ウ・テ・ル・ス - 1 |
秋良は、ホテルの最上階にあるスイートルームから、ビル群を縫って走る光の流れを眺めていた。それは車が放つヘッドライトの光の群れで、女性の好みにあわせてロマンチックに『地上に流れる天の川』とつぶやきたいところだが、秋良の見え方は違っていた。彼はその光の流れが、夜になっても休むことなく流れ続ける赤血球にしか見えない。
彼は不思議でしょうがない。人はなぜこんなに動き続けられるのだ。働き、遊び、セックスし…。そんなに動く原動力は、いったいどこから来ているのだろうか。多くの人は、今を楽しみ、将来を作るためというだろうが、秋良にしてみれば、そんな動機もピンとこなかった。今の商売で充分に稼いでいでしまった彼は、これ以上の財力を手にしても何の達成感もない。かといってドラッグにはまるほどの熱さもなく、ただ人に、特に女性にクールに接して憂さを晴らすのが、彼が出来る精いっぱいのことだった。
背後のベッドで全裸の女が動いた。染められたゴージャスな髪が、わがもの顔にベッドに広がる。彼はそれを嫌ってベッドから出たのだ。今夜のセックスもつまらなかった。もういい加減、セックスに幻想を抱くのはやめよう。そんなことを思っていると彼のスマートフォンが勢いよく震えた。電話は彼のビジネスパートナーの戴秀麗であった。
「秋良、日本領事館へのパスポート申請が無事に受理されたわよ。」
「ああ、ご苦労さん。」
「体調が落ち着いたらウテルスを先に帰国させます。」
「わかった。…まだ使えそうか?」
「もう限界でしょうね。安モーテルのベッド並みに、くたびれて、固くなってるようだし…。それに時々幻聴が聞こえるみたいよ。」
「そうか…。」
「私もパスポート発給が確認でき次第、帰国するわ。」
「一週間ほどそちらで休め。次回のマネージャー会議は、お前抜きでやるから…。」
「ありがとう。お気持ちだけいただくわ。それじゃ。」
秋良は切ったスマートフォンを眺めながら、休みを取ることを恐れていると思えるほど、必死に働く秀麗の原動力はいったい何なのだろうかと考えた。このビジネスで資金を貯めて、中国大陸の不動産に投資したいと言っていたが、仮にそれで巨万の富を得たとしても、それがそんなに魅力的なことなのか、秋良には理解できなかった。
彼らのビジネスは合法ではない。だからといっていわゆる暴力団の生業ではなく、それは当時24歳であった彼が綿密なマーケティングで生み出した、斬新なビジネスなのだ。稼働から8年。軌道に乗ったビジネスは、彼らに法外な利益をもたらし、彼を数台の高級外車を持つ高級マンションの住人に成らしめた。彼のスマートフォンがまた震えた。
「小池社長ですか。」
酒で焼けた男の声が彼の名を呼んだ。
「ああ。」
「良いリクルートターゲットが現れましたよ。三室さん寄こしてください。」
秋良は、外に出なければならない用事があることを思い出した。
「ついでもあるから、これから自分が行く。」
「社長が?…珍しい。」
秋良は返事もせず電話を切ると、室内照明のすべてのスイッチを入れた。
「ショウタイムは終わりだ。」
ベッドに横たわる全裸の女が、眩しそうに眼を瞬いた。
真奈美は、顔を含む身体の部分ひとつひとつのどれをとっても、男が見とれるほどの麗しい作りではない。しかし、学生時代からバスケットで鍛えた身体は、全体のシルエットで見ると、とても均整のとれた美しいプロポーションを呈している。こんな失礼な言い方を許してもらえるなら、後ろ姿に見惚れた男達が、その容姿を確認したいがために、足早に歩いて前にまわり、ちょっとがっかりしてそのまま歩調を緩めず歩き去っていくタイプの女性なのだ。ゴージャスと言うよりはアスリートで、学生時代に鍛えられたその恵まれた身体は今では、家族を支えるために一心に働くことに、いかんなく発揮されている。高校三年の時に、事業に失敗して亡くなった父の負債を背負い、病身の母を看護し、まだ学生の妹の面倒をみる。まさにドラマのごとく、泥沼にあえぐ悲運の主人公そのままの彼女だが、残念ながら現実ではドラマと違って彼女を助けてくれるような運命の人が現れるようなことはなかった。
今夜も、数えられないほどの荷物の宅配業務を終えてやっと帰宅したのだが、アパートの門の前でたむろする下品な身なりの男達を見ると、疲れて丸まった背筋を再び伸ばして戦いに備えた。家族を守れるのは自分しかいない。
「なんか御用ですか?」
男達は、声の主を一斉に見た。宅配便の制服姿の真奈美の姿を認め、相手が男か女かしばし確認しているようだった。
「あんた、森さんの家族かい?」
男は、煙草をくわえたまま真奈美に言った。
「ええ、長女です。」
「女か…。」
男達は、ニヤつきながら露骨に真奈美の身体を眺めまわした。
「徳間ローンのお宅の負債だが、その債権がうちに移管になったから、一応ご挨拶にと思ってね。」
男は、名刺を真奈美に渡した。真奈美でも手にした名刺に表記されている会社がまともではないことは容易に想像できた。
「近いうちに債権移管通知が届くと思うんでよろしくご確認を…。」
男は、真奈美の顔にタバコの煙を吹きかけた。
「今夜はご挨拶だけだから、これで帰りますが、うちは、徳間ローンさんと違って、返済遅れには甘くないから、そのつもりでお付き合い願いますよ。」
くわえた煙草を真奈美の足もとに投げ捨て、男達は去って言った。ああ、泥沼はまたその深さを増したようだ。真奈美は、男達を見送ると、気分を入れ替えて部屋のドアにキーを差し込んだ。
「ただいま。」
「ああ、お姉ちゃん。今、外で…。」
「大丈夫。追い帰したから。ところでミナミ、お母さんの病院に肌着を届けてくれた?」
「ええ、届けたけど…。今の男の人たちは…。」
「ああ、お腹が空いた。ミナミもお腹空いたでしょ。すぐご飯作るから、待っててね。」
真奈美は、ミナミの問いを遮って台所に直行する。そして余計な心配を妹にさせたくなくて、話題を変えた。
「ところでミナミ。安室のライブチケット取れたの?」
「今回もアウトね…ところで名前の呼び捨てはやめて。ちゃんと安室さまと呼んでくれない。」
「ハハ、まるで宗教ね。」
「違うわよ。私はアーティストとして尊敬しているのよ。5大ドームツアーはどれも、チケット入手が至難の業なんだから…。ああ、わたしも安室さまみたいに、ドームを一杯に出来るアーティストになりたい…。」
「だめよ。あんたはちゃんと大学行きなさい。」
「大学行ってもお金がかかるばっかりだし…。」
「ばかね、アーティストになる方がよっぽどお金がかかるわよ。歌と踊りのレッスン。エステ、それに…あなたの場合は、美容整形の費用もばかにならない。」
「お姉ちゃんの意地悪。」
料理を作る湯気に包まれながら、台所で交わす姉妹の明るい会話は、真奈美の疲れを癒す最高の妙薬だった。
「小池社長。彼女ですが…いかがですか?あんまり美人じゃないが…。」
家の台所の明かりを眺めながら、秋良の車の助手席に座った男が言った。
「美人かどうかは関係ない。年齢は?」
「確か24才のはずです。」
「そうか、年齢的には適合だな。体型も悪くない。しかし…身体の中のことだから、検査をしてみないとわからん。」
「とにかく、誘いを断れる境遇じゃないことは確かですから。これ、あの家族のプロフィールです。」
男は、秋良に封筒を渡した。
「ああ、早速アプローチしてみる。」
「検査に合格したら、負債の全額返済と手数料をよろしくお願いしますよ。」
男はそう言うと秋良の車から出て言った。秋良は、彼が去り際に車内に残した下卑た笑いを洗い流すように、エンジンを始動させてカーオーディオの音量を上げた。
秋良は、車を歌舞伎町のパーキングに留めると、派手でゴージャスなネオンをすりぬけて、ゴールデン街の小さな飲み屋のドアを開けた。ドアの開く音とともに、年増の女主人が入って来る秋良の姿を一瞥したが、彼を客として迎える言葉もなく、何事もなかったように視線を戻して常連客との会話に戻る。そこは財力のある彼が行くには不釣り合いな小さく、そして汚い店ではあったが、彼はかまわずカウンターの隅に収まった。
秋良は車中で男から受け取った封筒を取り出すと、あらためて真奈美のプロフィールを眺めた。家族構成、家族の生年月日、父親の死因、母親の病名、負債額。見れば見るほど絶望的な境遇だ。きっと負債が生み出す月々の利子の額すら稼げていないはずだ。さらに、病身の母と高校生の妹を抱えているなんて…。負債の泥沼に沈んでいくだけで、今の彼女に積み上げていく未来なんてない。こんな環境から逃げもせず生きている真奈美が不思議だった。秋良にしてみれば、逞しいと言うよりは、図々しいとしか思えなかった。
「秋良、持ってきてくれた。」
近寄って来た女主人が、カウンター越しに秋良に話かけた。秋良は黙って内ポケットから、分厚い茶封筒を取りだすと、女主人の前に無造作に投げ出す。
「助かったわ。これでなんとか不渡り出さずに済む…。必ず返すからね。」
「いらん。あんたと会うのもこれで最後だ。」
一瞥もくれず不機嫌な秋良に、女主人もたじろぎ気味だ。
「秋良、ご飯まだなんでしょ。なんか作るから、食べていきなさいよ。」
「今さら母親の真似はやめてくれ。不愉快だ。」
「秋良…。」
秋良は席を立った。
配送センターの朝は早い。大型トラックで運ばれてきた膨大な数の荷物。センターの担当が、大まかにエリア別にその荷物を仕分ける。そこから配送員の荷物の奪い合いが始まる。できるだけ限られたエリアで効率よく配送できる荷物を物色するのだ。1日でこなせる自分の作業能力を見極め、配送員たちは最大数の荷物を自分が運転する小型の配送トラックに積み込んだ。真奈美も女ながら配送員として独り立ちし、小型トラック一台を受け持っている。今ではバスケで鍛えたフットワークを活かし、男の配送員に負けずに有利な荷物を獲得できるようになっていた。
真奈美はその日も快調に荷物を獲得すると、誰よりも早く、配送センターを飛び出していった。配送先の不在も少なく、荷物が次々とはけていく。よし、今日はツイてる。早く帰れそうだ。そう思うと余計に車を軽快に動かしたくなる。調子が良い日こそ、実は一番危険な日なのだ。御多分に洩れず、縦列駐車から抜け出るために、ハンドルを切りながら少しバックした時、真奈美の小型トラックが何かに当たり、ガラスが欠ける耳障りな音がした。
『やっちゃった!』
真奈美の小型トラックの後部が何かと接触したのだ。真奈美はすぐさま運転席から飛び出て後ろに回ると、自分の車には傷ひとつもないが、後ろに停車していた車の片方のヘッドライトが無残にも砕け散っているのを確認した。状況からすると真奈美の後方不注意と言うことになるのだが、始動前に確認した時より、後ろの車の位置が自分のトラックに寄っている気がしてならない。しかしだからと言って、自分がここで開き直って業務中にモメることも出来ない。相手の車の運転席のドアが開くと、とにかく真奈美は頭を下げた。
「私の不注意でぶつけてしまって申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
頭をあげて相手を見た瞬間、真奈美は息を飲んだ。オリュンポス十二神のひとりアポロンがそこにいた。長身で恵まれた体躯のその男はサングラスを掛けていて、その表情や眼の色などは確認できなかったが、その白く光った肌と鋭いあごの線は、女子高時代の教科書で、飽きずに眺め続けたベルヴェデーレのアポロンそのものだった。
周知のごとくアポロンは、ギリシア神話に登場する男神で、ゼウスの息子である。音楽の神として名高い一方で、拳闘の神としての側面をも持つ。まさに文武に秀麗なアポロンは、古典時代のギリシアにおいては理想の青年像と考えられた。日々の生活に追われ、自分が女であることを忘れて毎日を過ごしていた真奈美であったが、この男を見た瞬間、まだ女子でいられた女子高時代を思い出すとともに、長い間忘れていた女の感性が、真奈美に息を飲ませたのだ。自分が引き起こした事故でブルーになるはずの自分が、まったく別の想いで鼓動を高めていることが不思議だった。男は黙ったままサングラス越しに真奈美を見続けている。
「あの…修理はさせて頂きますので…保険の関係で事故証明が必要だから…今警察に連絡を…。」
なぜかとぎれとぎれにしか言葉が出なくなってきた。真奈美は顔も赤くなってきている事が自分でもわかった。
「賠償なぞいらん。そのかわり…。」
男が妙に赤い唇を動かして低く落ち着いた声を発した。その言葉が、日本語であることがなぜか不思議に思えるほどた。
「今夜仕事が終わったら、ここに来い。」
男は、名刺を真奈美に渡した。
「えっ、でも…。」
男は車に乗り込むと、戸惑う真奈美を残して破損したライトのまま走り去っていった。呆気に取られながら車を見送る真奈美。車がかなたに消えると、あらためて受け取った名刺を見た。名刺には『ライフ・デザイン・オフィス』という社名と住所、電話番号だけが表記されていた。渡した男の名前は不明だが、彼が言った『ここ』に行けは、きっとそれを知ることができるだろう。
真奈美はその日の配送を出来るだけ早く終えようと走り回った。そのお陰で、アポロンから貰った名刺が示されている住所へ、そう遅くない時間にたどり着くことができた。しかし、ここで彼女はドアフォンを押すのを躊躇している。港区の一等地にそのオフィスはあったのだが、あまりにも近代的にデザインされたその門構えに、気後れしているのだ。
確かに賠償が必要ないというのはありがたい話だった。ぶつけた車は高級外車だったから修理代も法外だろう。いくら保険とは言え、事故証明を取り、会社に事故報告をし、安全指導という名の長い説教を受けて、しかも保険の等級を下げて割引率を不利にするのは本意ではない。しかし、賠償しなくていいから、そのかわりオフィスに来いと言うのもなんとなく胡散臭い。来る前にインターネットで会社を確認するべきだったが、あいにくネットカフェに入るような余分なお金は持ち合わせていなかった。
危険な匂いを意識しながらも、賠償の必要が無くなるからと、懸命に自分に言い聞かせてここにやって来た。実は、本人は認めたがらないが、ベルヴェデーレのアポロンをもう一度見てみたいという下心もあったのは事実だと思う。
「ここのオフィスに配達か?」
入口にたたずむ真奈美に男が背後から声を掛けた。仕事が終わってすぐ駆け付けた真奈美は、まだ配送スタッフのユニフォームを着たままだった。
「いえ…。」
問いかけられた真奈美が振り返ると、髪をチックでしっかりと整え、見事にフォーマルを着こなした若い紳士が立っていた。
「荷物ならここで受け取るぞ。」
「いえ、配送じゃなくて…呼ばれたんです。」
「集荷か?」
「違います…配送の仕事が終わったら来いって…」
「誰から?」
「あの…若い男の人で…ギリシア神話に出て来るような…背の高い…肩幅の広い…。」
「ギリシア神話?…ああ、社長か。しかし、なんで宅配便のにいちゃんを呼ぶ必要が…」
男は、不審気に真奈美を眺めまわしたすえ、ようやく理解した。
「あぁ…君は女性か。」
「失礼な…。」
「それなら納得だ。一緒に中に入ろう。」
男は慣れた手つきでセキュリティ・ナンバーを入力すると、ドアを開けて真奈美を中へ導いて行った。ロビーは、乳濁の白と艶消しの黒のタイルが直線的に組み合わされた壁面と床面で構成され、最小限の家具と象徴的な植栽だけが配置されている。そんなシンプルなデザインに加え室内のすべての灯りが間接照明であることも手伝って、その空間はあまりにも静的で、ここだけ時間が止まっているようだ。男はレセプションカウンターに置かれた電話を取った。
「社長がお呼びになったというお客さんがお見えですよ。…ええ、外見から判断しづらいですが、どうやら女性のようです。」
「ちょっと、さっきから…。」
真奈美の抗議に男はかまわず電話を続ける。
「えっ、いいんですか?…わかりました。自分は倶楽部に向います。」
男は受話器を置くと、真奈美に向き直った。
「そのエレベーターで3階へあがると、出たところがいきなり社長室だから…。ひとりで行けるよな。」
「ええ、まあ…。」
男は、真奈美をエレベーターに誘導すると、自らのIDカードを差し込み3階のボタンを押す。自分はエレベーターの外に出た。一度は閉まりかかったドアであるが、男は思い返したように無理やり腕を通し、ドアを開けた。驚く真奈美に、男は首を傾げながら言った。
「ところで君…、本当に女だよな。」
「そうですよ。今ここで脱いで証明しましょうか!」
閉まるドアの向こうで聞こえる男の笑い声。エレベーターは憤慨する真奈美を載せて3階へ昇っていった。
やがてエレベーターが制止すると、小さな鐘の音とともにドアが開く。目の前に1階のロビーよりも広いスペースの社長室が現れて、真奈美の度肝を抜いた。側面に何台ものモニターが設置されたオーディオビジュアルコーナーがある。その横にプロジェクターとスクリーンが配置され、いくつものLAN端子がのぞくワークデスクがある。ウエブ会議が出来る会議室と言っても、きっと今の真奈美では理解できなかったろう。対角には、ヨーロッパデザインの応接セットとバーカウンター。なんとアンチークなビリヤード台まであった。この部屋の主はどこかと探すと、はたしてアポロンは、一番奥の大きなマホガニー調のデスクで、PCモニターを覗き込みながら盛んにキーボードを叩いていた。
「すぐ終わるから、ちょっとそこに掛けて待っていてくれ。」
アポロンは真奈美に一瞥もくれずに、聞き覚えのある低い落ち着いた声で言った。真奈美はそう言われたものの、あまりにも広すぎるオフィスの何処に腰掛けたらいいか見当がつかない。途方に暮れて立ったままアポロンの作業が終わるのを待った。
「…待たせたな。」
ようやく顔をあげたアポロンは、真奈美の姿を見て凍りついた。それと同時に、アポロンに直接見つめられた真奈美の身体も凍りつく。初めて会った時はサングラス越しで解らなかったが、直接見る彼の瞳は、すこし緑がかっていた。その瞳で見つめられただけで、なんで自分の身体が硬直するのか真奈美はまったく理由がわからない。これじゃバンパイアに狙われた処女同然だ。一方、アポロンの凍りついた理由はすぐにわかった。
「君は、プライベートでも、その制服で人に会いに行くのか?」
アポロンは首を振りながら、真奈美に近づいた。比較的上背のある真奈美より、さらに頭ひとつ長身のアポロンは、今は上着を脱いでいた。白いドレスシャツからも、その肩幅の広さと胸板の厚さが容易に想像できる。アポロンが近づくにしたがい、真奈美の胸の高まりが激しくなる。あんまり近づくんじゃない。胸の鼓動に気づかれてしまう。
「それに、この髪に…この肌…。いくら肉体労働だとは言え、無関心過ぎないか。」
ついにアポロンは、真奈美の髪を指でつまむぐらいの距離までやって来た。真奈美は男の『香り』というものを初めて五感に感じた。それは『匂い』という鼻に着きそうな雑なレベルのものではない。身体が包まれるように感じる繊細で柔らかなものだった。真奈美は落ちそうな自分に慌てて鞭を打った。
「仕事終わりで急いできたもので…不快にさせてすみません。でも、家に着替えに帰っても、結局ご期待には沿えないかと…。」
アポロンはしばらく腕組みをして真奈美を見つめていが、やがてデスクに戻り上着を引っ掛けると彼女の腕を取った。
「一緒に来い。」
2時間後、真奈美はアポロンとウェスティンホテル東京の22階のレストラン『ビクターズ』で食事を取っていた。真奈美はこの状況が信じられない。本来夜景を眺める大きな窓のガラス面に、自分の姿を映して見ると、そこには、今まで見たことのない自分がいた。
オフィスから真奈美を連れ出したアポロンは、彼女を車に同乗させると青山通りを走り抜けた。車はやはり高級外車であったが、昼に自分がぶつけた車とは別な車だ。この人はこんな高級車を何台持っているのだろうか。真奈美は半分呆れながら、運転するアポロンの彫刻のような横顔を盗み見た。
やがて車が原宿へ到着すると、アポロンは真奈美をエスティックサロンへ投げ込んだ。戸惑う真奈美を尻目に、アポロンがマネージャーにゴールドカードを見せながら、指示を出す。すると何人ものスタッフが真奈美を取り囲み、嫌がる彼女を取り押さえて服を脱がせた。ジャグジー、スキンケア、ヘアケア、コスメ、ネイルケア。スタッフは真奈美の全身に様々なビューティー・ケアを施していく。
その間アポロンは、電話で指示を飛ばし、次々と服と靴をエスティックサロンへ運ばせた。服や靴の入った袋や箱には、ESCADA(エスカーダ)とかJIMMY CHOO(ジミーチュウ)とか、真奈美が今まで見たことも聞いたこともないような文字が書かれている。全身のケアを終えた真奈美は、自分の好みに関係なくそれらの服や靴を試着させられ、アポロンの前に引き出される。アポロンが首を横に振れば次の試着へ。5回の試着を繰り返して、ようやくアポロンの首が縦に振れた。そして最後にヘアセットとメイクの仕上げ。ガラス窓に映る見たこともない自分はこうして誕生した。
正直に言って、そこまで磨いた自分が綺麗なのかどうか真奈美自身には解らなかった。ただこの格好だったら、自分は女だとすぐわかってもらえるだろうという確信だけは持った。アポロンは、今の自分をどう思っているのだろう。少し気になる。しかし一方で、真奈美の意思に関係なく、勝手に真奈美を磨き、あたかも人形を着飾るように扱うアポロンの強引さに、少し腹が立ってもいた。アポロンはひとこともしゃべらず、ただ黙々とナイフとフォークを動かしている。
「あの…。」
「なんだ。」
「お会いするのに…なんでエステ行ったり、服を着替えたりしなければならないんでしょうか。」
「気に入らないか?」
「いえ…エステなんて今まで行ったこともなくていい経験になったし、服も素敵だと思いますが…ただ、お金持ちのお遊びで私を呼び付けたのなら、それにお付き合いできるほど私も暇じゃないので…。」
アポロンはナイフとフォークを持つ手を止めた。そして、あの緑がかった瞳でまた真奈美を見つめる。また彼女の身体が縛られたように動かなくなる。
「俺は、女である君と話しがしたかった。しかしあんな格好で来られると、話しをする気が失せる。」
「話しがあるなら早く…。」
「とにかく。」
アポロンは不満げな真奈美の言葉を遮った。
「話しは、コーヒーが運ばれてきてからにしよう。君もお腹がすいているだろう。」
そう言ってアポロンは、再びナイフとフォークを動かし始めた。
やっぱり今日の事故は仕込まれたのか。あれは自分を呼びだすための口実だったのか。心の中で警戒警報がガンガン鳴っている。もしかしたら自分はこのまま拉致されて、アラブの見知らぬ土地で売られてしまうのか…。しかし、アポロンを見つめ続けているうちに、警戒警報の音色が段々変ってきた。もしかしたら、どこかで私を見染めて一目惚れしたのかもしれない。それで、話しをするきっかけが欲しくて、あんなことを…。ある社会心理学者は、人間は自分に振りかかる事象について、ほとんどがそのどちらかでもないのに、最悪のケースと最良のケースしかイメージできないと言っていたが、今の真奈美はまさにそういう状況であった。
最悪、最良。その妄想を交互に繰り返しながらも、やがて真奈美の前のメインディッシュの皿も空になった。真奈美は、こんな状況でも食欲を失わない自分の性質を呪った。コーヒーが運ばれてくると、アポロンは改めて真奈美を見つめる。その緑がかった瞳に自分はどう映っているのか知りたくなった。
「今の君は、何処から見ても女性だ。安心して話が始められる。」
残念ながら、アポロンの口からは綺麗なという形容詞は出てこなかった。
「俺の名は小池秋良。名刺の会社のCEOだ。」
真奈美は、アポロンの名をついに知った。
「あらためて確認するが、君は森真奈美さんだよね。」
真奈美は思いがけなく自分の名前を呼ばれて息を飲んだ。ただ、小さくうなずく。
「君を…うちの会社で雇いたいと思っている。」
秋良のいきなりの申し出に、さすがの真奈美も仰天した。何か言おうとする彼女を遮り、秋良は言葉を続ける。
「先に報酬を言っておこう。君の家族が抱える負債の全額をこちらで引き取る。さらに母親の入院治療費そして妹さんの学費に充当できる充分な額を保証しよう。」
「貧乏人をからかうのもいい加減にしてください。」
真奈美は秋良が言ったことがにわかに信じられずそう応じたものの、やがて重大なことに気がついた。彼は自分のことを知り過ぎている。
「むろん雇用に際しては、厳しい条件をクリアしてもらう必要がある。」
秋良は真顔で言葉をつなぐ。
「まず君の身体を徹底的に検査させてもらう。いわゆるメディカルチェックだ。そこで身体の隅々まで健全であることが確認できたら、雇用契約を結ぶことになる。そして雇用期間中は、君は会社が指定する住居に住み、会社の徹底したヘルス管理の元に置かれる。家族と連絡することは可能だが、仕事の話しを一切してはならない。また雇用期間中は会うことも出来ない。」
秋良はここで間を置いた。当然発せられる真奈美からの質問を待ったのだ。しかし真奈美は、青ざめた顔をこわばらせているだけで、なかなか口を開こうとしない。急展開する秋良の話しについていくことが出来ず、理解するのにかなりの時間が必要だったのだ。しばらくしても、真奈美からの質問が無いので、秋良は焦れてその質問を、自分から口にした。
「では、いったい何の仕事なのか…。」
秋良は、コーヒーカップを口に運び、苦い液体を一口喉に通す。その秋良の喉仏の動きに合わせ、真奈美も固唾を飲んだ。
「悩める善良な夫婦の為に、君の子宮を貸し出して欲しい。」
真奈美は、聞いてはいけなかったことを聞いてしまった気になった。怖さが頂点に達して気分が悪くなってきた。
「臓器売買なの?」
「まさか…。たとえ爪の先であろうとも、君の身体を切り取ったりしない。貸し出す前も後も、健全な身体のままだ。」
「まさか新手の売春?」
「売春なんて時代遅れなビジネスじゃ、港区の一等地に洒落たオフィスを構えられないよ。」
秋良は、青ざめる真奈美の顔をのぞき込み、唇の隅にわずかな笑みを浮かべた。
「非合法ではあるが、うちは国内で唯一、日本人の、日本人による、日本人の為の代理出産をコーディネートする会社なんだ。」
真奈美は憤然として席を蹴った。
「こんな話まともじゃないわ。」
真奈美は秋良にそう言い放つと、テーブルナプキンを叩きつけ、肩を怒らせて出口に向かって歩いて行った。秋良はそんな彼女の反応と行動にも慌てることなく、静かに後ろ姿を見送った。誰でもこんな話を聞けば、最初は真奈美と同じ反応を示す。それは幾度かのリクルートで経験済みだ。しかし、秋良は解っていた。選択の余地のないものだけにこの話をするのだ。しばらく様子を見ることにしよう。
真奈美はガーデンプレイスの広場を歩いていた。歩きながらも、秋良の話しで引き起こされた悪寒が、なんとかおさまるように必死で別なことを考えようと試みていた。他のことをと思えば思うほど一層の悪寒が彼女を襲う。暴力団が彼女の身体を手に入れようとしていたのなら、毅然と拒否をしたその瞬間に不快感から逃れることができる。しかし、あのアポロンが、あたかも日常のありふれた会話のごとく、身の毛もよだつような事を平然と話していたことがショックで、それがいつまでも彼女に悪寒がまとわりついている理由になっていた。
「痛いっ!」
歩いているうちに、真奈美はヒールを広場の敷石の間に引っ掛けて、足をひねってしまった。片足を庇いながら、近くのベンチにたどり着くと、ベンチに腰掛けてひねった足をさする。改めて自分の靴を、そして可憐なスカートを眺めた。
久しぶりに女であることを思い出させてくれた男に、その女の一部を金で貸し出せと言われた。しかしよりにもよって、その身体の一部とは子宮なのだ。
『悩める善良な夫婦の為に』
真奈美は、秋良の言った言葉を、もう一度自分の口でなぞってみた。背筋がまた寒くなった。そんな希薄なオブラートのような偽善で包まれている分、売春なんかより一層忌まわしいことのような気がする。たとえどんな理由があったとしても、偽善につつまれたビジネスに自分自身の身体が利用されるようなことがあってはならない。
やはりあの事故は、自分をおびき出すために仕込まれていた。なんで自分がターゲットになったのか。真奈美は服の上から、両手の手のひらで自分の乳房を覆ってみた。その母性は手のひらにすっぽりと収まってしまう。どうも外見的な母性が際立っているわけではないようだ。アポロンは自分のことを相当詳しく知っていた。自分のことをあそこまで調べ上げ、経済的苦難で空いた穴を、すっぽりと埋めるように設計された報酬を提示してくるとは…。つまり、自分は周到に準備された罠にハマったのか。もう逃げられないウサギと思われているのか。とんでもない。どんなに生活が苦しくとも、人間として踏み出してはいけない線があるのだ。もうアポロンに会うこともない。彼女は夜空を見上げて、秋良の緑がかった瞳を想った。悪寒がするような話しが出る前までは、本当は楽しかったのに…。
彼女のスマートフォンが鳴った。着信はミナミからだった。
「もしもし、ミナミ。遅くなってごめん。もう帰るから…。」
「お姉ちゃん…。」
「それでは、今日のところはお姉さんにお返ししますが、以後家族の方も充分ご指導いただけますよう、よろしくお願いします。」
「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。」
真奈美は、少年警察補導員に頭を下げた。横のミナミがそっぽを向いているのに気づくと、彼女の髪を掴んで、無理やり頭を下げさせた。
警察官の敬礼に送られて、六本木警察署の門を出た。警察官の視線から外れたのを確認すると、真奈美はさっそく妹の頭を小突いた。
「痛いっ。」
「痛いじゃないわよ。家に帰らないで、夜遅くまで六本木で何しているの?」
「スポンサー探し…。」
「何のスポンサー?」
「私…。」
「馬鹿!それって援交じゃない。」
「…お姉ちゃん。わたし学校やめる。」
「何言ってるの!」
「どうせ大学にいく学費もないんだし、学校やめて私も働いて、お金貯めてミュージックスクールへ行きたいの。」
「そんなことは、高校を卒業してからでも遅くないでしょ。」
「…それに私もお母さんの治療費の少しでも出せるようになれば、お姉ちゃんも楽でしょう。このままだったら、お姉ちゃん倒れちゃうよ。」
真奈美は、ミナミの本意を聞いて、しばらく次の言葉が出なかった。妹を優しく見つめながらその肩に腕を回す。
「心配しなくて大丈夫よ。それより、たった一度しかない高校生活を充分に楽しみなさい。知っての通り、お姉ちゃんは頑丈だから。」
ミナミは肩を抱いてくれる姉の手に自分の手を重ねて、軽く何度か叩きながら姉の優しさに応えた。やがて、ミナミが身を離して改めて真奈美を眺める。
「ところでさ…今日のお姉ちゃん、どうしちゃったの?」
「なにが?」
「そんな綺麗な服持ってたっけ?靴なんかヒールだし…ヘアセットも…メイクもしてるじゃない。」
「女を忘れるなって人がいてね…全部買ってくれたの。」
そう言いながらも、真奈美は家へ帰ったら服と靴を全部送り返そうと心に決めていた。
「えっ、彼氏が出来たの?」
妹は興味津々で姉に迫って来る。
「そんなんじゃないわ。」
「デート?」
「だったらよかったんだけどね。」
「もしかして、金持ちでいい男?」
「確かに金持ちで良い男だったけど…最低の奴だったわ。」
「この際金持ちで良い男なら最低でもいいじゃない。援助交際しなさいよ。」
「ミナミ!あんたそんな考えだから…。」
「キャハハハッ、女を売れる時は売らなくちゃ。そのうち誰も買ってくれなくなるわよ。」
ミナミは真奈美の腕から逃れて駆け出した。
「こら!」
お茶目な妹を笑いながら追っかける姉。この可憐な妹の青春を、大切にしてあげたい。真奈美は逃げ回る妹の姿を見ながらそう思った。
「ミナミ、ちょっと待ってよ。一緒に帰ろうよ。」
妹の若さに追いつけない姉は、やがて捕まえるのを諦めて、妹の背に呼びかけた。
「そう言って捕まえる気でしょ、騙されないわよ。」
ミナミは笑い声をあげながら地下鉄の階段を駆け下りていった。
クアラルンプールを出たマレーシア航空MH092便は、成田空港へ午後6時40分に到着する。しかしこの便は必ずと言っていいほど30分は遅れる。スローライフのお国柄とは言え、秀麗の性格では、なかなか慣れることができない。
しかしながら、秀麗はマレーシアが気に入っていた。都市部ではインフラも整備されており、東南アジアの中でも高い生活水準を誇る国でありながら、物価水準が日本より格段に安い点がその理由だった。多少のばらつきはあるが、総合的に見て日本の3分の1程度の物価水準といわれている。また、医療の面に眼を向けてみると、マレーシアは欧米の大学で医師免許や博士号をとった医師が多く、大きな私立病院などでは最新の医療設備が整備されるなど、医療水準も先進国に匹敵している。当然、先進国より医療費が安く、医療レベルも劣っていないため、近隣の東南アジア諸国から『メディカルツアー』でマレーシアを訪れる人も少なくない。クアラルンプールなどでは日本語が話せる医師や日本人看護婦、日本語通訳が在籍する病院が幾つもある。これらの点が、彼女がビジネスの契約完結の場としてここを選んだ理由だ。
秀麗は、ビジネスクラスのシートを起こすと、アイマスクをはずし、外の雲海を眩しそうに眺めた。彼女の父は、香港で中規模な病院を営む医師である。父の苦労を見ていた彼女は、医師になって父を継ぐ気など毛頭なかった。元来の野心の大きさもあいまって学生時代から、新しいビジネスを求めて模索していた。そして、医療情報システムの勉強で日本に留学した際に秋良と出会った。
アジア学生交流会で、長身の彼がクールな瞳で自分に近づいてきて、いきなりデートに誘われた時は、少なからぬトキメキを感じたことを覚えている。もともと美形の秀麗は、男が言い寄って来ることには慣れていたし、それを軽くあしらう術も熟知していた。恋愛などにまったく興味が無いいつもの彼女なら、軽く振っていたところだが、珍しく彼の申し出を受けた。
しかし、ふたりきりで会ってみると、それはデートではなくて彼のビジネス構想のプロポーザルであることがわかった。わずかな失望感を感じながらも、彼の話を聞くうちに、そのビジネスの可能性と魅力に気づいた秀麗は、いつしか秋良のパートナーとなっていた。
彼の設定した商材は代理出産である。代理出産に対しては、子をもてない不妊のカップルの最後の希望だと評価する意見と、女性の体を道具化し搾取するものだと非難する意見が対立している。日本では、日本産科婦人科学会は代理出産を禁じ、厚生労働省の専門部会も禁止する最終報告をまとめているが、法制化には至っていない。2005年に大阪高裁が示した「母子関係の有無は分べんの事実で決まるのが基準。昨今の生殖補助医療の発展を考慮しても、特別の法制が整備されておらず、例外を認めるべきではない」との判例に基づき、『分娩者こそ母』のルールが確立している。
世界の視点で見てみると、ドイツやフランスのように全面禁止する国もあれば、イギリスのように無償のボランティアの場合のみ認める国や、アメリカのいくつかの州のように有償の契約も認めるところもある。
実際におこなわれているカリフォルニア州では、一回の体外受精・胚移植で妊娠成立の後そのまま順調に妊娠期を送り出産、新生児を日本に連れ帰るまでの過程で、最低でも2千万円以上の費用が必要とされる。単にメディカルオペレーションの費用だけではなく、高額な弁護士とともに千本ノックのような法的整備作業や代理母への経費が積み重なった結果だ。そしてようやく出産されたこどもは、実子としてではなく養子縁組することにより親子関係を成立させて国内に連れて帰るのだ。
法的整備が完全ではないものの、比較的費用が安く代理出産ができるインドでは、多数の先進国の不妊夫婦が代理出産を行っており、現地には代理母が相部屋で暮らしているような、代理出産用の施設まで作られている。インドにおける代理出産の市場規模は2015年に60億ドル(約5400億円)に上ると推計されている中、インド政府は、商業的な代理出産を合法化する法案を2010年に国会に提出した。法案では、外国人については本国政府の「代理出産を認める」「依頼人の実子として入国を認める」という証明書を要求するとしている。もちろんインド国内でも代理出産は『人体搾取』だという批判もあり未だ議論は続いている中、実態としての代理出産は伸び続けている。
インドにおける代理出産に日本人の依頼が伸びている理由は、単にコスト面だけではない。実態的に代理出産を認めるインドでは、発行される出生証明書に父母として記録されるのは、依頼者の名前である。日本人依頼者はこの出生証明書を日本に持ち帰り、戸籍登録をする。日本の国内の役所では、分娩者が誰であるかを確認することが困難である。そして、そこで得た戸籍謄本を持ち帰り現地の大使館にパスポート申請する。在インド大使館、領事館も滞在日数やビザの種類から代理出産が疑われることをある程度把握できるものの、日本で発行された戸籍謄本とともにパスポート申請されれば、これを発行せざるをえない。果たして日本人依頼者はまんまとパスポート取得に成功して、新生児を実子として堂々と帰国できるのだ。
このように脱法ないし違法的手段で、日本の法制度に反する形で代理出産がとりおこなわれるリスクは計り知れない。実際、日本の国内法によって規制されない斡旋業者が、日本人顧客を相手に様々なトラブルを生じさせている事例をあげるにいとまが無い。妊娠中の経費の上乗せ、母体管理の不備、胎児の流産、フィジカル的に問題のある新生児の出産、新生児の受け渡し拒否、法的不備による出国不可。
秋良のプロポーザルコンセプトは、アメリカとインドのデメリットを解消し、両国のメリットを最大限に生かした『日本人の、日本人による、日本人の為の代理出産』であった。コスト、遺伝的適合、医学的技術、法的問題、安心と安全、それらをコンビニエントにクリアする。その斬新性が、秀麗の野心に響いたのだ。
当初は、初めて会った自分に、なぜこのプランを話してくれたのか疑問であったが、今となってはそれも想像がつく。秀麗の国際性、家庭環境、ビジネス知識、そしてなによりも彼女が抱く野心の大きさを事前に調べ上げて、彼のプロポーザルに拒否できないことを、彼は知っていたのだ。
それから8年。確かに彼のアイデアは大成功を収めている。一方で、代理出産をとりまく国内外の規制や、日本人代理母の状況の変化により、このままでは今の成功を維持できないことも感じてはいた。
やがて機内アナウンスが、成田空港への着陸態勢に入ったことを告げだ。
「真奈美ちゃん。今日は昼から珍しいわね。」
「ええ、今日は仕事がお休みなんです。」
病院ですれ違う看護師や患者さん達から掛けられる声のひとつひとつに、彼女は丁寧に応えていた。心臓の疾患で治療入院をしていた母を見舞う真奈美は、この病院ではもうすっかり顔なじみだ。彼女の他人に献身的という性格も手伝って、母の看病のみならず病院の人たちと積極的に関わってきたことが、彼女に寄せられる挨拶の数に現れている。しかし、この病院の人たちとも、あと少しでさよならを言わなければならない。カテーテル手術もようやく終了し、母が退院できる日が近づいてきたからだ。母が家に帰って来る日を思うと自然と真奈美の足取りも軽かった。母の病室のドアを開けようとすると、真奈美を呼びとめる声があった。
「真奈美ちゃん。ちょうどよかった…少し話が出来るかな。」
声の主は、母の主治医の大磯先生であった。大磯先生の顔は笑っているものの、あらためて話しがしたいと言われると、真奈美もなんとなく胸騒ぎがした。大磯先生は、院内のコーヒーショップからコーヒーをテイクアウトして、真奈美と連れだって自分の診察室へと向かった。診察室に入ると真奈美に椅子をすすめ、テイクアウトしたコーヒーのひとつを差し出す。
「ありがとうございます。…それで先生、お話ってなんでしょうか。術後の経過に問題があるのですか?」
「安心していいよ。カテーテル手術は問題ない。でもね…。」
大磯先生は、言いにくそうに蓋にあいた小さな吸い口からコーヒーをすすった。
「術後の経過を見るCT検査で、お母さんに肺がんの疑いがある事がわかった。」
真奈美は、大磯先生の言葉に絶句した。彼女の硬直した身体をほぐすように大磯先生は言葉をつなぐ。
「癌と言ってもね、いろいろな段階があって、幸いなことに真奈美ちゃんのお母さんの発見は早期だ。より詳しい検査をしなければはっきりと言えないが、所見ではT期Aという3センチ弱ぐらいの末梢型非小細胞肺癌らしい。これは治療法によっては直せる癌なんだよ。」
真奈美は、安堵したのか大きなため息とともに、身体の硬直を解いた。
「こうした早期がんは、外科的手術で癌の部分を切り取ったりするんだが、お母さんもご高齢だし身体に大きな負担を強いる治療は難しい。そこで、僕としては切ったり張ったり、ダメージ大きい抗がん剤を投与したりするよりは、重粒子線を癌細胞にあてて退治する治療を進めたいと思っている。」
「治せる可能性があるなら、なんでもやってください。」
「ところが…真奈美ちゃんを虐めるわけじゃないが、その治療は高度先進治療と言って、まだ日本の医療保険制度で認可されていないものだから、医療保険の適用外で高額な治療費が必要なんだ。」
「どれくらいですか?」
「ひと通りの治療で300万円くらい…。」
しばらく考え込んでしまった真奈美だが、やがて顔をあげると元気な声で言った。
「…わかりました。治療費の問題ならなんとか考えます。母のために検査を進めてください。」
「真奈美ちゃんも大変だが…。お母さんの為にも、とりあえず退院して家でゆっくりしたら、通院で検査を進めることにしよう。」
「よろしくお願いいたします。」
真奈美は席を立って診察を出かかったが、思いついたように立ち止まった。
「あの…まったく別なこと聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「代理出産について教えてもらえますか?」
「なんだよ、藪から棒に?」
「いえ…最近耳にしたものだから…。」
「僕は専門じゃないんだが…代理出産は、正式には代理母出産といって、文字通りある女性が別の女性に子供を引き渡す目的で妊娠・出産することだよ。たしか法的規制ははっきりないものの日本の学会では禁止しているし、日本ではほとんどおこなわれていないはずだ。」
「具体的にはどんなことをするんですか?」
「ひとつは、ホストマザー。(Gestational Surrogacy)代理母とは遺伝的につながりの無い受精卵を子宮に入れ出産する、いわゆる借り腹だね。依頼夫婦の受精卵を代理母の子宮に入れたり、依頼夫婦以外の第三者から提供を受けたものを体外受精させ子宮に入れたりするようだ。そして、もうひとつは、サロゲートマザー(Traditional Surrogacy)代理母の卵子に依頼夫婦の精子を人工受精させて出産する。」
「そんなことが人工的に出来るなんて…なんか怖いですね。」
「そうだね、生殖補助医療技術の進歩のなせる技だが、倫理面や法律面以上に医学的にも大きな問題を抱えているんだよ。」
「どういうことですか?」
「見逃しがちだが、先進国においても妊産婦死亡がゼロになっていないように、妊娠・出産には最悪の場合死亡に至る大きなリスクが依然と存在しているんだ。また、死亡に至らずとも母体に大きな障害が発生する場合もある。このようなリスクを軽視して、たとえ同意された契約とは言え、それらを代理母に負わせることに対する批判が大きいんだよ。」
「そうなんですか…。」
「しかし…、年頃の真奈美ちゃんに、このタイミングでそんなことを聞かれると…先生はとっても不安になってしまうんだが…。」
「あらやだ、大丈夫ですよ、先生。単なる好奇心で聞いているだけだから。先生に誓います。わたしは愛している男の人の子供しか産みませんから。」
「そうか。」
「それじゃお母さんの所へ行ってきます。コーヒーご馳走さまでした。」
真奈美は大磯先生の診察室のドアを閉めると大きなため息をついた。自然に涙が浮かんでくるのを止めることが出来ない。真奈美は決して自分の不遇を思って泣くような女ではなかった。それは、やっと退院できると喜んでいた母を思っての涙だった。また新たな病気と闘わなければならない母が不憫で仕方がなかった。
会議デスクの中央に座る秋良。そして彼を取り囲むようにして、3人のマネージャーが顔をそろえていた。
「それでは、さっそく会議始めましょう。」
秀麗はいつも通り会議の進行役として最初に口火を切った。
「休めばよかったのに…。」
マネージャーのひとりである三室の非難めいた発言に秀麗がすかさず反応する。
「あたしが居ないとみんな仕事しないでしょ。一日たりとも、あんた達を遊ばせておくわけにはいかないの。」
「はいはい…。」
「まず守本ドクターからお願いできるかしら。」
メディカルマネージャーの森本が書類を開いて報告を始めた。守本ドクターは、このプロジェクトの生殖補助医療全般を担当する。表向きは、秋良からの資金提供により不妊治療を専門とするクリニックを開業しているが、患者ネットワークの中からどうしても子供が欲しくて悩んでいる富裕層を選択して、代理出産を持ちかける営業の役目もしている。
「口コミが広まっているのか、代理出産に対する問い合わせが多くなっている。今月だけでも20件の問い合わせがあった。苦労してこちらから持ちかけていた頃が懐かしいよ。」
「合法なビジネスをしているわけじゃない。宣伝がいき届き過ぎるのも問題だ。」
秋良が守本ドクターの発言に鋭く突っ込む。
「しかし、実際良質な新生児を提供し続けているんだから、依頼者の感謝の口をふさいで回ることは不可能だよ。」
「ウテルスのストックも豊富とは言えませんよ。」
リクルート兼ストックネージャーの三室が割り込んできた。秋良たちは人権の概念が生じないよう日本人代理母をウテルスと呼んでいる。
「実際これ以上依頼が増えたら、対応が出来ないと思います。」
三室の表向きの仕事は、秋良達と作った会員制高級プライベート倶楽部のマネージャー。実際の担当は、日本におけるウテルスのリクルートと管理だ。三室が報告を続けた。
「ストックされている12胎のウテルスのうち、8胎が妊娠中。先日帰国したウテルスは再使用可能かどうかの確認中だから…。現状で稼働できるのは3胎しかない。」
秋良が守本ドクターに再び投げかける。
「ドクター、確認中のウテルスは、どうだ?」
「再使用は無理だろう。」
「出産後に幻聴が聞こえるとか言ってたけど…。」
秀麗もドクターに問いかける。
「自分の遺伝子とまったく関係ない受精卵とはいえ、自分の子宮の中で、自分の血液を通わせて養った新生児を、何度も手放していると、ホルモン異常を併発し、幻聴やうつを引き起こすらしい。どうも母性と関連のある脳の潜在的部分が強いストレスを感じるらしい。大変興味深い症例だけど、学会で発表できないのが残念だよ。」
自分達のビジネスは、女性を壊しているかもしれないという守本ドクターの報告に、男性陣が黙りこむ中、秀麗は顔色ひとつ変えずに言葉を引き取る。
「つまり現状は、需要に供給が追いつかないということね。」
三室が秋良に向って提案した。
「もっと採用基準を緩く出来ないですか。そうすればリクルートも楽だし、ストックも増やせるんだけど…。」
秋良が即答する。
「だめだ。出産適齢年齢の25歳プラスマイナス3年が、ウテルスが一番柔軟でフレッシュな期間だ。だから、遺伝子適合と感染症リスクも考慮して、22歳から28歳までの未婚の日本人女性という基準を設定した。畑の土のクオリティを下げるわけにはいかない。」
三室は肯きながら、テーブルに視線を落とした。
「わたしからも言わせてもらうと…。」
秀麗の担当は、妊娠したウテルスと依頼主を海外に連れていき、出産とともに新生児の受け渡し、出生証明及び戸籍登録などの契約の仕上げを受け持つ。
「たび重なる出産で、受入側も強気になったみたい。病院経費と出生証明発行手数料が上がっているわ。それに、日本大使館もそろそろ疑い始めている節もあるし…。需要が増えようが増えまいが、今後は受入国の複数化も視野に入れないと、このまま続けられないかも。」
ひと通り報告と意見を述べ終わった各マネージャーは、秋良を見つめて彼からの言葉を待った。
「需要が多いからと言って、むやみに供給を増やすのは得策ではないようだな。ドクター、今後は、受注基準をあげて、受注数を制限してくれ。」
「代理出産のモチベーション基準を上げるか?」
「いや、わが社の売りはコンビニエントだ。代理出産の動機についてうるさいこと言わない利便性を失ってはいけない。ここはシンプルに料金を上げることにしよう。秀麗、新しい基準のタリフを作ってくれ。」
「わかった。」
秀麗は返事をしながら、持っていたアイパッドにメモをした。その後も議論が続いたが、予定されていた時間にもなり、秀麗は発言を止めて出席者全員を見回した。
「CEOが良ければ、今日はこの辺で会議を終わりにしましょう。」
秋良のうなずきとともに、出席者は一斉に席を立った。秀麗と守本ドクターが出口に向かう中、三室だけが秋良に近づいてくる。
「この前の宅配便の姉ちゃんは、その後どうですか?連絡ありましたか?」
「ない。」
「そうですか…でもやりたいって言ってきても、男みたいだから、クライアントがウテルスとして喜ばないんじゃないですかね。」
「いや、あれで結構…。」
秋良は、言い掛けて途中で言葉を飲んだ。秋良の視線の先には、彼のもとに配送されてきた小さな箱があった。中には、先日秋良が真奈美に買ってあげた服や靴が入っていたのだ。
「お前がどう思うとも…俺はぜひとも彼女を欲しいと思っている。」
「おや、珍しいですね。社長がそんなに入れ込むなんて…。だったら自分に任せてくれればいいのに。彼女が来た日だって、直接手掛けるなんて言うから…。」
黙ったまま返事を返さない秋良を見て、三室はニヤつきながら言った。
「すこし揺さぶってもらいましょうか?」
「ああ、頼む。」
秋良は三室と視線も合わさずそう返事すると、自分のデスクでキーボードを忙しく叩き始めた。
病院からの帰り道、真奈美は母の洗濯物を抱えながら天を仰いだ。真奈美は大磯先生の話しに胸を叩いたのは良いが、実際どうやってお金を工面したらいいか途方に暮れていたのだ。今月分の借金の返済も明後日に迫っている。まだそれすら工面が出来ていないと言うのに、新たに大金を借りるなんて事も出来ない。配送の荷物を増やしたり、生活費をさらに切りつめても、そこで得られる額はたかが知れていた。宝くじだってくじを買わなければ当たらない。賭博で一攫千金をと狙っても、賭場に張る元手がないのだ。ああ、自分の苦境を救ってくれる白馬の騎士が、どこからか現れてくれないだろうか。
急に、サングラスを外して手を差し伸べる秋良の姿が浮かんできた。慌てて頭を振ってイメージを打ち消した。あいつは、自分達を救う騎士じゃない、あいつは最低な悪魔なんだ。どんな状況になっても、あいつの言うと通りにはならない。
『わたしは絶対に負けない。』
そう呟きながら、真奈美は大きな洗濯物の袋を持ちかえて、家に向かう足どりに力を込めた。
「お姉ちゃん。」
背後からミナミが声をかけながら走って来た。
「あら、早いじゃない。」
「部活が休みだったからね。それでさ、スタバで友達としゃべってたら…何が起きたと思う?」
「どうしたの…嬉しそうに。」
「ああ、やっぱり才能ある人間は、見出される運命にあるのね。」
「なによ?」
「声かけられたのよ。」
「まさか、あんたまた援交しようなんて…。」
「違うわよ。スカウトよ。」
「えっ?」
「芸能プロダクションの人にスカウトされたのよ。」
「あんたが?」
「さすがプロよね。『久しぶりにダイアモンドの原石を見つけた気分だ。』なんて言って…。」
「嘘でしょう…。」
「嘘じゃないわよ。ルックスもスタイルもいいので女優向きだから、今度カメラチェックで事務所に来てくれって言われたわ。それまで、スキンケアを欠かさないようにって、ほら、こんなに化粧品買ってくれたの。」
ミナミは、手に持っていた高級化粧品のブランド名が入った手提げ袋を見せた。中には、一杯の基礎化粧品が入っている。
「事務所ってどこ?」
「どこって…そう、名刺貰ったわ。」
ミナミが差し出した名刺をのぞき込む真奈美。そこに、この前家の前でたむろしていた男達の名刺と同じ社名を認めて、彼女の足がすくんだ。
「ミナミ。化粧品よこしなさい!返してくるから。」
「お姉ちゃん、どうして?」
ものすごい剣幕で、化粧品の手提げ袋を奪う真奈美に、ミナミも抵抗が出来ない。
「どうもこうもないわ。こんな事務所、芸能プロダクションでも何でもない。ミナミは、お母さんの洗濯物持って家に帰ってなさい。」
真奈美はそう言い残すと憤然と歩きだした。
名刺にあった事務所は、繁華街の通りをはずれて路地に入った雑居ビルの4階にある。事務所には、顧客向けのカウンターがあるわけでなし、ただ殺伐とした事務所に応接セットがひとつ。真奈美はそこに腰掛けて下品にニヤつく男達に囲まれていた。
「とにかく、これはお返ししますから。」
応接セットのくたびれた机の上に化粧品の袋を置いた。
「そうですか、私どもはお力になろうかと思って声をかけたんですけどね。」
「月々の返済はちゃんとします。」
「その月々の返済もおたくひとりでは大変でしょう。妹さんにも協力して頂ければ私どもも安心なんですけどね。」
「そう、現役女子高生だったら、結構稼げる仕事を紹介できるぜ。」
別の男が口をはさんできた。真奈美は、その男を睨みつけた。
「家族には近寄らないでください。」
ついに、中央の男が真奈美に身を寄せて本性を見せた。
「森さん、俺達を甘く見ちゃこまるぜ。利子を含めて負債を完済してもらう迄、俺たちはあんただけではなく、あんたの家族全員に追い込みをかける。あんたがだめなら、妹に稼いでもらうのは当然だろう。」
真奈美も負けていない。
「そんな脅しを言うなら、私にだって…。」
男は真奈美に最後まで言わせなかった。
「警察とか自己破産なんて考えるなよ。したところで、俺たちは法の外に居る人間だ。何処までも追いまわして取り立てるからな。」
真奈美と男は黙って睨みあった。最初は自分が押し気味だと自負していた男だったが、真奈美の瞳の奥に恐れが見当たらない。逆に彼女の瞳の奥に鋼の強さを読みとると、徐々に押されていった。やがて視線を外して言った。
「いずれにしろ…明後日の返済日がどうなるか、楽しみにしていますよ。」
真奈美は静かに立ち上がると、挨拶もせず事務所を後にした。
後日考えても事務所から家までどのように帰ったのか記憶が無い。こういう状況に陥いると、人間の思考範囲は極端に狭まるようだ。歩きながら真奈美はやがて、先の治療費だとか、ミナミの学費だとか、月末の家賃とかの問題意識が消えて、とにかく目の前に迫った返済日のことだけしか考えていない自分に気がついた。それはある意味膨大な苦難に押しつぶされないための自己防衛本能なのかもしれない。しかしそれは同時に、明後日以降の自分が想像できないことを意味している。
気がつくと自分の家の前に来ていた。ミナミと顔を合わせる前に気分転換が必要だと考えた真奈美は、大きなため息をひとつつくと、家には入らず近くの公園のベンチに腰掛けた。しかし、ただ座っているとまた借金の返済ことを考えてしまう。そうだ、おとぎ話のように幸せな自分をイメージしてみよう。そう言えば、平安で幸せな自分なんて久しく忘れていた。現実ではなくても、それで少しは気分が晴れるかもしれない。
真奈美は眼を閉じた。やがて綺麗なキッチンで、かわいいエプロンをした自分が朝食の準備している姿が見えてきた。しかしよく見ると、日本式のキッチンじゃない。周りを見まわすと家の作りも変だった。朝だと言うのに家に差し込む光は力強く、明け放れた窓からそよぐ風には常緑広葉樹の香りを含んでいた。部屋の奥から赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。キッチンの自分は、微笑みながらミルクの準備をしている。赤ちゃんが泣いているのに、自分があまりにも平然としているので心配になった。
『ミルクの準備できたわよ。』
自分は部屋の奥に声をかける。すると、赤ちゃんの泣く声がやんだ。ああ、奥に誰かいるんだと気づいた。やがて、笑い声をたてる赤ちゃんを抱きながら、男が奥の部屋から出てきた。男は赤ちゃんをはさんで、自分の腰に手を回すと、優しくおはようのキスをした。おとぎ話とは言え、本当に自分は幸せそうだ。温かい気持ちになって真奈美は男の顔を見た。その男が誰であるかを知ると、驚きのあまり眼が覚めた。いつの間にかベンチで眠っていたらしい。夕日の赤もだいぶ黒味を増している。真奈美は顔を赤くしながら、慌てて家に戻った。
「お姉ちゃん、お帰りなさい。」
「化粧品は返してきたわよ。いい…ミナミも知らない人に、モノを買ってもらっちゃだめよ。」
「はーい。」
ミナミは真奈美のお小言を気にする風もなく、イヤホンで安室さまを聞きながら、芸能雑誌をめくっている。真奈美はそれ以上妹を怒る気にもなれず、かえってそんな天真爛漫さを持つ妹が可愛らしいと感じていた。改めて妹を守れるのは自分しかいないと思った。
「そう言えば、さっきお姉ちゃん宛てに宅配便が来てたわよ。」
「そう…何かしら…。」
真奈美は自分宛てに来た小さな箱を開けてみる。中には、ヘイリー ボブ(Hale Bob)のタグついた若草色の女性らしいワンピースとショセ (Chausser)のロゴ入った可愛らしいローヒールの靴が入っていた。
「うわー、素敵。ねえ見て、確かこれ、パリス・ヒルトンやキャメロン・ディアスが愛用しているブランドだわ。」
ミナミがはしゃぎながら服を取りだすと、メモが一枚ひらりと床に落ちた。
『もう一度、デートしないか。秋良』
「すごい、またデートのお誘い?」
真奈美はメモを握りしめ、ミナミの問いに返事を返さなかった。
「デートしておいでよ。でも、一度着たらあたしに頂戴ね。今度は送り返しちゃだめよ。」
はしゃぐミナミを見ながら、真奈美は妹の為にも、悪魔に会うことを拒めないと感じていた。
秋良の指定したカフェは清閑な住宅街にあった。約束の時間に遅れ気味の真奈美だったが、久しぶりの暖かな日が心地よく、足を速める気になれない。カフェに向いながらも、街路樹の隙間から降り注ぐ柔らかい陽ざしを受けていると、真奈美は危険人物と会うという緊張感が次第に薄れていくのを感じていた。
「きっと似合うと思っていた。」
待ち合わせに遅れてきた真奈美に、秋良が最初にかけた言葉だ。真奈美のワンピースに合わせてコーディネートしたのか、若草色のVネックのカシミアセーターを素肌に着て、白いスラックスと素足に白いデッキシューズ。秋良はカフェのバルコニー席で真奈美を待っていた。ガーデンチェアに浅く腰を掛けて、日本人離れした長い脚を組む彼の姿は、本当に彫刻のようだ。
席に着いた真奈美であるが、秋良はその後まったく彼女に話しかける気配がない。ただ、眩しそうに空を眺めながら、時折カップを口に運んでいる。そんな彼の姿を、真奈美はチラチラと盗み見した。つくづくカッコイイ男だ…これが、本当のデートだったらよかったのに。真奈美は秋良の姿に見惚れながら、心からそう思っていた。しかし、柔らかな時はそう長続きしない。秋良が話しかけてくるとまた緊張感が蘇って来た。
「久しぶりだな。」
真奈美は秋良を見つめたまま返事も返さずにいた。
「あれからなにか良いことあったか?」
「聞かなくても、私のことはなんでもご存じでしょう。」
今度は秋良が真奈美を見つめたまま黙り込んだ。
「でも…私はあなたのこと何も知らないのよ。少しはあなたのこと話して。」
「そんなことを話す必要があるのか?」
「だって、デートなんでしょ。」
秋良は、返事もせずに頑なに口を閉じた。しばらく彼の言葉を待った真奈美だが、彼は一向に喋ろうとしない。仕方なく真奈美は、秋良の全身を眺めまわしながら、語りはじめた。
「わたしが思うには…。こんな仕事を思いつくくらいだから、大学出で私と違って頭が良いのでしょうね。お金持ちみたいだから、仕事も成功している。でも…いくら儲かっても、あなたの仕事は普通の神経では続けられないわ。子供がいては出来るはずないし、当然結婚もしていない。女をモノとしか思っていないあなたは、きっと彼女すらいないはずよ。」
秋良は不愉快な気持ちを押さえながらも、彼女が話すのを黙って聞いていた。
「およそ家庭に縁もなく、人と心を通わせるなんてことも出来ない。そんな人は、いくらお金が儲かっても、使い道が思いつかないものよね。ご両親のご加護に気づかず、自分ひとりの力で生きてきたように錯覚し…。」
「そうだよ!おやじは俺が物心つく前にどっかへ消えたし、おふくろなんて若い男の尻ばかり追いかけていた!昔も今も自分ひとりだ。満足か!」
突然興奮する秋良に、真奈美も言葉を失った。今まで感情のひとかけらも見せたことが無い秋良の珍しい反応だった。一方で、すぐ我にかえった秋良は、こんなに興奮した自分に、自分自身驚いていた。商売柄、人に悪く言われることには慣れている。しかし、どんなことを言われても、いつもは平然と受け流せるのに。なんで真奈美の言葉はこんなに自分の感情を逆なでするのか不思議だった。
「興奮して悪かった。デートはまたの機会にしよう。」
そう言って立ち上がりかけた秋良の腕を真奈美が掴んだ。
「あなたが私を誘った理由は、デートなんかじゃないでしょ。」
秋良が座り直しても、真奈美は掴んだ腕を離さなかった。
「あなたと契約したら、サロゲートマザーにもならなきゃいけないの?」
秋良はしばらく黙って、真剣なまなざしで問いかける真奈美を見つめていた。
「…だいぶ勉強したようだな。」
「どうなの。」
「前にも言ったと思うが、小指の爪の先ですら、君の身体の一部を切って奪ったりしない。うちはホストマザー専門だ。」
真奈美は相変わらず秋良の腕を掴んだまま、大きなため息をついて空を見上げた。何か思案しているようだった。秋良はそんな彼女の顔を黙って見守った。街路樹の葉からこぼれてくる陽が、悪戯な子供のように彼女の顔の上をはしゃぎまわる。そんな気まぐれな陽を受け入れながら、彼女は薄く眼を開けて考えにふけっていた。
一方、腕をつかまれた秋良は、自分達が逢っている理由をしばし忘れて、そんな真奈美を眺めていた。はた目から見れば、お揃いの色を身にまとった恋人同士が、甘く緩やかな時間を過ごしているように見えたろう。しかし、真奈美が秋良の腕を離すと、彼も現実に引き戻される。
「わかった…検査を受けるわ。」
「そうか…担当に連絡させる。」
秋良は席を立った。
「ちょっと待って…。」
再び真奈美は腕を取って秋良を留めた。そして、言いにくそうにしながらとぎれとぎれに言葉を吐きだした。
「出来れば…、お願いが…あるんだけど…」
そう言いかけた真奈美の話を遮って、秋良がポケットから白い封筒を出した。
「忘れていた…仕事の話しとなれば、今日はデートじゃない。この前来てもらった分と今日の分も含めた日当だ。」
白い封筒の中身を確認した真奈美は、椅子に座ったまま秋良を睨み上げた。
「あなたは、本当に悪魔だわ。」
秋良はその言葉を聞くと、唇の隅に笑みを浮かべながらカフェを出て行く。その後ろ姿を睨み続けながら、真奈美は身を焼くような悔しさに耐えていた。彼女には珍しく睨めつける眼が濡れていた。封筒の中に入っていた日当の金額は、明日に迫った返済金の額と同額だったのだ。
『なんであんな悪魔が、あたしのおとぎ話に出て来るのよ。』
真奈美は、溢れて来る涙を拭おうともせずに唇をかんだ。
説明 | ||
代理出産という違法ビジネスに引き込まれた真奈美。そこで出会ったった秋良に、真奈美は命を賭けてのメッセージを送り続ける。母性とは、出産とは、親子とは…。そしてその関係の中で生まれる根幹的な愛に、はたして秋良は気付くことができるのだろうか。妊娠から出産のプロセスで作り上げられるガチな男女関係。先端の医学的知識と共に語られる未婚男女必読の恋愛小説です。「2012.12.06.鈴子誕生記念作品」 | ||
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