鴉姫とガラスの靴 一羽
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鴉姫とガラスの靴

 

 

 

 昔、カラスを助けたことがある。

 俺は確か、中学校の帰りで、その日もつまらない一日を終え、表情のないアスファルトの地面を見ながら帰っていた。

 そんな時、見つけたのは一羽のカラスだった。

 自然の破壊された都会でも見られる鳥、カラス。

 ゴミを漁る不衛生な鳥。黒い羽を持った不吉の象徴。人間も襲いかねない害鳥。

 カラスにロクな印象なんてない。でも、でも……その日の俺には、一羽のカラスがまるで数年来に会った旧友のように、愛すべき相手のように思えた。

 俺も相当弱っていたんだと思う。繰り返される苦行じみた日常、楽しくないクラス、伸びない成績。見通しの立たない将来……。

 引き寄せられるようにカラスに近付くと、そいつは逃げることも、そのクチバシを俺に向けることもなく、俺を見返して来た。

 よく見ると、翼に怪我をしているらしい。黒いせいでよく見えないが、黒の中に赤色が混じっている気がする。

 カラスの目は、俺の記憶の中では黒なんだが、そいつはなぜか赤い目をしていた。まるでルビーのような……。

 ちょっと観察してみただけなのに、すっかり情が移ってしまったらしい。このまま見過ごす気にもなれなくて、おっかなびっくり捕まえ、素手で掴んだまま近くの動物病院にまで走っていった。

 こいつも野生なのだから暴れると思ったのに、抵抗する元気もなかったのかもしれない。なされるがまま、人間である俺に、人間である医者のところまで運ばれ、その後を俺は知らない。

 きっと獣医がなんとかしてくれたのだろう。俺のペットではないから、と言うことで診察料は求められず、無事に治ったのか、飛べない体になってしまったのか、何もわからない。今更あの獣医に訊いても、忘れていることだろう。

 じゃあ、なんで急にこんなことを思い出したのか。

 ちょっとしたファンタジーの妄想だ。

 鶴の恩返しならぬ……。

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一羽 鴉の恩返し。あるいは鴉の嫁入り

 

 

 

 目が覚めると、最初に目に入ってくるものは何か?――天井だ。

 そして、仮にその天井が、見知らぬものだったとしよう。ちょっとした恐怖だ。

 つまりそれは、自分が寝ている間にどこかに運ばれ、その運ばれた先で目を覚ましたことを意味する。

 ああ、怖い。怖いというより、気持ち悪いかもしれない。俺は今、どこにいる?ここはどこだ?俺?俺の名前は言える、な。

 慌てふためきそうになるのを無理矢理に落ち着けて、周りを確認してみる。畳、障子、やけに古風な唐草模様のかけ布団。中身は羽毛じゃなくて、綿だな。どうもこの感触、ポリエステル綿じゃなく、本物の綿花だ。

 第一印象としては、高級な旅館、ってところだろうか。俺は確かに自分の家、しかも俺は下宿生なので、本当にしょっぼい家で寝ていたのに、急にこんな豪華なところで寝ている。訳がわからない。ああ、冷静に現状を把握しようとすればするほど、混乱してくる。

「お目覚めでしたか」

 現状を理解出来ずに呆然としていると、中居さん……と言うには、少し洋風過ぎる格好の女性が障子を開けて、その姿を現した。

その黒い髪の女性は、いわゆるエプロンドレス、つまりメイド服をまとっていて、和室には限りなくミスマッチだ。でもものすごい美人だし、この意味不明な展開の中にも、多少の救いはあったか、と鼻の下を伸ばせる。

「あ、あなたは?」

「私は名乗るに値しない者。姫様が大勢抱える下僕の内の一羽でございます」

「一、羽……?」

 へりくだる言い方の中に、自分を「羽」なんて数えるものがあっただろうか。それに、姫様という言葉も気になる。この旅館のような、屋敷のような家は、その姫様の住居なのか?

「さあ、お越し下さい。姫様がお待ちです」

「あ、ああ……」

 お淑やかな日本美人、といった雰囲気のメイドさんだが、結構押しは強いらしい。引っ張られるように起き上がらせられると、そのまま連行されるように連れて行かれる。

 廊下に出ると、やっぱり旅館のように先の見えない板張りの廊下が続いていて、その内の一室。廊下とは障子を三枚も隔てた先に通された。どうやら旅館のような宿泊施設じゃなく、大金持ちの日本屋敷、ということなのだろう。まるで時代劇に出てくる殿様の部屋のようで、その最奥に鎮座していたのは……一人の女の子だった。

 メイドさんの髪よりも更に深い闇色の長髪、その中で異様なほどの存在感を放つ赤色の瞳。身にまとうのはまるで死装束のような白い着物。左手側には一振りの日本刀が、驚異的な殺気と共に存在している。

 一目見ただけでわかる。この女の子は普通じゃない。具体的に言えば、極道関係者だ。間違いない。

「え、えと、俺、急にお腹が……」

「姫様。お連れしました」

「ん、ご苦労。もう下がって良いわよ」

「失礼します」

 華麗に俺の言葉はスルーされ、唯一の縋る相手だったメイドさんも去ってしまい、四十畳ぐらいはある広い部屋に、俺と女の子だけが残された。怖いってレベルじゃない。冗談じゃなく、何かしらを漏らしそうだ。

「久し振り、ね。名前はなんていうの?」

 女の子が俺に向けて放った第一声がこれ。

 まるで昔俺に会ったことがあるような言い方だが、よく考えて欲しい。俺はこの十五歳ぐらいのものすごい美少女に会った記憶はないし、相手は俺の名前を訊いてきた。俺の名前を知らないのなら、知り合いのはずもない。

 いや……でも、名前を忘れてしまっただけで、本当にいつか会ったことがあるのか?

 わからない。わからないけど、下手に答えたら斬り殺される気しかしない。

「お、お久し振りです。俺……僕は、五十公野(いじみの)悠といいます」

「へぇ、悠?女の子みたいな名前ね」

「女みたいで悪かっ……い、いえ、なんでもないです」

 つい、いつもの癖で突っ込みを入れそうになってしまった。もしこんな相手に口答えしたら……想像するのも恐ろしい。

「あはは、あなた、面白いわね。あたしは鴉谷深月(みつき)。もっとざっくばらんに話してもらって良いわよ?」

「い、いえ……そんなそんな」

「何を緊張しているのよ。別に取って食べやしないし、この刀もお守り代わりに傍に置いてるだけで、抜いたことなんてほとんどないわ。――それに、あたしにあなたを斬れる訳ないじゃない」

「えっ……?」

 女の子――鴉谷さんの瞳がその一瞬、まるで濡れるように光ったのを見て、それがいつか見たカラスの瞳と重なった。

 その瞬間、頭の中を閃光のようにあの時の思い出が、走馬灯よろしく突き抜ける。

 まさかな、そんなの、子どもだましの昔話にすらならない。そうわかっているのに、言葉が出て来る。

「あの時の、カラス……いや、そんな訳ないよな」

「やっと思い出したの?適当に久し振りなんて言って。あたし、本気にして喜んじゃったんだから」

「ま、まさか、本当に君が、カラス?」

「そういうこと。まあ、人間には信じられないと思うわ。あの時のあたしは一羽の鳥。この姿から想像するのも難しいでしょうね」

 本当に信じられない。あのカラスがこんな美少女に化けるなんて、想像すら出来ない。でも、どうやら彼女は本当にあのカラスなのだろう。獣医を除けば、俺自身しか知らないような話だ。医者がそんなことを吹聴する訳もないし。

「な、なんで人に?それに、もう五年も前のことなのに、どうして今更……」

「逆よ。普段、あたし達は人の姿で生活しているの。この国は、あたし達が鳥の姿で暮らすには不便になり過ぎた。だから、鳥の姿を捨てて、人間として便利に暮らそう、って思ったの。これも動物の進化の形の一つね」

「鳥の姿を、捨てる……」

「ただ、あの時は無性に空を飛びたくなって、鳥の姿で飛んでいたら、心ない人間に石を投げられて……それに当たるような間抜けなことはなかったけど、避けた拍子に有刺鉄線か何かで翼を傷付けてしまったの。それを助けてくれたのがあなた。あたしを、鴉だからと嫌わずに、すごく紳士的に接してくれたわね」

 紳士的……一応、そう解釈出来るような態度だったかもしれない。でも俺としては、ただ可哀想な鳥を助けてやっただけのことだし、まさかメス……女の子とは知らなかったし、何より、鳥が人の姿になれるなんて、知っているはずがない。全くの打算抜きでやったことなんだけど、それが逆に評価されたのか?

「ああ、用事のことよね。それにはまず、あたし達の文化のことを話さないといけないわ」

 

 それから始まったのは、進化した鳥類である鴉谷さん達が住むこの「花鳥庵」の伝統としきたりの話だ。

 要約すれば、ここには様々な鳥の化身達が身を寄せ合って暮らしていて、カラスはその中の長、王様といえる種族らしい。花鳥庵に住む鳥達は、その全てが人間と同じ歳の取り方、寿命を持っていて、七十年も八十年も普通に生きるという。

 しかし、鳥類の成人は日本の人間のそれよりも早く、十六歳からもう一人前と認められ、女子、特にカラスは早々に婿を見つけ、結婚することが義務となる。

 まあ……そこからは、なんとなく想像出来るような話だ。

 

「あなたを、あたしの婿にしたいの」

 過去に自分が助けた美少女からの告白。その相手は鴉の姫で、百人が百人、美少女だと認めるほどの容姿。これを断る男はいるだろうか。いや、いない。……でもすぐにOKを出すほど、俺も決断力に優れていない。

「え、えーと……」

「あたしは今年で十六。一年以内に結婚相手を見つけないと、好きでもない相手と結婚させられるのよ。……だから、お願い。あたしのことを助けてくれたあなたなら、信頼出来るの」

 鴉谷さんの瞳はまたも潤み、目の端からは一筋の涙が伝おうとしている。

 嘘じゃないし、本当に俺がいいって、言ってくれてるんだよな……。

「その、相手は人間でいいのか?やっぱりほら、鳥同士じゃないと駄目、とか」

「これが花嫁探しならそうかもしれないけど、あたしは鴉だし、人間とも子どもは作れるの。だから……ね?」

 問題はないのか……メイドさんが俺をここまで連れて来たということは、家族や周りの人間も、俺と鴉谷さんが結婚をするようなことになってもいいと、認めているのだろう。

 まさか、目が覚めたと思ったら中学生の時に助けたカラスに、大学生になってから求婚を受けて、その相手が姫様なんてな……。今までは平凡で短調に思えた俺の人生も、ずいぶんと風雲急を告げたものだ。まだこれが夢だという気もしているが、俺のことを信頼してくれている女の子をフるなんて、数分しか一緒に過ごしていない相手と婚約することよりも、もっとありえないことだ。

「……わかった。今すぐに式を挙げろ、なんて言われたら困るけど、少しずつで良いならその話、受け入れるよ」

「良いの?あなた、他に好きな人がいたり……」

「しない。ずっと一緒にいる幼馴染の女の子も、大学に入ってから出会った素敵な先輩もなし。今までも彼女が出来たことはないし、人間から見ると俺は、並かそれ以下の魅力しかないんだろうな。……だから、君が俺と結婚なんて嫌だと思ったら、いつでも言ってくれて良い。別に傷付きはしないし、全部夢だったと思って忘れるよ」

「そ、そんな訳ないわ!人間の女が見る目ないだけよ。だってあなた、背高いし、体格も悪くないし、まあ、確かに顔はぱっとしないけど、顔なんかじゃないわ。あなたがあたしを――鴉を救ってくれた。それが重要なの」

 まだ濡れた瞳のまま、必死に鴉谷さんは俺のことを弁護してくれる。そのつもりが、ところどころで俺をディスっている気もするけど、それはご愛嬌ってところだろう。その真剣さは伝わるし、その様子は……可愛いと思った。

「鴉谷さん。俺の返事はそんな感じなんだけど、とりあえずお付き合いから、ってことで良いか?俺は俺の生活とかもある訳だし……」

「ええ。あたし、恋人との生活って、ずっと憧れていたの。すぐに準備をして、あなたの家に一緒に行きましょう」

「い、家に来るのか?」

「一人暮らしなんでしょう?あなたが平安貴族のように毎晩この屋敷に通ってくれるなら、別居でも良いけど、そんなの無理でしょうからあたしの方が行くわ」

「それはまあ……でも、俺の家というか、アパートはワンルームだし、女の子が暮らして住み心地が良いような部屋じゃないんだけどな」

「気にしないわ。あなたと一緒にいられるのなら」

 ――こんな風に言われて、不快に思う奴なんていないよな。

 俺もいよいよもって、意外なほど素直で、恋に恋しているこの女の子のことが、大好きになってしまった。見た目が良いからとか、俺と結婚してくれるからとかじゃない。この子の人格にすっかり虜になってしまった。

「そうか。なら、廊下にでも出て待ってるよ」

「ううん、すぐに支度は終わるから、ここで待ってて。鳥類は、たとえ長であってもフットワークが軽いものなのよ」

 すぐに飛び立ってしまう鳥だけに、か。立つ鳥跡を濁さずとは言うけれど、本当に鳥はそれを実践するんだな。

 なんて感心していると、唐突に鴉谷さんは着物の帯を緩め、ぱさりとそれを脱いで下着一枚の姿になった。反射的に俺は後ろを向くが、時既に遅し。想像以上に豊かな胸の膨らみや、髪の色と同じ黒い下着を諸に見てしまい、耳の先まで顔が赤くなって行くのがわかった。

「……何してるの?夫婦になるんだから、裸ぐらい見ても良いじゃない」

「まだ夫婦じゃないし、夫婦でもそこは恥じらいを持つんじゃないのか!?というか、着替えるならそう言ってくれっ」

「支度って言えば、そうだと予想が付かない?いくらあたしでも、この格好が時代錯誤なことぐらいわかってるわよ。普通の女の子と同じような洋服に着替えるの。奇跡、手伝って」

 まあ、女の子の支度といえば、身嗜みを整えることだからな……今のは俺が悪かったのかもしれない。

 これから鴉谷さんと一緒に暮らすのなら、そういう気を回せるような男にならないとな……難しいと思うが、それが彼女を受け入れた俺の使命だ。

「はい、姫様」

 俺が反省している間も、後ろでは「支度」が着々と進んでいて、一羽の鳥が開け放たれた窓から入って来たかと思うと、新しい女性の声が聞こえて来た。奇跡と呼ばれたその女性もまた、当然ながらなんらかの種類の鳥なのだろう。鳴き声を上げることもなく静かにやって来たので、気配だけではどんな鳥か当てようもなかった。

「ねぇ、悠。……悠って呼び捨てにするのも変かしら。あなた?それとも、まだ結婚してないから、悠さん?」

「悠でいいよ。他はなんか、恥ずかしい」

「そう、じゃあ悠。あなた、好きな服とかある?服の種類でも、色でも、なんでも良いんだけど」

「服?そうだな……急にそんなこと言われても……」

 新たに始まった大学生活にも慣れた今は六月、もういい加減暑くなって来るし、半袖か薄手の長袖を着るような季節だ。女の子の服で、何か好きな物はあっただろうか……そもそも服の名前になんか興味がないので、全く知らない。ベストのことをチョッキと言いかねないレベルの知識なんだ。

「服の種類はよくわからないけど、色なら……やっぱり、鴉谷さんには黒髪が映えるような、明るい色の服が似合うと思うな。俺自身の好みっていうのは、いまいちよくわからない」

「わかったわ。明るい色、ね。奇跡、適当に見立てて」

「はい。そういうことでしたら、既にこちらにございます」

 奇跡さんの声が遠ざかって行き、暖簾をめくり上げるような音が聞こえる。そういえば、部屋の奥は壁ではなく、暖簾だった気がする。その奥に衣装だんすでもあるのだろうか。

「ねぇ悠、いい加減その、鴉谷さんというのはやめて。あなたの方が年上なんだし、気軽に名前を呼び捨てで良いのよ?」

「じゃあ……深月」

「うん。結婚したら、どっちも鴉谷になっちゃうし、これが一番ね。で、もう一つお願いしても良い?」

「別に良いけど。……俺に出来ることなら」

「こっち見てくれない?自分でも言うのも変だけどあたし、結構いい体していると思うのよね。あなたには婿養子という形になってもらうけど、あたし個人の感情としては、あなたに尽くしたいの。これからあなたのものになるあたしのこと、もっとちゃんと見てよ」

「はっ……は?」

 いやいやいやいやいや、急に何をおっしゃるんだ、この姫さんは。

 自分の体を見ろって、そんな、露出狂まがいな……ついさっき恥じらいを持つように言ったところなのに、何を考えていらっしゃるんだ、この人は。

「いや、それは断る。自分のことを見て欲しいなら、ちゃんと服を着てからでも良いだろ?その、それだけの体なら、洋服を着るとスタイルがわからない、なんてことはないし」

「うーん、じかに見てもらいたいんだけど、恥ずかしいのね?やっぱり人間の情緒というものはいまいちよくわからないわ」

「このことに関してだけは、深月達がオープン過ぎると言わせてもらおう。そりゃ、鳥は基本的に裸だけど、人の形を取っている以上は、人並みの感覚を、だな……」

「婿様。それは難しいというものですわ。我々はつい最近になって、人の体を取るようになった者。羽毛以外の服をまとうのも億劫なのです」

 尚も俺が講釈を垂れようとすると、戻って来た女性の声が阻んだ。しかし、婿様、か。

「つい最近って……具体的には?」

「ここ二十年ほどになります。尤も、古代から我々のような鳥類が人の姿に化けることはあり、その技術を復活させたものに過ぎないのですが」

「本当にちょっと前からなんだな。でも、それなら十六になったら結婚しないといけないって決まりはちょっと変じゃないか?」

 鳥の寿命は、長い奴は人と同じぐらいのもいるかもしれないが、カラスとかその辺りの鳥は、二十年生きれば大したもの、というレベルだろう。なら、それ以前は十六歳というのも相当の高齢。この決まりが鳥が鳥らしくしていた時代からあったとは、到底思えない。

「ええ。確かに疑問かもしれませんね。実際、長たる鴉の方で、この規則に従って結婚をなされるのは姫様が初めてです。他の種族では、既に子どもの出来ているところも多いですが」

「なるほど……じゃあ、結婚相手が人間でも良いとか、細部が色々と適当なのは、まだしっかりとした決まりが出来てないからか?」

「正直なところ、そうですね。ですが、姫様が長として君臨する時代は長く続くことになりますでしょうから、その間に万事整うと、私は確信しております。そのためには私もメイド長として、尽力させていただく所存です。……はい、姫様。とてもお似合いですよ」

 すっかり深月に惹かれて結婚の約束をしてしまったけど、俺は思った以上に大変な仕事をさせられることになってしまいそうだ。

 それを面倒がらず、むしろ名誉に思うべきなんだろうが……まさか、ただの学生の俺が、いきなり姫様の婿になり、しかもその集団はまだ出来て二十年、ルールすらはっきりとしていない、混沌とした状態だったなんて。

「悠、もう大丈夫よ」

「あ、ああ」

 なぜか正座しっ放しだったせいで痺れた体を、百八十度ターンさせる。すると、そこには純白のブラウスを着た天使……と呼んでも差し支えないほどの少女がいた。

 立ち上がった姿を見ると、最初に受けた印象以上に背は高く、短めのスカートから伸びる生足は長く、肌は真っ白。シンプルながらも豪華さのあるブラウスは、深月のスタイルの良さを引き立てているようで、腰のくびれから胸の膨らみ、これまた長く奇麗な腕まで、その魅力を遺憾ことなく発揮させている。

「どう?やっぱりこう、欲情とかする?」

「よ、欲情?すごく奇麗だと思うけど、そんな俗っぽいのじゃなく、もっとこう、高尚な美、みたいな……」

「えー、女は男を滾らせてナンボじゃないの?」

「……やっぱり、深月の感覚は人とずれてるっぽいな」

 確かにまあ、本来動物のメスは、お尻でオスを誘惑していて、人間の場合は二足歩行なので、高い位置にある胸をお尻のような形にして誘惑している、と理科系の本で読んだ覚えはある。でも、人間の美しさは生殖上有利になるだけではなく、もっと別な次元にも意味があるはずだ。

 その辺りの理解はどうも、まだ深月には難しいらしい。結婚するって言ってるのに、相手を欲情させたいってのはな……。

「姫様。人間、特に日本人には、そういった価値観とは別のものがあるのですよ」

「えっ、そうなの?」

 さすがに年長者(失礼か)だけあって、奇跡さんは理解があるのか。もしかすると、深月はただ箱入りのお嬢様だったから、人間の常識がわかっていないだけかもしれないな。

「それは、むっつりすけべといい、欲情していないフリをして、内面ではムラムラしているという、非常にいやらしいものですわ。もしかすると婿様は、そういう人なのかもしれません」

「よし、ちょっとでも君達、いやもう、お前等に期待した俺が馬鹿だった。俺はむっつりじゃない、本当のところを言えば、胸大きいし、エロいな、とも思った。それで良いだろ!?」

 このまま、俺が変な方向の変態だと思われるのは我慢ならない。奇跡さん、やっぱりあの人もアホだろう。

 勝手に俺という人物像を作られるぐらいなら、恥ずかしいと思いつつも、全部暴露するのが得策だ。また誤解を招くようなことを言うと面倒だし。

「なんだ、そうだったらそうと言えば良いのに。あたしの体に欲情してくれたのね」

「ああ、とんでもないぐらい魅力的だよ。深月が俺の嫁になるかと思うと、滾りまくる。十六歳なのにその体、もう冗談としか思えないぐらいだ」

「そうよね!あたし、良い体してるわよね!あー、パッド入れてて良かったわ」

「……え?」

「うそうそ。冗談よ。あたしのこれは、本物の胸。なんなら触ってみる?」

「ばっ!?い、いや、さっき下着姿見たし、事実確認は取れてるからな」

「ちゃっかり姫様が服を脱がれるところを見ていらっしゃったのですか……むっつり、ですね」

 しまった。完全に墓穴だった。変な知識を持ってる奇跡さんに言うようなことじゃなかった。黙っていればバレなかったのに。

「じゃあ、さっさと行きましょ?奇跡、あんたが護衛に来てくれるんだっけ」

「いいえ。私は姫様の留守をしっかりと預からなければなりませんので、代わりに妹を。木樺(このか)、来なさい」

 奇跡さんが拍手を一つ打つと、また窓から一羽の鳥が入って来る。今度はっきりとその姿がわかった。黒いスズメのようだ。

 小さなスズメはすぐに人の姿となり、現れた女性はやはりメイド服を着ている。が、その腰には一本の日本刀が佩かれていて、それが深月の護衛をする者であることを証明している。

「木樺が来てくれるなら、心配ないわね。よろしく」

「はい。姉より命じられたこの任務、確実に成し遂げます。たとえ、この命に換えましても」

 ずいぶんと堅い感じの人だけど、これだけ真面目なら安心出来るというものだろう。護衛といっても、現代日本で人の姿をしていれば、そんなに危険はないだろう。楽な仕事のはずだ。

 ……いや、冷静に考えると、木樺さんも当然、俺と同じ部屋に住むんだよな?ということは、あの小さな部屋に三人、しかも内二人は女性が暮らすなんて、可能なのか?

 資金はちょっと不安だけど、引越しも視野に入れる必要がありそうだ。それぐらい、真剣に生活がままならない危険性がある。

「婿様。本日より、姫様並びにあなた様の警護をさせて頂きます、箕雀(みすずめ)木樺と申します」

「ああ、よろしく。狭い家に一緒になるんだけど、それでも……」

「雨露を凌ぐことさえ出来れば、それで十分です。どうかお構いなく」

「そ、そうか」

 もし、これで多少なりとも引越し資金を工面してもらえれば、なんて誤算があったんだけど、立派な屋敷に住んでいるとはいえ、まだ二十年しか人間の社会と関わっていないなら、大した資金力もないのだろう。無理を言う訳にはいかない。

「よし、では今度こそ行きましょう。あたしと悠の新婚生活……じゃなかった。恋人生活の始まりね」

 

 こうして、いつの間にかに連れて来られた「花鳥庵」で深月との再会を果たした俺は、彼女の婿として、ひとまずは狭い下宿で一緒に暮らすことになった。

 驚いたことに、あれだけ立派な屋敷は、外から見ると幽霊屋敷かと思うようなボロボロの廃屋で、人間に見つからないために妖術のようなものがかけられているらしい。

 ちょっと前の俺なら、そんな怪しげな術の存在を信じなかっただろうけど、カラスの姫と、スズメのメイドさんを連れて、そこから出て来たんだからな……生き証人が二人もいれば、信じざるを得ない。

 街中にある時計を確認すると、もう八時。今日の大学の講義は十一時からだから余裕はあるだろうけど、家に帰って、新しい生活の準備をしていたらすぐだ。俺は家へと足を速め、狭い下宿先に二人も女性を詰め込むという、他人が見れば犯罪かと思うような所業を成し遂げたのだった。

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「へぇー、男の部屋にしては奇麗なんじゃない?確かに狭い部屋だけど、窮屈な感じはしないわ」

「そんなに置く物がないからな。というか、余計な物を買う余裕がない」

「あはは、なるほど。まずはあたしの布団を確保しないといけないわね。それから、服を入れるたんすも欲しいけど……その辺りは部屋の大きさと相談ね」

 深月を部屋に上げて、一通りどんな様子かを見せる。

 間取りは、典型的な六畳一間。トイレとバスタブは一緒、後は玄関があるだけ。大学生が生活する空間には十分でも、年頃の女の子を済ませるには、あんまりに可哀想に思えて、なんだか恥ずかしくなってしまう。

「あれ、そういえば木樺さんは……」

「雀になってるのよ。ほら、あそこ」

 指の示す方向を見ると、小さな黒い雀が、たんすの上に乗っかっている。そうか、深月達は鳥になれるのだから、こうすればスペースを取られずに済む。これなら、そんなに心配しなくても……。

「あれ、でも深月、布団だって?」

「ええ、一つの布団で寝ても良いけど、これからの季節それじゃ暑苦しいし、必要でしょ?」

「いや、木樺さんみたいに鳥になれば良いんじゃ……」

「良くないわ!いい?あたしはあなたと、恋人としての生活を堪能して、その中で更にあなたのことをよく知って、将来的には結婚しようと思うの。そのためには、人の姿でいるのが必要不可欠でしょう?あなた、自分の隣で鴉が寝ていて嬉しい?」

「そ、それは……」

 目が覚めると、すぐ近くにカラスがいる。……ホラーだ。

 それなら、なんとか布団を手に入れて、そこに人の姿で寝てもらった方が何十倍も良い。やらしい考えとかはなしに。

「大丈夫、身の回りを整えるための資金はちゃんと用意しているの。五万円もあれば十分でしょう?残ったら、食費にあてて……あなた、働いていたりするの?」

「いや、親からの仕送りに頼ってるんだ。将来的にはバイトしようと思うんだけど、とりあえず二回生ぐらいまでは講義が色々あるし、どうも難しくて」

「それなら、あたしの分の食費は、あたしが稼ぐわ。悠は自分の勉強に専念して」

「だ、大丈夫なのか?大事に育てられて来たお姫様なのに……」

「結婚する前にしか働くことは出来ないもの。社会勉強よ。一度、バイトというものを経験してみたかったし」

 俺自身が経験していないからなんとも言えないけど、やりたいから、という理由でバイトが務まるものなのだろうか……性格面は問題ないと思うから、そこは安心して送り出せそうだけど。

「とりあえず深月。今日もこれから講義があるんだ。冷蔵庫に冷凍食品があるから、とりあえずそれを昼には食べて、俺が帰るのを待っててくれないか?そしたら、夜ご飯はちゃんとしたのを作るから」

「悠、冷凍食品なんか食べてるの?」

「ま、まあ……金と時間のない大学生の味方だからな」

「お昼はそれで良いけど、夜ご飯はあたしが自分で作るわ。生活用品を買うついでに、食材も買って来るから」

「ええ。深月、料理って出来るのか?」

「もちろん。花嫁修業には余念がなかったもの。料理を教えてくれた木樺や奇跡には敵わないけど、そこらの人間の女よりも出来るつもりよ」

「そうか……なら、お願いしようかな。本当は俺が色々としてあげるべきなのに、本当に申し訳ない」

「ううん。あなたはあたしの将来のお婿さん。で、あたしはあなたの将来のお嫁さん。助け合うのは当然だし、いちいち水臭いことは言わなくていいわよ。心配しないで行って来てね。悠」

 ……どうしてだろうか、唐突に涙が浮かんできた。

 一人暮らしを始めて二ヶ月。親元を離れた、自由であると同時に孤独な生活。こんなのが四年間続くと思っていたのに、急にやって来た「将来のお嫁さん」の温もりが、優しさに飢えていた心に響いたのだろうか。

 大学から疲れて帰って来たら、温かい食事と、迎えてくれる人がいる。実家に住んでいた頃は当たり前だったのに、孤独を知っている今、それが尊いことに思えてくる。……こういうのを、胃袋を握られると言うのかもしれないな。

 まだ深月の料理を食べていないので、その腕がどの程度のものかはわからないが、メイドさんに教えてもらったのなら、ある程度以上のものを期待しても良いだろう。それに、ボディガード兼メイドである木樺さんがいるし、万が一失敗してもフォローが入るはずだ。今日の晩御飯は、本気で期待しても裏切られはしないだろう。

「じゃあ、用意してそろそろ行くから、最低限の物の場所だけ教えておくよ。まず、タオルはこっちの引き出しに、それから……」

 一通りの説明の後、留守を二人に任せて家を出る。そういえば鏡を見ていないけど、にやついていないだろうか?美少女が二人も家にいて、その片方は将来の結婚相手なんて、喜ばない方がおかしい。自然と顔に出ていても不思議ではない。

(まあ、話しかけてくる奴なんていないだろ……)

 別に俺は、ぼっちという訳じゃない。ただ、友達の数が限られているだけだ。そして今日は、その選ばれた友人達とも会えない可能性が高い。今日に限っては、ぼっちと言われても仕方のない身の上だな。正直、家ではこれ以上がないほどのリア充っぷりだが。

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 主のいない部屋に残された二人は、間もなく偶然にも用意されていた合鍵を手にアパートを出た。

 目的は深月が暮らすことの出来るようにするための物を手に入れることであり、今日の夕食の食材を手に入れることだが、鳥の化身である少女二人はそれほど筋力に優れるという訳ではない。買出しを二回に分け、まずはかさばる日用品を買い、寝具をアパートまで送ってもらう手配をすることになった。

「姫様。私の記憶では、こういった郵送をしてもらう場合、一日や二日時間がかかった風に思います。今夜には間に合わないのでは?」

「別にそれでも良いじゃない。今夜は悠と一緒に寝るわ」

「婿様と、ですか。それはご結構なことですが、あのような性に積極的ではない殿方が、それをお許しになるでしょうか?」

「夜になれば豹変するんじゃない?」

「なるほど……いわゆるところの、むっつりですね」

 本人の知らないところで、勝手に悠のイメージが作られ、それがいつしか二人の間のスタンダードにされてしまう。メイドと主君という間柄ではあっても、幼馴染として育った二人は打ち解けた間柄で、女子特有の話の膨らませ方をした結果、すっかり悠という男は紳士的に見えて実は野獣で、夜になると本能を剥き出しにする、ということになってしまった。

 いきなり裸を見せようとしたり、積極的に触れ合おうとしたりすることからもわかるように、深月はそんな設定になってしまった悠のことを軽蔑するどころか、それはそれで都合が良い相手だと、受け入れることにしていた。

 鴉の姫にして、悠の将来の嫁、ということになった深月は恋に恋する年頃の娘であるが、まだ人の社会に馴染みきっていない鳥の化身達の思う恋とは、すなわち発情であり、その先にある交わり、自分の子孫の誕生でしかない。今は恋人というステップを踏んではいるが、もしも悠がそれを許すのであれば、今すぐにでも愛し合いたいところである。

「ねぇ、どんな布団が良いかしら。羽毛は論外として、やっぱり軽くて涼しい化学繊維かしら。こういうのならどんな季節でも使えそうだし、冬は毛布を足せば大丈夫よね」

「そうですね。姫様がお休みになるのですから、もう少し高級感があった方が良い気もしますが、あまりお金をかけ過ぎるのもいけませんし」

「庶民と一緒に暮らす以上、質素倹約に務める必要がある訳ね。ふふっ、四字熟語使っちゃった」

「日々の勉強の賜物ですね。ですが、欲を言えばその程度の知識をひけらかした程度で得意になって頂くのは……」

 傍から見れば微笑ましい、やんわりとしたボケとツッコミのコンビだ。二人の会話はいつもこのような感じで、花鳥庵にいる間も大いに住人達を和ませていた。

 しかし、鳥頭というものの、鴉の知能が高いのは有名な話。人としての姿を得た彼女達は、人と同じか、それ以上の知能を有することになり、深月も十六歳の少女として必要なだけの知識と記憶力を持っている。

 それがいまいち発揮しきれていないのは、ただ単に然るべき状況ではないからだ。鷹ではないが、能ある鳥は爪を隠すのだろう。

「ところで姫様。羽毛布団の中身をご存知ですか?」

「えー、そんなの知らないわよ。白い羽だった記憶があるから、鶏じゃない?」

「いいえ、駝鳥や鴨の羽が使われています。更に細かく言えば、羽毛と羽根とは使われている中綿が異なり……」

「へぇ、仲間に駝鳥とかはいないし、使ってみても良いわね。いやいや、でも、鶏肉は絶対に食べないと決めてるんだし、こっちも我慢ね。一度、羽毛にうもれて寝たい気もするけども」

「姫様は、昔からお優しく、義理堅い方ですよね。やはり、我々の上に立たれて然るべき、立派なお方です」

「そ、そんなに褒めないでよ。あんたがそんな風にストレートに褒めるなんて、変に勘繰るわよ?」

「たまには良いではありませんか。姫様のことが大好き、ということですよ」

 年齢としては木樺の方が上だが、身長はいつの間にかに深月が高くなっていた。自分より低い位置から見上げられ、思わず深月は同性同士にも関わらずたじろいでしまう。

 改めて意識してみると、木樺も大変な美少女だ。ただ、瞳の色が珍しくない焦げ茶色で、全体的に小柄なため目立たないだけであり、姉の奇跡ともどもメイドの中でも屈指の美貌の持ち主だろう。

 ちなみに、木樺達が雀にも関わらず、茶色ではなく黒色の髪の持ち主である理由はきちんとあり、染髪しているという訳ではない。

「……姫様、頬を赤らめないでください。ガチかと思ってしまいますよ」

「ま、まさかっ。良い?あたしは悠以外の男には興味ないし、もちろん女にも興味はないわ!もちろん、木樺や奇跡は友達としてすごく大切だけど」

「わかっておりますとも。ただの冗談です」

「あんまり主君をからかうのはやめなさいよ。全く」

 布団の配送の手続きをして(住所は木樺がしっかりとメモしていた)、その後は日用雑貨のコーナーに。

 悠の入居しているアパートから徒歩十分で行ける、このビル一つを丸々使ったショッピンモールには、ない物はないと思えるほど品揃えが充実しており、二階の雑貨コーナーにはデザイン性、機能性ともに申し分ない製品が目白押しだった。

 十六歳の少女と、その幼馴染であるメイドが買い物を楽しむのにその品揃えは十分であり、全ての買い物を決めるのには二時間近くを要した。これでも木樺がかなり急かした結果だ。

「思った以上に量の多い買い物になってしまいましたね。やはり、買い出しを二回に分けたのは正解でした」

「案外、そうだったわね。でも、これで生活に不便はしなさそうだわ」

「調子に乗って私の物も買ってしまいましたが、あの部屋に全て置くことが出来るでしょうか」

「無理ならその時よ。悠の私物をどけてもらうわ」

「……それって、居候としてどうなのでしょう」

「きっと許してくれるわよ。悠、優しいもの」

 深月はまだ、ほとんど悠のことを知らない。それなのに、ここまで彼を信頼出来る理由。それは人々の鴉に対する行いの裏返しだ。

 いくら手負いとはいえ、鴉を追い払うことはすれど、それを獣医にまで運んで行く人間が、果たしてどれだけの数がいるのだろうか。鴉といえば大きめで凶暴な鳥であり、害鳥としての悪名も高い。そんな鳥を助ける人間なんて――。

 それが、深月が悠を慕い、恋するただ一つにして最大の理由だ。

 純粋な箱入り娘である深月にそれ以上の思惑はなく、また、花鳥庵の他の住人達も、それだけで深月の結婚相手として、悠が相応しいと認めていた。

「では、一度帰ってお昼にしましょう。お夕飯も悩みどころですが……今の内に考えておきますか。姫様、何かご希望は?」

「あたしが作るんだから、あたしが食べたいものより、悠が好きなものが良いわね。うーん、訊いていなかったのが悔やまれるわ」

「殿方といえば、肉料理が好きな印象がありますが」

「肉……ステーキ?」

「確かにこれ以上ないほどの肉ですが、料理としてはいまいちですね。ここはやはり、かっちりと胃袋を握っておく必要があるのでは?」

「そ、そうよね。あたしの料理の腕が本物であることを証明しておかないと」

「姫様の料理のレパートリーから考えるに……ハンバーグなどはどうですか?そう手間はかかりませんし、殿方が苦手とするとは思えません」

「そうね。ちょっと子どもっぽいかもしれないけど、絶対に喜んでくれるはずだわ。前に見た男の人が好きな料理ランキングでもかなり上位だったし」

 今夜の献立も順調に決まり、少女二人は家路を急ぐ。

 時を同じくして、悠は己が犯した失敗に気付くのだった。

-5ページ-

 

 

 

 俺自身、自分がややこしい人間だというのは自覚している。

 まず、左利き。これが大勢で食事をする際に中々面倒臭い。理由はもちろん、箸を持つ手が皆と逆なのだから、気を付けないと腕をぶつけてしまう。

 次に、その社交性の欠如。初対面の相手とはまるで話せない、すぐに赤面する、言葉に詰まる、どもる。

 この特性は、不思議と深月達を相手にした時には発揮されなかった。なぜかといえば、寝起きだったというのもあるし、あまりの展開に脳がついて行けてなくて、逆に冷静にいれたからだろう。

 そして、一度なし崩し的に打ち解けてしまえば、次以降のコミュニケーションを取ることは、そんなに難しくない。島国、日本の人間らしい特質と言えるだろう。「内」と「外」の区別を明確にしてしまう訳だ。

 でもまあ、それだけで俺が「ややこしく」なくなったかといえば、そうでもない。完全に迂闊だった。食べ物の好みを伝え忘れていたんだ。

「なんというか……本当に申し訳ない。すごく美味そうだとは思うんだけど、どうしても食えないんだ」

「う、ううん。全然気にしないで。あたしもほら、お肉はすごい好きだし、木樺もこう見えて、すごくよく食べるんだから」

「冷凍食品が高菜炒飯や、野菜餃子、エビチリに白身魚の団子と、野菜、海鮮系に偏っていたことから気付くべきでした。本当にごめんなさい」

「いや、俺が百パーセント悪いんだから、気にしないで。携帯から家に電話もしたかったんだけど、家に電話置いてないからな……携帯の番号も交換しておくべきだった」

 つまり、深月は俺のためにハンバーグを用意してくれていたんだが、俺はそれを食べられない体質だった、ということだ。

 ――食肉アレルギー。厄介なアレルギーもあったもんだ。

 俺はどうやら、ありとあらゆる肉というものが食べられない体質で、無理に食べると、後遺症が残るレベルのアレルギー反応が出て、最悪の場合は死んでしまうらしい。

 だから俺の食事においてのメインのおかずは焼き魚であったり、肉なしの野菜炒めだったりと、妙にヘルシーなことになってしまっている。何よりも先に伝えるべきだったことなのに、そんな生活が普通になり過ぎていて、つい忘れていた。

「でも、そうすると鶏肉も食べてないってことよね?なんか嬉しいわ」

「ああ……他にも、卵もあんまり摂り過ぎるのは良くないらしいから、必要な時以外は食べないようにしている。なんか、深月達には嬉しい食生活が出来てるな」

「ふふっ、やっぱり、あたしの見込んだ人は違うわ。ねぇ木樺、こんな人間、他にいないでしょ?」

「そうですね。さすがの慧眼です。お見逸れいたしました」

「まあ、花鳥庵の長として当然のことよ。あんたも中々だけどね」

「いえいえ、姫様ほどでは」

 ……悪代官と越後屋?多分、そんなベタな時代劇のワンシーンがあると知らずに言っているんだろうからすごいな。

 天然ものの小芝居というか、なんというか。二人ともすごい美少女で、近寄りがたさを感じてもおかしくないのにすごく身近に感じられるのは、その独特な空気感のためだろう。カラスもスズメも、人間とは馴染みの深い鳥だから、なんとなく先天性的にも相性が良いのかもしれない。

「ところで悠、大学ってどんな感じなの?楽しい?」

「え、えーと、そうだな……自分の好きな勉強をしているから、楽しいのは間違いないな。もちろん、卒業のためには必須な単位もあって、それは楽しくなかったりするけど、高校までの学校とはかなり違ってる気はする」

「へぇ……学校というのも悪くなさそうね」

「まあ、自分の時間は減るし、良いことばっかりじゃないけどな」

 それでも深月は学校に惹かれるのか、何やらじっと考えている。高校になら入れないこともないかもしれないけど、さすがに学費とか、色々問題があるからな……それに、なんとか戸籍も作り上げないと。コネなんてないし、現実的じゃないな。

「姫様。我々は日中、婿様が不在の間は特にすることがないのですから、学校に行ってみるというのはどうですか?もちろん、鳥の姿となった私達が見れる景色は限られてしまいますが」

「そういえばそうね。でも、雀のあんたはともかく、あたしは大丈夫かしら……」

「遠巻きに見る程度なら、カラスだからってあんまり邪険にされないと思うけどな。心配なら、共学とか男子校じゃなく、女子校にした方が安全じゃないか?おあつらえ向きな女子校が近くにあるし」

 なんとなく大学を除外して高校で考えていたが、大学を外から見てもあんまり面白いところはないからな。その分、高校なら体育の授業とかで外に生徒が出ている姿をたくさん見られるだろう。

 ……ちなみに。本当に余談になるが、俺の言う「女子校」、白花学園の体操服は、なんと今の時代にも関わらずブルマだ。これが実際に通う生徒には疎ましく、反対にその筋の人間には崇拝の対象になっている。

「女子校……女の子だけの学校よね。花鳥庵とそんなに変わらない気もするけど、人間の姿を見るのは楽しいでしょうね」

「えっ、あの屋敷って女の人ばっかりなのか?」

「昼間はね。男は皆、普通にサラリーマンとして働きに出ているのよ。だから残されるのは子守をする母親と、メイド達だけ。実際、今朝はメイドとしか会わなかったでしょ?」

「ああ。お嬢様だから、もっとイケメンの執事とかがいるのかと思ったが」

「花鳥庵の人口は大したことないもの。貴重な働き手を無意味に屋敷に留め置くのはもったいないの」

「なるほどな。姫様って言うから、もっと大きなコミュニティを想像していたんだが、あの屋敷に入る相応の人数しかいないってことか」

 ざっと見た感じでも広い屋敷だったものの、不自由なく生活出来る人数は三十かそこらだろう。なら、深月はお姫様と言うよりは、アイドルみたいな存在なのかもしれない。

「はい。私が把握している限りで、百人ほどしか人口は存在していません。その内訳は、雀が九世帯、燕が十三世帯、鶏が五世帯に、その他の鳥が六世帯。そして、姫様、つまり鴉が長として君臨している訳です」

「よ、予想していたより多いな……寝泊りとかは鳥の姿でしているのなら、それもそうか」

「はい。常に人の姿でおられるのは、姫様ぐらいのものですよ」

「長たる者、他との違いを明確にしておかないといけないものね」

「でも、意外だな。カラスって、都会にはもっといるものだと思ってた」

「花鳥庵にいないだけで、確かに鴉はたくさんいますね。ですが、彼等の多くは人を嫌い、人の姿になることもまた忌み嫌っています。鴉は誇り高く、人を見下しているところがありますから。鴉である姫様を長にしているのも、それが理由になります。その誇り高さを裏打ちする知恵と行動力、統率力を持っていますので」

 確か、神話なんかにはよくカラスが登場していたな。ヤタガラスもそうだし、今でこそ嫌われるカラスだが昔はかなり崇拝されていたのだろう。その記憶が今の時代のカラスにもあって、あそこまで人の街で我がもの顔をしているのだろうか。

 そう考えると、深月が今までお目にかかったことのないほどの美少女なのも、なんとなく頷ける。世が世なら、女神として崇められていてもそこまで不思議ではないかもしれない。

「あっ、今、嬉しいこと考えてくれてたでしょう?」

「ええ?お前、人の心まで読めたりするのか」

「さすがに、そこまで優れた力は持ちませんよ。他の神性の高い鳥……たとえば、鶴や鷲は違いますが、今の鴉は零落した神鳥ですので。ですが、姫様はそうですね。いわゆるところの、女の勘が優れている節はあります」

「女の勘……」

「悠の考えることは大体わかってしまうわ。だって、あたしの将来の婿だもの」

 待て、その理屈はおかしい。

 婿だからなんでもかんでもツーカーって、それじゃ俺にプライベートというものが存在しなくならないか?

 いやそんな大して秘密にするようなことはないし、深月の方から逃げていくことはあっても、俺は彼女以上に魅力的な女性に出会わないだろうし、浮気は絶対にないが。

「……そうすると、お前達以外にも、鳥の化身ってのはいるのか」

「直接的に交流を持ったことはありませんが、あらゆる動植物が住みづらいこの時代、人の姿にならないのは、誇り高いのか頑固なのかわからない一部の動物だけですよ。ただ、あまりに上手く人の社会に馴染んでいるものですから、気付かれないだけなのだと思います」

「なら、俺の大学にもそういうのがいたり……?」

「可能性は十分にあるんじゃない?あたし達にはなんとなくそれがわかるし、明日学校に行ったら、動物の化身の数を調べてみるわ。多分、犬か猫はいそうね。もしかすると花鳥庵に来ていない鳥がいるかも」

 なんだって――。今更、そのことを非科学的だなんて言わないけど、それなりにショックはある。

 「子犬みたいに懐っこい奴」、「鳥みたいに慌しい奴」なんて言い方はよくするが、それが本当に犬や鳥の化身だった、という可能性もないとは言いきれないのか……。こうなって来ると、普通の人間を探し出すことの方が難しい気がして来て、嫌な汗すらかいてしまう。

 とりあえず、俺は人間だよな。鳥とか犬にはなれないよな、うん。

「ふぁぁ……んっ、今日は久し振りに出かけて疲れたわね。もうそろそろ寝よ…………」

「そうですね。姫様は最近、運動不足が続いて太り気味でしたから、丁度良かったのでは?」

「むっ。肉は全部、順調に胸に付いているわよ」

「本当にそうでしょうか?どうも、脇腹の辺りが怪しく見えるのですが」

「そ、そんなことないわよね!?」

「いや、俺には判断が……。というか、風呂は入らないのか?粗末だけど、シャワーで汗を流すぐらいは普通に出来るだろうし」

「あー……そうね。わかったわ」

 カラスの行水って言うぐらいだから、そんなに深月は風呂が好きじゃないんだろうか。

 なんとなく女性というと、風呂が大好きで長く入っている印象があるんだが、この分なら光熱費がめちゃくちゃ高くなる、ってこともなさそうだ。

「婿様。私も一緒に入ってしまいますね」

「ああ――そういえば、木樺さん。俺、言葉遣いはどんな風にすれば良いですか?」

「私は姫様の従者。それはつまり、将来のご結婚相手であるあなた様に仕える身とも同じですから、お好きに呼んでいただければ。それに、私が年上とも限りませんし」

「えっ、何歳なんですか?」

「あら、従者とはいえ、殿方が女性に年齢を訊くのは失礼にあたりますよ。言葉遣い共々、むこ様の判断にお任せします」

 そう言うと、雀の姿になってぱたぱたと風呂場の方に飛んで行く。……それもそうだよな。女の人に名前を軽々と訊くなんて明らかにマナー違反だ。

 けど、深月よりは少し上だろうから、十九か二十歳ってところだよな。まだまだ若いんだし、それぐらいなら隠さずに教えてくれれば良いのに。

 それとも……いや、深く勘ぐらないでおこう。いくら鳥の化身といっても、見た目と実際の年齢がずれているなんて。ありそうで怖いが、考えない。考えないんだ。

「あいつ等、着替えも出さないで……えっと、これか?」

 部屋の隅にあるビニール袋の中を見ると、二着のパジャマが開封されることなく入っていた。色とサイズから察するに、薄いピンク色のフリルの付いたのが深月、ほぼ純白でわずかに水色の付いているシンプルなのが木樺さんのだろうか。

 そういえば、木樺さんは着替えをどうするのだろうか?あのエプロンドレスは一着しか持って来ていないみたいだし、新しい服を買ったという訳でもないみたいだ。というか、ちゃんと見てなかったけど二人とも服を脱いでた様子もないし、まさか風呂には鳥の姿で入ったのか?なら、人の姿の時の服は……。

 ああ、やっぱり異文化コミュニケーションは難しい。何もかもが不思議な相手なんだから、それも仕方ないな。とりあえず俺は、深月が裸で風呂から出て来る未来を想定して、全力で目を逸らすだけだ。明日の大学の準備でもして、読書でもしておこう。

「ふぅー。良いお湯だったー」

「……早いな。正にカラスの行水だ」

「でしょ?あ、着替え出しててくれたの。ありがとう」

「でも、さっき服脱いでたか?いまいちその、人の姿と鳥の姿の関係が俺にはわからないんだけど」

「あたしはちゃんと服を脱いで、人の姿でお風呂に入ったわよ。だから、今もバスタオル一枚なの。……見る?というか、見て」

「いやいやいや、自然な流れで無茶言いねぇ」

 なぜかべらんめぇ口調になった。それだけ必死だということが伝われば幸いだ。

「嘘よ、嘘。基本的にお風呂は人の姿で入るの。その方が気持ち良いし、体が奇麗になるから」

「鳥の姿で体を洗うのは意味がないのか?」

「基本的に、二つの姿は独立しているのよ。どちらかの姿でお風呂に入ったらどっちも奇麗になるんじゃなく、そっちだけが奇麗になるのね。で、あたしはほとんど鳥の姿にはならないからこっちの姿を洗えば良いんだけど、木樺は鳥にもよくなってるから、両方でお風呂に入ってるの。今は人になってるわよ」

「へぇ……そう考えたら、結構単純かもな。もっと複雑なものだと思ってた」

「自分たちでも、どういう仕組みで人と鳥の姿が併存しているのか、全然わからないんだけどね。まあ、便利だから良いわ」

 言葉の合間合間に衣擦れの音がして、パジャマに着替えているのだということがわかる。

 今思えば、あれはいわゆるネグリジェだったな。確か、ワンピース型のをネグリジェと呼んだ……記憶がある。いや、そうでもなかったかもしれない。とりあえず薄手で、深月が着たら破壊力が高いのは間違いない衣装だった。

 あいつ、わざとそういう服を選んで買って来てないか?

「もう着替えたわよ」

「本当か?」

「さあ、どうかしら?」

「……木樺さんが出て来るまで待つ。俺は中立の証言しか信じないんだ」

 深月を信用していないみたいで可哀想な言い方かもしれないが、あの衣擦れの音がフェイント、という可能性も十分にあるし、裸を見ろと自分から言う深月のことだ。半裸で待機している危険性は間違いなくある。なら、恐らく嘘をつかないであろう木樺さんを待った上で俺は振り返るべきだろう。

 彼女の裸を見るのが嫌、という訳では決してないんだが、あまりに早過ぎる。そもそも、人の倫理観に彼女だから裸を見ても良い、というのは存在しないはずだ。とりあえず俺が信じる倫理観に従えば。

「姫様。いつまでも裸ですと、風邪をひかれますよ?我々は病気をすると面倒なのですから、お気を付け下さい」

 ……深月のことなんて信じない。

「木樺さん。すみませんけど、その裸族をきっちりとしつけておいてもらえませんか?彼女でも夫婦でも、男女が同じ部屋で寝泊りする以上、その、品行方正に、公序良俗に反しない、ですね……」

「それはもちろんです。計画性のない子作りは、家庭の円満に悪影響をもたらしますから」

「子づくっ……!」

 くそっ、木樺さんも人間ではないことをすっかり忘れていた。この人、完全に俺を種馬としか見れていない気がするぞ。

 頼む、誰でもいいから、人間をっ。人間の倫理、道徳、常識のある人をこの家に投入してくれ。そうすれば、二対二になって、対等な戦いが出来るはずなんだ。

「悠、今度はちゃんと服を着たわよ」

「本当ですか?木樺さん」

「はい。手でも破れそうなほど薄いネグリジェをお召しですよ」

「……そういう情報は別にいらないです」

 南無三、振り返ると確かに二人ともきちんとパジャマを着ている。まさか木樺さんが裏切るとは思えないけど、絶対安心という訳にはいかない。

 いや……それにしても、本当に深月は、なんというか美少女だ。美人、というよりは美少女、という言葉の方がしっくり来る気がする。ほとんど体つきは大人の女性のそれなのに、大きくぱっちりとした赤い瞳や、伸びるがままに伸ばされたようなロングの髪が少し幼い印象を与えるのだろうか。

 身長は女性の中では高め、百六十五はあるだろうに、百六十弱、といったところの木樺さんの方が大人っぽく見えるというのは、なんとも不思議だ。木樺さんがシンプルな服を好み、その佇まいも静かだからかもしれないな。

「どう?感想は」

「そうだな……改めて、深月の可愛さがわかった気がする」

「可愛いってことは、欲情もするのね?」

「……木樺さんも、すごくお似合いですよ」

「お褒めにあずかり光栄です」

 徹底スルーの構え。下手に触れても自爆しそうだから、とりあえず全てを回避していくのが得策だろう。上手い切り替えしを覚えるには、俺はあまりに経験不足で幼く、それに反して深月は魅力的過ぎる。

「それは良いけど、今夜の寝るところはどうする?俺の布団で良ければ、俺は適当に床で寝るから、使ってくれて良いけど」

「ええ?床で寝るなんて、絶対に体悪くするわよ。一緒に寝ましょう?」

「……その選択肢を回避したいから床で寝るって言ってるんだよ。どうしてもそれが良かったら、悪いけど今夜だけはカラスの姿で寝てくれ」

「そんな――う、うん?鳥の姿になったら、寝ても良いのね?」

「ああ、押し潰されないように気を付けてくれよ」

「本当に良いのね?」

「……?そんなに念を押すことか」

「ふふっ、わかったわ。今日は鳥の姿で寝てあげる。もう、仕方ないわね悠は」

 深月はやたらとにこにこ笑顔だ。なんでこんなに嬉しそうなのかはわからないが、まあこれしか方法はないからな。

 朝も言った通り、目を覚ましたらすぐ傍にカラスがいる、なんて軽い恐怖だがその中の人(?)が深月だと思えば、可愛いものだ。いくらカラスがそこそこ大きい鳥とはいえ、潰してしまう危険はあるが、人の姿の深月と寝るよりリスクは少ないだろう。

「では、私は寝ずの番をさせてもらいます。一瞬だけコインランドリーに行かせてもらいますが、その間に襲われた場合は姫様の責任、ということでお願いしますね」

「そこでどうしてあたしの責任になるのかは甚だ疑問だけど、良いわ。しっかりとお願い」

「おいおい、寝ずの番って、いくら花鳥庵の長だからって、お前、命を狙われていたりするのか?」

「別に?ただ、万が一あたしに危険があったらいけないじゃない。木樺はそのための護衛なのだから、気にしないで」

「いや、気にする。木樺さんだって女性じゃないか。昼間は昼間で深月のお守りをしてもらっているんだし、そんな生活じゃすぐに倒れてしまうんじゃないか」

「婿様。その辺りはお気になさらず」

「いえいえ、ですから、俺は気にするんです」

 中々に人の話を聞いてくれない同居人達だ。今に始まったことじゃないが。

 というか、今の時代に寝ずの番も何もないだろう。鍵はちゃんと閉めているし、窓を破って進入されでもしたら、さすがに音で目が覚めるし、ここは都会だから夜といっても人は結構いるし。

「そうではなく、私は眠りながらも一定の緊張感を保ったままでいられるのです。四十雀は驚くと死んだふりをしますが、それを私は能動的にすることが出来るのです。ほとんど従来通りの睡眠を取れるので、ご心配なく」

「そうなのか……?」

「そういうものなのよ。だから、雀なんて弱そうな鳥が護衛になってるの。単純な身体能力とか体力なら燕とかを護衛にした方が良いのだけどね」

「……弱そうというのは心外ですが、そういうことになります。尤も、私はただの雀とも、四十雀とも違うのですが、私ごときのことをお話する必要もありませんね」

「……そうやって隠されると気になるんですけど」

「秘密の一つや二つはあった方が、女性は魅力的ではありませんか?」

 うっ……確かにそうだ。まあ、深月は何もかも見せていても、十二分に魅力があるが。

「もう木樺のことは良いでしょう?さっさとあたし達は寝ましょうよ。ほら、鳥の姿になるから」

 深月がそう言うと、その体が一羽の黒いカラスに一瞬で変身する。

 スズメの姿の木樺さんよりもずっと大きく立派な体躯。濡れたような黒い羽。そして、あの時と同じ赤いルビーの瞳。これこそ、記憶の中にある怪我をしていたカラスそのものだ。以前より大きくなった気がするのは、きっと気のせいじゃなく深月も成長したからだろう。

「じゃあ、おやすみ、深月。木樺さんも」

「ええ。お楽しみ下さい」

「……楽しみませんけどね」

 最後の最後に絶妙にテンションを下げられ、部屋の電気を消して布団に潜り込む。そっとカラスになった深月も俺の体の上に乗っかって来た。

 深月だとわかっていても、すぐ目の前でカラスを見るのは、やっぱりちょっと怖いな。よくもまあ、手負いのこいつを中学の時の俺は運んで行ったものだ。今なら出来ないかもしれない。

 ――それが大人になるということなら、今の「大人」の俺は深月の婿として相応しくないのかもな。

 なんて考えながら、意外にも温かい深月と一緒に眠りに就いた。

-6ページ-

 

 

 

 割れた窓。裂かれたカーテン。割れた石の床。

 嵐が去った後のような風景。地獄の風景。

 足元の赤く黒いものは血。

 全てが終わった。この部屋の全てが終わった。この生の全てが終わった。この世界の全てが……。

 足元の赤く白い残骸は肉塊。骨格。

 踏み潰せば砕ける骨。血管。腐肉。

 「者」が「物」に変わる瞬間を知っている。

 「物」となった「者」には価値などないことを知っている。

 全てが終わった。この生の全てが終わった。この世界はそれでも終わらない。

 未来に光がないならば生に価値などない。この世界に価値などない。

 割れた窓。裂かれたカーテン。割れた石の床。

 床は磨き上げたグラスのように全てを映し出す。

 亡者の顔。死人の顔。死神の顔。

 そのどれが自分でどれが他人なのかもわからない。

 自分はこの世界なのか。この世界は自分なのかもわからない。

 はっきりとしていることはこの生の終わり。

 割れた窓。裂かれたカーテン。割れた石の床。

 赤い窓。血飛沫のカーテン。赤黒い床。

 この生が終わるならばこの世界もまた終わらせる。

 価値のないこの世界など終わらせるだけだ。

 嵐が去った後のような風景。地獄の風景だけを胸に抱いて。

 復讐が始まる。

-7ページ-

 

 

 

 何の夢を見ていたのかはわからない。ただ、それは間違いなく気がかりな夢だった。

 ……カフカの『変身』だと、俺はこの後、毒虫に変わるんだったな。

 でも、さすがに現実はそこまで奇妙に出来ていないらしい。もしカラスの嫁入りの翌日に俺が虫になっていたら、あり得ないぐらい取り乱していただろう。ただ、代わりに――本当に奇妙なことに代わりに、深月が横で寝ていた。カラスではなく、人の姿になった深月が。

「おい、深月」

 まずは可能な限り冷静に肩を揺すって起こしてみる。――効果なし。

「おい!!」

 今度は大声で呼んでみる。――効果なし。

「木樺さん、いますかー?」

 諦めて逃げる。

 と、これが正解だったらしい。すぐに駆けつけてくれたスズメの姿の木樺さんが、柔らかそうな深月の頬にクチバシを突き刺した。血が出るほどじゃないが、遠慮なしに。

「んーっ?ふぁぁ、もう朝ー?」

 わかりやすい寝起きの声と共に、むくりむくりと深月が体を動かす。なんとなくそうじゃないかな、とは思っていたが、深月はかなり朝が弱いようだ。とすると、昨日の朝は目が覚めて大分経っていたんだろうな。

「おい深月。色々と突っ込みたいことはあるが、とりあえず起きろ」

 腕を引っ張り上げてやり、布団から強制的に脱出させる。こうでもしないと二度寝してしまいそうなほどの寝起きの悪さだ。

「悠。おはよう」

「ああ、おはよう。寝起きのところ悪いが、俺は眠り姫を布団に招き入れたつもりはないぞ?」

「細かいことは良いじゃない。まだ、何もしてないし……」

「将来的に何かするみたいな含みを持たせるな。――全く、なんとなく予想していたけど、予想通りのことをしてくれるなよ、本当」

「えへへ」

「可愛い子ぶるな。そういうキャラじゃないだろ」

 寝起きの深月はほわわん、としていて、いつもより一層幼く見える。寝ぼけ眼も可愛らしいが、ここで気を許したら負けだな。心を鬼にして接しないと。

「姫様。あまり婿様に迷惑をおかけにならないで下さい。もう一発、今度は喉の辺りに入れますか?」

「そ、それはさすがに笑いごとじゃないから許して……。う、うん、もう目が覚めた。大体は」

「いつもこのぐらいの時間に起こして良いか?俺の体は、大体八時に起きるように出来ているんだけど」

「便利な体ね。鳥は皆、鶏以外はそんなにきっちり出来てないわよ」

「……私達は訓練されているので、主より遅く起きることはありませんが」

 さすが、このお姫様に仕えるメイドさんなだけあるな……でも、ペットならまだしも、野生の鳥がそんなに呑気なものなのか。都会だし、普通とは生活環境もちょっと違うからかもしれないが、ちょっと意外だ。

「それじゃ、パン焼くからちょっと待っててくれ」

「あたしでもそれぐらいは出来るわよ?」

「簡単なことだからこそ、俺がやるんだよ。昨日はあんなにすごい料理を作ってくれたんだし。俺の出来ることなんて大したことじゃないが、大したことないからこそ、確実にやっていきたい。俺の自己満足かもしれないけど」

 パンを用意し、冷蔵庫からスライスチーズも取り出す。毎日していることだが、三人分になると一気に量も増えるな。そういえば昨日は、なんとなく朝食を抜いてしまった。俺はともかく、二人には可哀想なことをしたな。

「うぅ……悠、あなたやっぱり、最高に優しい人ね。そんなに喜んでもらって、恩返しまでしてもらえるなんて…………」

「お、おい、これぐらいで泣くなよ?」

 赤い瞳が潤み、今にも涙の雫がこぼれ落ちそうになる。これはこれで可愛いかもしれないが、これぞキャラ崩壊も良いところだ。そんな涙脆い女の子だったのか……?

「寝起きの姫様は機嫌が悪いですが、同時に涙腺も非常に緩んでいるため、簡単に泣いてしまいます。まあ、反射のようなものなので、気にしないでください」

「は、はあ」

「そんなことないわよ。あたしは本当に、悠の優しさに心を打たれているの。紳士ってこういうことよね。妻の優しさを当たり前のことだと思って、あぐらをかいてる男も多いっていうのに……うぅ、感動ものだわ」

 それにしても、ちょっと大袈裟過ぎるだろう。俺は別に良い格好をしようとしていた訳じゃないので、反対に照れ臭くなってしまう。

 でも、こういうのは素直に嬉しい。今までは俺が人を気遣っても、それに気付かれること自体が稀だったのだから。

「ほら、焼けたぞ。はい、木樺さんも」

「ありがとうございます」

「二枚しか一度に焼けないから、あたし達の分を先に用意してくれる……やっぱり、悠は最高の紳士だわ」

「だから、そんなに持ち上げるなって。むしろ、ここで自分の分を優先する奴が人でなしなだけだろ」

「そう?多分、鳥なら自分の取り分を最優先で確保したがるわよ」

「鳥だけに、ですね」

 ――その時、凍った。何が?さあ、何だろう。

 つかの間の沈黙。そして流れる気まずい空気。

「あ、取り分を確保することですよ?取り分と、鳥です」

「……木樺さん。そこの説明はいらなかったです」

「木樺は、優秀なメイドであり、護衛よ。――ギャグセンスと時々、毒舌なところ以外は」

「心得た……」

 毒舌だということは、なんとなく今までのやりとりで理解していたけど、まさかこんな欠点もあったとは……。

 微妙な空気をトースターの音が打ち破り、それをきっかけにまたいつも通りの空気が帰って来る。いつも通りといっても、まだ二日目だから変な感じだ。それだけ、深月と木樺の二人がいることを俺が受け入れられているのかもしれないな。人見知りするはずなのに、不思議なことだ。

「よし、じゃあ、深月」

「大学ね?家を出る時はきちんと鍵を締めるから安心して」

「ああ、頼むな。それから、メアドも交換しておこう。携帯、持ってるよな?」

「ええ。今時、これがないと不便よね」

「お、最新の多機能なやつか」

 そういう俺は、昔ながらのパカパカスタイルのやつだ。ノートパソコンは一台あるし、そこまでネットに依存しているって訳じゃないから、多機能な物を持ったところでどうも宝の持ち腐れな気がするからな。

 木樺さんのも、俺と同じ旧式のやつだった。こうして見ると、深月は今時の女の子、という気がする。俺が老人になったつもりはないが、一番歳も若いし、流行り物はなんでも欲しがるのだろう。

「ねぇ、暇な時にメールしても良い?」

「基本的に音が出ないようにしてるし、別に良いけど、返信はいつになるかわからないぞ?」

「そんなのいつでも良いし、直接会ってからでも良いわよ。メールってそんなものでしょ」

「わかった。なんか、人より深月達の方が、人間の発明品をよく理解してそうだな。最近の人間の女の子は、メール返すの遅かったら文句言って来たりするんだぞ」

「そう、せっかちなのね」

「俺の知っている子だけかもしれないけどな」

 ああ……思い出したら、軽くトラウマがぶり返して来た。

 俺の言う女の子とは、俺の従妹の中学生の子のことだ。深月と比べると、よほど自由奔放で、天真爛漫で、傍若無人で……くっ、嫌な思い出が。

 まあ良い。この話はどうでも良い。俺がある程度は女の子とも話せるのは、この経験のお陰だろうから、必要な経験だったんだろうがトラウマに積極的に触れることはない。

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

「いってらっしゃいませ。お帰りはいつごろに?」

「今日は五限まであるから、七時過ぎだと思ってくれ」

「わかったわ。きちんと食べられそうなご飯を用意しておくから」

「ああ、ありがとう」

 

 今日もまた、新しい一日が始まる。

 大学へと向かう足取りはいつもより軽く、表情も明るいものなのかもしれない。

 もしそうなら、やっぱりその理由は――。

説明
とある新人賞で初めて第三選考まで戦い抜いてくれた、特別な一作です
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鴉姫とガラスの靴 長編 

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