Papilio tertiadecima |
T
「酷い有様ですね…」
足もとに広がる惨状にルフレは思わず眉をひそめた。
ファウダ―を追いかけて進軍したペレジアのとある館。しかし主は既に抜け出し、禍々しい竜の装飾がされた館は紅く濡れた祭壇を中心におびただしい死体が転がっていた。
みなルフレが長らく愛用している外套と似た衣装を身にまとい、あるものは祈りの態勢のまま、あるものは目を見開いて血を垂れ流して方陣型に倒れている。…恐らくは互いに自決しあった末路であろう。中には幼い子供の姿もあり、ファウダ―と決着をつけるために意気揚々と進んでいた仲間達は皆言葉を失っていた。
「ファウダ―の手のものか、呪術による洗脳か。或いは私達が進軍するのにパニックをおこしたのか…ギムレーを復活させようとあがいたのでしょうね」
そんなことしても無意味なのに。禍々しい紋章が刻まれた掌を握りしめながら、ルフレは悲しい目をして呟いた。クロムは妻である彼女の肩をそっと支える。
実の父であるファウダ―、そして邪龍の器であるルフレにはこの光景はあまりにも酷だ。
「おまえのせいじゃない、憎むべきはファウダ―だ」
「…わかっています」
ありがとうございます、そう振り返って微笑む彼女だが、人の感情に敏くないクロムでも彼女が無理していることはわかる。数多の死体をみてきたとはいえ、自分に関わることで起きた殺戮に心を痛めているのだろう。
「あまり長くいるべき場所ではないですね、生存者捜索をしたらすぐに戻りましょう。埋葬の手配もしておきます」
「そうだな、頼むフレデリク」
見かねたフレデリクが進言し、クロムが頷くと茫然としていた仲間達が各々に出来ることをしようと動きだした。
普段明るいリズ、マリアベルは互いに手を繋ぎうつむいている。死臭に満ちたこの空間に生の気配がしない。それでも彼女達は助けられる命を救おうと、杖を握り歩き出した。リベラは軽く膝をつき「神よ、異教ではありますが彼等をお導きください」と沈痛な表情で祈りをささげる。
戦争のむなしさは理解していた。だが無意味な殺戮の痕をむざむざと見せられることに慣れている者はいない。
「行こうルフレ」
「ええ…」
血だまりの中いつまでもたっている訳にはいかない、仲間の為にも早く目的を果たそうとクロムに促されルフレも歩き出すが、かぼそい声を聞いた気がして足を止めた。
「…ね…さ…?」
耳を澄まし、ルフレは声のする方へ顔を向けた。風音ではない、呻きに近いが確実に誰かが呼んでいる。
「どうしたルフレ?」
「生存者が!」
いぶかしげな顔をしたクロムの手から逃れると、聴覚を研ぎ澄ましルフレは血で濡れた床を駆けた。
まだ生温かい屍の山の中をかき分け、ルフレはついに声の主を見つける。
何かを抱きしめている華奢な体の女性が、濁りかけた目でこちらをぼんやりと見つめている。
「しっかりしてください!」と励ましながらルフレは彼女をそっと抱き起こした。
何かを言おうとした女性の震える唇からごぷりと血が漏れた。
「ねえ、さん…や、っぱり、ねえさん、なのね…?」
「姉さん?」
疑問を口にしようとしたが、ルフレは彼女の傷をみて思わず言葉を失う。魔術で貫かれたのか腹部には大きな穴が開いており、杖を持ってしても再生しない事は明確であった。
「いき、てたのね…器の子と、にげた…のに…」
器の子。それはまさか、私?
困惑するルフレを知ってか知らずか、瀕死の女性は血を零すのも気にせず言葉を続けた。
言われてみれば、彼女は若き頃の母に似ている。髪の色も瞳の色も同じ。彼女はもしかしたら、ルフレの叔母なのかもしれない。意識が朦朧としている為か、ルフレを姉と勘違いしているのだろう。
「にくん、でた…ね、さん…を…で、も…いま、なら、わ、かる…きもち…」
母に似た目元を細めながら彼女は何かを抱きしめていた両手を緩める。黒い布に包まれた小さなものが動くのに気付いて、ルフレは目を丸くした。
「この、こが…いる、から…ファウダ―さま、の子…いと、し…」
布がずれ、母と彼女、そしてルフレと同じ髪色をした赤子の顔が露わになった。泣きつかれたのか、それとも眠りの呪術をかけられたのか。頬を林檎色に染め、安らかに寝息を立てている。
ファウダ―はルフレ親子が逃げた後もギムレーの器作りを諦めていなかったのだ。恐らく母の一族と片っ端から交じり何の罪もない子供を作ってきたのだろう。もしかしたら今まで戦っていたギムレー教徒に腹違いの兄弟がいたのかもしれない。
唖然とするルフレを前に、女性は愛しそうにぎこちない手で赤子を撫でる。最後に深く息を吸い込むと、彼女は縋るように濡れた目でルフレに顔を向けた。今まで子供を守る為に辛うじて保っていただろう命の炎が、ルフレに会って安心したのか尽きようとしている。
「ねえ、さ、おね、が…マーク、だけ、で、も…」
「待って!行かないでください、貴方にはまだ聞きたいことが!」
力なく伸ばされた手がそのまま空を切る。ルフレがその手を握ろうとすると、弱弱しく輝いていた瞳から光が消えた。口元には微笑みを浮かべ、マークと呼ばれた幼子を残し彼女は逝ってしまったのだ。
聞きたいことが沢山あった。若い頃の母のこと、ギムレーのこと、そして残された自分の子と同じ名前の赤子のこと。
しかし彼女は二度と口を開くことが無いだろう。頭で理解していても、ルフレの胸はやりきれない想いで溢れ項垂れた。
自身に流れる血、そしてこの身に宿る邪龍が引き起こした悲劇。受け止めきるにはあまりにも重い事実だが、それでも逃げることは許されない。
そっと瞼を閉じさせ、リベラに教わった簡単な祈りを口にするとルフレは彼女の胸で眠る赤子を抱き上げる。白く小さな掌には邪痕はなく、温もりを求めてか外套を握りしめてきて思わず微笑んでしまう。名前だけでなく、顔までそっくりだったのだ。
「ルフレ!」
「クロムさん」
夫である彼が駆けよってくると、ルフレはようやく立ち上がり振り返った。
単独行動はするな、敵が何処かにいたらどうする。そう言おうとしたクロムだったが、彼女の胸に抱かれている赤子に目を丸くした。髪の色以外は今年生まれ、城にいる息子に瓜二つだったのだ。
「その子は…?」
ルフレは愛しそうに眠る子を撫でると、にこりと微笑んでこう言った。
「マ―クです。私の妹なんですよ」
*
こうしてルフレの姪であり腹違いの妹であるマークは連れ帰られ、王妃の歳が離れた妹としてルキナ、マークと共に育てられた。
ルキナはマークを本当の妹のように慈しんだ。王子マークは彼女をマーク姉さんと呼び親しみ、ルフレに教わる戦術で幼いながらも互いに軍師見習いとして競い合うことになる。
「あーまた負けました!」
「うふふ、マークさんが私に勝てると思うなんて100年早いですよ!」
悔しそうにマーク王子がチェスの駒を投げると、ちょろいですね、とマークが可愛らしい笑顔に似合わぬ毒を吐いた。
そんな2人を、ルキナは鍛錬に使った剣を磨きながら微笑ましげに見守っている。父に似て頭を働かすより体を使う方が好きなルキナは2人のチェスには混ざれない。自分も一応母に習っていたのだが、ハンデをつけて貰っても到底2人に勝てる気がしないのだ。従兄弟のウードはたまに意気込んで勝負を申し込むが、少女マークに大差で負けた罰として菓子をしょっちゅう巻き上げられている。
「あ、でも僕の方が生存者が多いですよ、母さんがチェスは戦術と違うと言ってましたから軍師としては僕の方が優秀ですね!」
「いいえ、勝負には私が勝ちました!さあマークさん、約束通り私にガイアさんの高級菓子をくださいね」
「えーあれは本当に貴重なんですよ〜ガイアさんを落とし穴に嵌めてやっと手に入れたものなんですから…」
「約束事は約束事です。ね、ルキナさん?」
「ルキナ姉さんはどう思いますか?!勿論可愛い弟である僕を応援してくれますよね?」
性別と髪色だけは違う、そっくりな顔の2人に同時に話を振られ、ルキナは思わず噴き出した。
「マ―ク達は本当に仲良しですね」
お父様とお母様のように、互いの半身になればいいじゃないですか。
そう笑いながら言うと、2人のマークは同じタイミングで顔を見合わせる。
「「えー流石にあそこまでべったりしてませんよ…」」
「誰がべったりしているって?」
いつのまにか苦虫を噛みつぶしたかのような顔をしたクロムが背後にたっており、「げ、父さん」「く、クロムさん」と気まずそうにマーク達は呟く。
「ウードに聞いたぞ、賭けごとをしてるんだってな。あと、ガイアを落とし穴に嵌めたのはどっちだ?」
「「びええええんごめんなさ〜い!」」
「あ、こら待て!」
城の中庭を凄い勢いで駆けていく2人を、クロムは追いかけようとしてやめた。
いつもは口喧嘩ばかりしている2人だったが、ピンチになると妙に息があい変な所に罠を仕掛けていたりいつのまにか作っていた逃走経路に飛び込み追いつけたためしがない。
「…あいつら、逃げ脚だけは本当に早いな」
「私に似ましたね」
「お母様!」
むすっとした顔のクロムの傍らにルフレが苦笑しながら立ち、ルキナは剣を置いて駆け寄った。
フェリアの協力要請で出張していた母はルキナを抱きしめる。「俺が先じゃないのか」と少し口を尖らすクロムに「もう、あなたは子供ですか…」と顔を赤くするとルフレはルキナを一度離して今度は夫に抱きつき頬にキスをする。
「その様子だと、マーク達に手を焼かされていたようですね」
「…ああ、お前によく似て恐ろしく頭が良いからな。詳しい悪行はルキナから聞いてくれ」
なあ、ルキナ。そう少しだけ機嫌をよくした父に微笑まれ、ルキナは「はい!」と笑顔で答えた。
もう少し大きくなったらルキナは実戦の為剣を取り、ウード達と共に父の補佐に尽力するだろう。
そして2人のマークが母と共に戦術を練り、イ―リスを、自分たちを守ってくれる。
そうしたら今よりももっと素敵な世界を作れるに違いない。
仲睦まじく寄り添う両親と、それを遠くの木陰からにやにやしながら出刃亀するマーク達を見ながらルキナは考えていた。
そしてその未来はもう直やってくる。
その時は信じてやまなかったのだ。
しかしそんな幸せも、そう長く続かなかった。
聖王夫婦の訃報が大陸中に伝播し、喪が明けリズが聖王代理として一応の混乱を収束させると、片割れのマークが姿を消したのだ。
そして、世界は黒く塗りつぶされていく。
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それは5の月の麗らかな陽光に満ちた午後のこと。
マーク達の10度目の生誕祭が行われてすぐの日であった。
「マーク、話があります」
埃っぽい資料倉庫で戦術書をいつものように読んでいると、ルフレがいつになく真剣な顔で話しかけてきた。
悪戯をしかけたのがばれたのかしら、この前はフレデリクさんを罠に引っ掛けてしまったしそれかも。
きっと叱られる。ルフレはこう見えて怒ると壁を壊しまくる聖王さえも尻に敷く女性だ。
こう言う時は素直に謝るのが一番の得策だ。本を閉じ正座して緊張しながらもマークは言葉を待つ。しかし予想していた言葉はかけられず、ルフレは少しだけ迷ったように視線を彷徨わせていた。
「ルフレさん?」
「…これから話すことは貴方にとっては辛い話かもしれません。ですが、貴方にどうしても話しておきたいことなんです」
窓枠の影が母であり姉のような存在にかかる。晴れていた空はいつのまにか雲で翳っていた。
こんな顔したルフレさん、みたことない。マークは少しだけ不安を覚え、胸に抱えた戦術書を抱きしめる。
少しだけルフレは思巡した後、しかし決意したのか重い口を開いた。
いわく、マークはルフレにとって姪であり、腹違いの妹であること。
母は既に亡くなっており、父はギムレー教団の最高指導者ファウダ―であること。
そしてルフレがギムレーの器であること。
「ギムレーって、1000年前に封印された竜のことですよね?」
「そうです、忘れかけられた御伽噺は実在していたんです…これがその証拠」
そういって滅多に外さない手袋を引き抜くと、ルフレは手の甲をマークに見せてきた。
隠されていた白い掌には紫紺に染まった禍々しい紋章が痣として浮き上がっている。書物で見たギムレー教団のシンボルと同じだと気付いた時、マークは背筋がぞくり、と震えた。
「あなたにはこれがないから安心してください。ですが、ファウダ―が…ギムレー教団が存在している限り、貴方の血は狙われ続けます」
手袋を嵌め直しながら、ルフレはマークに真っ直ぐと視線を向けてくる。
マークはまだ幼い為全てのことを理解はできない。だが現状自分がルフレに最も血が近いこと、そしていずれ生まれるかもしれない子供が器と化す宿命を背負っていることに気付かされたのだ。
「私がギムレーになる条件はわかりません…ですが、いつなってもおかしくない。だから貴方にこの事を話しておきたかったんです」
「そんな…ルフレさんは、ギムレーなんかに負けません!」
「ええ、私もそのつもりです。私達の代でなんとしてでもギムレーを封印します。貴方には背負わせませんから安心してください」
マークと同じ瞳の色をした彼女はそういって目を伏せ微笑むと、「そうだ、これを貴方に」と綺麗に折りたたまれた外套を渡してきた。
「これは…?」
「赤ちゃんの貴方をくるんでいた物です。恐らく貴方のお母さんが着ていたものでしょう。今の貴方にはまだ大きいですけど」
私のものとおそろいなんですよ。そう言うと、ルフレはマークの肩に外套を被せる。
厚手の布で作られたそれは確かにまだマークの体には重く丈が余ってしまい裾が床についてしまった。
「呪術がこめられているみたいで、多少の魔法や刃物じゃ破れません。いつか貴方の身を守ってくれるでしょう」
「ルフレさん…」
「怖がらせてごめんなさい、私が貴方を守ります。クロムさんも、ルキナも、マークも。だから、安心して…」
ルフレはそう言うと、マークの体を抱きしめてきた。
彼女は気付いていたのかもしれない。ある日いきなり連れてこられたという2人目のマークに王妃の隠し子ではないかと疑う者は多かった。元より王妃ルフレはペレジアの人間だった。民には受け入れられているが、保守的な貴族たちはルフレのこともマークのこともよくは思っていない。
子供ながら聡いマークは自身の危うい立場に気付かされた。聖王クロムやその周辺の者達が気を使っている者の、無意識の悪意を感じ取っていたのだ。
明るく振る舞ってはいるものの、心の中ではどこか不安で渦巻いていた。同時にルフレやその家族にも引け目を感じていた。自分はこの城の異物なのだと。
だから一日でも早くルフレの力になろうと、戦術を猛勉強していた。彼女の実子であるマーク王子に負けぬよう、ここでの存在価値を見いだす為に。
マークの大きな瞳に涙が浮かぶ。
どこまでこの人は、私のことを見とおしているんだろう。
いつのまにか貯め込んでいた寂しいという感情が溢れ出し、ルフレの胸に縋りついて泣いた。
実子のルキナやマークを抱きしめる姿に最近は何処か遠慮していて、凄く久しぶりに胸の温かさを感じる。
ふわりと感じた何処か懐かしい香りは、ルフレの物なのか、それとも実の母のものであった外套からするものなのだろうか。
これがお母さんの匂いなのかな。
泣きじゃくりながら、マークはぼんやりと考えを巡らせていた。
*
また頭が痛い。
城の私室でベッドに身体を埋めたマークは、頭を抱え一人で呻いていた。
声が聞こえる。
それも、死んだと聞かされたあの人の声が。
主治医やマリアベルには精神的なものだろうと言われたが、それとは違うと心の奥の自分が叫んでいる。サーリャにも呪術的は掛けられていないと診断されたことから、マークの中で確信したことがある。
…ルフレさんは生きている。邪龍の中にいるんだ。
信じたくない、けどどこか嬉しい事実にマークはぼろぼろと涙がこぼれる。
2人の訃報を聞いた時、崩れ落ちるルキナと彼女を支えるマークをみながらルフレが邪龍として覚醒したことに気付かされた。クロムの棺は重いのに対し、ルフレの棺は遺体が見つからなかったと軽かった理由もこれでつじつまが合う。
大人達はルフレもギムレーに殺されたと優しい嘘をついているが、恐らくルフレがクロムを殺したのだろう。そして子供達の中でその事実に気付いているのはマークのみだ。
あの人は生きている。そして最愛の夫を殺してしまったことに哀しみ、泣き叫んでいるのだ。今もたった一人で。
「私の中の血が、ギムレーの声を聞かせてるんだ…」
窓から見える血のように赤い月を見つめながら、マークは一人呟く。
腕の中にはルフレから貰った外套があった。これがないと、最近は満足に眠ることが出来なかった。幼児はお気に入りのブランケットがないと眠れないと聞くが、マークにとってはこれがそれに近いのかもしれない。
以前着た時にはぶかぶかだったそれに袖を通す。
マークの体にはまだ大きいが、それでも袖からは手が覗くし、裾も床につかない。ルフレの外套を思い出し、マークは自身の体を抱きしめた。やはり懐かしい香りがする。
鏡に映る自分の姿はまだ外套に着られている状態だけど、それでも少しずつ憧れの軍師像に近づいているに違いない。
この時の為に、私は戦術を学んできたんだ。
鏡の中の自分に頷いて見せると、マークは魔道書と護身用の剣を携えフードを被り長年親しんだ部屋からそっと出る。
警備の目はこの暗闇に紛れる外套ともう一人のマークと共に考えた逃走経路でなんとかなる。問題は、どうやってギムレーの元へ行くかどうかだ。幼いころマークや幼馴染達と脱走した塀の壁は当然修復されているし、なにより城の外は警備が多い。仮にうまく城を抜け出せたとしても、外は屍兵で溢れている。子供一人では無謀にも程がある。
なにか方法があるはずだ。軍師としての頭を働かせながらマークはすっかり荒れてしまった中庭で空を見上げた。
マークの顔に影が落ちる。雲でも翳ったかしら?そう疑問に思っていると、影はどんどん大きくなり、ついにはマークの真上にある大樹の枝に、みしりと音を立てそれは止まった。
ここで騒ぎを起こすのは得策ではないと、マークは冷静に、しかし震える手で剣を構える。
こんな時に飛竜が現れるなんて。冷や汗を掻きながらルフレのように相手を観察しようとすると、足首に巻かれた布に見覚えがあり、マークは目を見開いた。
「貴方は…」
まだ平和だった頃、幼馴染達と抜け出した森に傷ついた子竜が倒れていた。
退治しよう、と覚えたばかりの武器を振りまわして張り切るシンシアやウード達を可哀そうだと説得し、竜の言葉がわかるというジェロームやンン、杖が使えるブレディの手を借りて手当てしたことがあったのだ。
子竜はある日傷が治ったのか狩られてしまったのか森から姿を消し、ロランの「鶴の恩返しじゃなくて竜の恩返しがあるといいですね」との言葉を信じ一同は寂しい思いで解散したのだが、その時にブレディが包帯の代わりにと巻いたレースのハンカチが、ボロボロになりながらも竜の足首にあったのだ。
「…まさか、本当に竜の恩返し?」
すっかり大きくなった竜はうなずくようにばさりと漆黒の羽を広げると、マークの下に降り立つ。
そんなことが本当にあるのか。もしかしたらギムレーの罠かもしれない。
しかし今は罠でもいい。この城を抜け出し、一刻も早くギムレーの元へ行きたいのだ。迷えば迷うほど警備に見つかりやすくなる。
マークは覚悟を決めると竜の傍に駆け寄る。竜は促すように身を屈め、マークは固い鱗に覆われた背にしっかりとしがみついた。
ジェロームやその母セルジュに乗せてもらったことはあるが、ひんやりとした胴体に身震いをしてしまう。それでも竜は振り落とさず、マークの指示を静かに待っている。
「ギムレーの元へ連れて行って下さい」
そう震える声で呟くと、飛竜は静かに羽ばたきをして空へ浮かび上がった。
予想以上の風と衝撃にマークは目をつぶり、落ちないよう必死で竜の首にしがみつく。
ようやく振動に慣れ再び開いた瞳に、小さくなったイ―リス城が写った。
優しい記憶のある場所。大切な人々がいる場所だ。本来ならルフレがいなくなった穴を埋める為、マーク王子と協力して軍師になるべきなのかもしれない。
しかし、ルキナやマーク王子の周りには仲間がいる。大人だって少しは生き延びているし、幼馴染達もいる。
でも、ルフレは?マークの孤独を埋めてくれた優しい姉は、邪龍となってたった一人で苦しんでいるのだ。
ごめんなさい皆さん。ルキナさん、マークさん。
私はあの人から教わった戦術で、世界の敵になります。
冷たい風に翻弄されながらも、マークは真っ直ぐと目前の闇を見据える。心なしか、脳内に響くあの人の声が大きく、より悲痛なものになっている気がした。
彼女の視線の先には赤い月光を背景に、邪龍の巨影が浮かび上がっていた。
雷光のような頭痛が一瞬走り、顔をしかめ思わず羽根ペンを揺らしてしまう。
「うわ、やっちゃっいました…」
母の遺した戦術書にぼたり、と落ちた大きなインクの痕。溜息をつきながらマーク王子は広がっていく黒い染みをぼんやりと見つめていた。
このところ、奇妙な頭痛に悩まされ眠れない夜が続いてついつい勉強に精を出していたが、そろそろしっかり休まないといけないのかもしれない。この前もリズさんに叱られてルキナ姉さんの手刀で無理矢理失神させられたっけ、と苦笑しながらマークは椅子に寄りかかりながら何気なく窓をみつめた。
両親が死んでから空は淀んでいくばかりだ。今も不気味な赤い月がこちらをあざ笑うように見下ろしてくる。
早く大人になって、立派な軍師にならないと。
焦っても身長は急に伸びやしないからせめて知識だけはと母の資料庫に足を運んだが、これだけの戦術書を研究したのか、とそびえたつ本棚をみて逆に圧倒されてしまったのだ。
「母さんや父さんにはまだまだ教えてもらうことが一杯あったのに」
考えても仕方ないことだけど、と独り言を呟きながらマークはインク瓶の蓋を閉めた。縁に触ってしまっていたのか、手がいつのまにかべっとりと黒く汚れていた。
うわ、と思いながら手洗いに行こうと席を立つ。温かいものでも飲んで無理にでも気を休めないと皆の迷惑になってしまう。
「…マーク姉さんも起きてるのかな」
最近こちらと目を合わせてこない自分とよく似た少女の顔を思い浮かべる。
彼女は自分以上に不眠が酷いらしく、リズ達筆頭に大人達が心配していたが無理した笑顔を浮かべて本心は決して語らない。
皆神経をすり減らし切っていたが、中でも彼女の憔悴した姿は誰が見ても異常だと思っている。それでも彼女へ無理に深入り出来ないのは、皆自分のことで精一杯で疲れきっている為なのだろう。マーク自身もついさっきまでそうだったのだから。
原因不明の頭痛に悩まされている彼女に「持病まで似るもんですかね」と的外れなことを考えながら、ついでに彼女の分もハーブティーを作って貰おうとひんやりとした廊下へと足を進めた。
叔母というと怒るもう一人の姉を想いながらマークが扉を閉めた瞬間、赤い月明りに照らされた部屋の窓に飛竜が飛び立つ姿が映ったのだが彼はまだ気付かない。
V
数年前、まだこの世界に青空が広がっていたころ。ルキナと2人のマークは幼馴染達と共にこっそり城を出かけるのが日課になっていた。
活気にあふれる街を見たり、外に広がる森や野山で遊んだり。見つかったらクロムにげんこつを喰らいフレデリクに長時間説教されるのだけど、それでも懲りずに集まった仲間達で小さな冒険に行くのが楽しかった。
「なあ、へんな匂いしないか?」
タグエルの少年シャンブレーが鼻をひくひくさせて立ち止まる。臆病だが感覚は人一倍優れた彼の言葉に子供達は立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
「そうかしら?」
「しないと思うけど…」
「フハハわかったぞシャンブレ−、貴様さてはびびってんだろ?」
「ちちち、違うよ!ほんとにするんだってば!」
セレナとデジェルは首を振り、ウードはシャンブレ−を小突きからかう。
いつもの光景だ。シャンブレ−は些細なこと(例えば犬に吠えられた、蛙が飛び出してきた等)に絶滅する!とおおげさに怯え、皆を笑わせるのが日常だった。
マークも皆につられ笑っていたが、傍らで一人難しそうな顔をしているンンに気付き笑みを止める。
「どうしたんですか、ンン?」
「…いえ、わたしもなにか感じるです」
シャンブレ−の気のせいではないと思います。幼女の姿でありながら自分達と年齢が近いマムクートの言葉に、皆は笑うのをやめ顔を見合わせた。
「ほらみろ、俺の鼻を信じろって!」
「ど、どうしよう…この森、クマが出るって…」
「く、クマ?!おいノワール本当か!」
「ほ、ほんとよ…父さんが昔、ここでクマをしとめたって…」
「ええー僕今までクマに踊り見られてたかもしれないの?!恥ずかしいなあ…」
「今はそういう問題じゃねえだろ!クマだぞクマ、俺達に勝てんのか?」
「力試しにはもってこいね」
「正義のヒーローシンシアの相手に不足はないわ!」
「あんた達馬鹿なの?!そんなへなちょこな武器で本気で勝てると思ってるの?あたしは嫌だから!」
「分析では僕達の戦力での勝率は…」
「…えーと。皆、少し落ち着きましょう?」
こほん、と咳払いした最年長であるルキナの言葉に思い思いのことを口にしていた皆は黙った。
仲間達の中でも最年長であるルキナは皆の姉的存在であり、マークはそのことが少しくすぐったくて誇らしい。
「セレナの言う通り、不用意に戦うのは危険です。私とジェロームで様子を見てきますから、皆は待っていてください」
子世代の中でも最も武術に秀でた2人に口を挟むことは出来ず、またルキナに逆らう者もおらず、一先ず子供達は従った。
しばらくして戻ってきたジェロームの口から森の奥に親からはぐれ傷ついた子竜がいること、こちらを襲うほどの体力がないことを告げられ一同は不安と好奇心の入り混じった顔で互いを見る。
「今なら竜を倒せるチャンスってことだよね!」
「子供とはいえ竜は竜です。傷が治れば人里に下りて危害を加えるかもしれません」
「竜殺しのウードになれるチャンスってわけか…血が騒ぐぜ!」
「わ、わたしは反対…竜よ、怖いわ…勝てっこないわよ…」
「私も反対ね。竜とは別の機会に正々堂々と戦いたいわ」
「ぜ、絶滅するー!」
まったく意見がまとまりそうもない子供達を見て、ルキナはどうしたものかと溜息をついていた。
そんな彼女を横目に見ながら面白そうな意見があったら乗ろうかな、程度にしか考えていなかったマークだったが、傍らで珍しくうつむいている少女のマークが口を開く。
「ジェロームさん、竜の傷はどれくらい酷いんですか?」
「…羽根の付け根と足を怪我しているが飛べない事はない。ただ親とはぐれている、そう長くはもたないだろう」
「可哀そうです…おかあさんとはぐれてさみしいですね…」
竜に縁あるジェロームとンンが表情を暗くする。それを聞いて決心したのか、マークはいまだに好き勝手意見を言い合っている仲間達にくるりと振り返った。
「ねえねえ皆さん、私達だけの手で助けませんか?」
*
「マーク姉さんがこういうこと言いだすなんて珍しいですね」
近くにあった小川でブレディから借りたハンカチを浸している彼女にそう問いかければ、「私のことそんなにひどい女だと思ってたんですかー?マークさんは酷いです」とふくれっ面で返してきた。
当初ジェローム達以外は難色を示していた仲間達だったが、マークの巧みな話術と「自分達だけでなにか成し遂げたい」という欲求に魅力を感じ、各々に出来ることをしようと2人1組で森の中に治療に必要な材料を集めに向かったのだ。
「だって、対ドラゴンナイトを想定しての実験をします!とかいいそうだったですし」
「さすがに今にも死にそうな相手にはやりませんよ!反撃されたら私の魔術じゃまだまだ勝てそうもないですし…それに」
小川の中でゆらゆらとレースのハンカチが揺れている。その揺らめきを見つめながらマークはポツリと呟いた。
「一人ぼっちはかわいそうです」
水面を映しているせいか彼女の瞳は涙をたたえている様に輝いていた。
ドキリ、とマークの鼓動が跳ねあがる。
泣いているのか?一瞬そう見えて聞こうとしたが、次の瞬間にマークはこちらを振り返りニコリと微笑んだ。
「なんちゃって。それにロランさんが言ってたんです、ソンシンの昔話みたいに竜の恩返しがあるかもって」
お菓子をたくさん持ってきてくれたり珍しい宝石をくれたりすごい戦術書を私にくれるかもしれないんですよ、とハンカチを絞りながら彼女はいつものようにおどけてみせた。
「ああ、それは名案ですね!恩を売って得する大作戦、姉さんらしいや」
「竜は鶴より強いし頭もいいはずだからきっとご利益がありますよ!さ、みなさんのところへ戻りましょう!」
マークは濡れたハンカチを握りしめ、太陽のような笑みを浮かべた。そんな彼女を複雑な思いで見つめながら、母と同じ髪色をヒョコヒョコと揺らす少女を追いかける。
昔は髪色以外鏡に映った姿のようだった。しかし、彼女の背を追い越した位から、本当に注意しないと気づかないが少しずつ距離を取られている気がする。少し前までなんでも本音を言い合い喧嘩して姉ルキナにたしなめられていたが、最近はうまく話題をすり替えられて彼女は激しい感情をぶつけてこなくなった。
偶然同じ名前を持つ叔母に、マークは日増しに複雑な感情を抱いていく。常に対等な目線でお互いにとって最大の理解者だと信じていたかったのに。
(本当に双子だったら、この関係も変わってたんですかね?)
「どうしたんですか、マークさん?」
大きな瞳がこちらをのぞき込んでくる。先に行っていたと思っていた彼女が目前まで迫っており、マークは思わず身を退けた。
自分の感情は隠そうとするのにこちらの心配はしてくる彼女に、いっそのことこの想いを素直に言おうかと一瞬考えた。
だがじっとこちらを伺ってくる瞳になぜだか言葉を失って「なんでもないです」と笑ってごまかしてしまう。
「恩返しに何が返ってくるのかなーっと考えてました!」
「ふふ、そのためにはちゃちゃっと手当てしませんとね」
お互い本当の気持ちに蓋をして表面上に笑いあった。お互いを知りすぎているからこそ、どう言葉にしていいかわからないのを二人とも気づいていたのだ。
「いいだしっぺなんだから姉さんたちに遅いって余計に怒られちゃいますね」
「ですね、アハハ」
小さな手に握り締められたハンカチから陽光に輝く雫がポタポタと落ちた。
遠くからこちらを呼ぶルキナ達の声が聞こえる。
ほら早速です。
そう言おうと傍らにいたはずの少女にマークは視線を向けた。
陽だまりにいたはずの彼女の姿はなく、いつのまにか森には黒い底なしの闇が広がっていた。
*
「…マーク、マーク!」
肩を揺さぶられ、マークは意識を急浮上させ瞼を開く。
聖痕が刻まれた蒼い瞳と視線がかち合い、マークは先ほどまで夢を見ていたことにようやく気づかされた。
「ル、キナ姉さん?」
「よかった…」
ルキナは張り詰めていた頬の筋肉を緩め、マークを抱きしめてきた。彼女に触れられた肋骨あたりが傷み、どうやら敵の攻撃を受けて気を失っていたようだと悟る。
「ね、姉さん、痛いで、す」
「ご、ごめんなさい」
今杖を使える者を連れてきますね、そういって藍色の髪を揺らし駆けていく姉の後姿を眺めマークは痛む肺を気遣いながらゆっくりと溜息をついた。
よりによってこんな時にあの夢を見るなんて。
穴の開いた天井から覗く淀んだ空が現実を突きつけてくるようで、ある意味夢を見ていたままのほうが幸せだったのかもしれないとつい考えてしまう。
昼間なのか夜なのかわからない濁った空。両親が死に、保護者となってくれたリズや守ってくれた大人たちも無限に沸いてくる屍兵に殺された。マークは未熟ながら軍師として聖王の座を継承した姉をサポートしていた。現在も幼馴染達と別れて押し寄せてくる屍兵から国民を守る為に東の離宮を拠点として防衛戦を繰り広げている。
かつて両親や姉達と楽しい休暇を過ごした離宮も度重なる襲撃でボロボロになり、堅牢な骨組みだけがマーク達を今も守ってくれている。
昔はマーク姉さんもいたっけ。
ルキナが連れてきた僧侶の杖で傷を治されている間、目前に広がる荒廃とした中庭を見つけながらぼんやりと考えていた。
マーク姉さんはどこに行ったのだろう?
数年前の夜に忽然と消えた彼女を想う。度重なる悲劇に心労が溜まり精神的におかしくなってしまった末の失踪と言われているがそれは違うとマークは考えている。
失踪する直前の彼女は憔悴していたとはいえ、その瞳に意志の輝きを失っていなかった。屍兵で溢れる外の世界を無意味に飛び出していく程彼女は愚かでないし、理性もあったはずだ。
ではどこへ?彼女は何をしに危険な外へ?
考えこもうと思考を働かせると鋭い頭痛が走り、マークは思わず頭を押さえた。
「マーク、大丈夫ですか?」
傍らにいた姉が心配そうに覗きこんでくる。父譲りの濁りなくまっすぐな視線に気後れを感じて、マークは心配させまいと無理矢理顔の筋肉を動かして笑って見せた。
「大丈夫です姉さん。変なとこ打って目がチカチカするだけですから」
間抜けなところみられちゃいましたね、かっこ悪いなーあはは、と昔のように能天気に笑って見せようとした。だがルキナが表情を晴らさせることはなくマークへと手を伸ばしてきた。
「…そうやって無理に笑わなくてもいいんです、マーク」
傷だらけの手がマークの前髪を撫でてくる。その手つきが、眼差しが母のものと似ていて、マークは思わず目を見開いて姉を見つめた。
「貴方がいつもそうやって私を気遣って笑ってくれていることを知っています。でも、貴方は私の弟です。…辛いこと、悩んでいることを隠さないでいいんです」
見抜かれていたのか。最近そんなに余裕が無かったのかな、と笑みを消して沈黙する。
両親が亡き今、希望の象徴として期待を一身に背負うルキナの負担に少しでもなりたくなかった。姉にはただ真っ直ぐ前を見て突き進んで貰いたかったから今まで以上に猛勉強して、母が遺した戦術書を擦り切れるまで読んで本当の感情に蓋をした。
――これじゃあ僕は何のためにいるかわからないです。
軍師としても半人前で、象徴たる聖痕のない自分だからこそ、せめても心配されないようにしていたのに結局迷惑をかけている。せめて、マーク姉さんがいれば。
2人でいれば、母さんには及ばないだろうけど姉を充分助けられる策が思いついただろうに。
「僕は大丈夫ですよルキナ姉さん。昔の夢を見てセンチメンタルになってただけですから」
「…マーク…」
「ほらほら、そんな顔しないでください。アズ―ルさんじゃないけど笑顔笑顔。それに僕まで眉間に皺が寄っていたら湿っぽくなっちゃうでしょ?」
丁度治療が終わった様だ。僧侶に礼を言うと、マークは姉の手から逃れるように立ちあがる。
気絶していた間も戦況は容赦なく変わっていく。味方は長期戦になる程体力を消耗していくが、相手は屍兵だ。長引けば長引くほどこちらが不利になるのだ。
「もうすぐ味方の飛兵がやってくるはずです、もう一息です姉さん。撤退前にちゃちゃっと片づけちゃいましょう!」
「…わかりました、でも決して無理はしないでください」
貴方を失ったら…そう言いかけてルキナが唇をかみしめた。
姉は後悔している。もっと大きければ両親を救えたかもしれない。妹のように思っていたマークを失わずに済んだかもしれないと。姉の責任ではないが、もしかしたらという想いが彼女の王としては優しすぎる心を苛んでいるのだ。そして弟や仲間を失う恐怖で常に苛まれていることも。
マーク姉さんがいなくなるのもわかる位辛い現実だ。
それでも僕達は生きていかなければならない。
ルキナの言葉に応えずマークは魔導書を手に背を向ける。
先程から頭痛が酷い。叫び声にも似た痛みに顔をしかめるが、すぐに平静を取り戻して思い出の中庭を踏み荒らす侵入者達を睨みつけた。
(悪いですが、貴方達にはストレス解消のはけ口になって貰います)
中庭にまばゆい雷光が走り、腐肉が焦げる匂いと辛うじて立っていた彫刻が崩れる音がする。
まだあどけなさの残る顔と裏腹に鬼神の如く魔術を行使するマークにルキナは胸騒ぎを感じた。
彼を呼びとめなければいけない。このままでは弟であるマークも精神的に限界を迎えて、自分の前から消えてしまう気がする。思わずマークに手を伸ばそうと足を踏み出した。
しかし援護部隊に忍び寄る屍兵に気付き、弟を止めようとした手でファルシオンを握りしめルキナは駆け出した。
お父様とお母様の分も私が守ればいい。それに話ならこの戦闘が終わってからも出来る。
今はこの戦いに集中しなければ自分の命が危ないのだから、と言い聞かせルキナは剣を振るうことに集中した。
「いたいた!おーいルキナ、マーク!」
陣を包囲していた屍兵があらかた片付いた頃。肩で息をついていると羽音と共にこの時代でも上空から明るさを失っていない少女の声が聞こえた。
「シンシア、無事だったんですね!」
「もっちろん!私は正義のヒーローなんだから簡単に倒れないわ!」
「…無駄口を叩いている暇はない。ロラン達が住民の避難は終わらせた。私達も撤退するぞ」
「ジェロームの言う通りですね。シンシア、乗せて頂いてもいいですか?」
「うん、私の武勇伝沢山聞かせてあげるから!」
さあ、乗って乗って!と疲れこそ見せているものの本当の笑顔を失わないでいるシンシアが眩しかった。ルキナから笑顔を自然に引き出せている彼女を見ていると自分の奥底に沈む淀みに気付かされて、思わず視線を逸らしてしまった。
「それじゃ、一足先に戻ってるね!」
僅かに生き残った天馬騎士達と行動を共にする為、シンシアはペガサスを操り浮上して行く。
ルキナの気遣わしげな目線に気付いたが、すぐに彼女の姿はペガサスの羽根に隠れやがて空の向こうへと消えていった。
「私達も行くぞ」
早く乗れ、と手を伸ばしてくるジェロームにマークは静かに首を振る。ジェロームは仮面に隠された眉をひそめたようだが、彼の愛竜ミネルヴァの鳴き声に視線をシンシア達が去った空と反対の方角へ向けた。
「…成程な」
視線の先には多数の天馬と相乗している弓兵が迫っていた。数こそそこまで多くないものの、今ここで射られたら天馬騎士もそれに乗る支援隊も甚大な被害が出ることは明確であった。
――確実にこちらの手を読んだうえで殺しに来ていますね。だが追撃が来ることくらいこちらも予測済みだ。最も戦力を分断しているから僕一人で相手にすることになってしまったけど。
「このまま帰れば味方に甚大な被害が出るかもしれません。ここは僕が引きとめますから」
「お前一人では心もとない。私も援護する」
「いえ、僕一人で充分です。僕の倒し忘れがあった時の為にもジェロームさんは後ろからシンシアさんを援護してください」
元よりこうするつもりだった。シンシアは突撃する傾向があるから防衛線には向いていない。冷静に戦局を見据えるジェロームがペガサスの護衛には最適だろうと考えたうえだ。ペガサスだけを狙い隠れながら戦えば一人でも充分戦えるだろう。
「僕のことは気になさらないでください。折を見て撤退しますから」
「…お前に何かあると、ルキナが悲しむ」
「大丈夫ですって!むしろ僕はシンシアさんが勢い余って姉さんを落とさないかの方が心配ですよ、あの人ちょっとドジな所ありますから」
ジェロームさんが心配してくれるなんて珍しいですね〜、そう笑って見せれば渋い顔をしてみせたようだ。だが屍と化したペガサスの不気味ないななきを聞き、あまり時間はないと悟り彼は手綱を握る。
「死ぬなよ。死んだらミネルヴァの餌にする」
「え〜それは嫌だなぁ」
根は優しい少年に苦笑いして見せると、仮面に隠されていない口元が笑みを象る。それを合図にミネルヴァが漆黒の羽を震わせ、空へと飛び立っていった。
「嫌な役を押し付けてしまってごめんなさい、ジェロームさん」
シンシア達を追うジェロームとミネルヴァの姿を確認すると、マークはぽつりと呟いた。
死ぬつもりはない。が、援軍が追加されればどうなるかはわからない。自分でも少し無茶だと思うが、周辺住人救出に戦力を取られている為これ以上人員を割けないのだ。それに聖王たるルキナは一刻も早く安全な場所に行くべきだ。
姉は怒るし悲しむだろう。しかしジェロームの言葉なら説得力があるはずだから納得してくれるはずだ。多分。
一度姉から思考を切り替え、改めてマークは迫りくる軍勢に目を向ける。
非常に手を読みやすい相手ではあるが、逆にこちらの手も完全に読まれている気がする。厄介な相手に変わりはないのだ。
願掛けを兼ねてマークは母の遺品である外套のフードを被る。こうすれば恰好だけでも偉大な軍師であるルフレに近づいた気がしたからだ。
「向こうの軍師は僕と同じ思考回路の持ち主なのでしょうか、そもそもギムレー側に軍師なんているんでしょうかね?」
誰もいなくなった離宮で一人呟きながら、マークは呪文書を開き集中する。相手はまだこちらに気付いていないようだ。
「地の理はこちらにありますからね。伊達にマーク姉さんと迷子になりながらかくれんぼしていたわけじゃないですよ!」
レクスカリバーの魔法陣を紡ぎ出すと、先陣を切るペガサスに向け魔力を放出した。目論見通り一体目が地面に落下していき、編隊を崩された屍兵たちは散り散りになっていく。
確実に仕留めていこうとマークは足を翻し、柱の陰に隠れながら次々と魔法を撃っていった。
ペガサスの羽根が雪のように舞う中を黒い外套を纏ったマークは駆けていく。
ボロボロになった魔道書とすっかり欠けてしまった剣を抱えながら、こういう時だけファルシオンが使えたら便利なんですけど、と溜息をつきながら次の獲物を探す為に空を見上げる。
大方敵は片づけたはずなのだが気配が消えない。
もしかしたら増援が来ているのかも、ギムレーは大人げないですねと緊張感のないことを考えながら柱に寄りかかった。
もし援軍が来たら流石に持ちそうもない。魔道書も剣も使えてあと数体と言ったところだろう。
――ルキナ姉さんに叱られてしまいそうですけど優しい思い出があるこの場所で死ねるなら悪くないかもしれません。
自嘲気味に笑みを浮かべながらマークは吹き抜けにある噴水痕を見つめる。
かつてそこは花に囲まれ水が絶え間なく吹き出し、夏の暑さから涼を得ようとマークと共に遊んでいた場所であった。
今は花も枯れてしまい淀んだ水しか溜まっていない場所ではあったが、そこにあしらわれた初代聖王と踏みつけられている邪龍の像は健在であり当時の面影は残っている。
「ああ、ついに幻聴だけでなく幻覚が見えますね…僕も末期です、なんて」
もう水の流れることのない噴水の傍らに見なれた人影が見えた気がして、マークは思わず目をこすった。屍兵の体液でも目に入ったのかもしれない。
しかし再び目を開いてもそこには黒い人影があり、マークの身に緊張が走る。
よくよく見ればそれは自分が来ている外套とほぼ同じ物で、そしてフードからはみだす髪の色は亡き母と同じ色だった。
そんな、まさか。
ギムレーの呪術にでもかけられたのか。
魔道書を開くのも忘れ硬直するマークの気配に気づいたのか、外套の主がゆっくりと振り返る。
認めたくなかった。
だが、思い当たる節はいくつもあって。
会いたくないけど会いたくなくて。
相反する感情がマークの中でせめぎ合う。見たいけど見たくないという想いと裏腹に、彼女はこちらに視線を向けてきた。
「マーク、姉さん」
乾いた喉で彼女を呼ぶ。
ルフレとそっくりな目元の、感情を失ったように硬質な輝きを放つ瞳がこちらを見据えてきた。
W
荒廃した庭園に立つ少女は失踪したマークだった。
背丈は記憶の中より伸びていてふっくらとしていた頬は少しこけていたものの見間違う筈がない。
マーク王子はしばらく絶句していた。こんなところで消息不明になっていた彼女に会えると思っていなかったのだ。しかし見つめあっていてもしかたない、ぎこちなく口に笑みを浮かべなるべく親しげに語りかけた。
「マーク姉さんったら、こんな辛気臭い所でなにしているんですか?いきなりいなくなって皆心配していたんですよ?ルキナ姉さんなんか何枚も食器を割っちゃうくらい動揺していて」
「馴れ合いはよしましょう、マーク」
彼女は氷のように冷えきった声でマークが近づくのを制した。
先程は外套の中に隠されていたせいで見えなかったが手には可憐な彼女に似つかわしくない大きな斧が握られており、マークを牽制してくる。
「貴方は気付いているんでしょう?私が何でここにいるか」
「姉さん…」
「本当は屍兵にやらせるつもりでしたが、貴方が残ったせいで予定が狂いました。屍兵はこちらの考えた通りに動きますがイレギュラーには弱い。チェスでは貴方に勝っていましたが、実戦ではそうはいきませんね」
突きつけられている鈍い光を放つ使い込まれた斧に、マークは言葉を詰まらせる。
その可能性は考えてきた。相手側の策がかつて姉とチェスで対戦していた時とどこか似ていて、誰にも言えなかったが実際に戦いの中に身を置くことで益々疑念は深まっていた。
それでも今この瞬間まで認めたくなかったのだ。馬鹿げた考えだと笑って否定していた。
だが眼の前のマークは現実を無情にも突きつけてくる。無感情な瞳が愕然としているマークを映し出した。
「私はギムレー様の配下になりました。ここにいるのも貴方を殺す為です」
言葉が終わるや否や彼女が斧を振り被ってきた。咄嗟に剣で受けるも斧の重量に耐えきれず真っ二つに折れてしまいマークの体は衝撃で吹き飛ばされた。
受け身も取れずに固い壁に叩きつけられ苦悶の声を上げる。立ちあがろうとするもいつのまにか間近に迫ったマークに斧の頭で腹を強く押さえられ身動きが取れない。
「…どうして…」
歪んだ視界でかつての姉を見上げる。
屍兵になってしまったのか?思わず瞳の色を確認したが赤く輝いておらず狂気に囚われている様子もない。感情こそ瞳に込められていないが、操られている様子もなく静かに意志の輝きを放っている。
「私にはルフレさんがいない世界なんて意味ないですから。自分の力を活かせる場所に行ったまでです」
「そんな…母さんはこんなこと望んでないですよ」
「貴方にはわからないでしょうね、イーリスの王子様」
わからなくていいんですよ。
そう彼女が呟いた時、長い睫毛に伏せられた瞳に初めて感情らしきものが浮かぶ。
よかった、少しは躊躇ってくれているみたいだ。
自らの命が危険にさらされているというのに、姉が完全に人間らしさを失っていないということにマークは何故か少しだけ安堵していた。
「マーク姉さんが自由な人だってことは知っています。でもそんな理由で裏切るなんて僕には
考えられない。姉さん、本当の理由は何?」
「…貴方とお話している時間はあまりないんです、ギムレー様が待っているの」
「もしかして、母さんに関係することなんですか?」
斧の柄が震える。
その隙を見てマークは彼女の斧から逃れ、すかさず呪文書を開いて風を放った。
細かい装飾をされた斧が彼女の手を離れ向かいの壁にぶつかった。
明らかに動揺している彼女の前でマークは呪文書を投げ捨てる。使用限界が近くぼろぼろだったそれは地面にぶつかってバラバラになり床に散らばった。
「母さんが関係している以上、僕は姉さんと戦えません。それでも僕を殺すというなら、それだけの理由があると考えます…そこにいる竜に僕を噛み殺させて構いません」
そういって両手を広げ敵意がないことを示しつつ屋上に止まっている黒竜に目を向ける。武器を捨てたことで一先ず襲ってくる気配は見せていないが、彼女の指示があればすぐにでも降下してくるだろう。
彼女は微動だにしない。風圧でフードの影になっていた顔は露わになり、明らかに躊躇った様子でマークの前に立っている。
「正気なんですか?私は貴方を殺しに来たんですよ?」
「確かにちょっとおかしくなってるかもしれない。けど僕は正気です。マーク姉さんとの絆を信じていますから」
これは賭けだ。姉を取り戻す最後のチャンスかもしれない。
マークはゆっくりと足を踏み出す。彼女は竜を呼ぼうと手を上げかけたが、その指先が震えていることに気付いていた。
一歩、また一歩と彼女の影に近づいていく。彼女はその間も大きな瞳にあしらわれた睫毛を震わせ身動きできずにマークの紺色の髪を映した。
やがて手を伸ばせば届く距離まで来た時、マークはゆっくりと手を下し膝からゆっくりと崩れ落ちた。
「どうしてなの、この日を覚悟していたはずなのに!あの人の為なら、友達でもルキナさんでも、マークさんだって殺せるってギムレー様に誓ったのに…」
「姉さん」
「来ないでください!早くここから立ち去って、今なら見逃してあげますから…」
黒い外套の裾を掴みながらマークは弱弱しく叫んだ。
恐る恐る彼女の肩に手を置いた。抵抗しない彼女の肩があまりにも痩せこけ、小刻みに震えていることに気付きマークは目を瞠った。
名前だけでなく殆ど同じ見た目のマークとはいつもケンカばかりしていて、「ルフレさんの妹なんですから私の方がお姉さんです」と言って憚らなかった彼女のこんな弱弱しい姿見たことない。
床にぽたぽたと雫が落ち黒い染みが出来ていく。いつも自分より一枚上手で自信に満ちた笑顔を欠かさなかった彼女が泣いていることに気付いた時、マークは思わず彼女を抱きしめていた。
「姉さん、ずっと一人で戦ってきたんですね」
公務で忙しかった母が寂しいと拗ねるとよくこうやって抱きしめてくれたことを思い出し彼女の背に手を当てる。
ウェーブかかった髪がびくり、と揺れる。竜がいつマークの命を奪うかとか、屍兵の増援の可能性等もうどうでもよかった。
かつて尊い日々を共に過ごし、半身のように思っていたマークを放っておくことなんて出来なかったのだ。
「ずるいです、こんなの…こんなの、って…」
あの人達と似た顔でこんなことしないで、そう絞りだすように少女のマークは言うと、幾分かたくましくなった弟分の胸に額を押し付けて涙を流す。
その涙の冷たさに少年のマークは言葉を失くす。ただ無言であやすように彼女を抱きしめていた。
どれだけの時間が経ったのだろうかいつも翳っているこの世界では解らない。
冷え切っていた身体が少し温まったことを確認すると、マークはそっと彼女の体を離した。
「姉さん、そろそろ話して貰えませんか。…あの人って、母さんのことですよね?」
ギムレーとなにか関係があるのですか。そう問いかけると、涙に濡れた彼女の唇が震えた。
「言えません」
「姉さんが必死になることなんて母さんのこと以外思いつかないですよ。もう今更隠し事しなくてもいい仲じゃないですか」
そう笑って見せても彼女はうつむくばかりで答えようとしない。蓋をしていた感情を溢れさせてもどうしても口を開いてくれる様子はなくて、まだ拒絶されているのかと悲しくなってくる。
「困ったなあ、もう打つ手がないや。お手上げです姉さん」
そう言ってマークは溜息をついて空を見上げた。先程と変わらず黒竜がマーク達をつまらなそうに見守っていて思わず苦笑いしてしまう。
――マーク姉さんを見守っているあの竜なら知りませんかね、いや仮に知っていてもジェロームさんみたいに竜の言葉わからないから無理か。
竜に助けを求めても仕方ないか、とふと視線をずらす。
そこにありえないものがいた。
あってはならないものが、こちらを楽しそうに見下していたのだ。
「まあ、陳腐で美しい姉弟愛ですこと」
いつの間に昇っていた赤い月を背景にそれは妖艶に笑って見せた。マークの記憶にあるその人が決して見せない毒のある表情で。
しかし姿形声までその人そのもので、瞬きすら忘れ見いってしまう。
腕の中にいるマークの体が一際震えた。
「遅いと思って折角迎えに来てあげたと思ったらこんな所で遊んでいたのですね。マークには後で罰を与えなくてはいけないと」
それすらこの子は喜んでしまうのでしょうけど。
そう嘲笑するように言ったと思ったら、いつのまにかマーク達に吐息かかかる程接近されていた。
心拍が上がり冷や汗が流れる。知っている人の姿形なのに放つプレッシャーは人間離れしていて心臓を握られているようだ。
「感動の再会だというのに何か言うことはないのですか?もう一人のマーク」
懐かしくてずっと夢に見て焦がれた指先がマークの頬に触れる。
間近に迫った顔は紛れもない母ルフレのものであった。
「この器もさぞかし喜んでいるでしょうね、愛しいクロムさんに似てきた息子のことを」
「…ギムレー様…」
「マーク、貴方には失望しましたよ。大きい口を叩いていた癖に小憎たらしいナ―ガの娘は愚か、この聖痕なしの出来そこないすら始末出来なくて」
母の姿をしたそれは縋ろうとしてきた少女のマークを侮蔑の目で見下してきた。
(違う、これは母さんじゃない)
恐怖で歯の根が合わなくなっていく。絶え間なく襲ってくる頭痛に耐えながら、それでもマークは確かめる為に声を絞り出す。
「貴方は、何者ですか」
「器の息子の癖に察しが悪いですね…我はギムレー。この世に破滅をもたらす者」
手の甲に刻まれた六つの目がある不気味な紋章を掲げながらギムレーは嗤い、マークはようやく理解した。大人達は嘘をついていたことを。
真実は邪龍となった母が聖王たる父を殺し世界に破滅のトリガーを引いたのだ。
母が手の甲を押さえるようにうつむく癖があったこと、この離宮の噴水にある邪龍の像を見て顔を翳らせる時があったが、まさか邪龍の器だったなんて。御伽噺に語られる程の古い血は脈々と続いていたのだ。
「そう、ルフレはお前に何も言わなかったのですね…聖痕がないとはいえ、お前も一応ナ―ガの血を引いているからでしょうか」
「ギムレー様、やめてください!貴方の手を煩わせるまでもありません。彼は私が!」
「元よりそのつもりです。こんな半人前の虫けら、生贄にもなりやしない」
だからさっさと殺しなさい、可愛い私のマーク。
そう言い残し、ギムレーは哄笑を上げて跡形もなく消えた。
笑い声が響いた後離宮には金切り声のような風音しか聞こえなくなり、まるで悪夢を見た後の様に2人のマークが取り残された。
「あの人は生きているんです」
長い間佇んでいたが、少女のマークが声を震わせ呟いた。
「ギムレーになってしまったとしても、あの人は存在しているんです。あの人を一人ぼっちになんかできない。一人ぼっちの私を救ってくれたのはルフレさんだから」
「…だからあの夜、姉さんは出ていったんですか?」
彼女はこちらを見ずにコクリと頷く。そして腕から逃れるとマークに背を向け片手を上げた。
静観していた竜がすぐさま合図に応え彼女の前に降りてきた。
「貴方にはルキナさんがいる。あの人の血もナ―ガの血も流れている。でも私には何もない、邪龍の血が流れているただのマーク。だから私はあの人の元に帰らなきゃいけないんです。その為には貴方だって殺してみせる!」
何もできず茫然と立ち尽くすマークの前で、竜に跨った彼女が襲いかかってくる。
マークの体もろとも砕こうと竜がこちらに向かってきたその時、慢性化していた頭痛が一際強く頭に響いた。
(やめて!)
「…母さん?」
マークがそう呟くやいなや、竜の背に乗ったマークも同じく頭に手を当て、目を見開いていた。
先程のギムレーと同じ性質だが声音が違う。なによりあの邪龍がいまさら姉を止めるとは思わない。
声と共に頭痛は引いて行く。同時にまともに働いていなかった思考がようやくまとまりだした。
マークは母が生きていると言った。そしてあれ程まで変わりはて詰られたとしても、マークがギムレーに固執している理由がようやくわかったのだ。
母はギムレーの中で文字通り生きている。
生きて今までずっと、マークに呼びかけてきたのだ。
それが邪龍の血がなせるものなのかほんの少しの奇跡なのかはわからない。
だがその事実はマークの中で何かを崩れさせた。
父のように立派な為政者に、母のように聡明な軍師にならなければと無理矢理自分の中で創り上げてきたものが音を立てて壊れていったのだ。
「マーク姉さん、僕も連れて行って下さい」
うなだれて竜の手綱を握りしめている姉に言い放つ。
脳裏にマークを信じて戦ってきた幼馴染達と悲しげな瞳をしたルキナの言葉を思い出す。今も彼女は自分を待っているのかもしれない。
それでももう迷ってなどいなかった。
母が生きて苦しんでいる。そして片割れであるマークはそんな母に寄り添おうと一人で必死にもがいているのだ。
「1人1人では未熟でも、2人ならどんなことにでも立ち向かえます。僕達は互いに半身なんです!出来ないことなんてない!」
黒い影に向かって必死で手を伸ばす。どこからかギムレーの笑い声が聞こえる気がしたが、構わずマークは歩みを止めなかった。
自分はもうイ―リス王子ではない、ギムレーの血を引く忠実な配下になったのだ。
「もし信じられないというのなら、この場で僕を八つ裂きにしてしまって叶わない!だから姉さん、」
共に堕ちましょう。
そう風の中で叫んだ刹那、マークの体は巨大な影に包まれ、限界まで伸ばした手は繋がれていた。
*
「なんて母想いの可愛い子供たちなんでしょう」
感動しましたよ。全く感情が込められていない声でそう白々しく嗤うとギムレーは背後を振り返る。
闇色の棘に全身を貫かれたルフレは朦朧とした意識の中、自身と同じ姿をした邪龍が見せる現実に言葉も出せず項垂れていた。
「これでナ―ガの子と私の血、お前が愛した者の子と子が争い合う素晴らしい舞台が整いましたね。滅びまでの退屈しのぎに丁度いいショ―です」
雷雲の中手を繋ぎこちらを向かってくるマーク達と、神亡き世界で祈り続けるルキナが映し出される。まるでルフレの心を浸食するように自分と同じ姿をした邪龍は茨のような棘を刺してきて、磔刑のようにこの体を貫いていった。
(クロムさん…)
際限なく続く身体と心の痛みは愛する人を手に掛けた罰なのだろうか。
暗闇に塗りつぶされる意識の中、ルフレはひたすらクロムのことを思い浮かべ自分を消すまいと抗い続けた。終わりが見えない絶望の中、彼が遺してくれた只一筋の光に縋り続けるしかなかったのだ。
どうか、不甲斐ない私の代わりにあの子たちを見守ってください
クロムの今際の笑顔を思い浮かべながら、ルフレは身を苛む棘に耐えようと闇の中一人で涙を零した。
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絶望の未来捏造妄想小説前半。クロルフ前提でマーク中心のお話です。 | ||
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