司者(第一章 波紋) |
一
「はぁっはぁっはぁっ」
男は逃げていた。真っ暗闇の中頼りになるのは月明かりだけ。と言っても木の茂る山の中なのでそれも無いのと同じだが。途中何度も転んだり枝に引っかけたりしたのかかなり服も身体も痛んでいたが男は走るのを止めなかった。まだ今直ぐ追いつかれるという距離ではない筈だが山の麓から幾つかの明かりが追ってきているのを見ている、此方の位置は把握されているようだ。
「畜生!何てしつこい奴らだこんな辺境まで追ってくるなんて!」
男は王都からずっと逃げ続け既に都では辺境と呼ばれる地に入り込んでいた。
と、突然視界が開け月明かりが顔に掛かる。その時男は久しぶりに人工の建物を谷向こうに見つけた。
(あれは……こんな所に集落?いや、もう村と言ってもいい規模だな……どうする……匿って貰えるとも思えんが……)
しかし既に体力も尽き掛けている、食糧も確保したい、此処を遠く離れるのは得策とは思えない。匿って貰えなくても身を隠す場所ぐらい有るだろう。
(それに人里を離れてからやけに正確にこっちの位置を把握してやがる、発信器は無い筈だが……人を探知できる装置でもあるのか?木を隠すなら森の中か……)
意を決して遠目に村と思しきものへ向かおうとした時、突然背後から声を掛けられた。
「おっちゃん、こんな所で何しとんのや」
飛び上がりそうなぐらい驚いたが男は比較的落ち着いて対応出来た。何故なら声が子供だった為だ。
「ああ、いや、旅の途中でね。それより君はあの村の子かな?今から入ろうと思うんだけどこんな時間でも入れて貰えるかな?」
失敗した笑顔で振り向いてみると紺のオーバーオールを来た十歳にも満たないと見える少年が立っていた。こんな時間に子供が彷徨っていることも気になったが長話をしている余裕はない、男は聞きたいことだけを聞いて直ぐに立ち去るつもりだった。
「無理ちゃうか?おっちゃん諦め」
あっさり笑顔で少年に否定される。
「そこを何とかならないかなぁ?朝まで待ってられないんだよ。何とか入れて貰えないかなぁ?」
直ぐに追いつかれる距離ではないが時間と共に距離が縮まるのは間違いない、焦りながらも男は少しだけ食い下がった。
「無理無理、それに朝まで待っても無理や、おっちゃん能力者ちゃうやん」
能力者。男の心に緊張が走る。
(あの規模で能力者の集落なのか!?)
僻地には幾つかの能力者の集落があると聞いていたがあくまでそれは小さな集落だと聞いていた。まさか村と呼べる規模の集落があるとは。あの村に一体何百人の能力者達が住んでいるというのか?それに口振りからすると目の前の子供も自分の想像通り住人のようだ。ということはこの子も能力者、後ろから迫ってきている筈の者達と同じぐらい危険を孕んでいる。何とか誤魔化してこの場を退散しなければ……。
その時、背後から男の足元に影が伸びる。慌てて振り向くと月明かりが逆光となり顔の見えない影が五つ、服装はバラバラである、というより普段着と思われる。女性と見える人影もある。全員そこの村の住人と考えるのが妥当だろう。ということは全員能力者であると考えた方がいい。それぞれどの程度の能力を持っているか知らないがどのみちこの人数が相手では逃げることも叶うまい、万事休す、男はこの時点で逃げることを諦めた。
「タカシ?にーはお??」
少年は男の心境など知らずに坂の上の五人の内の一人に笑顔でひらひらと手を振っている。
二
「呑気に手を振ってる場合か!一人で飛び出して行きやがって!」
中央の青年が坂をしっかりとした足取りで下りながら少年の呑気な挨拶に少しだけ緊迫感のある声で答えた。名前はタカシ。異変を感じて飛び出していった少年の後を追いかけて漸く追いついたところである。無駄のない体つきで背は高い部類に入る。見た目は若いのだが何処となく他者を圧する雰囲気を持つ青年は黒い革のズボンとジャンパー姿で月を背に立っている。
「ごめんごめん。何か人が来る感じがしたから見に来てん」
「それがこのおっさんか?」
「と、思ったんやけどちゃうかも」
「違う?」
「ん?とね、この方向に……ああ、今光ったやん?麓のあれあれ。なんだか黒一色でみんな同じ格好をした黒ゴキブリみたいな連中。タカシよりも黒いよ?」
少年は口に手を当て少し笑いながら間接的にタカシも黒ゴキブリ呼ばわりしている。当のタカシはそのことには触れず一人ごちた。
「全員黒ずくめ?……ひょっとして黒の剣か!拙いな、どんな力を持っているか分からんぞ……何人だ?」
最後の問いだけははっきりと声に出し少年へと視線を送る。
「ん?……6人かな?」
「かなぁ??自信がないのか?」
「6人どぅえす!」
(いつも思うんだがこのガキ絶対俺を舐めてるな……)
と思わず半眼になりながら頭の別の部分では今後のことを考える。形のいい顎(あご)に手を当てながら少し考える風を見せた後タカシは男に視線を送り尋ねた。
「ひょっとしなくてもあんたのせいだろう?こんな辺境まで黒の剣がやって来る筈がない。いったい何をやったんだ?あんたを追って来ているのは王国の暗殺部隊だぞ?普通、強能力者相手でもなければ派遣されない、余程のことが無ければ」
追われている事を見抜かれて男の顔はびっくりしているというより思い詰めている風であった。
「その様子では知っているようだな……全く、厄介な奴らをつれて来やがって、後できっちり説明して貰うぞ!」
男はその言葉に驚きの表情を見せた。
「助けてくれるのか?」
と、確認してくる。
「ああ、そのかわり洗いざらい話して貰うぞ。フウカ!こいつを村につれていってやれ。ついでにリン、お前も一緒に帰れ」
「はい」
このとき返事をしたのはそれまで未だ一言も口を利いていない残り四人の内の一人で黒の袖無しシャツに黒のショートパンツ、黒のオーバーニーソックス、それに加えて御丁寧に肘まである黒手袋という黒ずくめでタカシと同じく「黒ゴキブリ」である。お陰で月明かりの中、白い肌が露出している顔や肩や腿だけが浮いているように見える。二十歳は超えていないだろう、やや大人びてはいるがまだ少女といっても通じるセミロングの女性である。因みにリンというのが先程の少年の名前のようだ。
「村へ行きます、着いてきて下さい」
半分踵を返しながら顔だけ男の方へ向けてフウカの呟くような声が響く。と慌てて男は其方へ駆け寄っていった。しかし男と会ってからずっと笑顔だったリンはこの時初めて少し困ったような顔をしてタカシ訊ねた。
「え??ソウの許可はいらんの?」
「あいつの許可など必要ない」
少しむっとしたような声で即座にタカシは有無を言わさぬ口調で言い切った。
「へ??……後でどうなっても知らんで」
内心少しむかついたがリンの呟きは聞こえない振りをして、足早に去っていくフウカとリンのどちらともなく命令した。
「戦闘になるだろう、ついでに誰か応援を呼んできてくれ」
「任しとき?」
再び笑顔に戻りフウカに手を引かれながら去っていくリン。ついでに言うと手まで振っているのを見て
(絶対に命令ではなく精々お願いぐらいにしか思ってないんだろうな……)
とタカシは少し寂しい気持ちで見送った。
フウカがリンと男を連れて帰っていく姿から焦点をずらし、残った三人の方へ、つまり自分が元居た位置へと歩きながらタカシが声を掛ける。
「さて、相手はどう出ると思う?ミズキ」
三
ミズキと呼ばれたのは白いTシャツに青のジーパンというシンプルな格好の女性である。フウカより少し年上、タカシと同年代だろう。ショートカットの茶色の髪に意志の強そうな目をしているためか顔だけ見れば一瞬美少年に見えなくもない中性的な顔立ちをしている。
「九割九分戦闘になるんじゃないの?誰かさんのせいで」
ミズキはジト目でタカシを見ながらきっぱり言い放った。
「あのなぁ……相手は黒の剣だぞ?どっちみち戦闘になるって」
「でも絶対、確率は上がった」
「あの?……黒の剣って強いんですか?」
おずおずとした声で二人に質問したのはミズキの斜め後ろに控えていた紺のジーンズの上下を着た男性である。名前はレツという。未だ少年から脱し切れていない愛嬌のある顔をしていて、そのためフウカと同じぐらいの歳の筈であるが大人びたフウカに比べ少し下にも見える。
「レツ、これから相手にするのは王国の暗殺部隊だ。正攻法とは違う戦い方をしてくる。おまけに装備は最新鋭だ、正規軍である白の盾よりもな。はっきり言って質が悪い、非能力者だと思って油断するな」
タカシはミズキの指摘は無視してレツの質問に答えている。
「はい。でもあの、僕、白の盾も知らないんですけど……」
申し訳なさそうにレツの声は尻窄みに声が小さくなっていく。
「戦闘になるのはもう決定な訳ね、誰かさんの頭の中では」
無視されたのがむかついたと言うわけではないがついつい話を蒸し返してしまう。どうもタカシは黒の剣が相手だと好戦的になりがちだとミズキは思う。
「九割九分戦闘になるって言ったのはお前だろ」
「…………」
「あの?……それで僕はどうしたら良いんですか?いえ、戦闘になったらですけど」
半眼になりながらお互いを見ているタカシとミズキ二人の雰囲気の悪さに気圧されながらも再びレツがおずおずと質問してくる。
レツの顔には緊張の色が濃い。自分が足を引っ張らないか不安になっているようだ。それにこれから起こる戦闘にピンと来ないと言うのが本音だろう。無理もない、彼は実戦を経験したことがないと聞いている。
「レツ君、黒の剣がどのくらい強いかは私達にもよく分からないんだよ。会う度に装備が変わってて強さも違うから……だから絶対無理しないでね」
ミズキはレツの不安を感じてタカシに対するときと違って優しい声で応じた。これからのことを考えるとこの子も実戦経験を積んだ方が良い。分かってはいるがそんな経験をさせたくないともミズキは思う。
四
一方タカシはレツ本人程レツの実力を案じてなかった。レツの戦闘力は低くないことをタカシは普段の訓練で知っている。しかし彼は実戦経験はない筈だからその辺が不安と言えば不安か。レツの話ではずっと山奥で生活していたため家族以外の人間と会ったのはこの村に来てからだという。そしてレツが村に着いてから今まで王国とのいざこざは起こっていない。というのも村が今の場所に移動してから王国には見つかっていないからだ。
タカシが村に着いたときはまだ比較的小さな村だった。それから急速に人が集まり大きくなってきたのだ。これまでは王国が本腰を入れる前に村ごと移動してきたが流石に今ほど大きくなってはそれも難しいのではないだろうか。まあ、その辺は村長ーーと言ったら本人は嫌がるかーーもといリーダーのシロウが考えてくれるだろう。自分はこの村を守ればいい。
「村が見つかったら全滅させるしかない。それでもいずれ見つかるだろうが、遅いに越したことはない」
「言ってることとやってることが違うような気がするのはあたしの気のせいか?」
ミズキがまた絡んでくる。彼女とは生まれたときからの付き合いだが昔から何かと注文を付けてくることが多い。ここ数年は特にだ。昔はもう少し可愛げがあったような気がするが……。
「ここまで来たら見つかったも同じだろ?」
「ただの手抜きじゃないか?君の辞書には回避するとか未然に防ぐとかいう言葉は無いのか?」
ミズキは別に感情的になっているわけではないのだろう。いつも通り静かだが良く聞こえる声で言ってくる。横に並んでいるミズキを見ると白けた顔で腰に手を当てている。
それでも癪に障ることには変わりないのでタカシはつい喧嘩腰になってしまう。
「どのみちあの男を追って村に辿り着いていただろ。それともあの男の死体を黒の剣の通り道に置いておけば諦めてくれるのか?」
「誰もそんなこと言ってないよ。せめてシロウさんやソウさんに相談した方が良かったんじゃないのかってこと」
「そんな時間あると思うか?もし直ぐ結論が出るならあの男が村に着いてから何らかのアクションがあるだろ、シロウさんから」
反論できないのが悔しいのか不機嫌な声でミズキが噛みついて来た。
「君は黒の剣を殺せたらそれで良いんだろ、どうせ」
「何が言いたいんだ?俺ににこにこ笑って応対しろと言うのか奴らを」
「憎んでも仕方ないって言ってるんだよ」
「俺に黒の剣を許せと言うのか!」
「家族を失って悲しいのは君だけじゃないんだよ!それに……彼らにだってきっと居る!」
「俺達に王国の奴隷になれって言うのか!?」
「誰もそんなこと言ってないよ!」
「じゃあどういう意味なんだよ!」
「全滅させるつもりならリン君には残ってもらった方が良かったのでは?」
「…………」
「…………」
五
タカシとミズキの会話、もとい喧嘩に割り込んだのはトモキという名前の青年でタカシ、ミズキと同年代に見えるが落ち着いた雰囲気のため年上に見られることも多い。ベージュのスラックスに白のシャツで背も高いため月明かりの中一番目立っているかも知れない。
それは兎も角、タカシとミズキは顔を近づけたまま一瞬沈黙した後、驚いたような感心したような目をトモキに向けている。
二人の反応が予想以上に大きかったためトモキは戸惑ってしまった。自分はそんなに凄いことを言っただろうか?確かに今までの会話で一番建設的でまともな意見だと思うが……。そう思いながらも二人の見開かれた目に押されるようについつい一歩後ずさってしまう。
そんなトモキにタカシとミズキの二人は驚いた表情はそのままに同時に言い放つ。
「お前……凄いな、話を折るタイミングといい話題といい……どうやったらそのテンポで思考できるんだ?教えてくれ」
「君……場の雰囲気とか会話って言葉知ってる?会話はね一方的に喋るんじゃなく言葉と言葉のキャッチボールなんだよ?」
同時に言われた筈だが悲しいことにこの時トモキには二人の言葉が全部正確に聞き取れてしまった。
「そ、そっちに話が行きますか……発言の内容ではなく……」
どうやら二人は自分のナイスな意見に感心したのではなく間の悪さに呆れているだけだと気付き内心涙してみたりする。まあ、ある意味心底感心しているのかもしれない。 ちょっぴり傷ついている自分を自覚しながらトモキは気を取り直してもう一度言ってみた。
「でも、そう思いませんか?」
「阿呆、相手は黒の剣だぞ。もしものことがあったら困る」
「ま、そりゃあそうなんですけどね」
(でも、やっぱり後衛でも良いから居た方が良いんじゃないかなぁ……リン君を気遣うのは分かるけど、それって逆に言えばミズキちゃんを危険な目に遭わせるということに繋がるんじゃないのかな……)
とトモキは思ったが口には出さなかった。
六
トモキの言っていることはよく分かる。リンの捜索能力は村一番と言って良い。先程も麓に居る暗殺部隊(黒の剣)の人数まで把握して見せたところである。しかし黒の剣の性格や能力のことを考えるとリンをこの場に置いておくことはタカシには出来なかった。自分と同等とは言わないが今周りにいるメンバー位の戦闘力を持ち、かつ索敵に優れた能力を持つ人間等という都合の良い人材はなかなか居ない。そして自分達の村にも居なかった。強いて言えばさっきリンと一緒に帰らせたフウカが一番マシなのだがあくまでマシなだけである。
ミズキも同じ事を考えていたようでこんな事を口にしてくる。
「フウカの代わりにあたしが連れて帰った方が良かったかな……」
「大差ないだろ」
自分でも少し失敗したかと思っていただけについつい否定してしまう。
「そんなことないよ、彼女優秀だよ」
「一寸聞き耳を立てるのが上手いだけだろ?それにそのうち戻ってくるだろ、応援と一緒に」
「なぁんか彼女のこと嫌ってない?それに戻ってくる様に指示してなかったぞ、君」
「戻ってくるよ絶対に……俺を監視するためにな」
「え?何?」
後半は小さく呟いただけだ、半分心の中で言ったと言っても良い。案の定ミズキには聞き取れなかったようだが、呟くような声で答えが後ろから返ってきた。
「別に私はソウ様に貴方の監視をするように言われている訳ではありません」
「どぅあ!」
声が自分の真後ろからだったのでタカシは思わず驚きの声を出してしまった。慌てて振り向く。
「あれ?」
が、誰も居ない……。
「私は非常時には貴方の助けとなるように言われているだけです」
今度は声が前……いや、下から聞こえてくる。声の方向に視線を落とすと目の前、つまり自分の胸の高さに浮いている白い顔と目が合った。その距離約十cm。
「どぅあ!」
もう一度驚きの声を上げながら一歩後ずさってしまう。
「……唾、飛ばさないで下さい」
目の前の白い顔の周りを白いハンカチが舞い、飛んだ唾とやらを拭いている。
一歩下がって落ち着いて見てみるとどうと言うことはない、フウカが立っていた。
フウカとタカシの身長差は頭一つ分以上ある。先程振り返ったとき本当に真ん前にいたので見えなかったのだろうとタカシは納得した。
(何で居るんだよ、本当に送り届けたのか?幾ら何でも早過ぎるぞ)
因みに顔やハンカチだけが飛んでいるように見えたのは「黒ゴキブリ」装束のせいだろう。まあ、それを言ったらタカシも似たようなものだが。しかし気配を消して人の真後ろから突然声を掛けるなんて悪趣味だとタカシは思う。
「フウカ、お前なぁ帰ってきたならちゃんと言えよ」
「フウカお帰り、早かったね」
「ただいま」
自分とミズキのどちらにも答えたように聞こえるが自分を無視してミズキにだけ返事をしたと思うのは気のせいではない筈だ。さっきまで向かい合っていたのにわざわざミズキの方を向いてからフウカは挨拶をしている。唾のことを怒っているのかもしれない、相変わらずの無表情で顔には何の感情も浮かんでいないが。
「フウカちゃんお帰り、ところで応援の人は?」
フウカが返事をしようとトモキの方を向いて口を開いたときそれは突然聞こえてきた。
「フウカちゃん速ぁ?いぃ!」
場違いな声が大声で聞こえてきたときフウカを除く全員の肩がコケた。
七
確かめなくても声の主は分かっている、この少し鼻掛かった声はキョウコだ。時と場所を弁えずこんな声色をしかも大音量で使うのは一人ぐらいしか居ない。いや、一人以上居て欲しくないというのが正確か。ミズキはちょっと頭痛がしてきて項垂れる。
あの人に隠密行動を取れというのは無理だと分かっているが流石に今回はタイミングが悪い。今の声は夜の山々に木霊するぐらい大きい。自分が九割九分戦闘になるとさっき言ったがこれで残りの一分の望みも消えただろう。
項垂れたまま隣のタカシを見ると肩を落とし何とも言えない疲れた顔をしている。恐らく自分も同じ様な顔をしているのだろう。もっともタカシは黒の剣との戦闘が百パーセント避けられなくなった事などは気にしていないだろうが。
タカシがぐったりとした様子で声のした方、つまり坂の上の方へと重々しく振り向いていく。と、同時に前足を滑らしてしまい後ろに転けそうになった。
「?」
気になってそのまま視線だけタカシと同じ方へと向けるとミズキはもう一度肩をコケさせた。
漆黒のロングヘアーを振り乱し、はあはあと息をしながら近づいてくるのは確かに予想した顔だが姿はだいぶ違っていた。たぶん自分の知識に間違いがなければそのひらひらの物体は浴衣と呼ばれるものだ。柄も質素なものだから恐らく寝間着だろう。間違いない筈だが出来れば間違いであって欲しいと心の何処かでミズキは願ってしまう。ついでに言うと足は下駄で何とも走りにくそうだ。
キョウコが自分達の前までやってくるとタカシがキョウコに詰め寄りながら怒鳴っている。
「なんなんだその格好は!」
「えぇ??知らないのぉ??浴衣」
あっけらかんと答えるキョウコ。これでミズキの知識が正しいことが証明された。
「あんたアホか!?これから戦うって時に何で浴衣なんだ」
「お風呂入って寝る前だったから」
「キョウコさんキョウコさん胸はだけてる!」
「え?あ、はいはい。あ、ミズキちゃんこんばんは?今日は暑いねぇ」
「あの?キョウコさん、襟元ばたばたしたら襟直した意味ないんじゃぁ……」
「レツちゃんのえっちぃ?。女性の体はあんまりじろじろ見ちゃだめよぉ?」
全員に律儀に返事しているが内容は何処かずれている気がする。
「何でさっきわざわざ走ってたんですか?フウカちゃんみたいに飛んで来れば良かったのに、キョウコさん飛べますよね?」
と、これはトモキ。どうやらフウカの到着を彼は見ていたらしい。
因みに正確にはその能力の違いからフウカは「飛ぶ」、キョウコは「跳ぶ」感じとなるのでキョウコはフウカみたいにはとべないのだが速く移動出来ることに変わりはない。
「この格好で跳んだら見えちゃうじゃない」
トモキに向かって「あんたそんなことも分からないの?」とでも言いたそうに呆れた目を向ける。
「だ・か・ら・そこまで分かってるなら何でそんな格好で来るんだよ!これから戦闘なんだよっ!バトルなんだよ!殺し合いなんだよっ!」
「やだぁ?タカシちゃん、私を見てそんなに興奮しなくても……」
「うがーっ!」
頭を掻きむしりながら叫ぶタカシ、くすくすと笑うキョウコ、完全に遊ばれている。
いつも通りタカシとキョウコの不毛な舌戦が開始される。トモキは宥めようとしているが恐らく今回も彼には無理だろう。レツに至ってはあの?、その?と連体詞を口にするだけでオロオロしているだけだ。状況を考えると流石にこのままでは拙い。さて、どうやって止めようかとミズキが思案し始めたとき袖を引っ張られた。同時に耳元で細い声が聞こえる。
「もうすぐ黒の剣が到着します」
肩越しに振り返ると自分の少し下から見上げるフウカと目があった。その距離僅か3cm。流石にこれは吃驚するかもしれないと先程のタカシのリアクションを思い出しながらそれとは別のことを口にする。
「そう。あとどの位で着きそう?」
「たぶん数分」
「はぁ……頼りになるのは君だけだよ」
などと言いながら目の前に居たので何となくフウカを抱きしめてみたりなんかする。見た目通り細い体……女性の自分からしてもそう思う。この体の何処にあの強さが秘められているんだろう。
「あ、そういえばさっきトモキが訊いてたけど応援はキョウコさんだけ?」
ふと思いつき確認する。
「いえ、そういうわけではないと思います。私は男性をシロウ殿の所へ送って直ぐに出ましたので分かりませんが。ただ、なにぶん相手が相手ですから人選は限られてくるでしょう。来るとしても多分あと数名じゃないでしょうか」
「成る程、あまり期待するなってことね」
男性とはさっきのひげ面のおっさんのことだろう。まあ、逃亡生活が長かったようなのでひげ面は仕方ないか……などとどうでも良いことを考えてしまう。この非常時に自分も結構良い根性してるなぁとミズキは思う。落ち着いている証拠だ。自分は一体いつからこんなに戦い慣れたんだろうか。現状には都合の良いことだが良い気分ではなかった。自分は平穏を望んでいるのだ。
(しっかし最低だね、黒の剣六人を同時に相手するなんて……)
そう考えると姿は兎も角キョウコが戦闘開始までに来てくれたのは心強い。普通、複数のチームを組んで行動する時キョウコはタカシと同じく隊長を務めることが殆どである。つまりそれだけ頼れる人間な訳だ。今回の相手は夜盗などとは訳が違う。生半可な能力では何も出来ない内に死体になるだけである。犠牲など出す訳にはいかない。少数精鋭で矢面に立たなければならないということであれば実力・能力から言ってキョウコは最強の助っ人である。まあ、その最強の助っ人はどう見てもただの湯上がりの女性だが。
(まあ、慌てて飛び出してきたみたいだけどね……何で下駄なんだか……)
ミズキは半眼になりながら溜息をついてから未だ騒いでいる馬鹿達に黒の剣到着を告げる。
「お客さん、もうすぐ来るってさ」
途端にタカシの顔から表情が消える。ただ、目つきだけが鋭く、そして冷たい。戦いの時にはタカシはいつもこの顔をする。この顔の時のタカシは冷静沈着、判断も的確で頼れるリーダーとなる。が、ミズキはこの顔が好きではなかった。
(人殺しの顔……私もあんな顔をしているんだろうか……)
そういえばタカシがこんな顔をするようになったのはいつ頃からだろうか。
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本編開始。一人の男性の登場により波紋が広がる。 | ||
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