幼きコロモ〜長坂の呂布〜 前編
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■正義の在りか

「あ〜〜〜〜〜〜、またしても!!」

 ドンッ! と、机同様足元が一瞬揺れたのは、気のせいではない。

「愛紗、落ち着けって。折角皆で集まってるんだ。そんなにかりかりしてたら、美味しいものも美味しくなくなっちゃうぞ」

「何を悠長なことを言っているのです!!」

 ドンッ!!

 あ、今、ミシッっていった。たぶん次やったら壊れるな、この机。

「今日取り逃がしたのでもう何度目か。本来ならば、このような東屋でのんびりお茶会をしている場合ではないというに!」

「ま、まぁまぁ」

 予想はしていたが、一応宥めようと試みるも効果はなし。

 顔を真っ赤にして詰め寄ってくる愛紗のことを説明するには、少し時間を遡る必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ということで、数時間前。

「ふああ〜〜〜〜っ‥‥」

 ぐ〜っと、

 背中を伸ばせば、自然とあくびも出てしまう。

 

 ぎゅるる〜〜〜

 

 ‥‥ついでに腹の音も。

 天気は良好、街並みはいつも変わらない。道の真ん中では子供たちが楽しそうに走り回り、両脇の店々は商売に明け暮れる大人たちの喧騒で沸き返っている。

 何てことはない。本当にいつもと変わらない、平穏な日常の光景だ。

 

ぎゅるるるるるるる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 と鳴いた腹の虫もある意味で、俺の中では日常になりつつある音。規模も大きさも俺のそれをはるかに凌駕していた(念のため言っておくが、俺の腹の音ではない。聡明な読者の皆さんならば、これだけ言えば誰の音かは理解してくると判断する)。

 午前の政務が一区切りをつく時間になれば、馴染みのお出迎えが政務室にやってくるのでお昼ご飯をするために街へ。それがすっかり、俺の一日の行動の中に組み込まれている。

 くいくいっ

「ん〜? ご飯の前に肉まんでも食うか?」

「‥‥‥‥‥‥‥(コクコクッ)」

 お昼のお出迎えといえば、当然この子、恋さんしかいない。

 仕事の進み具合やら前日の仕事態度次第では愛紗あたりが外出の許可を出さない時もあるけれど、そこは恋の癒しパワーが俺の味方をしてくれる。結局は、愛紗も恋には相当甘いということだ。

 恋に右腕を抱えられたまま、肉まんを注文すること数分。

 渡された肉まんの袋を大事そうに抱えて、手品のように口の中へと放り込んでいく様子は何度みても圧巻だ。

「あら、将軍様、美味しいシュウマイがあがりましたよ、いかがです?」

「‥‥‥‥‥(コクコクッ)」

「これは将軍様、美味しい点心があがってやすぜ! 食っていってくださいや!」

「‥‥‥‥‥(コクコクコクッ)」

「摘みたての桃を入れておきました。食べてもらわなきゃ、縁起が悪いってもんですぜ!」

「‥‥‥‥‥‥(コクコクコクコクッ)」

 あちこちから半ば強引に押し付けられる量は一人ではとても持てないほど。最近は城の内外で恋の効果がすさまじいからなぁ。

 来るもの拒まず、いや、もらえるものはもらっとく、か?

「恋、まず手元にあるのを食べちゃいな。持てそうにないものは俺が代わりにもっておくからさ」

「‥‥‥‥(コクッ)」

 食べる速度をこれまでの二倍にアップ。食べているのか呑んでいるのか分からない食べっぷりは、それこそ仙術でも使ってるんではないかってくらい。

「いつも悪いねぇ、おばちゃん。これ、少ないけど」

「そんな御代なんていいんですよぉ。そんなものより、あの子のあの食べっぷりを見てると癒されますからねぇ」

「あ、やっぱ、みんなもそうなんだ?」

「もちろんですよ、御遣い様の前だから言っちゃいますけど、あたしらの中じゃ将軍様じゃなくて最近では呂布ちゃんって呼んでるくらいなんですから」

「へ、へぇ‥‥」

 老若男女を取り込むとは、おそるべし恋。武力じゃなくて、その癒しパワーで天下統一できるんじゃないか?

「御使いさま、くれぐれもあの子のお願いしますよ」

「ん、お願いって?」

「いやですよぉ。そんな今更誤魔化しちゃって」

 おばちゃんが豪快に笑い声を上げると、聞き耳を立てていた数人のおっちゃんたちからも陽気な声があがってきた。

「御使いさま、しっかり将軍様の面倒を見てやって下せぇ」

「お子様が出来たら、逐一教えてくださいよ!」

「お、お子様って‥‥」

「あら、違うんですか。あたしたちはてっきりお二人はそういう関係かと思ってたんですが」

「いや、まぁ‥‥」

 違う‥‥こともないんだけどさ。改めてそういわれると何だか少しはずかしい。

最近は特に、恋といる時間が当たり前みたいになってるからなぁ。何かを食べる時と俺が政務をしている時以外は、終始右腕にべったりくっついてるし。それこそ寝てるときも。完全に懐かれているというか、すりこみをされた赤ん坊というか。

 逃げるみたいに恋の隣に戻って、すっかり食べ物をなくしていた恋の手にもらった桃を渡してあげる。

 ‥‥うっ、冷やかされたせいか、恋の顔が直視できない。

「ご主人様、どうかした?」

「い、いや。そんなに一杯食べて、お昼ご飯が入らなくなってもいいのかなぁって」

「お腹いっぱいには、ならない」

「はは、そうかー」

 前にも思ったけど、この子は絶対胃袋が7つ、いや8つはあるな。

「ご主人様と、ご飯食べる。お腹いっぱいになったら、一緒に食べられない。それは、寂しい」

 そういって、前髪の下から上目遣いを見せながら、きゅっと右手を握ってくる。不意打ちでも何でもないし、これまでにも何度も経験してきたけど‥‥。 

 ぐふっ、か、可愛すぎるぞ、恋!!

 もうキスくらいやっちゃうか!? 往来のど真ん中だけど、周囲の皆からはすでに許可をもらったようなもんだし!

 す、少しくらいなら。

 そんな俺の雰囲気を察してくれたのか、恋も右腕を抱く腕に力をこめ、つま先を上げて顔を寄せてくる。

そんな感じの良い雰囲気が流れ、恋の唇まであとちょっとの距離までせまった時、

 聞こえたのは、喧嘩らしき罵声と物音。

 ‥‥‥‥んで、次に聞こえたのは、

 

 

「はーっはっはっはっは! はーっはっはっはっは!」

 

 

 ‥‥‥‥独特の高笑いと、奇妙、もといインパクトのある蝶々の仮面。

「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は――――」

 

(字数を省くためと読者の皆様なら理解して下さるという理由から、以下省略させて頂きます。

ご了承下さい BY作者)

 

 

 

 

 

 

 ‥‥と、いうわけで現在。

 下手に刺激しても何だ。この机のためにも、ここは逆らわないでおこう。

 何とか宥める方向に持っていこうとするものの、愛紗の怒りはまるで収まる気配がない。

 徐州の牧に就任したのが数ヶ月前。それで袁術たちを倒したのが少し前。会った日にち自体は愛紗や桃香たちとは短いものの、恋やねねも他のみんなとも打ち解け、今ではすっかり心を許す仲間になっている。

 ‥‥なんだけど。

「何ていうかさ、ほら、失敗は成功の元っていうじゃないか。今日の反省点を活かして次頑張れば‥‥」

「そのようなことわかっています! 私を童か何かとお思いか!?」

「己の不甲斐なさを棚に上げて、主に八つ当たりしているのだ。十分子供だと思うがな」

「ぐっ‥‥!」

 たまに現れる謎の連隊(謎ということにしておいてくれ)のせいで、愛紗の機嫌は一気に急降下。しかも俺たちがいる時に限って出てくるもんだから、警邏隊である愛紗や鈴々『現場にいながら何をしているんですか』的なことを毎回言われる始末。当然今日のも例外じゃない。

 っていうか収まりつかないはこっちも同じだっての! あとちょっとのところで登場とか、もう少しだけ待ってくれてもいいじゃないか! それともわざとか、星のやつわざとやってんのか!

「愛紗ちゃん、捕まえきれなくて悔しいのも分かるけど、ご主人様を怒っても何にもならないでしょ。ほら、朱里ちゃんと雛里ちゃんが折角作ってくれたんだから、楽しく食べよ、ね?」

 仮面の正体を知っているだけに、手伝えるわけがない。とはいっても、愛紗の気持ちが分からないでもない(俺の気持ちもわかって欲しいが)。せめてもの罪滅ぼしじゃないけど、機嫌直しにお茶会を開いているのも、まぁ恒例っちゃ恒例だ。その度に朱里と雛里が作ったお菓子を食べられるし。

「桃香様までそのようなこと。あのような暴挙を許しておけば、人心は離れ、我らを不要と考える者も出てきます。そうならないためにも、我らが‥‥!!」

「‥‥‥‥‥んっ」

 助け舟として差し出されたのは一個の肉まん。それだけならあまり効果はないんだろうが、それをした人物が恋ともなれば、事情は変わってくる。

「恋! お前もあの場にいたのであろう。お前があそこで手伝ってくれれば、こんなことには‥‥」

「‥‥‥‥‥‥(ウルウルッ)」

「‥‥あ、ありがたく受け取っておこう」

 涙目の恋に勝てる奴はまずいない。おずおずと肉まんを受け取る愛紗の様子からは、先ほどの怒りは毛の先ほども感じられなかった。

「でも、その仮面の人って、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんが二人掛かりでも捕まえられないんでしょう。凄いよねぇ」

「まぁ、あの身のこなしはただものじゃなかったからなぁ。そこらへんの普通のやつらじゃ束になっても捕まえるのは無理だろう」

「おや、白蓮殿、いらっしゃったのか?」

「ひどっ、何気にひどっ!!」

 桃香の純粋な感心に、満足そうな星。それとは反対に落ち込む白蓮の背中が何とも寂しそうだ。

「はひひっへるほら、はんはひゃひるひんひんあへっはい」

「食べながら喋るなよ、鈴々。口からこぼれてるぞ」

「はぐはぐはぐっはぐはぐっ」

「‥‥‥‥恋もそんなに慌てて食べないでいいからな。誰も取ったりしないんだから」

 恋は返事を返す暇も惜しいくらいに、少しだけ頷くとすぐさまお菓子の盛られた机に向かう。お菓子の山を狙っているのは実質鈴々と恋の二人。戦場では隙を見せた者から死んでいくというが、この二人を見ていると妙に納得できる。

「‥‥ぷはっ!」

「落ち着いたか?」

「うん! ‥‥それで、何だったっけ?」

 文字通り山の如く盛られていたお菓子も数分もすれば影も形も残っていない。マジックか何か思いたいが、そうじゃないから余計性質(たち)が悪い。この調子なら、朱里たちが次のお菓子を持って来てもまたすぐに無くなりそうだな。

「あ、思い出したのだ! あのチョウチョ仮面め、今度あったら、けちょんけちょんのぎったんぎったんにしてやるのだ!」

「よく言った鈴々、それでこそ我が義妹!」

(‥‥よっぽど悔しいんだろうなぁ)

 武を誇りにしている二人だからな。これくらい怒るのは当然か。

「今度会ったら、ぼっこぼこにしてあの生意気な仮面をはいでやるのだ!」

「それでは生温い! 民たちの前で徹底的にのして仮面を取った後は、街中を引き回してくれよう!」

 結構なこともいっているが、星は星で二人の罵詈雑言も耳に入らないとばかりに、月を傍らにちびちびと酒をあおっている。同じ武人であるからこそ、二人の悔しさを理解してあげているんだろう。

 普段は大人気ない星だが、こういう時はそれなりの態度を取れるから感心する。心配そうにこちらに視線を向けてくる月にも、心配しないでいいと目で合図しておいた。

 何だかんだで星もなかなか出来たやつだからな。多少の悪口くらいは‥‥。

「にゃ? 街を引き回してどうするのだ?」

「決まっている! あのような悪趣味な面を付けているのだ。素顔もたかがしれていよう」

 多少の‥‥。

「なるほど、鈴々たちが勝ったってことを皆に教えるのだな!」

「そうではない! いや無論それもあるが、二度とあのような目立ちたがり屋の自己満足的な馬鹿な真似が出来ぬよう、懲らしめてやり、二度と素顔で往来を歩けぬようにしてくれる!!」

 た、多少の‥‥。

「にゃ〜、目立ちたがり屋かぁ。確かにあの仮面といい服装といい、少し変なものばっかりなのだ。どうせならもうちょっとかっちょいいのにすればいいのに」

「少しだと!? あれはとてもというのだ!」

「‥‥‥‥‥‥‥」

 酒を飲んでいるせいか、少々口が軽くなっている愛紗の口は止まらない。

 これまで鬱憤でも晴らすように盛り上がっていく愛紗につられ、鈴々もその純粋さゆえの針の一撃をもって言葉を並びたてていく。それが仮面以外のところにまで及び始めているから、もうヤバイの何のって‥‥。

 反対側で酒を手にしている星の顔は笑っているものの、こめかみ当たりがびきびきと震えているのが見える。

 ちなみに、変わらずお菓子に夢中で我関せずの恋。その気楽さを俺に分けてくれ。

「あ、あのぉ、お菓子の追加を持ってきたんですけど、ど、どうかなさったんですか?」

「朱里、丁度いいところに! 得意の知略で何とかしてくれ!」

「え、えぇ!? そんな、無理ですよぉ!」

 数秒の静観で事態を逸早く把握した朱里はさすがだが、星が絡むと尻込みしてしまう。ただでさえ連隊に組み込まれてるんだから、これ以上巻き込まれたくないって気持ちもわかる。わかるがこのままで俺にも被害がおよびかねない。

「二人とも、ちょっと言いすぎだよ」

(‥‥お?)

「服装なんて人それぞれじゃない。私は華蝶仮面さんの服装好きだよ。胸とかお尻とか、女性らしさをすごく強調してるあれだけの服を着こなしてるんだもん。それだけで凄いと思うなぁ」

 助け舟は予想外のところから。桃香のフォローに、青筋を浮かべていた星の怒りのオーラが幾分収まった(ように見えた)。

 さすがは桃香、普段はぼ〜っとしてるけど、やっぱりやるときはやってくれるって信じてたぞ!

「じゃあ、お姉ちゃんはあの仮面、カッコいいって思うのか?」

「う、う〜ん、あれはちょっと勘弁して欲しいかな」

「そうでしょう。何が美の化身だ。一度己の美意識を省みるべきなのだ!」

「あ、愛紗ちゃん、それは言いすぎ‥‥」

「では桃香様は、あの仮面が美しいと?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥あんまり」

 最後にはあはは〜と笑い合う姉妹三人組を、心なしか遠くに見つつ、俺たちの顔からは逆に表情が消えていく。

 いえ、仲が良いのは結構ですよ。でもね、もうちょっと空気を読もうというかね。

「まぁまぁ三人とも。話しばかりでは飽きてしまおう。丁度朱里が新しい菓子を持ってきてくれたのだ。存分に味わい為され」

「わぁ〜い、いただきます〜♪」

「あ、おい、桃香、ちょっと待っ‥‥」

「うっ‥‥‥‥!?」

「ぐはっ‥‥‥!?」

「にゃっ‥‥‥!?」

 口にした瞬間、バタンッと床に倒れた三つの影。それが誰かを言う必要はないだろう。

「と、桃香様、しっかり為さって下さい!!」

「だ、誰か、お医者様を呼んできて〜!!!」

 朱里と月の二人に介護される桃香。

 主とはいえ、容赦なしか。俺も気をつけよう‥‥。

 

 

 

 

「う〜酷い目にあったのだぁ」

「まだ頭がくらくらするよぉ」

 死の淵を漂うこと数十分、三人は無事に息を吹き返していた。

「朱里、今後はこのようなことがないよう頼むぞ」

「も、申し訳ありません‥‥」

 原因は思いっきり星なのだろうが、ある意味弱みを握られている朱里は暗黙のうちにその罪を着ることとなり、愛紗から厳重注意を受けている。すまん、朱里、俺には何もしてやれん‥‥。

「恋、もういいのか?」

「‥‥‥‥(コクッ)」

 一人別次元にいた恋はといえば、その後に朱里の持って来た無害のお菓子を一人で平らげご満悦の様子。とてとてと俺の右側に腰を下ろすと、こちらの右手を左の掌で握り、身体全体を寄せてくる。これが別の子なら、あちこちから非難の嵐が(主に俺に)集中しそうなのだが、いつの間にやら、ここが恋のポジションとなってしまっているから、今更不平不満も言う子はいない。

俺の右腕に身体をぴったりとくっ付いたまま、上目遣いの恋の頭を撫でて置く。そうすると掌を握る指に力が入るのを感じられ、より一層身体を寄せてくるのが分かった。すっかり慣れてしまったが、心地よさは変わらない体温が心を安心させる。二の腕に頬を擦り付けてくる様子はさながら猫だ。

「ふむ、天下の飛将軍とも呼ばれる武将が、まるで猫ですな」

「いや、忠犬恋と言った方がよかろう」

「猫だ」

「犬だ」

「人間です」

 先ほどの争いを引きずっているのか、星と愛紗の無駄な言い争いはばっさり切っておく。

「ふふっ、でも愛紗さんがそう仰るのもわかります。恋さんったら、セキトちゃんたちにご飯を上げる時とご主人様が政務の時以外は、ほとんどご主人様と一緒にいるんですから」

「あと、庭で昼寝している時も除くけどね。ホントに昔から変わらないんだから」

「一軍を預かる将として、その行いはどうかと思うのですが‥‥」

「そんなこといって、愛紗ももう認めてるんだろ?」

「わ、私は別に‥‥!」

 真っ赤になって否定する愛紗だが、彼女が恋擁護派の筆頭であることは周知の事実。体面があるから表には出さないけど、何気に恋の右側をキープしていることからもその溺愛っぷりは窺える。

「詠たちの所に居たときも、そうだったのか?」

「当たり前よ。軍議は勿論、兵の鍛錬もそっちのけ。恋が軍議に出た日には、槍が降るんじゃないかってくらいだったわよ」

「そ、そうか」

「でも‥‥」

 そこで口を挟んだのは、元主の月。

「昔は何考えてるのか分かりませんでしたけど、ご主人様のところに来てからは少し優しくなったような気がします」

「ああ、確かにそうかもね」

「‥‥‥‥‥‥??」

「恋は昔から恋なんだなってことだよ」

「‥‥恋、褒められた?」

「うん、そういうこと」

「‥‥‥‥‥‥やった」

 無邪気に腕へと抱きついてくる恋に、堪らなく愛情が湧いてくる。

「あ〜もう可愛いなぁ♪」

「‥‥んむ?」

 とりあえず抱きしめてみた。

「おほんっ!! このように日も明るいうちから、そのような行動は慎まれるべきかと。部下たちの目もございます」

「嫉妬とは見苦しいぞ、愛紗。まぁ、どっちに嫉妬しているかは知らんがな」

「な、星!?」

「何だ、そんなことを小さいことは気にしないでいいんだぞ。愛紗なら、俺たちは二人で受け止め‥‥ごめんなさい調子に乗りましたすみません」

 どこから取り出したのか、両手で握った青龍刀が牙を剥く。平謝りで場を凌ごうとしたが、時既に遅かった。

「前々から思っておりましたが、ご主人様は気が多すぎます! 今日という今日はその性根を叩きなおしてご覧に入れます!!」

「どわぁ、ちょっとタンマ、冗談、冗談だから!!」

「問答無用! この正義の鉄槌を甘んじてお受けなさい!!」

 東屋から脱出しようにも迅速に先回りされる俺に逃げ道はない。死に物狂いで避け続けるものの、周りが助け舟は出してくれるわけもなく。

「れ、恋〜〜!! 助け‥‥」

「‥‥‥‥‥‥ぐ〜っ」

 ‥‥このタイミングで昼寝ですか。俺の命より寝ることの方が大事だと。

 どったんばったんと逃げ回ることしばらく。

 周りからは声援とも野次とも取れる声を受けつつも、いよいよ首根っこを掴まれた時だった。

「正義かぁ」

 ほとんどの者たちが東屋から避難している一方で、変わらず腰を下ろし続けていた桃香がもらした言葉。

「‥‥それはつまり俺に死ねと仰っているんですか?」

「あ、ううん、そうじゃなくて。でもお仕置きはあってもいいと思うよ」

「‥‥」

 桃香さん、こんな極限の状態の男を前にしても、とびっきりの笑顔を浮かべられる貴方が眩しいです。

「ほら、華蝶仮面さんがいってたでしょ、正義って。でもそれって、何なのかなぁって」

 不意に出た質問。それは答えがありそうで難しい。だからここにいる誰もが、思わず黙り込んでしまった。

「正義とは、悪を挫き、弱きを助けるもの。私利私欲のためではなく、万民のために己の力を振るうこと。私はそのように思っております」

 愛紗らしい答えの提示に、桃香も同じような表情をする。誰もが笑って暮らせる世の中にしたい。そう常から口にしている桃香だから、それも当然のように思う。

「‥‥うん、そうだよね」

「桃香様?」

「どうかしたのか?」

 どこか曇った表情をする桃香に、俺も口を挟んでしまう。

「‥‥正義とは」

 手にしていた杯を少しだけ下ろして、星が瞼を閉じる。

「道理に反さぬこと。義を尊ぶこと。されど、この戦乱の世において何を基にするかは難しい。混沌とする時代ではそれぞれに掲げる理想があり、それこそが道理、それこそがその者たちの正義。善も悪も、何を基準にするか、どの立場によって変化してしまう。そのようなものでございましょう」

「全てに納得したわけではないが、今の時代、それもまた致し方ないだろうな」

「う〜〜〜、鈴々はそんなのヤなのだ!」

 終わりそうになっていた結論をひっくり返したのは鈴々。

「悪い奴をぶっとばす。それが正義なのだ! 愛紗たちの考え方だと、悪い奴らも良いやつってことになっちゃうのだ。そんなの鈴々は絶対、認めないのだ!」

「誰もそうはいっていない」

「言ってるのだ!」

「違う。ただ、今はそういう時代だと言っているんだ」

「確かにどんな理想を掲げていても、力がなければ何の意味もないもの、仕方ないんじゃない」

 愛紗と詠の言葉にも、鈴々はどうしても納得がいかないようで、大きく頬を膨らませている。幼いからこその純粋さ、けどそれは間違った思いではない。

「鈴々よ、確かに我々の行いは義に従うもの。だが、例えそうであろうとも、民衆が歓喜の声で迎え入れてくれようとも、他国からすればそれは侵略行為でしかない。争いを起こすことで苦しむ者が出る」

「それは‥‥分かるのだ」

 鈴々もたくさんの戦場を経験した。

 どんな理由があろうと、戦争を引き起こすのは大抵権力者だ。そして犠牲になるのは力のない民衆たち。

「私はね、鈴々ちゃんの言う正義が好きだな。皆が笑っていられる、そんな世の中にしたい。私の言う『皆』には、ここにいる皆も入ってるけど、もっとたくさんの人たちが入ってるの。それこそ、こんなこと言ったら、笑われるかもしれないけど、曹操さんや孫策さんたちも」

「‥‥桃香様」

「孔子の博愛、ですかな」

「そんな凄いものじゃないよ。ただ、皆で手を取り合って笑っていられたら、それが一番いいでしょう。ご主人様もそう思わない?」

「ん‥‥そうだな」

 確かにそうだ。心の底からそう思う。そうであればいいと。でも、それがどんなに難しくて、不可能なことであることくらいは、俺にでもわかる。そして桃香もきっと理解してる。それでも、桃香は信じたいんだろう。それを皆も理解して、それを尊いものだと思うから、こうしてここにいる。勿論俺も。

「ふんっ、綺麗事だけでやっていけるほど、この世の中は甘くないわよ。小と捨てて大を取る。玉を生かすために、誰かを犠牲にしなければならない時もある。上に立つ者として、そういう非常な選択を迫られることだってあるのよ」

「そりゃ、そうだけど‥‥」

 上に立つ以上、いつかそういう判断をしなければならないのも覚悟してる。けど、そう割り切れないのを、甘えだなんて切り捨てることは何だか違う気がするから‥‥。

「お兄ちゃんは、正義って何だと思うのだ?」

「俺か? そうだなぁ‥‥」

 咄嗟に思い浮かんだのは、何てことはない映像。子供の頃によく見ていた番組だった。

「ヒーローかなぁ」

「ひーろー?」

「正義の味方っていったほうが分かりやすいかな?」

「もしやそれは主が以前に、お話ししてくださったあれですかな?」

「そうそう。天の世界では休日の朝早く、朝ごはんを食べる頃くらいかな、連隊ってやつでね。何の罪もない人々を虐める悪い奴らを、正義の味方の数人組み、まぁ定番は5人組なんだけど、そいつらが力を合わせてやっつけるっていう人たちがいるんだ」

「朝ごはんの頃なのか! 早起きなのだなぁ」

「ふーむ、悪を懲らしめるのはよいとして、数人でとは。相手が自分たちより少なかった場合は数による暴力が問題になりますな」

 ‥‥つっこむところそこなんだ。同じことを思う人はたくさんいるはずだけどさ。特に星が言った方は。

「ま、まぁそんな感じで、沢山の人たちを助けるために頑張る人たちなんだよ。悪いことは絶対にしない。勿論、間違ったことも時々しちゃうけど、そうなったらしっかりと謝る。そうやって正義を示すことで、子供たちに正義の大切さを伝えていくんだ(あと早起きをすることを)」

「ほほぅ、まるで華蝶仮面のような者たちですな。中々粋なことをする」

「そ‥‥そうだね」

「何にしろ、多くの者たちを救うために日々精進する。それこそが正義というもの」

「それなら納得なのだ!」

 全てに納得したわけではないにしろ、途中話しがそれちゃった気もするが、明確な答えなんてないんだ。鈴々が納得したところで談義は終わりを告げそうだった。

「‥‥恋、どうかしたのか?」

 ふっと気になって右の方を見れば、恋が眉間に皺を寄せて何か考えて事としている。こんなにまで悩んでいる恋も珍しい。その眼差しは真剣そのものだ。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥難しい」

 皆で見守ること一分近く、結論として出た言葉には皆から楽しそうな声が漏れた。

「恋にはちょっと難しかったよな。ごめんごめん。あんまり気にしないでいいんだぞ」

「‥‥‥‥‥‥???」

 疑問符を浮かべまくる頭を撫でても、いつもみたいに顔の強張りは消えてはくれない。皆が真剣な顔をしてたから、戸惑っちゃったかな。

 皆が再び席に着き始める中で、くいっと身体が傾いた。こんなことをするのは一人しかいない。

 いつも以上に右腕に抱きつき、掌に細い指が絡みつく。普段はうたた寝するように下げられている視線も、今はしっかりとこちらを見上げていた。

 恋と二人の空間。外界から切り離された世界で、恋の不思議な光を帯びた瞳がまっすぐに向いている。

「ご主人様〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」

 名前を呼ぼうとしたところで、意識が急に引き戻された。

 何事だ、と立ち上がった愛紗たちの元に駆け込んできたのは、朱里と雛里。エプロン姿のままであることは、それほどの急ぎの知らせだということを悟らせるのに手間をかかなかった。

 突然の凶報。

 それは予期していなかったものではない。

 だが、決して望んでいたものでもない。

 曹操軍が国境線を突破。

 その数―――――――――――――凡そ50万。

 

 

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■暴走

 三十六計逃げるにしかず。

 曹操の圧倒的な大軍団を前にして、俺たちの取れる道は限られていた。

 玉砕覚悟の攻撃を望む愛紗を宥めつつ、朱里の献策に従って俺たちは益州へと移動を開始する。だがそれには桃香の人徳を慕う大勢の民たちが追従してきた。その数は数十万にものぼり、俺たちの持つ5万の兵力では、とてもではないが守りきれる数ではない。

 曹操軍に追いつかれる前に益州に到着すること、それが無駄な犠牲を出さないための最善の方法。

 百戦錬磨の曹操のことだ。徐州から俺たちの姿ないことを知れば、すぐにでも追撃を仕掛けてくるに違いない。

 難民たちの導き手である桃香を筆頭に、愛紗、星、朱里、雛里、白蓮が先陣を、俺と恋、ねね、鈴々が最後尾で敵を迎え撃つべく布陣しているが、それがどれほどの効果を持つかは定かではない。

 日に日に短くなっていく歩行速度が敵の先発隊が近づいてきていることを悟らせる。焦りは高まり、俺たちの心には不安の影が色を強めていく。

 どうしようもない焦燥の中で、ただ時間だけが無情に流れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふあ〜〜〜、暇やな〜〜」

 劉備軍最後尾に漂う悲壮感にも似た雰囲気とは、真逆。

「霞、暇なのはわかるが、そうあからさまにあくびをするのはやめろ。指揮に関わる!」

「なんや、春蘭かてさっき出そうになっとったあくびを必死にかみ殺し取ったやないか。ばっちり見とったで」

「‥‥なっ!」

「‥‥姉者」

「う、す、すまん」

「霞もだ。劉備軍を捉えたとはいえ、仮にも我々は追撃隊。攻撃の命こそ出ていないものの、傍観せよとの命令も出てはいないのだ」

「あはは、駄目ですよ、春蘭様。任務中なんですから、しっかり集中してないと」

 魏の誇る二本刀、春蘭、秋蘭姉妹と神速の張遼こと霞、そして親衛隊が一人許緒。

 戦闘能力では魏の中でもトップクラスの4人だが、いかんせん常識人は秋蘭だけだから、苦労も人一倍というものだ。

「そうカリカリせんと。も〜ちゃんからは足止めだけせいって言われてんのや。相手の兵がきっちり陣を敷くまでうごけへんし、攻撃も出来んやろ。っちゅうことは、あと半日は暇人やっとってええっちゅうこっちゃ。のんびりいこうやないか」

 曹操軍の先発隊である4人は半刻前に劉備軍の最後尾を発見した。しかし併行する難民たちにまで被害が及ぶのを危惧した4人は攻撃を行わず、未だ追尾するだけに止めている。

「斥候のやつの話によれば、旗は4つ。十文字の牙門旗に、真紅の呂、陳、張。兵力でこそ勝っているものの、一筋縄ではいかないだろう」

「かぁ〜恋っちがおるんかぁ。楽しみやわ〜!」

「張飛のやつはぼくが絶対やっつけますからね、春蘭様、取っちゃだめですよ!」

「‥‥二人とも、秋蘭の話を聞いていたか?」

「うち、一回恋とは命を賭けた真剣勝負をやってみたかったんや。もう想像しただけで血が滾ってしょうがないわ」

「‥‥良いのか、霞。呂布といえば、元はお前の仲間と聞いたが?」

「そんなん関係あらへん。戦場に立てば、斬るか斬られるか、どちらかしかないんや。それでどちらかが死んだかて、それは運がなかったってことやろ」

 関羽の武器に似せて作った槍を持ち上げる霞の瞳に、迷いはない。戦場を己の生き場所としている彼女だ。言葉に真実こそあれ、偽りなど欠片も混じってはいない。

「先に言っとくけど、恋との一騎打ちの邪魔をしたら、二人でも許さへんからな」

「ふんっ、それは約束できんな」

「何やてっ!」

 喧嘩に発展しそうになったのは、秋蘭が事前に防止する。

「霞の気持ちもわかるが、我らの目的は劉備が益州に着く前に撃破すること。いざとなった時は姉者と共闘をしてもらうことになるかもしれん。お前の意思を最優先させるつもりではいるが、その時は‥‥」

「嫌や!!」

 ぷく〜と子供のように頬を膨らませる霞にも、秋蘭の表情は柔らかい。

「構わんよ。納得してほしいなどとは思っていない。だが、我々も華琳様の理想のために動いていることだけは、肝に銘じておいてくれ」

「‥‥‥‥分かった。考えとくわ」

「ふっ、助かる」

 華琳への恩義もある霞が一応の理解を示したところで、再び周囲には緩んだ空気が流れ出した。

 馬上で器用に横になろうとする霞を、春蘭が諌め、逆に指摘されたところを秋蘭が仲介する。そして巻き込まれないよう外から傍観しつつも、春蘭同様時々攻撃されたりする季衣。そんなほのぼのしたやり取りが数回繰り広げられた、後のこと。

「も、申し上げます!」

「なに、どうしたの?」

 慌てた様子で駆け寄ってきた一人の斥候に、季衣が緊張感のない声を返した。

「なんや、劉備軍のやつら、もう反転したんか?」

「それは無いだろう。やつらが攻撃の陣を敷くとすれば、長坂橋と呼ばれる橋を越えたところ。数で圧倒的に劣るやつらがこちらと互角に戦うためには、あそこでなければならない。それを分からないやつらではないはずだが」

 秋蘭の言う通り、戦力だけでいえば、曹操軍が圧倒的に勝っている。劉備軍の最後尾にいる兵力は僅か2万足らず。それに比べてこちらは5万を下らない。本隊が到着すればその十倍にまで膨れ上がる。

「それで、どうしたの? 劉備軍が攻めてきたとかじゃないんでしょ?」

「そ、それが‥‥」

「はっきりせぇへんなぁ。さっさと言わんかい!!」

「は、はっ! 先発隊の先陣を務めていた一部隊が突出し、すでに劉備軍へと攻撃を開始しております!!!」

「なっ‥‥」

「何やてぇ!?」

 横になっていた霞が勢いよく身体を起こして、激昂する。

「どういうことや、それは!?」

「霞、落ち着け」

「これが落ち着いてられるかい!!」

 秋蘭の制止を無視して霞が斥候の襟首を掴み上げた。

「追尾だけしとけって命令だしとったやろ! ちゃんと伝えたんかい!?」

「は、はい。ですが、その、未だ陣を整えていない敵軍を目の前にしながら、みすみす見逃してよいものかと、意見する者がおり‥‥」

「陣が整え切れんって当たり前やろうが! 鈍い難民連れとったら誰だってそうなるわい!! この馬鹿でかい平野で何ができるっちゅうんじゃ、あぁ!?」

「わ、私が言ったわけでは‥‥」

「もうよい。下がれ」

 秋蘭のおかげで解放された斥候が下がっていく中、霞が苦々しく顔をしかめている。春蘭もほぼ同様の色を浮かべている。

「秋蘭様、どうするんですか?」

「どうするもないだろう。今更攻撃を止めさせるわけにはいかん。そんなことをすれば、全軍の指揮に関わる」

「じゃあ何や? 秋蘭はこのまま難民たちを皆殺しにしろっていうんか!?」

「そのような無粋なこと、私は断じて出来んぞ!」

「だから落ち着けというに。私とてそのようなことをしたくはない。だが、ここで足を止めれば、我々の進軍は遅れ、士気は低下する。そうなれば、劉備の本隊を捕えることも難しくなるだろう」

 それはあくまで可能性でしかない。だが、可能性があるからこそ、おいそれと命令を覆すわけにはいかない。将と違い、命令が直接に届かない兵士たちに、いらぬ混乱を与えかねないからだ。

「全軍前進! これより我らは劉備軍に攻撃を仕掛ける。目標は劉備軍の兵のみ、周囲の難民への被害は最小限に止めよ! みだりに傷つける者、その金品の略奪を行う者は死罪! 同じ兵士といえど見つけ次第斬って構わん! 夏候、張遼隊は劉備軍の攻撃を優先、許緒隊は難民の保護を最優先とせよ!!」

「全軍、抜刀!!」

 秋蘭の号令、そして終に掛かった春蘭の怒号を木霊し、閑散としていた大気が一気に張り詰めていく。

 突き出された剣の矛先に向かい、曹操軍最強と名高き精鋭部隊が突撃を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

■別れ、再会の約束

「くそ、もう少しで橋に着く、皆頑張ってくれ!」

 俺の気弱な掛け声にも、同じ部隊の兵たちが声を上げてくれる。気持ちで負けるわけにはいかないと、そう強く実感しているから。それは逆にいえば、自分たちが紛うことのない劣勢に立たされている自覚があるということでもある。

 突如攻撃してきた敵軍に対して、俺、恋、ねね、鈴々の四つの隊が各自応戦していたが、数の暴力に勝るものはない。一騎当千の実力を持つ恋と鈴々の隊でさえ、甚大な被害を受けているのだから、俺とねねの隊などすでに壊滅寸前に陥っていた。

「申し上げます!! 張飛将軍から伝令! 長坂橋にて陣の構築が終了、いつでも迎撃可能とのことです!」

「よし、すぐ全軍に後退するよう伝えてくれ!!」

「はっ!」

 状況の不利を見て、鈴々には橋に先行してもらって迎撃の態勢を整えてもらっていた。その際に難民のほとんども追従させたから、後はここに残っている俺たちがいかに迅速に後退できるかどうかが問題になってくる。

「‥‥ご主人様、恋が、敵を食い止める。だから、ご主人様とねねは先に行って」

「殿をするっていうのか?」

 いつもなら自分も残ると言い出すはずのねねも、今はそれを思いとどまっていた。この状況で自分が残っても足手まといになるだけ。それだけ切迫した状況であることを、軍師であるねねも敏感に感じ取っているんだろう。

「大丈夫なんだな‥‥?」

「‥‥‥‥‥(コクッ)」

 迷うことなく、頷く。鈴々や愛紗たちが束になっても互角以上の戦いをする恋がいうんだ。経験豊富な恋の方が俺よりも数段的確な判断を下せるはず。

「‥‥わかった。じゃあ、ここはまか――」

「も、申し上げま〜〜す!!!」

 慌しく駆け込んできたのは周辺の偵察に出していた兵士だった。

「今度は何ですか!?」

「西の林道に孤立した難民の一団を確認いたしました!!」

「な、何ですと〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!??」

「い、いかがなさいます!?」

 全てを言われないでも、その質問の意図は理解できた。ここに残っている兵力は約五千。難民の一団はそれよりもはるかに少なく、彼らを助けにいけば、それ以上の犠牲が出ることは確実だ。兵力を割きすぎれば、橋を突破される確率も高くなってしまう。

「‥‥小と捨てて大を取る」

 そう言ったのは、ねねではなく、恋だった。

 最初はその意味を図りかねた俺も、言葉を失ってしまう。

「詠が言ってた。戦には、多少の犠牲も必要。ご主人様が居なくなったら、たくさんの人々が困る。恋も、いや」

「‥‥だから、恋が行くっていうのか?」

 先ほどと変わらず頷く、恋。その瞳は平時の時と何も変わらない。

 敵に包囲されつつある西の林道に行くことは、ここで殿を務めることよりも大きな危険が伴う。客観的に見ても、帰ってこれる可能性は非常に低い。

 捨て駒になるのは、大将である俺ではなく、自分の役目。それに恋の方が生還できる可能性は高いだろう。

「‥‥恋は、俺がご主人様だから、俺のことを守ってくれるのか?」

「‥‥‥‥‥‥?」

 けどそれは、嬉しくて、でも悲しい。

「俺は、さ‥‥皆のご主人様ってことになってるけど、あんまり上の立場にいるって考えたことないんだ。どっちかっていうと、俺の方が生かされてるって感じがするし、実際そうだと思う。だから、俺には他の人たちから何を言われても、俺をここまで生かしてくれた人たちを見捨てるなんてことはできないよ」

「‥‥わかる。ご主人様はそういう人」

 そう、わかってくれている。過ごしてきた日々は長くはないが、恋は誰より俺の側にいたんだ。俺がどんな人物か、俺よりもわかってるんじゃないかと思うときがあるくらいだ。

「駄目だよ‥‥。恋はここで殿をしてから、その後、鈴々と合流するんだ。西には俺が行く」

「‥‥‥‥‥‥‥どうして? 恋、頼りない?」

 首を振ったのは二つの質問に対して。

「恋だからだよ」

 口にするのは簡単だったけど、それをしたくはなかった。言ってしまえば、それは安っぽくなってしまいそうだったから。

「‥‥わからない」

 難しい顔をする前髪を、くしゃりと撫で上げて。

「少なくとも俺にとって、恋は小さい存在じゃないよ」

 自分を捨て石みたいな言い方をした子はとても純粋で、俺のためなら進んで命を差し出すだろう。

 でも、そんなことはしてほしくない。

 全てのことを、その小さい背中に背負うようなことはしてほしくない。

 もう一人じゃないんだということに、自分で気付いて欲しかった。

「それは強いからじゃなくて、恋だから小さくないんだ。恋が俺を助けてくれるのと同じように、俺もついてきた人たちを守りたい」

 街並みを歩くときのように、右手で恋の左の掌を握った。掌は戦いと緊張で汗ばみ、戟を握るにはあまりに細い。

「桃香が言ってただろう。皆で手を繋いで笑えば、世の中は平和になるって。俺には出来ないことかもしれないけど、ここにいるみんなとは繋がってると思ってる」

 ここにいるのは、志を同じくして、進んで最後尾という危険な役を買って出てくれた人たち。

「一人じゃ何もできないけどさ、こうしてたくさんの人たちが力を貸してくれるんだ。きっとできるよ。絶対、助けてみせる。だから‥‥」

 ぎゅっと、手を握ってみせる。固まったように、今もまだ混乱する小さなこの子に、気付いて欲しくて。

「先に待っていて欲しい。すぐに俺も行くから」

 不安は押し殺したつもり。この子と二度と会えないかもっていう恐怖も、今は必要ない。

 天下無双と呼ばれている子とはとても思えない。不安げに揺れる瞳は、まっすぐに、俺のことを見上げてくる。目を逸らすわけにはいかない。街を歩いてる時みたいに、俺は精一杯の笑顔を作った。

 軽く抱き寄せ、頭に手をおく。少しでも恋の不安が消えてくれればとの願いを込めて。

「そんな不安そうな顔するなって! これが今生の別れってわけじゃないんだからさ」

「‥‥‥‥‥‥‥‥でも」

「大丈夫だって。伊達に天の御使いなんて呼ばれてないんだ。これくらいの危機、軽くふっとば‥‥」

「いつまで手を握ってるですか!!!」「‥‥ぶっ!!」

 シリアスな雰囲気を、まさしく『一蹴』。

 軽くふっとばすどころか、ねねの必殺キックで逆におもいっきり吹っ飛ばされて悶絶する俺。そんな俺を尻目に、ねねが零れ落ちた恋の手を掴み取った。

「恋殿、ご安心下さい。この男にはねねが付いて行きますです。恋殿は追っ手を適当に往なした後、機を見て鈴々と合流してくだされ。ねねたちもすぐに追いつきますゆえ」

「ちょ‥‥おい、せっかく人がかっこよくきめようとしてるときに、‥‥」

「うるさいです!! このような戦場のど真ん中で、事もあろうに恋殿と二人きりの世界を作り出すお前の方が悪いのです! 時と場合をわきまえろです!!」

 それは俺の台詞だ、とつっこみたかったが、ここは引いておく。もう一発くらったら、戦う前に死んでしまう。

 必殺の陳宮キックが効を為したのか(?)、死地を前にして強張っていた兵士たちの表情が緩んでいった。あちこちから上がる笑い声は、共に帰ってこようとする、そして俺たちに命を預けてくれる皆の証に違いない。

「と、とりあえずそんなわけだから、恋はここで殿を頼む。俺たちもすぐに移動するから」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥帰って来る?」

「当たり前だろ。恋の方こそ、ちゃんと帰ってこないと承知しないからな」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥絶対?」

「もちろ」「勿論なのです!」

 ねねが俺たちの間に割って入るとぴょんと飛び出し、再び笑い声が巻き起こる。

「それじゃ、行こう! 皆、頼んだぞ!」

 地平に巻き起こる土煙が見える。

 だがそれにも臆さない、皆の怒号が荒野に響き渡る。

 二手に分かれた俺たちは、大地を駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「‥‥」

「桃香様、どうかなさいました?」

「ううん、ねぇ、愛紗ちゃん、益州まで後どのくらいかな?」

「はっ、行程の三分の一は終えておりますので、もう少しの我慢でしょう。先発した星と白蓮の情報では益州の民たちは桃香様のことを心よりお待ちしているとのこと」

「‥‥そう」

 難民たちと共に益州に向かう桃香たち。難民を連れた行軍は遅々としているものの、進路に障害はなく、順調に進んでいるといえる。

「心配ですか?」

「え、あ、ううん。大丈夫だよ、恋ちゃんや鈴々ちゃんがいるんだもん。きっと帰って来るよ」

 何がとはいっていない。それでも伝わってしまうのは、やはりそれだけ気がかりである証拠だろう。

 傍らに控える朱里もまた同様。しかし、軍師として今自分がやらなければならない仕事がある。

「大丈夫ですよ。いつもは頼りないご主人様ですけど、やる時はやって下さるお方です。きっと今頃はもう橋を越えているはずです」

「戦力的には厳しいですが、武将の質では互角かそれ以上。曹操さん率いる本隊が来るまでに橋を渡っていれば、逃げ切れる確率は十分あります。ねねさんも付いていますし、問題ないはずです」

 勿論、それだけではない。二人の軍師も信じているのだ。自分たちにできて、桃香に出来ないはずがない。

「‥‥そうだよね。ありがとう、朱里ちゃん、雛里ちゃん」

 はにかむ二人に笑顔を返し、桃香は前を向く。約束したんだもん、絶対帰って来るって。気の多いご主人様だからこそ、女の子との約束を破ったことはない。きっと今回も、無事に帰って来る。

「日頃、愛紗ちゃんがあれだけ追い掛け回しても死なない人だもん。きっと、大丈夫だよね!」

「と、桃香様!!」

 不安に満ちていた空気が一変して笑い声に変わる。

 信じることしか出来ない時もある。ならば、信じ続けるしかないのだ。

「も、申し上げます―――!」

 飛び込んできた兵士の声に、全員の視線がそちらに向けられる。激しく嘶く馬の様子と、汗と血に塗れた兵士の姿はその者が最後尾から来たことは容易に想像がついた。

「伝令か!?」

「はっ! 張飛将軍よりの早馬に御座います! 難民のほとんどは長坂橋を越えて無事とのこと!」

「鈴々ちゃんたちは!?」

「現在、張飛将軍と呂布将軍のお二人が橋にて敵先発隊と交戦中! それから‥‥」

「どうした??」

「‥‥ご主人様と陳宮軍師に、何かあったんですか?」

 伝令の様子に事態を察した雛里の言葉に、全員の顔からすっと血の気が引いていく。

「‥‥敵の追撃を受けた際、取り残された難民の一団に気付いた本郷様が陳宮軍師と共に難民を救出するために、敵包囲網内へと突撃。難民たちは生き残った兵士たちと共に橋を越えましたが、お二人の姿はなく、‥‥行方が分からない状態です」

「‥‥‥‥うそ」

 ぽつりっともれた言葉。桃香の手から零れた手綱が足首に絡みつく。

 信じられない現実は、口にしても尚、消えてはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

■落ちる影

「‥‥鈴々」

「にゃ!? 何なのだ、今話しかけないで欲しいのだ!! うりゃああ!!!」

 巻き起こる二つの旋風。

 戟と矛、共に一騎当千を誇る二人の武人が橋を背中に嵐を巻き起こしていた。

「ひぃ!!」

「う、うわぁあああ!!」

「た、助け‥‥!!」

 迫り来る曹操軍の先発隊。一刀とねねの部隊に護衛されてきた難民たちを橋の向こうに渡せば、それを負って来た敵軍との戦闘が始まった。こちらは二人、あちらは数千。数でこそ負けれども、それに屈する二人ではない。

「桃香たちのところにいって、皆を連れてきて」

「にゃ!? 恋はどうするのだ?」

「恋は、ここで敵を食い止める」

「無理なのだ! それに、たくさんの敵を相手にするなら、鈴々もいた方が良いのだ!」

「ご主人様を、探しに行かないといけない。でも、一人じゃ無理。鈴々なら、軍の指揮をとれる」

「むぅ、でもでも恋一人じゃ危険すぎるのだ!」

 完全に怯えて距離を取っている敵兵の向こう側を、恋が指さした。空にも昇る土煙の下、地平線に翻る旗には夏候、張遼、許緒、魏の猛将たちの到来を告げる文字が刻まれている。

「‥‥時間、ない。ここを突破されたら、桃香たちが危ない。ご主人様も、帰って来れない」

「‥‥にゃぁ」

 恋は諦めていなかった。

 信じているのだ。一刀が帰って来ることを。普通なら無理だと思われる状況の中で、ただ一人。

一刀は約束を守ってくれる。

 仕事で忙しい時も、自分が来れば、何だかんだといいながらもいつもお願いを聞いてくれる。

 街を歩いて美味しいものを買ってくれる。一緒に並んで嬉しそうに笑ってくれる。

 時間に遅れることはあっても、約束を破ったことは一度もない。

 だから今回もきっと同じ。

 絶対に、帰って来る。

「わかったのだ‥‥。すぐに戻ってくるから、少しだけここで頑張ってるのだ!」

「‥‥‥‥(コクッ)」

「死んだら駄目なのだ。ぜったいぜったい、約束なのだ!」

「‥‥約束」

 鈴々に大きく頷いて、恋は戟を構える。

 遠ざかっていく鈴々を肌で感じながら、恋は一度大きく息を吐いた。

 一人になったことを幸いと見た敵兵が次々と群がってくる。

 恐怖はない。あるとすれば、それは一刀に会えなくなることだけ。

 戟を肩の上に乗せて、一息。

 真一文字に薙ぎ払われた剛撃に、迷いはなかった。

 

-3ページ-

 

「あ〜‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥疲れた」

 そういってがっくりと首の力を抜いた俺。

 その背中に、容赦ない罵声が叩き込まれた。

「何を暢気なことを言っているのですか!! 早く何とかしないと手遅れになってしまいますぞ!!」

「もう十分手遅れのような気も‥‥」

「うるさいのです!!!」

「ぐふっ‥‥!!!」

 軽く脇腹が折れたような痛みに耐えながらも、大きな声を出すわけにもいかず蹲って堪える。

 ちゃんと帰って来いとか言っておきながら、この様だもんなぁ。かっこ悪いったらない。

「は、ははっ‥‥やばいよなぁ」

「笑ってる場合じゃないのです! これからどうするですか!?」

「あんまり大きな声出すなって。見つかったら、それこそ最後なんだからな」

「う、うううぅぅぅ〜〜〜〜〜〜」

 俺とねねがいるのは、森の中に残されてあった古井戸の中。

 敵軍の包囲網を突破し、難民の一団を救出した俺たちは、橋に向かって強行軍を行っていた。とはいえ、敵の多さと難民の行軍速度ではどうしても無事に逃げることは難しい。そこでろくに学もない俺が思いついた策といえば、自分の名前を利用することだった。

 天の御使いの首を上げれば大手柄。それに釣られて追撃隊の兵が分散したおかげで無事に難民の人たちは逃げられたみたいだけど、今度は逆に俺の方が逃げられなくなってしまった。

 敵兵にも包囲されて、あと少しで見つかるという時、偶然見つけた小さな井戸。劉備玄徳の夫人が、赤ん坊を助けるために自ら井戸に身を投げたって話を覚えてたから、咄嗟にこの案を思いついたんだけど‥‥。

(このまま死ぬなんてことは無いよな‥‥?)

 生きているところまではいいけど、これからどうするべきか。援軍は期待できないし。

「そういえば、ねねはどうして俺についてきたんだ? 護衛の指揮を頼んでおいただろ?」

「ねねはお前を連れ帰るよう、恋殿と約束したのです。ねね一人だけ逃げ帰るなんてことができるわけないのです!! それくらいわかれなのです!!」

「ちょっ、声が大きいって!」

 井戸のすぐ近くに人の気配を感じ、慌ててねねの口を手で塞いでしまう。でも、敵兵の足音は消えるどころか、どんどん近づいてきている。

「何だ、どうかしたのか?」

「この辺で声が聞こえたような気がしたんだけど。気のせいだったか?」

 井戸に落ちてくる敵の声に、俺たちは声や呼吸さえも押し殺す。見つかれば、全てが終わってしまう。

「こ、こら、こんなときに何を考えてるですか!?」

 あくまで小声でねねが俺の胸に抗議してきた。口を塞ぐ拍子に、身体を密着させてしまったんだが、それが運悪く(?)、俺の息子に火をつけてしまったらしい。

「い、いや、これは種としての生存本能っていうか」

「そんなんだから、北郷ち○こって陰口を叩かれるのです!」

「人の名前を変な風に改ざんすんな!!」

「ち○こ? 誰だ、こんなときに小便でもしてるのか?」

 小声だったものの、神経を集中している敵兵にはどうやら届いてしまったらしい。

「こんな戦の最中に、そんなことをするやつがいるわけないだろ。さっさといこうぜ」

 気配は消すこと、数分。怪しんでいた兵士も一通り捜索を終えたところで諦めたらしく、足音が離れていくのがわかった。

 ほっと安堵の息を吐く俺たち。

 この様子ではこの一帯から敵がいなくなるまで相当の時間がかかるだろう。

 真上を見上げれば、赤と青の境界線が、円形状にくり抜かれた空の真ん中でせめぎ合っている。

 敵の数がいなくなるまで待ち続けるしかない。

 もうすぐ、太陽の時が終わろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

「うりゃあああ―――――――!!!」

「はあああああああああああ!!!」

「‥‥‥‥‥ふっ!」

 

 ガギィッ!!!!

 

 三振りの鋼が交叉し合い、雷鳴の如き轟音が大気に鳴り響く。

 打ち勝ったのは一本の戟。細腕から繰り出された袈裟の一撃は神速の槍と灼熱の刃をいとも簡単に弾き返すと、それを放った二人の武人をも押し退けていた。

「ぐっ、つ、強いっ!」

「無事か、姉者!!」

「あ、ああ。強いとは知っていたが、これほどとはな」

「伊達に、天下の飛将軍と謳われてはいないということか‥‥霞、下がれ!!」

「じゃかあしい! うちの一騎討ちの邪魔をするやつは、誰であろうと許さへんて言ったやろ!!」

 強烈な威圧感にも怯むことなく、霞は得物を手に前へと進み出る。

 対するは橋を背中に直立不動の、恋。

「うりゃあああああああああ!!!!」

 恋の胸目掛けて薙がれた一撃。

 神速と謳われた一撃は疾風の如く、だが、肩に戟を構えた恋はそよ風を受けるかのように柄で受け止め、

「‥‥‥‥‥‥遅い」

 戟の根元、刃当たらぬ場所で霞の脇腹を横撃して春蘭、秋蘭の足元まで吹き飛ばしていた。

「げほっ、げほっ」

「霞、大丈夫か、動けるか!?」

 秋蘭の呼びかけに、霞は振り返ることもしなかった。

 打ち合うこと数十合。受けた攻撃は数知れず、恋に届いた刃はない。途中から春蘭が参戦してきても、その状況は少しも変わらなかった。

 恋の本気。はじめてみるその実力は紛れもなく天下に比肩するものなき強さ。自分など足元に及ばないことはすぐにわかった。

 ‥‥だが、

「何や‥‥何のつもりやねん、恋! うちをおちょくっとんのか!!」

 ここまで腸(はらわた)が煮えくり返ったのは、はじめてのこと。

「ここは戦場や、相手を斬って生き残るか、斬られて死ぬか、どっちかしかあらへん。それなのに、何や!?」

 口元の血を手の甲で拭い、脇腹の激痛にも耐えながら、霞は尚も叫ぶ。

「お前の刃には殺気がこもってへん。劉備とかいうやつの仲間になって、そこまで頭緩んでしもうたんか!? それとも、ご主人様とかいうやつが死んでしもうたせいか!? それくらいのことで腑抜けてしまうんか!?」

「‥‥」

 殺気がないわけではない。現に張飛と共に倒された兵士は数百にも上っている。だが、昔のような、獣のような純粋無垢な、生きるために振るわれる非情な牙が感じられない。

「答えんかい! 返答次第によっちゃ、恋といえど許さへんで!!」

「‥‥‥‥‥‥恋は恋。桃香もご主人様のことも大事。霞のことも、大事」

「‥‥‥‥‥‥それが」

 戦の最中で、戦う相手のことを気遣う。

 それが平時ならば、何の問題もない。恋に悪意もないだろう。

 しかし、その言葉が霞の武人としての誇りを傷つけたこともまた、事実だった。

「その上から見方が、うちをなめとるっちゅうんじゃあ―――――――!!!!」

 激昂した霞の槍が旋風の如く吹き荒れる。一撃かと思えば、二撃。右かと思えば、左。凄まじい疾風の如き攻撃の波、爆発した怒りに後押しされた槍の猛撃は恋がこれまで受けてきた攻撃の中でも最高位に位置するものだった。

「うらぁああああ!!!」

 途絶えることのない旋風。

 だが、恋の心は少しも動じていなかった。的確に槍の軌道を読み、避け、隙を狙っては戟を突き出す。体勢が崩れたところに得意の体術を組み合わせた戦法は決して崩れを見せない。何度吹き飛ばされようと立ち向かってくる霞だったが、勝機がないことは最早一目瞭然だった。

 鈍ってきた槍の一撃を柄で受け止め、同じように吹き飛ばそうと戟を振り下ろす。

(‥‥‥‥?)

 妙な気配を感じた恋が振り下ろす一瞬の間に、霞の後ろを垣間見た。

 一騎打ちに夢中になっていた間に、弓隊が前線へと集まっていた。霞を吹き飛ばした瞬間を狙って、一気に自分を狙い打つつもりだろう。

 それならばと、霞を吹き飛ばした勢いを利用して一度に後方に下がってやり過ごせばいい。そう考えて戟を振るう腕に力を込めた。

 だが、予想外のことが起きてしまう。

 負傷しながらも、渾身の力を込めた霞が戟を受け止め、踏みとどまったのだ。

 霞は弓隊の動きに気づいていない。弓隊を動かした秋蘭でさえ、その動きは予想外だった。

 考えるよりも先に、身体が動いていた。

放たれた矢が落下するよりも早く、霞の懐に潜り込んだ恋。

そのままいれば、霞が盾となって矢を凌ぐことができる。秋蘭たちは恋の動きをそう考えた。

「―――――――――がっ!」

 霞の懐に突き出されたのは恋の拳。

 強烈な一撃に大きく吹き飛ばされ、矢の落下範囲から逃れられた霞。

 それとは逆に、拳を突き出した恋はほぼ無防備で‥‥。

 

「――――――――れ」

 

 大地に、無数の鉄の鏃が突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥恋?」

 井戸の底でじっと身を潜めていた身体が、急に騒いだ。

 左肩に頭を預けたまま、小さく身じろぐねねが苦しそうに体を縮め、身を寄せてくる。

 徐々に冷たさを増していく気候が、吐く息を白く染め上げる。

 垂直に見上げた空は、青い空を飲み込んで真っ赤に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

「な、何しとんのや! いったい、な‥‥!?」

「危険です! 張将軍!!」

「やかましい! 離せ、はなさんかい‥‥くっ!!」

 立ち上がろうとして右足が折れた。足首のあたりが激痛を生んでいる。吹き飛ばされた際に痛めたのか。

 手放してしまった槍を横に、霞が顔を上げた。少し離れた場所、先ほどまで自分が居たはずのところには、十や二十でおさまらない矢が突き立っている。いくつもの紅い斑点が荒れ果てた褐色の地面を彩り、砂利を踏みしめる足音。視線を少し上げれば、そこにいるのは、恋。

「第二陣、構え!!!」

 再び風を切る音が鳴った。

 空高く伸び上がった鉄の凶器は、重力に引かれて再び獲物目掛けて落下していく。

「どきぃ、秋蘭、秋蘭はどこや!! すぐに、やめさせい、すぐに‥‥くそっ。恋、恋――――――――――!!!」

 制止を求める霞の声も秋蘭の号令に掻き消されてしまう。

 千に及ぶ弓兵たちがそれぞれの弓矢を誇り、号令に従って矢の雨を降らせて行く。

「第三陣、放て!! 続いて第四陣、構え!!!」

 武将としての誇りならば、秋蘭にもある。だが、ここで時間を食えば、劉備を逃がしてしまうことは必至。霞の声は聞こえていたが、秋蘭はあくまで斉射の合図を止めなかった。

 叫び続ける霞の声が、寂しく崖の中に消えていく。

 その声が聞こえているかいないのか、身体に幾本の矢を受けながらも恋は戟を掴み取り、落下してくる矢の雨を機械のように薙ぎ払う。卓越した技量と力、その二つを併せ持つ恋にとって矢を落とすことは造作もないが、雨の如き矢の全てを撃ち落すことは不可能であり、斉射の合図がなる度に、その身体には確実に矢が増えていく。皮膚は裂かれ、突き刺さった鏃からは紅い血が漏れ出し、痛みを生んでいた。

 それでも恋はその場を逃げ出すわけにはいかなかった。

 約束したから。

 帰って来るのを持つと。

 ここから逃げ出したら、一刀の帰る場所がなくなってしまうから。

 降り注ぐ矢の雨から一歩も引かず、弾き返す。

 それだけの動作が、約束を果たすために必要なこと。

 ならば、それを拒む理由はない。

 太陽は傾き、空が割れていく。

 大地は少しずつ、夕暮れの中に消え始めていた。

 

 

 

 号令を出し、矢を放たせ、次の隊に構えさせる。

 そんな単調なことを何度繰り返しただろう。

 思考を奪われていた霞にそれを数えるだけの余裕があったはずもない。

 指揮を取っていた秋蘭ですら、十を越えたところで自らが行った号令を数えるのを止めた。

 気付けば、号令はやんでいた。秋蘭が止めたのではない。号令が止んだというのが自然だろう。

 口を開く者はいない。動く者も、その場から逃げ出す者も、先に進もうとする者も、いない。

 眼前に満ちる光景。その壮絶さに、意識を食われた者たちはただ呆然と立ち竦んでいた。

 後方から鳴り響く馬の蹄と、主と仰ぐ存在の声で漸く正気を取り戻す。

 二つに割れ、創り上げられた人垣の道を悠然と進む王。

 畏まる秋蘭たちを傍らに、王が目にしたものは、夕焼けだった。

 遮る物のない果てしない地平、それと重なるように橋という道の前で立ち塞がる存在に、曹操は一瞬心を奪われる。

 斜光を背中に受ける姿は威風堂々。

 右手に構えた戟は紅く染まり、それでも尚、身体から流れ出た己の血の深さには敵わない。身体のあちこちに突き刺さった矢を抜かないのか、それとも抜く力がないのか、判断はできない。

 暁の髪を凪風に仰がせて、真紅の両瞳が夕焼けにも負けぬ光を携えている。

 衰えぬ心は人を覆い、その威風は天をも凌ぐ。

 飛将軍呂布。

 真紅のケモノと呼ぶに相応しいモノが、そこにいた。

 

 

説明
 徐州の州牧に就任した劉備は、袁術・呂布連合軍を倒し、ひと時の平和を手に入れた。
 しかし、そんな時曹操軍五十万が国境を越えて襲来。一刀たちは難民たちを連れて益州へと向かう。

 恋が長坂橋で一人、曹操軍五十万と対峙します。対峙した曹操に、恋が語った正義とは‥‥?
 ご期待下さい!

 前編が問題提起となっていますので、答えとなる後編まで見て頂けると幸いです;; 長くてすみません(平伏
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コメント
後編見てきましたけど、良かったです。前半あってこその後半ってよくわかりました。これもいったけど、もっかい。感動をありがとう!(aki)
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