ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都 第一章03 |
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真っ暗な森から、梟が羽ばたく音が小さく響いている。
枝を大きく揺らしながら吹き抜ける風に、エルキュールは首をすくめた。厚手のコートを羽織り、マフラーを首元に巻いてはいるが、頬に触れる夜気は刺すように痛い。
「石流さんってば。おーい」
ネロは、仮宿舎の端にある石流の部屋の扉を乱雑に叩いた。だが、中からは何の反応もない。扉に耳をぴたりと張り付けて物音を伺うネロに、シャーロックは胸元にかまぼこを抱いたまま、壁沿いに反対側の窓辺へと回り込んだ。が、すぐに戻ってきて小さく首を横に振る。
「カーテンが引かれてて、中は見えませんでしたぁ」
その報告に、ネロは扉から耳を離した。
「やっぱり中には居ないみたいだよ、エリー」
訝しげに首を傾げるネロの唇から、綿飴のような白い吐息が漏れている。
エルキュールは仮校舎へと肩越しに振り返ったが、石流のテリトリーである調理室の窓は真っ暗だった。外に設置された調理室の扉上には小さな外灯が設置されていたが、それが仄かに周囲を照らしているだけで、仮校舎の大半が夜に呑まれている。
「もしかして、会長か二十里先生の所じゃないかしら?」
コーデリアは、胸元まで持ち上げた両手の白い指先に息を吹きかけ、隣室の白い扉を見つめた。
「キョウト関係の授業は、石流さんから話を聞いてるって言ってましたよね?」
シャーロックも相づちを打ち、湯たんぽ代わりに抱いたかまぼこの顎を撫でている。かまぼこは目を細め、小さく「にゃー」と鳴いた。
「でも……その……」
迷惑じゃ……と口ごもるエルキュールに、ネロは白い歯を見せた。
「別にいいじゃん、二十里先生なんだし」
「で、でも……」
「それに会長のトコに行けば、温かい紅茶をご馳走してくれるかもしれないじゃん」
ネロは両手を頭上で広げると、乾いた唇を舌先でちろりと嘗めた。むしろそちらが目的だと言わんばかりの様子に、エルキュールは八の字に寄せていた眉をさらに寄せる。
「や、やっぱり明日に……」
「えー、せっかく寒い中、外に出たんだしさぁ」
「私もアンリエットさんのお部屋で温かい紅茶が飲みたいですー」
ネロの反論に、シャーロックも同意している。
「もう、二人とも現金なんだから……」
コーデリアは軽く肩を落とし、大きく息を吐いた。
行きがけの駄賃とばかりに、ネロは軽やかに二十里の扉の前へと足を向けている。そして大きく片手を振り上げると、エルキュールは慌ててその手を掴み、ドアをノックするのを押し止めた。
「ネロ、待って……っ」
「どうしてさ?」
頬を赤くして首を振るエリーに、ネロは大きく息を吐き出している。
「やっぱり、その……もう遅いから……」
「まだ八時だよ?」
「で、でもっ」
煮えきらないエルキュールに、ネロは不満げに唇を尖らせている。シャーロックとコーデリアが二人の様子を見守っていると、ドアノブが回る小さな音が耳に入った。
「お前等、そこで何してんの?」
コーデリアが声のした方へと顔を向けると、二十里の隣室の根津が、小さく開いた扉の隙間から怪訝そうな顔を覗かせていた。昼間の制服姿ではなく、ジャージのような緋色の室内着に厚手の半纏を羽織ったラフな格好をしている。
「あら、根津君」
「こんばんはー」
シャーロックが朗らかに片手を挙げると、根津は眉を寄せたまま「おう」と返した。
「それ、温かそうでいいですねー」
シャーロックはかまぼこを抱いたまま根津の方へと歩み寄ると、物珍しそうに根津の半纏を摘んだ。
「もこもこですー」
「石流さんが作ってくれたんだよ。半纏って言うんだってさ」
「おでんに入っている、白くてふわふわしたやつですね!」
「それはハンペンだろーが」
根津は、呆れた眼差しをシャーロックへ向けた。それから白い息を吐き出し、二十里の部屋の前にいるネロとエルキュールへと顔を向ける。
「で、何でお前等がここにいるんだ?」
「石流さんに用事があったんだけどさぁ」
根津の問いに、ネロは二十里の扉の前から離れた。両手を頭の後ろで組み、根津の方へと歩み寄る。
「ほら、二十里先生が百人一首の話がどうって言ってたじゃん? エリーが詳しく聞きたいっていうからさぁ」
ネロの言葉に、根津は「へぇ」と間が抜けたような声を漏らした。そして大きく目を瞬かせ、エルキュールをまじまじと見つめている。
珍しいものでも見るような視線に、エルキュールは赤面して顔を伏せた。
「エルキュールにしては随分と積極的だなぁ」
そう感想をこぼすと、根津は後ろ手に自室の扉を閉めた。そして仮校舎へと顔を向けたが、灯りの点っていない調理室に小さく首を傾げている。
「部屋にいないなら、敷地内の見回り中じゃねーの?」
根津はミルキィホームズ達へと視線を戻すと、胸元で両腕を組んだ。
「石流さん、そんなこともしてるの?」
コーデリアが目を丸くすると、根津は呆れたような表情を浮かべている。
「元々やってたじゃねーか」
根津はぶるりと体を震わせ、指先をすっぽりと覆った半纏の袖を口元へと寄せた。
「だから、戻ってくるまで結構掛かると思うぞ」
工事中の校舎や宿舎を含めると、敷地はかなり広い。エルキュールが「やっぱり明日にします」と口に出しかけたところで、シャーロックが朗らかな笑みを浮かべた。
「じゃぁ、根津君の部屋で待たせて貰いましょう!」
「はぁ?」
シャーロックの提案に、根津は戸惑った表情を浮かべた。大きく目をしばたたかせ、シャーロックを見返している。
「根津の部屋なら暖房あるからいいよね。それに」
ネロはシャーロックの言葉に頷くと、根津へと身を乗り出した。そして根津の胸元で鼻をひくつかせる。
「さっきからいい匂いがするんだよなー」
身を寄せるネロに、根津は反射的に数歩後ずさった。しかしすぐに自室の扉に背が当たる。頬をひきつらせる根津を見上げ、ネロは唇の端を大きく持ち上げた。
「お前、ココア飲んでただろ?」
「なんで分かるんだよ……」
呆れた面もちで息を吐き出す根津に、シャーロックが羨望の眼差しを向けた。
「いいなー。私もココア飲みたいですー」
そして胸元のかまぼこに同意を求めるように、小さく首を傾けている。
「僕らにいれてくれもいいんだよー?」
上目遣いで強請るネロに、根津は強く眉を寄せた。そして唇を尖らせ、顔を背けた。
「あるけど絶対にやらねぇ」
「根津のケチんぼ!」
小声で拒否する根津に、ネロが頬を膨らませている。
口論を始めそうな雰囲気にエルキュールが狼狽えていると、背後の扉が勢いよく開かれる音が耳に入った。
「うるさいよ、君たちッ」
突如響いた二十里の甲高い声にネロは飛び上がり、根津も目を丸くした。エルキュールが振り返ると、自室の扉を大きく開けた二十里が身を乗り出している。白のYシャツに白のパンツという出で立ちだったが、いつもの色鮮やかな黄緑色のジャケットを上に羽織っていた。
「もう、驚かさないでよ!」
ネロが抗議の声を挙げると、二十里は唇から小さく舌を覗かせた。
「君たちのトークが聞こえたから、ね?」
そしてエルキュールへと目を向けると、微笑を浮かべた。
「石流君なら外出してるよ。それを教えてあげようと思ってさ」
「こんな時間に、どこにだよ」
根津が眉を寄せると、二十里は顎に手をあてて「さぁ?」と肩をすくめている。
「もしかしてバイトでもしてるの?」
何気なく吐き出されたネロの言葉に、エルキュールは地面へと視線を落とした。
アンリエットが戻ってくる少し前に、エルキュールは、学院崩壊以降ずっと消息不明だった石流と遭遇したことがある。その時は昼間だったが、彼が働いているというバーは、ネオンがきらびやかなヨコハマの夜の街の一角にあった。レストランではなく夜の店で働いているということがたまらなく意外で、エルキュールの中で強く印象に残っている。
それから暫くしてラード事件があり、事件後にトイズが戻った事を報告しようと再び訪ねた時には、彼の姿はそこにはなかった。代わりに店長だという年配の女性が応対してくれたが、石流は「己があるべき場所に戻る」と言い残していたのだという。
そうしてさらに数日後、彼はアンリエットや二十里、根津と共に崩壊したままの学院へと戻ってきた。エルキュールは、その時の彼と特別何か会話を交わしたわけではない。だが、彼が言う「己の居場所」とはアンリエットの傍なのだろうと感じていた。
それなのに、ここ数日の彼の様子は、どこか違和感があった。何が妙なのかと問われても巧く答えられないが、箒を手にしたまま、物思いに耽るように佇む姿をしばしば見かけている。
あの店で、石流が一瞬だけ見せた憂いの表情とも異なっていた。それはむしろ熟考中の棋士を連想させるような横顔で、それがさらに不安を煽っている。
小さく息を吐き出すと、エルキュールは自分を見つめる視線を感じた。顔を上げると、傍らの二十里がアイスブルーの瞳を僅かに細め、エルキュールを見下ろしている。そして自室の扉を閉めるとその場でくるくると回転し、闇に包まれた仮校舎の方へと身体を向けた。
それとほぼ同時に、外灯の届かない闇の中から低い声音が響く。
「お前達、ここで何をしている」
「やぁ、おかえり」
訝しさに満ちた言葉に、二十里が軽く眉を寄せて笑い返した。
エルキュールが声のした方へと目を向けると、紺のタートルネックに黒のパンツという出で立ちの石流が、眉間に皺を寄せて足を止めている。その長身は闇夜に溶け込みすぎていて、彼が歩み寄ってくる様が正面から見えていたはずのシャーロックやコーデリアも、初めて彼の姿を見つけたように、目を丸くしていた。
「皆、君を待ってたのさ」
朗らかに告げる二十里に、石流はさらに怪訝そうな眼差しを返した。
「エルキュールが君に訊きたい事があるそうだよ」
二十里の言葉に石流は眉をひそめ、自分へと目を向けてくる。その鋭い眼差しに気圧され、エルキュールは顔を伏せた。
「あの、その……今日の授業で二十里先生が……」
勇気を振り絞り、授業で二十里が語った内容をぽつぽつと説明する。
「それで、その、もっと詳しく知りたくて……」
エルキュールが口を閉じると、石流は小さく息を吐き出し、二十里に呆れた眼差しを向けた。
「お前、そんな事まで話したのか」
「ん? 駄目だったかい?」
二十里の言葉に、石流は僅かに肩を落としている。
「他の生徒ならともかく、こいつらに理解できるとは思えん」
「ヒドイ言われようですぅ」
「失礼よねぇ」
シャーロックは頬を膨らませ、コーデリアはむっとした表情で石流を見返した。その反応に、石流は意外そうに眉を広げた。
「エルキュールだけでなく、お前達も聞きたいのか?」
「だって、百人一首やこうきんわっかしゅーに謎があるってことですよね?どんな謎なのか気になるじゃないですか」
かまぼこを胸元に抱き上げながら身を乗り出すシャーロックに、コーデリアは大きく頷いている。
「あの、シャロ……それをいうなら古今和歌集……」
エルキュールがもじもじと訂正すると、ネロは肩をすくめた。
「僕は別にいいよ」
お菓子が出るなら別だけど、とボヤくネロに、根津は鼻先で笑っている。
「まぁ、花より団子なお前の頭じゃ無理だろうしなー」
「なんだとぅ?」
「大体今日のその授業だって、お前のせいで酷い目に遭ったじゃねーか」
「鈍くさい根津が悪いんですぅ」
言い争い始めた二人に、石流は深い溜め息と共に一喝した。
「うるさい、近所迷惑だ」
そしてズボンのポケットから鍵を取り出して自室の扉を開け、「少し待っていろ」という言葉を残して中へと入っていく。
そして数秒後、厚手の文庫本を手に再び姿を現した。自室の扉に鍵を掛け、二十里に向けて何かを放り投げる。二十里は放物線を描いて銀色に煌めくそれを片手で受け取ると、掌に視線を落とした。
「なんだい、これ?」
二十里の掌には、親指がすっぽりとはまりそうな銀色の輪に通された鍵が二つ載っている。
「仮校舎と教室の鍵だ。ここだと寒いから、教室までこいつらを連れていけ」
石流の言葉に、二十里は軽く両目を見開いた。
「え? ボクがかい?」
「元はといえばお前のせいだろう」
呆れた眼差しを向ける石流に、根津はきょとんと目をしばたたかせている。
「なんで石流さんの部屋じゃなくて、教室?」
「この大人数では私の部屋に入りきらないからな。それにこいつらを部屋には入れたくない」
荒らされるからな、と石流はミルキィホームズを見渡すと、僅かに眉を寄せてエルキュールへと歩み寄った。そして手にした文庫本を彼女へと差し出す。
「これならお前にも分かりやすいはずだ。暫く貸してやるから、後で読んでみるといい」
「あ、有り難うございます……」
エルキュールは、二センチ程もある分厚い文庫本を両手で受け取ると、表紙に目を落とした。表紙には黒文字で「古今和歌集」とあり、表紙の上半分には、何かの絵巻物から引用されたのか、十二単に身を包んだ女性の後ろ姿が描かれている。その下半分にはひらがなのみで和歌が載っていたが、達筆すぎてエルキュールには読みとることができなかった。ぱらぱらと本を開くと、右ページに和歌が、左ページに古語の解説と現代語訳が載っている。どうやら古今和歌集の全てが収録されているらしい。
眼を輝かせてページをめくるエルキュールに、石流は僅かに目元を緩めた。しかしそれも一瞬で、すぐに真顔へと戻る。
「私はアンリエット様に戻った旨を報告して、教室使用の許可を頂いてくる」
そう告げると、石流はエルキュールの傍らを通り過ぎた。乾いた土を踏みしめる微かな音がエルキュールの耳に届く。しかしそれよりも大きな声で、二十里の声が飛び込んできた。
「ねぇ、エルキュール・バートン。それの335番目にはどんな歌が載っているのかな?」
「335番目……ですか?」
突然の問いに、エルキュールは戸惑った。本から顔を上げて傍らの二十里を見上げると、二十里はエルキュールの背後へと目を向けている。エルキュールが振り返ると、石流は足を止め、肩越しにこちらを振り返っていた。無表情なままだったが、微笑を浮かべる二十里を虎視している。
石流の様子を怪訝に感じながらも、エルキュールは二十里の部屋の入り口から漏れる灯りを頼りに、ページをめくった。
「あの、小野篁の、この歌です……」
エルキュールが小さな声で詠唱すると、根津は怪訝そうに二十里を見上げた。
「それって確か、アンリエット様が訊いてきた数字のやつだよな?」
そしてエルキュールの傍らへと歩みより、横から彼女の手元を覗き込んだ。隣にいたネロも一緒になって背後から覗き込み、エルキュールが指さす和歌を見下ろしている。
「なにそれ?」
首を傾げるネロに、根津はエルキュールの手元の本へ視線を落としたまま、軽く眉を寄せた。
「今日の夕方、アンリエット様が、教室に残っていた俺たちに訊かれたんだよ。この六つの数字は何だと思いますかって」
そのうちの一つがこの和歌だったと語る根津に、コーデリアが小首を傾げた。
「抜き打ちテストか何かだったの?」
「あー、そういやお前らは居なかったもんなぁ」
根津はコーデリアの問いに首を横に振ると、思い出すように言葉を続けた。
「35/100みたいな変な数だったんだけど、安部と獅子内さんが、百人一首を指すんじゃないかって言って、じゃぁそれがどういう解釈になるかって話になったんだよ」
確認するように根津が二十里を見上げると、二十里は肯定するように小さく頷いている。
「もっと詳しく聞きたいですー!」
目を輝かせるシャーロックに、根津は照れ笑いを浮かべ、頬をかいた。
「なら、ついでに教室で説明してやるよ」
そう告げると「端末を取ってくる」と言い残し、自室へと戻っていく。
エルキュールは手にした本を閉じ、両手で胸元に抱いた。早く読みたいが、百人一首を示すらしい数字の話も気になってくる。そわそわしていると、二十里の軽い声が響いた。
「おや、どうかしたのかい?」
エルキュールが顔を上げると、二十里が前方を見つめている。その視線の先へと振り返ると、石流が先程の姿勢のまま佇んでいた。僅かに目を細めて二十里を見返していたが、やがて無言で向き直り、歩を進めた。瞬く間にその背は闇に溶け込むように見えなくなる。
そこへ根津が戻ってきて、二十里はミルキィホームズ達へにこやかな笑みを向けた。
「ま、ここだと暗いし寒いから、石流君の言うように教室にゴーだね」
そして指先で鍵を弄びながら、仮校舎まで先導していく。エルキュールは、暗闇に怯えるコーデリアに腕を取られた格好で足を進めた。シャーロックとネロは、根津の羽織った半纏に抱きついたりちょっかいを出しながら、賑やかに後ろからついてくる。
二十里は仮校舎へと辿り着くと、真っ暗闇の中にも関わらず、もたつくことなく鍵穴に鍵を差し込んだ。どうやら夜目が効くようで、器用に鍵を開けると、手探りすることなく入り口近くの壁にある電源の元へ足を向け、室内の電灯を点けていった。
真っ暗だった廊下に白く煌めく光が一斉に広がり、エルキュールは目を細めた。隣では、コーデリアが心底安堵したような吐息を漏らしている。
仮校舎に足を踏み入れると、外よりは僅かに温かいが、冷え冷えとした空気に満ちていた。二十里は廊下を進み、教室の鍵を開けている。そして先に中に入って、電灯を点けた。
「うひゃー、中も寒いなぁ」
駆け込むように教室に足を踏み入れたネロが、胸元で両手を組み合わせ、腕をさすっている。
教師である二十里が一緒だとはいえ、私服で夜の教室に入るというのはどこか妙な感じだった。授業ではないからどこに座ってもいいのだろうが、なんとなく、昼間と同じ席に腰を下ろしていく。
エルキュールが教壇前にある自分の席につくと、隣席のコーデリアは椅子を寄せ、エルキュールに身を預けるように左腕を抱きしめた。
「あ、あの……コーデリアさん……?」
「だって寒いんですもの」
「あー、コーデリアだけずるい!」
エルキュールの右隣のネロは、自分の椅子を寄せると、エルキュールの右腕にしがみついた。
「私も混ぜて下さいー」
シャーロックはかまぼこを膝に乗せ、コーデリアの右肩に抱きついている。
「それで根津君、さっきの数字の話なんですけど」
コーデリアに抱きついた姿勢のまま、シャーロックは、ネロの真後ろに座った根津へと顔を向けた。
根津は、抱きついて暖を取り合うミルキィホームズに呆れ返った眼差しを向けていたが、シャーロックの言葉で、半纏の裾から細長い端末を取り出した。両手を動かして画面を操作し、椅子から立ち上がって教壇へと進んでいく。そして白いチョークを手に取り、時折端末へと視線を落としながら、黒板に数字を書いていった。六つの数字を二列に分けて書き込み、根津は上が女からで下が男の返信だと説明する。
「それで最初の335/1111だけは古今和歌集で、後は百人一首ぽいって話だったんだよ」
「何でですか?」
「えっと……古今和歌集は全部で1111首あって、百人一首は100首だから、それぞれ対応する和歌を指しているんじゃないかって」
根津は軽く眉を寄せると、すがるような眼差しを二十里に向けた。だが二十里は小さく肩をすくめるだけで、説明を代行する気がない素振りを見せている。
根津は小さく息を吐くと、言葉を詰まらせながら、放課後にこの教室内で交わされた会話をかいつまんで説明した。時折端末に目を落とし、数字が指すという和歌の解釈も付け加える。
「暗号みたいで、なんだかドキドキします!」
根津の説明が終わると、シャーロックは満面の笑みを浮かべた。
「でもさ、なんで和歌でやりとりしてるのさ?」
まだるっこしいなぁと、ネロは眉をひそめている。
「あら、なんだかロマンティックでいいじゃない」
コーデリアはうっとりとした表情を浮かべた。
「大昔のこの国では、男女のやりとりはこういう風に歌を交えていたんでしょう?」
「でもさぁ、全然恋愛のやりとりに思えないんだけど」
「そんなの俺に言われてもさぁ」
ネロの率直な感想に、根津は困ったように軽く眉を寄せている。
「でも、何か変じゃないですか?」
「変って?」
小首を傾げるシャーロックに、ネロは大きな瞳を瞬かせた。
「なんていうか……これ、そもそも全部同じ相手に向けているんでしょうか」
「どういうこと?」
シャーロックが口にした言葉に、コーデリアとエルキュールも首を傾げている。
「ええと……女が男に宛てているってことですけど、途中でその相手が変わってるってことはありませんか?」
「つまり、最初はAに宛てていたけど、途中でBに変わっているってことか?」
根津が眉を寄せると、シャーロックは小さく頷いた。
「はい。この最後の三つの数字がそうじゃないかなって感じたんですけど」
「でもアンリエット様は、女が男に宛てているとしか説明されなかったからなぁ」
そこは気にしなくていいんじゃねぇの、と根津は気楽な口調で返している。
シャーロックは天井を見上げると、再び首を傾げた。
「あと、どうして最初の和歌だけ、こうきんわっかしゅーなんでしょう?」
「シャロ、それをいうなら古今和歌集……」
エルキュールが訂正するように口を挟んだが、シャーロックはそのまま言葉を続けた。
「だって、他は全部百人一首からじゃないですか。だったら最初から百人一首にすればいいのにって思いません?」
そして、不思議そうな面もちを浮かべている。
「それに、自分の気持ちを歌で言い換えているなら、百しかない百人一首より、もっと数の多いこうきんわっかしゅーの方が、ぴったりしたものがあるんじゃないかなーって思うんですけど……」
そこまで口にして、シャーロックは首を左右に傾げながら、一本だけ伸ばした指先を頬に当てた。どうやら、自分が感じている疑問を巧く言い表せないでいるらしい。
「つまりシャロは……どうして最初だけ古今和歌集のこの歌だったのか、そしてどうして途中で百人一首になったのか、それが気になるってこと……?」
エルキュールは、彼女が口にした言葉を頭の中で整理し、言わんとすることを推測してみた。それは見事当たっていたらしく、シャーロックは目を輝かせ、大きく頷いている。
「大した理由があるようには思えねーけどなぁ」
根津は教壇に肘をつき、両手の上に顎を載せた。彼の言葉に同意するように、ネロも小さく頷いている。
「考えすぎだよ、シャロ」
「そうでしょうか……?」
「だって、男の方が百人一首で返したのなら、女の方だってそれに倣うんじゃないの?」
コーデリアは、エルキュールの肩に頬を寄せた。
「二十里先生はどう思いますか?」
顔を横に傾けた姿勢で、コーデリアは二十里へと目を向ける。だが二十里は、窓辺にある自分の席に腰を下ろしたまま、降参するように肩をすくめてみせる。
「さぁ?」
唇の端に笑みを浮かべてウィンクを返す二十里に、ネロはエルキュールの腕に抱きついた姿勢のまま、呆れた眼差しを返した。
「全く、頼りにならない先生だなぁ」
「だから、こういうのはボクの専門外なんだってば」
気分を害した風でもなく、二十里は小さく笑っている。
「でもさ、これって小野篁って人の歌なんだよね? 有名な人なの?」
きょとんとした顔で尋ねるネロに、二十里は眉を広げた。
「色々と伝説が多い人だから、知ってる人は知ってるって感じかな?」
そして生徒達を見渡していく。エルキュールは小さく頷き返したが、シャーロックとネロ、コーデリア、そして根津は、初めて聞いたと言わんばかりに首を傾げた。
「明日の授業でやるつもりだったんだけどねぇ」
二十里は椅子から立ち上がり、口元に微笑を浮かべている。
「じゃぁ石流君が来るまで、軽く予習と洒落込もうか」
その宣言に、根津は端末を手に自分の席へと戻った。エルキュールに寄りかかっていたコーデリアは身体を起こし、背筋を伸ばす。シャーロックは机上で丸くなっているかまぼこを自分の膝上に移し、ネロは溜め息と共に椅子にもたれ掛かった。
二十里は黄緑色のジャケットを翻しながら、くるくると回って教壇へと進んだ。そして白いチョークを手に取ると、エルキュールを真っ直ぐに指す。
「小野篁について、ユーが知っている事を話してごらん、エルキュール・バートン」
唐突に指名され、エルキュールは身体をすくめた。狼狽えたまま腰を僅かに浮かしたが、座ったままでいいと続ける二十里に、すとんと腰を落とす。
「あの……小野篁は、六歌仙の一人である小野小町の祖父だと言われている人で……平安時代初期の貴族です。和歌や漢詩だけでなく、書道や法律、武術などあらゆる分野に長けた人だったとか……」
エルキュールはやや俯いたまま、以前本で読んだ記憶を辿った。
「あと、生きたままあの世とこの世を行き来してて……、閻魔様の補佐として、地獄の裁判官をしてたという伝説もあります……」
「エクセレント!」
甲高い二十里の誉め言葉に安堵し、エルキュールはほっと吐息を漏らした。
「それってトイズなのかしら?」
エルキュールの説明に耳を傾けていたコーデリアが、軽く首を傾げている。トイズには様々な能力があるが、あの世とこの世を自在に行き来するというのは、荒唐無稽に感じられた。ましてや、千年以上も昔の人物だ。
「もしかしたらそうかもしれないけど、単なる伝説だろうね」
二十里は大きく頷くと、唇の端を軽く持ち上げた。
「他には、妹と愛し合ったけれど死に別れたという話もあるけど、嵯峨上皇とのエピソードが特に有名なのさ。誰にも読めなかった立て札を、嵯峨上皇に命令されたから解読したのに、その札を立てた犯人だと疑われた。それでその疑惑を払う為に、上皇から出された問題を見事解いた、とかね」
詳しくは明日説明するよと、二十里は胸を反らした。そして視線を落とすと、再び手にしたチョークでエルキュールを指し示す。
「確か百人一首にも小野篁の歌があったよね。分かるかい、エルキュール・バートン」
「は、はい……」
エルキュールは小さく頷くと、「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよ海人の釣り舟」という歌を口にした。
「これは、篁が隠岐へ流される時に詠んだ歌だと言われています……」
「流されるって?」
「流罪ってことだろ」
尋ねるネロに、根津が後ろから口を挟んだ。
「篁は遣唐使に選ばれたことがあるんだよ。しかも副使という大役だ。ところが航海に二回ミステイクして三度目の時、大使である藤原常嗣が、自分の船が漏水して傷んでいるからと、篁の船と交換したんだ。それで彼は怒って、仮病で遣唐使をボイコットした挙げ句、遣唐使や朝廷を風刺する漢詩を作った。これには彼を重宝していた嵯峨上皇も流石に激怒してね、流罪になったのさ」
二十里はすらすらと説明を続けた。
「普通は流されたらそれっきりになることが多いけど、彼は余程優秀だったんだろうね。二年後には呼び戻されて、その後は順調に出世してるよ」
二十里は軽く肩をすくめると、黒板へと振り返った。そして白文字で野狂、野宰相と書き綴りながら、彼の反骨的な精神や振る舞いからそう呼ばれていたと説明する。
「狂とか宰相はなんとなく分かるとしてもさ、野って?」
根津の問いに、二十里は肩越しに彼へと目を向けた。
「小野氏の「野」だよ」
そしてくるりと回転して正面へ向き直ると、チョークを置き、軽く両手を叩きながら口を開いた。
「この小野篁の孫の一人といわれているのが、六歌仙で有名な小野小町さ。でも篁については生年から死亡年までしっかり記録が残っているけど、小町の方は全然無いらしくてね。だから娘だとか年の離れた妹だとかいう説もあるらしいよ」
二十里は腰に左手をあて、右手を教壇へとついた。
「ちなみに、小野篁があの世へと出かけていったという井戸がキョウトには残っている。それが六道珍皇寺さ」
研修旅行の一日目に訪問する予定だと、二十里は補足した。
「だから明日からの授業では、それらについて簡単に説明していく予定だよ」
二十里は黒板消しを手に取ると、自分が書いた文字や、根津が残したままの数字を消し始めた。そこへ、静かに廊下を進む足音と、ばたばたと大股で歩く足音が響いてくる。それは教室の前で止まり、がらりと扉が開かれた。
「あら、授業中でしたか?」
顔を覗かせたのはアンリエットで、制服の上に黒のコートを羽織い、微笑を浮かべていた。その背後には、私服の上にジャンパーを重ね着したブー太の姿もある。
「あれ、なんでお前もいるの?」
「ヒドい言われようだブー」
目を丸くするネロに、ブー太は露骨に顔をしかめた。それをなだめるようにアンリエットは微笑を浮かべ、肩越しに振り返っている。
「石流さんが古典について解説して下さるとのことでしたので、折角ですからブー太さんにも声を掛けてみました」
アンリエットが教室へと足を踏み入れると、真っ直ぐに教壇の前を通り過ぎ、ミルキィホームズの席の斜め前で足を止め、くるりと振り返った。ブー太は後ろ手で扉を閉めると自分の席へと足を向け、椅子を引いて腰を下ろしている。
そのまま佇むアンリエットに、ネロはにこやかな笑みを向けた。
「会長もどっかに座れば?」
「え? そうですわね……」
ネロの言葉に、アンリエットは思案するように周囲を見渡している。二十里が窓辺にある自分の席を勧めると、コーデリアは軽く眉を寄せた。
「そこだと黒板が見えにくいですよ」
「そうだよ、僕達の近くにしなよ」
ネロの言葉に、二十里が頬を膨らませて抗議の声をあげた。その騒々しさに根津は眉を寄せ、エルキュールは困ったように俯く。その一方で、シャーロックが無邪気な笑みを浮かべ、「アンリエットさん、ここ空いてますよー」と自分の背後の席をぺちぺちと叩いた。
アンリエットは暫し逡巡した後、シャーロックが指し示した席へと足を向け、そこへ腰を下ろした。少し離れてはいるものの、隣へ腰を下ろしたアンリエットに、根津は嬉しそうにはにかんでいる。
「それで、その石流さんは?」
コーデリアが尋ねると、アンリエットは両手を机上で重ねた。
「調理室で暖かい飲み物を準備して下さるそうです」
「あの、じゃぁ、お手伝いを……」
この人数分のコップを運ぶのは大変だろうとエルキュールが腰を上げると、根津も立ち上がった。
「あ、俺も手伝うよ」
そんな二人の様子を微笑ましく見上げ、アンリエットは教室の後方へと顔を向けた。
「でも、それには及ばないようですわよ」
その視線の先へと皆が顔を向けると、私服のままの石流が、廊下をゆっくりと進んでいる。根津は教室の入り口へと歩み寄ると、ぴたりと閉められた扉を大きく開いた。石流は扉の脇に立つ根津に小声で礼を告げ、教室へと足を踏み入れていく。手には大きめの銀の盆を持ち、その上に白のティーポットと、ソーサーに載った白のティーカップがあった。そしてその周囲を囲むように、昼食で使われるプラスティック製のカップが置かれている。
石流は教卓の前を通り過ぎると、真っ直ぐにアンリエットの傍らに向かい、足を止めた。通路を挟んで彼女の隣にある机に盆を置き、ティーポットを手に取る。カップはどれも空だったが、まずはティーカップの載ったソーラーを手に取り、ポットをやや高く持ち上げ、琥珀色の液体をゆっくりと注ぎ始めた。
暖かな湯気と共に、花畑の中に立っているかのような香りが、ふわりと漂ってくる。
「どうぞ」
石流はティーポットを盆の上に置くと、手にしたソーサーをアンリエットの前にある机上に置き、そっと差し出した。それから盆に並べた残りのカップにポットを傾け、均等の量になるよう注いでいく。
空になったティーポットを盆の中央に置くと、石流は盆を持ち上げ、まずはアンリエットの背後の席に座るブー太にカップを差し出した。それから教室の後方から回って根津の方へと足を向け、彼の席にカップを置く。そして教卓上に二十里の分のカップを一つ置き、最前列に陣取るミルキィホームズへと無言で盆を差し出した。
「これもーらいっ」
「じゃぁ私はこれ」
「わーい、これくださいー」
各々が手を伸ばし、最後にエルキュールがカップを受け取った。石流は通路を挟んだネロの隣席に盆を置くと、椅子を引き、そこに腰を下ろす。
「美味しいですー!」
「あったかーい」
「冷えた身体に染みるわぁ」
皆が一息吐く中、エルキュールは机上に置いたカップを両手で包み、暖を取りながら唇へと運んだ。琥珀色の液体をそっと含むと、カモミールの柔らかな香りが口の中を満たしていく。
カップを机上に戻すと、エルキュールは石流の方を伺った。石流は教壇に向かって斜めに椅子に座り、長い足を組んでいる。そして盆の上に一つだけ残ったカップを手に取ると、口元へと運んだ。
「それで、何が訊きたい」
石流はカップを唇から離すと、エルキュールへと目を向けた。急に視線がぶつかり、エルキュールは慌てて目を伏せる。
「古今和歌集の歌が一つにつながるとか、百人一首が呪いの歌集とか言ってたって話だよ」
ネロが横目で石流を伺うと、エルキュールへと顔を向けた。だよね、と確認するように小首を傾げるネロに、エルキュールは小さく頷き返す。
「ではまず、古今集から説明する」
カップを机上の盆の上に置き、石流が軽く息を吐き出すと、アンリエットが柔らかな笑みをこぼした。
「あら、教壇に立たないんですか?」
その言葉に、石流は困ったように眉を寄せ、アンリエットを見つめ返した。
「今だけ君に譲ってあげるよぉ?」
カップを手に自分の席へと戻った二十里は、ニヤニヤと笑みを浮かべて石流を見つめている。石流は二十里をへい睨したが、すぐに目をそらせた。
「古今集や新古今集の歌は、全てというわけではないが、一つ一つが次の歌に繋がっていくように並べられている」
石流は組んだ足を戻すと、ゆっくりと唇を開いた。
「例えば……そうだな」
そして静かに立ち上がると、教壇へと足を向けた。白のチョークを手に取り、皆に背を向けたまま言葉を続けていく。
「巻第十二・恋歌二の一首目は、小野小町のこの歌だったはずだ」
そして黒板にすらすらと、
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
と書き綴った。
エルキュールは机上に置いた文庫本を開き、石流が口にした巻名を目次で探し、急いでめくった。照らし合わせると、一言一句そのままに黒板に記されている。
石流は白のチョークから黄色のチョークに持ち替えると、「寝」「人」「見え」「夢」に横線を入れた。そして朗々とした声を響かせた。
「二首目も同じく、小野小町のこの歌」
淡々と続けながら再び白のチョークを手に取り、黒板へと和歌を書き綴っていく。
うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき
それから黄色のチョークで、「寝」「人」「見て」「夢」に横線を入れた。次に青のチョークを手に取り、「恋しき」を四角で囲っていく。
「三首目も、同じく小野小町の歌だ」
石流は手にした青のチョークを置くと、白のチョークを再び手にとって、
いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣を返してぞ着る
と書き綴った。そして青のチョークで「恋しき」を四角く囲む。
「このように、前後の歌が「人」や「恋しき」など、幾つかの言葉で繋がっている」
石流の説明に耳を傾けながら、端末と黒板に記された和歌を見比べていた根津は、小さな声を漏らした。
「あ、ホントだ」
「スゴいです……!」
シャーロックは興奮した面もちで、目を輝かせている。
石流は、この後も「夜」や「袖」などの言葉で延々と繋がっていくのだと説明した。
「それだけでなく、歌に読まれている情景や言葉に合わせ、一年の景色の移り変わりに沿って歌が並べられている」
石流はチョークを置くと、小さく息を吐いた。そして先程まで座っていた席へと足早に戻り、腰を下ろす。
あくまで教壇に立つ気はないらしい。
取り繕うようにカップを持ち上げ、無表情のまま唇へと運ぶ石流を伺いながら、エルキュールは密かに舌を巻いた。
用務員兼コックという仕事柄のせいもあって、とても文学に精通しているようには見えなかった。だが、小野小町の歌を一言一句間違えずに口にするどころか、古今和歌集のどこに掲載されているかまで把握している。
皆もそれは同様だったようで、感心したような眼差しを石流へと向けていた。しかし、石流は気まずそうに眉を寄せ、カップに視線を落としている。
「でも、どうしてわざわざ、こんな手の込んだ作りになっているんですか?」
コーデリアが素朴な疑問を口にすると、石流は手にしたカップを机上の盆へと戻した。
「簡潔にいえば、言霊信仰だ」
そして身体の向きをずらし、椅子に横向きに座るような格好を取る。
その挙動に、エルキュールは身体を少しずらし、石流の方へと向いた。ブー太もカップを両手で持った姿勢で、石流へと顔を向けている。根津は通路側に投げ出すように足を組み、アンリエットは僅かに椅子をずらして石流の方を向いていた。その一方で、ネロは気だるげに机に頬杖をついている。コーデリアは両手を膝の上に載せて背筋を伸ばし、シャーロックは膝上で眠るかまぼこを撫でながら、好奇心に満ちた眼差しを石流へと向けていた。
「昔は、口に出した言葉そのものに力が宿ると考えられた。それを言霊信仰という」
石流は、淡々とした口調で説明を続けた。
「言霊というのは、口に出した、つまり一度言葉にしてしまうと、それが現実に起こってしまうだろうという思想のことだ。つまり言葉という『呪』だな。だから当時の人々は、余程のことがない限り、悲惨な歌など詠むことはなかった」
「呪って?」
根津が首を傾げると、石流は彼の方へと目を向けた。
「人間の体の中には、外部から侵入して来る『非自己』から自分を護るための『自己』がある。他人の言葉は『非自己』だ。それを『自己』が、同化するなり消化するなりして有効利用できれば、何の問題もない。しかし、相手の言葉が自分の許容範囲を越えていたり『自己』をうまく騙して増殖してしまったりすると、脳はあっさりと麻痺して思考を止めるか、もしくは単純な一定方向にしか物事を考えられなくなってしまう。その、硬直させたり縛り付けたりするような言葉をわざと人に投げ掛けるというのが『呪』だ」
「ちょ、ちょっと待って!」
ネロが両手で軽く机を叩き、喚くように遮った。
「長い! 長すぎるよ!」
「難しくて分かんないです。ヨコハマ語でお願いします」
シャーロックは目を白黒させて、抗議の声を挙げている。コーデリアは既に考えることを放棄したようで、曖昧な笑みを浮かべていた。一方エルキュールも、石流の言わんとしている事を理解しようと努めてはいたが、目に浮かぶクエスチョンマークを隠すことができない。
「お前らさぁ……」
根津が呆れた表情を浮かべ、前列のミルキィホームズを見渡している。
「いや、でもあれじゃミルキィホームズには無理でしょ」
二十里は小さく舌を出し、肩をすくめた。
「そうだな……」
石流自身も難しい言い回しをしていた自覚はあったらしく、二十里の言葉に小さく頷いた。そしてゆっくりと唇を開く。
「お前たち、仮宿舎近くの池の伝承を知っているか」
「いつもお昼を食べている、あの池ですか?」
「そうだ」
シャーロックが尋ね返すと、石流は小さく頷いた。
「昔、ある武家屋敷で働いていた男が、主人が殿様から頂いた大事な皿をうっかり割ってしまった。それがばれたらクビになるどころか、責任を取って自分が殺されかねない。その為、その罪を別の女に擦り付けた」
「わぁ、ヒドい話だなぁ」
ネロが眉を潜め、口を挟んだ。
「当然女の方は身に覚えがないから、知らないとしか答えようがない。しかしそれを潔くないと受け取った主はさらに怒り、その女を殺してしまった。そしてその遺体を、屋敷の近くにあった池に投げ込んで捨てた。それがあの池だ」
石流は、切れ長の瞳を僅かに細めた。
「それ以来、屋敷では夜になると、池から女のすすり泣きが聞こえてくるようになった。屋敷の者は不気味に思っていたが、数日後、女に罪を擦り付けた男が池に浮かんでいるのが発見された。それから徐々に屋敷の者がその池で溺れ死ぬようになり、ついに一ヶ月後には、主人も池で亡くなった。それ以来、女のすすり泣く声に誘われて池に近寄ったものは、女の亡霊に引き連れ込まれて溺れ死ぬと噂されるようになった」
普段何気なく近寄っている池にそのような謂われがあることを初めて知り、エルキュールは身を竦ませた。コーデリアは叫び出す一歩手前にまで頬をひきつらせ、ネロは興味津々といった面もちで石流を見上げている。シャーロックは固唾を呑み、次の言葉を待っているようだった。
「最近でも、ここに探偵学院ができる前に肝試しに来た大学生四人組が、女のすすり泣く声を聞いたという。現に私も見回り中、それらしき声を耳にした事がある」
抑揚の乏しい声音にも関わらず、エルキュールは背筋に冷たいものを感じた。隣では、コーデリアが短く息を呑んでいる。
「ほ、本当なんですか……?」
恐る恐る尋ねると、石流は無表情にエルキュールを見返した。
「嘘だ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「全部嘘だ。たった今、私が考えた」
その言葉に、ミルキィホームズだけでなく、アンリエットや二十里、根津やブー太も目を丸くしている。
「だ、騙したのかよ?!」
「からかうなんて酷いわ!」
「そーだそーだ!」
「別にからかったわけではない」
声を荒らげる根津とコーデリア、そしてネロに、石流は真剣な眼差しを向けた。
「これが『呪』だ。今までの私の話を全てひっくるめて『呪』と言う」
その言葉に、皆が黙り込む。石流は皆を見渡すと、再び説明を続けた。
「それが事実だろうが全くのデタラメだろうが、関係ない。これで私がお前達に種明かしをしなければ、「呪」は成立する。あの話だけで、もうお前達は無意識に、あの池に近寄れなくなっただろう?」
石流は、小さく吐息を漏らした。
「そしてある日、あの池の側を通って「そう言えば、この池は呪われていた」という情報が浮かぶ。その時に足を滑らせたりすれば、見事に『学校の怪談』の完成だな」
石流は、唇の片端を皮肉げに小さく持ち上げた。
「もともと『呪』というのは『言葉』のこと、つまり言霊だ。言葉を媒介として、自らの怨念を、相手の脳にインプットする手段だ」
そして腕を組み、思案するように眉を寄せた。
「このように言葉を介して相手を操るトイズを持つ探偵が、かつていた」
石流の指摘に、アンリエットが口を挟む。
「今のヨコハマ市長ですわね」
「そうなんですか?」
首を傾げるシャーロックに、二十里が呆れた面もちを浮かべた。
「前に、近代探偵史でやったんだけど」
そして机に両手をつき、シャーロックへ身を乗り出した。
「偉大な探偵と称えられたものの怪我をきっかけに引退、そのまま政界に転身してヨコハマを偵都と呼ばれるまでに発展させた現市長の名は?」
「え、えっと……習いましたっけ……?」
鋭い眼差しで問いつめる二十里に、シャーロックは目をそらせた。コーデリアは小さく首を傾げ、エルキュールは俯き、ネロは降参するように肩をすくめている。
アンリエットは額に手を当て、深い溜め息を吐いた。
「習う以前に、市長の名前くらい常識だろ」
けらけらと笑う根津に、シャーロックは大きく眉を寄せている。
「ええっ、でも、元探偵だなんて聞いてないですぅ!」
「君たちィ! 美しいボクの授業を何故覚えていなぁい?!」
二十里は椅子から立ち上がると、頭を抱えて胸元をはだけさせた。その様を冷ややかに見つめながら、石流が口を開く。
「『呪』というと大げさだが、市長のトイズはまさに言霊のトイズといったところだろうな」
そしてカップを手に取ると、唇へと運んだ。一口飲み、カップを盆へと置く。
「それで話を戻すが、小野篁が流罪にされた理由の一つが、まさにこの『呪』にあたる」
石流は小さく息を吐き出すと、首筋へ片手を当てた。
「遣唐使のいざこざで朝廷を中傷したという漢詩には、当時は口にすることすらはばかられた忌み言葉が、ふんだんに使われていたらしい。故に、嵯峨上皇を批判しただけでなく、呪ったと受け取られたわけだ」
実際、篁は上皇を批判した罪で死罪になるところだったが、厳刑されて流罪になったのだと石流は説明した。そして、件の漢詩は当時存在した事実は伝わるが、内容は現存していないと付け加える。
その解説に、エルキュールは僅かに首を捻った。確かに二十里はその事件を説明していたが、その場にはまだ石流は居なかったはずだ。何故知っているのだろうという疑問が一瞬浮かんだが、二十里の朗々とした声が廊下にまで響いていたとしてもおかしくはない。エルキュールは「考えすぎかな」と思い直し、再び石流の説明に耳を傾けた。
「他にも、百人一首を編纂したという藤原定家が、後鳥羽上皇に勘当された時に詠んだ歌もそうだ」
有名な歌でも、その歌だけでなく同じ場所で詠まれた他の歌や、その詠まれた状況などを調べると本質が見えてくると、石流は説明した。
「あの……それじゃ、小野小町の歌も……?」
黒板を横目で伺いながらエルキュールが尋ねると、石流は大きく頷いた。
「小野小町は、天皇の更衣だったらしい。更衣、というのは常に天皇の身近に仕えて、身の回りの世話をする女性達の総称だ。そしてその仕えていた天皇が亡くなれば「更衣田」という永代の所領としての田畑を拝領でき、一生平穏に暮らせるはずだった。ところが小町に関しては「更衣田」を貰うこともできずに、一方的に宮廷を追い出された」
「どこか遠い土地で行き倒れたという話や、老婆になって物乞いする話など、聞いたことがあります……」
エルキュールが小声で返すと、石流は眉間に深く皺を寄せた。
「では何故、そんな目に逢ったか……ということになるが、お前は「深草少将百夜通い」という物語を知っているか」
エルキュールは伏せ目がちのまま、小さく頷いた。
「確か、小町に恋をした深草の少将が、百夜通えば望みを叶えると小町に言われて……毎晩山深い道を通ったけれども、九十九夜めにしてついに亡くなってしまった、という話ですよね……?」
「そうだ。その伝承は、小町を薄情で傲慢な女として描いているが、この深草の少将というのは、実は「深草の帝」を指しているという説がある」
「深草の帝?」
首を傾げるコーデリアに、石流は端的に答えた。
「仁明天皇のことだ」
古今和歌集の詞書に、仁明天皇の事を「深草の帝」と表現している箇所が幾つかあると、石流は指摘した。実際、仁明天皇の陵墓がある地名に由来して、その通称があるという。
石流の解説に、エルキュールは息を呑んだ。もしそうだとすると、小町と仁明天皇の間に、何らかの愛情関係があったこととなる。
一方、隣のネロは背後の根津へと振り返り、「仁明天皇って誰?」と小声で尋ねていた。端末で検索した根津が、その画面をネロに見せ、ひそひそと話している。
「え……でも、仮に深草の少将がそうだとしても、小町はその少将を冷たく振ってしまったんでしょう?」
エルキュールが眉を八の字に寄せると、石流は切れ長の眼差しを返した。
「それも表向きの話だ。ここでこういう事実がありました、といっているわけではない。百夜通うという労力も惜しまないほどにその男性は小町を想っていたけれど、最終的にその恋は実らずに終わってしまった、ということを伝えたかったのではないだろうか」
石流は一呼吸置くと、言葉を続けた。
「そしてここで小町の想う人が仁明天皇だとすると、最初のあの二首は、また違った意味を持ってくる」
そう告げると、石流は黒板へと目を向けた。それに釣られるように、エルキュールも黒板へと顔を向ける。
そこには、石流が例で出した小野小町の歌が記されたままになっていた。最初のあの二首とは、
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき
のことだろう。
「一つ目の歌は、「あの人のことを恋しく思いながら寝たので、あの人が夢に出てきたのだろうか。夢だと知っていれば、目を覚まさずにいただろうに」という意味だ。そして二つ目の歌は、「うたた寝に恋しいあの人を夢に見てからは、夢というものをあてにするようになった」という意味になる」
石流は黒板へ目を向けたまま、淀むことなく解説した。
「これらは一般的に、素直で純情な女性の心理を、単にそのまま吐露したものだと考えられている」
「……違うんですか?」
エルキュールが小さく首を傾げると、石流は軽く眉を寄せた。
「ここで小町は、相手の男性、おそらくは仁明天皇が、いつも私の夢の中に出てこられる、と言っていることになる」
「それが、何か……?」
どこに問題があるのか、エルキュールには分からない。
「もちろんこの歌は、小町もそれほどに天皇を愛していたという一つの証明にはなる。だがもっと重要な点は、この当時は、相手のことを「想っている」者が「想われている」者の夢の中に現れる、と考えられていたことだ」
「想っている人が……想われている人の……?」
今とは違う発想に、エルキュールは戸惑った。おそらく俗信的な意味で、当時はそう信じられていたのだろう。
「つまり小町は、天皇やその周りの人々に向かって、「私は言うまでもなく貴方をお慕い申しております。しかしその気持ちと同じほど、貴方は私を想っておいでなのですね。その証拠に、毎晩のように私の夢の中に出ておいでですもの」と語りかけていることになる」
当時、和歌は一人ではなく、大勢が集う歌会で詠むのが常だった。だからこそ、しっかりと記録に残っている。つまり皆の前でそう詠ったということは、二人の関係を公言したようなものなのだろう。
「それを踏まえて、小町にはもう一つ有名な伝説がある。それが、龍神伝説だ」
「龍神伝説?」
話の矛先を急に変えた石流に、エルキュールは反射的に尋ね返した。
百人一首の札で見るような小野小町と、おどろおどろしい龍の姿がなかなか結びつかない。きょとんとしていると、石流は唇の端に小さな笑みをこぼした。
「仁明天皇の雨乞いの宣旨を受けた時、小町は、
千早振る神の見まさば立ち騒ぎ 天の戸川の樋口あけ給へ
という和歌を以て答えて、見事に雨を降らせたという実績がある。つまり立派な「言霊使い」だ。そこから「雨乞小町」とか「龍神の生まれ変わり」などと呼ばれるようになっていった」
普段無口な石流にしては、珍しく饒舌だった。
「この雨乞いというのは、大変に重要な意味を持っている。天皇の為すべき第一の仕事というのは、民と国の安泰だ。これはとりも直さず、怨霊たちが引き起こす天変地異や疫病から、人々を護ることだ。だから雨乞いなどは、仏教、神道と宗旨の違いの枠を越えてまで行われた。ところがその重要な仕事に、小町は天皇自らに指名され、そして大成功を収めた。つまり小町の歌の威力は、鬼神をも動かしたということになる」
エルキュールは、百人一首の中では小野小町や在原業平の歌が好きだったが、初めて耳にする伝説に目を丸くした。
「つまり、小町の歌は……現実に起きると信じられていた……?」
言霊がふつうに信じられていた時代であれば、そう認識されたとしてもおかしくはないだろう。
エルキュールが口にした言葉に、石流は微かに頷いた。
「一方、天皇の跡継ぎを巡って、小町は在原業平たちと共に藤原氏と対立していた。勝利したのは藤原氏だったが、敵対していた藤原氏にしてみれば、小町は言霊の力があるのだから、恐ろしくて宮中に置いたままにはできなかったはずだ」
「それで……追放されたんですか……?」
「そうだ」
石流は断言した。
「そして小町が幸薄い女性であったという裏付けが、古今集の仮名序に書かれている」
石流は、エルキュールの手元にある文庫本に目を向けた。
「「小野小町は、古の((衣通姫|そとおりひめ))の流なり。あはれなるやうにて強からず」だ」
その言葉に、エルキュールは慌てて文庫本を手に取った。「仮名序」なのだから最初の方だろうと検討をつけ、ページをめくっていく。何度か前後しながら、ようやく該当するページを探り当て、現代語訳されている方に目を通した。「衣通姫」というのは初めて目にする人名だったが、原文の横に小さな数字が振られていたことから、下にある注釈へと目を落とす。
そこには簡単に、日本書紀では((允恭|いんぎょう))天皇の皇后・忍坂大中姫の妹であり、衣を通して肌が光り輝くほどの美女であった、と書かれていた。そして、姉の嫉妬で帝との仲を遠ざけられた、ともある。
石流は、エルキュールが目にしている解説と一言一句違えることなく口にすると、さらに補足を加えた。
「古事記では、衣通姫は軽大郎女の別称であるとされている。軽大郎女というのは、同母兄である木梨軽皇子を愛してしまったために、流罪に処せられて亡くなった人だ。そして、流された木梨軽皇子を追いかけて、そこで一緒に死んだという伝説もある」
日本最初の心中事件だと、石流は説明した。
つまりどちらにしろ、帝や皇子に愛されてはいたものの結ばれなかった、ということになる。
エルキュールが文庫本から目を上げると、石流は目元を僅かに緩めた。
「ちなみに仮名序には触れられていないが、後ろの方に載っている真名序には、「風流は野宰相のごとく」と、風流を解する人として小野篁の名が挙げられている」
後でじっくり読んでみるといいと告げる石流に、エルキュールはこくりと頷いた。けれど待ちきれず、手にした文庫本の目次を開いてみると、石流が話した「真名序」は巻末の方に掲載されている。ページを開き、ぱらぱらとめくってみると、該当箇所はその文章の後ろの方にあった。下の欄にある補足をみると、風流の「風」は、超俗的な何物にもとらわれない生き方のことだと解説されている。
「野狂」と評された小野篁と、「強からず」と評された小野小町では、まさに対比的だとエルキュールは感じた。だが、小町はその篁の血を引いている。小町の歌からは女性特有の繊細さを感じるが、いくら言霊の力が恐れられたとはいえ、宮廷を追い出される程だったのだがら、きっとか弱いだけの女性ではなかったのだろう。
エルキュールは小さく吐息を漏らし、そっと文庫本を閉じた。
表紙に目を注ぐと、描かれた十二単の女性は後ろ向きで、長い黒髪は着物の裾からこぼれている。百人一首カルタの小野小町も同じように後ろ姿で描かれていた事を思い出し、エルキュールは表紙をめくって、カバー袖へと視線を落とした。そこには小さな文字で、「佐竹本三十六歌仙絵巻断簡・小野小町」と記されている。
エルキュールは軽く目を見開き、そっと石流を伺った。石流は、机に頬杖をついてだらけた姿勢をとるネロに呆れた眼差しを向け、軽口を叩くネロに短く返している。
石流が小野小町の歌を例にしたのは内心不思議だったが、文庫本の表紙を踏まえての事だったのだと思い至り、エルキュールは一人納得した。
「でさ、百人一首が呪いの歌集ってのは?」
解説がひと段落ついたのを見て取って、ネロは気だるげな視線を石流へと向けた。
「百人一首に採用されている歌人の大半が怨霊と化した伝説を持っていたり、不遇をかこったり、早逝したり、不本意な亡くなり方をした人々ばかりだからだ」
石流は一瞬だけ二十里へ恨みがましな視線を送ると、淡々と言葉を続けた。
「例えば、万葉集の編者の一人とされている大伴家持は、死後にその遺骨が流刑になった。歌聖と謳われている柿本人麿は刑死したと言われているし、小町や在原業平たち六歌仙は、藤原氏との政争に敗れて不遇な人生を送った人達だ。それに崇徳院や菅原道真は、日本の三大怨霊のうちの二人だな。そもそも一首目の天智天皇は暗殺された説があるし、最後を飾る順徳院は、その一首前の父・後鳥羽院と共に承久の乱を起こして敗れ、それぞれ佐渡と隠岐に流された」
途切れなく続く説明に、ネロはうんざりしたような表情を浮かべた。一方で、シャーロックは不思議そうに小首を傾げている。
「死後に遺骨が流刑になったって、なんでですかぁ?」
「おい、それって今日の授業でやったばかりだろ……」
根津は大きく眉を寄せ、片手で額を押さえた。言われてみれば聞いたような覚えがあるが、はっきりと思い出せない。エルキュールが俯くと、ネロとコーデリアは、シャーロック同様、小さく首を傾げた。
「そうだっけ?」
「言われてみれば、そんな気も……?」
「お前らさぁ……」
「ホント、ダメダメだブー」
根津は呆れたような吐息を漏らし、ブー太は肩をすくめている。
アンリエットは軽く溜め息を吐くと、平安京に遷都する直前の長岡宮の暗殺事件で、と背後からぼそぼそと補足した。それでようやく思い至り、エルキュールも皆と一緒に大きく頷く。
「あ、そうでしたー!」
シャーロックは頭の背後に片手を回し、あっけらかんと笑った。そしてアンリエットに朗らかに礼を告げている。アンリエットは僅かに肩を落としているが、その唇の端は僅かに緩められていた。
「どうして美しいボクのトークを覚えてないかなァ……」
一方、二十里は憂いげな表情を浮かべ、どこからか取り出した自分の抱き枕を強く抱きしめた。そして大きく溜め息を吐き出している。
「これもボクがビューティホーなのがイケナイ!」
ボクに見取れているから疎かになっているのだと一人で盛り上がっている二十里に、石流はこめかみを軽く押さえた。
「とりあえず、そこは深く考えなくていい」
二十里相手に、ただの戯れで口にしただけだと呟く。
「これで私の話は終わりだ。他にまだあるのか」
そう宣言すると、石流はミルキィホームズを見渡した。コーデリアから順にシャーロック、エルキュール、ネロへと視線を移し、再びエルキュールへと目を戻してくる。
エルキュールは無言で凝視してくる石流から視線をそらすと、肯定するように小さく頷き返した。
「でもこれだけ詳しいんならさ、キョウトの授業は石流さんがやったんでいいんじゃないの?」
ネロは唇の両端を持ち上げ、根津へと振り返っている。根津はカップを両手に包みながら、ネロに同意した。
「二十里先生みたいに変な方向に脱線しなさそうだしなぁ」
「でもちょっと厳しそうだブゥ」
ブー太がそうぼやくと、アンリエットは苦笑を浮かべている。
「ミルキィホームズにはちょうどいいかもしれませんわ
ね」
その言葉に、コーデリアは困惑した面もちを浮かべ、シャーロックは「怖いのはイヤですー」と大きく眉を寄せている。
エルキュールが横目で石流を伺うと、石流は無言でアンリエットを見つめていた。眼差しは穏やかなものの、眉間には深い皺が寄せられている。
「石流さんは用務員とコックの業務で多忙ですからね」
一緒になってはやし立てるネロと根津に、これ以上兼任させるわけにはいかないと、アンリエットは庇うような口振りで話した。
「でもまぁ、君がやりたいというなら、ボクはやぶさかでもないよぉ?」
二十里は自分がプリントされた抱き枕を両腕で抱え、そこから顔半分だけを覗かせた。唇の端を大きく持ち上げ、マリンブルーの瞳を僅かに細めている。
「だってさ。どうする、石流さん?」
含み笑いを浮かべる二十里とネロに、石流は眉間の皺をさらに深くした。
「教師は生徒を導くのが役目だろう。私には無理だ」
そもそも教員免許を持っていない、と素っ気ない。
「それに今回話したことは、殆ど受け売りだからな」
「誰のですか?」
淡々と吐き出された石流の言葉に、シャーロックが首を傾げた。
「……子供の頃、私の家庭教師をしてくれていた人だ」
「へぇ、そんな人いたんだ?」
結構育ちがいいんだなぁと呟く根津に、石流は「そうでもない」と端的に返している。
初めて耳にする話にエルキュールは顔を上げ、石流を盗み見た。石流は両腕を胸元で組み、根津と二言三言、会話を交わしている。
ここ最近、エルキュールは彼の様子に違和感を受けることがあった。だが今はそういった雰囲気はなく、強く寄せられていた眉間はやや緩められ、根津へと向けられた顔はいつもの無表情に戻っている。その細い面もちをじっと見つめていると、やや伏せられた石流の瞳が、不意にエルキュールへと向けられた。
まさか目が合うとは思わず、エルキュールはその琥珀の瞳をじっと見つめ返してしまう。
「どうした、エルキュール・バートン」
石流の低い声に、エルキュールは金縛りが解けたように、慌てて顔を伏せた。
「何か他に訊きたい事でもあるのか」
「ええと、その……」
皆の視線が集まっているのを感じ、エルキュールは頬が熱くなった。何か口にしなければと視線をさまよわせるが、巧く頭が回らない。
いっそのこと、最近様子がおかしい事や、何か考え事でもあるのかと訊いてみようかと思った。が、すぐに皆のいる前でする話ではないと判断し、口ごもる。
それに訊いてみて、もし違っていたり否定されたりすると、とても恥ずかしかった。そして何より、気まずい。
逡巡した結果、エルキュールは全く違う事を口にした。
「あの……石流さんて小野小町が好きなんですか?」
小野小町といえば、百人一首に収録されている歌が一番有名だろう。しかし石流は、あまりメジャーではない古今和歌集の方を例に出した。そしてそれらをすらすらと暗唱しただけではなく、収録されている箇所すら指摘していた。余程の思い入れがなければそこまで暗記できないだろうと推測した結果だったが、エルキュールが目を向けると、石流は困惑したように眉を寄せ、視線を僅かに揺らした。
「どうだろうな」
口元に右の拳をあて、琥珀の瞳を少し伏せている。
「あの人は、好きとか嫌いだとかいうよりも、別の意味で特別だ。だから正直にいうと、よく分からない」
まるで身近な人について話すかのような口振りに、エルキュールは目をしばたたかせた。石流を伺うと、どこか遠くを見つめるような眼差しを床へと向けている。
まただ、とエルキュールは思った。
しかしそれも一瞬で、石流はすぐに顔を上げ、エルキュールへと視線を戻す。
「お前は、小野小町の歌は好きか」
僅かに緩められた眼差しに、エルキュールは小さく頷いた。
「はい。あと在原業平の歌も……。それに百人一首では、崇徳院の歌や、左京大夫顕輔の歌も好きです」
そう答えると、石流は唇の端を僅かに持ち上げた。
「今度の研修旅行では、百人一首をテーマにした施設にも立ち寄ることになっている。勉強しておくといい」
石流にしては珍しく穏やかな微笑を返され、エルキュールはやや赤面して、こくりと頷いた。
ネロは「えー、めんどくさーい」とぼやき、コーデリアは、横柄な態度を取るネロに眉をひそめている。シャーロックが素直に「分かりましたぁ」と返すと、アンリエットが静かに立ち上がった。
「では、今日はここまでということにしましょう」
微笑を浮かべ、皆を見渡している。
アンリエットの宣言に、ネロは椅子にもたれ、大きな伸びをした。根津は軽く首を回し、シャーロックは、膝の上で丸くなっているかまぼこを抱いて立ち上がった。コーデリアは空になったカップを手に取り、ブー太やシャーロックのものまで回収している。
エルキュールは、すっかり冷えたカモミールティーに口をつけた。カップを大きく傾け、僅かに残った中身を一気に飲み干す。
石流を目で追うと、彼はアンリエットの席へと足を向け、ティーカップを回収していた。そしてティーカップとソーサーを手にしたまま、教壇前に佇む二十里と根津に何やら耳打ちをしている。
エルキュールが椅子からそっと立ち上がり、片手で文庫本を胸元に抱いた。そしてもう片手で空になったカップを運ぶと、盆の上を整理していたコーデリアが、エルキュールへと手を差し出した。彼女へとカップを渡すと、背後から仄かに花の香りが漂ってくる。振り返ると、ティーカップとソーサーを手に戻ってきた石流の胸元が視界に入った。
「あの、今日はどうも有り難うございました……」
やや伏せ目がちにエルキュールが礼を言うと、石流は低い声を返した。
「大したことではない」
そしてコーデリアに短く礼を告げ、空いたスペースにソーサーごとティーカップを置いている。
「あの、この本はいつまでにお返しすれば……」
「暫く貸しておいてやる」
石流は、エルキュールに背を向けたまま言葉を返した。
「研修旅行に持っていっても構わん」
「で、でも……」
石流は盆を両手に持ち、振り返った。
「旅行までに読みきれるのか」
無理だと決めつけている眼差しと声音に、エルキュールは俯いた。頑張って徹夜すれば可能だろうが、それで授業中に居眠りしてしまったら本末転倒だし、貸してくれた石流に申し訳ない。
お借りします、と頷くエルキュールに、石流は僅かに頬を緩めた。
「小町の歌は、古今にあるものだけが確実に本人の歌だと断定されている」
有名な遍昭と小町の歌のやりとりは後世の創作だと、石流は説明した。
「あと衣通姫の歌が1110番にある。後で見ておくといい」
そう告げ、はやく教室から出ろと促す。
エルキュールが顔を上げると、教室は既にもぬけの殻で、中にはエルキュールと石流しか残っていなかった。教室前方の扉へと目を向けると、廊下でネロが手招きしている。その両脇には、コーデリアとシャーロックが、エルキュールへと笑みを向けていた。
エルキュールは両手で文庫本を握りしめると、慌てて扉へと足を向けた。その背後から、石流の囁くような低い声が耳に届く。
「キョウトから帰ってこられたら、返してくれ」
「あ……はい」
エルキュールは肩越しに振り返り、小さく頷いた。そしてすぐに顔を戻し、慌てた足取りで皆の元へと駆け寄っていく。廊下に出ると、皆とは少し離れた所にアンリエットが佇み、その隣に根津とブー太も待っていた。アンリエットはエルキュールの姿を確認すると、微笑を浮かべてきびすを返す。
「さぁ、戻りますわよ」
「アンリエットさん、待って下さーい」
その隣に、かまぼこを抱いたシャーロックがとことこと歩み寄った。
「君たちィ、戸締まりをするから早く来たまえ!」
二十里は廊下の先で、白のシャツを脱いでくるくると回っている。
エルキュールは皆と一緒に廊下を進みながら、ふと眉を寄せた。何かが頭の片隅に妙に引っかかり、静かな水面に大きな波紋がゆっくりと広がっていくように、漫然とした不安が沸き上がってくる。
「エリー、どうかした?」
隣にいるコーデリアが、眉を広げてエルキュールの顔を覗き込んだ。エルキュールは小さく首を横に振り、コーデリアと並んで足早に歩を進めていく。
前を行くネロが、くるりと身体を反転させた。
「エリー、なんか難しい顔してるよ」
後ろ向きに歩きながら、ネロは自分の眉間を指先で撫でた。
「そう……かな?」
エルキュールが僅かに首を傾げると、ネロはその顔をじっと見つめ返した。そしてエルキュールの隣へと並び、片腕へと飛びついてくる。
「部屋に帰ったらさ、一緒にお風呂に入ろうよ」
寒いもん、と抱きつくネロに対抗するように、コーデリアもエルキュールの反対側の腕に身体を寄せた。
「いいえ、エリーは私と入るのよ!」
「何言ってるんだよ、僕とだよ!」
じゃれつくネロとコーデリアに身体を揺らされた反動で、エルキュールは肩越しに背後へと目を向けた。ちょうど盆を片手に持った石流が調理室前に立っていて、エルキュール達へと顔を向けている。だがいつものしかめ面ではなく、その目元は僅かに緩められ、唇の端を微かに持ち上げていた。滅多に見せない穏やかな微笑に、エルキュールは軽く息を呑む。しかしそれを目にしたのも一瞬で、エルキュールはネロに腕を大きく引っ張られ、その弾みで正面へと顔を戻した。
左右から強く抱きつかれ、エルキュールは軽く眉を寄せる。だが先程まで感じていた不安は消え、胸の奥が軽くなったのを感じた。
アンリエットの隣では、シャーロックがくるりと身体を反転させている。
「じゃぁ皆で一緒に入りましょう!」
両手でかまぼこを頭上に掲げて笑みを浮かべるシャーロックに、エルキュールは小さく頷き返した。
→第一章04に続く
説明 | ||
や、やっと書き終わった……。とりあえず新作アニメが始まる夏までには完結させたい……のですが、このペースで間に合うかどうか。 それはさておき、(石流さんが喋ってる)古今和歌集や小野小町についての解説、呪については「QED 百人一首の呪」と「QED 六歌仙の暗号」(高田崇史/講談社)からの引用です。 <ご注意> ▼アニメ二期最終回直後の設定です。 ▼本編で描写されてないのをいいことに京都の設定を捏造しました。 ▼本編で描写されてないのをいいことに一部キャラの過去を捏造しました。 ▼京都方面でオリジナルキャラがちょろちょろ出てきます。 ▽腐成分はないよ。 ▽最初【http://www.tinami.com/view/421175】 ▽前【http://www.tinami.com/view/500011】 ▽次【http://www.tinami.com/view/540528】 |
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