〔AR〕その23 |
十一月に入り、幻想郷の紅葉は後半戦を迎えていた。確実に木々は木枯らしの誘われるままに裸となっていく。
人里のほぼ全ての家で、火鉢とその燃料が倉庫から顔を出し、往来の人々の装いも厚着に変わった。
稗田家の庭の木も鮮やかな色はまばらになり、枯れ葉の絨毯を掃除するのが使用人の日課になっていた。
そして稗田阿求は、色あせていく庭を眺めるのが最近の日課だった。
秋祭りが終わってから今日まで、阿求は家に閉じこもりがちだった。秋祭りの当日に具合が悪くなって寝込んだのが直接的な要因だが、体調不良が継続しているわけではない。
あの祭りの日以来、阿求の時間は止まったかのようだった。何をしても手につかず、食事もあまり進まない。紅茶を嗜むことも少なく、レコードを聴くこともないので、家の者たちは一様に心配していた。
しかし、阿求は誰にも何も語らない。口数も少なくなっているため、周囲の者たちはほとほと困りつつも、彼女を見守るしかなかった。
「ごきげんよう」
「――お久しぶりです」
ある昼下がり、やはり縁側で庭を眺めていた阿求の元に、紫が現れた。
「あまり顔色がよくないわね」
「ちょっと、考えごとをしていまして」
「古明地さとりのこと?」
阿求ははっと紫を見る。紫は、扇子で口元を隠しており、表情は窺えない。
「彼女、やはり祭りに来ていたのね」
「やはり、といいますと」
「白状するとね、古明地さとりが『Surplus R』だということ、薄々感づいていたのよ。仕事柄、バイオネットの端末使用記録で推測がついてしまってね」
「――そうだったんですか」
「言った方がよかったかしら?」
「いえ、その点について、紫様が負う責任はないでしょう。むしろ、言ってしまったら、それはそれで面倒なことになったのでは」
紫はパチンと扇子を閉じて、苦笑を見せた。
「元気はないのに物わかりだけはいいわね、貴方は。ええ、そう、立場上、匂わせるようなことも言えなくてね。けれども、それはそれ、ね」
言外で、紫は「古明地さとりと稗田阿求が出会うのを止めるべきだったか」と聞いたのだった。
そう推測した阿求は、おそらくこの妖怪が、秋祭りに阿求が体験したことも把握済みだろうことを確信した。
「では、私の疑問に答えていただけるでしょうか?」
「なんなりと」
「気分が落ち着いてからずっと考えていたんです。よくよく思い返せば、古明地さとりは、私を見て恐れていたような様子でした。それが、ずっと引っかかっているんです」
阿求は、家に閉じこもりながら、あの時のさとりのただならぬ様子を、記憶を頼りに分析していた。当時の阿求は、さとりの異様さに恐怖を抱いた。が、改めて考えると、むしろさとりの方が恐怖に顔を歪ませていたような気がしてならないのだ。
「ああ、なるほど」
紫は閉じた扇子で手袋に包まれた手のひらを叩いて、すぐに答えた。
「それは、貴方が御阿礼の子だからですわ」
「――ちょっと待ってください。外見はごく普通の人間である私を見て、誰が恐れを抱くというのでしょう。時々寺子屋の初等部の子供たちにさえ舐められることのある私ですよ?」
「頭の回転が鈍いわね。糖分かカフェインが足りていないのではなくて?」
突如、正座する阿求の膝元に、淹れ立ての紅茶のティーカップがソーサーごと出現した。慌てる阿求を後目に、紫は同様のティーカップに口を付ける。
「おごりよ。まずは飲みなさい」
「いただきます――」
仕方なしに、阿求はカップに口を付けた。かなり上等な茶葉らしく、非常に口当たりが良いと共に、芳醇な甘みが阿求の中に染み渡った。少し、気分が晴れやかになった。
「さて、飲みながらでいいから聞きなさい。覚り妖怪が『見る』といったとき、それは光を捉えることだけでないのは、おわかり?」
「はい。覚りは、他者の心をのぞき見ることができます。それがどのように受け取られているか、私には理解できませんが」
「そう、何を読みとり、そこから何を受け取るか。答えを言ってしまうと、古明地さとりは、人間の起きている部分の記憶しか見ることはできない。それはその人間の記憶の一部にすぎず、そこにとどまっていないものは、心の奥底に沈んでいるか、消え失せている――つまり、忘れているということ」
忘れている。その言葉が阿求にとって鍵となった。しかし、紫はまだ語ることがあるようなので、阿求は待った。
「しかし、顕在意識の記憶情報だけでも、それは十分に量が多いもの。仮に常人が覚り妖怪の視点を持ってしまったら、よくて発狂、悪くて脳神経を自壊させてしまうでしょうね。覚り妖怪は、それだけの情報量に耐えられるだけの体のつくりをしているはず」
「ですが、それとて限度がある――そうですね?」
「もうわかっているようね。御阿礼の子。忘れることのできぬサヴァン」
紫は唇を真一文字に引き締めて、阿求の瞳を見た。
「さとりから見た貴方は、まさしく今言った、覚り妖怪の視点を持った常人そのものだったのではないかしら。生まれたときから体験する全てを記憶に収めている貴方の顕在意識の情報量は、想像を絶する。私も、貴方の心だけは絶対に覗きたくないわ」
「いつも人の心を垣間見ているようなお方が、妙なことをおっしゃる」
普段なら笑っておどけるところだったが、阿求は真剣に紫を見返した。
「調子が戻ってきたようね。疑問はこれで解消した?」
「――はい、あの日、古明地さとりは私を恐れ、その姿を見た私は古明地さとりを恐れた。そういうことだったんですね」
言葉にしてみるとなんと味気ない、そして無情な話だろうか。だが、紫が居なければ、阿求はそこにたどり着くことはできなかっただろう。
そして、その先のことにも。
紫は、彼女にしては非常にわかりやすく、あからさまにせっついた。
「疑問が解消して、全ては終わると?」
「そんなことはありません」
阿求はティーカップとソーサーを床に置いて、強く拳を握り締めた。
「私は取り返しのつかないことをしてしまいました。ですが、それを贖う術がわからないのです」
「どうして?」
「例えばです。今紫様に頼み込んで、地霊殿に直通で行けるとしましょう。それで、さとりさんにどういう顔をして会えば良いというのですか?」
会うだけで、相手を傷つけてしまう。それがわかっていて、なお面会する勇気は、今の阿求にはない。
「手紙を出すにしても、謝罪したところで、かつての『Initial A』と『Surplus R』の関係が戻せるとは思えません……謝れるのならば、どのような形であっても謝りたいです。でも、今は何をやろうとしても、己の行動に自信が持てないんです……」
祭りが終わってから、本当に考え続けていたのが、それだった。しかし、考えるほどに、自分には手立てが無いことを痛感することの繰り返しだった。
阿求は、無力さと共に唇を噛み締める。
「……重傷ね」
「……そうみたいです」
紫は隙の無い表情のままだ。久しぶりに、いや、今代の御阿礼の子としては初めて見た、戯れを纏わない八雲紫だった。
飛び飛びの記憶とは言え、長い付き合いだ。紫は紫なりに、自分のことを心配してくれるのだと、阿求は実感する。
「これが貴方の命に関わることであれば、私も躊躇なく手を出すでしょう。だけれど、つまるところ貴方達が抱えているのは個人間の領域を出ない。貴方も、さとりも、あらぬ他者の介入など望まないはず。そうすると私は見守るしかないわね」
突き放す物言いだが、真理だと阿求は思う。これもまた、紫なりの阿求への助け船だ。
「時間を割いて頂いて申し訳ありません。しかし、実際その通りです。今は、紫様のお力を借りても、良くなる気はしないのです」
「いいのよ。元より私は万能でも全能でもない……いや」
阿求のものも含め、ティーセットが全て虚空に消える。そして紫は、己の背後にスキマを形作った。
「仮にそうだったとしても、私は人様の心の問題に首を突っ込むほど、くだらない妖怪じゃないわ」
「お帰りですか?」
「バイオネットが休止して少し落ち着いたとはいえ、まだ仕事は残ってるからね。もしかしたら、今年はもう人里に来ないかもしれないわ」
「そうですか……どうぞ、お疲れの出ませんように。そして、ありがとうございます」
「阿求、落ち着いて周りを見なさい。私なんかよりも、貴方を導いてくれる存在は、確かに居るはずだから」
その言葉を最後に、紫は阿求の前から姿を消した。
紫の消え去った空間から目を離し、阿求は改めて庭を見る。
ただ、そこに見るべきものはない。流石に一週間以上見続けてきたのだ。日ごとの変化を照合していくことにも飽いた。
まだ、先は見えない。しかし、紫が訪れてくれたことは、阿求にとって間違いなく救いとなった。
「……少し、出かけましょうか」
引きこもりすぎて、足が萎えてしまってないか不安だった。
一方、地霊殿では。
「こいし様、これでどうでしょうか」
「いいんじゃないかな。あと、ゴミは後でちゃんと分けておいてね」
こいしは、ゴミを片っ端から猫車に乗せるお燐と共に、部屋を見渡す。
ここは、さとりの部屋だ。いや、今は部屋だった、と言うべきかもしれない。
もう一週間以上前、この部屋は見るも無惨に壊れてしまった。部屋に置かれていた様々な調度品は破損し、今日、ようやくそういった損壊物がおおむね撤去され、清掃も終わった。
残ったのは、倒されなかったいくつかの棚と衣装箪笥、傷みの少なかった書斎机、そして最も綺麗な姿を保った、天蓋付きベッドだ。こいしの目算では、この部屋にかつてあった格調高い調度品の内、三割以上はがらくたとなり果てたのではないだろうか。都合良く代替品が存在しているということもない。
おかげで、部屋の様子は変にすっきりして、落ち着かない。単純に空間が存在するだけでは居心地の良さにはならないということが実感できる。この空間の広さは、自分の部屋に近いはずなのだが。
「でもま、寝室としては十分かな――」
こいしは天蓋付きのベッドを見て、あくびを抑えられなかった。このベッドは、天蓋こそ外しているもののこいしの部屋にも同じものが置かれている。ダイブした時の心地よさは骨身にしみている。
しかし、自分の部屋のベッドに寝ている人物のことを考え、こいしはそれを実行には移さなかった。
「そもそも、しばらくこの部屋使わないかもしれないしね――」
「そうだ、こいし様」
「なあに?」
「本と紙類はなるべくまとめておくのはいいとして、バイオネット端末の残骸はどうしましょう。見た感じ、木と金属とガラスが混ざってるんですが」
ああ、それか、とこいしは頭をひねった。
こいしはバイオネットについて詳しく知らないうちに時を過ごしてしまったが、あれは元々スキマ妖怪から押しつけられるように貸与された代物だという。破壊したときの責任の所在は、おそらくさとりに聞いてもわからない。
いや、今のさとりに対しては、バイオネットがらみのことを聞くのもはばかられた。
「とりあえず、それの残骸だけわかるようにひとまとめにしておいて。何を言われるにしろ、現物の名残があった方が少しは印象も違うでしょ」
部屋が凄惨な有様となっていた間、さとりはこいしの部屋に移って時を過ごした。あの日の夜は、さとりの部屋で眠りについた姉妹であったが、流石にずっとあのような状況で過ごすわけにもいかなかった。
とはいえ、部屋の片づけが済んだとしても、さとりがまたすぐ部屋に戻るかは疑問だった。
「……こいし……こいし……どこにいるの?」
か細い声が、ドア越しに聞こえてくる。
「……お姉ちゃん、起きたみたい。お燐、後はちょっと任せるわ」
「あ、はい、わかりました……」
こいしはお燐に軽く頭を下げた後、部屋を出た。
頭を巡らせると、左方向の角から、おぼつかない足取りのさとりが姿を現した。
「こいし……」
さとりはすぐにこいしに気づき、よたよたと駆け寄ってきた。
そして、食いつくように、こいしの体に抱きついた。
キスができてしまいそうなくらい近づく姉妹の顔。半泣きで安堵の表情を浮かべる姉の顔を、こいしは気づかれないような角度で悩ましげに見る。
さとりの顔面はガーゼと絆創膏に覆われていた。隙間から、自傷の跡が未だ生々しく残っているのが見える。化膿こそしていないが、爪でひっかいた痕は赤いペンキの刷毛を振るったかのようだ。また、こいしの服の背中を掴む手は、包帯でぐるぐる巻きだ。
「ああ、ごめんねお姉ちゃん。寝ている間に終わらせるつもりだったけど、時間がかかっちゃった」
「うん……うん……」
「大丈夫だよ。私はどこにもいかないから」
あやすようにこいしは言う。さとりはそれに応え、一層こいしに体を密着させた。
祭りの日が過ぎてから、さとりはずっとこの調子だった。とにかく、一時たりともこいしから離れようとはしない。最初の数日は、視界にこいしが存在していないと赤子のように泣き出し、夜泣きさえ起こしていた。
このため、こいしは祭りの日から今日まで、さとりが起きている間は彼女に付きっきりにならざるを得なかった。自由に動けるのはさとりが寝ている間のみであり、さとりの部屋の片付けが遅くなった遠因でもある。
こいしはそれ自体はかまわなかった。今のさとりには誰かが寄り添っている必要があると、誰よりも感じているからだ。
それでも、暗泥としたものが内心に溜まっていく。
もしも、この先もずっとさとりがこのような状態のままでは、遠からず無理が生じてくるだろう。その時になって、自分たちだけで地霊殿を維持できるのか?
是非曲直庁からの仕事も、資産の管理も、今までは全てさとりが一人でやってきたことだ。いづれ、誰かがそれを引き継がなければならない。
「さ、もうお昼だし、食堂に行って何か食べよう」
考え込んでしまう前に、こいしは抱擁を解いて、さとりの手を取った。朝から部屋の片づけをしていたので、こいしは空腹だった。さとりも、ここ一週間以上満足に食事をとっていない。
「うん……そうだね……あ」
こいしに手を引かれて歩きだしたさとりは、何かに気づいて、角の先を指さした。
「チャッキー、チャッキーだわ。もう、どこに行っていたのかしら」
「チャッキー……」
こいしはその名前をつぶやきながらさとりの指さす方を見た。通路を壁よりに駆ける、シマリスが居た。
居た。というのは間違ってはいない。だが、正確にはそれは。
(……また、増えてる)
こいしは背筋が冷えるのを感じた。
シマリスのチャッキーは、五年ほど前に寿命で死んでいる。
にもかかわらず、今、姉妹の目には、壁際を這いつくばるシマリスの姿が見える。
さとりはこいしの手を引っ張って、チャッキーに近づく。すると今度は。
「あら、ヘイヘとライデンね。今日も仲良しさん」
角を曲がった通路の先から、四つ足でのしのしと歩くグリズリーのライデン、その背中でふらふら揺れるケワタガモのヘイヘが現れた。
その二匹のペットも、それぞれ数年前に、地霊殿の住人と死に別れたはずだった。
「ライデン、足下にチャッキーがいるから気をつけてね。こいしも、注意しましょう」
「う、うん、そうだね」
(どうなってるんだろう、本当に)
はじめは、さとりが精神的ショックのあまり幻覚を見ているのかと思った。仮にそうだったとしたら、それはそれで深刻な事態であったが、実際はまた別の話だった。
さとりが過去に死んだペットの幻影を見るとき、こいしもまた、おそらくさとりと同じものを見ている。
こいしは、祭りの数日前に自室で見た、アルフレッドの幻を思い出さずにはいられなかった。あれは一度きりであったが、強烈に印象に残っている。
さらに奇怪なことに、彼らの幻影は、あの青白いアルフレッドの幻影と比べると、格段にリアリティが増していた。姿形はおろか、色合いや質感までが生前そのままの生き写しであり、目をこらして僅かな不自然さを見抜くか、触れようとして実体がないことを確認しなければ、幻影だと判断できないほどだ。
これらは、アルフレッドの時と同じ現象なのか? だとすれば、よりリアルに現れているこの状況は、一体何を意味するのか。
考えるこいしをよそに、さとりが手を伸ばすと、チャッキーは優れた跳躍力で手のひらにのり、腕伝いにさとりの肩にまで移動した。
一方歩み寄ってきたライデンとヘイヘは、さとりとこいしの目の前で立ち止まり、二人のために道を空けるかのように壁際へと退いた。
「みんないい子ね。それじゃあ、一緒に行きましょう」
「……そうだね」
こいしは、改めてさとりの手を引いて歩みを進めた。
しかしこいしは疑問に思う。今、自分は本当に姉を先導しているのか? 実は、姉の方に引き寄せられているのでないか? 今のような幻覚を共有しているとき、こいしにはそのような錯覚が拭えない。
一度だけ、こいしはこのような死んだペット達の姿を幻であるとさとりに指摘したことはある。だが、さとりは力ない一笑でそれを伏した。
――みんな、いるじゃない。
その一言で、こいしは言及をやめた。あまりしつこく訂正しようとすれば姉がまた泣き出すかもしれないし、なにより、こいし自身も幻影を認識してしまっているのだ。躍起に否定して、得るものはなにもなかった。
だが。
(何なんだろう。この胸騒ぎは)
この一週間、度々こいしの心に去来するもの。姉が傷ついていることとは別に、こいしには言いしれぬ不安感があった。
幻のペット達は、何も語らない。元よりこいしは心が読めない。
心が読めるはずの姉は、このペット達に、何を感じているのだろう。
こいしは、解決する糸口のない疑念と、ひたすら格闘するのだった。
「いらっしゃーい――あ、阿求!」
鈴奈庵の扉が開かれた瞬間、店番をしていた小鈴は来客に驚いた。
「こんにちは。久しぶりね」
「もー、どうしたのよ、祭りの日からずっと見かけなかったから、何か重い病気になったのかと」
「ごめんごめん。珍しく体調を崩しちゃってね」
阿求は気恥ずかしげに小鈴へ微笑んだ。まだどことなくぎこちないため、小鈴は心配そうに聞く。
「ほんとに大丈夫? 掃除しているとはいえ、家はごらんの通りこういう店だから、あんまり空気がいいとは言えないし」
小鈴は両手を広げて鈴奈庵の店内を示す。彼女の言うとおり、清掃は行き届いているが、店内は薄暗く、古い本独特の臭いが立ちこめている。人によっては雰囲気に酔ってしまうかもしれない。
「うちの書庫だってにたようなものよ。むしろ、本に囲まれてる方が落ち着くわ」
「まー、ならいいんだけどさ。あ、あとで麟のところにも顔出しなよ? 確か、何度か見舞いの花を寄越してるとか言ってたし」
「うん、そのつもりよ」
阿求は、ソファーに座って少し息を吐いた。やはり、思ったよりも引きこもりのツケがきているようで、家からここまで歩いてくるだけでも結構な疲れを感じる。
「さて、うちに来たということは、本が目当てなんだろうけど――残念ながら、今のところ新刊は入ってないのよねぇ。バイオネットも休止しちゃって、印刷の仕事も減ったしね」
小鈴は阿求から進められてバイオネットを利用するようになった口で、主に彼女はバイオネット上で公開されている文学作品を収集していた。
また、小鈴は家族に頼み込んで、バイオネット関係の印刷と印刷物の販売を鈴奈庵で行うようにした。バイオネットがサービスを行っていた約四ヶ月間、鈴奈庵は本業の貸本よりも印刷業の方がはかどっていたほどだった。
「忙しかった反動か、バイオネットが休みに入ってからというもの、退屈でねぇ。それで新しい本もないとなると、もう暇で暇で」
「もう冬が間近だし、紅魔館で本でも借りてきたら?」
「うーん、それもありな気がするけど、流石に霊夢さんでも捕まえないことにはちょっと怖いなぁ」
ぐたり、と小鈴は番台に突っ伏した。小鈴は忙しくない時の店番が主で、その間の暇つぶしに本を読んでいるのが日常である。何も手についていないところを見ると、本当に読む本がないのだろう。
「じゃあ、少しの間私がおしゃべりにつきあってあげるわ。麟はまだ寺子屋に行ってる時間だしね」
「病み上がりの割には気が利くじゃない――あ、そうだそうだ」
小鈴は布がずり落ちるように体を番台の下に沈めた。数秒、ごそごそとした音がしたかと思うと、本の束を抱えて立ち上がった。
「ほんとは、そのうち見舞いがてら持っていくつもりだったんだけど――」
「その本は?」
「ついこの間在庫の棚卸ししてたら、ちょっと気がかりなものが出てきてね――今日は、その話をしよう」
小鈴は番台を回り込み、ソファー前のテーブルに抱えていた本を卸す。手ぶらになった小鈴は、手近にあった椅子を引き寄せ、阿求と対面する形で座る。
「どれでも好きに手に取ってみてよ――さて、ことの始まりは、バイオネットが休止した翌日。つまり今月の頭ね。バイオネットが休止したもんだから、一度それ関係の商売道具とか、紙の在庫を片づけるので、大変だったんだよ」
貸本屋という性質上、鈴奈庵は月一の棚卸し業務は非常に重要、かつ面倒な作業であった。現物を確認するとともに貸し出し状況を帳簿と実態とを照らしあわせ、場合によっては返却の催促状を作らねばならない。その業務プラスバイオネット関係の整頓とくれば、小鈴の言うとおり大変な作業量であったことだろう。
「でまぁ、倉庫の整理もしたわけなんだけど、それで見つけたのが、この本の束なのよ」
「これが、どうしたというの?」
阿求は試しに一冊手に取ってみる。洋書の体裁の製本であり、表紙には一切文字が書かれていない。
「中を確認すればわかるけど、それらは、どれも奥づけさえない、制作者不明の代物なのよ。これ、実は結構珍しいことなのよね」
確かに、と阿求は頷いた。本というのは、日記を除くとして、誰かが読むことが前提のはずだ。読む相手のために本の情報を最低限表に出しておくのが普通だ。
加えて、妖怪が執筆した本などは、人間の本以上に妖怪の自己主張が激しいものになっている。妖怪にとって認識されることは何より重要なことであり、そのためにきっちりと己の名前を明記しておくはずだ。
名前のない本というのは、よほど奇をてらった意図か、特殊な事情がない限りは、そうそうあるものではない。少なくとも、阿求と小鈴は、本というものは執筆者自らが出自を明確にしてこそ意味を持つものだと考えていた。
「……内容は? 貴方の能力と観察眼なら、これが普通の本か、はたまた妖魔本であるかはすぐわかるはず」
「それがねぇ、中身は普通の小説、物語だったのよ。なんら特殊な加工が施されているわけでもないの。だからこそ奇妙でねぇ」
で、と小鈴は一度言葉を切った後、少し調子を変えて話を再開した。
「気がかりなのはここからよ。それを確かめるために、阿求の能力を試してみたいの」
「試す?」
「といっても、難しいことじゃない。普通に本を読んで、文字を確かめてもらいたいのよ」
「ふむ……じゃあ、ちょっと読んでみるわ」
おぼろげながら、阿求は小鈴の意図するところが見えてきた。早速、阿求は手に取った一冊を最初から開いた。
まずは本の構成をざっと見る。目次はなく、章ごとにタイトルもなければ、章わけも空白ページを挟んでいるだけだ。ただ、本文のみが続いている。
そして、改めて最初から読み出す。文字はすべて手書きであり、インクの具合からして、機械を使ったものではないことがわかる。
文字を丹念に眺めていくうちに……阿求は、驚愕とともに小鈴の言う気がかりを理解した。
「小鈴、これって……」
「ねぇ、その本の文字、『Surplus R』さんに似てない?」
似ているどころか、そっくりだった。阿求の記憶に間違いはない。阿求がバイオネットによって出会うことになった、『Surplus R』の手書き文字と、本の印字が、求聞持の力でもってぴたりと照合される。
勿論、多少文字の癖のつき方は異なっているものの、筆跡鑑定をするまでもなく、同一人物の筆跡であるのがわかった。
「今出してきた本は、たぶん全部が同一人物の書いたものだと思う。文字の形がほぼ同じだし、作者の情報を一切排除した装丁も一緒」
「ということは、この本は全部『Surplus R』先生の書いたもの……」
「間違いないね」
阿求の様子を見て、小鈴も確信したようだった。
「ちょっとしたミステリーよね。謎の天才小説家が、実はすでに本を出版していて、それがうちの倉庫にひっそり紛れ込んでいたなんて……あ、でも、うちって勝手に本が入ってくることがあるから、そこはミステリーとはいえないかなぁ」
小鈴は神妙な顔を作りつつも、どこか楽しげにしていた。
しかし、阿求は驚愕に目を見開いたまま、文字に見入っていた。
小鈴は知らないはずだ。『Surplus R』が地底の覚り妖怪、古明地さとりであることを。阿求は、結局、あの祭りの日にさとりと遭遇したことを、誰にも話さなかった。
「ちょっと、読む時間もらってもいいかな」
「どうぞどうぞ。ネタバレはしないけど内容の面白さは保証するよ。かなり昔の本みたいだけど、やっぱり『Surplus R』さんは凄い作家さんだよねー」
阿求は姿勢を正して本と向き合い、小鈴もまた別の一冊を手にとって読みだした。
瞬く間に、阿求は本の世界に没入していった。本は短編集のようで、多様な種類の話が、文字列に封じられていた。
阿求がページをめくる速度はどんどんと加速していく。元々、求聞持の力で見開きページの情報全てを一度に頭に納められるために、阿求の読書速度は速読を超えたレベルであるが、今はその普段のスピードをさえ超えていた。
パタン、と本が閉じられる音がしたのは、五分ほど経った頃だろうか。
「あれ? もう読むのやめたの……って、阿求!?」
音に反応して本から目を離した小鈴は、目の前の阿求の姿に驚いた。
はらはらと、その紅顔の頬を、涙が伝っていた。
「……」
「な、なに……? まだどっか調子悪いの?」
「ううん、違うの……」
阿求は着物の袖で涙を拭うが、あふれ出すものは止まらない。
「小鈴、この本、全部借りていってもいい?」
「え? ええ……元々見舞いの時に持っていこうかと思っていたものだし、阿求に貸し出すんなら問題ないしね」
「じゃあごめん、今日は一旦帰るね」
「あら、そう……」
阿求の様子に不可思議さを感じながら、小鈴はすぐさま番台に飛ぶと、引き出しから風呂敷を取り出す。その風呂敷でもって、テーブルの本を要領よく包みあげた。
「ほいっと。結構重いから、あとで持っていこうか?」
「いいわ。今持って帰る。リハビリにちょうどいいしね」
「腰とか痛めないようにね」
立ち上がった阿求に、小鈴が本の包みを丁寧に手渡した。
「それじゃ、いろいろありがとうね、小鈴」
「……なんだかよくわからないけど、大事のないようにね。なんかあったら、慧音先生とか、麟とか、まぁ、私もいるんだからさ」
「うん、わかってる。それじゃあ」
阿求は、何度も袖口で涙を抑えながら、丁寧に小鈴に会釈し、鈴奈庵を後にした。
乾いた外気に当たったことで、ようやく涙が止まったような気がした。
だが、阿求の心は強く、熱く震えだしたままだ。
阿求は、先ほど読んだ小説の内容を反芻する。素晴らしい内容だった。そしてあれは、紛れもなく『Surplus R』がしたためたものだ。
初めて『Surplus R』の小説を読んだときの感動が色鮮やかに蘇る。あの時の情動があったから、『Surplus R』との文通はいつも心が躍ったのだ。
そして、今ならわかる気がする。古明地さとりが、小説を書く理由。
古明地さとりが、『Surplus R』が書き続けてきた小説は、多種多様なジャンル、文体、パターンに彩られながらも、一つ徹底しているのでは、と考えられる骨子があった。
それは、心理描写だ。いかなるジャンルでも、『Surplus R』の小説では、登場人物の心を丁寧に描き、追求していた。時に話の筋を妨げてかねなくても、かの小説群は心というものをフォーカスし続けた。
心という、難解で、不確かで、ともすれば苦痛も伴う事象に向かい続けたのは、今の阿求が生まれる遙か昔から、彼女が願い、祈り続けていた証ではないか。
それが阿求の思いこみであったとしても、阿求は決断する。
嫌われても、襲われてもかまわない。
それでも、もう一度彼女と出会おうと。
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twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。 前>その22(http://www.tinami.com/view/531937) 次>その23.5(http://www.tinami.com/view/531979) |
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