野球好きの神様がくれたもの |
バッターボックスにはいる島原の姿を見て、稲葉はロージンの粉を神経質に指先にまぶした。
「一体あいつのゴッドスイングは何本残っているんだ。」
3勝3敗で迎えた日本シリーズ最終戦最終回の裏である。2アウト満塁で点差は1点。守る投手は今期ベンチ入りして大活躍のリリーフエース稲葉。そしてバッターボックスに立つのは、同じく今期ベンチ入りした代打の切り札島原。両チーム切り札同士の対戦でプロ野球日本一が決定する。まさに今シーズンの総決算ともいえる場面であった。
稲葉はマウンドであの時のことを克明に思い出した。
当時高校生だった稲葉と島原は、同じチームで甲子園を夢見るバッテリーであった。高校2年の夏、校舎の近くの河川敷グランドでピッチング練習中に、二人の間に落雷があった。二人は同時に気を失い、そして同じ夢を見た。神が二人の前に出現し、稲葉には絶対に打たれない投球10球を、島原にはバットの届く範囲ならどんな球でもスタンドに放り込むスイング10本をそれぞれ与えたのだ。病院のベッドで同時に目覚めた二人は、そのことを秘密にした。翌年彼らのチームは甲子園で優勝した。その大会を通じて、神から与えられた贈り物を、稲葉は3球使い、そして島原は3本のサヨナラホームランを打ったのだった。
高校を卒業する年、二人はドラフト指名を受けた。リーグは違ったものの二人はそれぞれ上位指名でプロ野球チームに迎えられたが、二人にとっては1軍の道は遠かった。神からの贈り物をファームで使ってしまってはしょうがない。長いファーム時代を経てようやく今期1軍の切符を手に入れた二人は、もう20代後半になっている。死にものぐるいでたどり着いたこの場面で、稲葉も島原もお互い相手に神から与えられたものが何球そして何本残っているのか知る由もなかった。
稲葉はロージンをマウンドにそっと置いて自分に言い聞かせた。「俺に残っているのはあと2球だ。」
稲葉はこの場面が人生最初で最後の舞台であると自覚していた。稲葉に残されたゴッドボールの球数や年齢を考えると、この後再び日本シリーズでマウンドに上がるチャンスがあるわけがなかった。たとえ来シーズン、チームが日本シリーズに出たとしても、稲葉がその時チームのマウンドに残っている確率はほとんどない。それだけにこの舞台では絶対に負けられなかったし、ましてやこの舞台を他の人間に譲るなど考えも及ばなかった。それは島原にとっても同じに違いない。
この勝負、もし残った2球を使い切った後に島原にゴッドスイングを使われたらと考えると、稲葉はマウンドで膝が震えた。2アウトからの逆転満塁サヨナラホームラン。救援投手にとってこれ以上の屈辱はない。プロ野球史に名を残すことになるこの場面、稲葉はもちろん勝者としてその名を刻みたいと心から願った。
稲葉はプレートに軸足をセットし、捕手の出すサインを覗き込む。捕手の要求はストライクになるインハイのストレートだった。1球目をどうするか決断ができないまま、セットポジションに着いた。どうしたらいい。長い間合いだった。この長い間合いを島原が嫌った。彼は軽く右手を挙げてバッターボックスから離れると、軽くスイングをしながらバットでしきりに腰の当たりをたたいた。島原は緊張が高まると、決まってこの仕草をする。高校以来久しぶりに見る癖だった。
彼らの高校時代、練習試合とはいえ遺恨のチームとの対戦の時、島原の一打に勝敗がかかった場面。監督に活を入れられてバッターボックスに向かった彼は、やはり盛んに自分の腰を叩いていた。彼はサイドスロー投手に全くタイミングがあっていなかった。すぐに追い込まれ、挙げ句の果てにはボール球に手を出し、自打球を足に受けて倒れた。ベンチから駆けつけた稲葉に手当されながら島原はぼやいた。
「俺、打てなくて試合に負けたらどうしよう。監督や皆からどやされちゃうよ。」
「どうして勝つことが俺達にとって大切か知ってるか。」スプレーを吹き付けながら稲葉は言った。
「なぜだ。」
「勝てば嬉しいからだ。」
「じゃあ、負けちゃあいけない理由は、悔しいからってことか。」しばらくの沈黙の後、島原が呆れ顔で言った。
「そうだよ。勝てば嬉しい、負ければ悔しい。今の俺達にとって勝ち負けは、それだけのことさ。」
打 席に戻った島原はその次の球を気持ちよさそうに強振した。結果はボテボテの内野ゴロ。お前らは全然野球が解っていないとひどく監督に叱られ、チーム全員が連帯責任でグランドに正座をさせられた。
高校時代から変わらない島原の仕草を眺めながら稲葉は、自分にとって野球の勝ち負けの意味が変わり始めたのはいつ頃からだっただろうかと考えた。今では野球の勝敗が自分の生活にまで関わっている。特に今の稲葉は勝たなければならない。島原に勝つためには、ゴッドボールを使わずにいかにワンストライクを取るかが勝負であった。
稲葉が再び軸足をセットすると球審がプレイを宣告する。捕手のサインは変わらない。その時稲葉は直感的に感じた。
「1球目から奴は来る。」
稲葉は振り出した足を高くあげると、神から与えられたゴッドボールを渾身の力で島原に投じた。球は鋭いスピンの風切り音を立てて捕手の要求通りのコースでミットに収まった。ミットから砂ぼこりが立ち、球審のストライクのコールが甲高く響く。稲葉の予想に反し島原はピクリとも動かなかった。稲葉に残された球はあと1球。
稲葉の動揺を見透かしたように、島原は一度打席を外すと、今度は素振りもせずに悠然とバッターボックスに入ってきた。2球目の捕手の要求はアウトコース低めのスライダー。打者を押さえるセオリー通りの配球だ。しかし稲葉は悠然と構える島原に心底怯え、単純な恐怖心から、神から与えられた最後の1球を投じてしまった。2球目も同じく島原は微動だにしなかった。球審のストライクコールを背中に聞きながら、彼の口元が僅かながら微笑んでいるのを稲葉は見逃さなかった。島原は神から与えられた一振りをより劇的にするために舞台を整えていたのだ。その事を悟った時、稲葉は神から与えられた球をすべて使い果たしていた。
「私もたくさんのプロ野球選手を見てきたからわかるの。あなたが、プロとして当たり前の努力と練習を決して怠っていないことは良く解っているわ。でもあなたが野球を好きだとは到底思えない。」
稲葉は最後に逢った時に彼女が口にした言葉を思い出した。
ラーメン好きの彼がファーム時代練習の帰りに良く通っていたラーメン屋。その店には親父に似ても似つかないキュートな娘がいた。彼女は、OLとしての勤めから帰ってくると、よく店を手伝っていた。狼の群とも言えるファーム連中が黙っているわけがない。何人もの選手がファーム時代に積極的にアタックしたようだが、誰にもなびいたことがない。通い初めて1年も経ったろうか、稲葉は自分が注文したラーメンと他の人のラーメンが違うことにようやく気づいた。彼のラーメンには、焼き豚が他の人より多く入っていたのだ。その違いに気づきラーメンから顔を上げると、伏し目がちに色白の頬を薄く赤らめた彼女の顔があった。
早く1軍へと焦る彼にとって、練習の合間に彼女と過ごす時間は彼に安らぎを与えた。彼女の暖かい思いは彼にとってかけがえのないものとなっていた。しかし長いファーム時代からようやく1軍の兆しが見えた頃、彼女は去っていった。彼女の稲葉に対する思いが熱くそして真剣になればなるほど稲葉は戸惑い、彼女から距離をおいていった結果だった。
不思議なことであるが、稲葉はファーム時代から野球をすればするほど自分の野球選手としての終わりを強く感じていた。ゴッドボールの球数は限られていたし、増えることはない。彼にとって野球は生産的なことではなく、どうしようもなく消費的なことであったから、彼女を好きになればなるほど、消費されていく自分の姿を彼女に見られるのが嫌であった。事実、彼は野球が大嫌いになっていた。
稲葉は彼を呼ぶ声で我に返った。気づくと捕手が彼を心配そうに見つめていた。野球が好きであれ嫌いであれ、マウンドに立っている今は、島原に勝たなければならない。思い直した彼は、捕手の肩を抱え込むと、グラブを口元にあてながらようやく聞こえる声で言った。捕手は呆れた顔で見返したが、稲葉に尻を叩かれて仕方なく自分の位置に帰った。
そんなバッテリーのやりとりを見て、島原は多少の警戒心を持ってバターボックスへ入った。稲葉は軸足をセットする。その時、捕手は大きく腕を広げて立ち上がった。稲葉が何の躊躇もなく立ち上がった捕手の、しかもようやく手の届くコースに投球すると、スタジアムに満杯の観客は何が起きているのかをようやく理解して大きくどよめいた。それはベンチも同様で、その全員が思わず腰を浮かした。稲葉は構わず次の投球の準備をする。次の投球も同じ事態となると、客席は騒ぎはじめ、その声に押し出されるようにベンチからはピッチングコーチが脱兎のごとく飛び出してきた。
「稲葉、どういうつもりだ。状況は解っているだろうな。歩かせるつもりか。」
「そんなつもりはありません。しかし、俺にはもう島原に投げる球がないんです。勝つためには奴をハメルしかありません。うまく説明ができませんが、島原は2ー3の場面を望んでいます。そのカウントまであと1球。その時を狙ってこのままボールに見せかけて、ストレートでど真ん中を通すんです。仮にストライクコースに驚いて振りにいったとしても、神の一振りを準備する暇は無いはずです。そうなれば勝利の確率はゼロではない。せこいと言えば確かにせこいですが、こんな詐欺まがいの投球でもしなければこの場面で勝利をもぎ取ることはできません。捕手を立たせたまま次の球で奴から最後のストライクを騙し盗るんです。」
ピッチングコーチは驚いたように稲葉の顔を見つめた。
「何言ってんだ。お前正気か。お前は島原を追い込んでいるんだぞ。他に料理の仕方はいろいろあるはずだろ。」
「生半可な攻め方で球を投げ込めば、必ずあいつにスタンドにぶち込まれます。」
「お前がやろうとしていることの方がよっぽど生半可だ。そんなに自信が無いなら交代だ。」
「いや、誰が出てきても島原のゴッドスイングで満塁サヨナラホームランですよ。だから、このままやらせてください。」
「お前の言ってることはめちゃくちゃだ。俺達はプロだ。この試合に自分たちの生活が掛かってるんだぞ。この試合に勝つと負けるとでは、その後の生活が違って来るんだ。そんな試合を分け解らないこと言ってる奴に預けられるわけねえだろう。」
「替えないで下さい。やらせて下さい。」
「駄目だ。何考えているかしれねえが次の球で捕手を立たせるつもりなら交代だ。」
稲葉は返事をしなかった。そんな態度を見てピッチングコーチは、交代のサインを出すためにベンチを振り返った。
「解りました。言うとおりにします。」
稲葉はコーチの背中に呟いた。ゆっくりと稲葉に向き直ったコーチは、はかるような目で稲葉の顔を覗き込んだ。
「本当に解ったんだろうな。お前の持ち味は高速スライダーだ。次の球で臭いところへ思いっきり放れ。島原は追い込まれているんだ、絶対にバットを出してくる。しかしお前の球威なら大丈夫だ。力でねじ伏せろ。いいか次が勝負だ。」
ピッチングコーチは稲葉が頷いたのを確かめるとやっと安心してベンチへ戻った。
コーチは解っていない。島原にゴッドのスウィングを使われれば、どんな球でもスタンドに運ばれる。捕手が座って構えたら勝ちはない。しかし、もう捕手を立たせるわけには行かなくなってしまった。
稲葉は小走りに戻る捕手の揺れる背番号を見ながら、勝てないが負けない唯一の方法を思いついた。サヨナラ満塁弾を浴びるよりはいい。投手として一番罪深い決断である。
捕手が構えに入ると、稲葉は死球を狙ってセットポジションについた。ちょっとの躊躇を振り切って動き出した彼の体は、慣れない狙いのせいか、いつもよりちょっと早いリズムで動き、打者方向への開きが大きくなった。その上半身の開きに帳尻を合わせるため、自然と腕が急がされ、しかも球のリリースポイントがいつもより早く、その結果稲葉の手を放れた球は狙いよりボール2個分右上にそれた。そのお陰で、島原は顔にぶつかる寸前のところで球をかわす事が出来たが、もんどり打って地面に倒れた。稲葉は力が両手の指の間から、するすると逃げていく感覚を味わった。頭が混乱していた。『もう駄目だ。』と『当たらないで良かった。』が交互に彼の頭に飛来した。失意と自己嫌悪の中でバッターボックスを見ると、島原はバットを利き腕に持って、稲葉を見据え仁王立ちになっていた。
稲葉はそんな島原の姿を見て、自分への腹立ちの矛先を島原に向けた。彼は顔を上げ島原をにらみ返した。この二人の様子を見て両軍の選手がベンチを飛び出した。
稲葉はふと死球を狙って投げたのは初めてでない事を思い出した。あれは夏の甲子園。序盤2アウト、ランナー2・3塁で、今大会話題の好打者を迎えた場面だ。タイムをとってボールを掌でこねながらマウンドにやってきた島原が稲葉に言った。
「普通で考えればここは敬遠だな。」
「ああ。」
「でも、全国放送で敬遠はしゃくだよな。」
「同感だ。」
「勝負と見せて外すのも中途半端な気がするし、なんかいい方法はないか考えたんだが、一つだけ閃いた。」
「なんだよ。」島原はにやついた口元をミットで隠しながら言った。「死球だ。」
「おい、高校野球でそういうの止めようよ。」
「いや、ここで軽く当てとけばやつは次の打席で余計なことを考えるようになる。今後俺達に有利だ。これも戦略というやつだよ。監督も日頃から頭使えって言っていたろう。」
「でも。相手が怪我したら大変だろう。」
「向かってくる球を体の何処へ当てるかは打者の技量だ。いいか、1球目をシュート回転であいつの肘ねらって投げろ。」そう言い残すと島原は守備位置へ帰っていった。
稲葉は躊躇しながらも島原の言うとおりに投げた。しかしこの時も躊躇が腕の振りと指の切れに無意識に出た。球筋は打者の肘よりちょっとホームベースよりのコースを走り、シュート回転も不足して打者の手元で落ちた。もちろん打者は1球目から打ち気であったから勢い良く振り出した。バットは球の上部を擦り、球は下方に軌道を変えて直接島原の股間に炸裂した。島原は暫く地面にうずくまったまま動かず、稲葉が駆けつけると目にいっぱい涙をためて途切れ途切れに言った。
「野球の・・神様の・・天罰だ…。」
稲葉は笑いながら言った。
「そうさ、野球の神様は、今の俺達は何も考えずただ思いっきりやるだけでいいって言っているんだよ。きっと。」
どちらが先に笑い始めたのか誰も解らない。しかし、気がつくと二人はそれぞれバッターボックスとマウンドから大声で笑い合っていたのだ。この二人の笑い声にベンチを飛び出した両軍選手とも呆気にとられた。この場違いな笑い声に拍子抜けして両軍選手はベンチに戻り始めたが、ピッチングコーチはそれでは収まらない。なおも稲葉に突進しようとするのを監督が制した。
「ほっとけ。こうなったらどんな結果が出ても、すべて稲葉の責任ということにしなければ、来年の俺達の契約はなくなる。」
両軍選手がベンチに退いた後、しばらくすると球場で動くものは稲葉と島原だけとなった。捕手もサインを出す動きさえ止めていた。守っているナインを含めて、すべてのものが二人の勝負の行く末に集中した。
稲葉は全身で呼吸した。呼吸しながら稲葉の側の空間にあるエネルギーを貪欲に吸収した。貯めるだけため込んだ。音はもはや存在していない。エネルギーでげっぷが出そうになった瞬間、両手を握りしめて体内に栓をした。そのままじっとしていると、程なく詰め込まれたエネルギーが発酵を始め、器であるからだの筋肉がぱんぱんに膨れ上がった。もうこれ以上発酵が進むと体が破けそうになる直前、そのエネルギーの放出の方向をボールを持つ指先に標準を合わせた。見ると島原も体が膨張し、一回り大きくなったように見える。二人の中間の距離にある人工芝が微かに焦げ臭くなった。ゆっくりと稲葉は始動を開始した。それは見方によれば能の舞にも見える。島原はその間微動だにしなかった。島原の足が地面に食い込み、あと1時間も放って置かれたら全身が土のグランドにズブズブと沈んでしまうかのようであった。
稲葉の片足が頂点に達してから、動きは一変した。大きく前に踏み込んだ下半身を、上半身が悲鳴を上げて追っかけてきた。稲葉は硬い球を投げた感覚はなかった。手先にまとわりついていたエネルギーの泡がもの凄いスピードで打者に向かって体から発射された感覚だ。エネルギーの泡に包まれた球に、島原は果敢にバットを振り出した。ボールとバットが振れた瞬間、誰の目に見てもボールとバットが一瞬静止した。バットがきしみながら後ろへしなった。押し相撲はボールが勝ったのかと思えた瞬間、バットのヘッドがしなりの反動で前に繰り出されボールは鋭い打球音とともに空へ弾かれていった。
打球を見なくとも投手は打球音、弾かれた球の角度でその行き先を知る。この勝負はやはり負けたと稲葉は悟った。自然と両手両膝が地面に着いた。惨めな敗戦の姿をマスコミに撮られたくない。そう思い直して体を起こした。精一杯のプライドである。その時初めて音を意識した。大歓声が稲葉の耳をつんざく。見ると捕手がマスクをかなぐり捨てて口をぱくぱくし、両手を広げて稲葉に突進してくるのが見えた。やがてナインがそしてベンチの全員が稲葉に突進してきてその体をぶつけてきた。外野手からウィニングボールを渡されて、初めて島原の打球がフェンス際で失速し外野手のグラブに収まっていたことを知った。
早朝の国営放送のスタジオで稲葉は監督やチームメイトと出番を待ちながら眠い目をこすっていた。前夜のビール掛けから一睡もしていなかった。彼のむちゃくちゃな騒ぎようは一部のチームメイトからひんしゅくを買ったが、稲葉にして見れば勝利の余韻が、やがて神から授かった力を使い切ってしまった自分への虚しさに変わってくるのを防ぎようもなく、その虚しさから逃れるためには余計馬鹿騒ぎをせざるを得なかったのだ。
「いいか稲葉。今度あんな投球をしたら出番は無くなると思えよ。」
監督が彼の耳元で囁いた。稲葉は監督からも嫌われてしまった。
彼はゴッドボールを昨夜使い切った。もう勝利の決め球は残されていない。来シーズン彼のリリーフの成績が目に浮かぶ。大切な場面で救援を失敗し、ファームに逆戻り。そのまま一軍に上がることなく、もっても2シーズン目に自由契約選手。もう何処も彼を拾ってはくれない。仮にどこかのチームが彼を拾ってくれたとしても、もう1軍のマウンドで活躍できる自信が彼には無い。
稲葉達の出番がやってきた。一通りのお祝い言葉やお決まりの勝利監督のインタビューの後、マイクは稲葉に向けられた。
「さて、次は球史に残る勝負の立役者、稲葉投手にお話をお聞きしましょう。昨夜のことでありながらもう、伝説の6球と言われております。誰もが稲葉投手と島原選手のあの6球のやりとりを理解できないのですが、是非ご本人から解説をお願いできないでしょうか。」
さっきの監督の言葉が耳元に残っていた。
「解説しろと言われましても解説のしようがありません。今考えるとあの時の自分は別人のようです。私自身がどうしてあんな投球になったのか理解できません。たった6球ですが、とてつもなく疲れた6球でした。きっと島原くんも同じではないですか。」
そんな返事をしながら、今初めて島原のことを思った。あの時、島原はゴッドスイングを使わなかった。意識して使わなかったのか、それとももう稲葉と対戦する前に使い切っていたのか。
「その島原選手ですが、試合後の談話が届いています。」
画面は収録ビデオに切り替わった。その画面には、帽子を目深に被った島原が、不躾に差し出されたマイクにとつとつと語る姿が映し出されていた。
『最後の1球は会心の一打だった。神から授かった最後の力を振り絞ってスウィングし、バットは稲葉投手の球の芯を打ち抜いた。打った瞬間はサヨナラホームランを確信していたが、思いに反し打球は詰まっていた。完敗です。稲葉投手が神から授かったものの方が優っていたようだ。稲葉投手の投球に心から敬服します。』
島原は神から授かった一振りを使っていた。なのにどうして稲葉は勝てたのか。
「その後の島原選手について、正式に発表されておりませんが、本人は球団に体力と気力の限界から引退をにおわせているようです。今期ベンチ入りしたばかりなのに、神から授かったスイングを使い果たしたとチーム関係者に漏らしているようです。どうも稲葉選手との壮絶な戦いで燃え尽きてしまったようですね。」
その後のスポーツキャスターの質問など稲葉の耳には届かなかった。そして、彼はようやく理解した。
「ちょっといいですか。」稲葉は他のチームメイトに質問しているスポーツキャスターのマイクを奪った。
「島原観てるか。俺達は二人で見た夢について深くは話し合わなかった。結果がついてきたものだからよく考えもしなかった。俺達はどうも10年間も誤解をしたまま過ごしてしまったらしい。日本シリーズの対戦では、俺は2球目でゴッドボールを使い果たしているんだ。最後の1球は何にも頼らない、自分自身の体のすべての力を込めて投げた1球だった。お前はゴッドスイングを使った。お前は自分以外のものに頼った分だけ俺の球に差し込まれた。島原、これは本当の事だ。いいか考えても見ろよ。天から降りてきた神様が、絶対打たれない球とどんな球でもスタンドに放り込むスイングなんてチンケなものを人間に授けると思うか。あの河川敷グランドで落雷を受けた時、俺達は正真正銘死にかけていたんだ。そんな俺達に神様が授けてくれた本当のものは、もう一度野球を心から楽しむことができる命とそして肉体だったんだ。だからこの命と肉体が朽ちない限り、これから何度でもお前と勝ったり負けたりできるはずなんだ。」
それだけ言うと、稲葉はスポーツキャスターにマイクを返し席を立った。
「おい、稲葉。何処へ行くつもりだ。」監督が稲葉を制した。
「急に、ラーメンが食べたくなりました。」彼は振り返りもせず大股にスタジオを出ていった。
アクシデントに慣れていない国営放送のニュースキャスターは、、CMに逃れたりする事もできずにただ返されたマイクを握って呆然としていた。
稲葉と島原の翌シーズンからの活躍は素晴らしかった。トレードに出されたものの新チームでリリーフから先発に回った稲葉は2つの完全試合、そして1軍に定着した島原はサヨナラホームランの日本記録を勲章に、二人はそれぞれのリーグを代表するチームの監督としてまた日本シリーズで顔を合わせた。今度は、彼らが長い野球経験から得た、知恵と判断の闘いであった。
説明 | ||
高校生だった稲葉と島原は、同じチームで甲子園を夢見るバッテリーであった。高校2年の夏、校舎の近くの河川敷グランドでピッチング練習中に、二人の間に落雷があった。二人は同時に気を失い、そして同じ夢を見た。神が二人の前に出現し、稲葉には絶対に打たれない投球10球を、島原にはバットの届く範囲ならどんな球でもスタンドに放り込むスイング10本をそれぞれ与えたのだ。ふたりはその10球と10振を糧にプロ野球の世界へ。しかしそのふたりが、日本シリーズの最終戦で対戦することに。その結果は、そしてそこで彼らが得た神様からの本当の贈り物とは…。 | ||
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