上げる。

 真名は、本当に親しい者のみが知り得る名前だ。

 家族以外でそれを知っているということは、一言で言えば、身命を預け合う仲間であるということだ。

「それは……お前! わかっているのか!? 内通していると言っているようなものだぞ! その、るーぷ? だかなんだかわけわからんゴチャゴチャを理解するより、そっちのほうがわかりやすいのだからな……!」

「華雄さん……!」

 朱里は咎めるが、華雄の言を否定することは無く横目で俺を見てくるのは、おそらく俺自身に否定して欲しいんだろうと察した。

「それは違う、っていっても単に否定するだけじゃ駄目か……ええと……」

 証明の手段を考える。

 しかし、そんな気軽な手段は無くて、うむむ、と腕を組む。

「じゃあ……そうだな、俺がもし、曹操に通じていたとしようか。本当は違うけど仮にね? で、その俺が、その曹操たちの敵対勢力、董卓側にも通じている、なんて思う?」

「はあ? 董卓にって……何を馬鹿なことを」

 華雄は元董卓軍出身であり、その内情をよく知っている。

 だから、俺という人間が、董卓やその周囲の人間と接触が無いということを、知っている。

 が、しかし。

「ま……まさか、ご主人様?」

 朱里が目を見開く。

 彼女には俺がこれから言おうとしていることが一歩先に分かったのだろう。

「じゃあ、俺が、董卓や賈駆、呂布、陳宮、張遼の真名を知っているとしたら、どう思う?」

「はぁ!?」

 華雄は唐突な告白に、驚愕の色を浮かべた。

「そんなことがあるわけないだろう! 一人ならまだ有り得るが、その全員の真名など、それこそそいつら自身と私ぐらいしか知ってなど……!」

 華雄が混乱する中、桔梗が、ふむ、と頷いた。

「……つまりそれが、今の儂らが知らぬ、お館様だけの、儂らとの記憶ということですか」

「……うん。厳顔なら……黄忠や魏延の真名で、証明になるかな」

「む…………いや、その言だけで十分。まさか魏延の名が出るとは思わなんだ」

 片眉を上げるだけで、動揺の色は心中に隠す厳顔。さすが人生経験豊富。

 魏延はいまだ一度も顔も名も出てきていない。厳顔が俺に話をしたことが無いのだから、名前すらここで上がるわけが無いのだ。

「あ、そうだ。魏延は今どこにいるのかな? 桔梗とペアというか一緒にいると思ってたんだけど」

 桔梗はなんとも形容しがたい顔をしたが、やがて事情を消化したのか、いつもの涼しげな表情をつくり、

「荊州と蜀の境で様子を窺わせております。益州牧、劉璋の幕下にいたのですが、どうにも……不穏な気配がしたもので、荊州の知人、黄忠を頼り、事態を静観していた次第」

「そうなのか……やっぱり蜀のほうも長安と同じく何かありそうだね」

 その事も気になるが、今はもっと重要なことがある。

「華雄」

 ちょいちょい、といまだ混乱おさまらぬ様子の華雄を呼ぶ。

「……なんだ」

「さすがにこの場で、許しも断りも無く真名を言うわけにもいかないからさ。多分こっちなら問題も無いだろうし……呂布が飼ってる犬いるだろ? たくさんいるけど。そのなかでも一番かわいがってる子、その子の名前なら言っても良いと思うんだ」

「…………それは……たしかに、呂布に聞いた覚えがあるが……私でも真名を教えるぐらい近しくなってから知った名前だ……。お前、本当に知っているのか?」

「セキト、だろ?」

 それは本来なら呂布の愛馬の名前だ。だがこの世界では犬だったりする。

「っ…………!」

 華雄は膝を折り、将几に座り込む。

 それだけで、俺の記憶に齟齬が無いことが察せられた。

「納得……できたかな」

 反応を確かめるが、すぐには誰も何も言わず、やがて、

「わけがわからなくとも、証拠が示された以上、納得せざるを得ませんな」

 厳顔は割り切りが速かった。さすが年の功……とは口が裂けても言えない。

「そうですね……」

 孔明も、噛み砕ききれなかったようだが、飲み込めはしたようだ。

「それに私は、それを今打ち明けたご主人様の意図のほうが気になります」

 と、朱里はじっと、俺の目を真っ直ぐに見据えた。

「ああ……そうだよね。それを説明しなきゃ」

 改めて呼吸を整え、話を始める。

 今まで、自分でも整理しきれていなかったことを、心の奥底に固まった夢の残滓を、彼女たちに全てぶちまけた。

 慎重に、言葉を選びながら、けれど隠すことのないように。

 これまで、一人で抱えていたものを、一緒に支えてくれることを信じて――

「――ということなんだけど」

 すごく長い時間がたった気がする。

 自分の後悔を、悔恨を、悲憤を、全部をさらけ出して、並べ直して、ひとつの物語としてちゃんと通じるように、語り尽くした。

 三人は、ほとんど身じろぎすらせず、聞き役に徹してくれた。

「この世界の皆が敵と味方に二分され、戦ってしまう……」

 それはとてつもなく凄惨な地獄絵図だ。

「……その悪夢が、お館様が今ここにいることの因果だと」

「多分ね。俺もなんでこんなことになっているのか、推測しかできていないんだ」

「ふうむ……」

「……」

 重い沈黙。

 4人分の、分厚い無言の時間。

 それが永遠のように続く。

 ――駄目、なのか?

 伝わらなかったのか?

 絶望の予感に、足元が底なし沼のように頼りなく沈んでいくような気がした。

 体の中に流れる血が、ゆっくりと冷えてゆく。

 

 ――――また、俺たちは同じ運命を辿ることになるんじゃないか――――

 ――――仲間だった人を、親しかった人を、想いを通わせた人を――――

 ――――自分の敵として、争い、戦い、倒し、そしてそれで……――――

 

 目の前が真っ暗になる。

 何も見えなくて、恐くなって、手をのばす。

 何かが手に触れた。

 俺はそれをつかみ、握り、引き寄せる。

 カチリ、と鍔鳴りの音。

 暗闇を斬り裂いて、刀の白刃があらわになる。

 直感で、自分の持っていた無銘刀なのだとわかった。

 闇の中にぽっかりと浮かぶ刀身。

 光の中では目立ちにくい、たいした特徴も無い刀。

 なだらかに反った峰。遊びも働きも無い刃文。

 彫刻どころか銘すら無いのは、作るのに思い入れも無く、使うのに愛着も無かった証拠。

 それでも輝き続ける刃は、主張する。

 斬ってみたい、と。

 私に名が無いのならば、せめて――

 

 名のあるものを斬ってやりたい。

 と。

 

「――ご主人様!!」

 悪夢の端に足を踏み入れた瞬間、暖かな声に、一気に引き戻された。

「なにをまたこの世の終わりのような顔をしている?」

「まだ取り返しのつかないことになったわけではありますまい?」

 左右からも、俺を暗がりから掬い上げる声。

「整理すると、私たちの最終目標は、各勢力の分裂を避けて、和合を達成すること……で良いでしょうか」

 と、孔明。

「難儀なこった。ま、今の話ほど難しくは無いがな」

 と華雄。

「しかし、お館様と桃香様ならば、やってやれぬ事は無いのかもしれませんな」

 ふ、と唇に笑みを浮かべる厳顔。

「三人とも……その、今の話……信じてくれたの?」

 俺は、呆けたように、三人の顔を何度も左見右見する。

「ふん。理解はできなくとも、信じてはいてやる。それでいいだろう?」

 華雄が髪をかき上げて言う。

「将は手足ゆえ、お館様の悩み全てを理解することはできませぬが、悩み抜いた末の意志は、必ず我らが実行いたしましょう」

 厳顔が請け負う。

「時々、様子がおかしいと思っていました」

 そして最後に朱里が口を開く。

「一人で思い悩んでいたんですね……」

 小さな手が、俺の手に添えられる。

「私たちが想像もできない――暗闇の中で」

 朱里のその言葉に、俺じゃ無くて、刀が応えた。

 かすかな震え。

 突然の陽射しのまぶしさに、瞼を閉ざして顔をそらすように、刀は不気味な動きを止め、大人しくなった。

「で、これからどうしたいのだ? お前は」

 さっきの幻覚はなんだったんだろうという疑問は、華雄の問いでかき消された。

「ああ……ええっと、そうだな……」

 やるべき事を整理する。

「まず、孫権を救出したい。俺の知識から言うと、今の事態は本来の流れから外れているんだ」

「お館様の歴史知識から外れていくことが、修羅場を生むことになるのですかな?」

「それもあるでしょうが、ご主人様の知っている状況の方が、対処しやすいというのもあるのでは?」

「そうだね。できる限り、歴史の流れは曲げない方が良い……と思う」

 多分だが。

「今までは、自分の知識と記憶だけで、なんとかしようとしてきた。でも、この抜き差しならない現状がある……。やっぱり、1人じゃ駄目だって思ったんだ」

 朱里が、重ねただけの手を、指を絡めて、つないだ。

「頼ってもらえないなら、軍師も将も意味が有りません…………これからは一緒に、戦わせて下さいね……?」

「ああ……ありがとう」

 俺の方からも手指をからめ、握る。

 小さく柔らかな朱里の手が、とてつもなく強く頼もしく思えた。

「それでは、孫権さんを助けるために、策を練るとしましょうか」

 三国志における最も有名な軍師、諸葛亮、孔明。

 北郷一刀の、本当の意味での軍師として、戦いを始めるときが来た。

 奇しくも、本来の三国志における、劉備との出会いの地で――。

 

 

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 猶予は一日強。

 それしか時間は無かった。

 俺も、孔明も、厳顔も、華雄も、準備に忙殺された。

 なかでも孔明は、右手で文書を書き、左手で資料をめくり、それを目で追い、口頭で指示を飛ばすという並行作業を長時間こなしており、休む暇も無いようだった。

 俺は俺で、孔明の策に合わせて、指示書を書いたり、呉の将に会ったり――

「ばっかじゃないの!」

 賈駆に罵られたりした。

「孫権を助けにいく!? 長沙まで!? 正気じゃないわ!!」

 バンっ! と机を叩いて、メガネを光らせる

 曹魏の陣中、俺と賈駆は1対1で対面していた。

 二人きりで話したかった俺は、蔡炎の事について、と偽って、他の人を遠ざけてもらった。

「馬鹿っ! 大馬鹿っ!!」

「ちょっ……! 詠っ、落ち着けっ……! わっ!? 物は投げるなって! それ武具だからっ!!」

 メガネだけじゃなく金物が頭上で煌めき、慌てて飛びついて詠の腕をつかんだ。

「〜〜〜っ!?」

「いてっ!?」

 どんっ!

 片手を掴まれた詠は、もう片方の手で俺の胸板を叩いた。

「いたっ、痛いって!」

 一発ならともかく、何発もやられたので、さすがにもう片方の手もキャッチして、おさえた。

「……!?」

 当然ながら、両手を手で押さえられる距離というのは、超至近距離である。

 そして俺は真正面から詠に飛びかかった。

 必然、顔は正面に来る。

 俺と詠の顔は、お互いの息がかかるぐらい近くにあった。

「っ……」

 詠が息を呑む。

 俺も、息を……というか、唾を飲み込む。

 その音に反応して、詠は、ぱっ、と頬を赤らめた。

 じたばた抵抗していた手足が、きゅっ、と縮こまる。

「は……ぁ……っ」

 息が、かかる。

 詠の吐息は、病にかかったように熱くて、それを吸い込んだ俺も、瞬時に体中に熱がまわったようで、何も考えられなくなってしまった。

 詠も俺も、前にも後ろにも体が動かず、ただ、目線だけが互いの顔のあちこちをふらふらとさまよっていた。

 眉、目、鼻筋を通って、唇。

 おとがいから、華奢な首筋、そこから下へはここからでは見えない。

 だからまた上へ戻って――

 目が、ぴたりと合う。

 彼女の目は、ちょっと鋭くなっていて、怒りの色が見えた。

 しかし、

「ど……どきなさいよ……っ」

 声は、怒りというより、焦りのほうが強いように聞こえた。

「ご、ごめん!」

 金縛りのようになっていた両手に力を入れて、詠の腕を離す。

 磁場から解放されたかのように、体が自由になった。

 一旦詠に背中を向けて、呼吸を整え、振り返る。

 詠もまた、反対側を向いて、気持ちを切り替えようとしているようだった。

 耳まで紅くなった詠の横顔と、そこからすっと伸びる白いうなじに、また鼓動がはねそうになって、もう一度視線を外した。

「…………孫策が何か焦ってることと、孫権や周瑜がこの戦いに影も見えないことはわかってた」

 やがて態勢をたてなおして、いつもの声色で詠が話を切り出す。

「劉表軍がそこまで兵力を増強していたなんて思わなかったけど……。十万の兵力なら、孫策軍どころか、背後の袁術軍まで呑み込めるかもしれないわ」

「それをしないのは……さらに後ろに黒幕がいるから、かな?」

 董卓を陥れ、袁紹や袁術を影で誘導していると思われる黒幕。

 いるかどうかもわからない、単独か、複数かも分からない、混沌の正体。

「それもあるけれど。劉表が比較的慎重な性格っていうのもあると思う。大兵力の移動は、時に自分を滅ぼしかねない澱を産むわ。兵站の問題や、将兵の統率の問題……小勢の時には気づかなかった色々ね。劉表はその手の賭けをする人物じゃないんでしょ」

「…………そうだな」

 三国志における劉表は、荊州に留まり続け、大きな戦いに飛び込むことがほとんど無かった。

 であるならば、荊州を脱出すれば、追撃は無いと考えて良いのかも知れない。

「でも、慎重だからこそ、内部の懸案は徹底して潰そうとするのかしらね」

「うん……このままだと、孫権たちはすり切れるか、玉砕するしかない。だから、助けに行こうと思うんだ」

「…………ばっかじゃないの」

 詠はさっきと同じ言葉を、さっきと違う落ち着いた声量で言った。

「そうかもしれない」

 俺は頷いた。

 正直、見通しは暗かった。

「できれば生きていて欲しい、っていう程度の心配なら、私でも分かるけど……」

 詠にとって、俺と孫権の関係は知人レベルだと思っているのだろう。

 実際は、孫権の方は俺のことを、友人ぐらいには見てくれているだろう。

 そして俺は、彼女を…………。

「第一、あんたが行ってなんになるのよ……なんの足しになるのよ?」

「まぁ……それは、その……何かの?」

「ばか」

 今日何度目かの毒舌。ため息混じり。

 詠は心底あきれているようだった。

「あんたが節操ないのは知ってたし、あんた自身が言ってたから、ありえる選択肢だとは思うけど…………まったく勧められないわね」

「詠に言われると重いなぁ」

「というか、諸葛亮は止めなかったの?」

「う〜ん…………、一応、護衛が強いからね」

「護衛って……ああ、華雄?」

「ああ、華雄と、それと厳顔」

「……え。ちょっと待って。劉備軍が今回遠征に連れてきたのは、その二将とあなたと諸葛亮だけじゃないの?」

「うん。将軍級はその2人かな。副将はちゃんといるけど」

「じゃあ、残るのは諸葛亮だけじゃない! どうすんの!?」

「孔明は大丈夫だって言ってるから、信頼できると思う」

 朱里はできないことを言うタイプでは無い。

 実際三千の兵力を統率するぐらい、朱里ならできるだろう。

 何せ後には蜀漢をほぼ1人で支える軍師だ。

 今は劉備や関羽という名前の後ろに隠れてはいるけれど。

「というより、朱里がいるなら俺がここにいる意味が無いぐらいだよ」

 孫策と俺との違いはそこだ。だからこそ、微量でも戦う意味のある場所に行く必要があるし、そうしたい。

「ここでだけじゃない。許昌でも、朱里がいたら俺は必要ないし」

「………………そんなこと、ないわ」

「え?」

 抑え目になっていた声がさらに小さくなって、俺は聞き返した。

「…………ふん。いきたいなら、いきなさいよ……!」

 詠は口を尖らせた。

「協力はさすがにできないわよ。3000から割ける将兵なんてこっちにはないんだから……私だって……月のことがあるし……」

「うん。それはわかってる」

 そう言うと、若干、詠は不満そうな顔になった。

 俺は何か変なことを言ったかと思ったが、詠が口を開かないので、

「頼みがあるんだ。一つは、撤退の時、他軍をまとめてもらいたい事。あと一つは……」

 と、あらかじめ書いておいたメモを取り出す。

「これを、お願いしたい」

「……なに?」

 差し出されたメモを受け取り、一度俺の顔を見た後、メモを開く。

「…………これ」

 全て読み終わり、また俺の顔を見る。

「そうか……未来から来たって言ってたわね。私たちの最後も、知っているって事か……」

 俺は黙って首を縦に振った。

「つまり、私にこれをどうにかしろって事?」

「できる範囲でいい。直近で言えば、典韋とか……呂布とか陳宮かな?」

「それは私も頑張るけど……これ、袁紹軍とか袁術軍も含まれてるわね」

「…………できたらお願い」

「無茶言う……」

 眉をしかめ、メモにもう一度目を落とす詠。

「…………即断できる内容じゃ無いわね。何度も言うけれど、私はただの、曹操軍の参謀の1人に過ぎないんだから」

「詠なら、曹操軍全体を指揮できるぐらいの軍師になれると思うけど」

「なによその突飛な想像は……諸葛亮と同じかちょっと下ぐらいには、信頼してくれているわけね」

「うん」

 間を置かず、肯定する。

 その即答に詠は目を見開き、頬を掻く。

「真名を預けたとはいえ、素直すぎよ……ほんと。騙されたらどうする気?」

「そこも信頼、かな?」

「安売りするんだから」

 呆れたように、両の手のひらを天に向け、やれやれとため息。

「ま、一から出直しの貧乏軍師には、ありがたいけどね」

 けれど、目は穏やかで、しょうがないなぁ、という雰囲気をにじませていた。

「わかった。買ってやるわよ、その底抜け底値の信頼。せいぜい、あんたはあんたで頑張りなさい」

 俺は一歩近寄り、手を握った。

「ありがとう、詠」

「はいはい」

 少し遅れて、詠は握りかえしてくれた。

 そして、少しの間、メモの確認と補足をして、俺たちは別れた。

「それにしても」

 別れの時、詠は素朴な疑問を投げかけてきた。

「劉備にしても、あんたにしても、どうしてそこまでよく知らない他人に心を砕くことができるのかしら?」

 それに対して、俺は、

「あはは、なんでだろうね?」

 明確な答えを返せなかった。

 説明が難しいし、自分でも、言葉としてちゃんと整った答えが出せる気がしなかった。

 でも、詠と別れ、曹魏の陣を離れて、詠と握手を交わした手を開いた時、不意に理解した。

 詠のぬくもりが、風にさらわれていく。

「…………そっか」

 消えてしまったぬくもりは、とても多く、とても重い。

「今の俺って……、みんなに片思いしてるようなものなんだな」

 体だけじゃ無い。ぬくもりの先にあったみんなの心も、一緒に失われてしまったんだ。

 前の世界でどんなに深く結びついていたとしても、今それを知っているのは俺1人。

 それは他のどんなことよりも理不尽な事のように思えて……苦しさに、俺は胸を押さえた。

 打ち砕かれたかのような、心の痛み。

 それに耐えて、二歩三歩、足を踏み出す。

 守りたい者を守る、そういう戦いだと今まで漠然と思っていたけれど。

 これは、取り戻す戦いなんだ、と思った。

 桃香――劉備の万人に注ぐ愛とは、多分違う。

 踏み出した足の先、地面が頼りなく崩れる感触がした。

 正確には滑っただけだが、転びそうになる。

「っ、と!」

 倒れないよう踏ん張り、ぐっ、と力を込めて立て直す。

「…………」

 もしかしたら。

 今だけでなく、これから長く、桃香と道を違えるかも知れない。

 そんな予感がした。

「でも、ゴールはきっと同じだよな」

 こっちには孔明だっている。

 1人で戦うんじゃ無くて、仲間を信じないと、って決めたばかりだもんな。

「よしっ」

 また歩き出す。

 足取りは重くても、前へ進んで行く。

 決意の熱は、静かに、その熱量を増してきていた。

 

「…………おい」

 どこかから、制止する声。

「え?」

 180度振り返って見わたすが、誰もいなくて、気のせいかともう一度反転。

「こっちだ」

 目の前に甘寧がいた。

「うわっ!」

 びっくりして一歩下がり、また滑って、今度は転んだ。

「…………」

 無言で、甘寧は俺を引っ張り起こした。

「あ、ありがと」

「……」

 助け起こされて、甘寧と向き合う。

 正面から、1対1で。

 もしかして、この世界では初めてかも。

 そう思うと、ちょっと俺は嬉しくなって、口元がほころんだ。

「……」

 しかし、甘寧は口も目も、ぴくりともさせなかった。

「…………お前」

 やっと、彼女は動いた。

「何を考えている?」

 短く、はっきりと、意志を込めた言葉が風に乗る。

 冴え冴えと響く、鈴の音のように。

「何を……って?」

「とぼけるな」

 ぴしゃりと、俺の言を斬る甘寧。

「諸葛亮から、孫呉の将、軍師に使者が来た」

「ああ。確認してるよ」

 具体的にどういう内容を伝える使者なのかは、互いに忙しいので把握していないが。

「私には使者をよこさず、人を選んで事を伝えているようだが、残念だったな。伯言への使者が、私が傍にいる時にぺらぺらと喋ってくれた。機密への意識が薄いようだな」

「……そうかもね。まぁ、友軍だからってのもあるけど」

 改善点だな、と思った。

「で、孔明が伝えた内容になにか?」

「…………お前が、私たちに随伴し、劉表と交渉しに行く、と」

「ああ、それはその通りだよ」

「孫策様に直接言う前に周囲へ伝えたのは、確実にそちらの意向をこちらに飲ませるため。そこまでして、お前達は――お前は何がしたい?」

 その問いの背後で、本物の鈴の音が、リン、と鳴った。

 甘寧の武器、鈴音は影も形も見せていない。けれど、返答を間違えれば、その刃が向けられるであろうことが、その音で察せられた。

「……」

 今度は俺が黙る番。

 どうする?

 本当のことを言う? 嘘をつく?

 本当の事なら、どこまで言う? 嘘なら、どんな嘘を?

 どちらにせよ――信じてもらえなければ――

 喪失の予感に、精神が、身体が冷たくなる。

 けれど、震えそうな体に、心の奥に、木霊する音が一つ。

 カチリ、という金属音。

 鈴の音と真逆の重い、けれど、同じように澄んだ音が、響く。

 その音が消えた時には、迷いは断ち切れていた。

 無銘刀は静かにその存在を示し、俺に意志を託しているかのようだった。

「孫権を助ける」

 一足一刀の間合いで、俺は問いに答える。

「目的は同じだ」

 回答は、淀みなく、真っ直ぐに放たれた。

 甘寧の目を見据えて、正面から斬りつけるがごとく。

「…………」

 また、甘寧は沈黙した。

 考えている、というよりは、俺をただじっと、観察しているように見えた。

 まるで、俺の今の外見、動きから、真意をくみ取ろうとするかのように。

 そして、背を向けた。

「お前が何を考えているかに関わらず、邪魔なら斬り捨てる」

 そう言い残して、彼女は去って行った。

 

 

(なんか、こんな光景、ちょっと前にあったな……)

 既視感を覚えつつ、俺は劉備・北郷軍の意向を、孫策に伝えた。

 暗い顔をしていた孫策も、さすがに持ち直して澄まし顔しているところに、

「――もう一度言ってくれる?」

 耳を疑う言葉に、孫策は顔をゆがめた。

「北郷軍は、引き続き孫策軍と共闘する」

 俺は、はっきりと、表明した。

 孫呉の陣営がざわめく。

 リアクションが薄いのは、すでにそれを知っている、陸遜、黄蓋、魯粛、甘寧ら数える程度。残りは目を見開き、眉をひそめ、何事か隣の人とささやきあっている。

 そして孫策も。

「そ、それは、つまり――ここに残って戦うということ!?」

「そうだ。加えて、劉表との交渉の仲介のため、南下する魯粛さんたちに帯同させてもらう」

「はぁ!?」

 かくん、と大きく口を開け、驚愕をあらわにする孫策。

 不意打ち速攻を得意とする孫策でも、思いも寄らないことだったのだろう。

「な、何を言っているの一刀!?」

 雪蓮は奇襲されたショックで、皆の前で下の名前を呼んでしまう。

「こっちには劉表軍数万、私たちの数倍の敵が来るのよ! あなたが残ったらここで死ぬ可能性だって――」

「俺は劉表との交渉に向かう」

「ええええええ!!?」

 大きな目が見開かれ、あわわ、と朱里雛里のごとく焦る雪蓮。

「ここには孔明と、北郷軍主力が残る。軍議には参加させてもらいたいが、主導権はそちらに譲る。孫策軍の遊軍としてでも考えてくれ」

「まままま待ちなさい!! ちょっと! 狂ったの!? というか、それでいいの!? 諸葛亮!! あなたの主君がとんでもないことを――!!」

 助けを求めるように孫策は孔明を見るが、朱里は即答で、

「異議は有りません」

「ふええええええ!?」

 また叫ぶ。

「交渉する一団は、俺と、護衛の将数名、それと捕虜の劉磐。もし可能なら北郷軍の親衛隊100前後連れて行きたいけど、そこら辺は、そちらの潜行する軍と調整したい」

「ぇぇぇ………………どういうことなの…………なにがおきてるの……?」

 呆然としている孫策に、

「孫策様。どうされます?」

 陸遜が尋ねる。

「どー思うこれ……?」

 頭真っ白な雪蓮。傍らの軍師に反問する。

 陸遜は眼鏡を曇らせて、

「…………これは孫呉の戦い。遠慮した方がよろしいかと」

「そ、そう? そーよねぇ?」

 孫策は頷きかけるが、そこに魯粛が、

「そのような体面の話を! ここで孫策殿、孫権殿のどちらかでも失えば、存続さえ危ういではありませんか! むしろ、我らが恥を忍んでも頼むべきところでしょう!」

 その言葉に、プライドの高い孫呉宿将、韓当、程普らが反論し、勢い、孫呉は二派に分かれる。

 しかし、どちらの立場にも立っていない将が1人。

 黄蓋だ。

 正確に言えば甘寧や周泰も旗幟を鮮明にしていないが、2人は元々主張する方では無いので、特に問題になるところでは無い。

 だが黄蓋は、古参筆頭といえる立場から、無言は逆に目立つ。

 喧喧囂囂の議論が、黄蓋の沈黙という異常事態にだんだん尻すぼみになり、ついに止まった。

「祭……?」

 孫策もそれに気づいて、沈黙の勇将に声を掛ける。

「は」

 すっ、と体をそちらに向ける黄蓋。

 黄蓋は孫策を見据え、しかし、何も言わなかった。

 烈しく厚い情と忠誠の将が、言葉なく、静かな目で語る姿に、孫策は混乱から立ち直った。

「…………あなたは、どう思うの?」

 問う。

 黄蓋は、1度目を閉じ、そして再び瞼を開くと同時に、

「策殿の後悔しない道に、命を賭けまする」

 答えになっていないような答え。

 けれど、これ以上無いほどに、明快ではあった。

「…………」

 だからだろう、孫策は心を決めることができた。

 孫策は立ち上がり、俺に正対した。

「――北郷の申し出を受けるわ――!」

 反対派が抗議の声を上げかける。

 が、孫策が南海覇王を手にしているのを見て、口をつぐんだ。

「一毫の勝機、孫呉の命綱とするためなら……賭けられるものは全て賭ける」

 宝刀が煌めく。

 刃は彼女の手の中でくるっと回転し、自身に向けられた。

「なっ――――!」

 腰を浮かせ、制止しようとするが、間に合わなかった。

 ザクッ――!

 赤い輝きが舞った。

 はらり、はらり、地に落ちる。

 長く、美しい、淡紅の髪。

 その半ば以上が、孫策の首の根元あたりから断たれ、地面を覆った。

 一房だけ掴み、全員にそれを示す雪蓮。

「たとえ、誇りが地に堕ち泥にまみれたとしても――」

 主の突然の行動に、誰もが動きを止める中、顔色一つ変えず、黄蓋が、パシンと音を立てて拳と手のひらを合わせ、拱手する。

 そして、孫呉の全員が、それに続いた。

 臣下でも無い俺が従いたくなるぐらい、崇高な瞬間だった。

 

 

 再び盟約は成り、方針は統一された。

 出立前夜、俺は、静かな満足感と共に、明日の準備を始めていた。

「にしても、孫策が受諾してくれて良かったよ。事前に根回ししていたおかげだな」

「そうですね」

 朱里は呉軍から提供された資料を読んではメモし、自身の策を練り上げてる最中。

 すでに大方針は決まったようで、動作はゆったりと、片手間のような作業だった。

「黄蓋の一言が効いたみたいだったけど……、あれは朱里がああ言えって言ったの?」

「いえ。私はただ、北郷軍は一緒に戦うと、それだけ。陸遜殿と魯粛殿には、それぞれ賛成、反対の異見を示して頂きましたが」

「へ〜……、そうか、陸遜が反対したのはそういうことだったのか」

 ちょっと変だとは思ったんだ。

「感情的な武将に反対派を代表させると厄介ですから。陸遜殿なら、うまく拮抗を演出することができるかと」

「ふむふむ。それであとは黄蓋と孫策に任せる……賭けだけど、うまくいったね。まぁ、これからもっと大きなギャンブルがあるわけだし……どう? 何か、策はあるの? というか、朱里が言ったとおり、ここに残す軍の主導権わたしちゃったけど……大丈夫?」

 尋ねると、朱里は筆を置き、横に置いてあるコップで一口水を飲む。

「ご安心下さい」

 朱里は胸に手を当てた。

「策はあります。そして、その策は、三千の北郷軍のみでは成せぬものです。であれば、少兵の指揮権など無意味。高く売って、かわりに策を通させてもらいます」

 少女の目に火は灯り、胸には策が宿る。

「こちらは大丈夫です。それより……ご主人様たちの方が心配です」

「……だね」

 荷物を背嚢に詰め、明日以降の旅を思う。

「甘寧さんの言からすると、彼女たち含む呉軍は、ご主人様を全力では守ってくれません。華雄さん、桔梗さんの2人では、果たしてご主人様を守り切れるかどうか……」

「うん。それも気にしないとね」

 周泰はおそらく俺たちを味方と思ってくれているだろう。

 しかし、甘寧はおそらく、敵ではないが、味方でもないぐらいに見ているのでは無いだろうか。

 となると、己の身は己で守るしか無いが……。

「うーん、こっちのやる気は、行動でわかってもらうしかないんだろうけど……何かないかな……少しでも、思春の嫌気をやわらげる、本気の伝わる手段……」

 劉表との交渉時に使う制服をつめ、続いてジャージの替えを詰める。

 そして下に着る肌着を詰め込み、ふと、手を止めた。

「あれ……これ……?」

 戸惑う声に、朱里が俺の手元に視線をやる。

「え? ああ、ご主人様に聞いて色々用意した、ええと、シャツ? の一式ですね。なにか変なところがありましたか?」

「いや…………」

 俺は首を横に振った。

「これは、結構良いかもしれないなって」

 シャツの一つを広げる。

 それは緑を基調とした、複雑な柄の半袖Tシャツ。

 迷彩柄のシャツだった。

 

 

 

 夜が明けようとしていた。

 一別の日の朝

 まだ陽は完全に顔を出してはいないが、焚き火無しでも近くなら見える程度に、明るくなっていた。

「おはよ」

 起きたら傍に雪蓮がいた。

「お……おはよう……」

 寝ぼけていた意識が一気に覚醒した。

「びっくりした?」

「ああ、うん。びっくりした……というか、衛兵さんもしかして寝てる?」

 普通なら衛兵が止めると思うんだけど。

「武器持ってないから入れて? って言ったら通してくれたわ。私が言うのはなんだけど、ゆるいわね〜」

「……だね」

 色々改善点が見つかるなぁ。

「ま、多分、陣幕のどこかに不寝番がいるんだろうけど……ってことで、ちょっと外に出ない?」

「……? ああ、そういうことか。わかった」

 二人きりになりたい、ってことだろうと察して、陣の外へ。

「風が気持ちいいわね〜」

 暑くも無く寒くも無く。

 早朝の風は清く、優しく頬を撫でていく。

「……あ」

 前を行く雪蓮の、風になびく髪。

 そこで、俺は思いだした。

「ん? あっ……あはは、これ? つい、カッとなってやっちゃった」

 髪をつまみ、ペロっと、舌を出して笑う孫策。

 彼女の後ろ髪は、短く切りそろえられていた。

 昨日の、彼女の決意表明としての断髪。

 孫策という一人の英雄の行いとしては、意気衝天としてて爽快だったけれど。

 雪蓮という一人の女性としては……。

「勿体ない気はするな」

 その言葉に、雪蓮は少し寂しげな顔をして、

「あ〜……まぁね。私もちょっとだけ、やっちゃったなぁ……って」

 くるり、と指に髪を絡める雪蓮。

 しかし、長さが足りないためか、すぐに髪は指から逃げていく。

「冥琳……怒るかなぁ……色々」

 雪蓮は落ちていた石を拾い上げ、髪の代りとばかりに手でもてあそぶ。

 地平線の向こう、彼女の片翼は戦っている。

「めい……周瑜は怒らないと思うよ。仮に同じ状況で、周瑜があの黒くて長い髪を切っても、孫策は怒らないだろ?」

「怒るわよ!」

「おおい!!」

 そこは怒らないっていうところだろ!

「まあ冗談だけど」

「今の即答っぷりは結構本気っぽかったぞ……」

「それに、あんまり似合ってない気がするのよね〜……私も冥琳も」

「いやそれは無い」

 今度は俺が即答する番。

 確かに、流れるような長い髪は、桜吹雪のような華やかさで、迫力すら感じる幻想的な美しさだった。

 けれど、短くそろえた薄紅髪も、軽やかな雪蓮の性格に似合っていてる、と素直に感じた。

 端的に言えば、長い時は綺麗で――

「短くして可愛い感じになったと思うぞ」

「可愛い……?」

 ピクッ、と雪蓮の耳が反応する。

 可愛い、は小覇王に対する表現としてまずかったかな、と一瞬反省したが、

「そう? そうかな〜、ふふ、なんか久しぶりにそういう事いわれた気がするわ」

 まんざらでもなさそうだった。

 年齢的にも、立場的にも、可愛いと言われるような女性じゃないからだろう。

 俺自身も、無邪気に笑う雪蓮の姿を見て、改めて気づいたぐらいだ。

「それなら、短いのもいいかな〜?」

 えへへ、と頬を染め、微笑みながら、くるっとその場で回転する雪蓮。

「うん?」

 ようやく出てきた陽の光が反射して、雪蓮の髪が光った。

「孫策、ちょっと動かないで」

「え?」

 制止して、接近する。

 一歩二歩。

 手が届く距離へ。

 彼女の方へ手を伸ばす。

「ちょ……っと……?」

 雪蓮が軽く身をすくめる。

 何かされると思ったのだろう。

 まぁ、何もしないわけでは無いが。

 俺はそのまま彼女の横にまわり、手で彼女の髪を掬う。

「やっぱり。ほら、髪の切り残しだ」

「ふえ?」

 引っ張らないように気をつけながら、前の方に髪を持っていく。

「あ……ほんとだ。あはは、格好つけたのに恥ずかしいなぁもう」

 雪蓮は苦笑し、ごそごそと懐に手をやり、短刀を取り出す。

「ごめん、切っちゃってくれる? 自分でやると、また失敗しそうだし」

「ああ。いいよ…………って、武器持ってなかったんじゃなかったのかよ」

 短刀を受け取りつつ、つっこむ。

 暁光の清らかな光を刃に受け、雪蓮の柔らかな髪をひとつまみ、たぐって適度な長さと思われる位置で固定し、斬る。

 まるで、飛鳥の羽をむしってしまったかのような、罪悪感があった。

「ありがとっ」

 礼を言い、短刀を元に戻す雪蓮。

「あのさ」

 風に吹かれて飛ばないように、握っていた手を緩める。

 手中の鮮やかな赤毛を示す。

「変な意味じゃないんだけど、これ、もらっていいか? その、お守り代わりに」

「お守り…………?」

 雪蓮は首をかしげ、疑問符を浮かべた。

 気色悪がっている風はなく、純粋に、髪をお守りにするという発想が無かったようだ。

「なに? 天の国ではそういう慣らいがあるの?」

「ん〜、そうだな、一般的ってわけじゃないけど」

 そもそも平和な日本で武運のお守りが切実に必要になるってことがないからな……。

 剣道の試合とかに持って行くってことはあるけど、今の俺のような状況、生命を賭けた綱渡りにおいて心のバランスを保つために必要、なんてことは滅多に無いもんな。

 あ、でも、ギャンブル……博打のお守りとかならあるかも……ってそれは別の毛か。

 俺は雪蓮の髪では無いほうの毛を思わず連想して、頭に熱がのぼってくるのを感じた。

「どしたの? 髪の毛ぐらいなら持ってっていいわよ?」

「う、うん。ありがとう」

 手汗を拭い、ハンカチに髪を包んでしまう。

 そして、顔を上げると、バチッと雪蓮と視線が噛み合った。

「その、それで……無事に帰ってきなさいよ? 死んだらゆるさないんだから……って違うな……どうしよ、こういう時、どう言えば良いんだろ……?」

 雪蓮は困ったような、苦しいような、形容しがたい表情で、頭を掻いた。

「孫策?」

「…………んん」

 息苦しがるようなうなり声をあげて、不意に雪蓮が俺の首に手を回し、抱き寄せてきた。

「う、え?」

 突然のことに棒立ちになる。

「今だけ……今だけさ、真名で……雪蓮って呼んでみてくれる?」

 ぬくもりに溶かされた心に、雪蓮の言葉が混ざる。

「雪蓮……」

「ん……んんっ」

 ぴくん、と雪蓮の体が震え、悩ましい声が上がった。

 縮こまった理性に、反比例して起き上がろうとする本能。

 ま、マズい……かも。

「ありがとう……一刀。いろいろ、たくさん」

 雪蓮は俺の肩に頭を乗せる。

「私、あなたを信じていたつもりだった。盟友として。互恵関係として。だから、今回、あなたから借りてばかりで、何を返せば良いのかって、わからなくなってる」

「…………」

 たしかに、ギブアンドテイクの冷えた関係としては、現在こちらが与える割合がかなり大きい。

 劉表軍との戦いに援軍を派遣した時点で借りが一つ、そして死戦確実のこの場に残って戦うことで借りは二つかそれ以上。

 足して、一応君主である俺が、敵地の中心へと交渉に向かうのを合わせれば、計り知れない負い目が孫策軍側に覆い被さることになる。

 もちろん乱世なのだから、そんな恩など知らん振りでいっても良さそうなものだが……。

「なにをあげれば良い? あなたたちは、私に何を望んでいるの……?」

「…………えっと……じゃあ……ううん」

 言葉に詰まる。

 ふふ、と雪蓮が笑う声が肩口、耳のすぐ下でする。

「そんなこと考えたこと無い、そうでしょ? 劉備もあなたも、本当に、理解できないわ」

「……それ、似たようなこと荀攸にも言われたよ」

「理解できないものを、盟友として信じるなんて、君主としてできない相談だけど」

 顔を離す。

「一人の人間として、雪蓮として、あなたを、あなたの仲間を、信じるわ。きっと、それがあなたたちのやりかたなんでしょ?」

「……そうだな」

 言葉にするのは難しいが、多分そういうことなんだろう。

 そんな大層なこと、俺がしているのかは疑問だけどな。

「じゃ、あらためて――ありがとう、一刀っ」

 ぴょん。

 と、雪蓮が俺の胸に飛び込んでくる。

「わっ、と」

 体勢を崩しかけるが、さすがに倒れるのは恥ずかしいので持ち直し……。

 胸板を、むにゅっとした質感を持った二つの釣り鐘型のアレが押し返してきた。

 わー。

 と、本能が飛び跳ねた。

 本能は主に下半身に重大な変化をもたらした。

 これは決して唐突なことでは無い。

 第一として、ここは戦場であり戦地であり一週間以上滞陣しているのであり、本能的欲求を簡単に発散できる状況ではないのである。

 第二として、俺は本能的欲求を我慢できるタイプでは無いのであり、あまりしたくもないのである。

 第三として、仮に、俺の理性が、また周りの環境による制約が本能的欲求を抑え込んだとして……今がまさにその状況なのであるが、肉体側がそれに応ずるかといえば、否。断じて否。

 以上まわりくどく解説する必要は特にないが、こんな状況で、下半身がアレな事になっても、無理は無いよね? ということなのだ。

 が。

 それを、目の前の雪蓮にどう伝えれば良いのだろう?

「……ん? なにか硬いものが……っ」

 雪蓮がそれに気づいた。

 そして最悪なことに、下半身に屹立する硬い棒状の物体が、ナイフとかそういうものでは無いことぐらい、雪蓮は理解しているようだった。

「あ〜……あはは、そうだよねぇ、男だもんね〜……、いや〜、真名を教えるほど親しいのなんて女ばっかりだし、忘れてたわ」

 あはは、と笑う雪蓮が、下半身異物をよけるように腰をずらした。

 その影響というか、副次的結果というか、アレがこすれて、さらに肥大化した。そろそろ痛い感じです。

「あらら……」

 俺の表情で逆効果になったことを察したらしい。

 あわわ、とか、はわわ、とかじゃないだけ冷静ではあるんだろうけど、雪蓮は雪蓮なりに困っているようだ。

「もうちょっと時間があればどうにかなるけど……あ、一刀、はやかったりする?」

「…………速攻かぁ」

 やればできない気もするが。

 というかしてくれるのか、雪蓮。

「……ごめんね、ふっ、くくっ、こういうことに拙速は嫌よねぇ?」

 拙速と巧遅、戦においては拙速のほうがマシらしいが。この戦いに拙速は、プライドがゆるさない。

「じゃあ――こっちも貸しかな〜、個人的な。つらいだろうけど、我慢してね〜」

 ちょんっ。

 語りかけるように、からかうように、指でつつく。

 よりによって最も敏感な部分、北郷一刀という人間の下の部分、刀の先端を。

「ぐおっ……!? 雪、蓮っ!? いたただだっっ!!」

 大ダメージ。

 ズボンが内側から爆発しそうになる。

「ぷっ、あははははは!! すごい反応っ!」

 雪蓮大受け。

「ぐおおおおおおおっ……!」

 発作がおさまるまで、抗議もできない。

「ごめんよ〜、あはは、びくんびくんって、面白いわ〜、ふっ、ふふふっ」

「あ、のなぁ……!」

 悶える。痛苦がつくづくと続く。

「くぅう……」

 回復まで長い時間が流れた気がした。

 ほんとうは一瞬だったんだろう。

 雪蓮の笑いが終わるのとほぼ同時だったから。

「はぁ〜……」

「ふぅ〜……」

 相反する状況から俺たちは持ち直し、顔を合わせた。

 そして、彼女は笑った。

 衝動的な方の笑いじゃ無くて、微笑みの方の顔で、

「また会った時、そっちの口のお願い事、きいてあげる」

 すごいことを言った。

「今日は、こっちでお別れ…………っ」

 顔をつかまれて、雪蓮の顔と重ねられる。

 ヘッドバッドじゃあないぞ。

 もうちょっと優しく柔らかく温かく。

 当たった箇所も頭じゃなくて……。

「おーい! 策殿〜!! 魯粛が呼んでるぞ〜!!」

 黄蓋の声。

「はいは〜い! じゃ、またね! 一刀っ!」

 こうして、雪蓮と俺は別れた。

 いや、正確に言えば別れはもうちょっと先なのだが、一刀と雪蓮という二人としては、これが別れだった。

「あ、ああ……」

 別れの言葉はかけられなかった。

 頭がぼうっとしていたからだ。

 ぼうっとした頭で考えていたことは。

 キス、だったなぁ……ということであった。

 いかん。考えると、また下の事情が厳しくなってくる。

 考えるな! 感じるんだ!

「ぐぎゃっ!」

 感じた結果、また下半身が爆発しかけた。

 俺は、別離による心の痛みの前に、現実的な肉体の痛みに耐えねばならなかった。

「何をやっとるんじゃ北郷」

 雪蓮を呼びに来た黄蓋が、前屈みになっている俺の傍にまで来ていた。

「腹でも痛いのか? 出発が近いのに」

 心配げな顔。

「だい、じょぶ……」

「そうは見えんが……お、そうじゃ、これでも呑んでみるか?」

 と、胸元から掌にすっぽり小瓶をとりだす。

「?」

 顔を上げたところに、ずっぽり小瓶を押しつけられる。

 液体――?

 舌にのったそれを認識した次の刹那、

「!?」

 口から鼻にかけて炎が通った気がした。

「っっっ!!?」

 そして穴という穴からそれが吹き出る感覚。

 さらに喉の奥へ入り、全身の細胞に火がついた。

「ぐおおおおおおっ!?」

 下半身の痛みに前屈みになっていた体勢から、はねかえるようにのけぞった。

「げほっ! げほっ……な、なんだこれ……!?」

 ようやく喋れるようになって、祭に尋ねる。

「気付け薬じゃ」

「…………酒?」

「うむ」

 からから、と黄蓋は笑った。

「袁術のところからくすねてきた、珍しい北方の酒じゃ」

「けほっ……っ、そ、そうか……めちゃくちゃ強いな……げほっ、はぁ……。悪いな、そんな貴重なものをもらっちゃって」

 おかげでというか、窒息しかけていた下腹部に余裕ができた。驚いて縮こまったらしい。

「なあに、貴重と言うても一甕分あるからのう。分けてもそうは無くならん。と、そうじゃな、折角じゃからこれはお主にやろう」

 さきほど俺に含ませた酒が入った小瓶を、手渡してくる。

「あー……ありがと。水か何かで割ればいけるかな……」

「……ついでに、これも持って行け」

 と、祭はもう一つ似たような小瓶を差し出す。

「これは?」

 受け取りつつ訊くと、祭は視線をそらした。

「…………長沙にいるメガネに渡せ」

「長沙のメガネ……って2人いない?」

 冥琳と亞莎のどちらかだ。

「愛嬌がない方のメガネじゃ」

「ああ。そっちね」

 理解した。

 多分、呉の誰かに頼むのは照れくさいんだろうな。

「北郷もそろそろ戻って準備をせねばならんのではないか?」

「おっと、確かに。じゃあ、黄蓋……無事で」

「ははっ、孺子が言う科白ではないわ」

 背中を向けて、手を振る。

「お前もな。北郷」

 

 

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 北郷軍本陣に帰ると、そこは馬で埋もれていた。

「な、何事!?」

「は、はわわ……ご主人様〜っ」

 馬の向こうに朱里の声。

 馬群をかき分け、その方向へ。

「朱里っ、と、よっと」

 さすがに本陣中央は空きスペースになっていた。

「なにこれ? 馬まみれだけど」

「ご主人様を運ぶ、駿馬の候補です。百頭近くを選別させたので、残りを護衛部隊に分配します」

「へぇ……っていっても、馬の選び方なんてわかんないから、任せるよ?」

「ですよね……では私が……っと、その白斑の子を出して下さい」

 孔明は数ある馬の中で黒い毛並みの一頭を、御者に運ばせる。

「それがオススメ?」

「いえ。この子は的盧なのでマズイかなと」

「てきろ……?」

 聞いたことのある名だ。

「額に白斑のある馬を的盧といいます。縁起の悪い凶馬とされているので、ご主人様には別の馬の方が良いと思います」

「ん〜……そっか。でも、それでいいよ。そういうの気にしないし。的盧って、良さそうな名前じゃない?」

「はぁ……」

 朱里は顎に手をやり、

「でも、わざわざそういう馬を選ぶことは無いのでは?」

「いや、可哀想じゃない? たまたま額が白いだけで、避けられるってのはさ……」

 カリカリと自分の額を掻く。

「そうですね…………そうですよね! 肉体的特徴だけでえり好みをするのは良くないですよね!!」

 何かを納得したらしく、ぶんぶんと、首を何度も縦に振る朱里。

「じゃ、俺の乗馬は的盧ということで――――あとは、何かある?」

 朱里が的盧を除く馬を下がらせるよう指示を出した後、尋ねる。

「そうですね、ご主人様の知識は書き写しましたし、劉備軍全体の当面の方針は決まってますが……桃香様には、お伝えした方が良いでしょうか? その、ご主人様の予測の事を」

「う〜ん…………」

 天を仰ぎ、考える。

 歴史が繰り返されているということ、その原因と考えられる悪夢。

 その説明は、できるなら自分の口からしたい。

 孔明ならうまくやってくれる気がするが、そういうのとは関係なく、俺が言うべきことだと思うから。

 だが、孔明がこれから劉備軍に帰って、俺の予測に従って策をたてていくと、おそらく、単純に劉備軍の利益になる策にはならないはずだ。

 そうなると、孔明は自軍のなかで疑問を抱かれ、非難されるだろうし、最悪、信頼を失う。それじゃ駄目だ。

 最低でも、桃香には、信じていてもらわなくては。

「…………俺が説明するのが筋だと思う。でも、朱里が言うべきだと判断したら、遠慮しないで、朱里の言葉で桃香に伝えてくれ」

「…………御意ですっ」

 重々しく、朱里は了解した。

「それじゃ、そろそろ旅装に着替えるか――」

「あの、ご主人様っ」

 立ち上がったところを、朱里が止めるように呼ぶ。

「ん?」

 朱里の顔は、少し青ざめて、苦しげに見えた。

「その、私たちはこれから、ご主人様の知っている歴史の流れに沿いつつ、悪い流れは断ち切って統一を目指す、ということでしたが……」

「うん。そうだね」

 そのための知識や指示は孔明に預けてある。

 けれど、孔明は不安そうに、上目遣いで俺に尋ねた。

 

「その……正史通りに戦って、統一ができたとして……、最後は、桃香様や、ご主人様が天下を治める……ということでいいんですよね?」

 

 その疑問に、俺は、一瞬ひっかかりを覚えた。

「――うん。それは、そうだよ。俺は、桃香と皆と、一緒に乱世を終わらせるって約束したんだから」

 けれど、答え自体はよどみなく、素直に出すことができた。

「そうですよねっ。すいません、変なことを聞いてしまって」

 朱里も、その答えを望んでいて、そしてその答えをあらかじめ知っているようだった。

 そして、俺は着替えのため本陣の自分のスペースに戻った。

 心に棘のようなもののかすかな痛みを覚えながら。

 

 ――正史の通りならば、桃香は天下を治めることができない。

 そしてもちろん、歴史上あり得ないイレギュラーである俺も、天下の主にふさわしくない。

 そんな痛みを知りながら、俺はそれを無視した。

 だって、歴史通りなら、この三国志世界に生きる者全て、天下を統一することなどできなかったのだから――

 

 

 

「…………なんだその格好は」

 襄陽城外の平原にて、俺を先頭とする北郷軍、華雄、厳顔、そして護衛約百人が合流すると、呉軍潜行部隊隊長、甘寧が眉をしかめた。

「あ、これ?」

 俺は自分の着ているTシャツの袖をつまんだ。

「迷彩……っていってわかるかな? ん〜っと、こんな感じで」

 適当な草むらを選んで、俺はそこに身を潜めた。

「どう? 一目じゃわかんないでしょ?」

 と、デモンストレーションして見せる。

 おおっ、とか、わぁっ、と呉軍の誰かから声が上がった。

「ううん、なるほど。素晴らしい発想だ」

 甘寧の隣にいるニコニコ顔の文官……たしか、魯粛が賞賛する。

「すごいですねっ、真夜中に黒い服を着るのと同じぐらい見分けがつかなくなりますっ!」

 周泰が目を光らせて、拍手した。

「いやはは、職人さんが頑張ってくれたみたいだから」

 好奇の目の中、頭を掻いて元の場所まで戻る。

「雑兵の発想だな…………本当にお前、一軍の主か?」

 甘寧は呆れているようだった。

「まぁ、安全第一って事で。あ、あと何着か有るから、あげようか?」

「いらん」

 思春はにべもない。

「あ、じゃあ、私が頂いてもよろしいです?」

 魯粛が立候補する。

「……」

 甘寧は咎めるように視線を向けるが、

「私と北郷殿は目立たないほうがよろしいでしょう?」

 魯粛はにこやかな笑顔のまま言った。

 その意見を聞き入れたのか甘寧は、黙って何も言わなかった。

(思春の睨みに動じないってすごいな……文官なのに。たしか、周瑜の後釜が魯粛だったんだっけ?)

 詳しい伝記は覚えていないが、魯粛というのは聞き覚えがある名前だ。

「直接挨拶するのは初めてですね、北郷殿。魯粛ともうします。劉表殿への使者として同道いたします。どうぞよろしく」

 自然な動作で握手を求めに来る魯粛。

 軍議の時は猫背だったのでわからなかったが、かなり身長が高い。男の俺よりも頭一つ以上高い上背がある。

「こちらこそよろしく」

 応じて、握手を交わす。

「……確認するが」

 挨拶を終えると、甘寧が口を開いた。

「行軍の指揮は私と周泰が執り、北郷殿は交渉にのみ参与する。それで良いか?」

「ああ。道中、よろしく頼むよ」

「…………安全は、保証しきれん」

 その目は、本当に良いのか、と訊いているようだった。

「わかってる。観光旅行のつもりは無いさ」

「む……」

 返答を考えるそぶりも見せなかった俺に、甘寧は少しだけ戸惑いを見せた。

「では、そろそろ出発する。北郷隊は護衛と共に、私の部隊の後ろについてもらう」

「了解っ、じゃあ、みんなっ、隊列を整えて!」

 隊形は二列縦隊。

 華雄と厳顔が前後につき、俺は前方よりの位置へ。

「――朱里っ……桃香たちを頼むよ!」

 見送りに来た朱里を振り返る。

「――お任せ下さいっ!!」

 声を振り絞って、あの小さな体の、引っ込み思案な朱里が、叫ぶ。

「お気をつけて!!」

 脇に控える北郷軍全兵が威儀を正し、出発、いや、出陣する俺たちを送る。

 この死地において、行く者も、待つ者も同じ。

 死は、帰ることと同じと言うけれど……。

「皆も気をつけて!」

 それでも互いの無事を祈り、別れを終える。

 

 

 

 別れの時から一時間足らず、俺たちは孫呉の潜行部隊と合流した。

 俺たちとは違い、潜行部隊の総数は二千。

 隊を整えるにも場所が必要なので、襄陽城からだいぶ離れて、出発の準備をしていたらしい。

「ん〜? 二千……より多くない?」

 平野に広がる軍勢は、見た感じ三千を超えているように見えた。

 軍勢を動かせる立場になって、そういう概数をつかむ勘はだんだん上がっている。

「兵站部隊もいるのでは?」

 と、桔梗。

「荊州南部へは急いでも一週間以上はかかりまする。食糧等の補給を司る部隊がいてもおかしくはありますまい」

「でも、それじゃあ、捕捉されやすくなるんじゃ無い? だから、兵数を絞ってるわけだし」

「おそらく、どこかで切り離すのでしょう。お、あれが甘寧殿の隊ですな。挨拶がてら聞いてみてはいかがです?」

「そうだな」

 甘寧隊の旌旗があがる一隊の後方へ移動し、単独で思春の元へ。

「や」

 手を上げて挨拶する。

「ん」

 甘寧は顔をわずかにこちらに向ける。

「部隊は後ろに続かせたよ。それでいいんだよね?」

「ああ」

 彼女の返事はいつも短い。

「なんか兵站部隊? も一緒みたいだけど、どこかで切り離すの?」

「……三日を目安に分離する。第一目標地点の江陵の前後だ」

「江陵……っと」

 懐から地図を取り出す。

 江陵は、襄陽の真南に位置する。荊州第二の大拠点だ。

「たしか、劉表がいる可能性が一番高いところだっけ?」

「そうだ。劉表が前線にたっている可能性は五分だ。残りは、江陵城で指揮を執っている可能性。長沙より江陵の方が近いから、まずはそこへ向かう」

「いなかったら?」

「……その時は、兵站を切り離し、全速力で長沙へ向かう。本格的な潜行任務になるのはそこからだ」

「ふむふむ。ここから長沙へは何日かかるのかな?」

「軍を率いていくなら長くて一週間。単独なら四日」

「待て待て待て。江陵までが三日で、長沙までが四日って、一日でいけるのか?」

「私1人ならな」

「そりゃすごいネ」

 そんな馬鹿なと思ったけど、思春ならできそうなのが不思議だ。

「しかし一週間か。となると……長沙は包囲されて二週間強になるのか」

「ああ……周瑜殿がいる限り、一ヶ月はもつだろうが……」

「早いに越したことは無い、よな」

「……」

 目に見えてはいないが、思春は焦っている。

 だが、

「急いでも脱落者が増えるだけだ。お前のところも、急がせすぎるな」

「……わかった」

 今は黙々と、馬を進めるしか無かった。

 

 俺たち潜行部隊は陸路を通り、襄陽郡を南下した。

 襄陽郡の南隣が江陵のある南郡、南郡の南東にあるのが長沙郡だ。

 こう書くと近いように思えるが、荊州自体が南北に長いので、かなり距離がある。

 最速で行くなら水路でいくのが一番だが……。

「……呉で待機している水軍は、荊州に入れない」

 道々、甘寧が教えてくれた。

 道中、暇な時を狙ってしつこく話しかけていたら、面倒くさげながら会話をかわしてくれるようになった。

「長江の主流と、支流である漢水、その合流点である江夏は、劉表水軍の最大拠点だ。これを突破しない限り、呉の水軍は荊州の水路を使えず、陸路しか自由にならない」

「江夏っていうと……江陵の東隣か。荊州と、呉がある揚州の玄関口だね」

「そうだ。長江一帯を治めるための急所……ここを制圧するために、孫策様は各地を転戦し資財を貯め、投資し続けたのだが……」

「間に合わなかったのか」

「…………そうだ」

 苦々しい声で肯定する思春。

「じゃあ、長沙からの脱出するとなると、山越えになるのかな」

 長沙から東へは山間部がよこたわっている。南へ迂回して平地を通ることも可能だが、そっちは揚州でも孫策軍の勢力範囲では無いそうだ。

「そこは数案ある。周瑜殿も考えているだろう…………しかし、すぐに中原へは戻れないぞ」

「だろうね」

 揚州の方も、劉ヨウという州牧が介入しているらしいし、ただでは帰れないだろう。

「でもそれは、今考えることじゃないから。第一は、孫権たちの救出だろ? っとと」

 道行く的盧の揺れに、手綱を握りしめ、座り直す。

 つい思春との話に夢中になって、前を見ていなかったせいか、バランスを崩してしまったようだ。

「……お前……まさか、本当に蓮華様に……?」

「ん?」

「……」

 その時なにか思春が言った気がしたが、聞く体勢では無く、また思春も聞かせるつもりはなかったようだった。

 話の接ぎ穂を探している間に、思春は視線を俺と真逆の方に向けていた。

「何かあるの?」

「…………砦だ。おそらく通信と兵站のために使っているのだろうが……」

 甘寧の見ている方向には、確かにぼろい櫓と、おざなりの柵でできた砦らしきものがあった。

「無視して良いんじゃ無いの? 労力を費やすような所じゃないと思うけど」

「お前はこのまま進め――遊軍百人であの砦を攻撃する!」

 言うが早いか、甘寧は駆けだしていた。

 疾きこと風のごとく……そして。

「え、もう終わったの?」

 前方に見えていた砦が真横にきたところで、甘寧が帰還した。

「ぬるい」

 侵掠すること火のごとし。

 甘寧の前では、あんな小砦、火の勢いを止めることはできず、逆に、心火に燃料を注いでしまったようだった。

「……後方の部隊に伝令。あの砦は燃やしておけ」

「はっ!」

「えっ、そこまでするの!?」

「…………」

 俺は驚いたが、甘寧は意に介さず行軍を再開した。

(……焦りで暴走してる……? いや、思春がそこまで冷静さを失っているようにはみえないけど……)

 ちり、っと胸の奥に火の粉が触れた気がした。

 無視できるレベルの火傷、だが、無視して良いのだろうか、と甘寧の背中を見ながら自問する。

「あの川を越えたら小休止をとる。先鋒隊、橋周囲に敵がいないか探れ。拠点があるようなら私が到着するのを待ち、攻撃を仕掛ける」

 ためらっているあいだに、甘寧は指示を飛ばし動き続けていた。

 結局その日、止める間もなく甘寧は10に届く敵の連絡・通信拠点を潰し、夜営に入った。

「指揮官殿が冷静さを欠いている……?」

 夜営中の本陣、篝火を背後に、厳顔が俺の疑義について考える。

「ですが、敵砦を可能な限り落とすのは悪くないと思いますが」

 華雄はどちらかというとポジティブに思っているようだ。

「進軍速度を落としているわけではありますまい?」

「まぁ、そうなんだけどさ。全速力を出せない鬱憤を晴らしている気がして」

「ふむ。いや、それもあるかもしれませぬが……同時に、冷静な計算も忘れてはいないかと」

「というと?」

「ここに――」

 地図を指し示す。

 地図には今日甘寧が陥落させた砦の位置が×印でしめされている。

 厳顔の指先はそこから外れて、地図にあらかじめ記された、城塞をあらわすマークを指していた。

「そこは……宜城?」

「はい。我らが今日通った道から1本道を外れた位置にある城です。甘寧殿は大小の砦を次々に落としつつ、この城は無視して通過しました」

「それは……、落とせない、と判断した?」

「おそらく」

 頷き、今度は襄陽から江陵への道をなぞる。

「甘寧殿は最短の道から外れてはおりません。今のところ、心配するようなことはないかと」

「そう……だな」

 考えすぎだったのかもしれない。

「ひとまず判断は保留して従いましょう。江陵に劉表がいれば、我らの目標は達成できまする」

 その厳顔の言を採用して、俺たちは甘寧に従って行動した。

 

 二日目には、江陵城が存在する南郡に入った。

「今日は私が前衛です! よろしくお願いしますっ!」

 ぴょんっ、と跳ねるように挨拶する周泰。

「私も同行しますね」

 と、魯粛。

「おっ、そっか。甘寧と交代したのか。よろしく」

 二日目も甘寧が前に出てたら疲弊しちゃうもんな。

「あ、北郷さんと魯粛さん、おそろいなんですね!」

「ん? ああ、服か」

 出立の時わたした迷彩服に、魯粛も着替えていた。

「服はそうですが、武器は周泰ちゃんとおそろいでは?」

「ああ、だね」

 俺の持っている無銘刀は、明命の持つ魂切と似ている。

 もちろん俺のは日本刀で、明命のはほぼ直刀だから、反りの有無で違いがあるけど。

「じゃあ、三人組で仲良く行きましょうか」

 ぽん、魯粛と両手を合わせる。

 俺と周泰は頷いて行軍を始めた。

「私もいるんだが……」

 ショボーンとした華雄がそれに続く。

 俺たち一行は南郡の奥へ奥へと侵入した。

「ええと……あっちの山の砦には旗5本……、で、あそこの橋に旗2本」

 南進中、明命はことあるごとに、旗が、旗がと呟いていた。

「なにかあったの?」

「え? え〜っと、穏さんにいわれて……いろんなところに旗を立てておけって」

「へぇ? 旗……か」

「兵站部隊の人から旗は受け取っていたんですが、もしかしたら足りないかも……」

「あらら……もらってくるか、後続の部隊に任せる?」

「それだと行軍が遅くなりそうなので……まずいです」

「うむむ……魯粛さん、なにかないかな?」

「ご心配なく」

 胸を叩いて魯粛が言う。

「旗を持っていけと言われたので、私の護衛にたくさんもたせています」

「本当ですか!?」

「はい。昼食も近いですし、ちょうどいいでしょう」

「ん? 昼……食?」

 ハテナマーク浮かべ、首を傾げる周泰をよそに、魯粛がなにやら部下に指示する。

 魯粛の護衛達は、背中にしょっていた風呂敷包みを広げ、中身をまとめなおして、何枚かの風呂敷を空にして明命に差し出した。

「はい。これで大丈夫ですよね?」

 風呂敷の正体は旗布だった。

「あ、あわわ……こんな使い方したら怒られますよ……!?」

 明命が口を押さえてあわてる。

「まぁまぁ。知恵ですよ知恵っ、ふふふ。それに大事な物はちゃあんと胸にしまっていますから」

 ニコニコ顔で胸に手を当てる魯粛。

「大事な物……?」

 つい、彼女の胸を凝視してしまう。

 たしかに、ぺったんこの胸が不自然に盛り上がってる気がする。

「パッド……?」

 ……なわけないか。

 ともかく問題を解決し、予定通り順調に、行路を進む。

 地の果てを目指すように馬群が野を駆け、果て無き大地と空と出会い、別れ続ける。目標の地は遙か遠く、気が遠くなる先の先。

 騎行一昼夜、疲労は想像よりも疾く重くたまっていき……。

「っ! 馬の交換をっ!」

 途中、明命が馬から飛び降りる。

 降りた瞬間、馬の脚ががくがくと痙攣しだし、ぺたん、と膝を折って倒れた。

「ごめんね……すぐに気づかなくて」

 明命は馬をいたわるように撫で、従者を残して代え馬に乗り換えた。

 並足とはいえ、長距離をゆく馬はどんどん潰れる。

 結果、皆どんどん馬を代えていくわけだが――

「北郷殿の馬は頑健ですな」

 俺の乗っている的盧は足取り軽やかだった。

「うん。良い馬みたいだね」

 名馬を引き当てたらしい。

「ううむ……しかし、馬の相はあまりよくないようですが」

「あ、やっぱり? 孔明にも言われたよ」

「む? では知っていてその馬にしたのですか?」

「ああ。馬は顔で選り好みするもんじゃないかなって」

「ほお〜」

 魯粛は感心したように声をあげた。

「確かに。顔で走るわけではありませんからな。この服といい、外見に囚われないその思考は大事ですね」

「…………」

 代え馬に乗り換えてきた明命が、なにやら無言で自分の胸を見ている。

 なんか、孔明も似たようなことやってたけど、なにかあるんだろうか。

「しかし、馬はそろそろ厳しいかもしれませんな」

「そだね。でも、明日には江陵に着くんだろ?」

「はい。このままなら明日の昼には」

 明命が地図を出し確認する。

「交渉が成功したら馬はいらないし、失敗したら、徒歩で潜行して長沙へ向かうんだよね?」

「ですね。隠密性が重要になるでしょうし」

「まぁ…………その必要も無く、交渉が首尾良くいけばいいんだけど……」

 視線を地平線の向こうへ向ける。

 江陵城はまだまだ見えない。

 不安な胸の内のごとく、目的地が見つからない道を、ただひたすら進む――

 

 

 

 

 

説明

 第二章完結の第10話です。
 書く予定だったことを全部書いたら大変長いしろものになりました。
 全十五万文字、文庫本一冊分ぐらい? です。
 とりあえず三万文字ずつぐらいで五分割してみました。
 お時間のある時にでもどうぞー。
 作中、地名が結構出るので、わかりにくい場合『むじん書院』http://www.project-imagine.org/mujins/さまの、「三国志地図」http://www.project-imagine.org/mujins/maps.html内、東南部(揚州・荊州)をご参考に。
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