コトバノハカバ Type:B(改訂版)
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『コトバノハカバ』

 

 

「…ここは…何処だ…?」

 

 俺の呟きは、目の前に鬱蒼と広がる木々に吸い込まれ、誰に届くことも無く消えて行った。

 

 俺は何故こんなところを歩いているんだ…?

 

 目に映るのは何処までもどこまでも続く木々…それすらも深い霧に阻まれ、ほんの数歩先までしか見えない。

 

 湿気で張り付いたシャツの襟をいくら広げても心地よい風など入ってはこない。

 

 まるで空気自体が粘着力を帯びているかのように全身にまとわりついてくる。

 

 鉛色の空という言葉なら聞いた事があるが、空気そのものが鉛のようだ。

 

 実際頭上を見上げても空なんて見えない。

 

 高く伸びた枝葉に遮られているのか、それともこの濃い霧に隠されているのか、朧気に差しこむ光すら歪んでいるようだった。

 

 もうどれくらいこうして歩いているんだ…?

 

 三時間か?

 

 三日?

 

 三年にすら感じられる。

 

 だめだ…感覚が完全に麻痺している。

 

 そもそも俺は何故こんな森を彷徨っているんだ?

 

 何をしようとこんな森の中に?何処へ向かっているんだ?いや、何かから逃げていたのか?

 

 何故?何を?何処へ?何から?

 

 同じ言葉が何度も何度も頭の中で繰り返す。

 

 …何も解らない…

 

 俺は狂いそうになる…いや、すでに狂っているのか?

 

 本当に狂っている人間は、自分が狂っていると気付くのだろうか?

 

 そんな事を冷静に考える。

 

 冷静に考える…そうだ、冷静になるんだ。

 

 今の状況を整理しよう。

 

 目の前に広がるのは無限とも思える森。

 

 そして視界を遮る深い霧…

 

 なんだ、分からない事だらけじゃないか…

 

 そうじゃない、分からない事が分かったんだ。

 

 後はそれについてどう対処するかだ。

 

 俺は少しだけ正気を取り戻すことが出来たようだ。

 

 麻痺した脳細胞が少しずつ活動をはじめる。

 

 頭の中で微細な電気信号が周囲の細胞に伝達され、徐々に広がっていくのをイメージしてみる。

 

 すると今までぼんやりとしていた感覚がほんの少しだけ目を覚ます。

 

 考えろ、まずは場所だ。

 

 これを知る方法は…今の所思いつかない。

 

 空には星も出ていないし、かといって太陽や月も出ていない。

 

 僅かながら足元を照らしているのが太陽光なのか月明かりなのかすらも曖昧だ。

 

 目の前に漂う霧と同じ、重苦しい雲が太陽の光さえ遮っているのか…それとも、ここには星や太陽すら存在しないのか?

 

 いったい今は何時なんだ?

 

 この森には時間の流れすら存在しないのではないかとさえ思える。

 

 時間を知る方法、それは普段なら当たり前に出来る事だ。

 

 時計を見ればいい。

 

 しかし、俺の手首には腕時計など無かった。

 

 携帯電話を持つようになってから、腕時計などしなくなったな。

 

 以前は死んだ親父にもらった時計をいつもしていたのに。

 

 …待てよ?携帯電話…そうだ、携帯があれば時間も分かるし、それどころか救助も呼べる。

 

 俺はどうやら本当に狂っていたようだ…こんな簡単な事にも気が付かないなんて。

 

 俺は自分の愚かさを少しだけ笑った。

 

 こんな山の中で携帯が使えるかどうかはまた別の問題だが。

 

 俺はズボンのポケットを弄った。

 

 何も無い。

 

 シャツの胸も同じように弄る。

 

 何も無い。

 

 何度目かの絶望が俺を襲う。

 

 しかし、もう狂って壊れるような心は俺には無いらしい。

 

 俺はそのまま地面に倒れこんだ。

 

 しっとりと濡れた草木の水分が服に染みてくるのが分かる。

 

 まだ生きているのは、こんな絶望を感じるためなのか?

 

 もう、絶望を絶望と感じない。

 

 あるのは冷静にそこにある孤独と死。

 

 奇妙なものだ。

 

 知らなかった、諦めがこんなにも心地よい事だとは。

 

 俺は目をつぶると、嫌になるほど見てきた森の世界に別れが告げられるような気がした。

 

 

 真っ暗な世界。

 

 

 何も無いのは今までと同じだが、そこには本当に何も無い。

 

 この森には鳥の囀りすらなかった。

 

 本当に静かだ…

 

 このまま死ねるなら、案外楽でいいかも知れない。

 

 一人で死ぬのはやはり少し寂しいが。

 

 ようやく自分の思考そのものが止まり、完全なる無の世界に旅立てる。

 

 そう思った時だった。

 

 何処かで音楽が聞こえる。

 

 どんな曲かは分からないが、確かに一定の旋律を持った音。

 

 電気的な音…そう、携帯電話の着信メロディーだ。

 

「誰か居るのか?」

 

 さっきまで死ぬ事に何のためらいも無かった俺が、それでも生きると言う事に、まだ未練があったようだ。

 

 目を開ける…そこにはやはりどんよりとした霧。

 

 俺は近くの木にもたれかかると、なんとか上体を持ち上げる。

 

 あたりには何も無い。

 

 しかし、あれは明らかに人工的な旋律だ。

 

 俺は目をつぶり、かすかに聴こえる電子音に神経を集中した。

 

「…こっちか?」

 

 音はそう遠くない所から聞こえてくるようだ。

 

 俺はたまらず駆け出していた。

 

 

 何処にこんな体力が残っていたのか?

 

 急斜面を駆け下りると、その電子音は途切れた。

 

 しかし、電子音はもう必要ない。

 

 そこに現れたのは虹色の丘。

 

 様々な色をした無数の携帯電話が、半分湖に浸かって丘のように見える。

 

「なんだ…これ…?」

 

 俺は目の前に広がる異常な光景に、またしても疑問の言葉を呟く。

 

 まるで携帯電話の墓場…いや、そんな上等な物じゃない。

 

 何処かの回収業者が放置したのだろうか?

 

 それにしても凄い数だ。千や二千なんてもんじゃない。

 

 その携帯の一つが、着信を知らせるメロディとともに、カラフルなランプを点滅させる。

 

「生きてる携帯があるのか!?」

 

 俺は一縷の希望に胸が高鳴った。

 

 俺は携帯で出来た虹色の丘を駆け上る。

 

 もし本当に着信を知らせているのなら、こんな山の中でも携帯が使えると言う事だ。

 

 それに何より、その携帯でつながっている相手が電話の先に必ずいる。

 

 俺は助かる!

 

 俺は一人じゃない!

 

 俺はまだ死ななくていいんだ!

 

 ほんの数秒に俺の頭の中は希望であふれる。

 

 音と光で着信を知らせている携帯に手を伸ばし、希望をつかもうとしたその瞬間。

 

 携帯は、さっきまでの賑やかな自己主張をやめた。

 

 まるで、俺が触れるのを拒絶するかのように。

 

 そんなはずはない。電話に出ようと受話器を手に取り、しかしその瞬間、たまたま通信が途絶えただけだ。

 

 よくある事さ…ただの偶然。

 

 解っていても、今の俺には世界の全てに拒絶されたような錯覚を覚えさせる。

 

 いや、かかってきた電話にどれほどの意味がある?

 

 こちらからかければいいんだ!

 

 携帯が使えるのは間違いない。

 

 俺はその携帯を手に取ると震える指でボタンに触れた。

 

 何処にかければいい?

 

 俺のアパートにはもう誰も居ない。

 

 友人か?いや警察?救急?

 

 俺は混乱した。

 

 しかし、今度の混乱は死と隣り合わせの混乱じゃない。

 

 どこでもいいんだ、誰でもいい、俺がここに居る…それが分かればいいんだ。

 

 しかし、携帯の液晶画面にはなにも映ってない。

 

 ボタンをいくら押してもなんの反応も無い。

 

 そんな事があるのか!?

 

 つい先ほどまで、あんなにはっきり聴こえていたはずの着信メロディ。

 

 それすらも俺の妄想、幻だったのか?

 

 よく見れば、液晶画面にはヒビが入っていて、その中には水が溜まっている。

 

 俺は辺りに散乱する無数の携帯電話を拾い上げると、次から次に電源を確認していった。

 

 どうやら俺は本当に狂ってしまったらしい。

 

 電源どころか、バッテリーすら入っていない物もある…皆どこかが壊れ、水に浸かって既にその機能を停止

していた。

 

 …俺も同じなのか…?

 

 そう思うと、体中の力が抜けた。

 

 俺は携帯の丘に背中から倒れると、そのまま丘の斜面を十メートルほど滑り落ちた。

 

 ガラガラと崩れる携帯電話の丘。

 

 俺はそのまま湖面に落ち、立ち上がる事も出来なかった。

 

 今度こそだめだ。

 

 最早、体を濡らす水の感覚さえ曖昧な情報としてしか認識できなかった。

 

「そんな所で寝てると風邪をひくよ?」

 

 今度は少女の声が聞こえる。

 

 人が生きるか死ぬかの時に、風邪をひくとは…なんとも有難い忠告だ。

 

「また、幻か…」

 

 俺は呟いていた。

 

「幻?…私はあなたの幻だったの?…なんだか素敵ね」

 

 俺はぼんやりと声のする方へ視線を向けた。

 

 そこには何処か悪戯っぽい微笑みを浮かべた少女が立っていた。

 

 俺が仰向けになっているので、少女は上下逆さまになっている。

 

 まだ十三、四歳の少女だろうか?死の間際に見る幻にしちゃ幼い幻だ。

 

「どうせなら、もっといい女が良かったな」

 

 俺もうすら笑いを浮かべていたようだ。

 

「失礼ねぇ…せっかく助けてあげようかと思ったのに」

 

 …助かるだって?…これは幻じゃないのか!?

 

「しっかりしてよ、このくらいの事で」

 

 このくらい?この少女に俺の何が分かるっていうんだ。

 

 俺の事を知っているのか?

 

 …そんな筈は無い…でも、この少女何処かで会ったことがあるような?

 

「ほら、立って」

 

少女は俺のすぐ前に来ると、俺の手を引っ張った。

 

 俺の手の感覚が麻痺しているのか、少女の体温は全く感じられない。

 

 俺はどうにか立ち上がると、しばらく少女の瞳を見つめていた。

 

「どうしたの?」

 

 少女は俺の瞳を覗き返す。

 

 俺は少女のその少女らしからぬ瞳に…いや、少女らしい振る舞いに急に恥ずかしくなり、少女の手を離す。

 

「ごめん…いや、ありがとう。助かったよ」

 

 こんな歳の少女が一人で山奥にいる訳が無い。それは、少女の格好を見ても明らかだ。

 

 少女は薄手の白いワンピース姿で、よく見ると靴も履いていない。

 

 どう見ても登山に出かけるような格好ではない。

 

 行楽か何かでこの森に入ったのだろうか。

 

 何にせよ、家族か引率の大人がいるはずだ。

 

「お父さんかお母さんは近くにいるの?」

 

 しかし、少女はさっきの悪戯っぽい笑みを浮かべるだけ。

 

「綺麗ね、これ…」

 

 俺の質問には答えずに、少女の瞳には携帯電話で出来た虹色の丘が映っていた。

 

 綺麗といえば確かにそうかもしれない。

 

 最近の携帯電話は、青や赤、シルバーにシャンパンゴールド。

 

 カラフルに染められたその小箱の集合体は、まるで教会のステンドグラスのようにも見えた。

 

 様々な人と人の言葉や想いを伝え、しかし、今はその使命を終えて、墓標すら無いただの塵の山。

 

「携帯の墓場か、ここは?」

 

少女に訊いたわけではないが、この奇妙な光景を口にした。

 

「…あなたには、これが携帯電話に見えるのね…」

 

 もっと違う表現をすればいいってのか?しかし今の俺には情緒的に状況を表現する感性などあるはずも無か

った。

 

 一刻も早くこの異常な空間から逃げ出したかった俺は、少女の話を適当に切り上げたかった。

 

「なあ、君の外に誰か大人は居ないのか?」

 苛立ちの為か、語気が荒くなるのを俺は気を付けながら少女に尋ねた。

 

「…いないわ…」

 

 少女はぽつんと呟くだけだった。

 

「…じゃあ、君は何処から来たんだ?」

 

 少女の瞳に俺の顔が映っている。

 

「何処から?…ずっと、あなたのそばに居たじゃない?」

 

 最近の子供は大人の事をからかってそんなに楽しいのか?

 

 俺にはこの少女の言う言葉の意味が理解できないでいた。

 

「なあ!頼むからちゃんと!」

 

 その時、突然俺の背後で携帯が鳴り出す。

 

 俺は振り返った。

 

 そんなはずはない。

 

 手当たりしだい携帯を確認したが、どれも皆壊れて使えそうなものなど無かったはずだ。

 

 まだ俺は幻を見ているのか…だとすると、この少女も俺の狂った脳が描き出した幻なのか?

 

 俺の思考は、また嫌な想像に囚われる。

 

「出てみたら?」

 

 少女は俺に微笑みながらゆっくりとその白い指先で携帯を指差す。

 

 この少女にも、携帯の着信メロディは聴こえているらしい。

 

 それは、この少女が幻でないという事なのか?それとも、全てが幻という事なのか?

 

 俺の耳に聞こえるこのメロディは何も教えてくれない。

 

「どうしたの?また切れちゃうわよ?」

 

 …また?俺が携帯に出ようとしていた時から見ていたのか?

 

 もう確かな物など何も無かった。

 

 幻かどうか、確かめられる術など何もない。

 

 俺に出来るのは、彼女が勧めるまま、今も鳴り続ける携帯に出る事。

 

 俺は七色の丘の中ほどで鳴り続ける携帯電話を手に取る。

 

 俺の鼓動が早くなる。

 

 その携帯電話には、やはりバッテリーが無かった。

 

 俺は目をつぶると、携帯の通話ボタンを押した。

 

『アイ…タイ…アイ…タイ…アイ…タイ…』

 

 若い男の声?アイタイ?会いたいと言っているのか?

 

 壊れたレコードプレーヤーのように、何度も繰り返すその言葉は、何処か悲しそうだ。

 

「何が聴こえたの?」

 

 俺は少女の方を振り返った。

「………」

 

 何を言っていいのか分らない。

 

 俺が言葉をさがしていると、足元でもう一つの携帯電話が鳴り出した。

 

 また少し、俺の鼓動は早くなる。

 

「フフッ…またかかってきたみたいね」

 

 少女は嬉しそうに微笑む。

 

 それは俺に携帯電話に出る事を強要しているように見えた。

 

 俺は少女の視線に逆らえない。

 

『…アイシテル…アイシテル…アイシテル…』

 

 今度は女の声だ。

 

 俺は携帯電話をそっと置いた。

 

「何なんだ…これ…?」

 

 誰に問いかける訳でもない。俺は呟いた。

 

 そんな俺の姿を、少女は楽しそうに見ていた。

 

 また他の携帯電話が鳴り出す。

 

 俺は携帯電話に出る。

 

 

 

『…コロ…シテ…ヤル!…コロ…シテ…ヤル!…コロシテヤル!!』

 

 

 

「うわあ!!」

 

 その、あまりに恐ろしい唸りのような言葉に、俺は携帯電話を放り出した。

 

「アハハハハ!」

 

 少女はころころと笑っている。

 

「何なんだよ!!ここは!!」

 

 俺は思わず声を荒げて少女に怒鳴っていた。

 

 全てがこの少女の悪戯なのか!?

 

 ここに迷い込んだ奴をからかって楽しんでるのか!?

 

「おしえてほしい?」

 

 いっそ悪戯であってほしい、全部嘘だと言ってほしい。

 

 しかし、少女の表情は今までとは違い、とても冷たく感じられる。

 

「………」

 

 俺はまた言葉を失う。

 

 本当に、この少女は『少女』なのか?

 

 こんな表現で、うまく伝わるだろうか?

 

 俺の目に映るのは、確かにまだ十三、四歳の少女だ。

 

 でも、俺には時折、この少女が全てを見透かしたような目をする事に不安を感じていた。

 

 少女の姿を借りたヒトでない何か…そんな馬鹿な想像が湧き上がる。

 

「…ここはね…コトバノハカバなの…」

 

 少女はまた奇妙な言葉を口にする。

 

「言えなかったコトバ…言わなかったコトバ…それが集まって出来た…コトバノハカバ」

 

 俺には到底理解出来なかった。いや、本当は理解したくないだけかもしれない。

 

「ここに集まってくるコトバは、伝えられなかった、伝えなかった、伝わらなかった言葉たち…それはなに

も、愛や優しさに溢れたコトバだけじゃないわ」

 

 さっきの唸るような声は、恨みの言葉だって事か?

 

「この子たちはここに集まって、誰に伝わる事も無く、こうしてずっと泣いているの」

 

 少女の瞳に、その時はじめて悲しげな色が見えたような気がした。

 

 コトバノハカバだって?…そんな事信じられる訳が無い。

 

「まさか!これはただの携帯電話だ!ただの塵捨て場だ!」

 

 そう叫ぶ俺を、少女はただ見つめていた。

 

 哀れな子供を見守る母のように。

 

「そう…あなたには、この子たちが携帯電話に見えるんだったわね…」

 

 俺がおかしいのか?…それとも、この少女がおかしいのか…

 

 全てが判らなくなってきた…

 

「どういう意味だ!」

 

 俺は少女の元に駆け降りると、そのか細い肩に掴みかかった。

 

「…コトバは目に見えないでしょう?…活字や文章なんて、所詮まがい物。コトバは、その口蓋からひとたび

外に出てしまえば、しゃぼん玉のように、マッチの炎のように、雪の結晶のように…消えてなくなる…でも、

だから此処では、その人が一番イメージしやすい形でコトバが見えるの…あなたには携帯電話に見えているだ

け…」

 

…そんな事、あるはずが無い…

 

「嘘だ!…こんな塵に、何の意味も無い!」

 

 俺は叫んでいた。

 

 何故叫ばなければならなかったのか、俺にもわからない。

 

…俺は恐怖していた…

 

「じゃあ、これも塵なのね?」

 

 少女は俺の顔の前で一台の携帯電話をゆらゆらと揺らしている。

 

 メタリックブラックのその携帯電話は、俺が失くした携帯電話にそっくりだった。

 

「それは…」

 

…俺は恐怖していた…

 

「何かしらね?…さっき、そこで拾ったの」

 

 俺の携帯電話だっていうのか?

 

 少女は俺の手から逃れるようにくるりと踵を返すと、携帯電話のストラップを持ってくるくると回した。

 

…俺は恐怖していた…

 

「あれ?メールが入ってる?…えーと…」

 

「やめろ!!」

 

 俺の携帯だとすると、そのメールは、俺の最も見たくないものだ。

 

 しかし、少女は無慈悲にそのメールを読んだ。

 

「……さよなら……だって…」

 

 間違い無い、それは俺の携帯だ…

 

 『さよなら』…それは、瑞樹が俺に送った最後のメール。

 

 

 

 

 

 瑞樹とは、高校の時からの付き合いで、俺が就職してからはいつからとももなく俺のアパートで同棲するようになっていた。

 

 もう十年近い付き合いだったし、いちいち好きとか嫌いとか言うような関係じゃないと思っていた…少なく

とも、俺は…

 

 ある日の事だ。俺は瑞樹とつまらない事でケンカをした。

 

 悪いのは俺だ…いつも俺の勝手で、瑞樹を悲しませていた。

 

 

 その日も、瑞樹と前から行く約束をしていた映画に急にいけなくなった。

 

 急な仕事が入ったんだ…それも、当日の朝にだ。

 

 俺は瑞樹に謝った…つもりだ…

 

「…ごめん、仕事が入った…」

 

 そりゃあ瑞樹は怒ったさ、でも、いつもの事だと思ってた。

 

 いつもの事…急な仕事…俺の歳で瑞樹と二人生活していくのは思ったより大変な事で、俺は無我夢中で働い

た。

 

 自分も働くという瑞樹を止めたのは、単なるやきもちだった。

 

 本当は、瑞樹の事を誰より大切に思っていたのに、いつも俺が振り返ると、そこに瑞樹が居た…それが当た

り前の事だと思っていたんだ。

 それが、俺の単なる思い込みと甘えだと気が付いたのは、仕事から帰って来て、しばらく経ってからの事だった。

 

夜の九時過ぎにアパートに戻った俺は、まず、部屋の明かりがついていない事に気が付いた。

 

 いつもなら俺が帰ってくる頃には、台所で料理を作って待っていてくれる瑞樹がいない。

 

 これは相当怒ったのかとも思ったが、どうせ友達の所にでも遊びに行っているのだろうと、さして気にもし

なかった。

 

 しかし、瑞樹は帰ってこなかった。

 

 俺が本当に慌てたのは、次の日の朝だった。

 

 一晩中瑞樹を待った俺は、いつの間にか眠っていた。

 

 朝になっても帰ってこない瑞樹に、連絡を取ろうと俺は携帯を開いた。

 

 …いつの間にか、携帯にメールが入っていた。

 

 俺が眠っていた間か、それとも、着信に気が付かなかったのか、瑞樹からの、一通のメール。

 

『さよなら』

 

 俺は目の前が真っ暗になるのを感じた…

 

 …情けないと思うだろう?

 

 ずっと一緒にいたんだ。

 

 当たり前のように…

 

 それが、突然自分の半身を失うような感覚。

 

 たかが一晩帰ってこなかったくらい、たいしたこと無いって?

 

 そりゃ、俺もそう思ったさ。

 

 だから俺は待った。

 

 瑞樹が居なくなってから、二日が過ぎ、三日が過ぎ…あっと言う間に一週間が過ぎた。

 

 瑞樹は帰ってこなかった。

 

 

 カレンダーを見て、俺はやっと気が付いた。

 

 瑞樹と映画を見に行くと約束していたあの日。

 

 その日は、瑞樹の25回目の誕生日だったんだ…

 

 …俺は本当に後悔した…

 

「お前が25歳になるまでには、ちゃんと結婚しような…」

 

 

 

 一緒に暮らし始めたころ、俺が言った、なんとも情けないプロポーズの言葉。

 

 それでも、瑞樹は黙って頷き、静かに泣いた。

 

 つまらない意地を張るのはもう止めだ。俺は慌てて瑞樹の携帯に電話をかけた。

 

 つながらない。

 

 瑞樹の友達の所や、瑞樹が立ち寄りそうな所。

 

 しかし、瑞樹の行方はつかめなかった。

 

 仕方なく、瑞樹の実家に電話すると、瑞樹の母が言いにくそうに、瑞樹の帰郷を教えてくれた。

 

 瑞樹は電話にも出たがらず、自分がここに居る事も教えないようにと言ったきり、自分の部屋に篭ったままだという。

 

 俺は仕事も休んで、車で4時間ほどかかる瑞樹の実家に向かった。

 

山道を飛ばして…

 

 

 

 …それから…どうなったんだ?

 

 …思い出せない…

 

 …あの後…俺は瑞樹に逢えたのだろうか…?

 

 …思い出せない…

 

 …俺は恐怖していた…

 

 目の前に居る少女は、いったい何を知っているんだ?

 

 少女の瞳は、冷たい光を宿したまま、瞬き一つせずに俺を突き刺す。

 

「どうしたの?…そんな怖い顔して…」

 

 少女は俺をからかうように言う。

 

 少女の白くか細い手には、俺の携帯が揺れていた。

 

「…それは、俺の携帯だ!」

 

 俺は手を伸ばすと、少女から携帯を奪い取ろうとした。

 

 …しかし、俺の腕は、空しく空を切る。

 

 少女の姿はそこには無かった。

 

 俺は慌てて辺りを見渡す。

 

「どうしたの?…こっちよ?こっち…」

 

 少女の声は俺の背後から聞こえる。

 

 俺は振り返った。

 

 虹色の丘の上、少女はいつの間にかそこに立っていた。

 

「返してくれ!…それは、俺の大切なものなんだ!!」

 

 俺は叫んでいた…悲鳴にも似た声で。

 

「これがほしいの?」

 

 少女の声が俺の耳の側で聞こえる。

 

 同時に、俺の視界の端で揺れる携帯電話が見えた。

 

 俺は振り返る。

 

 確かに俺の顔の直ぐ側で携帯電話が揺れている。

 

 俺は携帯に手を伸ばす。

 

 しかし、寸での所で、携帯は俺の手をすり抜けるように消えていた。

 

「どこを見てるの?」

 

 俺は少女の方を振り返る。

 

 少女はやはり七色の丘の上で微笑んでいる。

 

「何なんだ!?…俺がいったい何をしたっていうんだよ!!」

 

 俺は跪いて少女に縋った。

 

「…あなたにコトバは要らないんでしょう?」

 

 俺と瑞樹の事を言ってるのか?…俺にコトバが要らないって?

 

 そんな事は無い、今の俺に残されている最後の希望は、コトバ以外には無いというのに。

 

 俺にコトバが足りなかったのは認める。ほんの一言のコトバが足りなかったせいで、俺は何物にも変えがた

い大切なものを失おうとしている…

 

 それを取り戻そうとしたとき、やはり頼れるのはコトバだけ。

 

 もう、俺にはそのコトバすら残されていないというのか?

 

「頼むよ…俺のコトバを…コトバを返してくれ…」

 

俺は懇願していた.。

 

 たとえ、俺のコトバで瑞樹が帰ってこなくてもいい。

 

 コトバを伝えられない事の方が、何倍も苦しく辛い事だ。

 

 たった一言でいい、もう一度…もう一度瑞樹に…

 

 

 

「……そう……」

 

 

 

 少女は目を閉じ、俺の携帯をその胸に抱く。

 

 俺も目を閉じ、深く頭を垂れた。最後の審判を待つ罪人のように。

 

 その時、俺の携帯が着信を知らせるメロディを奏でた。

 

 俺は顔を上げ、虹色の丘を見上げた。

 

 そこに少女の姿は無かった。

 

 

 俺の携帯は、すでに俺の手の中にある。

 

 俺は赦されたのだろうか…?

 

 俺はそっと携帯の通話ボタンを押した。

 

 あの少女の声が聞こえたような気がする…

 

「……よかったわね……」

 

 

 

 俺が目覚めたのは、山道の脇の針葉樹の林の中だった。

 

 瑞樹の実家に向かって車をとばしていた俺は、山道で事故を起こし、車から自力で這い出してこの林の中で

気を失っていたらしい。

 

 そこに虹色の丘なんて無かった。

 

 つまり、俺が見たのは全て幻だったという事になる。

 

 しかし、俺の手には、やはり携帯が握られていた。

 

「…痛っ!…」

 

 体を起こすと、背中に鈍い痛みが走った。

 

「夢…だったのか…」

 

 俺は近くの針葉樹にその体を横たえると、携帯の液晶を覗いた。

 

 こんな山奥だというのに、圏外の文字は出ていない。

 

 俺は静かに短縮ダイヤルのボタンを押す。

 

「………」

 

 コールしている。

 

 一回、二回、三回…

 

 相手は出ない…

 

 四回、五回、六回…

 

 頼む…出てくれ…

 

 コールが十回を過ぎた時だ。

 

「…もしもし…」

 

 聴きなれた声…しかし、その声を聞くのは、もう数年ぶりのようにも思えた。

 

 俺は伝えたかったコトバを口にする。

 

「…愛してる…」

 

 

 

横たわる俺の側で、少女の白いワンピースが風に揺れていた。

 

 

 

   END

 

   製作 著作 サークルH2

説明
伝えなかった言葉、伝えたかった言葉、伝えられなかった言葉…
そんな言葉、誰にでもあるのでは?
そんな事を考えながら書いた物語です。

本来のエンディングにはあまりに救いがないので、ほんの少しだけ救いを足した所、妙に女々しい物語となってしまった記憶があります。
久しぶりに読み返すと恥ずかしい事この上ないですが、これも当時の“味”として恥を偲んで公開させて頂きます。
十数年前、某所で公開していた物語の別エンディング「女々しいバージョン」どうぞ。
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