恋姫†無双 外史『無銘伝』第10話 (2) |
そして、三日目。
俺たちは江陵城へとたどり着いた。
敵にみつからないよう部隊を隠し、少数人数で城へと紛れ込んだ。
「戦争中なのに、意外とチェックが甘いな」
流民の振りをして、北西門から無事忍び込めた。
「南郡に我らが入り込んでいるという情報が到達していないのだろう」
江陵城に入ったのは俺、甘寧、華雄、の三人。
「交渉の前に脱出路を確保する」
それが侵入の目的だ。
長江のほとり、襄陽に次ぐ豊かな町並みを東西南北に広げる城郭都市、江陵。
四通八達。陸運と水運、商業、通信、軍事、政治の大動脈が通る重要都市であるだけに、規模が巨大で、すぐには俯瞰図が見えてこない。
孫呉の諜報部……他ならぬ甘寧率いる組織がすでに江陵城内部の情報は握っているが、襄陽城同様、侵入して実地で確かめなければ、とても生きて抜け出ることができそうにない。
「あと、できれば劉表がいるかどうかも確認したいな。不在なら、わざわざ俺たちの居場所を知らせる必要ないし」
「ああ。襄陽と違い籠城はしていないからな。数人、草がもぐりこんでいる。機を見て接触する」
「了解」
ひっそりと、しかし、怪しまれないように。
適度に目を左右に、時に後ろに。城市を見聞する。
「孫呉が襄陽を攻撃しているらしいじゃねぇか」
漏れ聞くなかに、重要かもしれない情報もある。
「大丈夫なんか? 劉表さまは?」
「賊はすぐに従わせたわけだし、何とかなるんじゃねぇか、たぶん」
「ま、俺たちが心配する事じゃねぇわ。学者先生の世話してりゃ、兵隊にとられんですむんだからな」
「へへ、頭は悪いが、よく回る」
下卑た笑い声。
「荊州って余裕があるんだな……」
身近な戦いすら他人事とみている会話を聞き、何とも言えない感情を吐露する。
「不愉快な国だな」
華雄は苛つき気味。
「荊州に流入した流民のなかに、大量の士人、学者が含まれていたらしい……元々、劉表も党錮の禁で中央から追放された俊英だったというからな。学者達がたよって集まってきたんだろう」
党錮の禁。
黄巾の乱以前に、宦官たちによって彼らと対立する士人が弾圧された事件を指す。
「それでも十万の兵が用意できるって、豊かなんだな」
「…………他の国が戦乱で貧しくなったからな」
甘寧の冷たい目は、賑やかな街並みの向こうに荒野を見ているようだった。
「そろそろ中心部か?」
張り巡らされた水路にかけられた橋を何度かわたり、市場から市街へ入ると、明らかに衛兵が多くなる。
「もうちょっと人が少ないところのほうが逃げやすいかな?」
「いや。適度に人通りがあった方がやりやすい」
「そっか。じゃあ、この道を通って脱出するとして…………」
頭の中で退路を思い描きつつ、道を進む。
基本的には大きな道を通りつつ、緊急回避用の細い道をぬうルートも用意する。
大通りから、人がぎりぎり2人横並びで通れる幅の脇道に入る。
「細い道は少人数しか通れない。北郷、お前1人でも城外へ出られるよう、頭にたたき込んでおけ」
「……考えたくないけどね」
苦笑する俺に、目線だけ向けて話していた思春が、顔も向けて確認した。
「……優先順位は、蓮華様、次いで北郷と魯粛だ。もし小路に追い込まれたら、お前や魯粛を先に行かせて、残りは敵を留めることに――」
甘寧が急に目つきを険しくして俺を見た。
「な、なに……?」
「――静かにしろ」
声と動作を禁じて、思春は指だけをクイッと内側に曲げた。
その招くような指の動きに、俺はゆっくりと応じて彼女のすぐ目の前に移動する。
だが、思春はさらに招く動作をくりかえした。
これ以上前に進むと思春と体が重なっちゃうんですけど……?
心中、ドキドキしてもう一歩進むと、思春はひょいっと横によけ、
「そのまま路地を自然に通り抜けろ。誰に会っても目線を合わせるな。呆けて歩け」
「……わかった」
わけを尋ねようとは思えないほど真剣で、すぐに俺はそれに従った。
華雄も同じ指示を受けたらしく、後ろから聞き慣れた歩行音がついてきていた。
首を一瞬でも動かして思春の様子を確かめたいが、そんな動きすら禁じられている気がして、ただまっすぐ歩くしかできない。
「恋人同士として歩け、とあいつが」
大路へ出る直前、華雄に腕を脇に抱えられた。
「不審には思われない一番簡単な方法、だと」
「そ、そうか」
腕に押しつけられた柔らかな肌の感触に、声を詰まらせつつ、事態を受け入れる。
「何かあったのかな?」
「わからん……と、人がわりといるな。周りをあまり見るなよ」
「了解。でも、俺はともかく、華雄は注目されちゃうと思うけどな」
「あん? 鎧も着てないし、目立たない服も着ているし、歩き方だって早足を矯正したぞ?」
華雄は心外だ、と口を尖らせる。
「いや、顔が」
「顔? このへんに私を知っている人間などいないだろ」
「そうじゃなくてさ……美人だから」
「…………あ、ああ。それか」
そうか、と言葉では受け流すが、心の消化器官は感情をスルーし損ねて、華雄を動揺させた。
ぎゅうっ。
「いたたたたっ、か、葉雄っ、腕おれるって……!」
曲がっちゃいけない方向に腕が軋んでいた。
「っ……すまん」
腕を緩めるが、そのかわり、軽く腕を交差させる程度だったのを、深く、より密着させて、腕を組んだ。
「…………」」
「…………」
無言で、俺たちは少し歩いた。
「お前がいると……」
足音や風の音、人のざわめきにまぎれてしまいそうな声で、
「普通でいられなくなりそうだ」
「……それは……マズイ、のかな?」
尋ねると、ふっ、と華雄は破顔して、
「さぁな」
なぜか、その嬉しそうな表情のまま、
「お前に私の武器が斬り飛ばされて、一緒に、華雄という武将も死んだようなものだと思った。今、葉雄という将として生きて、戦っていると……不思議な気持ちになる」
「…………」
恋人同士、腕をつないで、互いの顔を見つめながら……という甘いシチュエーション。周りから見れば、嫉妬とか羨望とか怨嗟とかそういう視線で見られそうな状況。
でもそれに反する真剣な話に、俺は、恋人としてではなく仲間として、じっと彼女の目を見据える。
「まるで、生まれ変わったみたいに。この乱世で、生き方を選べなかった人生を、もう一度選び直している、そんな……変な気分だ」
だが、と苦笑して
「結局、武将として生きているがな」
「あー……嫌だったりするか?」
「まさか」
ふるふる、と首を振る。
そして、ちょっとずつ、言葉を選びながら、
「濃淡がかわっただけだ。武将としての私が、武勇抜きの私を、見直したんだ。生きる理由だった戦場から少し離れて……ふむ。変な話だが、今の方が武将として強くなった気すらする」
「そういうもんなのか?」
「……自分で言うのも何だが、突撃馬鹿だったからな。前の私は」
「っ、ぷ、くくっ」
こらえきれず吹き出した。
「ちっ、お前もそう思ってたか……前はそれが存在理由だと思ってたんだ!」
ふん、と顔をしかめる華雄。
端から見れば、じゃれあっているようにみえるかもしれない。
「今の私は、葉雄は、突撃するなと言われれば受け入れられる。ワケを説明されれば、理解だってする。腹はちょっとしか立たない」
「……立つんだ」
「愛する武器も、誇る名誉も失っても、残っているものがあるなど、お前に敗れる前は思いもしなかった」
「残っているもの……」
彼女の言に思いを巡らせていると、絡ませていた腕の先、手と手がつなげられた。
あたたかな手のひら、体温。
「私は生きている、ということだ――」
弾むような足取りで、手を引いて俺の先を行く華雄。
こんな敵地なのに、俺は、満面の笑みで、彼女のすぐ後を追い――
「おい馬鹿面」
不意に、冷たい一言が浴びせかけられた。
ナイフのように研ぎ澄まされた毒舌は、俺1人にしか届かなかったらしく、華雄はただ、俺の横に突如現れた甘寧に驚いて、目を丸くしていた。
「私の方を向くな。そのまま前を向いて、他人の振りをして聞け」
「ああ」
甘寧へ向けた顔を戻す。
華雄もひきつった表情を緩め、俺の隣に並ぶ。
「先日追い払った敵将…………黄祖の姿を確認した」
「!?」
「護衛の姿は無い。が、こちらの顔が割れている将。出くわせば面倒なことになる。」
「……どうする? 正式に劉表への使者として名乗り出て入城するか?」
「それは最後の手段だ。半刻……時をもらう。その間に、劉表が城内にいるかどうか探る」
「1人でか……!?」
「万が一時が過ぎて私が帰還しない場合、魯粛に判断を任せる。お前達はまず周泰を呼んできてくれ。黄祖の監視を交代する」
「わかった」
頷き、奇異の目で見られない程度の速さで、城の北西門へと戻り、江陵城から離れたところに隠した的盧に乗って、部隊の潜伏地へ。
「わかりました! ただちに向かいます!! 魯粛殿の護衛をお願いします!!」
明命は風となって急行した。
「お館様。呉将のいない今が良いでしょう。使者の手配を」
厳顔が寄ってきて意見した。
「そうだな。まずは江夏か」
「はっ。長沙周辺には必要な時に」
「よし。伊籍を派遣しよう。護衛もつけて」
貴重な護衛を割いて、江陵の東へ使者を遣わす。
「なにかありました?」
にわかに慌ただしくなった俺たちのところに、魯粛が、音も無く寄ってきた。
「うわっ! い、いや、何も無いよ……ただ、甘寧と周泰がいないから、周囲に気をつけないと、ってね」
「なるほど。周囲に……周囲にですか」
魯粛はとりあえず納得したように見えた。
江陵城外。平野は風が凪いでいた。
が、妙に。黄祖につけられた頬の傷が、うずいた。
半刻後。
甘寧は重要情報の一端を掌握していた。
劉表、江陵城には不在。現在軍を率いて出陣中。
「…………」
だが、甘寧は奥歯をかみしめていた。
最も重要なことはわからなかったからだ。
劉表が江陵を出てどこへ向かったか。
北か。南か。
襄陽方面か。長沙方面か。
「…………ふうっ――!」
抑えていた気を吐く。
時間が限界だ。
「思春殿――!」
街中で明命と鉢合わせになる。
「明命……! 黄祖は?」
「そこの茶屋で休んでいる最中です」
明命が潜んでいた物陰から家数軒分離れた茶屋のなかに、黄祖の姿が確認できた。
――おびき出して、殺っておくべきか――?
数秒、突き刺すような目で黄祖を見るが、甘寧は茶屋とは逆方向に走り出した。
「劉表はここにいない。どこへ向かったかは掴めなかった。ひとまず、城外へ出るぞ」
「はっ!」
周泰を引き連れ、旗下部隊の元へ馳せる。
「う〜……」
きりきり痛む胃をかかえて、黄祖は江陵城をさまよっていた。
「劉表さまを追うべきか、追わざるべきか……、う〜……」
金色の髪を掻く。
ボサボサの金髪の根元には、地色である青に近い黒髪がのぞいていた。
「劉磐は捕まっちまったみたいだし、下っ端は逃げちまったし……はぁ」
肩を落とし、ふらりふらりと街を歩く。
「江夏に帰っても今更賊に戻れるわけも無し……帰るところ無し……クソッ! なんでこんなことに……ッ!」
うまく奇襲をかけ、成功したはずだった。
孫策を討ち取ったはずだった。
なのに――
「なんだったんだよあれは…………お、お化け?」
ぶるっ、と体をふるわせる。
「ううう〜……こわい……孫策とかもういやだ……!」
思い出して涙を浮かべ、唸る。
「かといって、このまま何もせずにいたら劉表さまに殺される……行くも帰るも待つも地獄……あっ」
ぐらりと体が傾き、黄祖は街路樹によりかかった。
「はぁ…………もう、ここでのたれ死ぬかぁ……」
いろいろ諦めて、体を弛緩させ、木の幹によりかかったまま、ずるずると座り込む。
ぐぅうううう。
「うっ」
腹を抱える。
悩みとか苛立ち、怒りとか恐怖を放り捨てた瞬間、お腹がなった。
「腹ぺこ……」
こういうときでもお腹はすくんだなぁ、人間だもの。
襄陽から逃げて逃げて逃げて江陵に至った。適当に食事はとっていたものの、懊悩を抱えていたせいで、ほとんど喉を通らなかった。
「なにかたべよ……」
両足に力を入れ、すぐ近くの茶屋に入る。
「とりあえず甘い物食べたい」
注文して、運ばれてきた月餅なんかをぱくつく。
「ふぅ……お茶おいし」
和み顔で、ほおづえをつく。
年相応に、甘い物は好きだ。
ずっと突っ張っていた気持ちが緩み、少しだけ前向きな気持ちになる。
「と、お茶に髪の毛が……」
湯飲みに入ってしまった金の髪1本を、指先でつまむ。
「あっ……髪の色戻っちまってる。はぁ……あ……!」
紫色の髪。
その髪の色を見て思い出す。
「紫苑……そうだ、紫苑に……情けないけど……紫苑に頼ろ」
数年前、髪を金髪にしたあと、紫苑とは会っていない。
親元から家出した私を色々心配してくれたのだけれど、それがうざったくなってしまって、紫苑からも距離をおいたのだ。手紙は結構やりとりしてるけど。
紫苑も最近劉表さまの配下になって、孫呉との戦いに参加しているという。
劉表さまと年も立場も近い彼女なら、取りなしてくれるかも。
よし。
と、黄祖は茶菓子を懐にしまい、お茶を飲み干し、立ち上がった。
「紫苑が戦ってるのは確か……長沙だったな! よ〜しっ、行くかっ!」
半刻前には暗い顔をしていた黄祖は、明るい顔をして茶屋を出て、その足で江陵城から離れた。
「北と南の二択か……」
孫策・北郷の共同潜行軍、その主要な将たちは顔をしかめた。
「大軍が動いているなら、物資がその方面へ輸送されているはず。数日この城で監視すれば良いのでは?」
と厳顔。
「ああ、成程」
「…………」
甘寧は是とも否とも言わない。
彼女が判断を下さねば、俺たちは動くことができない。
「いや。陸路の監視だけでは駄目でしょう。長江、水路をつかう輸出なら、江夏を経由して襄陽方面へ船を出していると考えられます。そちらも加味して……」
と魯粛。
「どっちにしても、この地でしばし留まらなければならないんですね……」
明命は落胆した様子だ。
疲労している分、休めるのはありがたいが……。
「…………っ、駄目だ! ここで時間をかけてはいられない!」
甘寧が撥ね付ける。
血を吐くような、重々しい声だった。
「ただちに長沙へ向かうッ! 蓮華様を一刻も早く救出しなければ」
「気持ちはわかりますが……」
魯粛が難色を示す。
「劉表が軍を率いて向かった先が長沙だったら、火中に自ら飛び込むようなものです」
「雪蓮様が襄陽城を追い込んでいるこの状況下、後詰めに向かうに決まっている!」
「わ、私も、そう推測します」
周泰も同意する。
「確かにその可能性は高いですが……間違えれば、この場にいる三千のみならず孫呉全体を危機に直面させることになりますよ」
魯粛は慎重論を崩さない。
「だが、時機を逃せば私たちは…………蓮華様を見殺しにすることになるっ!」
「…………」
「っ……」
魯粛は口をつぐみ、周泰は奥歯をかみしめた。
俺も、甘寧の叫びで、耳だけじゃ無くて内蔵まで揺らされた感じがして、ぐっと脚に力を入れた。
「…………では、私1人で、ここに残りましょう」
「!?」
改めて魯粛が口を開き、場を響めかせた。
「交渉は、私か北郷殿がいればできます。しかし、蓮華様の救出は軍勢がなければ為し得ません」
「でも、それじゃ、子敬さんが……」
「戦場で私は役に立ちません。なら、私の命の賭けどころはここでしょう」
魯粛は、彼女は笑顔だった。
初めて会った時から変わらない顔で、芯のある笑顔で、彼女は覚悟を表明した。
俺は、いや、もしかしたら皆が、魯粛の覚悟に心を揺さぶられているんじゃないだろうか。
彼女は、この場で唯一といっていい文官だ。
精兵三千、甘寧、周泰、厳顔、華雄……あえていえば俺が一番近い立場だろう。
けれど、彼女の覚悟は武官たちと変わらない。
生き場所で命を賭け、死に場所で志を遂げたがる。
彼女は彼女で、戦うところで戦う勇気と意志があるんだ。
甘寧は一度強く目をつぶり、
「…………、一日だけ、情報を待つ。その後、私は先行して長沙へ向かう。江夏には少数精鋭で、間諜を放つ。江陵にも間諜を残す。魯粛はそれら全ての情報を統合して判断、行動しろ」
魯粛の覚悟を受けて、甘寧は判断を下した。
「ただし、軍勢は長江を渡らせておく。周泰はこの軍勢を伏せて敵に感づかせるな」
「はっ!」
「北郷たちは、捕虜の劉磐とともに周泰に従え。……悪いが、地獄に付き合ってもらうぞ」
「承知の上だよ」
俺の返事に、甘寧は目を一瞬伏せた。
謝罪しているようでもあり、感謝しているようでもある。
「…………よし。軍勢の半分は馬を捨てろ。輜重隊は長江で切り離す。明命。全軍の装備を整え、渡河準備」
「はっ!!」
明命が命令を受け取るとほぼ同時に、懸けだした。
「北郷たちは人数も少ない。私と一緒に先に渡河を」
「わかった……桔梗、準備は大丈夫?」
「はっ。兵たちには三日分の食糧を携帯させ、残りは放棄させました。馬はどうしまするか?」
厳顔の問いに、俺が甘寧に視線をやると、
「馬は将の乗り馬のみで頼む」
甘寧がその意をくんで答えた。
「ということで」
「了解いたしました」
甘寧と俺たちは、長江へと向かった。
そこで孫呉の内偵が用意した輸送艇と合流するのだ。
「…………広大だな」
江陵から少しいけば、黄河と並ぶ大河、長江へぶちあたる。
大陸を南北に分かつ、広大無辺の大江。
対岸は見えず、ここを大軍が越えるのは難しいだろうな、と容易に想像ができた。
長江に沿って、しばらく俺たちは東進した。
「江陵に近い場所で渡ると、露見するかもしれないからな」
「どこらへんで渡るんだ?」
「烏林のあたりだ。そこからら渡れば、ほとんど長江の支流につきあたることなく、一気に南下できる」
「烏林…………赤壁が近いな」
「ああ。江陵と江夏、どちらからも適度に距離が離れている」
これまでの三日間よりゆるい歩調で、長江の流れを右手に眺めつつ行く。疲労のせいか、この散歩のような時間は、眠気に誘われた。
「…………」
かくっ、と的盧の背から落ちかける。
「っ、……!?」
頭が何かに当たって支えられた。
柔らかな感触に、安心して目を閉じそうになる。
「お…………おいっ!」
どんっ、と押されて、落ちかけていた意識と共に、上体を起こす。
「あ、ああ、ごめん」
位置的に、思春の肩に頭を乗せてしまったらしい。
「ふん…………気をつけろ」
「うん。ありがと」
そむけた顔の頬の色が、軽く赤くなっていた。
ふっ、と気が抜けて、口角がゆるんだ。
「一日休みで良かった……」
疲れもあるし、今日はよく眠れそうだな、と思った。
「輜重隊はここで離脱だ。補給ができない状態、しかも荷馬もいないのでは、せいぜい三日分しか運べない。つまり――」
「三日以内に全てを決めなきゃいけないってこと?」
赤壁にて。乗った船の船尾。
俺と思春は肩を並べていた。
「周囲の拠点から略奪しつつ、食いつないでいくことになる。状況は悪化するばかりだ…………最悪、お前は敵に降伏することだな」
「ああ、そういう手もあったか」
「……想定していなかったのか?」
「まぁね。最悪は孫権を助けられないことだと思ってたから」
「…………」
数十人の兵と、数頭の馬を隠した船が大河を縦断する。
隣の思春の沈黙を象徴するように、水面は静かだった。
「三日、か……」
静寂に耐えきれずつぶやいた。
心臓の鼓動に合わせて、頬の傷がじんじんと痛みを発した。治りかけていると思っていたのだが、強行軍で傷が開いたのかもしれない。
「……痛むのか?」
俺が少し顔を引きつらせているのに気づいたのか、思春は傷を見る。
「たいしたことないよ。動いてると忘れる程度の痛みだし」
「…………そうか」
そこまで心配しているわけじゃないのだろう。すぐに彼女は視線を長江の果てへ移した。
「この先に、呉があるのかな?」
「――――ずっと……向こうにな」
長江が流れゆく天際、そこからもっと向こうの天の下に呉はある。
こうみると、中原とは違う天下というものが、確かにあるんだろうなと思えてくる。
でも、どんなに遠くても、俺の思いは一つだった。
「みんな、無事で帰れれば良いんだけど」
「…………ん」
短く、彼女らしく、同意を示してまた思春は沈黙した。
張り詰めた彼女の横顔。
それを緩ませ和ませるには、蓮華を無事に救出するしかない。
蓮華自身のためにも、思春のためにも、ここで頑張らなきゃな。
やがて見えてきた対岸を睨み、俺は腰の無銘刀の柄頭を握り、軽く音を立てた。
同時に、チリン、と隣で鈴の清音。
思春と俺の意志が、静寂の水面に生じた二つの波紋のように重なり、一つになったような音だった。
小舸が上陸すると、すぐに甘寧は馬に乗り、
「私は長沙に向かう――!」
と言い残すなり、馬を飛ばして駆けていった。
「うわ、はやっ……」
みるみるうちに小さくなる甘寧の背中を見送る。
「置いてかれちゃったなぁ」
はやる心を追いかけるように、全速力で蓮華の元へ駆ける思春が、ちょっとうらやましかった。
「少し先の丘の向こうに隠れて、周泰殿を待ちましょうぞ」
と、厳顔が言うのを受けて、
「うん……」
焦燥を飲み込んで、船から降ろした的盧の手綱を引く。
ガシッ!
「へ?」
腰の無銘刀を、的盧が口でくわえた。そしてするりと、とられてしまう。
「ちょ! 的盧っ! それは食べ物じゃ無いぞっ!」
と刀を取り返そうとすると、的盧は前に歩き出した。
手綱を掴んでいたため逃げられることは無かったが、俺はこのままだと引きずられると思い、鐙を踏んで鞍に登った。
その瞬間――
どんっ、と風景が飛んだ。
「どわああああああああああああああっ!!!?」
「お館様!?」
「北郷っ!?」
的盧が大地を蹴り風を切り、走り出していた。
真っ直ぐに、甘寧が消えていった方角、南へ向かって。
「おおおおおっ、と、止まれええっ、て、的盧おおっ!!」
かろうじて握っていた手綱を引くが、的盧は止まるどころか加速を強め、俺は振り落とされないようにしがみつくことしかできなくなった。
襲歩――馬が出せる最大戦闘速度で、俺は引っ張られていった。
走る、という生やさしい速度では無く、飛ぶように、的盧は駆ける。
その姿、まさに竜駒。
「ど、どこへ行くつもりなんだこれっっ!!」
あまりの速さに目を開けるのもキツイ。
幸いというか、左右に揺さぶられる事は無いから落ちることは無いが……。
「っ! そうかっ、ってことは左右に曲がってない! 南に一直線で向かってるのかっ」
ぶるっ、と頷くように声を上げる的盧。
「お、おうっ、まさか、あれか! このまま長沙に行くつもりなのか!?」
だんっ!
「どわっ!!?」
力強く踏み切り、小さな段差を飛び越える。
完全に馬体が宙に浮き、数瞬の後に着陸。
「くっ、うう!」
尻が痛い。
昨日休んだ分、手綱を握る力は回復したが、それでも気を抜けば落馬しそうだ。
だがそんなことはお構いなしに、的盧は前へ進む。
その進撃の意志は、人間の力じゃ止められないように思えた。
「っ、し、信じるぞ! 的盧っ! こうなったら、最速で行ってくれ!」
そのせめてもの願いを受け入れたのかどうか、ともかく、的盧はペースを緩めず、走り続けた。
長沙。孫策軍の本拠地。
その城を何十にも囲う包囲陣。
陣の一番外側、山の上に長沙攻撃部隊の司令官は布陣していた。
将の名前は文聘(ぶんぺい)。字を仲業という。
赤銅色の短髪を掻き、両目を保護するゴーグルごしに、孫権の立て籠もる居城を睨んでいる。
「文聘さん。細作から伝令が」
一人の将が、同僚であり一時的な上司である彼女の元に報告に来た。
「む?」
まん丸の目をくりっと動かして、その将を見下ろす。
文聘とは対照的な、長く、蒼に近い髪。落ち着いた雰囲気をまといつつ、強調された胸が、女性らしさを暴力的なまでに感じさせる彼女の名は、黄忠。
長沙攻撃に従軍している、劉表軍新参の将である。
「網に怪しい人跡がひっかかったとか」
「臆病な州牧殿の配慮が機能したか」
「偵察や索敵は大の得意らしいですからね。劉表さまの兵士は」
「で、何人?」
「数人です。多くとも十人は超えません」
「舐めてるのか」
舌打ちしそうな口ぶりの文聘。
「どうされます?」
「狩りにいけ……といってもな……、得手じゃないのだがな。城攻めも狩りも」
やれやれ、と首をさする。
「いっそ…………いや、今考えることでは無いか」
目を閉じ、ゴーグルを外す。
「行く手を絞って、ねじ切れ。やれる時はやって良い」
「承知しました」
下知が飛び、黄忠は山を下りていく。
「…………」
再び長沙城を睨む文聘。
城壁はボロボロ、城兵も少なくない数が斃れている。
にもかかわらず、孫呉の牙門旗は高らかに掲げられていた。
「ふっ…………」
その光景に、なぜか文聘は片笑みを浮かべた。
くるり、と羽織っているマントを手で巻き付けて身体の前まで覆い、好意の色すら感じる笑みを、彼女は城に向け続けた。
長駆は夕方まで続いた。
数分、せいぜい十数分、休憩のようなものは何度かあったが、ほぼ走り通し。
「はっ……く、げほ、げほっ! うっ、うぇええ」
的盧が停止して、俺は地面に落ちるように降りた。
倒れ伏し、咳き込み、吐き出す。
「げほっ、げほっ、けふっ……っはぁあ……!」
呼吸は、なかなか整わなかった。
どこなのかわからない草原に寝っ転がり、俺は天を仰いだ。
空は夜の予感をはらんで悲しいほどに赤く、完全に開いてしまった頬の傷口から、同色の血が流れおちていくのを感じた。
「そんなに――」
どこかから声がした。
「――何を必死になっているのです?」
無邪気な疑問だった。
空から問いかけられてるみたいだった。
正確に言えば、倒れ込んでいる状態の俺の、頭上の方向からの問いかけ。
呼吸が落ち着いてきて、体勢をかえる余裕ができたので、頭を巡らせて、その声の方を見る。
「大丈夫ですか?」
声からして女性だとは思ったが、果たしてその通りだった。
でも、その女性の髪が恐ろしいほどに真っ赤で、俺は心臓を掴まれたように驚いた。
「どこかへ行くのかしら? それとも、どこかから逃げる途中?」
よくよく見ると、それは夕焼けの色を映しただけだった。
彼女の髪の色は真っ白。
銀髪と言うべきか、白髪というには若々しさがあり、美しかった。
「い、いや…………なんでもないです。大丈夫」
寝転がった姿勢から、緩慢な動きで立ち上がる。
「っ! けほっ」
まだ疲労が体内にたまってよどんでいるようだった。
「無理はしない方が良いですよ」
すっ、と彼女は近づき、膝から崩れ落ちた俺の背中をさすった。
「水をどうぞ」
咳が止まると、竹でできた水筒を差し出してくれた。
「ありがとう」
受け取り、水を喉に流し込む。
申し訳ないからちょっとだけのつもりが、口に水を含んだ瞬間勢いが止まらなくなり、一気に半分ぐらい飲んでしまった。
「……っと、すいません、飲み過ぎた」
「いえいえ」
ふふっ、と女性はほほえんで許してくれた。
あらためて俺は膝に力を入れ、立ち上がった。
立ち上がってみると、彼女は俺の腰のあたりに顔があった。
小さい……のではなく、椅子に座っているのだった。
椅子は両端に大きな車輪がくっつけられていて、それが車椅子なのだとわかった。
じっと見るのは悪いかな、と思って俺は顔をあげる。脚フェチでもないしな。
彼女は、髪質の若さと同じく、年はそんなにいっていないように見えた。少なくとも紫苑や桔梗と同年代だろうか?
「何か不穏なことを考えていませんか?」
「へ? い、いや! 何も!」
ぶんぶんと首を横に振った。
なんとなく、年のことについて言及するのはタブーだろうな、と思った。
「必死に走っていましたが、どこへ行くのですか?」
車輪をまわし、俺の横に並んで尋ねる。
視界の端で、的盧が静かにこちらを見ていた。
「ちょっと南へ、ね」
「南、ですか。あちらは戦場になっているようですよ。南蛮もいますし」
「うん……そうらしいね」
山の向こう、夕日が燃えている。
「でも、いかなくちゃならないから」
もう、戻るつもりは無かった。
戻った方が良いのは分かっているんだけど……。
「そうですか……では」
すっ、と彼女は袖口に手を入れた。
「?」
逆光で何が出てくるのかわからなかったが、彼女が俺の手を取り、
「傷を、見せて下さい」
と言ってきたので、素直に俺は従い、中腰になって彼女の目の高さに合わせる。
ツンと鼻を刺激する独特な匂い。薬だ。
「……あら?」
「ん? なにかあった?」
傷口を診た彼女は、小首をかしげた
「いえ……痛くはありませんか?」
「う〜ん、ちょっとだけ……傷が開いちゃったから」
「…………そうですか」
とりだした薬の瓶を使わぬまましまい、今度は別の薬を出す。
「塗りますよ」
瓶のふたを開け、粘性のある薬をぬるぬるっと塗布する。
頬に添えられた手が熱く、優しかった。
「これで……大丈夫だと思いますが。一両日は安静に」
「う、う〜ん。できたらいいんだけど」
そういうと、ぷにっ、とほっぺたをつねられた。
「死んじゃいますよ?」
「えええ?」
んな馬鹿な。
「場合によっては、です。南で何があるのかは知りませんが、どうかお大事に」
「うん…………あの、ありがとう」
「ええ。お薬代はいつかもらいますから」
ふふっ、と口に手を当て笑う。
「えっと……じゃあ、俺はそろそろ」
「そうですか」
「あ、そうだ。もし近くなら、連れて行こうか?」
車椅子では移動も大変そうだ。
「いえ。運んでくれる人がいますので、お気になさらず」
「そっか……それじゃ、本当にありがとう」
頭を下げる。
「ご無事で……それでは」
彼女は会釈を返し、片輪をまわして背を向ける。
俺もそれを見て反転し、的盧の元へ。
的盧が咥えていた無銘刀を取り返して腰に差し、最後にちらりと振り返る。
黄昏を背後に、彼女は俺を見ていた。
手を振ると、彼女もそれに応じて手を振り返す。
「はっ!」
それを別れに、俺は駆けだした。
彼女の手が触れた頬と、逆側の傷ついた片頬。両方の熱を冷ますように、風を感じながら、疾駆していく。
風の行方を追い続ける人はいないように、このたまたま邂逅した女性を、ずっと見つめ続けてはいられない。
俺は、すぐに心の中心から彼女を追いやり、蓮華の姿を目標に、その影を追い始めた。
「…………」
彼女は口を閉ざしたまま、また袖口に手をいれた。
ぞろり、と。
薬を取り出した同じ手で、無骨な光を放つ短刀を抜き出す。
匕首(ひしゅ)。
最も素朴な超接近戦用暗器。
彼女はそれを繰り、もてあそぶ。
さっきまで手中にいた男の、頬から首を撫で下ろすように。
「あれが…………北郷一刀」
先刻とは違い、体温も声音も冷え切っている。
「孫策にくっついてきたとは聞いていたけれど、ここまで深く踏み込んでくる、か」
ぐっ、と短刀の柄を握る。
「あれは…………殺しておかなくてよかったのかしら?」
もう爪の先ほどの小ささになった一刀の背中を睨み、
「…………ふふっ」
しかし、すぐに笑みを取り戻し、匕首も袖にしまった。
「まぁ、判断は任せるわ……面倒だもの」
車輪を、きぃ、と軋ませて、また一刀に背を向ける。
同時に、彼女の元に数人の騎兵が駆けてきた。
「劉表殿!」
「あら。カイ越さん」
土煙を上げ接近し、先頭の1人が飛び降りて、歩み寄る。
カイ越と呼ばれた将だ。
「もう休憩は終りですか?」
「十分時間はとったでしょう!! そもそも、歩くのしんどいから船で行くと言い出したのは殿ではないですか!!」
「だって…………船は酔うんだもの」
「だああああ!! じゃあ、何で移動すりゃ良いんですか!!」
「おぶってくれるのが一番ですかね」
「だあああ!!」
どたどたと、カイ越は地団駄を踏んだ。
「もう! 行きますよ!! 寝ている間は酔わないなら、夜に一気に北上しますから!!」
「あらあら。それがいいわね。じゃあ、車椅子押してくれます?」
「そんな悠長なことはしません! というか歩けるでしょあなたは!! 後ろに乗って下さい! 車椅子は部下に運ばせます!」
「ええ〜…………」
不満を漏らす主君を、女傑はひょいともちあげて馬に乗せ、来た道を立ち戻るのだった。
休憩を終えて的盧にまたがると、今度は制御の効く速さで、的盧は走り出した。
「やっぱり、蓮華の所に連れて行きたいのか? お前は」
馬首を撫でる。
「でもさ…………俺1人で何かできるかな? やれることはあるけど、桔梗頼みなんだよなぁ……」
不安になる。
的盧は答えない。というか答えられるわけが無い。
けれど、的盧は走りを速めて、なにかを促した。
「…………ははっ、そうだよな」
元々、襄陽でできることがなかったからこっちに来たんだ。
少しでも。
少しでも蓮華の近くに行かなければ。
できることも見つからないんだ。
「よ〜〜〜しっ!! 行くぞぉおおおお!!」
勢い込んで馬上で立ち上がると、
「うおっ!!?」
的盧が急停止した。
俺は落馬した。
速度はそこまででも無かったため、地面に叩きつけられても、ちょっとの間苦しむだけですんだ。
「いてて……なんなんだよもう!」
ようやく理解し合えたと思った的盧に抗議するが、的盧はそれを無視して、じっと、どこかを見上げていた。
「どこ見てんだ……?」
馬の視線を追うのは難しいが、頭の向いている方からすると――
「山?」
目前の道からそれた左手に、ずんぐりとした山が鎮座していた。
「…………おいおい。さすがに今から山登りは勘弁して欲しいんだが」
とろとろ、と的盧が歩き出す。
「お、おい! 行くなって!」
さすがに止めるが、的盧は悲しげな目でこちらを見て、また山へ向かった。
「な、なんなんだ……最短はこの山を越える道なのか? 違うだろ?」
道が蛇行しているならともかく、ほぼまっすぐに、道は続いてる。
だが、的盧はさっきまでの猪突猛進はどこへやら、道を行こうとはしない。
「…………わかった。わかったよ! 山に入れって言うんだな? ……夜が近い。深くはいかないでくれよ」
鐙を踏み、闇に近い山に入る。
視界が悪いだけに、耳をそばだてて、周囲の音に集中する。
風が吹くたび葉擦れの音。その奥になにかあるのだろうか。
息。
呼吸。
気配があるのか……無いのか。
ある、といえば有る気がするし、無いといえば、無い気がする。
俺は別にそういうのに敏感じゃない。
だが、的盧が何かをつかんだのなら、何かある、と思いながら当たりを探った方が良いだろう。
(いるとしたら……敵、じゃないのか)
腰の刀を意識する。
いつでも抜けるように。
いつでも――斬れるように。
馬上からの斬撃は至極難しい。手綱を握っていれば片手になるし、両手で斬ろうとすれば体勢が崩れる。
現代で剣道は練習を積んできたけど、馬上から下方への斬撃なんて想像もしなかったしな……。
夕日は山道を照らしているが、徐々に暗闇に浸食されていき、数歩先が見えなくなる。
(これ以上は……行くなら、的盧を降りた方が良いか)
と、下を見た刹那、
「はぁっ!!!」
息を吐く音。
風を裂く音。
俺は反射的に体を伏せた。
さっきまで俺の体があった位置を通って、子供の拳大の石が大地へ突き刺さった。
「くっ!?」
弾道からして上から。
方角は山頂方向。道の斜め左。
「ちっ!」
考えるより先に的盧を走らせる。
馬首を返してはいられない。速度の出ていない今、背中を向けたらマズイ。
向かうなら道の先! 山を降りられそうならそっちに。駄目なら身を隠せる場所に!
「!?」
横手に何かを構える気配。
身を沈め、片手で刀を抜き、頭部から脇腹にかけてを守る。
ガギンっ!!!
刀身に衝撃。
「つ、ううううっ!!」
無銘刀は折れたり砕けることは無いが、俺自身の手は折れるし場合によっては砕けるぞ。
痛みに耐えて、敵の射手の方を見ながら疾駆し――
「――!?」
重力が消失した。
慌てて前を見ると、道が唐突に無くなっていて、崖のようになっていた。
「うわああああああああああああ!?」
落ちる。
俺は目を閉じた。
死ぬ。死ななくても無事じゃすまない。
「蓮華っ……!」
まだ死ぬわけにはいかない。
できることをしようと、ぎゅっと手綱を強く握った。
「がッ!?」
思ったよりはやく、みじかく、落下の衝撃は終わった。
「いっつううう……なんなんだ……あ」
後ろを見るとすぐ上に、さっきまでいた道が見えた。せいぜい俺の身長分ぐらいしかない高さから、ここに着地したらしい。
つまり、的盧は落ちたのでは無く、飛んだのだ。この崖の中腹にある道を目指して。
「助かった……か」
俺が胸を撫で下ろすと、的盧も脚を緩め、とろとろ前進して、ついに止まった。
「少し休むか……」
ちょうどよさそうな岩陰に的盧を隠す。
俺も岩に背中を預け……。
「……?」
岩陰の奥で、何かが、光った。
的盧も、それを見て、唸っている。
俺はそれに誘われて、岩と岩の隙間にある空間に入り――
「――!」
闇と、闇の中に浮かぶ光に押さえ込まれた。
「っ!? くはっっ!?」
岩肌に背中を強打し、肺の中の空気が押し出される。
「動くな」
冷たい殺意をこめた声。
「苦しませずに殺してやる」
背筋と脳髄を凍り付かせる、残酷な宣言。
凜とした声と、首を落とさんと煌めく朱色の曲刀。
そして――
「ししゅ……甘寧?」
鈴の音色が山に吸い込まれていく。
「ほん……ごう……?」
俺を認識した思春は、手の力を緩め、さらに、脚の力までぬけたのか、俺の方に倒れ込んできた。
俺は彼女を抱きとめ、抱きしめた。
隣で的盧が満足げに、とんとん、と土を足で叩いて鳴らしていた。
「なぜこんなところにいる?」
さっきよりは距離を置いて、けれど岩陰の中、身を寄せ合って、互いの状況を確認した。
「……信じられないかもしれないけど、こいつに連れてこられた」
と、親指で背後の的盧を示す。
それを肯定するように的盧は首を振った。
「…………馬鹿なことを、と言いたいが。まぁいい」
甘寧は深く追求せず、現状の打破に必要な情報のみを求めた。
「長沙への最短路は警戒が厳しくなっていた。だから迂回してこの山に入ったのだが……」
「狙われた?」
「お前もか」
「うん。山にはいったら、頂上方向から」
「…………黄祖だ」
「へ?」
思いも寄らない名前だった。
「江陵にいたんだよな? なんでこんなとこに?」
「理由は分からんが、いるのだから仕方ない。捕殺しようと思ったが、不覚をとった」
「っ!? どこか怪我したの!?」
間近からでは逆に分からないが、座り込んでいる彼女の体を上から下へ眺める。
「あ。足か?」
さっき俺の方に倒れ込んできたし、考えてみれば、移動できるなら、この岩陰に隠れる理由がわからない。
「ただの打撲だ」
「……一応見せてくれる?」
「……ふん」
彼女は鼻を鳴らすが、素直に足を俺の方に向けた。
「足首?」
尋ねると、こく、と首肯する。
「暗くてわかりづらいけど…………これは、歩けそうに無いな」
「少し休めば回復する」
「…………そうか」
その少しがどれぐらいかはわからないが、ともかく休まなければというのは確かだ。
「私は…………」
並んで身を隠し、ただ時を待つこと十数分。
寡黙な彼女のほうから、口を開いた。
「焦りすぎた……か?」
「…………」
彼女の横顔をみる。
あの張り詰めていた思春が、ほつれつつあった。
長沙への到着を急いて、逆にここで足止めを食ってしまった。
「軍勢と共に行けば、警戒網など一刻もあれば切断して潜入できた。それが……こんな」
俺は、小さくなった彼女の背を後ろから抱きしめて、手を握って……というのを我慢して、
「いまそれを考えてどうする?」
突き放すように、
「走り出して止まれないなら、最後まで走りきれるようにするしかないじゃないか」
彼女の手を取った。
思春は俺の顔を見上げ、すぐ顔を伏せた。
「お前に言われると……頭にくる」
「はは」
「…………それに」
彼女は俺の手を支えに、立ち上がった。
「どうやら、単独でこの山に入ったのは正解だったようだ」
俺の体を通り越して、彼女は山裾を睥睨していた。
「警戒網が予想より狭まって……いや、囲まれ始めているのか。さっきから鳥が山に帰ってこない」
「え……! ま、マズイな……それは」
思春が足を痛めているのでは逃げようが無い。
「いや。物陰の多い、山の中の方が好都合だ。道を封鎖している敵の工作部隊、細作たちだろう…………ここで仕留めれば、後で周泰たちが通りやすくなる」
「できるのか……?」
「走りきれと言ったのはお前だ」
そう言って、口の端をちょっとだけあげて、思春は笑った。
「少し移動するぞ。馬は置いていけ」
「う、うん」
足を引きずる彼女に肩を貸し、山の等高線にそって移動を始める。
後ろを見ると、置いていかれた的盧が、きょとんとした目でこちらを見ていた。
「水の音…………川が近いな」
「よく気づくな」
俺の耳には、近くにいる思春の息づかいしか聞こえなかった。
「そちらに移動しよう。敵を川で削る」
従って、思春の指し示す方向へ。
果たして、川は近くにあり、思春は川そばの樹影に身を潜めた。
「しばらく声を控えろ」
「わかった……」
口を閉じ、思春の少し後ろの別の樹で体を隠す。
「…………」
俺は耳を聾する川の流れる音を意識から排除し、目を皿のようにして、視界の外から来るであろう、敵の姿をとらえようと構えた。
けれど、思春は逆に目を細め、耳の方に意識を置いているように見えた。
数分か、もっとか、長短定かならぬ時間が過ぎて、甘寧が動き出した。
足をかばっているせいでゆっくりであるが確かな足取りで、一直線に後方へ向かっていく。
後ろ?
前から来るんじゃ無いのか?
という疑問はあったが、彼女への信頼から、声には出さなかった。
甘寧が後方の山林に消え、しばらくして……。
「数人始末した」
彼女は帰ってきて事後報告した。
「死体は目立つところに放置しておいた。これで、敵は警戒を強めるだろう」
横に立つ思春の脇に手を回し、支える。
「夜になる。川を越えて休むぞ」
「大丈夫なの?」
「警戒している敵は、夜には動かない」
その言葉を信頼し、川を徒歩で渡る。
「抱えるよ?」
「…………ん」
足を怪我している思春を支えるのに片手じゃきつい。
両足を抱え上げ、横抱き、いわゆるお姫様だっこで川を渡る。
下肢を浸す水は重かったけれど、それ以上に、両手にかかる彼女の重みが心強く、背中を押してくれているように感じた。支えてるのはこっちなのだけれど。
「このままいこうか?」
「ん…………いや……頼む」
拒否の気配があったが、結局彼女は腕の中で大人しくしていた。
抱えてみると少女は少女らしく小柄で、鍛えてはあっても柔らかさは失われて無くて、つい、顔がにやけてしまった。
「……なんだ?」
もう陽はほとんど沈んでいるので表情は見えないが、楽しげなのが伝わってしまったのだろう。思春は訝しんだ。
「いや、いままでスキンシップがあんまなかったから」
と言い訳するが、
「……なんだそれは」
思春は意味がわからないみたいだった。
考えてみたら、思春とふれあったことなんて、今まで無かったんだよな。
それこそ前の三国志世界以来――
「おい…………それ以上手を下げたら殺すぞ」
「え……あ」
膝裏のあたりを支えていたつもりが、ふとももに手が移っていた。
無意識にいろいろ撫でさすろうとしていたみたいだ。あぶね。俺の手あぶね。
「お前、劉備軍の女武将全員に手を出しているらしいな」
「へ? いやいや……そんなことは無いよ?」
無いよな? さっきの俺の手のように、無意識でやってなければの話だが。
忙しすぎて、最近仲間になった桔梗とかとは2人きりになる機会が無かったし。
「なら半分は」
「…………」
余裕で。
手を出している。
というか情を交わしていない人を数える方がはやい。
「最悪だな」
「うぐ……」
返す言葉が無い。
でも、何も言わないわけにもいかず、
「で、でも、無理矢理とか、強制とかじゃなくて、その……それぞれの意思で……」
弁明するも尻すぼみ。
「まさか…………呉にも食指を伸ばそうと……」
「な、ないない……! 命がけでそんなこと……」
しないとはいえないが。
「……これから交互に仮眠をとるが……」
「……う、うん」
「手を出したら……殺しはしないが……斬る」
「斬られる……!?」
どこを!? あれを!? なにを!?
「そこの倒木を使うぞ。降ろして、少し離れろ」
「お、おう」
縮こまっちゃった俺と俺の下半身をよそに、思春は腕の中からひょいっと抜けだし、垂直に切り立った岩壁によりかかった倒木を背後に、愛刀・鈴音を構えた。
倒木と岩壁、盛り上がった土によって、あたりの視界を遮る小空間が形成されており、あとは入り口を塞ぐだけで、八方をカバーできる。
「ふっ!!」
思春は片足でジャンプし、背丈より上にある枝を音も無く切り落とした。
葉擦れの音もなく、無音でそれをなしとげ、着地した。
「くっ」
ちょっとバランスを崩したが、予期していた俺がすぐ背中を支えて転倒を回避した。
「…………悪い」
「いやいや」
思春が手にした枝を使って、倒木に立てかける。そこに葉っぱをいくらかけて、入り口を隠す。
ついでに小空間の地面にも葉っぱを撒き、布団がわりにする。
「ふぅ……ようやく落ち着けたな」
動きっぱなしで、あちこちに疲労と痛みがたまっている。
「とりあえず……足の怪我もあるし、思春が先に寝る?」
「……そうだな。先に横になるが……何かあればすぐに起こしていい」
「わかった」
素直に思春は体を休ませた。
真夜中に2人。
1人は静かな寝息を立てている
「…………」
ちらり、と俺は思春の寝顔を見る。
安らかとは言えないまでも、緊張から解放されて、険しさは無くなっていた。
「可愛いよな……やっぱり」
なかなかじっくり見る機会が無いせいか、改めてみるとドキッとする。
顔もそうだが、下に視線を降ろせば、履いていないんじゃ無いかと思うほど露出が多い下半身が月明かりに照らされている。
ふっふっふ、眠気に負けることを心配していたが、悶々として全然眠くなってこないぜ。
しかも、性欲に負けて思春に襲いかかってしまう心配は無い。斬られちゃうから。
ふっふっふ。
ちょっと悲しくなってきた。
頑張ろう、呉の仲間とも仲良くなろう、と思った。
それから、思春と何度か交代して眠りについて、そろそろ朝かという時刻。
目をさました瞬間。
思春のお尻が目の前にあった。
「!?」
思春が寝床の出入り口にしゃがんで外を見張っていて、俺が寝そべっているからこその、素晴らしい光景。
俺はしばらく、その美事な双球を眺めることにした。
完全な半球型に近い、艶のある小麦色の、魅惑の果実。
乳房とは違い突起が無いため、視線が1点に集中せず、どこを見ても極まりなく、いつまでも見ていられそうな魅力があった。
そして、その双丘の谷間をなぞる白布。フンドシがただでさえ張りのある臀部をつり上げて、ますます触れればどうにかなりそうな予感を高めている。
なにより、その一枚の布をずらせば秘密のいろいろがあらわに――
「……うぅ」
たまらないことになってまいりました。
「……起きたか」
唸った俺の声を聞き、思春が前を見たまま言う。
「う、うん。明るくなってきたね」
「ああ。敵も動き出す頃だ」
「……用意しようか。シャツを替えて……と」
「上着も着ておけ。藪や獣道に入るからな。それに朝は肌寒い」
「……暑いぐらいだけどね」
諸々の事情で。
「足は大丈夫?」
「全力は無理だが、半分程度には回復した。昼までに敵の細作を排除し、孫権様の元へ向かいたい」
「そうだね。ここで時間かけるのもなんだし……」
そうなると、ちょっと時間かかるけど、的盧を回収しに行った方が良いな。
「敵は単独では無く数人編成の部隊で来るだろう。一つずつ潰していくぞ」
「了解……」
一夜のねぐらを後にし、山頂近くへと登っていく。
敵は俺たちが山中から逃れたがっていると思っている。山頂側の警戒は薄いと思春は睨んだ。
「っ……ふっ……!」
斜面を這い上がり、体を物陰へ滑り込ませる思春。
眉間に寄った皺は、まだ本調子では無いことを思わせた。
「…………」
甘寧は上から下の様子を窺い、こちらにハンドサインを送る。
俺は彼女の動きをなぞり、上へ登る。
「……そろそろ山頂だ。ちょっと背中を貸せ」
「んん? いいけど」
木の枝をつかんで、斜面で直立する。
その背中に思春は乗り、ジャンプした。
そして、思春は影と化し、枝を伝い、上方向から山頂を急襲した。
俺は下からそれを見ていたが、時折、敵の短い悲鳴の声が聞こえるだけで、それも早朝の鳥の鳴き声でかき消えていった。
少しして、思春はこちらに顔を見せ、俺を手招いた。
「山頂は制圧した」
「さすが……これでだいぶ有利だね」
「ああ。樹の上からみたところ、敵の部隊は大きく三つに分かれる。それぞれ北側、西側、南側をおさえているようだ」
「どこからいく?」
「私たちは北から川を渡った。警戒の度合いはそちらの方が強いだろう。まず南から叩く」
「わかった」
頂上から山の南側へ。
「よっと」
木々の間から山の中腹から山裾までの様子を窺う。
「……どこらへん?」
「動いている。予想される接触位置は、あの高木のあたりだ」
山の中腹にすっと伸びる高木。
一気に降りれば10分以内に到着できそうだ。
「視界が結構通ってるな……上着脱ぐか」
ジャージの上を脱ぐ。下は迷彩シャツだ。幸い、迷彩柄と周囲の風景は酷似している。
「よし。行こうか」
「…………結果的に良かったな。その服」
「へへへ。後であげようか?」
「…………いらん。汗臭い」
「い、いや、今着てるやつじゃなくて……」
なんてことを言いながら、南斜面へ。
今度は俺が先に地面を降りていく。
「…………クリアっと」
前方180度の視界に敵影なし。
それ以外の範囲は後ろの甘寧がカバーしてくれる。
後方に合図を出し、思春を呼ぶ。
意識を集中してもわからないぐらい無音で、
「それでいい。あとはもう少し音を立てないよう気をつけろ」
「了解っ」
及第点をもらい、さらに忍んで下へ。
「っ!?」
腰に結わえられた紐が、くっ、と引っ張られた。
後ろからの合図だ。
俺は音を立てないように停止し、木の根元でしゃがみこんだ。
「ん……? 何か音が」
藪の向こうから声が聞こえた。
敵。
緩んでいた緊張が一息に高まる。
汗がどっと出て、吐息が漏れそうになる。
手で口を押さえるが、意識してしまうと駄目だ。
「獣……? いや」
敵が動く気配。しかも、こちら側に。
「――ッ!」
甘寧による山上からの刎頸一閃。
敵がどうっと斃れる。
「!?」
胸を撫で下ろした刹那、もう一つ敵の気配が急接近してきた。
思春の死角から影を縫って近寄り、短槍を突き刺そうと――
「ふっ!!」
咄嗟に刀を抜き、そのまま樹の枝ごと斬り払った。
「ぐおっ!?」
不意打ちをくらい、敵は転倒し、すぐに甘寧がその体をとりおさえて気絶させた。
「はっ……はぁ」
斬り倒した感触と、危機の緊張からの解放で、興奮して頭に熱が登ってくる。
「2人組だったか」
「うん……1人が新人で、もう1人がベテランかな……俺と甘寧みたいだね」
「…………私は新人に助けられたがな」
「あ、そうだ。敵の服もらおっと。これでもっとわかりづらくなるぞ」
「お前…………本当に君主か」
「良い考えだと思うんだけど……」
一応上着だけ貰いました。
「このあたりにはまだ何人かいるはずだ。ここからは私が先行する」
鈴音の血を拭い、歩き出す甘寧。
ずっ――
「あ……」
彼女は怪我した足を引きずり始めていた。
上から落下するようなやりかたで戦ってるからな……。
(俺役に立たないと……)
無銘刀を鞘に納め、思春を追う。
しかし、俺の思いをよそに、思春は1人で敵を駆逐していく。
「これで南側は制圧した」
「どうする? 一度頂上に戻る?」
「必要ない。あの木に登る」
「ああ……上から見えた高木か」
納得した時にはもう思春は樹の上へとのぼっていた。
一瞬見えた彼女の横顔は、やはり苦しげだった。
俺は、下から見える彼女のお尻とかが意識できなくなるくらい、蒼白になった彼女の顔色が気になって仕方が無かった。
樹上からの物見をすませ、降りて、今度は同じ高さで横に移動する。
甘寧が前進、合図で俺が前進、甘寧が前進、というのを繰り返す。
そして今回は、俺と思春がほぼ同時に敵を発見した。
「4人……」
多くも無いが少なくも無い。
特に失調気味の甘寧にとっては……。
「3人までを一気に排除する……、1人、気を逸れさせてくれ」
甘寧は協力を申し出てきた。他のことならまだしも戦闘でというのは珍しい。
「注意をこっちに向ければ良いんだな?」
「ああ。だが、無闇に近づくなよ」
「おう」
敵を倒すわけじゃないなら、遠距離でもできることはある。
ただ、できるなら思春の攻撃にも役に立つようにしたいが……。
「出るぞ……!」
気がつけば、一気に敵の斜め後ろに飛び、攻撃を開始した。
「ひとつ……っ!」
索敵部隊の最後方にいた敵を失神させる。
一番後ろにいたこともあって、まだ誰もその攻撃に気づいていない。
そのまま2人目を――
ずざっ……!
「!?」
思春がバランスを崩した。
攻撃を終えたあとの一瞬の足捌きに失敗し、音を出してしまった。
そして――
「――ッ!?」
残りの3人が一斉に視線を甘寧に集中させた。
敵が甘寧を認識し、戦闘体勢をとる。
その直後に、思春は崩れたバランスを利用して転がるように横にジャンプし、2人目の敵を打ち倒した。
残り2人!
だが、敵は完全にこちらを認識した。
甘寧は2人まで気づかれないまま倒すつもりだったようだが、失敗した。
俺は咄嗟に駆けだした。
しゃがみ込んでいる時に何となくつかんでいた石をポケットに入れ、斜めに。
「ふ!!」
思春と3人目が戦闘を開始した。
真正面からぶつかり合ったが、一撃目では決まらない。
曲刀・鈴音と短槍が交錯し、二撃目。若干敵が押されるが、まだ決まらない。
衝突の反作用で後退した思春が、少し腰を落とした。
次で決める――!
思春は、眼前の敵の背中越しに、長槍を構えた四人目の姿を見た。
――味方ごと刺し貫くつもりか――!
横にはよけられない。
飛ぶか――?
さらに腰を沈め……足の痛みに歯を食いしばった。
甘寧は上では無く前に飛び、3人目にタックルした。
四人目が突きだした長槍は外れるが、このままでは三人がもつれて甘寧が地面に押しつぶされかねない。
「だぁああ!!」
上から石を投擲し、4人目の顔を打つ。
前傾していた4人目は、のけぞった。
俺は坂の上から半ば落ちるように跳び、甘寧に被さった敵を蹴りはがした。
「っ、くっ、はぁ……!」
抜け出した思春を抱え起こしたところに、蹴られた三人目が躍りかかってきた。
「離れろ!!」
繰り出された短槍は、思春と俺の体の隙間へと外れた。
思春は振り返らずに脇から曲刀を背後に突きだし、三人目を刺し倒した。
「あと1人――っ」
立ち上がった瞬間横薙ぎの槍に体を打たれた。
「ぐぅっ!?」
そのまま吹き飛ばされそうになるが、
「北郷っ!?」
思春の声を聞いた瞬間、俺は腰当たりを痛打した敵の槍を脇に抱えて、引いた。
「ぬっ!?」
「このっ!」
痛みと熱を覚えながら、槍に手だけでは無く足をかけ、敵の動作を止める。
「邪魔っ……」
いらだった敵が俺の腹を蹴り飛ばそうと足を振りあげ、
「だっ!!」
チリン。
鈴の音。
瞬きと瞬きの間の一閃が、敵を両断した。
「無事か!?」
長槍もちの巨漢をただの一度で斬り飛ばした思春は、血も拭わずに俺を心配した。
「平気、平気……っ」
槍で殴られた時は死んだかと思ったが、当たったのは槍の柄の部分だった。
痛いが、動くのに支障は無い。
「でも……、はぁ……ふううう、恐かったぁ……」
肩で息をして、汗を拭う。
尋常じゃ無い汗の量が、死線のスレスレから脱出したことをあらわしていた。
「…………敵は大体排除した。このまま山を下るか」
「まだ、北側の敵が残ってるんじゃ無いの?」
「…………」
その沈黙に、迷いを感じた。
「どちらにせよ、ここから長沙へ向かうとして半日ぐらい……? 長沙の偵察が終わる前に、魯粛と周泰が判断して潜行部隊をこっちに向かわせると思う」
「そうだな……。劉表との交渉に入れるか否かもあるが、時間的に、南下を始める頃だろう。軍勢の移動速度を考えると……あと二日で長沙に到着するか」
「今から長沙へ向かって、偵察だけしておくか、それとも、ここで進路を啓開しておくか? その二択だよね」
「ふむ……」
思春は腕を組む。
「甘寧の思うベスト……最善の選択に従うよ」
「……わかった」
彼女は迷いを斬り捨て、
「この山の敵を一掃する。軍の足止めはさせん」
思春は目の色の奥に澄んだ火をともした
俺は頷き、彼女と共に山路を一旦、北へ。
ズキッ、と腰がたまに痛み、頬の傷も疼く。
けれど、足は止まらなかった。俺も、もう行着くところまで、止まれないんだと思った。
太陽が中天にかかり、熱さが体にふりかかってくるのを感じる頃、俺たちは最後の敵細作部隊を発見した。
「…………」
あらかじめ作戦を決めていた俺たちは、足を止めずに距離を詰めた。
「……ん?」
敵が俺たちに気づく。
俺と思春はあえて敵に対して一直線には近づかなかった。
距離をとり、徐々に、徐々に……。
その動きに、敵は油断した。
俺たちが敵では無い、と。
思春の合図がきた。
走り出す。
思春が俺の背後から敵から奪った短槍を投げ、敵部隊の1人を撃破した。
「敵襲!!」
後方から思春の叫び声。
「ちぃっ!」
俺は舌打ちし、敵側面をかすめて山を駆け下りる。
「な、なんだ!?」
敵部隊は突然の出来事に仰天し、
「敵だ! 味方になりすましている!」
思春の声に、敵がざわめきながらも一つにまとまり始める。
「お、追えっ! 逃がすな!」
その指示に、敵部隊が俺を追跡してくる。
「おっと! あぶね」
木々の合間を縫って降りていても、石と矢が飛んでくる。
俺は上着を脱いで頭の後ろから背中にかけてはためかせ、矢よけにする。
俺たちと敵の一団は縦に長い列となった。
俺を先頭に、敵の部隊、一番後ろに甘寧という状況。
となれば当然ながら――
「ふっ……!」
一人ずつ、後ろから仕留めていく甘寧。
俺という味方の振りをした敵の姿を追う敵部隊には、甘寧の凶行が見えていない。
甘寧が背後に位置しているからということだけでない。
甘寧が敵の軍服上下を着こんで溶け込んでいるから、ということが重要だった。
そしてその甘寧が最初に、俺が変装した敵であると叫んだことにより、注意は俺一人にあつまった。
故に、部隊が半壊するまで敵は惨状に気づかなかった。
「な、なんだ!? なんで後続がやられて……!? ……止まれ!」
部隊長らしき人が停止を命じる。
「敵は一人じゃ無いぞっ」
「正解っ……!」
一瞬間のうちに部隊長を確認し、討ち取る甘寧。
「お、おい……!? 隊長がいないぞっ!?」
「どういうことだ!?」
「独行するな! 何かおかしいぞ!」
部隊が停止する。
それを確認して俺は少し待って反転した。
「あ、あいつだ! 血が!」
地面に残った血の方向から、甘寧が見破られる。
「さっきの奴と挟まれるぞ、背中合せにかたまれ!」
敵部隊が円陣を組み、外に対して警戒を強める態勢をとる。
だが、
「ぐわっ!?」
高さのアドバンテージをいかして思春が投石で切り崩し、陣が維持しきれない。
「くっ! 下の敵はもう逃げた! 上に集中しろ!」
円陣を解き、横一線から甘寧の包囲に移る。
その判断は多分間違ってはいなかったが、度重なる命令の変更に敵部隊は困惑し、徐々に足並みが乱れていき、そこを甘寧が各個撃破する事態となっている。
そして、なんとかまとまって甘寧を包囲した頃には――
「てりゃ!」
俺が敵背後に忍び寄り、足をつかんで転ばせて、
「はっ!」
思春が止めを刺す。
「な……!? い、いつの間に……!?」
またもや後ろから攻撃を受けて、敵は回復不可能な混乱状態に入った。
俺はさっきまで着ていた敵の服を脱ぎ、迷彩服で敵の後背から迫ったのだ。単純だが、敵は前後に揺さぶりをかけられており、効果は予想以上だった。
「はっ! ふぅっ……!!」
鈴音が鳴り、そのたび悲鳴が跡を追う。
「ひっ!」
「ぐおっ!」
前後不覚に陥った敵など、もはや甘寧の敵では無かった。
俺は敵の最後の足掻きに触らないように、援護に徹して、戦闘を終えた。
「…………終りだ」
最後の一人を倒し、甘寧がつぶやく。
敵は全て大地に沈んでいた。
「やったね」
「……ん」
ガッツポーズの俺と、クールな思春。
「はは……しかし、疲れたぁ……汗がヒドイや」
「臭うから近寄るな」
「ひどっ!」
拭いても拭いても体の奥から汗がふきだしてくる。戦闘の熱は全身にまわり、呼吸を乱した。
「はぁ……、ふぅ……」
走り回っている内はよかったんだけど、止まると体が重い。
疲労もそろそろ限界に――
かくっ、と膝から力が抜けた。
「山を下りて明命を待つか……それとも馬を拾って長沙へ向かうか……」
ぐるぐる回る頭に、思春の声が響いた。
「おい北郷、お前はどっちが……?」
コマ飛びの映像のように、気づいた時には大地がすぐそばにあった。
最後の力で、地面に頭を打ち付けないように受け身を取った。
「北郷……!?」
そこで、意識が途絶えた。
「北郷!? どこかやられたか!?」
私は倒れた北郷一刀の傍による。
返事が無い。
見たところ、頬の傷以外、傷は見当たらない。
さっき敵の槍の柄で打たれた以外、傷は負っていないはずだ。
「っ!?」
触れた体が熱かった。
戦闘後ということを考慮しても、発汗の量が尋常じゃ無い。
病?
それにしては、体調の変化が急激すぎないか。
……毒?
いや……傷が無いならそれは……。
「っ、これか?」
頬につけられた傷。
数日前、敵の矢によって刻まれた傷。
遅効性の毒が塗られていたか……?
「っ!」
私は北郷一刀の体を抱えた。
重い。無駄に重い。
それに体が硬い。男の体だからか。
「運ぶぞ……北郷」
聞こえていないかもしれないが、呼びかける。
私は北へと進路をとり、駆けた。
足の痛みはあるが、気にしている場合では無い。
頭に入っている地図を参照し、一目散に馳せる。
やがて川にぶち当たる。昨日、こいつに抱き上げられて渡ったのを思い出し、唇をかんだ。
「何をやっていたんだ私は……!」
変な怒りを覚えながら、川を渡る。
渡りきって、川岸の草むら、柔らかいところを選んで北郷を寝かせる。
「はぁ……はぁ……」
北郷の息が熱っぽい。
川に戻り、水を皮袋に汲む。ついでに布を水に浸して、絞り、北郷の元へ。北郷の頭に冷やした布をのせて、考える。
……毒なら、厳しい。
即効性のものならともかく、遅効性のものは種類が多い。
解毒法を探している間に、取り返しのつかない事態になりかねない。
最大の問題は……北郷が盛られた毒が、致死毒なのかどうか。
「……っ」
爪をかむ。
見捨てるわけにはいかない。
いくら相手が北郷でも……気分が、悪い。
だが、何ができる……!?
今私が、できること……。
「……くっ、……!?」
ともかく、清潔な布を用意し、傷に押し当て包帯を巻く。
数日前の傷なのにまだ血がにじみ出ていた。
「…………!」
そうだ。
数日前。
北郷がやられたのは数日前の襄陽城。
その凶手、下手人は……?
「……有る……できることが」
再度、北郷を抱える。
重いぞ馬鹿。
私は昨日通った道を逆走し、あの北郷一刀と再会した崖下の岩壁に到着した。
「?」
つないであったはずの馬がいない。
逃げたか。まぁいい。
私は北郷を岩陰の奥に隠し、水筒を彼の横に置いて、外に出る。
「ふぅ……」
息を吐き、集中力を高める。
前後左右上下、全ての情報を掴めるように。
足の怪我は索敵能力に影響しない。全力でやれる。
山の澄んだ空気に、意識が乗る。感覚が肌から周囲の空間へ張り巡らされる。
身体を離れ、俯瞰からの視点で見下ろす感じ。
それが動いている間でもできるように、意識が切り替わった段階で、歩き出す。
行き先は崖の上だ。
「…………」
短刀を取り出し、巌壁の隙間に突き刺す。
その短刀の柄に乗り、上へ。
一回の跳躍では届かない。
絶壁に近い崖の、僅かな突起をつかみ、さらに上へ。
「……いるな」
崖の上の、崩落した道に着地する。
その時点で感知した。
北郷を射た人間の存在。
黄祖の存在を。
「う〜」
山路を歩く少女一人。
あちこちに顔を向け警戒しながらも、足取りはがさがさと忙しない。
「いない……いなくなった? ってか、夢か? ……敵がこんな所にいるわけ無かったか……」
先日、黄祖は敵軍の将、甘寧を発見した。
江陵からトコトコ長沙へ向かう途中、とある事情で黄祖は道を迂回して、山に入った。
そして同じ山に、偶然かあるいは黄祖と同じ事情か、甘寧が侵入してきたのだ。
黄祖は、待ち構えて甘寧を討ち取ろうとしたが……。
「手柄になると思ったのに……」
失敗した。
弓がなかったので、投石紐をつかって攻撃したのだが、普通に反撃された。
逆に追い詰められながらも、闇雲に石を放ちまくったところ、命中したのか何なのか、後退して、どこかに消えてしまった。
黄祖は甘寧を探しつつ、警戒しつつ、びくびくしつつ、山で一夜を明かした。
「いないならいいか……川越えて道にもどろっと……文聘さんに気づかれないようにしなきゃ、あの人の鉄拳は恐いぜ……」
よく考えたら、私の周りこわいのばっかだな……と思いつつ、甘寧は川に向かって歩き出す。
「…………劉磐、無事かな……」
勢いで逃げ出してしまったが、後悔の念が強くなってきた。
いつもこんなんだ。親元を離れた時も、賊をやめて劉表様に従うと決めた時も……。
後悔ばかりだ。
仕方ないじゃ無いかと言い訳しながら……。
「…………劉表さまに赦してもらえなかったとしても、一兵卒として襄陽救援に参加させてもらえればいいんだけど……」
襄陽はどうなっただろうか。陥落しただろうか。
大将のカイ良将軍、水軍の蔡瑁将軍、どちらも良将だと思うけど、相手がなぁ。
「孫策軍だもんな……相手。孫策はじめ恐い奴がいっぱい――」
「はっ!!」
黄祖は背中から突き飛ばされて転がされた。
「ぐみゃ!」
変な声を出して地面とキスする黄祖。
「っぶ、ぺっ……! な、なんだこらぁああ!」
短剣を抜いて振り向くが、そこには誰もいなかった。
「え?」
ぐるり。
顔を前に戻すと、そこに甘寧が立っていた。
「ひっ――!」
息を飲む。
ま、またお化けか……!
後ずさりして短剣を振り回す。
「く、くんな……! こないで……!」
「…………ふっ!」
キィン!
甘寧は無言で焦点の定まらない短刀を鈴音で弾き飛ばした。
「えっ……お、お化けじゃ無い……?」
「安心しろ。現実だ。全て」
甘寧は黄祖の首根っこをつかんで、曲刀を鼻先に突きつけた。
「……訊きたいことがある」
「あわわわわっ」
切っ先を見て、黄祖の顔が青ざめる。
「劉表はどこにいる……? 長沙か、江陵か……別の場所か?」
「し……知らない! こ、江陵にはいなかったけど……」
「ちっ」
舌打ち。
甘寧の不機嫌度がちょっと上がった。
黄祖は震え上がった。
「ちなみに嘘を言ったら……削ぐぞ」
「わわわわわかりました、わかったからちょっと離して――!」
一寸先の死を感じさせる赤い曲刀が、じっと黄祖を睨んでいる。
「次。長沙攻撃に参加している将は誰だ。兵力は?」
「ううう……ぶ、文聘将軍と黄忠将軍。兵力は……わかんない」
「ちっ」
「ううう、ちゃんと答えたじゃんか……」
黄祖涙目。
「…………続けるぞ」
甘寧は尋問を続行した。
黄祖にとって無限とも思える時間が流れた。
甘寧の簡潔な質問の仕方からして、経過した時間は10分も無かったのだが。
「…………お前が今持っているものを全てここに出せ」
「ふぇ?」
今までとまったく違う要求。
「……」
首をかしげた黄祖に、ぺちん、と鈴音の腹で頬を叩く甘寧。
「はわわわわ、わかったわかりましたっ……わかりましたよう……ぐすっ」
涙をのみ鼻をすする黄祖。
特攻服を脱いで、逆さに振る。
「大した物無いよ……お金ももうほとんど無いし」
確かに、碌な物が無かった。
何に使うのかわからない小物、ごてごてしい装身具、パチンコの弾……。
「下も脱げ」
「……え」
嘘だよね? という目。
「とっとと」
本気の目。
「ううう〜」
帯を緩め、ためらいつつ脱ぎ捨てる。
「……」
甘寧は片手でそれを拾い、目は黄祖から離さずに手だけで中を探る。
「……これは?」
平べったい小箱に入れられた、粉末状の何か。
「クスリ…………バカな奴が流行らせたから没収した」
「五石散か」
「そう……」
五石散。麻薬だ。
「……こっちは?」
円筒状の二重箱に入れられた薬。
「…………毒」
「……っ」
やはりか、と甘寧は心の中でつぶやいた。
なら――
「こっちは?」
こっちも円筒状の箱の塗り薬。色だけが違う。
「……さっきの毒の解毒薬」
ドクン、と思春の心臓の鼓動が跳ねる。
――よし。
安堵の吐息がでそうになるのをこらえ、鈴音の切っ先を――
――このまま殺すべきか?
と、思春は逡巡する。
いや……まだ利用できるかもしれない。
甘寧は自分の襟巻きを外し、手早く黄祖の目隠しとして頭に巻き付けた。
「ほへ?」
黄祖は抵抗もせず、手際の良さに戸惑いの声を上げるだけだった。
甘寧はさらにサラシ用の布で黄祖の両手を縛り、黄祖の身体を横抱きにした。
横抱きといっても、いわゆる、お姫様だっこではない。小脇に抱える形だ。
「な、なに? なんなの?」
ジタバタしてみるものの、直前まで腰が抜けてたせいで足掻きが力弱い。
甘寧は黄祖を片手に無言で一刀の元へ戻った。
俺が意識を取り戻したのは、その日の夕方だった。
耳朶を叩く川音。
痺れが走る手足に眉をしかめ、気だるい身体を起こす。
冷えたタオルがおでこから滑り落ちた。
「へ……?」
俺が寝ていた場所から少し離れて、目隠しされて手をつながれた女の子。それが下着姿で転がっていた。
「え……なに? どういうこと? 夢?」
寝起きで頭がぼうっとしているせいもあって、何がどうなっているのか理解できない。
「だ、誰かいるの……? ちょ、ちょっと……これ外して……外して下さいお願いします……!」
金髪の少女が身じろぎする。はずみでいろいろ見えそう。
特に、小柄な身体に対して大きめな胸が、今にもこぼれそう。
そのこぼれそうな感じの胸に思わず手をさしのべかける。
「あ、あの……?」
邪な空気を感じたのか、少女が不安げな声をあげる。
「はっ」
俺は正気に返った。
「ええと……なんでこんなことに?」
その疑問に、
「起きたか」
高所で番をしていたらしい思春の声が上から届いた。
「あ、甘寧……。ええと、なんで俺寝てたんだっけ?」
「……さぁな」
「うーん……暑かったし、熱中症かな」
首を捻る俺をよそに、甘寧は坂を下りてきて、
「……立てるか?」
「う〜ん……よっ」
両足に力を入れ、立ち上がる。
「……っと」
かくっ、と膝が崩れる。
思春が駆け寄り、俺の脇に腕をいれて支えた。
「まだ駄目か」
「いや、ただ単に走り疲れただけだと思うけど」
「ふん……惰弱だな」
「面目ない……」
「……もう少し休むか」
切り株に座りこむ甘寧。
「ごめん。とっとと長沙に行きたいところだよな」
思春は答えず、目を閉じて休息に入った。
俺も起こした身体をもう一度横たえる。
だるさが神経の末端に滞留していた。手、足、そして頭。
病気かもしれないが、あまり経験の無い病状だ。
ただ、痺れは時間がたつにつれ解け始め、熱はだんだん下がっている気がした。
「ところで」
俺は視線を巡らせ、
「この人は? 何か縛られてるけど」
下着姿の金髪少女にピントを合わせた。
「黄祖だ。捕縛した」
「ああ……そっか。そういえばこの山にいたんだっけ……なんか気の毒なことになってるけど」
甘寧が声を発したその瞬間から、フルフル、と黄祖は震えていた。
「逃げられても問題にはならないが……劉磐にしろ黄祖にしろ、捕まえておけば何かの役には立つだろう」
「劉磐!?」
黄祖がその名前に反応した。
「あいつ、い、生きてるのか?」
「ああ。我らの捕虜になっている」
「そ……そうか。良かった……」
震えを止め、安心した様子の黄祖。
そして俺たち三人はしばし黙りこみ、日が完全に沈む直前に、
「せめて、山は降りようか」
俺は立ち上がり、提案した。
「いけるか」
「ゆっくり歩けばね」
「わかった。黄祖は私が連れて行くから……お前は杖でもつかっていけ」
「うん」
俺たちは川沿いに山を下り始めた。
一応人の通れる山道とはいえ、凹凸が多く、足がとられそうになる。
杖がわりの無銘刀をたよりに、一歩一歩、転ばないように進む。
背中に思春の視線を感じる。
なんだかんだ、心配しているみたいだった。
そういえば寝て起きた時頭に水で濡らしたらしい冷えたタオルが乗っていたし、意外と気を遣って貰ってるのかな。
蓮華とか呉の面々の次ぐらいには。
思わず口元を緩め、それと同時に転びかけた。
「わっ、たっ」
「北郷っ!」
後ろで思春の声。
頼みの杖も転がっていた石の上を滑り、一緒に転ぶ形。
その場で素直に転んでおけば良かったものを、なんとか立て直そうと数歩前に出て踏みとどまろうとした結果、道の先の土手から落ちることになってしまった。
目を閉じ、両手を顔の前に出して衝撃に備え――
ぼふっ――!
と、なにか柔らかいモフモフしたものにぶつかって、転ばずに済んだ。
「な、なんだ?」
目を開けると真っ黒だった。
手を動かすと柔らかな毛の感触。
疑問符を浮かべたまま、埋まった顔を離し、一歩後退すると、目が合った。
「?」
首をかしげた細長い顔。
白い模様を額に浮かべた、黒毛の馬。
夕闇のなか、土手の影でぶつかるまで気づかなかった、見覚えのある駿馬。
「て、的盧!?」
そうだ。山に放置したままだった。
いないと思ってたら、こんなところに……。
「お前の馬か?」
甘寧が追いついて尋ねる。
「うん……そうか、喉が渇いたから川にまで来てたんだな」
「逃げたのかと思ったが、お前を待っていたようでもあるな」
確かに、的盧は俺をじっと見て、俺が動くまでここを離れるつもりが無いようだった。
「……ここに連れてきてくれたのもこいつだし……、何かあるのかな、的盧には」
馬は、人間にはとてもいけない距離を行く生き物だ。
いってみれば、あちらとこちらを繋ぐものだ。
「……」
俺は無銘刀を腰に差し、思った。
そう考えると、俺をこの世界に連れてきてくれた、この無銘刀にも通じるものなのかもな。
「よっと」
俺は的盧の背に乗った。
「甘寧も乗る?」
「いや。黄祖を運ぶからいい」
「……というか、黄祖、目隠し外して歩かせれば?」
「……それもそうだな」
黄祖の顔の縛めを解き、手の拘束に紐を結んで立たせる。
「歩け」
「あのー…………せめて服を着せて」
「歩け」
「……き、きちくぅ……」
涙目になりながら、下着のまま歩き始める黄祖。
多分、下着のままなら逃げないっていう考えなんだろうけど、ちょっと可哀想だ。
「北郷。お前は前をいけ」
「あ、うん」
視界に入っちゃうもんな。あられもない姿が。
俺たちは下山を再開した。
暗闇が空だけで無く地を満たしつつあった。
このペースだと、山を下りた時点で野宿だな。
その計算通り、山裾まできて、視界が開けた時点で完全な暗闇となった。
甘寧はあらかじめ用意しておいたらしい燃えさしで焚火をおこし、野営の準備をテキパキと済ませる。
俺も何か手伝おうと思ったが、いらない、と即座に断られた。
「昼は暑かったけど、夜は結構寒くなるね」
「……そうだな」
つまらない雑談にも、思春は一応返事をしてくれた。理由は分からないけど、ちょっとは距離が縮まっているのかな。
「よっと」
逃亡防止に手足を縛られた半裸状態の黄祖に、布団代わりの服をかぶせた。
「あ………ありがと……」
不器用な感謝。
悪い子じゃ無いのかも……と思ったけど俺この子に一回撃たれてるんだよなー。
まぁ、無事だしいっか。
「お腹すいたね」
一日ほとんど何も食べてない。
「…………そうだな」
なんだかんだ思春も腹ぺこのようだ。
ぐー。
「う……ううー」
黄祖のお腹が鳴った。顔を赤らめ、恥ずかしげだった。
「川に戻って魚を捕ろうにも、暗くて危ないし……背嚢に米とかはあるんだけど、おかずがなぁ」
「その心配はおそらくもう少しで解決する。時間的にそろそろ……」
と、甘寧が言葉を切る。
どうしたのかと顔を上げると、的盧が伏せていた顔を起こし、あらぬ方向を見ていた。
「なんだ……何かあるのか?」
その方向を注視する。
風が吹く。
焚火の炎が揺らぐ。
風で冷えた肌に、火の粉がちりちりと痛みを与えていく。
ぞろ……。
闇の向こうの気配が、動いた気がした。
「ひ……な、なに?」
嫌な空気に、黄祖がまた震える。手足が縛られているせいで、恐怖がより強いのだろう。
「安心しろ」
甘寧は何も恐れること無く、その闇の正体を見知っているようだった。
「味方だ」
闇の境界を越えて、ついに、それが焚火の光の範囲に侵入した。
「思春さんっ!?」
砂を蹴り立て、駆け込んできたのは周泰……明命だった。
「来る頃だと思っていた」
全く動じず、思春は明命を迎えた。
「あ! 北郷さん!! 無事だったんですね!」
恐れで無銘刀に手を掛けかけていた俺を見つけ、明命はぴょんと跳ねる。
「葉雄さんと厳顔さんが心配していましたよ! どこに行ったか分からなかったので今は潜行部隊に従っていますが……」
「そ、そっか……謝っとくよ」
怒られそうだな、とちょっと思った。
「それで、そちらの状況は?」
「はい。二千の潜行部隊が渡河を終えた時点で、劉表の居所が判明しなかったため、私と魯粛殿で判断し、長沙へ部隊を差し向けることにしました。切り離した千の輜重隊は、護衛隊の一部を魯粛殿の警護にあて、残りは予定通りです」
「そうか…………残念ながら、こちらはまだ長沙の偵察はできていない。が、収穫はあった」
と、甘寧は顎で黄祖を指し示す。
「……? 誰です?」
が、明命は黄祖の顔は知らなかった。
「敵将、黄祖だ」
「ああ…………敵将……敵ですね」
黄祖の胸を一瞥して、明命は納得。
「明朝出発し……長沙には昼過ぎには到着するだろう」
「そうですね。では、私は潜行部隊を誘導し、夜営をはじめます」
「ん。私も原隊に戻って指揮する。北郷軍の連中はこっちに誘導してやれ」
「はっ!」
明命は闇の向こうへ再び溶けた。
「行くぞ」
甘寧は黄祖を抱え、
「あう〜……」
ドナドナと周泰に続いた。
金髪少女の潤んだ目に少々同情した。
しばらくして、半怒り半喜びの華雄と厳顔が合流した。
一通り怒られた後、食事をとることになった。
俺と、華雄と、厳顔と――
「あ、そだ。劉磐」
捕虜になっている劉磐だ。
「はい?」
劉磐は足を軽く拘束されているだけだが、大人しくしていた。
「黄祖って、君の上司だっけ?」
「ええ。上司というか頭というか、そんな堅い関係でも無いですけど。それがなにか?」
「いや。ちょっとね……」
捕まえたとか言って良いのかわからないので、やめておいた。
食事を終えるとすぐに就寝の準備に入った。
昼から夕方まで寝てたわけだし眠れるかなと思ったが、気を失うことと眠ることは別なのか、すぐに寝入ることができた。ここ数日続いていた頬傷の痛みが薄れ、寝やすかったというのもあるだろう。
明日はついに長沙にたどりつく。
蓮華……。
その名と顔が最後に浮かび、意識は眠りへと落ちていった。
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