恋姫†無双 外史『無銘伝』第10話 (4)
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「お館様! 空を!!」

 桔梗の言葉で、天を仰いだ。

「鏑矢――! やったのか!」

 俺は握り拳をぐっと引いた。ガッツポーズ。

「あとは、周泰を迎えて、俺たちも撤収だ!」

「馬鹿っ、お前は先に行け!」

 血染めの戦斧をぶん回しながら、華雄が叫ぶ。

 俺たちはずっと1カ所、周泰隊脱出のための出口を守り続けていた。

「開口部の維持だけなら私一人でやってやる!! 桔梗と一緒に離脱しろ!!」

「それはっ……!」

「お館様! 葉雄の言うとおり、離脱を!」

 豪天砲で敵をなぎ払いつつ、桔梗も同意する。

「桔梗まで!?」

「すでに周泰隊は多くが分散しております! この脱出口が必要なのは半数程度!! 全員が脱出するころには敵も追撃準備を終えております!! お館様がいては皆々逃げるのに集中できませぬ!!」

「…………っ」

 爪をかみ、考える。

 俺一人がここにいても何にもならないし、足手まといになりかねない事はわかる。

 だが、どうしてもまだ残っている仲間をそのままには――

 逡巡する俺を、明命の叫びが押した。

 全員の生還を願う声だった。

「――よし」

 叫びが心に反響し、消える前に、俺はためらいを断ち切った。

「桔梗! 華雄と共に敵陣に一撃を加えられる!?」

「一撃? それは、道を再び開けるぐらいのですか?」

「そう!」

「それは……できますが、大して時間は稼げませぬ。それに、敵の追撃は東西方面からも来ると思われますゆえ、お館様は今すぐここを出立せねば――」

「俺は一人で良い! 逃げるだけなら、一騎で行ける!」

「なっ……」

 と、桔梗は絶句するが、やがて口元に笑みをたたえ、

「そういえば、ここまでも甘寧殿と二人でしたな」

 踵を返し、桔梗は背中越しに叫んだ。

「一撃を済ませたら、すぐにお館様の元へ馳せ参じまする!」

 俺は的盧に乗り込み、

「ああ!! 信じている! みんな!! 必ず再会しよう!!」

 今度はちゃんと約束して、仲間と別れる。

 的盧を駆り、帰還の途へ――

 まだ見ぬ蓮華の所へ。

 

 

 

 長沙城東方。

 呂蒙隊対文聘軍の戦いは、完全なる膠着状態に入っていた。

 呂蒙は第三防柵を抜けず、かといって文聘軍は第三防柵から呂蒙隊を追い払うこともできない。

「一体、どうやったらこんな短期間にこんな長大な壁を……!」

 ずっと長沙城から周囲を監視していて、大規模な工事を行った様子など一度も見られなかった。

 精々が柵を設ける、土嚢を積み上げる、その程度。

 なのに、行く手を遮るこの壁は、城壁に等しく――

「ここからの突破は不可能……、いざとなったら力攻めに頼ってでも脱出する手はずが……」

 絶望しかける。

 呂蒙隊だけではない。長沙城に今だ残っている周瑜も一緒に脱出しなければならないのに……。

 

 ヒュュュュウウウッ――!

 

 鏑矢が空に上っていった。

「孫権様が脱出した……!」

 大目標が達成されたのだ。

 不意に肩から力が抜ける。

「あ……」

 持っていた戦槌がゴト、と音を立てて転がった。

 張り詰めていたものが切れてしまったようだ。

「ここで、私は……」

 

 ペチンッ!!

 

「い、痛っ!?」

 お尻を何かでぶたれた。

「何を呆けている、亞莎」

 周瑜だった。

 周瑜は今呂蒙のお尻を軽く叩いた馬上鞭を手に、数百人の兵と共に合流を果たしていた。

「そろそろ私たちも逃げるわよ。軍を転進させなさい」

「えっ、えっと、で、でも周りは敵だらけで、どこに逃げれば?」

「南よ」

「南!?」

 それは予想外の選択肢だった。

 南へは序盤の火牛計を除いて攻撃をまったく加えていない。

 ほぼ無傷と言っていい敵のいる方角だ。

「もうそろそろ南の門が開く。余ってる牛を使って、門を内側から引っ張ってやってるから。ちなみに城の中は完全に空っぽ。誰もいない」

「そ、それで?」

「目立つところに白旗はあげておいたから、まぁ少しは疑問に思うでしょうけれど、敵は入城してくるでしょう。その隙に逃げる。南だから蓮華様たちと合流するのにちょっと手間がいるけど」

「な……なるほど」

「わかったなら、行くぞ。最後の力、振り絞りなさい、ほら」

 と、今度は肩を優しく押される。

 呂蒙は、押されて一歩二歩前進し、そして冥琳が用意してくれたらしい馬にまたがった。

「亞莎」

 同じように馬に飛び乗った周瑜が諭すように言う。

「諦めては駄目よ。武将が己の体ある限り諦めないように、軍師は体が動かなくなってもできることがある。諦めず、考え、部下に指示を出しなさい。今は無理でも……諦めては駄目」

 周瑜は言い終わると、馬体に鞭をくれて、南へと向かった。

「…………はい!」

 まぶしいものを見るように目を細め、呂蒙はその光の行く先を追った。

 

 

 

「はーはっはっはっ!!! 弱い、弱すぎるぞ!!」

 魏延は西側で暴れ回っていた。

 他の所の戦況なんて関係なかった。

「でええええええいっ!! 桔梗様の親友という割に歯ごたえがなさ過ぎる!!」

 ドッカン、ドッカンと金棒をぶん回し、敵を蹴散らしていく魏延。

 一方的に黄忠軍を打ちのめす。

 孫呉・北郷軍の他の所と違って、目的が西側の敵の足止めでしかないという事もあり、敵陣の外からちょっかいをかけ、反撃してくる様子があったらちょっと離れ、また突進し、という軽快な戦い方をとっている。

 だから、たった千の兵でも一万の兵に十分に対抗でき、好き勝手できる。

「あー、しかし……そろそろ合流の時期か」

 鏑矢の合図を先ほど確認した。

 もうやることはやったし、桔梗様のところへ行くべきだろう。

「だが! その前に!!」

 キラーンと目を光らせて、

「一度だけ! 顔を拝ませて貰おうか!!」

 単騎で馬を飛ばし、雑兵を抜き、黄忠軍本陣へ突入する。

 抵抗はあったものの、弓兵が主である黄忠軍に、超接近戦の鬼である魏延の突進は止められなかった。

「突破ぁああああ!!?」

 陣の天幕を将棋倒しにして、本陣を晒す。

「…………あれ?」

 だがそこに思った者はいなかった。

 それどころか、

「からっぽ?」

 本陣丸ごと、どこかへと消えていた。

 

 

 

「終わった、か……」

 音で鏑矢の飛翔を聞き取り、黄祖は立ち上がった。

「…………」

 ずっと、戦場から目をそらしていた。

 吐き気をこらえて、涙をこらえて。

 黄祖は監視塔から降りた。

 あたりはまだ戦闘中のようだった。

 なるべくそれを見ないように、黄祖は戦場から離れた。

「劉磐だけは……助けなきゃ」

 その一心で、戦場を抜け出て、指示された場所へ向かった。

 甘寧に指定された場所は森の中だった。

「一番高い木……一番高い木」

 上を見上げながら、藪をかきわけていく。

「あった……次は」

 高木の根元、無造作にごろりと転がっていた石をずらすと、竹簡が下敷きになっていた。

「石のあったところから、山を背後に左に十歩……」

 指示を辿っていき、森をぐるぐると歩き、そして――

「劉磐!!?」

 縄でぐるぐるに縛られている劉磐を発見した。

「今外すぞ……!」

 手足の固い束縛を、思い切り力を入れて、千切る。

「ふむー」

 四肢を自由にしたところで、口枷も外してやる。

「……っぷはぁ!」

 全てが解放され、ぐうううっ、と劉磐は伸びをする。

「いやはや、助かりました。お頭……!」

 立ち上がって、礼を言う。

「………………おう」

 鼻を掻き、小さく応じる黄祖。

「なんです? 暗い顔して? らしくないですよ」

「その…………いろいろな」

「…………? よく分かりませんが、面倒なら、やっぱ江夏に帰りますか?」

「お前は……それでいいと思うか?」

「…………」

 劉磐は首をかしげた。

「ふむん…………推測するところ、おば上のお怒りを恐れているのですか?」

「……それもまぁ、あるけど。まがりなりにも……仲間を、売っちまったから」

「それは……」

 劉磐は胸に手を当て、

「私のせいでもあるんでしょう? なら、私も同罪です」

「劉磐……」

 彼女は手を刺しだし、黄祖の手を取った。

「行きましょう。阿射ちゃん。一緒に……謝りに行くのでも、逃げるのでも、なんならどこか別の国へ行くのでも、付き合いますよ」

「なんで……そこまで」

 劉磐は子供のような笑顔で、

「自由な、阿射ちゃんが好きなんです。昔から。こんな乱世で、自由でいるのは大変ですけど…………」

「……そうだな」

 やりたいようにやってきた。

 自分勝手に。自由に。

 黄祖は劉磐の手を握りかえした。

「行くぞ…………謝りに。気分悪いから」

「ですか。じゃあ、行きましょう……お頭!」

 二人は歩き出した。

 久しぶりに自由になった体で。

 

 

 

「逃げられた…………」

 しょぼん、と文聘はうなだれた。

「攻城、守城の攻め合いにもってけなかった…………せっかく、城作ったのに」

 文聘は手甲を外し、手を水に浸した。ぶすぶすぶすっ、と煙を上げる手甲。

 気の充填しすぎで、熱が耐えられないレベルになってしまった。

「しかも、全部の将に……1人も捕らえられないとは」

 東西南北、全て逃した。

「加えてこの状況で追撃は厳しい。南へ逃げた周瑜に逆追撃を食らってしまう」

 北へ逃げた敵が最重要人物、すなわち孫権であることはわかっている。

 だがそれを追うと、南の周瑜に背中を見せることになる。

 かといって、南へ逃げた周瑜を追っても……正直うまみが全くない。

「はぁ……」

「将軍、いかがいたしますか?」

 ため息をつく指揮官の顔を、副官が窺う。

「……あとは黄忠に任せる。長沙城は完全に占領しろと伝えろ」

「はっ! そのように……我々はいかがしますか」

「陸路では間に合わぬ。船で江夏へ帰還するぞ」

 残務を黄忠に任せて、文聘は陣を引き払う。

「…………ちぃっ!」

 最後の最後、立ち去る前に、第三防柵を蹴りつける。

「いたっ、これ、痛っ……」

 自身の傑作防壁は、自身の蹴りにも完全防御。

「う〜……!」

 怒りのやり場を失い、少女は唸りながらその場を去る。

 彼女の、長沙城における戦いは終わった。

 

 

 

 自由の身となった蓮華は、駆けて、駆けて、徹底的に駆けていった。

 弾む息を調える余裕もつもりも無く、倒れる寸前まで。

「そろそろ……っ、休憩をとりましょう」

 先を行く甘寧が、スピードを抑えはじめ、やがて止まった。

「はっ、はぁ……はっ、はあ……けほっ、けほっ、喉が痛い」

「水をどうぞ。おそらくここから二日程度、戦闘はありません。ですが、体力の余裕が無くならぬよう、限界を見極めて下さい」

「はーっ……は、ああ、はは、難しいな……戦いというのは」

 馬から下り、水を飲む。

「……そろそろ味方も追ってきましょう。できれば柴桑直前までに一万に届く兵を集めたいところですが」

「…………ねぇ、思春」

 仰向けに寝転がる。

「雪蓮姉様は…………無事かしら」

「…………今はまだ、劉表の主力とは衝突していないでしょう」

 数万の大軍が襄陽にたどりつくのは、数日後だろう

「そして、蓮華様が脱出に成功したことが伝われば、襄陽に留まる意味が無くなります。魯粛と合流し、ただちに北へ伝令を送ります」

「ああ…………」

 心ここにあらずという感じの返事。

 天つ空に雲一筋、どこへ向かうのか急いで急いで流れていく。

 立ち止まっている蓮華たちを残して……。

「……」

 無言で蓮華は強ばっている足をほぐし、体が少しでも動くようにマッサージした。

「……ん?」

 長沙へ続く西よりの道に、砂煙を立ててこちらに向かってくる騎兵が一騎。

「味方か……?」

 甘寧が念のため戦闘態勢をとる。

 そして、それを待っていたかのように――

 シュパッ――!

 その騎兵から真上一文字に何かが飛んでいった。

 それは鳥のように安定した軌道で、見えなくなるぐらい高い空へ――

「蓮華様!!」

 孫権の目の前に、甘寧が立った。

「ふぅ……はぁっ!!」

 ガギィン!!

 鈴音が飛来物を斬り飛ばした。

 真っ二つになったそれは通常の矢より一回り以上大きい、大矢だった。

「……敵か!?」

 蓮華が立ち上がる。

「お前達! 蓮華様の護衛を! 蓮華様……お下がり下さい」

 鈴音を逆手に持ち、孫権をかばう。

 彼女の額には冷や汗がにじんでいた。

 手が痺れている。

 これだけの距離、これだけの重い矢で、正確に狙撃できる弓使い。

「…………っ、ふううぅっ…………はああぁ……」」

 神経を研ぎ澄ませ、次の矢を待つ。

 心臓の鼓動のうるささが気になる頃に、次矢が放たれた。

 今度は余裕を持って迎撃態勢に入る。

 蓮華に当たる軌道を防ぐ場所に立ち、鈴音を構える。

 躱すこともできるかもしれないが、あの弓使いが本当に名手なら、こちらの動きを予測してくるだろう。躱す動作によって受ける行動がとれなくなれば、最悪命まで落とすことになる。

「はああああああっ!!」

 よって、矢に対してなるべく正対し、致命傷を負う部分をカバーしつつ、弾く。

 ギィィィィン!

「がっ……!」

 衝撃で手首が痛む。

 だが、傷は負わなかった。

 そして今ので、超長距離狙撃の発射間隔が分かった。

「――そうか」

 蓮華達に逃げる準備をさせている間に、思春は気づいた。

「黄忠……か」

 事前の情報で弓が得意だとは聞いていた。

 だが、城の西側に布陣していたはずの将が、なぜこんなに早く追いついたのか……。

「甘寧様っ! 西より敵と思われる増援が、接近してきます!!」

「数は!?」

「500程度です!!」

「……精兵か」

 黄忠は冷戦沈着だと聞いている。とすれば、数が少ないなりに、戦えるように考えているはずだ。

「…………」

 思春は沈思した。

 黄忠の狙撃を防ぐには速度を抑えて、守り重視でいかなければならない。だが、そうしているうちに部隊全体が黄忠隊に補足される。

 なんとか、黄忠の注意を引き、私一人に集中させて蓮華様たちは逃さなければ。

 だが、注意を引くにはどうすればいい……!

 苦い表情の甘寧のところに、

 

「お〜い! 思春〜! みんな無事〜?」

 

 すっとぼけた男の声が。

 一刀だった。

 ぽかん、と思春と黄忠の口が開く。

 ついでに蓮華の口もぽかんと開いていた。

 

 

 

 桔梗と華雄と別れて、俺は道を走っていた。

 的盧は何日も走り続けていたが、まだまだ衰えを感じさせなかった。むしろ、足がどんどん軽くなっている気すらする。

「蓮華達は今どこらへんだろ?」

 合流地点は数カ所候補があり、状況によって変えると聞いていた。

「ともかく、一番近いところに向かってると考えるか」

 長沙城の真北の道を辿っていく。

「あ……もしかして、あれか?」

 地平線しか見えない平原を越えて、小さな分岐路を的盧の気分に任せて進むと、だいぶ先に馬影がいくつか揺れていた。

 進むほどに形がはっきり見えてくることを考えると、今は小休止中だろうか。

 的盧の早駆けのおかげで追いつけたらしい。

 上に乗っている俺はだいぶ消耗しているけれど……まぁ、この前よりはマシだ。

「よっと……そろそろ速度落として良いぞ」

 手綱を引き、的盧のスピードを調整する

「ん、やっぱり甘寧だな、あれ」

 道の真ん中でこちらに背中を向けて佇む姿は、見紛うこと無く思春その人だ。

「お〜い!」

 呼びかける。

 思春が目だけでこちらを見る。

「思春〜! みんな無事〜?」

 手を振ってみたり。

 トコトコトッと馬を進め、ぴょんと降りる。

 相変わらずキリッとした目の思春に、思わず頬が緩む。

 ん?

 なぜか、口を開けたまま動かない思春。

 なにを驚いているんだろう。

「あれ? なんかあった? んん?」

 甘寧の後ろに馬群。

 その中心には、長い桃色の髪の、美しい姫が一人。

 いつもの紅白を基調とした戦装束でも平服でもないけれど、気品と可憐さは毫も変わらない。

 そして、長く戦いを続けてちょっと疲れた様子が、保護欲とかいろいろなものをかき立ててくる。

 ――――それは置いておいて。

 久しぶりに見る彼女の顔に、俺はちょっと泣きたくなった。

「孫権っ!! 良かった、無事だったんだな」

 鏑矢で作戦の成功はわかっていたけれど、それでも彼女の生還を万歳して喜ぶ。

「あれ? 何で皆そんな顔……ん? 何? 後ろ?」

 甘寧含む何人かが、後方――左後ろをチョイチョイと指さす。

 俺は振り向き、そこに、俺が来た道とは違う道に立つ、

「…………くすっ」

 紫苑。黄忠がいた。

「おわっ!?」

 驚く俺に、紫苑はまた笑みを浮かべ、

「ふっ、ふふ、うふふっ……、…………そう、こういう人だったのね」

 何かを納得したように、笑う。

「あなたたちに見覚えがあるわ。阿射ちゃん……黄祖の後ろに侍っていた部下……、あれはあなたたちね?」

 黄忠は矢継ぎの動作を止めて、俺たち2人に訊く。

「ええっと……」

 と、躊躇するが、すぐに俺は観念して、

「……そうだよ。その……」

 なんと説明すべきかと思ったが、

「黄祖は生きているのかしら?」

 黄忠は察したようだった。

「ああ。俺たちがここから離脱したら、劉磐と一緒に解放する手はずになってる」

 本当はもう解放されているが、嘘をついた。

「そう…………なら、仕方が無いわね」

 目をつむり、紫苑は左手をすっとあげた。

 甘寧は身構えたが、動いたのは黄忠の配下らしい兵士達だった。

 彼らは俺たちへの接近を中断し、ゆっくりと下がっていった。

「私たちの第一目標は、荊州からの孫呉勢力駆逐。それが果たされるなら、ここは退いてもかまわない。それでいかがかしら?」

 黄忠の要求に甘寧は、

「…………互いに保証する術は無い」

 用心深く返答した。

「そうねぇ。信の無い相手と、約束するのは無理か……ん」

 肩をすくめる彼女に、伝令が1人駆け寄ってきた。

「…………」

 伝令の耳打ちに、紫苑は目を伏せて、

「残念ね。黄祖と劉磐が、保護されたそうよ」

「うっ……」

 なんてタイミングの悪い……。

「逃がすわけにはいかなくなったわね」

「……っ」

 一旦は矢筒に入れた矢を取り出す。

「……でも、一回私と黄祖をかばってくれた分、機会を与えましょうか」

 弦に矢筈をセットしながら、彼女は言う。

「十本、矢を射る間、私の兵は動かさないわ。その猶予で逃げられるだけ逃げれば良い。ただし、あなたたち2人はこの距離で留まって貰う。前進は許すけれど、そこから後ろに下がるのは駄目」

「なに……っ!」

「十本撃ち終わって、2人の内どちらかでも生き残っていたら、見逃してあげましょう。守ってみせなさい、あなたの大切な人たちを」

「待てっ!! なら、私一人にしろ!!」

「し、思春!? 駄目だっ」

 甘寧は一歩踏み込むが、俺は思わず否定した。

「俺がついた嘘のせいなら、俺が責任とらないと駄目だろ?」

「馬鹿っ、死ぬぞ!」

 俺を叱りつけて、逃がそうとする様子に黄忠は、

「麗しいわね。その姿は良いけれど、あなたの方も大丈夫なのかしら? 見る限り、さっきの私の射撃で手を痛めたようだけれど」

「っ!?」

 図星なのか、目つきを厳しくする思春。

 遠目でわかるものなのか……?

「加えて……ちょっと足も痛むのかしら?」

「えっ?」

「…………」

 甘寧はうつむき、そして紫苑のいる方向にダッシュした。

「あらあら……!」

 困ったような雰囲気ながら、黄忠は弓を構え、一矢を放った。

 先ほどの山なりの射撃とは違う直射。

 地面すれすれを通って、狙いは甘寧の足元。

「くっ、ぐっ、う……!?」

 ぎりぎりでかわすが、皮一枚が削れる。

 だが、スピードは落とさない。

「はっ!」

 今度は思春の胸元を狙った速射。

 姿勢を低くすれば躱せそうだが、まかり間違えば頭に矢が突き刺さる。

 甘寧は急減速して横にステップ、左半身を横にそらした。

 それで矢は回避できたが、急減速時の足運びで、思春は顔をしかめた。

 本当に、足がまだ痛むらしい。

「思春っ……! くっ、どうにか……っ」

 助けようと的盧を前に出した瞬間、

「……動いちゃったわね」

 黄忠が、第三射目をこちらに向け――

「っ!? 北郷っ!? ……なっ!?」

 俺が射られると思った甘寧が顔をそらした刹那、黄忠は甘寧に向かって矢を放った。

「……がっ、ああああ!!」

 お腹に矢が当たる直前で鈴音の刀身を盾に、止めた。

「ぐっううう……つっ……」

 右手を抑え、片膝を突く思春。

「思春っ、大丈夫かっ!」

 矢のことを忘れ、駆け寄る俺に、

「……馬鹿……お前に心配される事など、ない……いけっ!」

 思春は立ち上がって的盧の轡につながる手綱を引き、方向を転換させ、馬体を手で叩いて発進させる。

 黄忠と甘寧から離れる方角へ。

「し、思春っ! 俺はっ……!」

「とっとと行け! 蓮華様のところに!!」

 彼女の指示に従い、的盧が俺の意思を無視して猛進し始める。

「……友軍の将にも慕われている、か。とりあえず、いい人なのかしらね」

 一連の出来事を見逃して、紫苑は4本目を構える。

「でも」

 甘寧に照準を定め、

「これで一人、仲間が失われるわ」

 放つ。

 甘寧は前進しながら倒れ込むように姿勢を低くするが、それを読んでいた黄忠の弓は、甘寧の足元すぐ近くの地面を穿ち、甘寧を転倒させ、次の矢で――

「ぐっ!!? ああああああああああ!!?」

 肩を射貫いた。

「これで残り五本……。曲張比肩の弓の味、その命を以て味わい尽くしなさい……!」

 黄忠はほぼ真上に向けて矢を射出した。

「づっ、ぐっ……はぁ!!」

 矢を切断し、肩から引き抜く思春。

(上……? いや、視線をあげるわけにはいかない。その隙に射られるのはさっきわかった。前後左右……どれかを選択しなければ……)

 ヒント無しの、四択。分はこちらにありそうだが――

「動けば……その方向に来る……!」

 すでに黄忠は狙撃のための矢継ぎを終えている。

「…………前っ!!」

 思春はスピード勝負を選択した。

 多少鈍くなっているといっても、彼女の並外れたスピードは、勝負するに足る武器だ。

 バシュッッ!!

 前進を咎める黄忠の直射。

 距離が縮まった分、反応するのはさらに厳しい。

「腕一本……っ、くれてやる!」

 両腕を盾にして致命傷を避ける。

「がっ……っ! はああああああああっ!!」

 二の腕に矢を受けながら、スピードを堅持して、さらに距離を詰める。

 ここまでくれば反応速度など意味が無くなる。純粋な、弓手との読み合いだ。

 8本目の矢は――!

「足っ!」

 思い切りジャンプして、予測したとおり、これ以上の接近を拒む足狙いの矢を飛び越えた。

 そして着地後次の矢を構える前にその場を離れ――

 ――――ザンッッ!

 天穹から降り注ぐ矢が、甘寧の足を貫いた。

「あなたの――」

 流れ星のような一閃。それは紫苑の希望を叶えるように、迫る敵を射止めた。

「速さだけは信頼して良かった」

 天へと放たれた第六矢。それが流星の正体だった。

「がっ……はっ……!」

 転倒こそ防いだものの、矢に縫い止められることによって急制動がかかり、甘寧はその場で行動不能となった。

「矢は、あと二本」

 冷酷に響く黄忠の声。

「命を奪うのには十分。最後の情けをあげましょう。動かないで、体を楽にしなさい。苦しませずに、あの世へと誘いましょう」

 まだ動こうとする甘寧を、優しく導こうとする黄忠。

 ゆっくりと、弓に矢を番え、構え、打起こす。

 死へのカウントダウン……射法八節の内、四つまでが終る。

「…………蓮華様……」

 天を仰ぎ、主の名を呼ぶ。

 あとは――天に、蓮華様を任せるしか――

「思春んんーーーーッ!!」

 虚空を満たすように、遠くから、蓮華の声が轟く。

 黄忠の視線が、声の方向に逸れる。

 空に響くは孫権の声、翻るは孫呉の旗――

 その隙に、

「っっ!!」

 無言で走る。気づかれないよう。

 息を止めて。一瞬の交差を逃さぬよう。

「うおりゃっ!」

 俺は思春の脇に手を入れ、引き上げた。

「っ!?」

 思春は突然の事に驚くが、傷の痛みもあり、声にならない声しか出なかった。

「なっ……!? まさか……っ!」

 黄忠が俺の行動に気づき、慌てて弓を構え直し。

「はっ!」

 矢を放つ。

 だが、遠くから十分な加速をつけた的盧の速さは、黄忠の予測範囲外だった。というか、ここ数日ずっと的盧に乗っていた俺でさえ、この最高速は未体験だったのだ。黄忠が予測できるはずもない。

「くっ! よけられたか……でも」

 一発で、黄忠は敵の速度を見切った。

 いくら速くても、あと一発分は射程圏内にある。

「最後の一本――!」

 図らずも、約束の10本目。

 速度こそあるが、単純な動きしかできない的。黄忠がそれを外すわけが無い。

 黄忠は太陽を射貫かんとする神話の射手のように、高天へと弓を向けた。

 弦を思い切り引絞り、そして――加減を加え、放つ。

 矢は綺麗な曲線を描いて飛んでいった。

 矢は一刀と思春を乗せた的盧に追いつかんと飛翔し、やがてその矢尻を地に向ける。

 狙いは、的盧の背中。一刀か、思春に必ず当たる位置――!

 ドッ……!

 音を立てて、矢は突き立った。

「…………あらあら」

 誰一人傷つけ、殺めること無く、地面にその矢先を落とした。

「酔って手元が狂ったわ……」

 紫苑は苦笑する。

 もう、一刀達は射程外に出てしまった。

 紫苑にはその背中を見送ることしかできない。

「お酒一本分…………これでいいかしら? 桔梗……?」

 敵となってしまった友人に問いかけるように呟き、紫苑は一刀達に背を向けた。

 そして黄忠軍は、彼らを追わなかった。

 

 

 

 孫権、長沙城包囲陣脱出に成功。

 同日、劉表軍、長沙城を占領。

 これにより荊州南部の戦況は一変した。

 しかし同時に――荊州北部の戦況も変化していた。

 

 ――孫権の長沙城脱出より少し前、赤壁近くの村にて――

 

 早朝、農民や漁民が行き交う中、魯粛はニコニコ顔で歩いていた。

 よそ者は目立ちそうな所だが、ニコニコ顔と貴人とは思えぬ見窄らしい格好で、魯粛は村に溶け込んでいた。

 今日も、魯粛は村人と和やかに挨拶を交わし、世間話に興じていた。

 しかし、内心、魯粛は焦っていた。

 劉表の足取りはいまだ掴めていない。

 だが、明らかに劉表軍は動いている。

 ここ最近、江陵、赤壁、江夏の様子がおかしい。

「子敬さん、昨日もあそこのお坊ちゃんが、兵隊にとられたらしいわよ?」

「ええ? でも、あそこの家は、州牧様のところの偉い学者さんに仕えてるんでしょう?」

「そうらしいけれど、なんでも、北で大きな戦いがあるとかなんとか……」

 そう。

 兵隊が近辺で集められている。

 そして、北へ向かっている。

 だが、その指揮官は劉虎などの二線級の武将で、劉表どころかカイ越などの一線級の将・軍師、すなわち劉表軍主力が影も形も無かった。

「…………見逃してしまったか……いや、数万の大軍に気づかないわけが」

 陸路、水路ともに動きは監視していた。四六時中の見張りとはいかなくとも……大軍なら影ぐらいつかめそうなものだ。

「…………おっと」

 気づいたら村道を抜けて長江にでていた。

 雄渾なる長江。今日も莫大な水量を西から東へと運んでいる。

「水運量……いつも通り、か。江陵や江夏で確認した数も一定……」

 大軍が荊州を南から北へ急行するなら、確実に長江を使うはずだが、船の数は通常時と変わらなかった。

「……おじいさん、どうですか最近、川に変わった様子はありますか?」

 長江近くに住み、いつも川を眺めている古老に尋ねる。

「ああ…………そうじゃな……変わらぬよ。長江は、毎日おんなじじゃ。小さなものよ、日ごとの変化などな」

「そうですか……」

「じゃが」

「?」

 古老は突然目を輝かせた。

「朝から夜への変化は見物よ……静謐、月明かり、星……それに時々あらわれる、赤き壁」

「赤き……壁?」

 それは物騒な、だが、幻想的なイメージの名称だった。

「夜をゆく船の明かりよ。一隻一艘では儚いものじゃが、江陵と江夏の中間地点、多くが行き交うこの地では、幾百千と重なり、赤い光は一連なりの壁となる。儂はこれが赤壁の由縁じゃと思うとる」

「嘘臭っ……コホンっ、なるほど〜。しかし、夜の間に船を動かす人は多くないでしょう。そんな頻繁に起こる現象ではないのでは?」

「まあの。いくら長江に親しんでおる者でも、夜はそう動かん……最近一度あったぐらいじゃな」

「最近…………いつです?」

「2、3日前じゃよ。なかなか壁が途切れぬ、美事なものじゃった」

「…………」

 魯粛は、臓腑が冷える思いがして、古老と別れ、手のひらで口元を覆った。

(夜行……! 大軍が、夜だけを選んで長江を北上した!? 江陵にも、江夏にも留まらずに!? そこまで、動きを知られたくなかった!? というか、私たち孫呉の密偵が江陵、江夏周辺にいることを察していた……!?)

 胃の内容物が逆流しそうになる。

 致命的な失敗。

 取り戻しようのない失敗だ。

「申し訳ありません……孫策様、孫権様……」

 体を丸め、痛苦をこらえる魯粛。

 ――――ガチッ

 と、魯粛の背中で金属音が鳴った。

「…………ま、過ぎちゃったことは仕様がないですよねっ!」

 ははは、と魯粛は笑い、一瞬だけ、ぐっ、と気合いを入れ、足を東へ向けた。

「まだ、やることはあるんですから……!」

 長江はいつも通り、静かに、雄渾な水量を西から東へと運んでいる。

 その流れに従い、魯粛は江夏へと急行した。

 

 

-2ページ-

 

 

 

「劉表軍……総数、七万ですか」

 孫策軍、襄陽攻撃部隊、その本陣。友軍である北郷軍の諸葛孔明が状況を確認した。

「はい。現在五万の主力が襄陽郡のすぐ近くに駐留中。二万が周囲から集結中のようです」

 孫策軍軍師、陸遜が応ずる。

「二万は、緊急召集された後方部隊だとしても……こっちの三倍か」

 孫策が首元をゆるめ、ひとつ吐息を吐く。

「襄陽周辺を攻撃中の部隊は集合をかけて。終わってる部隊は予定通り」

「はい」

 孫策軍は襄陽の包囲を続けながら、周辺の城砦を押さえに回っていた。

「一応役に立ったみたいね。私たちの旗は」

「はい〜。劉表軍が進軍速度をゆるめてくれたおかげで、対応の余裕が生まれました」

 孫策と陸遜のやりとりに、

「旗?」

 と孔明が疑問を投げかける。

「長沙へ向かわせた甘寧たちに、往路の拠点含むいろんな所に旗を立てさせたの。気休め程度だったけれど、慎重な劉表には効果有りだったみたいね」

「なるほど……しかも、次の策につながる策、というわけですが」

「ええ……さて、それじゃ、行くとしますか」

 と、孫策は近所に出かけるような気軽さで、本陣を出た。

「撤退は任せたわ」

 振り向かず、軍師二人に命じる。

「孫策様っ」

「なに?

 陸遜は不安げな声で、

「……退路を、お忘れ無きよう」

「あははっ」

 陸遜の忠告に、孫策は声を上げて笑った。

「そんな、迷子になる年じゃないわよ」

 そして、孫策は出陣した。

 やがて、孫策無き孫策軍本陣に、劉表軍が襄陽郡宜城に入ったとの報が入った。

 戦いはおそらく明日、火蓋を切る。

 

 

 

 長沙城を脱出した俺たちは、北上して長沙郡羅県に到着し、そこで夜営を張った。

 夕方の内に脱出戦に参加していた将や兵が合流し、体はボロボロだったけれど、多くの人との再会を喜んだ。なかには泣いている子もいた。

「ほらほら、明命、そんなに泣かないの」

「うわああああん!! 蓮華様ぁあああっ」

 蓮華はしゃくり上げる明命の肩を抱き、背中をさすった。

 その姿は、君主と臣下というより、家族のようだった。

 俺は目頭を熱くしつつそれを見ていたが……。

「……っ!」

 蓮華は俺と目が合うと、フイッ、と顔をそらした。

「う、嘘っ、な、なんであなたがここにっ……!」

 再会して最初の言葉がそれだった。

「俺も抱き合いたいんだけどなー……」

「馬鹿か」

 失意の俺に、厳しいツッコミが入った。

「そんなことをしたら、私がその首を飛ばす」

 傷の治療を終えて体を横たえている思春からだった。

「いやいや、傷に障るからやめておいてよ」

「ふん…………この傷さえ無ければ、蓮華様に触るそぶりを見せた時点で斬っているところだ」

「はははっ、恐い恐い」

 思春は腕に二カ所、足に一カ所矢傷があって、今一人では動けない状態だ。

「でも本当に無事で良かったよ…………孫権も、思春も」

「…………」

 こうして落ち着いてみると、感慨深い。

 皆、無事で生きているということが。

「…………私を助けることは無かった」

「ん、んん〜……?」

 俺は首を曲げ……どういう意味か考えたのち、ちょっとの怒りと共に、思春の頬をつねった。軽く。つまむ程度に。

「っ!? な、何をする!?」

 思春は目を見開いた。

「いや? なんとなく? 変なこと言ったな〜って。思春も生き残って良かったよね?」

「…………む。別に、助けはいらな……いや、そうだな……」

 思春は素直に認めた。

「だよね。俺は…………思春にも生きていて欲しかったんだから」

 何度か言いたくて、言えなかった言葉を紡いで、彼女の頬を撫でる。

「やめろ…………馬鹿」

 頬は、熱かった。

 

 次の日、さらに北上し、俺たちは江夏郡へと足を踏み入れた。

 江夏郡は長江を通じて、揚州への高速移動・輸送が可能な、いわば荊州と呉の出入り口である。

 そしてここは、劉表軍と孫策軍の境界でもあるのだ。

 俺たちは荊州脱出を前に、もう一度野営することになった。

 夜に複雑な地形のこの地で戦うのが危険だから、というのもあるが、もう一つは――

「遅れました、蓮華様」

 孫呉の知嚢、周瑜の到着を待っていたからだ。

「冥琳……よかった。呂蒙も、生きて戻ってきたわね」

 三人は顔をつきあわせて、無事を祝した。

「八千の軍勢も、ほぼ無傷です。このまま江夏を脱し、呉へ向かいましょう」

「ええ。あと一息ね……」

 周瑜と呂蒙が合流したと聞いて、他の皆も顔を見に来た。

 もちろん俺も。

「おっ、周瑜も呂蒙も、怪我とか無さそうだね。いやー心配したよー」

 なんて話しかけたら、

 二人とも目を丸くしていた。

 俺は思わず吹き出して、

「ぷっ……く、ははっ、周瑜のその顔が見られただけで、ここまで来た甲斐があったな」

 そう言うと、周瑜は頬を少し染めて、

「…………趣味の悪い男だな」

 と、むくれた。

「やっぱり、長沙城の城壁の上から見えたのは、北郷さんだったんですね!」

 合点がいった風に、呂蒙が手のひらを打ち合わせる。袖が長いせいで、ぽふ、と可愛らしい音がした。

「ああ。よく気づいたね。目が合ったなとは思ったけど、遠くだから呂蒙の目じゃ、よく見えなかったんじゃ無い?」

「はい……、だから、半信半疑だったんですが……」

「そっか。判然とはしなかったけど、俺かもって思ってくれたんだ。嬉しいよ」

 俺は呂蒙の手を取る。やっぱり袖が長いので手のあたりの布越しに。

「はぅ……?」

 握手。ただし布漉し。

「……きゅぅ〜……」

 でも顔が急接近したせいか、亞莎の喉奥から変な声が。

「…………」

 そのやりとりを、ちょっと離れて蓮華が見ていた。

 悲しげな瞳だったが、目を合わせようとすると、また、さっと逸らした。

 

「れ……孫権」

 その日の就寝前、俺は蓮華に会いに行った。

 避けられているような気はしたが、我慢できなくなった。

「ほ、北郷!?」

 ずざっ、と孫権は後退りした。

「ええっと……元気?」

 一歩踏み出してみる。

「あ、ああ! 元気……元気だ!」

 二歩後退された。

「そっか。なかなか話ができなかったから」

 三歩前進。

「そ、そうだな……! 忙しかったからな……!」

 四歩後退。

「えっと……」

 停止。

「嫌われたかな……」

「ち、違う! そういうことじゃっ……きゃっ!?」

 一歩だけ足を戻した蓮華が足をもつれさせ、転びかけた。

「おっと」

 すぐ近くにいた俺が杖代わりに受け止める。

 彼女の香りがふわっと立ちのぼり、本能が刺激されて、つい、その匂いごと抱き寄せた。

「……!? ほ……北郷っ……!」

 少しの間、身じろぎする蓮華。

「……嫌じゃ、ない……?」

 蓮華は抜け出ることを諦めたのか、小さく不安げな声で問う。

「嫌って……? そんなわけないけど?」

「…………そ、そうか」

 体の力を抜く蓮華。

 彼女のほうからも手がまわされて、密着度が増す。

「…………久しぶり。こういう時、どう言うのが正しいかわかんないけど……その、おかえり、孫権」

「うん…………ただいま」

 ようやく、俺たちは再会することができた。

「ところで……」

 蓮華は胸元からちょっと顔を離して、

「ん?」

「いつからあなた甘寧を真名で呼ぶようになったの?」

 ちょっと不審げな目で俺を見る。

「あ、ああ、それか」

「あなたは自然に呼んでいるし、思春は咎めたりする様子も無いし……」

「戦いの前に言われたんだ、この戦いの間は真名をゆるすって」

「ふうん……」

 納得いったようないってないような、微妙な表情の蓮華。

「じゃあ、あなたも真名を思春に預けたのね?」

「いや、俺には真名がないから」

「え? そうなの?」

「うん。強いて言うなら、下の名前が真名かな? 親しい人が呼ぶって意味で」

「下の名前…………北郷、……」

 彼女はそれを知っているはずだ。だから、声に出さず、口の中でその名を呼んだ気配がした。

 だが、それでは満足がいかなかったのか、

「その…………そっちの、名前で呼んでもいいかしら……?」

 と、尋ねてきた。

 腕の中。

 上目遣い。

 香る匂い。

 不安げな、かすかな震え。

 これで断れたら、俺は俺じゃ無くなる。

 俺は、こくこく、と何度も頷いた。

 彼女は顔を輝かせて、

「じゃあ私も……思春と同じく、この戦いの間、真名を預けるわ。私のことは、蓮華と呼んで」

「わかった。蓮華」

 真名を呼ぶと、彼女はもう一度俺の懐に飛び込んで、

「一刀……ありがとう……助けに来てくれて」

「蓮華……」

 息が、鼓動が感じられる距離で、生きていることを感じられる距離で、互いの名を呼ぶ。

「あと少しで呉に帰れるわ。その……あなたも、一緒に来るのよね」

「うん。孫策の事も心配だけど、孫策が逃げられるように、まずは俺たちが荊州から脱しないとね」

「ええ…………助けられた命、ここで無駄にするわけにはいかない。姉様のためにも……皆のためにも……あなたの……あなたたちのためにも」

 姉様、という言葉を口にする時、蓮華は俺の服をぎゅっと握った。

 明日、戦いが始まる。

 多分、荊州における一連の戦役の、最後の戦いが。

 

 

 

 奇しくも同日、二つの戦いは始まった。

 一つは孫策軍主力と劉表軍主力がぶつかる、襄陽郡の戦い。

 もう一つは、孫権と江夏守備軍がぶつかる、江夏郡の戦い。

 

 最初に敵と衝突したのは、孫策たちの方だった。

「敵主力、襄陽城南の平原に陣を展開中……!」

 穏と朱里は、襄陽城の外に設置された物見櫓に立って、敵陣の様子を見ていた。

「なんでしょう……すごく……整然としているような〜」

 陸遜は形容しがたい雰囲気の敵陣を、評した。

「不自然なまでに、規則正しいんです…………劉表という人は」

 と孔明。

「あれ? 孔明ちゃん、劉表さんのこと知っているんですか?」

「少しだけですけど。昔、諮問を受けたことがあります」

「へ〜? それで、招請とかは無かったんですか?」

「…………あったのかもしれませんけど、私、ご主人様達のところへ向かっていましたから」

「なるほど〜」

 そう言っている間に、劉表軍は陣を完成させつつあった。

「うわ…………整いすぎてて気持ち悪い……」

 それが陸遜の感想だった。

 劉表軍主力の陣形は、方陣だった。

 ただの方陣では無い。

 全ての小隊、全ての大隊、全ての軍を方形に並べた、完全方陣だ。

「…………」

 その光景に、孔明は過去の劉表の言葉を思い出していた。

 

――この乱世、あなたはどう進展していくと思います?

 

 彼女はお茶を用意しながら訊いてきた。

 

「私は…………多くの勢力に別れて、戦うことになるのでは無いかと思います」

 朱里がそう言うと、劉表はお茶菓子を切り分け始めた。

 

――そうですか。まさに乱世、ですね……それでは、

――あなたは、いくつの勢力で安定すると思いますか?

 

「いくつ……の……?」

 

――二つか、三つか、それとももっと多くか……

――きっと幾つかに分裂して拮抗すると私は思うのです。

 

「…………それは、劉表様の勢力を含めて、ですか……?」

 尋ねると、彼女は口だけで笑った。

 

――さあて……どうでしょう。

 

 彼女ははぐらかして、そして、

 

――私は、この乱世、四つに分かれて完成すると見ています。

 

 まるで他人事のように言って、劉表は四つに分けたお茶菓子を一切れ、孔明の前に差し出した。

 そう他人事のように。

 天下を切り分けた。

 孔明には、切り裂かれた天下が、悲鳴を上げているように思えた。

 

「孫策様の戦い方とは水と油って感じですね〜」

「…………はい」

「総兵力七万の完全方陣、一角だけなら崩せそうですが、結局包囲されて飲み込まれる。真正面から当たれば圧殺……かといって奇策では一角も崩せそうにない」

「私たちができることは時間稼ぎだけ、負けて勝つことだけです」

「そうでしょうね〜……そうなんですけどね〜」

「やっぱり、孫策さんはそれ以上を望んでいるんでしょうか?」

「はい〜……まぁ、言葉にはしないですけど」

 困り切った顔で陸遜は胸に手を置く。

 ……置けるものなのか、と朱里は思い、自分の胸を見下ろして肩を落とした。

「と、そろそろ前進するところですかね〜」

 七万の兵が身じろぎを始めた。

「では、私も行ってきます」

「はい〜、よろしくお願いします〜」

 朱里が櫓のはしごに手を掛ける。

 陸遜は頷き、櫓から降りて持ち場へ向かう孔明の動きを目で追った。

「さぁ……あちらも動きますか……?」

 劉表軍主力とは反対方向、襄陽城の方に視線を移す。

 

 その予想通り、襄陽城の劉表軍籠城部隊は動き出した。

 それは長沙城を脱出した時の孫呉と同様であったが、城内、城外の連絡がとれていないというところが違った。

 だが、城外に救援の軍が来ていることだけは察知できたため、襄陽城脱出部隊が組織された。

 襄陽城第二壁。

 その内側に籠城中の襄陽劉表軍が勢揃いしていた。

「いくぞおおおおおおお!!」

 裂帛の気合いで、彼らは第二壁の門を開け放った。

 が――

 それを出迎えたのは、城外から運ばれてきていた孫策軍の攻城兵器だった。

「放てぇい!!」

 準備を終えていた大型弩の偽装がはがされ、次々と発射された。

「ぐおおおっ!?」

 ひとかたまりとなっていた脱出部隊は、ひとたまりも無く蹴散らされてしまった。

 そして、

「進めえっ! 敵の戦意を噛み砕けっ!!」

 孫呉のベテラン武将、韓当率いる部隊によって、第二壁が突破された。

 第二壁内は大混乱となり、半数近くが投降、四分の一が第三壁内に撤退、そして残りが討ち死にした。

 その中には――

 劉表軍、襄陽守備部隊の司令官、カイ良もいた。

 司令官戦死。それは、望外の戦果だった。

 さらに加えて、もうひとつの脱出軍、水路を通っての脱出を強行した部隊もあったが――

「撤退の監督なんて、今はやれることがないんだから」

 城外の水軍をまとめあげていた賈駆が、

「これぐらいは、してやらないとね」

 一隻残らず打ち払い、跳ね返した。

 残念ながら、水軍脱出部隊の指揮官である蔡瑁は殺すことも捕まえることもできなかったが、孫策軍は、緒戦で全ての脱出作戦を完封したのだった。

 

「あちらは上手くいっているみたいですね〜……こちらはっと……」

 陸遜は視線を戻す。

「うわ〜っ、遅っ!? さっきあそこで、今ここって、進軍遅〜っ!?」

 穏は驚いた。

 眼下の劉表軍はちょぴっとしか動いていなかった。

「方陣崩れるの嫌なんですね〜……すごい繊細な進軍」

 孫呉の、ぶわ〜っ! と行って、ドカーン! と戦うやり方に慣れているせいで、眠たくなってくる。

「でも……こう見るとお城が動いてるみたいで……迫力はありますねぇ……」

 完全な四角形の陣は、まさに城砦だった。

「正面衝突したらたまったもんじゃないですねぇ? どうしましょ」

 陸遜の下には程普将軍率いる二万の孫策軍が集結している。

 しかし、これは戦うためではない。戦うとみせかけるためだ。

「とりあえず〜、みなさ〜ん! 突撃する陣形をとりましょうか〜……!

 ぽやんとした指令。

 だが、孫策軍は俊敏に動き、鋭角的な陣形にすぐに変化した。

「速〜っ! あーだめだー、劉表軍を見た後だと調子がおかしくなります〜」

 陸遜は頭を抱えた。

「孔明ちゃん、大丈夫かな〜?」

 と、陸遜は劉表軍の斜め後方側を見る。

 

 孔明は劉表の大軍を迂回して後方に出ていた。

「こんな少数の部隊ではひとたまりも無さそうじゃの」

 一緒の馬に相乗りしている黄蓋が言う。

「一応、北郷軍の全軍なんですが……」

 率いている兵数は三千。

 一応、傷兵は孫策軍の兵と交代してもらったが、数は変わらない。

「風の前の塵のごとし……ですよね」

「まぁ、いくら北郷軍が鍛え上げられていても、これでまともには戦えんな」

「まともに戦うつもりはありませんから」

 目の前を劉表軍が通過していく。

 大軍故か鈍重な動きで、ぞろぞろと。

「そろそろ劉表軍の尻が見える頃じゃな」

「……発進できますか?」

「いつでも良いぞ」

「では…………行って下さい!!」

 応ッ! の掛け声と共に、黄蓋が馬を走らせた。

 三千の軍勢もそれについて行く。

 敵の一部がそれに反応する、が、攻撃は仕掛けてこない。

 まだ弓も届かない距離だからだ。

「あそこですっ!!」

 黄蓋の馬術に必死でしがみついてきた孔明が、指で目標を示す。

「あの旗のあたりと、その手前四十歩分!」

「心得た! 者ども! 囲め!!」

 黄蓋の命に、北郷軍の兵が黄蓋を敵から隠すように壁を作る。

「盾を!」

 敵の射撃を盾で防ぎ、

「っ……喰らえっ!」

 黄蓋の巨大弓、多幻双弓にセットされた二本の火矢、それが打ち上げられた。

 二矢は放物線を描き、一本は奥、もう一本は手前に落下する。

 そして落ちた火矢は、周囲の枯れ草を燃やして二つの小火となり、突如、大火となって次々と燃え移り、合流して一つの大炎と化した。

「おおっ! 本当に火がつきおった!! やるのう諸葛亮!!」

「一発で成功させる黄蓋さんもさすがです!! さぁ! 敵が混乱している内に合図して逃げましょう!!」

 孔明達はただちに馬首を返し、襄陽城方面へ撤退した。

「むっ……!? おいおい、本当に進軍を止めおったぞ!」

 劉表軍は、孔明達を追うそぶりすら見せなかった。

「劉表さん本人が率いているなら、退路は絶対に確保しておかなければなりません。今火をつけたのは、その退路への道ですから」

「ふむ。しかし、退路などいくらでもありそうな気がするが? なぜあそこだとわかった?」

「あれだけの完璧な方陣、指揮するためには劉表さんが中心にいなければ制御できません。となると、退く場合、すごく時間がかかってしまうんです」

「確かに。味方に塞がれて逃げようにも逃げられんな」

「なら、退く時も整然と、大部隊を一方向に動かした方が速い。だから、退路は必然、大部隊が通れる道のみです」

「なるほどな……」

「襄陽城から劉表軍拠点である宜城への退路には、三つの候補があります。一つが水路……漢水を使う退路。一番早いですが、劉表軍の水軍総督、蔡瑁がいない状態では、選べる選択肢ではないでしょう」

「江夏に劉表の水軍はいるんじゃろうが……それを動かすような賭けはせんか」

「二つ目は、ここからまっすぐに宜城へ向かう道です。これが一番ありそうですが……」

「そうじゃな。まともに考えればそこを選ぶじゃろ」

「…………偵察してみたところ、あの大兵力の補給部隊で埋まっています」

「アホじゃな」

「というわけで、退路は唯一、若干遠回りの迂回路のみとなります」

「は〜。しかし、臆病とは聞いていたが、この大兵力をもってしても、退路が気になるとは……まぁ、おかげで助かるが」

「多分、進軍を止めるどころか、一度退きますよ。劉表軍は」

「ははは、それは無いじゃろ! いくらなんでもそれは――!」

 と、黄蓋は笑う。

 劉表軍は後方の火を消しにかかり、消し終わると劉表軍は後退を始めた。

「はあああああ!?」

 黄蓋は驚き、なぜか憤った。

「か、神がかっておるな臆病ぶりが!! いっそ、儂らから攻め込んでやりたいぐらいじゃ!!」

「それが彼女の手口ですよ。大を小と見せ誘い込み、力を隠して、毒を潜り込ませる」

「面倒きわまりないなっ!」

「こちらも追撃の構えを見せるだけで良いです。陸遜さんに任せましょう!」

 ぞろぞろ帰還する劉表軍を横目に、孔明達も来た道を戻っていく。

「はい皆さん突撃するフリ〜! って速すぎ速すぎ!? 追いついちゃいます〜!」

 陸遜は二万の軍の手加減突撃に手間取っていた。

 劉表軍は火を消し終わると、意外と速いペースで撤退を開始し、陸遜・程普部隊がそれを追撃してチョコチョコ削るという展開で、その日の戦いと言えるかどうかもわからない前哨戦は終わった。

 

 

「補給部隊が襲撃を受けていた?」

 撤退した宜城で劉表は報告を受けていた。

「はい。敵は劉表軍主力撤退より前に攻撃を開始、いくらかの輜重隊を潰して、劉表様が宜城に戻る頃には逃げ去っており、影も形も…………」

「ふむ……」

 劉表は腕組みをして考える。

「敵部隊が我が軍の後方へ迂回して火計をしかけたように、さらに後方へ大回りし、補給部隊に打撃を加えた、ということか?」

 と、カイ越。

「そんな様子は無かったですが……」

「明日は陣形を変更し、いくつかの小部隊を主力の周囲に分散配置、警戒能力をあげるとともに、敵を囲い込んでいくべきかと」

「…………」

 臣下の進言に、劉表は表情を変えずに黙考し、

「そうですね。少々、本陣が薄くなりますが、元々数倍の戦力。問題は無いでしょう」

 その意見を採用した。

 しかし、臣下が軍議の間を去った後、爪をかみ、

「これは…………お誘い?」

 と、眉を顰めた。

 

 

 ――江夏郡。

 孫権たち約1万の軍勢は、二つの城を目の前にしていた。

 長江側の城と、山側の城の二つである。

 その二つの城が、呉への関門となっているようだった。

 ようだった、というのは……。

「あんな城無かったぞ……!?」

 孫権も他の皆も、周瑜すら驚いていた。

「文聘将軍…………」

 呂蒙一人が、なにか理解した表情だった。

「文聘……、そうか、守城の名将が長沙から急行していたか」

「しかし、薄い土壁のみの築城。力攻めでもいけそうではあるが……」

 と、周瑜。

「いえ。油断するべきでは無いかと。この前の包囲陣、文聘将軍の陣はただの土嚢の壁でしたが、城壁のように堅固でした」

「では……二つの城の間を強行突破するか?」

 孫権は、少々苦い顔で問うた。

 ただでさえ籠城からの突破で仲間を失っているのだ。これ以上の喪失は心苦しいのだろう。

「まずは、偵察を!」

 と、手を上げる明命。

「そうだな明命、頼む」

「はい! いってまいります! ……あ」

 と、明命は俺の方を見て、何か言いたげな顔をした。

「ん? 何かあった?」

「あの……北郷さん……私にもあれを……」

 モジモジする明命。

「あれ?」

 はて? と首を捻る。

「ちょっと……変な事を周泰に吹き込んだんじゃないでしょうねっ……!」

 何か蓮華が頬を紅潮させてお怒り顔。

 気づくと周囲の何人かも不審げな顔。

「い、いや……何も! あれって……あ! あれか」

 と手を叩く。

「迷彩服ね! ちょっと待って……えっと新品……はもう無いか……」

 魯粛や甘寧にあげたのと、自分が着たのとで、もう新品は無かった。

「じゃあ……俺が着たやつでいいかな? あ、洗ってはあるから」

「北郷さんの着てた……」

 明命は赤面した。

「あ、やっぱ嫌かな。それなら……思春に……」

「い、いえ! それで大丈夫です!! はい!」

 横にフルフル首を振り、にっこり笑顔の明命。

 まぁ、そう言ってくれるなら……いいか。

「じゃあ、はい。これ」

 と、服を渡す。

「ありがとうございます!! では、いってまいります!!」

 きびきびとした動きで、明命は偵察へと向かった。

 そして数時間後に帰ってきた。

「な、なぜか、やたら警備が厳重でした」

 だいぶ苦労したようだった。

「我々が江夏から脱出を試みると踏んだか……」

 冥琳は黒髪を掻き上げ、敵情を推測する。

「ここを突破すれば、こちらの拠点、柴桑にたどり着ける。だが、なかなか簡単にはいかんな」

「そこは敵の攻撃は受けてないの?」

「それはわからんが、柴桑は呉の水軍が集結している場所だ。劉表軍の主力が陸兵であることから考えると、手を出していない可能性が高い」

「……なら、ここが本当に最後の関門なんだね」

「ああ」

 山と川、城と城の間の道が、その関門の出入り口となる。

「あれ? 川……長江は脱出に使えないの?」

「現状無理だな。敵の水軍主力はもう少し上流の方にいるが、ここにも水軍が駐屯している。柴桑の味方が助けに来てくれればいけるかもしれないがな」

 と、冥琳は明命に視線を送り、

「……厳しいですね。広範囲に敵の目が行き届く環境ですから……」

「じゃあ、やっぱり強行突破?」

「……そうだな。だが、少しは生存率を上げねばなるまい」

 と、周瑜が馬上鞭を扱きつつ、艶笑を浮かべ立ち上がった。

 ちょっとエロいと思ったのは内緒だ。

「江夏郡の長江上流側拠点に調略を仕掛けてくる。長沙城の金蔵から多少はもってこれたからな。数人なら買収もできるだろう」

 ヒュンと鞭を振るう。

 乗馬鞭だからあれで打たれたら痛いじゃ済まないんだろうな〜。

 けっして俺は打たれたいとか思わないぞ!

「10人ほど連れて行くぞ。場合によっては長江を渡り、向う側から工作する」

「わ、私も行きますっ!」

 と、亞莎が言い出すが、

「いや。思春が行動できない今、亞莎は蓮華様についていてくれ。それと」

 周瑜は言葉を切り、

「脱出の好機が訪れた時、私が合流していなかったら、構わず脱出してくれ。なあに、少人数でなら、いくらでも脱出の方法はあるからな」

「お、おい、冥琳……!」

 孫権が制止しかけるが、

「では、早速工作に向かいます。蓮華様達は、兵を伏し、ここにいることを察知させないようにした上で、脱出路周辺の偵察をさらに進めて下さい」

 周瑜はそう言い残してその場から立ち去った。

 周囲がざわつくなか、俺は周瑜を追った。

「なんだ?」

 俺が追いかけてきたのを察知し、周瑜は横目で俺を見た。

「いや。蓮華に言いづらい何かをやりたがってるのかな? って」

「その真名…………そうか」

 彼女は、ふむ、と頷いた。

 俺と蓮華の関係が、変化したことを察したようだ。

「若いな」

「……その言い方だと、周瑜がオバサンみたいだよ」

「鞭で打たれたいか?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 俺は頭を下げた。

「ふん。私はまだ若い…………よな」

 語尾が弱々しい。

「少なくとも黄蓋殿より年若だからな」

「その比較はどうなの」

「…………下を見たいお年頃なのだ」

 結構微妙な年齢層だからか、色々気にしているらしい。

「そんな話はどうでもいいか……お前には」

「いやいや。若いと思うよ? 俺にはそう見えるよ」

「ふ〜ん…………。他人事だから適当だろう」

「そうひがまなくても。他人事じゃ無いって。俺から見ても十分ストライクゾーンだし」

 わりと貴重だったりするしな。お姉さんキャラ。該当するとしたら、秋蘭とか霞、あと華雄あたり?

「すとらいく……?」

 なんのこっちゃ、という目で俺を見る冥琳。さすがの冥琳も英語は意味不明。

「ええとつまり…………恋愛対象?」

 そう説明すると、冥琳は、きょとん、として、自分の髪を指先でいじりながら、

「ふ……む……、そんな真正面から言われると、年甲斐も無く舞い上がってしまうな」

「だから年はいいってば」

 俺は微苦笑し、

「それで、結局何をするつもりなのかな?」

「…………お前には、言っても良いか」

 周瑜は顔を引き締め、

「簡単な話だ。まだ、雪蓮……孫策は襄陽で戦っているのだろう? なら、微力でも支援してやらねばなるまい」

「あ〜……なんかお互いにそれ言っているような気がするなー……」

「なに、戦うといっているわけではない。ちょっと火をつけて回るぐらいだ。煙が上がる程度にな」

「それならいいけどさ……」

「ああ。心配するな。お前は蓮華様の傍にいてやれ。まだ心細いだろうからな」

「でも、周瑜は一人じゃ無いか」

「ふっ、お姉さんは一人でも大丈夫だ。くくっ」

 自虐笑い。

「とてもそうは見えないな〜……あ」

 思い出した。

「なんだ?」

 俺は懐から二つの物を取り出す。

「これ、一つは孫策から貰った物なんだ」

「酒か」

「いやそっちじゃない……やっぱりそういうイメージなんだ……」

 確かに酒瓶もあるけど。そっちは祭さんからの物だ。

「お守り。武運長久、勝ち守りってところかな?」

「お守りぃ? 孫策がか?」

 疑わしげ。

「いや、俺が頼んだんだよ。俺用に」

「ふうん? 袋のようだが。何が入ってるんだ?」

「見てみる? 御利益無くなるってことは無いと思うけど」

 と、お守りを冥琳に手渡す。

 彼女はお守りの口を開き、絶句した。

「………………髪」

「いろいろ事情があって、髪を切ったんだ。孫策が。その時に貰っておいた。勿体ないしね、綺麗な長い髪だったから」

「そうなのか…………」

 冥琳は髪一房を手のひらに置き、顔を伏せた。

「雪蓮は……もしかして……」

「え?」

「…………なんでもない」

 独り言を打ち消すように首を振り、

「これ…………借りても良いか」

「うん。そのつもりで見せたんだ」

「すまんな……」

 お守りを手のひらにおさめ、胸元に当て……腰に結びつけた。

「それで? もう一つの酒は何だ?」

「こっちは黄蓋さんから周瑜へ、渡してくれって頼まれたんだ。お察しの通り酒だよ」

「そうか。わざわざすまんな…………む?」

 受け取ろうと伸ばした冥琳の手を、ひょい、とかわした。

「無事に帰ってきたらこれを渡すよ」

 と、笑う。

「……ふっ、味なことを言う。わかった。お前を、頼み事を果たさない人間にするわけにもいかないな」

「ああ。よろしくお願いするよ」

「ん。それではな、北郷。お前はお前で、用心して行動しろよ」

「了解っ」

 手を振って、戦いに赴く彼女を送る。

 江夏郡の戦い、初日はこのように、静かな形で幕を開けた。

 

 

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 荊州の戦い、二日目。

 周泰率いる偵察部隊は、行動を開始。

 関門は二つの城。北側、長江に面する城。そして南側、小高い山に築かれた城で成り立っている。

 周泰はまず地勢についての調査を行った。

 山は標高500メートル程度だが、それでも高低差のアドバンテージは大きい。山の奥は開発がまったく進んでおらず、軍勢が越えられる道は無い。

 川は岸が絶壁になっており、船が接続できない。近場の接続できる場所は、城から少し離れた所の港。ただしそこは当然ながら劉表軍の支配下に有り、孫呉が使える場所では無い。

「ただ……」

 と、ひとまずの偵察を終えた周泰が言う。

「長江傍の城に駐屯している水軍も、城に直接乗り込むことはできません。なので、定期的に上流の港に帰還して、休息したり、交代したりしているようです」

「ふむ……では、補給の時期を見計らっていけば、船は通れるか……と言っても、船もなければ船に乗るための渡し場も無いが」

「う〜む……」

 全員首を垂れ、腕組みをした。

「二つの城の戦力はどうなんです?」

 と、亞莎。

「城の収容能力からして、最大で一万前後かと」

「私たちと同数……でも、城が有る限り、有利なのは向こう」

「いや。長沙城脱出と同じく、私たちの勝利は、敵の打倒ではなく突破なのだから……単純な有利不利は意味が無い」

「そうだな…………」

 俺は頷く。

 まだ、孔明の奥の手を使う状況では無さそうだ。

「周瑜の工作の結果にもよるが……どちらかの城を攻撃で釘付けにして突破を仕掛けるか」

「それが良さそうですね。では、両城の弱点に絞って、さらに偵察を……」

 二日目に入っても、俺たちにできることは多くなかった。

 

 

 だが、襄陽の戦いは、前日の静かさとは比べものにならないくらいの激戦となっていた。

「韓当将軍右翼へ!! 敵左翼を第三線に押し戻して、中央の防柵を燃やして下さい!!」

 陸遜はいつもの口調はどこへやら、早口で全軍を指揮している。

 現在、戦いは、襄陽城外で行われている。

 孫策軍側、総兵力二万。一万五千の孫策軍、三千の北郷軍、二千の劉表軍投降兵。

 劉表軍側、総兵力六万。中央に四万の劉表軍主力。四つの角を補うように、五千ずつの掩護部隊。

「意外と……考えてますね、劉表殿」

 孔明は遊撃部隊である北郷軍を率いつつ、戦況を俯瞰した。

 方陣の攻め方は単純だ。辺では無く、角を半包囲する形で攻めることだ。辺は真正面から攻める以外無いが、角は正面と左右、三カ所から攻めることができる。

 だが、今日の劉表軍は、四つの補助戦力によって、きちんと弱点をカバーしている。

「それでも…………本当は完全方陣にしたかったんでしょうけど」

 おそらくあれは、彼女の、一種の思想表現なのだ。

 四つで完全となるという、彼女の世界観の。

「でも、完成された世界は、人間には逆に歪です……!」

 時機を見て、孔明は攻勢に出る。

「人間には、平面的に完全な陣は作れても――!」

 北郷軍第二戦列、弓射撃。

 足止め。

 第一戦列、騎馬部隊突進。

 敵の辺の外縁を切り開く。

 だが、いくら騎馬部隊に突進力があっても、劉表軍の兵数によって、バネのように吸収され、無効化されていく。

 やがて騎馬隊は止まり、押し返される。その力は強く、騎馬隊は半数近くが落馬。半壊した。

 孔明は騎馬隊を退かせる。

 攻撃を完全無効化した劉表軍は、乱れた陣形の修復に入る――

「旗を!!」

 孔明は北郷軍の旗では無く、孫呉の旗を掲げた。

 旗は風でたなびき、戦場で存在を誇示した。

 その合図に従い、北郷軍第三戦列……落馬したフリをして控えていた元騎馬隊、歩兵突撃部隊が、陣を修復中の劉表軍に襲いかかる。

「さぁ……時間です……!」

 奇襲にたじろぎ、多くの兵が蹴散らされ、圧倒される。

 それでもなお、劉表軍全体は混乱したりしない。一部が混乱しても、方陣の内部に、冷静な部隊が多く待機しているからだ。

 だからどんな奇襲でも混乱はやがて治まるが、

「あと少し…………! 来ました!!」

 その時、風向きが変わった。

 風はそれほど強くはなく、ただそれだけならなんの変化も戦場にはもたらさないが――

「う、うお!? け、煙が!?」

 少し前に孫策軍が防柵を燃やした火、その煙が、風にまかれて、劉表軍を覆った。

「全軍全力で攻撃してください!! こちらの兵力を数倍に見せかけるんです!」

 北郷軍の全部隊が戦列に投入される。

 矢を撃ち尽くすぐらい撃ち、矛が壊れるぐらいの大打撃を加え、敵陣に対して前進して踏みつけて踏み越えた。

 敵部隊は多くが麻の如く乱れ、その隙間を煙が埋めて、修復不可能な傷となった。

「うおおおおおお!! 撃て!! 撃ちまくれ!!」

 白煙の向こうにありったけの矢を叩き込む。

 煙には敵の目を暗ますだけでなく、もう一つの作用がある。

 それは、味方にも敵を見せないという作用だ。味方は、何十倍の敵が見えていない。ただ煙の先にいるらしい敵に、一方的に攻撃を加えているだけだ。

「距離良し……方位良し。大弓用意!!」

 遠目から距離を測り、通常の弓より大きい弓を準備させる。

「発射後全軍離脱します!! 煙のおかげで後退も全力でいけますから、何も気にせずに退いて下さい!!」

 下達後、大弓が敵本陣があると思われる方角へと矢が放たれ、煙の向こうへと吸い込まれていった。

「後退を!!」

 再度の命令によって、北郷軍は軍を退いた。

 攻勢からの余裕のある撤退であったため、被害はほぼゼロだった。そして、北郷軍が退いた時には、風も煙の勢いも収まっていた。

「気象まで読み切った完璧な状況把握じゃな……恐ろしいわ」

 大弓を抱えた黄蓋が戻ってきた。

「黄蓋さん。手応えはいかがですか?」

「まぁ、当てることは考えていなかったからな……とはいえ、脅しにはなったはずじゃ」

「なら良かったです……。でも、私の部隊に付いていてくれるのはありがたいですが、陸遜さんたちの所はいいんですか?」

 黄蓋は、なぜか今日も北郷軍と行動を共にしていた。

「気にせずとも良い。あっちには程普も韓当もおるからの。襄陽城を背後にして、なかなか思うように動けぬ部隊を率いるより、戦場を横から見る北郷軍のほうが、儂は戦いやすい。それに……」

「それに?」

「策殿が何かをやる時、それに追いつけるのは、お主じゃと思うとる」

「…………」

 孔明は無言で、しかし、否定もしなかった。

「劉表軍も撤退を開始したか……あちらもこちらも、被害を出したからな……」

「そうですね……」

 今日はどちらも無傷では済まなかった。

 特に劉表軍を正面から迎撃した孫策軍主力は、かなり削られてしまった。

「あと一日もてば……いいところでしょうか」

「そうじゃな。なにか大逆転の手でも無い限り、次で崩されるじゃろうな」

「冷静なんですね。もっと火の玉のような激しさで抵抗すると思ったんですが」

「表に出さぬだけじゃ。内心は煮えたぎっとる。なにより」

 と言いつつ、汗で張り付いた髪の毛を払う。

「孫策という将の戦を信じている。儂の戦いはその露払いじゃ。そして、万が一の時には……」

「…………?」

 続きを孔明は待ったが、黄蓋はその文脈を続けようとしなかった。

「今日も策殿は動かなかった。やはり明日が戦いの肝所か」

「雌伏していて今日の戦いの様子はわからないでしょうに、わかる物なんでしょうか?」

「そこらへんは、麒麟児の勘なんじゃろうな。常人にはわからぬ感覚よ…………あ。お主も常人では無かったな。伏龍じゃったか?」

「はわわ……そのあだ名恥ずかしいです……」

 朱里は羞恥で顔を赤らめた。

「策殿は江東の虎の子。龍虎が揃えば敵無しじゃな」

 はっはっはっ、と豪快に笑って、黄蓋は襄陽城の門をくぐった。

 襄陽城の劉表軍は、最後の城壁である第三壁内に閉じ籠もっている。最早反撃の気配は無く、ただ、味方の救出を待つのみである。

「兵糧も限界じゃろうし、そろそろ城内の敵も解き放ってやらんとな……」

「ですね。ここまで敵を引きつければ、襄陽城の敵を囲っておく意味も無いですし」

「彼奴等の戦いも、明日で終りかの……」

 祭が城壁を見上げる。

 夕日に照らされ、無機質な城壁は、どこか血が通って見えた。

 昼の傷跡を夕べにさらし、悲しげだった。

「…………ご主人様」

 不意になぜか胸の奥が一杯になって、朱里は愛しい人の顔を夕空の向こうに見ようとする。

「…………やっぱり、一緒に行けば良かったです」

 ここに残ったほうが、北郷軍のためにも、また桃香様のためにも良いのはわかっているのだけれど。

 ご主人様が、助けたい人の所へ、手の届くところまで飛んでいったように、私だって、そうしたい。

「すぐに……会えますよね……?」

 黄昏のせいか、感傷的な思いがこぼれ落ちた。

 けれど。

 夕日は沈み、夜の闇の帳が降りて、その思いを拾い上げてくれる者はいなかった。

 分かたれた者たちを救える者は、まだ、どこにもいないのだった。

 

 

 

 その日の戦いを終えて、宜城へ帰還した劉表を、カイ越が迎えた。

「…………劉表殿。またしても、兵站部隊が襲撃に遭いました」

「なんですって?」

 珍しく劉表は眉根に少し皺を寄せた。

「一万の兵を預け、周辺の道を見晴らせていたはずですが」

「はっ……面目ない。しかし、襄陽郡の外からの交通は全て遮断、後は内部のみですが、襄陽城から宜城へ至る道もまた、全て遮断しておりました」

「そうですね……その点信頼していますが……さて」

 袖口から扇を出し、扇ぎながら考える。

「襄陽城以外の拠点に兵を隠していましたか……」

 脳裏に襄陽郡全図を広げる。

「荊山周辺は遠すぎる……というか川が走っているから、そんなに使える拠点は多くないはずですが……」

「私たちが多く築いておいた通信・兵站用の砦はいかがです?」

「ふむ…………」

 パチン。扇を閉じる。

「江陵郡の各所に、孫呉の旗があげられていましたね……」

「はい。山や橋、小村や小砦に孫呉の旗が。ですが、そこには孫呉の兵の姿はありませんでした」

「そうですよね…………ただの虚飾だから、襄陽郡に入ってからは無視していましたが……」

「いないと見せかけて、兵を隠しておいたと」

「では、敵が占拠していると思われる私たちの砦を奪還しましょう。さらに兵を割くというのは危険ですが……明日は主力を無理に攻めさせず、敵の動きを牽制するに止めます。後顧の憂いが断たれた時点で攻撃に移り、決着をつけます」

「はっ……。どうです? 孫策は」

「今日、なかなか生きの良い部隊がいました。多分あれが孫策でしょう。顔は見られませんでしたが……さて、明日は見られますかね」

 薄笑いを扇で隠して、劉表は孫策の猛り狂う孫策の顔を想像した。

「虎の子を愛でる趣味はありませんが、遠くから見るぐらいなら愉しそうね」

 劉表は車椅子の車輪を回し、窓の外を見る。

 窓の外は宵闇に月。

 虎の子は、この月の下、眠っているか唸っているか……。

 

 

 無音。

 月明かりの静けさの下、人は息を潜めていた。

 夜の風に乗って、火の臭い。といっても、火は付いていない。火の後の臭いだ。戦場の後の残り香。

 孫策は、その臭いを嗅ぎながら、爪を研いでいた。

「…………」

 無言で。

 周囲の部下……いや、仲間は毛布をかぶり、眠りについている。

 特別寒くは無いが、なんだかんだ夜風は体に障る。

 ここがもう少し立派な砦なら、彼らに苦労をかけることも無いのだが……。

「…………」

 孫策は爪を研ぐ。

 そろそろ限界だ。

 孫策は夜闇に目を光らせた。

 その先にまだ敵はいない。けれど、敵の喉頸が、もうそろそろ見える。

「…………劉表」

 敵の名を呼んだ。

 愛しいぐらい、その存在を求めている。

 事が終わったら、きっと、今まで経験したことが無いぐらい興奮するだろう。

 残念だ。

 その時、冥琳がいれば一緒に楽しめたのに……。

「あ…………」

 孫策はふと思いついた。

「一刀でも、いいかも……」

 だが、彼もここにはいない。

 残念だ。

 孫策は餓えと渇きを抱きしめて、眠りについた。

 

 

 

 運命の三日目。

 荊州の勢力図は塗り変わる。

 

 江夏郡。

 劉表軍内部で何かあったのか、多くの兵が郡の中で動いた。

 俺たちの荊州脱出を阻んでいる2城からも、千人単位で兵が長江上流へと派遣された。

「周瑜の工作が効いたかっ!」

「警備の兵も浮き足立っているようです」

 周泰の諜報によると、江夏郡の首脳部――劉gを行政の長として、文聘を軍事の長とする組織は、現在、夏口に兵力を集中させようとしているらしい。

 夏口は江夏郡のほぼ真ん中に位置し、江陵へと流れる長江と、襄陽へと流れる漢水の合流ポイントである。交通の最重要地と言って良い。

「機が近い……! 全員に出陣の準備をさせろ!」

 俺たちは戦の準備にかかった。

 そして、ほどなくして機は訪れた。

「…………あの旗!?」

 敵城から出て行く数百人単位の集団の旗を、明命が目撃した。

「お、お城から文聘将軍と思われる人と、その護衛が出立っ! 港へ入り、長江をさかのぼると思われます!!」

「来たか……っ」

 全員が顔を見合わせ、頷き合った。

「我らはこれより呉への関門を突破する!! これが最後だ!! 全軍出陣!!」

 孫権が号令し、一万超の全軍が一丸となって敵城を目指して走り出す。

「まずは山側の城を攻撃! しかる後、中央の道に突撃する!!」

 あらかじめ考えておいた作戦通り、城の一つを攻撃して敵を引きつけてから、突破を仕掛ける。

 山側の城を攻撃すると決めたのは、川側の城から敵が出てきても、高低差のある山側からならすぐに発見でき、反撃も優位にたてる、というところから判断した。

「呂蒙隊!! 壁上の敵を狙い撃ちにして下さい! 歩兵部隊! その隙に敵の門を攻撃!!」

 こちらの接近に気づいた敵軍が壁の上から散発的に弓を射掛けるが、まだ反撃と言える反撃になっていない。

「ぐっ、でも、門が堅いっ……!」

「よくわかりませんが、文聘将軍のつくった物は通常の物より堅くなるようです」

 呂蒙が困った顔をする。

「火矢で燃やすか?」

 と提案するが、

「いえ……燃やしてしまったら……」

「あっ、そっか……」

 こん、と自分の頭を叩く。それじゃ意味が無いんだ。

 この攻撃は敵城を陥すためのものじゃないんだ。

「人が数人分通れる穴があればいいんですが……」

「……よ、よし! なら桔梗! 葉雄!!」

 挽回しようと次の策を試す。

 俺の所へ寄ってきた2人の将に作戦を伝える。

「承知っ!」

「了解だ!」

 2人は俺の作戦を理解し、すぐさま実行に移した。

「さあ、豪天砲の真価、見せる時だ!」

 城門では無く城壁の傍に駆け寄った厳顔は、豪天砲の照準を城壁にあわせる。

「ゆけいっ!!」

 発砲。

 黒金の杭が城壁へ打ち出される。

 ギィイイイイイイイイイイイン!!

 とてつもない破砕音とともに、杭の先端だけ突き刺さった。

「ちぃっ! 本当に堅いな!!」

 舌打ちしつつも、厳顔は諦めずに、都合四発連発して、城壁に杭を突き刺した。

 そのどれもが先端から半分程度だけがなんとか壁の中にめり込んだだけで、とても貫通はしそうになかった。

「後は頼んだぞ!! 葉雄っ!!」

「応よっ!! 任されてやる!!」

 勢い込んで、葉雄が巨大なハンマーを肩に担いで厳顔が杭を打ち込んだ場所にダッシュし、

「おりゃあああああああああああああああああ!!!」

 巨大釘のお尻を、ハンマーで強打する。

「ぐっ、おっ、おおおおおおおっ!

 葉雄は激しい抵抗を感じながらも押し切り、ついに釘を根元までめり込ませることに成功した。

 そして、それをくりかえし、全ての釘を打ち込んだ後で、

「これで終りだああああああああああ!!」

 四本の杭の中心の壁に、ハンマーをうちつける。

 それでも壁は崩壊しなかったが、もう一度ハンマーの先端でちょいっと突くと、ビシッ、と蜘蛛の巣状のひび割れが走り、壁が崩落した。

「よしっ! 突入っっ!!」

 我先にと葉雄が城内へと突入した。

「葉雄隊に続けぇええええ!!」

 呉軍も追随する。

「川側の城から敵軍が出撃してきました!!」

「魏延!」

「言われんでも!!」

 俺が指名する前に、焔耶が鈍砕骨を担いで敵部隊の真上にまわる。そして、ぶんぶん、と素振りを数度して、

「吹っ飛べ雑兵ども!」

 鈍砕骨で山に転がっていた岩をヒットし粉砕、敵の頭上に降らせる。

「1、2、3、打ぁああああっ!」

 方向を変えてサイクルヒットし、敵を守勢に回らせる。

「今のうちに門を!!」

「明命ッ、いけるか!!?」

 孫権が城壁の向う側、城内では無く山奥側に向かって叫ぶ。

「準備完了です!! 頭上にご注意下さい!!」

 山に入って工作していた明命が警告を発し、

「3、2、1、発射っ!!」

 立木を利用して作った投石器に岩を乗せて、城内に向けて放つ。

「どわっ! 危なっ!?」

 城内の敵をガンガンぶっ倒していた葉雄が間一髪避ける。

「門を塞げ!!」

 飛んできた岩を押し、門の前に置いていく。

「全軍下がれ!! 川側の城を潰すぞ!! いいな!! 長江傍の城を潰すぞ!!」

 厳顔が大事なことなので繰り返し言って、全軍を退かせた。

「進めっ! 進め!」

 既に城外では呂蒙が呉軍をまとめ上げ、山を駆け下りている。

「ぐっ、敵はこちらに反転攻勢を仕掛けてくるぞ! 全軍帰城しろ!」

 魏延の攻撃を受けて逃げ回っていた山裾の敵が、城に戻って行く。

「陣形を整えよ!! 全速っ!! 敵に防備を整える時間を与えるな!!」

 山を下りた呉軍が、縦に伸びていた陣を、城を囲むように横に陣を伸ばしていく。

「は、早く盾を持ってこい!! 敵が攻めてくるぞ!!」

 川傍の城兵は、慌てて防御態勢をとろうと城内をかけずり回る。

「…………っ」

 敵城の正門前で、孫権は仁王立ちする。

 その目で敵を射殺す勢いで、威圧する。

 精光、孫権の瞳に宿る蒼い光が、敵を縫い止める。

 敵は、いつ攻撃してくるのかと、その目を前に震え上がっていた。

 呉軍は城を大回りして、包囲――するフリをして道を直進していった。

 しかし、敵は気づかない。

 孫権の双眸に睨まれて、攻撃されるのを疑っていない。

 そして、呉軍の半数が道の向こうに消えたところで、

「…………冥琳」

 孫権は視線を長江の果て、夏口方面へと一瞬向け、

「はっ――!」

 孫権は馬首をめぐらせ、中央道へと走り出す。

 一拍遅れて残り半数の呉軍が孫権を追っていく。

「………………あ!」

 さらに遅れて、敵が状況に気づいた。

 だが、防戦態勢の軍をもう一度出陣させるには時間がかかり、なんとかまとまった数を城外に出した時には、

「う、うお!? み、味方か……」

 門を塞いでいた岩を取り除き出陣した、山城の兵と鉢合わせになった。

「は、早く敵を追うぞ!!」

「何言ってるんだ!? そっちの城が攻撃を受けてるんだろ?」

「違う!! 敵は逃げた!! 早く追うぞ!」

 指揮系統が違う2城の兵は、合流に戸惑い、また時間をとられた。

 かてて加えて、

「か、火事だ!! 山火事だ!!」

「山の裏手から火の手が!!?」

「ど、どうすれば……!」

 敵軍は混乱して動けなくなった。

 俺たちはその隙に中央道を猛進した。

 長江に沿って、ただまっすぐに突き進む。

「川沿いに道なりでいいんだよね……今のところ分かれ道無いけど」

 先頭を行く呂蒙に訊く。

「はい。このまま2時間ほど進めば、柴桑が見えてくるはずです!」

「…………周瑜は、間に合わなかったのか……?」

 軍の後尾を見るが、冥琳が合流できた様子は無い。

「…………わかりません」

 呂蒙は後ろを振り向かず、だが声を濁らせ、

「いくら周瑜でも、単独での脱出は危険だよな」

「はい……。甘寧殿や周泰のように隠密に優れているわけではありません」

「そうだよね…………良し、じゃあ、柴桑にたどり着いたら、試してみたいことがあるんだ」

「?」

 呂蒙が振り返り、俺の顔を見る。

 馬上でそれは危ないので、俺は的盧を前に出し横に並ばせて、

「ここまで来たら、話して良いと思うんだけど……」

 と、俺は亞莎の耳に顔を近づけるが、

「あ、あの……近っ……い」

「おっと、ごめん」

 揺れで口が耳に触れそうになった。

「これも危険だとは思うんだけどね」

 と、若干距離を離し、今度こそ彼女の耳に策案をすべりこませる。

「――えっ、それは?」

 呂蒙は目を白黒させ、

「ごめんね。本当にどうにもならない時、軍勢を放棄して使うための策だったんだ」

「い、いえ……! 責めているわけではないんです。でも……そうですね。試してみる価値はあります!」

 亞莎はキリッと表情を引き締め、

「そうと決まれば、一刻も早く柴桑へ――!」

 呂蒙はペースを上げる。

 昨日一日ほとんど休憩に近かったので、体力は回復している。

 俺は呂蒙に遅れをとらない速さで的盧を駆った。

 そのままのペースで三十分――

「!?」

 俺と呂蒙は急停止した。

 道が二つに分かれている。

 一つは今まで通り長江の流れに沿っていく道。

 もう一つは森に入っていく道だ。

 普通に考えれば長江沿いの川路を行くのが正解だが……。

「砦……いや、城……なの?」

 川沿いの道を塞ぐように、砦が築かれていた。

 そこには人の気配が無く、ただの砦跡にも見えたが、一旗、砦の中央に掲げられた旗に俺たちの目は吸い寄せられた。

 文旗。

 文聘将軍の牙門旗があがっていた。

 

 

 

 襄陽郡。襄陽城郊外の平原。

 前日と同じく、孫策軍と劉表軍が対陣していた。

 だが、今日はすぐに戦闘に突入せず、にらみ合いが続いていた。

「…………」

 陸遜を軍師とする、程普、韓当ら諸将は、窮状にあっても城に立て籠もることは無く、城を背に布陣していた。

 これは、敗勢に立った時城に籠もっていると、包囲されて逃げ出せなくなる確率が高いと踏んだからというのもある。

 だが最も大きいのは、この劣勢下において万が一つの勝機があるとしたら、孫策軍の烈火のごとき速攻の先にこそある、と全員が思っているからだ。

「今日も同じ陣形……でも、動きませんね」

 孔明は、遠目ではあるが劉表軍の陣形を見て、顎に指をそえて考えた。

「何か警戒しておるか…………まさか策殿の動きが露見したか……」

「…………少しずつ部隊を動かしましょう。敵の側面を抜けます」

「承知した」

 黄蓋が部隊を一旦バラバラにし、分散させて移動させた。

「かすかな土煙…………あの陣、中が動いている」

 孔明は敵陣全体を観察する。

「ここから見る限り陣には変化が無い。正面の兵を残して……どこへ向かうつもりなのか……」

 孔明は動きながら、それよりも速く、思考を万里に走らせる。

 孫策を追い、劉表を捉えるために。

 

 

 

「敵を包囲したんですね?」

 襄陽城郊外の陣から抜け出してきた劉表が、カイ越に確認した。

「はい。囮の輜重隊を動かしていたところ、敵が尻尾を出しました」

「それで?」

「警戒の部隊を使って敵を退散させ、尾行したところ、巣と思しき砦に入ったので、現在警戒部隊で包囲中です」

「敵の規模はどの程度です?」

「5百から千というところかと」

「そうですか……ちょっと連れてきすぎましたね」

 襄陽郡各所に分散している一万の警戒部隊を集合させるのは時間がかかりすぎるため、劉表の本隊が出動したのだが、規模は四万もあった。

「では、攻撃を始めさせます」

「はいはい。早く終わらせましょう」

 攻撃命令が下り、砦に劉表兵が一気に押し寄せる。

 だが――

「え?」

「はぁ?」

 なんと、次の瞬間砦に白旗が揚がった。

「…………決死の部隊からの誘いでは無かったと。寡兵で大軍に勝つためには、兵站を狙うのは悪くない手段ですが……」

「本気とは言えない規模と覚悟。意外と骨が無いんですね、孫策軍。いえ……ただの尻尾だったんでしょうか」

 いや、それは無いか、と劉表は内心でさらに否定した。

 尻尾だったとしたら、私は虎の尾を踏んだことになるのだから――

「さぁ、襄陽城の戦陣に戻りましょう…………あそこの砦は警戒部隊に任せます」

「はい。最早道中には何も無いでしょう。急いでお戻りを」

「やだ…………疲れる…………ありえない」

 劉表はさっきまで乗っていた馬を拒否し、車椅子に乗った。

 そして軍をゆっくりと動かし始める。

「警戒部隊も半分は戻しましょう。今日中に終わらせたいですからね」

「だったら急ぎませんか?」

「い〜……や〜……ん?」

 億劫そうに首を振る劉表の目に、違和感を覚える光景が飛び込んできた。

「………………あそこの山、禿げ山になってる……」

「んむ? ああ、本当だ。火事でもありましたかな……?」

「いえ…………あの様子……砦?」

「む……我が軍の砦ですか。そちらの砦は焼き討ちされたと。後で再建しなければなりませんな」

「そう、ですね……」

 なぜ燃やされた砦と、燃やされなかった砦があるのか……。少し気になった。

 気まぐれ? 孫策ならありそうな事だが……。

「…………」

「劉表殿! 襄陽城郊外の陣が、衝突間近とのこと!」

 考察は報告で断たれた。

「……そう。では、この四万を核に、陣形を再構築します。合流の準備――」

 

 それは孫策という人に与えられた天運か――

 

「後方の一万を切り離して二つに分け、四隅へ――」

 

 それとも英雄としての小覇王に課せられた天命か――

 

「良いでしょう……そろそろ私も馬に乗りますかね。やれやれ――」

 

 どちらにせよ、絶好の舞台は、絶好の時に出現した。

 

「劉表殿ぉおおおおおお!! 後方より敵が急速接近っっ!!」

「っ、なんですって!?」

 車椅子から立ち上がりかけたタイミングだった。

「兵数は!?」

「約三千!!」

「一体どこから……、いえ、今は考えている時では無いですね。後方に展開してしまった一万をただちに呼び戻して!! 方陣の密度を高め、時間を稼ぎなさい!!」

「ははっ!!」

 カイ越がすっ飛んでいく。

 奇しくも同じタイミングで、前方で対陣していた孫策軍主力も、攻め懸かってきたようだ。

「合流時の混乱を突いた……にしても、人に可能な業とは思えない戦術精度……」

 劉表の額に汗が浮かんだ。

「これは…………誰の力?」

 孫策1人とは思えない。それだけなら、とてもここまで――

「たどり着いたわ…………あなたのところまで――――!」

 超高速で接近する殺意を紙一重で杖で受け、車輪を全力で回して逃れた。

「孫、策……!」

 息を呑んで、劉表は孫策と対面する。

 彼女は血と灰にまみれた、凄惨な姿で立っていた。

「灰……そうか、あの燃え落ちた砦……あんなところに潜んでいたんですね」

「あはっ、私の目の前をあなたの軍が何度か通り過ぎてくれた時には、どうしてやろうかと思ったわ」

 びちゃっ、と剣の血を払う。

「でも我慢して良かった。仲間と一緒に雌伏していて良かった。いま、あなたをこの手で殺せるんだから――!」

 壊れたように微笑み、斬りかかってくる。

「ぐっ……このっ……!」

 杖――仕込み剣を抜き、車椅子から立ち上がって受ける。

「うっ、つぅううう!?」

 数メートル後ろまで弾き飛ばされ、膝を突いて止まり、片眼を強く閉じて苦痛の色をあらわす劉表。

「劉表様っ!」

 と、周りの兵が劉表に手を貸して助け起こすが、

「…………皆は下がっていなさい」

 劉表は兵を手で制し、剣を構え直した。

「あら? まさか一騎討ちしてくれるの?」

 てっきり仲間に任せて逃げると思っていた孫策は、舌なめずりする。

 それを見て、脂汗を浮かべながらも劉表は一笑を向ける。

「母虎の面影がありますね…………敵の成長、愛しいやら悲しいやら」

 そして、初めて、彼女は敵を敵として睨みつけた。

 

 

「一騎討ちを受けましょう……来なさい、虎子。御湿が取れたかどうか、見てあげます――!!」

 

 

 

 

 

 

 

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分割四つ目。
荊州脱出への道。
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