すみません。こいつの兄です。47
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「にーくん、私、隠れて見てるっす」

夕方に妹が言った。

「そうだ…な。たのむ」

事情は、こうだ。

 美沙ちゃんと付き合う気がないのなら、ここでもう一度ちゃんと諦めてもらったほうがいい。美沙ちゃんのためにも、俺のためにも、誰のためにもだ。だけど、美沙ちゃんのヤンデレ気質はわりと洒落にならない。

 俺が美沙ちゃんに告げる現場を妹が隠れて監視する。いざと言うときには、美沙ちゃんをとめるか、間に合わない場合には携帯電話で救急車を呼ぶ。昨日のうちに、ネットで心臓マッサージと人工呼吸の方法を調べておいた。妹の異常記憶能力で手順どおりのCPRが行えるはずだ。

 俺たちは本気だ。今の美沙ちゃんは、心中するとか言いかねない。

 夕方。美沙ちゃんに来てもらったのは、暗渠の上に作られた小さな公園。なぜかというと、病院の裏だからだ。妹は公園にある穴の開いた遊具の中でダンボールを被っている。隠れるならダンボールだ。隠れのスペシャリストで干支とも縁の深いあの人も熱く語っていた。

 

 夕闇が街を覆う頃。

 

 約束の時間より、一時間早く美沙ちゃんがやってきた。

 妹を配置しておいて良かった。いかにも、今やってきましたという風を装って公園が見えるビルから出て、公園に向かう。

「や、やぁ。早いね」

「おにいさんっ♪」

いつもより、少しだけ甘えた声にじんわり脳髄がしびれる。何度見ても何度聞いても可愛いルックスに可愛い声だ、視覚聴覚パーフェクト・ラブリー美沙ちゃんだ。

 美沙ちゃんの人生で失恋があるとしたら、たぶんこれっきりだ。君を振るほど愚かな男は俺だけだよ。本当に、俺はバカなんだ。

「なんですか?大事な話って…」

一歩、歩み寄ってくる。上目遣いで俺を見る。負けるな、俺。

「美沙ちゃん、聞いてくれ!」

おそれるな、俺の心。悲しむな、俺の闘志。

「お兄さん?」

美沙ちゃんの、瞳が揺れる。たぶん、彼女にはもう分かっている。俺がなにをしようとしているかを。この子をまた泣かすのだ。十二月の風が冷たく公園を吹いていく。手のひらにじっとりと脂汗をかく。

 そうだな。

 美沙ちゃんヤンデレ気質でよかった。

 刺してくれていい。

 そのくらいの痛みがあった方がいい。美沙ちゃんの痛みを少しでも感じなくてはいけない。逃げてもいけない。自分が傷つけるその瞳を見ろ。

 美沙ちゃんの瞳を覗き込む。そこに映る残酷な俺を見る。

「美沙ちゃん。もう一度言うよ。俺は、美沙ちゃんとはつきあえない」

美沙ちゃんの瞳にうつる俺の顔が歪む。悲しみに、鳶色の瞳が沈んでいく。

「お兄さん…」

「美沙ちゃんは、とても可愛いよ。ウルトラ可愛い。女子力だってマックスだ。健気だし一途だし、パーフェクトだ。俺だって、付き合えるものなら付き合いたい。だけど、だめだ。だめなんだ」

美沙ちゃんの大きな目に溜まった透明な悲しみが、しずくになって桜色の頬を伝っていく。目を閉じたい。こんな美沙ちゃんを見ているのは、胸を切り裂かれるよりつらい。でも、見ていなくちゃ駄目だ。俺がやったんだ。

 とめどなく、涙を流す美沙ちゃんを見つめる。

 それが、俺の罪なんだ。俺がやったことなのだ。

「お兄さん…かわいそう…」

ちがう。かわいそうなのは、君だよ。美沙ちゃんだよ。

「お、お兄さん…おに…いさん…」

涙に邪魔されながら、苦労して言葉を紡ぐ。それを俺は聞く義務がある。一言残さず。

「…かわい…そう。お兄さん、優しいのに…へ、変態だから…」

美沙ちゃんの悲しみは、俺になにを伝えるのだろう。

「でも…大丈夫…大丈夫ですから」

健気に強がる。いいんだ。強がらなくていい。なじってくれ。俺を。

「お兄さんが、変態で、アタマおかしくて、触手ばっかり出てくるゲームや漫画ばかり読んでても、性欲異常者で、先進国の多くでは二十年以上の懲役でも…」

すばらしいなじりっぷりだ。

「…でも、優しいから…だから」

優しくなんてない。俺は、冷酷だ。こうして、こんなに美沙ちゃんを悲しませて、まだ立っていられるほどに残酷なんだ。世界で一番残酷なんだ。

「…だから、私とつきあわないんですね…」

美沙ちゃんが、目を閉じて瞳に溜まった涙をしぼり落とす。

 そして、充血した目を開いて宣言するように言った。

「でも、大丈夫です!お兄さんが、どんなにアタマおかしくても大丈夫です。私!」

え?

「お兄さん…。このままじゃ私に変態なことしそうだから、そうなる前に遠ざけようとしたんですよね!大丈夫!私、わかってました!」

あれ?

「お兄さんも、優しいから…変態な自分から、私を守りたくて辛い思いしちゃいましたね!でも、大丈夫ですからっ!」

予想を大幅に上回るポジティブ思考。事前に妹と想定していた対応マニュアルが追いつかない。

「え?えっと…美沙ちゃ…」

「大丈夫ですっ!」

大丈夫じゃない。これでは、頑張った意味がない。

「美沙ちゃん!ちがうんだ!」

「ああっ!お兄さん!なんて、優しいの!?そんなに必死になって!さ、行きましょ!」

美沙ちゃんが、対応能力を超えてフリーズする俺の手をつかんで、駆け出した。

 

 遊具の中でダンボールが呆然としていた。

 

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 美沙ちゃんに連れられてたどり着いた先は、俺の家だった。

「おじゃまします」

いつものように、礼儀正しく挨拶をし、靴をそろえて上がる美沙ちゃん。なめらかで上品な所作。足音も立てないで、しずしずと階段を上がっていく。

 電柱トップロープからのフライング変圧器アタックで破壊された影響で、妹と二人部屋になっている俺の部屋に向かう。そこで、ふと気がつく。

 やばい。

 荷物の置き場がなくて、押入れに入れてあった過去のエロ漫画コレクションも机の上に出してあるんだった。美沙ちゃんに更に燃料を投下するのか?ヤミの炎に抱かれて死ぬぞ、俺。

 美沙ちゃんは、そんな俺の焦りを知ってか知らずか、つーか、知ってても聞く耳もたないだろうけど…あんなに明確に振っても聞く耳まったくもっていなかったんだもんね…すたすたと無音で部屋の中に入り、一つも躊躇いなくベッドを乗り越えて俺の机に向かう。

 そして、迷いなく机の上の本をより分け始める。

 普通の本は妹の机の上積み上げられる。

 俺の机の上には、エロ漫画とエロゲが積み上がる。

 あの…その「萌える英単語」は参考書なんだけど…。一応。

「さて…」

美沙ちゃんが、にっこりと笑って椅子をこちらに回転させる。俺はベッドに座って、両拳を膝の上に乗せて判決を待つ。執行だろうか?どっちだろ。

「一つずつ、お兄さんがどうしてこれがいいのか説明してください。ちゃんと、一つずつ、丁寧に、自分の言葉で、ゆっくり、わかるまで、お願いします」

ゆっくりと時間をかけて行う処刑だった。

 一冊目が手渡される。

 真菜、なにしてる。お前の出番だ。こういうとき、乱入してきてうやむやにしてくれるのは、いつだってお前じゃないか。

 だだだだだだだだ。

 来た。騎兵隊のラッパだ。

「にーくんっ!」

「あ、真菜。おかえりっ」

美沙ちゃんが、にっこりと妹の方を振り返る。

「み、美沙っち?」

妹も目を白黒させている。こいつも、そうとうテンパってるな。というか、ひょっとしたら俺以上にテンパってるかもしれない。なにせ、世の中記憶力だけでわたってるやつだ。想定外の事象に遭遇したときには、どうしようもあるまい。

「これから、お兄さんにここにある本のなにがイイのか教えてもらうの。真菜も聞く?」

「……」

妹の目が、つみあがっているエロ漫画コレクションの背表紙を舐めていく。

「あ、美沙っち。これと、これとこれと、これと、これは、私がこっそり買ってにーくんの本棚に混ぜておいた本っす」

どうりで記憶にない漫画が混じってると思ったよ。俺が妹モノなんか買うわけないだろ。バカかお前は…。

「つーか、お前、それ買ってどうする気だったの?」

「にーくんは、少しは妹に目覚めたほうがいいっすよ」

部屋が直るまで、お前と一緒に寝てるんだぞ。目覚めたら大惨事だろうが。

「実妹は、さすがに神様が許しませんよ」

美沙ちゃんが天使の微笑を浮かべる。神様が使わしたと言っても信じそうな可愛さ。殺戮の天使にならないといいな。

「とにかく、まずはこれから」

触手漫画だ。

 そっと小さく開いてみる。

《う”あ”っお”あ”あ”っ》《びくうッ》《ぎゅぷっぎゅぷっ》

 ぱたん。

「無理」

美沙ちゃんの前で、これは無理。

「大丈夫です。私、もうひいたりしませんから。じゃあ私が質問しますから、答えてください」

俺の手から本を取り上げる。開く。

「うっ」

美沙ちゃんが小さく声をあげた。だよねー。そうだよねー。

「こ、これです」

見開きを開いて、見せてくる。女神官が汁まみれで触手に責められている見開きだ。セリフは『あ…ぎッあふああッひやぁあ”ぁ』

「こ、これのどこがお兄さんは好きなんですか?女の子が白目剥いているところですか?それとも、まさかお兄さん触手になりたいんですか?それとも、私が気づいてないなにかがあるんですか?」

「えと…その…」

「どこですか?」

美沙ちゃんは天使だ。ただし、裁きの天使。淫蕩にふけった俺を断罪する。

「そ、その…お、女の子がすごく気持ちよくなるといいなぁってのが…エスカレートした結果というか、なんと言うか…」

「これ、気持ちよくなってる表現なの?この『りゃめええええ』ってセリフ拒絶じゃなくて?なにか外国語なの?」

美沙ちゃんが、心外という表情をする。そりゃそうだろう。

「もっと詳しくおねがいします。ひとコマずつ」

りゃめええええ。

「そ、それは、気持ちよすぎてくせになっちゃうから『だめ』というのが、うまく言えないくらい気持ちよくて『りゃめ』になっているわけで…」

「気持ち悪いだけだと思うけど…こんなミミズみたいの…」

「ほら、そこはフィクションだから…」

「……お兄さん…」

「はい」

「女の子は、こういうの気持ちよくありませんよ」

「ですよねー」

今だから分かる。りゃめえええって言ったのに追い討ちはりゃめえええ、だ。

「じゃあ、これとこれとこれとこれとこれとこれは、捨てます」

天使が淫獣をやっつけた。

 ちらりと、妹に視線を向ける。アイコンタクトで会話する。「(けじめをつけるはずが、なんでこんなことになっちゃってんの?)」「(知らんっす。手に負えないっす)」両手を天にかざして、お手上げポーズ。

「次はこれです」

ファンタジーモノのエロ漫画だ。美沙ちゃんがパラパラとめくる。質疑応答形式に切り替えたらしい。ぱたりと手が止まり、見開きページを見せてくる。巨乳エルフがオークにナニされてるシーンだ。柔らかそうなエルフと肉体を筋肉のマスで描いたオークのコントラストがすばらしい一枚だ。名画だ。

「お兄さんはこれの、どこがいいんですか?」

ふと、俺の脳裏にアイデアが浮かぶ。たった一つの冴えたやり方。これだ。美沙ちゃんが俺に愛想を尽かしてくれるのがいいんだ。美沙ちゃんが、さすがにこいつには付き合いきれないと思わせるのだ。

 いくぞ。

「それはガチムチパワフルなバケモノに、妖精さんみたいなエルフのお姉さんがイボイボつきの巨根でガン突きされてるのがいい。おっぱい鷲づかみもいい。その『ひぎぇっ!』っていう声もいい」

美沙ちゃんが眉根を寄せて、数ページ前からあらためて読み返す。きっとゴキブリを見たときもこういう表情をするのだろう。

 そう。

 それでいいんだ。俺はゴキブリより嫌われる方がいいんだ。

「その前のシーンで、エルフのお姉さんがイラマチオされているのもいい」

「イラマ…って?」

「その顔を押さえて口でしてるやつ」

美沙ちゃんが、今にも吐きそうな顔をしてる。ぐっ。死にたい。

「にーくん…」

俺の意図を察した妹が、カミカゼ特攻隊に兄を送り出す女学生と同じ表情をする。バンザイアタックだ。

「その次に載ってる話も読んでくれ」

片道分だけの燃料を積んだ俺が、旗艦イチノセ・ミサに次々と体当たり攻撃を仕掛ける。

「エルフの女騎士とお姫様を交えた三つ巴だ。やっぱりハーレムは男のロマンだ」

直撃。美沙ちゃんの船体が大きく右に傾ぐ。目眩を起こしたらしい。

「…さ、三人はだめです…」

あと一歩だ。名誉も愛も要らない。この身は目的のための手段に過ぎぬ。俺のイメージの中で、合計推力二四〇〇キログラムの固体ロケットエンジンが点火される。

「その下の本を見てくれ!」

「に、にーくん…」

妹よ、見ててくれ。兄の不退転の覚悟を。兄の散華を見ててくれ。

 美沙ちゃんが『調教姉妹』を手に取る。

 轟音を上げる特攻兵器と化した俺が、空前の速度で突撃する。

「それは、美人姉妹を調教する漫画だ!特にお気に入りなんだ」

「………」

午後五時四十七分。美沙ちゃんがついに沈黙する。

「お、俺は救いようがない変態だからな。三島に聞いてないか?」

美沙ちゃんが、これで男性不信になってもいけない。俺だけが、俺だけが飛びぬけて頭がおかしいのだと信じてもらわなくては…。

「み、三島先輩…?」

そうだ。俺の悪いところを言わせれば三島の右に出るものはいない。あいつの罵詈雑言を思い出させる作戦だ。

「あいつは、俺が修学旅行でどれほど変態だったかを知っているはずだ」

むりやりジャンボフランクを咥えさせようとして通報されたしな。

「三島先輩なんて、関係ありません。三島先輩より私の方がずっとお兄さんのこと好きです!三島先輩なんかに負けません」

あれ?おかしいな。

 妹が、あちゃーという顔をしている。

「と、とにかく。お兄さん…。こ、この本は全部借りていきます。というか、没収します」

「だめ」

「なんでですか?この本で、お兄さんなにをするんですか?」

美沙ちゃんは手を止めない。俺はその本でナニをするんだ、という駄洒落は通じる雰囲気ではない。というか、そういう駄洒落の通じる雰囲気というのがどうやったら出来上がるのか想像がつかない。

「そ、それは…」

「だめです。持って行きます。二度と、お兄さんには見せません」

ひどい!それ、一冊八百円くらいするんだよ。

「美沙っち!それは駄目っす。にーくんが、家族全員寝静まった後、こっそりスタンドの明かりだけをたよりに、その本を見ながら、なんだか息を荒くしてたりするっすけど、別に誰の迷惑にもなっていないっす。だから、にーくんの勝手っすよ。あえて迷惑と言うなら、隣の部屋の壁越しに『うっ』とか聞こえてきてキモいくらいっす!あと、だいたい一日半に一度のペースっす」

妹が助け舟を出した。ついでに俺の心に言えることのない傷跡を残す。

「どう考えてもだめ」

しかも助け舟で救助できてない。トラウマ損だ。美沙ちゃんが俺のコレクションをざくざく紙袋につめて行く。持って行っちゃうのだろうか…。

「み、美沙ちゃん、待って…」

「なんです」

目が冷たい。軽蔑されるところまでは成功したといっていいのだろうか。でも、愛想を尽かすところまではたどり着いていない。一番まずい状態だ。

「…その紙袋の底が、駅のホームで抜けたりしたら大惨事だ」

「美沙っちほどの超美少女がエロ漫画を駅のホームにぶちまけたら」

「スレが…」

「………」

美沙ちゃんの手が止まる。

「はい」

美沙ちゃんが、エロ漫画とエロゲを詰め込んだ紙袋を俺に差し出す。返してくれるのだろうか。

「お兄さん。うちまで持ってついてきてください」

そういうわけではなかった。紙袋の底が抜けたら、あっというまに他人のフリをするのかもしれない。

 

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 かくして、俺は心に傷を負い、美沙ちゃんに軽蔑され、かといって当初の目的を果たして、美沙ちゃんのヤンデレ状態を解消できたわけでもなく、完璧なまでの犬死。犬死にゾンビが美沙ちゃんの後をエロゲとエロ漫画の詰まった紙袋をぶら下げて歩いている。

「美沙ちゃん」

「なんです?」

「犬はゾンビ」

「え?…ま、まぁ、ゾンビゲームってたいてい犬ですよね」

「猫は化け猫」

「あー。そうですね。猫ゾンビはいないし、犬が化けて出たりもしなさそうですね。それがどうかしたんですか?」

「いや。犬死した俺は、ゾンビになるべきか化けるべきかなと思ってさ」

「蝶になるといいと思います」

「蝶?」

「芋虫が終わりを感じるとき、蝶は始まりを感じるんです」

「かっこいいな」

「でしょ。お兄さん。そういう漫画だけじゃなくて、もっとかっこいい映画とか一緒に見ましょうよ。二人で、手をつないで見に行きましょう」

ほわぁぁー。かわいい。これ、もうやっぱり美沙ちゃんと付き合っちゃって幸せ一杯でいいんじゃないかな。なんでこの子に振られなきゃいけないんだ。

 なんでって、そりゃ。真奈美さんだ。

 真奈美さんが邪魔なわけじゃない。

 俺は、始めてしまったんだから、真奈美さんに友達ができて独りでやっていけるようになるまで傍にいなきゃいけない。

 俺が始めたことだからだ。

 うん。そーだ。

「だめだってば」

「……」

俺が、そう言うと、また美沙ちゃんは表情を消してすたすたと前を歩いてしまう。リズミカルに揺れるサラサラの黒髪を見つめてついていく。

 電車に乗っているときも美沙ちゃんは無言で足元を見つめていた。

 電車から降りると、そのまままたすたすたと歩いていく。

 ひょっとしたら、これが美沙ちゃんと歩く最後の道かもしれない。美沙ちゃんと歩く最後の思い出が紙袋一杯のエロゲとエロ漫画とは…。リアルにはロマンの欠片も落ちてない。

「ただいまー。あ、お兄さんも上がってください」

「へい。おじゃま…します」

「居間で待っててください」

固い表情で美沙ちゃんが告げる。度し難い変態は、二階に上げるわけにはいかないと言外に告げられているような気がする。おとなしく居間のソファに座る。

…………。

…………。

…………。

暇だ。

時計を見る。秒針が滑らかに動いている。コチコチ音のしないタイプだな。そういえば、あのコチコチという音は、エスケープメントという機構の音だと三島が教えてくれたっけ。いつのことだっけ…。

 うわっ!

 びっくりした!ソファの横のカーペットに真奈美さんがいた。体育座りをして、魔眼状態で俺をじーっと見ている。

「や、やぁ、いつからいたの?」

現れたのに気がつかなかった。無音で移動したの?どどどっどん、どどどっどん。驚いた余韻で心臓が十六ビートを刻んでいる。

「美沙となおとくんが…来るの見えた…から」

「あ、窓から?」

「うん…ちょうど、窓拭いてたの」

「あー。真奈美さん、部屋、綺麗にしてるもんねー」

CGと同じくらいに。

「うん。部屋…掃除してある…」

「そっかー」

「お風呂も…毎日入ってる…」

「ん…」

ああ、そうか。そう言えば、部屋の掃除してたら、また部屋に来てくれるかと聞かれてたっけ。

「真奈美さんの部屋に行ってもいい?」

こくり。

 無言で頷く。

 無音で真奈美さんが歩く。その後について二階に上がる。美沙ちゃんの部屋の向かい側、真奈美さんの部屋。美沙ちゃんの部屋の様子を耳だけでうかがう。なにやらガタガタと音がする。何をしているんだろう。

 真奈美さんの部屋に入る。

 相変わらずCGみたいな部屋だ。サッシの隙間をそっと覗いてみても、チリ一つ落ちていない。

「こことか…どうやって掃除しているんだろ」

「筆で…」

そうか、筆か…。年末の大掃除に!と掃除道具推しなホームセンターでも筆は売ってなかったな。

 真奈美さんが、無言で床の上にクッションを敷いてくれる。ありがたく座らせてもらう。

「お茶…淹れて来るね…」

そう言って、真奈美さんが部屋を出て行く。

 手持ち無沙汰になり、キョロキョロと部屋の中を見渡す。本棚にはレーベル順、著者名順に並べられた小説と漫画。机の上には、買いなおした新しい教科書とノートがきっちりと立てられている。これまたぴっちりと教科名順だ。ノートの背表紙にまで、極細のペンで教科名が書き込んである。一冊だけ、机の上に表紙を上にしておいてある。見覚えのあるノートだ。学園祭の前に真奈美さんが、ちまちまちまちまと夜の森を描いていたノートだ。

 ……。

 ……。

 ちょっとだけ、見せてもらっちゃおうかな。

 ぺら。

 ノートを開く。一ページ目は、鉛筆で真っ黒に塗りつぶされている。ノートの表紙の裏側に鉛筆の黒鉛が移っている。二ページ目と三ページ目の見開きには、真っ黒に塗りつぶされた闇の中に無数の目が描いてある。

 なにこれ。こわい。

 他人のノートとか勝手に見ちゃいけない。ノートを閉じて、クッションの上に戻る。そこに、お盆にティーカップと大き目の帽子みたいなものを載せた真奈美さんが戻ってきた。一度廊下の床にお盆を置いて、ドアを開けてから中に入り、またお盆を置いてドアを閉める。だいたいの挙動が個性的(婉曲表現)なのに、こういった所作は上品さの片鱗を見せる。美沙ちゃんも上品だし、やはり市瀬家はうちと違って上流階級だ。家の大きさとかは、うちと変わらないんだけど貴族様だと思う。きっと、こういう所作を身に着けている人たちは、ホームレスになっても上流階級なのだろう。

 真奈美さんが、ぶつぶつとなにか言っている。

「ひゃくごじゅうろく、ひゃくごじゅうなな、ひゃくごじゅうはち…」

邪魔しないでおこうかな。

 真奈美さんが、帽子みたいなものを取り除く。中には白いティーポットが入っていた。あ、あれが、えっと、なんだっけ。そうそう、ティーコージーだ。初めて見た。うちでは使わない。

「…ひゃくななじゅうご、ひゃくななじゅうろく、ひゃくななじゅうなな」

真奈美さんのすらりと長い指が、無音でポットを取り上げる。カップの上にかがみこむようにして、ゆっくりと回しながらカップに注いでいく。ふんわりと赤い色とともに、ほんのりとした香りが立つ。カップ一杯でぴったり終わる。最後の一滴がぽつんとカップに波紋を広げる。

「ど、どうぞ…」

ついっと、カップが差し出される。

「いただきます」

なんか、緊張するな。紅茶なのに、茶の湯っぽい緊張感。茶道なんてやったことないけど。

 熱い紅茶をそっといただく。

 真奈美さんが淹れてくれる飲み物は、紅茶まで別格に美味い。ふくよかに香る紅茶に、緊張しっぱなしだった神経が解きほぐされていく。

「真奈美さんの淹れてくれる紅茶は、おいしいな」

「…そ、そう?」

真奈美さんの首の角度がちょっと増して、うつむく。

「真奈美さんは、自分では淹れないの?」

「…じ…自分のは…午後の…あれ…一リットルの…」

「なんで?」

「…ペットボトルあると便利…だったから…」

あー。そういえば、半年前までは汚部屋に引きこもっていたんだったっけね。ってか、ペットボトルって女の子のひきこもりでも便利なのか。ワンダーワールドだな。

「真奈美さん、今度紅茶の上手な淹れ方教えてよ」

「…?う、うん?わ、私のは普通に淹れただけ…ど?」

「普通って?」

「…軟水のミネラルウォーターを沸かして…ポットとカップを熱湯であっためて…。ティースプーンで葉っぱの大きさ見ながらポットに入れて…。ポットにお湯を注いで…ティーコージーを被せて、百七十七秒数えて、五秒かけてまわしながらカップに注いで、最後のベストドロップまで入れるだけ…」

「う、うん?ちょっと待ってね。め、メモ取るから…」

「あ…。か、書く…よ」

真奈美さんが、机に向かう。机の上に立ててあるルーズリーフから一枚取ると、シャープペンシルで机に屈みこむようにして書き始める。

 そこに、ドアをノックする音が聞こえた。返事を待たずに、美沙ちゃんがドアを開ける。

「お兄さん。こっちに居たんだ…」

「ん。居間に一人でいても暇だしね」

「お姉ちゃんといて、楽しい?」

微妙な質問だな。楽しくはないけど、心地はいい。なにも話していなくても、ひとりで黙って座っているのと、真奈美さんの近くで黙って座っているのは違う。

「ひとりでソファに座っているよりはね」

「…そうですか」

美沙ちゃんが視線を机にかじりついている真奈美さんに向ける。

 真奈美さんが、身体を起こして書きあがったルーズリーフを少し持ち上げて検分する。検分するほどのものなのか…。

「できた…はい」

「ありがとう」

「お姉ちゃん、なにそれ?」

肩越しに覗き込む美沙ちゃんが尋ねる。美沙ちゃんの顔が近くて、少しどきっとする。

「ま、真奈美さんに紅茶の上手な淹れ方を書いてもらったんだ」

真奈美さんのメモは丁寧だった。ヤカンやポットのイラストつきで描いてある。フォルムは丸っぽくてかわいい。だけど、ゴリゴリと強いコントラストで影をつけすぎているのは少し怖い。

「それだけ?」

美沙ちゃんの目が冷たい。俺が真奈美さんと一緒にいちゃいけないのか。

「それだけ」

「…ふーん。…今回だけは許してあげます」

執行猶予、という四文字熟語が脳裏をよぎった。

「それと、お兄さん。これ…特別にあげます。絶対に自分の部屋でひとりのときだけ見てください」

美沙ちゃんが、封筒を渡してくれる。なんだろう。

「きゃーっ!なんで、開けようとするんです!」

ちょっと開けようとしたら、美沙ちゃんがザ・ワールドを発動させて俺を阻止する。ぎゅうぎゅう爪を立てながら、かわいらしい顔に精一杯厳しい表情を浮かべて言う。

「絶対に!自分の部屋で!ひとりのときだけ!開封してください!いいですねっ!」

「わ、わかった…」

「と、取り扱い説明書も入ってますから、帰ってから見てください!」

そっか、なにか説明書が必要なものなのか。

「それじゃ、帰るね…。あのさ…」

あの至玉のコレクションとは、これっきり会えないのだろうか…。後ろ髪を引かれる思いだ。

「なんですか?」

「本とゲームは…」

「もう、お兄さんには不要です」

断言された。これ以上、粘ると切断されそうなオーラを感じたので食い下がらないでおく。

「真奈美さん、紅茶と淹れ方ありがとう。またね」

「……うん。ま、また、き、来てね」

真奈美さんが前髪の間から、瞳を覗かせて言う。少し微笑んでいるようにも見える。そうだな。真奈美さんに、部屋を綺麗にしていたら遊びに来てくれるかと聞かれて、うなずいたんだった。たまに遊びに来なくちゃ嘘つきになってしまう。たまに遊びに来ることにしよう。

 

 そう思いながら、厚みのある封筒とルーズリーフを一枚持って市瀬家をあとにした。

 

(つづく)

説明
妄想劇場47話目。一週間も空いてしまいました。もうしわけない。うまい区切れ目がみつからなくて、分量が増えました。

最初から読まれる場合は、こちらから↓
(第一話) http://www.tinami.com/view/402411

メインは、創作漫画を描いています。コミティアで頒布してます。大体、毎回50ページ前後。コミティアにも遊びに来て、漫画のほうも読んでいただけると嬉しいです。(ステマ)
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コメント
まっくすさん、コメントありがとうです。美沙ちゃんがヤンデレて、まともな人がひとりもいなくなりました。三島由香里ちゃんは、多少まともかな?(びりおんみくろん (ALU))
更新乙です 美紗ちゃん何渡したんだろ?ヤンデレだからますます気になるw(まっくす)
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