ウ・テ・ル・ス - 完結編
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 最重要事項である妊娠チェックが終わってからということで、今回の定例会議は、その日の夜におこなわれた。

『そう、今日、妊娠が確認されたの。とりあえずひと安心ね。だったら、事業の整理はそんなに急がなくてもいいんじゃない。』

 会議テーブルのモニターから秀麗が笑顔で言った。

「いや、今の段階で成功しても、この後にも出産が無事終わる保証はない。事業の整理のスピードは緩めないでいこう。」

 秋良が間髪を入れず発言した。事情がわかっている守本ドクターと三室は黙って肯いて賛同を示した。

『わかった…。それでは、事業整理の準備について話し合いましょう…。』

 その後も、秀麗の進行で会議はすすめられ、彼女が会議を締めたのは、深夜に近くなっていた。

「三室、ちょっと来てくれるか。」

 席を立った三室を秋良が呼びとめる。秀麗のウェブが切られ、守本ドクターが立ち去ったことを確認すると、秋良は言った。

「真奈美はどうしてる?」

「妊娠チェックが終わったら、妹さんとホテルを出ましたよ。」

「そうか…。」

 何か言いたそうな秋良に、三室は問い返す。

「それでよかったんですよね?」

「ああ。」

「これから彼女との連絡は自分がやりますから。」

「ああ、そうしてくれ。」

 三室が部屋を出ていった後も、秋良はしばらく会議テーブルに頬づえをついて考えていた。誰に非難されようと、自分達が生き残るための最善の策と考えてとった自分の行動である。思惑通りに代議士夫人に妊娠を示し、自分達の延命に成功した。真奈美との雇用契約に違反したとしても、本音のところは、彼女はウテルスなのだからは利用されるのは仕方が無いと思っている。

 また今の秋良は、真奈美のお腹にいる子どもと自分との関係性がまったく理解できないでいた。その子が自分と血のつながった子どもであるという当然のことが、まったく意識されていない。だからこそ、将来その子のために自分が死ぬような目に遭うことなど想像もできない。

 むしろ秋良の今の心のわだかまりは、子どもと言うよりは真奈美にあった。彼女と離れて2週間、わずかに出来たこころの隙間に空虚感が忍び込んでくる。それは彼女への罪悪感などではなく、いたって自分勝手な想いなのだが、今のところその隙間をどうやって埋めたらいいのかが、彼のプライベートな部分での大きな課題であった。

 秋良は会社を出ても、すぐには自宅に帰らず、首都高にのり環状線を一周した。深夜の首都高は空いていて、彼は望むスピードを出すことができたが、それでもこころの隙間を埋めるにはいたらない。

『厄介なものを抱えてしまったな…。』

 秋良はそう呟きながら、ドライブを諦めて車を自宅へ向けた。

 秋良がカードキーを差し込み、誰も居ない自分の部屋のドアを開けた。まずオーディオに電源を入れいつもより大きめの音量で音楽をかける。着替えを済ませると、部屋の明かりを消して、リビングで夜景を見ながらバーボンを飲んだ。今日、大鏡の内側で久しぶりに顔を見たせいであろうか、夜景を眺めながらも、網膜には真奈美の顔が像を結ぶ。妊娠すると顔も変化するのか、今日の真奈美は、自分が知っている真奈美より幾分か柔らかな顔つきになったような気がする。秋良は彼女の顔を頭から振り払うように、またバーボンを飲んだ。

 酔いも回ってきて、ようやく寝付けそうな気分になって来た。電気も点けず、着ていた部屋着を脱ぎ捨てると、アンダーウエアだけでベッドにもぐりこむ。ベッドの中が妙に温かく感じた。酔いのせい?しかし、いくら酔っているとはいえ、この温かさは変だ。後手にベッドを探ると柔らかいモノが手に触れた。秋良が慌てて寝室の照明を点けると、驚いたことに自分のベッドに真奈美が寝ていたのだ。真奈美は、照明の明るさに目をしばたくと、秋良を認めて目をこすりながら言った。

「今頃帰ってきやがって…。しかも酒臭いし…。いい加減にしてよ、折角良い気持ちで寝てるのに…。」

 真奈美はベッドで寝がえりをうつと、秋良に背中を向けて、また寝息を立て始めた。秋良は唖然として、しばらくその後ろ姿を見つめていた。

 

 ふたりの生活が再開された。部屋の中で鈴の音が忙しく鳴り響く毎日が戻ってきたのだ。妊娠に関して真奈美は、一切非難めいた言葉を秋良に言わなかった。何事もなかったように淡々と家事をこなし、楽しげに秋良に話しかける。秋良はそんな真奈美を不気味に感じながらも、部屋から追い出すようなことはしなかった。さすがに寝室は分けたが、それ以外はなすがままの彼女を受入れ、ただ黙って見守り続けた。当然のことではあるが、この不思議な暮らしの中でも、真奈美の身体の中の新しい命は着実に育っていく。

 妊娠初期(〜3週)お腹の赤ちゃんの大きさは約1センチ。真奈美は熱っぽくなり。体にだるさを感じる。

「最近さ、おっぱいがはってきて、しかも便秘がちなのよね。」

「そんなこと、誰も聞いていない。」

 家で秋良と食事をとりながらの真奈美のぐちに、秋良は箸も止めずに取り合うことがなかった。

 

「もしもし、姉さん?三室です。」

『あら、ご無沙汰しています。』

 三室のスマートフォンから、真奈美の元気な声が聞こえてきた。

「元気そうですね。」

『ええ、なんとか。』

「身体の具合は?」

『妊娠なんて初めてですから、身体の変化に戸惑っています。』

「産むんですか?」

『やだ三室さん、もちろんでしょ。』

「そうですか…。」

 電話口でしばし三室は言いごもっていた。

「産むのなら、家族の皆さんも大変ですね。」

『言ってませんでしたっけ…。家には戻っていないんです。』

「嘘、だったら何処に居るんです。」

『前のように秋良さんの部屋で暮らしています。』

「ええっ!」

 三室はスマートフォンを落としそうになった。

「大丈夫ですか?」

『秋良さんは黙って家に入れてくれました。』

「嫌じゃないんですか?」

『別に。』

「許したんですか?」

『いいえ、一生許しません。』

「まさか、復讐しようと…。」

『魅力的な言葉ですけど、今はそんな気には…。』

「だったら、なぜ…。」

『逃げるのは簡単です。でも、お腹の赤ちゃんから父親を取り上げることはできません。』

「でも社長は…。」

『わかっています。今の秋良さんはまるで父親である自覚がありません。』

「もしかしたら、生まれた赤ちゃんも取り上げられてしまうかもしれませんよ。」

『わたしも命がけです。お腹の中の子も、その子の父親も、決して失うわけにはいかないから…。』

 宅配便の姉ちゃんが、これほどの女性だったとは…。三室は畏敬の念を持って、真奈美の言葉を聞いた。

 

 妊娠2カ月(4〜7週)お腹の赤ちゃんの大きさは約2センチ。あいかわらず基礎体温は高め。子宮は、手の握りこぶしぐらいの大きさになる。お腹のふくらみは、それほど目立たないが、徐々に大きくなる子宮に膀胱や直腸が圧迫されるので、ますます尿が近く、便秘も酷くなる。

「アツツッ…。足がつった…。」

 真奈美は洗濯物を畳む最中に襲ってきた足の付け根の痛みを、必死に秋良に訴える

「マッサージしてよ。」

 もちろん秋良は、読んでいる雑誌から顔も上げず取り合わない。

 

 妊娠3カ月(8〜11週)お腹の赤ちゃんの大きさは約7センチ。それほど目立たないが、真奈美のお腹が、少し膨らんだようだ。テレビを見ていた真奈美が、牛丼のCMで口をふさぎながらトイレに駆け込むようになった。真奈美がげっそりした顔で戻ってきた。

「ところで、今日の晩飯は?」

「嘘でしょ…つわりで苦しんでいる私によく聞けるわよね。」

「俺だけ外に食べに行くぞ。」

「この非国民野郎!」

 結局秋良は、真奈美の見えないところで、カップ麺をすする羽目となった。

 

 妊娠4カ月(12〜15週)お腹の赤ちゃんの大きさは約15センチ。

「おい、真奈美。いくらなんでも食いすぎじゃないか?」

 ピザ、うどん、ごはん、ケーキ、フルーツ。朝から晩まで兎に角、食べ続ける真奈美に呆れて、秋良が言った。

「どんなに食べても、食欲が尽きないの。わたし…何かに取りつかれているみたい。」

「単に先週まで吐き続けていたリバウンドだろ。」

 真奈美は料理を作る過程でもう口に入れてしまうので、完成された料理が秋良の前に並ぶことが無かった。

 

 妊娠5カ月(16〜19週)お腹の赤ちゃんの大きさは約23センチ。真奈美のバストがワンサイズ大きくなってきたようだ。ウエスト回りやおしりにも脂肪がついてきて、体全体がふっくらしてきた。服もいよいよ普段のモノでは着ることができなくなった。

「なんで俺が買い物に付き合わなければならないんだ。」

「だって、最近身体が重くなったせいか疲れやすくて…。なんかあったら大変でしょ。」

 マタニティウエアの買い物で銀座三越に来たふたり。真奈美はせっせとマタニティウエアを選び、秋良はせっせと支払いをする。三越でも真奈美は頻繁にトイレへ通った。

「あの田舎娘、この前見た時より太ったわね。だから妊娠は嫌なのよ…。でもとりあえず順調のようね。」

 トイレへいった真奈美を待つ秋良が、背後から声をかけられた。振り返って見るとサングラスをかけた代議士夫人が、沢山の買い物袋を持った秘書たちを引き連れて秋良の傍に立っていた。意外なところでの遭遇に、秋良も戸惑いを隠せない。代議士夫人は、かまわず言葉を続けた。

「今5カ月くらいかしら。」

「はい。」

「マタニティのお買いものなのね。そろそろお腹が出てきたのかしら?」

「若干…。しかし体型が目立ってくる前に渡航する手はずですから、来月クアラルンプールへ行く予定です。奥様には、出産予定日の1カ月前に行っていただきます。」

「そう…。やはり妊婦を直接見ると実感できるものね。楽しみにしているわよ。」

 代議士夫人はそう言うと、秘書達を引き連れて満足そうに立ち去っていった。一時的ではあるが、代議士夫人の信頼を得ることができた秋良は、そっと胸をなでおろす。偶然とはいえ、買い物に連れ出してくれた真奈美に感謝した。

「何度もごめんなさいね。」

 真奈美がトイレから戻ってきた。

「さあ、買い物も済んだし、これから水天宮へいくわよ。」

「水天宮?」

「今日は戌の日だから安産祈願をしましょう。」

「ちょっと待てよ。」

「あっ。」

 突然、真奈美が秋良の腕を強く握りかがみ込んだ。

「どうした?」

 真奈美の身体の変調を心配して慌てる秋良。

「お腹の中の…動いた。」

 若い二人はぎょっとして、真奈美のお腹を見つめ続けた。

三越の車寄せで黒塗りの高級車に乗り込んだ代議士夫人は、手袋を取りながら運転席の秘書に話しかけた。

「あなた、クアラルンプールで多少荒っぽい仕事を頼める知り合いはいるの?」

「はい、ツテをたどれば見つかるかと。」

「そう…。」

 代議士夫人は車窓から街を眺めながら考えを巡らせた。どうやってあの田舎娘を妊娠させたか知らないが、今のところ事は順調に進んでいるようだ。何か妙な胸騒ぎを感じていた。あの社長があの田舎娘を見ていた目が、どうも気に入らない。子どもを得るためには、万全を期していた方がいい。代議士夫人は、運転する秘書に指示を出した。

 

 真奈美がキッチンでデザートの準備をしていた。フルーツの皮を剥き、棚の上にある大きな皿を取ろうとつま先立つと、何も言わず秋良が背後から手を伸ばし、皿を取ってくれた。日頃は知らんぷりをしているような秋良だが、実は自分の背中を見守っているのだということが感じられて、真奈美も少し嬉しかった。

 膨らみかけたお腹を抱え、よっこらせと歩きながらリビングのデスクにフルーツを持ってきた真奈美。秋良は言った。

「おい、このままここに居ていいのか?」

「なんで?」

「真奈美も解っていると思うが、来週の定期検診が終われば、すぐクアラルンプール行きだ。日本にいるうちなら自由に戻ることもできるが、向こうへ行ってしまったらそう簡単に戻れない。ましてや子どもが生まれたら、その子を連れて帰国なんて至難の業だ。いくら俺でもどうにもできないぞ。」

 真奈美は黙ってフルーツを口に運んでいた。

「それとも子どもを手放すつもりなのか?」

 真奈美がフルーツフォークをテーブルに置いて、秋良を正面から見据えた。

「秋良は何もわかっていないのね。」

「どういうことだ。」

「私のお腹の中にいる赤ちゃんは、あなたの赤ちゃんよ。手放すかどうかを決めるのは、私じゃない。秋良、あなたなの。」

 

 その夜、秋良はベッドが揺れた気配で目が覚めた。見ると真奈美が自分のベッドに潜り込んでいる。何のことか理解できずに秋良は、眠っている振りをしていると、やがて真奈美は彼の手を取り、自分のお腹に秋良の手のひらをあてた。秋良はその手に温かな真奈美の肌を感じた。柔らかいというよりは、少し張った感じの肌はつるつるしている。あの夜以来、彼女の肌に触れるなんて久しぶりだ。欲望を感じるより先に、彼は癒されていく自分を感じた。しばらくすると、真奈美のお腹の内側からポクンと秋良の手のひらを押すものがあった。秋良は心底驚いた。手を撥ね退けたい衝動をようやく堪え、寝ている振りを続けた。その後2回か3回ポクンを感じたが、やがてその動きもおさまってくると、真奈美は手を離し、秋良の腕の中ですやすやと寝息を立て始めた。

 真奈美と言う女はまったく理解できない。勝手に家に上がり込んできたかと思うと、今度は布団の中にまで潜り込んできた。いったいこの女は、俺をどうしようとしているのか。しかし、理解できないにもかかわらず、ここ迄真奈美を受け入れている自分もまた説明できなかった。はっきり言って人間の腹の中で蠢くものなんて、エイリアンみたいでグロテスクだ。真奈美が自分のベッドで寝息を立てることはまだ受け入れられても、彼女の腹の中のモノまでは到底無理だ。

 そんな秋良の想いに構わず、定期健診の日まで真奈美は彼のベッドに潜り込み続けた。日本での最後の定期健診で赤ちゃんが無事なことが確認できると、真奈美はおとなしくクアラルンプールへ旅立って行った。

 

 妊娠6カ月(20〜23週)お腹の赤ちゃんの大きさは約30センチ。

『こちらの気候は思ったほど暑くありません。快適です。もっとも部屋に居ることが多いのですが…。秀麗さんはよくしてくれます。でも…身体はますます重くなり腰は痛いし、お腹は突き出て、おっぱいは腫れて垂れ下がり、乳首は黒ずんできて…こんな身体にした人を恨んでは、夜な夜な月に向って吠えています。写真を送りますので反省してください。真奈美。』

 秋良は、わずかに頬笑みながら真奈美から送られてきた写メをのぞき込んでいた。

『ちょっとCEO、聞いてるの。』

「ああ、すまん。」

 定例会議の席で、モニターに映る秀麗からなじられて秋良は慌ててスマートフォンをポケットにしまった。

「で、なんだっけ?」

『事業整理の進捗状況を確認してるんでしょ。』

「ああ、そうだった。」

『クリニックも、倶楽部も、順調に買い手が見つかったみたいだし、あとは私たちの身の振り方を考えなくては…。』

「俺たちは何処へ逃げても逃げ切れそうもない気がしますね。」

 三室の発言に、守本ドクターも同意する。

「そうだよ、あの奥さん相当粘着気質みたいだから…。」

『なんであなた達は、出産の失敗を前提に話しするの?無事にすめば、少なくとも追われることなんかないはずよ。』

 三室と守本ドクターは顔を見合わせた。

「もし、追われることになったら…、生き残るための対抗策を準備している。」

 秋良が、全員の目を見つめながら力強く言った。

『どんな対抗策?』

「秀麗は知らなくていい。汚れ事は俺に任せておけ。」

『なんかキナ臭くて気に入らない…そう言えば、私たちの周りの様子も何か変なのよね。』

「変?どういうことだ?」

『周りを人相の悪い男達が徘徊していて、どうも私たち監視されているみたいなの。』

 秋良の顔に緊張の色が浮かんだ。

「あの奥さんならやりかねない。」

 守本ドクターが首を振りながら言うと、三室もたまらず言葉を繋げる。

「もし事が起きたら…日本に居る俺たちはとりあえず逃げられるけど、向こうに居る秀麗さんと姉さんは逃げられませんよ。」

『姉さんって誰?』

「あっ、いや、ウテルスのことです…。」

 慌てて言いなおす三室に、秋良が言葉を引きとる。

「とにかく…出産までは何も起きないだろうから、そこまでは堪えてくれ。」

『なんか嫌な予感がするわ。』

「安心しろ、出産の時は俺が行く。」

 秋良の発言に、守本ドクターも三室も意味ありげな顔でお互いを見あった。

 

 妊娠7カ月(24〜27週)お腹の赤ちゃんの大きさは約35センチ。このころになると、真奈美もあお向けに寝ると、息苦しくなってくる。急に大きくなったおなかに皮下組織がついてゆけず 妊娠線が現れ始めてきた。産後は白く、目立たなくなるというが、妊娠中は赤紫色を帯びていて気になってしまう。自分の身体のあちこちに、今まで見たこともないようなサインを発見し、出産が近づいている事を否が応でも真奈美に自覚させる。

 クアラルンプールの郊外にある一軒家。そこが出産まで、会社が真奈美に与えた住まいだ。真奈美はそよ風が渡るベランダで、外の景色を見ていた。一軒家は高台にあり、遠くに青い空に突き抜けて都市部の近代的なビル群が見える。ペトロナスツインタワー、国会議事堂、KLタワー。世界の最高級の建築のランドマークは壮観でもある。実際、クアラルンプールは郊外に広がってはいるが,街そのものは7〜8キロ四方くらいしかない。しかし、小さいながらも街全体にとても緑が多く、まさにガーデンシティと呼ぶにふさわしい。目に入ってくるクアラルンプールの緑の多さは,日本の諸都市とくらべてもけた違いだ。

 真奈美は、市民の憩いのオアシスであるレイクガーデンの緑を見ながら、しかし心は秋良を想っていた。妊娠がわかった日から秋良の家に転がり込み、身体中の勇気を振り絞って訴え続けているメッセージが、まったく彼に伝わっていないように思えるのだ。やはり彼には到底理解できないことなのだろうか?本当のところは、赤ちゃんを取り上げられる恐ろしさを考えると、今すぐにでもこの家から逃げ出したいくらいだ。

 真奈美はポケットからスマートフォンを取りだすと、自分の膨らんだお腹に当てた。

『今そちらに向かっている。10分以内には着けると思う。店の中で待っていてくれ。』

 以前秋良が残した留守番メッセージを保存していて、その声をお腹の赤ちゃんに聞かせているのだ。

「あなたのおとうさんよ。声を忘れないでね。」

 クアラルンプールに来てから、毎日秋良の声を聞かせていた。実際、この声を聞くとお腹の赤ちゃんもおとなしくなるような気がする。めげそうになった時は、そうしてお腹の赤ちゃんから力を貰うのだ。

「何しているの?」

 いつの間にベランダに来たのか、秀麗が真奈美に声をかけた。

「お腹の赤ちゃんに聞かせているんです。」

「ああ、胎教ってやつね。良い音楽は胎児にもいい影響を及ぼすって言うしね。」

 秀麗は、真奈美が聞かせているものが音楽だと勝手に解釈していた。

「それに、あなたのアンクレットの鈴の音も綺麗だから、赤ちゃんも喜んでいるんじゃない?」

「そうですね…お腹の赤ちゃんもこの鈴の音がすると、一緒に踊りだすんです。」

「へぇー、わかるんだ…。」

 真奈美は2度ほど足踏みをして鈴を鳴らした。

「本当に素敵な音ね。どこで手に入れたの?」

「実は…プレゼントなんです。」

「そう…。選んだ人はとてもセンスがいいわ。」

「そうですか…でも彼は、ファッションと言うよりは、私が何処に居るか解るからって…。なんか猫に首輪を付けるみたいなことを言っていましたけど。」

「えっ、男の人からのプレゼントなの?」

「ええ、まあ…。」

「その人、相当あなたを好きだったのね。」

「そうでしょうか?そんな素振りはまったく見せませんが…。」

「自分の気持ちに気付くのにとっても時間がかかる動物なのよ、男はね…。」

 ベランダのふたりの女性は、それぞれの頭の中に、偶然にも同じ男のことを想い描いた。

 

 妊娠8カ月(28〜31週)お腹の赤ちゃんの大きさは約40センチ。秋良のスマートフォンに真奈美からのメッセージが届いた。開いてみると、モノクロで、扇形に開いた線で構成された電子画のようなものが添付されていた。

『今日、お腹の中の赤ちゃんが女の子だとわかりました。真奈美』

 エコー画像か。どこをどう見ても赤ちゃんの姿なんて見えてこない。こんな画像でどうして性別なんかわかるのか、秋良にはまったく判読できなかった。

 妊娠9カ月(32〜35週)お腹の赤ちゃんの大きさは約45センチ。益々大きくなるおなかに、腰痛や足の付け根が痛む。むくみが見える顔にもシミ、ソバカスが濃くなってきたようだ。そんな体調の変化に加え、あと少しで赤ちゃんに会えるという期待と、分娩やその後のことに対する不安感が入り混じって、真奈美は精神的に不安定になった。実際、秋良のことを考える余裕もなくなってきている。代議士夫人が秘書達を引き連れて一軒家に乗り込んできたのは、そんな折だった。

 代議士夫人を見たとたん、真奈美は自分達の赤ちゃんを彼女が奪いに来たのだと実感した。会うのは2度目だとは言え、こうして対峙してみると、夫人の持つ威圧感に真奈美の足がすくむ。夫人は真奈美を一瞥すると、汚いものを見たようにハンカチで口元を覆った。

「それで、出産予定日はいつなの?」

 赤ちゃんを奪われる恐怖心からか、真奈美は夫人と目も合わそうとしない。秀麗が答えた。

「出産予定は40週目です。今34週目ですから、あと6週はありますが、正期産(満期産)には37週から突入しますので、1カ月後からは実際はいつ生まれてもおかしくない臨戦態勢ということになります。」

 夫人は真奈美の突き出たお腹をマジマジと見つめた。秀麗は言葉を続けた。

「しかし、彼女は初産なので…初産は遅れる場合が多いんですよ。」

「私はこんなところに1カ月以上も滞在できるほど暇じゃないの。さっさと済ませて欲しいものだわ。」

 そう言い残して夫人は一軒家を出ていった。秀麗と真奈美が夫人を見送ると、夫人が家の周りにたむろする人相の悪い男達から礼を受けているのを目撃した。その姿を見ながら、真奈美は赤ちゃんをお腹に抱いたまま、ここまで来てしまったことを初めて後悔した。

 

 妊娠10カ月(36〜39週)お腹の赤ちゃんの大きさは約50センチ。真奈美もいよいよ正期産に直前となり、不安もピークに達して来た。もうなり振り構っていられなくなった。とにかく赤ちゃんを守ることが最優先だ。生まれてからではもう遅い。ついに彼女はこの家からの逃亡を決意した。

 その日は朝から体調もよかったので、秀麗に気付かれぬように身の回りの物を整理し、最低限の衣類とマタニティ用品をバッグに詰めて、夜が更けるのを待った。

 深夜、虫の音しか聞こえないことを確認して、真奈美は寝室を出た。幸いこの家には秀麗しかいない。秀麗は、棟の離れた自分の寝室で寝ているはずだ。寝室を出て真奈美はアンクレットを外すのを忘れている事に気付いた。歩くたびに鳴る鈴の音に肝を冷やしたが、今はそれを外すことよりも、少しでも早くこの家を出た方がいいと考え、出口に急いだ。

 外へ出る玄関のドアを少し開けて外を伺う。すえたタバコの匂いがした。見るとドアのすぐそばに黒い車を止めて、男達がタバコを吸っている。そこに日頃自分達を監視している男達がいることに気付いた。

 真奈美は踵を返すと、裏口へ向かった。そしてそこにも男達を発見すると、庭の真ん中で途方に暮れた。真奈美も秀麗も自分達を監視している男のことは気付いていたが、今までは夜間にはその姿が見えなかった。代議士夫人は、この時期になって監視の人数を増やし、そして24時間体制を引いたのだ。

 どうしようかと庭を右往左往しているうちに、次第にパニックに陥っていく。

「痛ッ!」

 ついに真奈美は、目利きが出来ぬ暗い庭で、石に躓き足をくじいてしまった。痛さと重い身体に耐えられず、芝生に座りこむ。すると突然外のドアが開いて、男が入って来た。外で監視している男達が、右往左往する真奈美の鈴の音に気付き、家の中の様子を確かめに入ってきたようだ。這いずりながら慌てて庭の木陰に身を隠したが、鈴の音は消すことが出来なかった。入ってきた男は、その鈴の音に気付くと、吸い寄せられるように、暗い庭を手探りで真奈美に近づいてきた。

「おい、真奈美。そこに居るんだろ。」

 聞こえてきたのは、ストーカーから真奈美を救ったあの声だった。やはり自分を救えるのは、この男しかいないのだ。真奈美は、片足ながらも脱兎のごとく木陰から飛び出ると、半ベソをかきながら、声の主に抱きついた。

 抱きつかれた秋良は、相手が真奈美だとはわかったものの、その体つきや匂いや柔らかさが、彼が知っている真奈美ではないことに戸惑いを覚えた。不快なのではない。強いて言えば、なにか自分に及ばないものに変心しているかのごとくに感じたのだ。そのうち、真奈美が自分に強くしがみつくものだから、突き出たお腹が自分の身体にあたり、赤ちゃんが潰れやしないかと心配になってきた。

「どうした、足を痛めたのか?」

 秋良は真奈美を軽々と抱き上げた。赤ちゃんも居て重さも2倍になっているはずなのに、この男はなんて逞しいのだろう。そんな真奈美の心の内を知ってか知らずか、秋良はそのまま彼女を寝室に運んで行った。真奈美をベッドの上に置いたが、真奈美は秋良の首に巻いた腕を解こうとしない。仕方なく真奈美の横に添い寝する秋良。何カ月かぶりに感じる彼女の体温に癒されながら、秋良もやがて眠りの園に入っていった。翌朝、真奈美が破水した。

 

 ほとんどの場合は、破水後24時間以内には陣痛が始まる。真奈美は病院へ連れて行かれ、浣腸と剃毛など、いよいよ出産に向けての最後の苦しみに立ち向かう準備をした。真奈美の入った病院に、秀麗と秋良が付き添っていたが、それだけではなく、いかつい男達も付いてきて、幾重もの監視の眼が真奈美を取り囲む。秀麗も秋良も不愉快極まりないが、代議士夫人の指示となると、それを拒否することもできない。

 真奈美が病室で落ち着いてきたのを確認すると、秋良は秀麗をラウンジに誘った。秋良はカフェカウンターから、紙コップに入ったコーヒーを取って来る。コップのひとつを秀麗に渡して彼女の横に座ったものの、彼はなかなか口を開かなかった。いつものことなので、秀麗から口火を切った。

「いつこちらに着いたの?」

「JAL723便だから、夜7時頃だ。」

「家に来たのは深夜でしょ。それまで何していたの?」

「出産後の真奈美の隠れ家を探していた。」

「なんで出産後に隠れなきゃいけないの?」

 秋良は黙って答えようとしない。秀麗は、秋良の身体にただならぬ気配を感じて詰め寄る。

「どういうことなの?」

 秋良は重い口をようやく開いた。

「実は、真奈美のお腹にいる子は、代議士夫婦から提供されていた受精卵ではない。」

 絶句する秀麗。秋良は提供された受精卵が生命活動を停止した日、クリニックで代議士夫人との間で起きたことを説明した。

「じゃ今ウテルスの中に居る赤ちゃんは誰の子なの?」

「そんなことは重要じゃない。重要なのは、戸籍上の実子を欲しがる夫人が、受精卵のからくりを知っている俺達を放っておくわけないという事実だ。」

「だから急に事業の整理なんて言い始めたのね。」

「ああ、幸い時間稼ぎが出来たおかげで日本の方の準備は整ったよ。」

「呆れてものが言えないわ…。」

「しかし、残念ながら、用心深い夫人のお陰で、ここにいる俺たちのリスクは高まったようだ。」

 秋良が傍でたむろする男達をあごで示した。

「だから、秀麗にお願いしたい…。」

「最初からのパートナーである私に、ここまで秘密にしておきながら、何を今さらお願いがあるの。」

 きつい秀麗の非難にも、秋良は表情を変えずに言葉を続けた。

「出産された子どもを夫人に渡す間、俺が時間稼ぎをするから、出産を終えて動けない真奈美を、隠れ家に連れて行ってもらえないか。」

 秀麗は、こんな切実な顔で自分に物事を頼む秋良を初めて見た。

「あなたのお願いを聞く前に、教えて欲しいことがあるの。」

「なんだ?」

「もう一度聞くけど…、ウテルスの中に居るのは誰の赤ちゃんなの?」

 秀麗の問いにしばらく黙っていた秋良だが、ため息をひとつつくと諦めたように口を開いた。

「卵子は真奈美自身のものだ。」

「それで、精子は?」

「俺だ…。」

 その答えを聞いた秀麗の心境は筆舌に尽くしがたい。嫉妬、失望、嫌悪、挫折、悲哀、恐怖、そして罪悪感。それらの言葉が溶けあい、秀麗の心の中で、醜悪な香りを放ちながら渦を巻いた。秀麗は青い顔で席を立つと、何も言わずにその場から立ち去ってしまった。

 

 真奈美は病室で、10分間隔で襲ってくる陣痛と闘っていた。昔母から『鼻の穴からスイカを出すくらい痛い』とはよく聞いていたので、『痛い』という事実はもう受け入れていた。陣痛開始から出産までには、長い道のりがある。陣痛は確かに痛いしつらいけれど、この段階でヒイヒイ騒いでいると、いざ出産のときに力不足で上手にいきめない。陣痛はなるべく静かに過ごすのだと思ってはいたが、実際にその痛みに見舞われてその痛さに驚いた。やはり叫んだり怒鳴ったりしてしまうのは、初産の彼女にしてみれは仕方ないことかもしれない。

 真奈美が叫び声を上げるたびに、秋良が病室に飛び込んできた。そんな秋良を睨みながら、涙を含んだぎらつく目で怒鳴りあげる。

「チクショー、あたしがこんなに苦しむのも、あんたのせいよーッ!」

 秋良は呆然としてその罵声を受けるしかないのだが、陣痛が収まると人が変わる。

「あら秋良、居たの?あなたも少し休んだら?」

 何秒か前の罵声を忘れたかのように、秋良に優しい言葉をかけてきた。秋良にしてみれば、真奈美の身に何が起きているのかまったく理解できない。しかしそんなことを何回か繰り返していくうちに、罵声を受けている時間の方がだんだん長くなってきていることに気付いた。

 周知の通り陣痛とは、胎児をいよいよ体外に生み出す為に、子宮が定期的に収縮を繰り返すことで引き起こされる痛みである。ただ、この陣痛が発生するメカニズムに関しては、まだ医学的には解明されていない部分が多く、いつどんなタイミングで発生するか、またはどんなサインによって陣痛が始まるかは、諸説が入り乱れており、結論は出ていない。

 陣痛は初期段階では、お腹に張りを感じる程度だったものが、だんだん定期的な痛みを感じ、その痛みが強くなり、出産が近づくに連れて、痛みを感じている時間が長くなる上に、痛みが発生する時間の間隔が短くなっていく。

 ただ、この陣痛の痛みが、どの位の痛さなのかというのは、相当な個人差があるようだ。あまりの激痛に『死ぬ!』を連呼しながら泣き叫ぶ妊婦もいれば、下痢の痛みかと思ったらそれが陣痛で、2時間後に産まれたという程度の妊婦もいる。

「だめ、秋良。私…死ぬ。」

 残念ながら真奈美の陣痛はかなり痛いようだ。必死にその痛さを秋良に訴えていた。

「大丈夫だ。痛みで死んだ奴はいない。」

「バカヤローッ。」

 真奈美は秋良の袖を掴んでさらに懇願する。

「お願いーッ。こんな痛いならいっそ失神させて…。」

 秋良が何やら英語でそばにいるナースに話しかけた。ナースの答えにうなずく秋良。痛さに悶えながらも気になった真奈美が聞いた。

「何だって?」

「痛さで失神するかどうか聞いたんだが…。」

「それで?」

「生き物の本能として、産み落としたばかりの子供を外敵から守る為に、女性は陣痛で意識を失う事はないって…。どんなに痛くとも、本当に耐えられないほどの痛みではないそうだ。」

「コノヤロー、言ったな、言ったな…覚えてろよッ。」

「俺が言ったんじゃないって…。」

 真奈美が痛さに苦しめば苦しむほど、それを見る秋良の心の根に、何かが育っていく。

 陣痛発来から、子宮口全開大になるまでを分娩第1期(開口期)と言う。個体差は著しいが、それに要する時間は経産婦で約6時間、初妊婦ではその倍の約12時間と言われている。真奈美はきっちり12時間の陣痛を味わって、分娩室に運ばれていった。

 

 真奈美が分娩室に入り、そのドアが締められると、その入口にいかつい男達が立ち並んだ。男達からは、この部屋に勝手に出入りさせないぞという決意が感じられる。秋良も仕方が無く男達とともに出口のベンチに腰掛ける。ふと廊下を見ると、秀麗が腕組みをしながらこちらにやってきた。男達の視線が、猫のようにくねらせて歩く秀麗の引き締まったヒップと長い脚に吸い寄せられる。

「秋良の言うことを聞くのは、これが最後だからね。」

 秋良の耳元でそう言うと、秀麗はミニスカートに長い脚を交差させて彼の横に座った。さすが秀麗だ。今から用心棒達を牽制していることが、秋良にもよくわかった。こうして真奈美がいる分娩室の小さなドアの前に、毛色の違った大勢の人間が待機することになった。

 

 一方、真奈美に目を転じてみると、案外狭い部屋で不気味な分娩台に横たわらされて心細い思いをしていた。分娩室に入ったからと言って、出産がすぐ始まるわけではない。9センチ大の子宮口が徐々に大きくなるのを待つ。そして全開大(10センチ)となってから、児分娩までのこの時期を『分娩第2期』といい、陣痛で赤ちゃんが産道を少しずつ下りてくることになる。経産婦で1時間、真奈美のような初妊婦では2時間ほどかかるのが普通だ。

 ドクターは出産のギリギリまで来ないから、それまで看護師とヘルパーのふたりが真奈美の傍に着き、呼吸を一緒にやってくれたり水を飲ませてくれたりした。

 しかし、分娩台の居心地は途方もなく悪い。腰が痛い真奈美は、横を向いてさすっているとまだ楽なのだが、看護師が上を向くようにと姿勢を直されてしまう。腰の痛みから逃げようと、腰の位置をずらすと、また姿勢を直されてしまう。技術の進歩が著しい今の時代、なぜマッサージ付きの分娩台が無いのか真奈美は不思議に思った。

 引いては寄せる波のように襲ってくる陣痛の痛み。陣痛が来るたびに、看護師が子宮口の開きをみていた。真奈美は腰の両サイドにあるレバーを握って、陣痛の痛みに耐えつつ、いきむのも我慢すると言う壮絶な戦いを展開していた。

 時間の経過とともに、陣痛が来ると真奈美はいきみたくなる気持ちが強くなる。子宮口が開くまでは、いきんでも赤ちゃんは出てこない。無駄に体力を消耗するだけだ。いきんじゃだめだと判ってはいるものの、生理現象でうっかり力が入ってしまう。そんな時、なぜか凄い声が出てしまうのだ。決して文字では表せない野生動物の唸り声。強いて書くとすればこうなる。

 

『ぐおおおおおぉぉぉ!』

 

 その声を聞いて、ドアの外に居た秋良が椅子から飛び上がった。

「どうしたのよ。」

 秀麗が冷めた口調で問いかける。

「なんかあったんじゃないか?」

 秀麗は秋良の顔をまじまじと眺めた。

「長年この仕事していて、ウテルスの出産に立ち会ったの、初めてなの?」

 秋良がばつ悪そうにうなずく。

「いいから座って待ってなさい。」

 

『ぐおぉぉおおきなのっぽの…古時計ぃぃぃぃぃぃ。』

 

「おい、秀麗。真奈美が歌ってる…壊れちまったんじゃ…。」

「いきみを我慢するに、歌う人もいるみたいよ。」

「いきみ?なんだそれ…。」

 俺はいったいなぜこんなに落ち着かないのだろうか。自問自答しながら、秋良はベンチで立ったり座ったりを繰り返していた。

 

 分娩室の真奈美は、とにかく何かに集中しないといきみたくなるから、腰にあるレバーだけではなく、分娩台の頭の方を握ったり、自分の指を握ったり、それこそ歌ったり、とにかく試行錯誤を繰り返す。

 しかし不思議なことに、陣痛と陣痛の間はウソのように痛みがない。そんな谷間になると、今度は真奈美に睡魔が襲ってくる。眠ってしまうと陣痛が遠のいてしまい、出産に余計時間がかかってしまう。妊婦にとっては決して良い事じゃない。看護師が真奈美の点滴の中に薬を入れようとした。しかし、それを見た真奈美が何を入れられるのか恐怖心が湧き、断固としてそれを拒否したのだ。泣き叫ぶ日本語となだめようとする英語がぶつかり合い分娩室は騒然となった。

 騒がしくなった分娩室に心配になった秋良が、立ちあがってドアの外から中の様子を伺う。その時ドアが急に開けられて、ヘルパーが出てきた。慌てて英語とマレーシア語が混ざった言葉で秋良と秀麗に訴える。

「彼女興奮しているようね…。どうも日本語がわかる人に立ち会ってもらいたいらしいわよ。」

 座ったまま冷たく話す秀麗に、秋良が手を合わせた。

「秀麗、頼む…。」

「馬鹿言わないで、さっき言ったでしょう。あなたの言うことを聞くのは最後だって…。」

「だけど、俺は男だし…。」

「何言ってんの、あなた父親でしょ。」

 すがるような秋良の眼差しも無視して、秀麗はそっぽを向く。かくして、秋良は帽子、マスク、白衣を身にまとい、分娩室へ入ることとなった。

 

「真奈美、これから点滴に入れる薬は、陣痛を強くする薬なんだ。」

 真奈美は分娩台の上から日本語をしゃべる声の主を見た。そこに秋良の姿を認めると、顔をぱっと明るくした。

「コノヤロー、やっと現れたな。記録用にデジカメ持ってきたか?」

 そうやって強がりを言う真奈美だが、正直なところ、秋良の眼から見ても憔悴しきっているように見えた。

「秋良、ほんとのこと言うと、これ以上痛くなるのは嫌だよ。」

「でも長引いてしまうぞ。あまり時間を掛けてしまうと真奈美の体力が持たないからな…。」

「最後まで見守るという約束は守ってね。」

 秋良は黙ってうなずいた。秋良が看護師に目くばせすると、真奈美の点滴の中に陣痛を強くする薬が入れられた。

 それから、真奈美は陣痛に見舞われるたびに、秋良の指3本を握りしめた。秋良の指を握るのが一番しっくりくるのだ。そして、いきめるその時までひたすら耐え抜く。後日秋良は握られた指がすべて青痣になり、3日間痛かったと真奈美に告白していた。

 いよいよ子宮口全開。看護師は秋良に何事か伝える。

「少しずつ力を入れてもいいそうだ。」

「少しずつなんて難しいこと言わないでよ…。結局いきんではいけないんでしょ。」

「いや、いきむ時はおへそを見ろとナースが言ってる。」

「どっちなのよ…。だったらいきむわよー。」

 しかし、変に躊躇した分、真奈美はいきみ切れない。

「息を止めた方がやりやすいか?だったら8割ぐらい息を吸ってから、力を入れていきめと言っている。」

「8割?ふざけないでよ。こんな状況で、そんなの解るわけないわよ。」

 それでも、次の痛みが来たら呼吸を整えて、真奈美は自分なりの8割で息を吸って、力強くいきむ。

「う〜〜〜〜〜!」

 そのままもう1度息を吸っていきめばかなり出てくるはずなのに、やっぱりいきみきれない。

「おい…真奈美…赤ちゃんの頭が…。」

 秋良は、何度か赤ちゃんの頭が出ているのを目撃した。嘘だろ、常識的に考えても、あんなでっかいものが、あんなとこから出るはずが無い。

「おい、赤ちゃんが頭を引っ込めている、なんだか痛そーだぞ。」

「うるさいわね、だったら秋良が引っ張り出しなさいよ。」

 真奈美が秋良に罵声を浴びせる。実際、最高に痛い時に、最高にいきまないと赤ちゃんは下りてこない。ムダにいきんでも疲れるだけだ。やばい、体力もつかな…。真奈美は自分の体力が残り少ないことを自覚しはじめていた。

「おい、真奈美、しっかりしろ。なんとか頑張れ。お願いだから、頑張ってくれ。」

 あら、秋良の奴、初めて私にお願いしている。真奈美は陣痛のはざまで、ちょっとした満足感を味わっていた。

 子宮口が開いて30分近く経って、ようやくドクターが分娩室に入ってきた。不思議なことに、ドクターが分娩台の前に座った瞬間に、激しい陣痛がやってきた。

「ぐぉぉぉぉぉ…。」

 真奈美は、汗にまみれた額に青筋を立てていきむ。身体が小刻みに震える。目は充血し、涙さえ流しながら、息が絶えるのではないかと思えるような苦痛の表情でいきむ。女性がこれほどの力を全身に込める瞬間は、人生に2度と無いだろう。

「お・ね・が・い…。」

 何を秋良に言いたいのか。秋良を見据えながら、うめきとも、叫びとも言えない声を発する真奈美。秋良は、もう十分だと思った。もういい、これ以上苦しまないでくれ。真奈美が壊れてしまう。

「あ・き・ら…。」

 真奈美の声が途切れたその瞬間、水(羊水)が流れ出る音がしたかと思うと、ぷるるんと赤ちゃんが出てきた。秋良は、産声というものを生で初めて聞いた。甲高いその鳴き声は力強く、母の胎内から旅立ち、エラ呼吸から肺呼吸へと変わったその瞬間、外界で生き抜くことを高らかに宣言しているように聞こえた。

 ドクターが秋良に鋏を手渡した。

「えっ、俺に臍の緒を切れって言うのか?」

 ドクターが笑いながら諌止で挟まれた臍の緒を差し出す。乳濁食に膨れ上がったその管はしっかりと母胎と赤ちゃんを繋げており、そんな生身の身体の一部に鋏を入れるなんて到底できない。日本では、医療行為とみなされるこの儀式は、厳密に言えば法律上禁止されている事であるが、こちらでは当たり前のように行われている。

「そんなに悩んでたら、夕食に間に合わないぞ。」

 躊躇する秋良に、分娩台の上から真奈美が笑顔で話しかけた。見ると、憔悴しきった顔の中に、達成感と喜びが溢れている。真奈美の顔が眩しかった。自分は一生かけても、あんな顔になることなんかないだろう。

「どっかで聞いたセリフだな…。」

 そう言いながら、秋良は震える手で臍の緒を切った。

 ヘソの緒が切られるとすぐに赤ちゃんが真奈美の胸に乗せられた。真奈美は、とてつもない慈しみの笑顔で赤ちゃんを見ていたが、秋良は正直なところ、にゅるっとして血も付いていて、ちょっと『キモイ』かもしれないと思っていた。

 それぞれが何を思おうとこの瞬間は、親子3人が初めて対面した瞬間だ。真奈美の胸の上にいる赤ちゃん、赤ちゃんを抱く真奈美、真奈美の髪を撫ぜながら見守る秋良。その後は、赤ちゃんは新生児室へ連れていかれ、秋良は真奈美に握られて痛む指を振りながら出生証明を取りに出た。ふたりを呼びとめようにも、真奈美にはその力が残っていない。真奈美は後産の処置を受けながら、ばらばらになった3人が、また会うことができるのだろうかと心を痛めた。

 

 真奈美がヘルパーに押されて車いすで分娩室を出ると、用心棒の男達も後をついてきた。病室に入りドアが閉じられると、男達はまたドアの見える廊下にたむろする。真奈美は、疲労の極地にいながらも、言いようのない焦燥感で気が焦っていていた。一刻も早く赤ちゃんを取り戻さなければならないのに、自力で立てもせず車いすに座っている状態ではどうにもならない。秋良だけが頼みの綱であるが、最後のメッセージを彼は理解したのだろうか。

「うまれた子は、あなたの赤ちゃんだったのね。」

 真奈美は問いかけられて、窓際に秀麗がいることに初めて気づいた。

「しかも、父親が秋良だなんて…信じられないわ。」

「すみません…。」

 別に真奈美が謝る必要はないのだが、秀麗のあまりにも落胆した表情に、詫びる言葉が自然に口に出てしまった。

「あなた、なんで逃げなかったの?」

 説明しても理解してもらえまい。真奈美は問いには答えず、うつむきながらか弱い声で言った。

「あの子を取り戻さないと…。」

「今となっては、もう遅いわ。あなたにも、私にももう出来ることはない。あとは秋良がどうするかに懸かっているわね。」

「秋良さんはどうするつもりでしょうか…。」

「私は今まで秋良のことはわかっていたつもりだけど、あなたと出会ってからの彼は、もう何を考えているかまったくわからないわ…。」

 秀麗は病室の窓から遠い目で外を眺めた。

「秀麗さんはどうしてここへ?」

「秋良に頼まれたからよ。赤ちゃんの秘密を知っている人間を放ってはおかないお客さんだから、出産が終わったらあなたを隠れ家に連れていくように頼まれたの。赤ちゃんはともかく、少なくとも、あなたのことは心配しているようね。」

「でも子どもを置いては…。」

「言ったでしょ。今となっては私たちに出来ることはないの。隠れ家で秋良を待って、戻ってきた秋良の腕の中に赤ちゃんがいるかどうか、賭けるしかないのよ。」

 そう言うと秀麗はブラウスのボタンを外し、胸元を大きく開け、短いスカートをさらにたくし上げて長い脚を剥きだしにした。

「私が外の男達の気を引いている間に病室を出て、逆側の非常出口の外で待ってるのよ。わかった。」

 秀麗が、ドアを開け外に出た。男達が一斉に秀麗を見る。秀麗はドアを開け放したまま男達に近づき、眼の前でわざとハンカチを落とす。膝を曲げずゆっくりとハンカチを拾う。ヒップラインが強調されて、あとわずかで下着が見えそうだ。ハンカチを拾い上げると、今度は男達を見ながらゆっくりと身体を起こす。胸の谷間が露わに男達の前にさらけ出された。これほどの美人にそんなことをされれば、どんな男でも視線と意識が吸い寄せられる。その間に真奈美は車いすを操って見事に非常口の外に逃れた。

 

 病院のオフィスにいる秋良はすでに病院側が発行する出生証明書を手にしていた。証明書には、出産に立ち会った医師・看護師・ヘルパーの名が署名されている。しかし親と子の氏名欄は空白だ。通常ならこの証明書を顧客に渡し、自身の名を署名するとともに日本へ持ち帰って出生届を出す。出生届は国内で生まれた場合は14日以内と決められているが、海外で生まれた場合は、3カ月の期間がある。子どもと帰国するためには、出生届けとともに戸籍を取り、とった戸籍謄本をまたクアラルンプールへ持ち帰り、大使館でパスポート申請するのだ。

 秋良が出生証明書を持ちながらも、オフィスでモタモタしているのは、秀麗のメールを待っているからだ。真奈美が病院を抜け出せたことが確認出来る迄、この証明書は渡せない。代議士夫人は、分娩室に姿を現さなかったものの、すでに無事に出産が終わっている事を知っており、新生児を別の病院に移す準備を始めていた。新生児を代議士夫人のもとに送り出し、この出生証明書を渡せばすべては終わる。その後夫人は、迅速に秘密を知っている者たちの処理を始めるに違いない。

 この時の秋良は、真奈美の願いも届かず、ただ真奈美と仲間とそして自分の保全しか考えていなかった。つまり、生まれた赤ちゃんはどうでもよかったのだ。良いタイミングで引き渡せれば、追手の追跡も緩むだろうとさえ考えていた。やがて、秋良のスマホが震えた。秀麗からのメールで真奈美ともども無事病院を出たことを告げている。秋良は出生証明書を胸ポケットにしまうと、ゆっくりと腰を上げた。

「私は待たされることが大嫌いなこと、ご存じなかったかしら。」

 病院のロビーに、秘書達を携えて待つ代議士夫人。秋良の姿を見ると開口一番彼をなじった。秋良は黙って頭を下げると、夫人を新生児室へ導く。

「わざわざ私が行くまでもないでしょ。」

 夫人が目くばせをすると、新生児を入れる透明なアクリルボックスを持った秘書が、秋良の後に従った。そのボックスの上部には持ち手がついており、新生児を外気に触れずに移動できるようになっている。

『ペットじゃあるまいし…。』

 秋良は心でそう吐き捨てながら、新生児室でボックスに移し替えられる生まれたての赤ちゃんをただ漠然と眺めていた。

 

 秀麗とともに隠れ家に着いた真奈美は、疲れのあまり与えられたベッドに崩れ落ちた。秀麗は食べ物を仕入れに行った。24時間何も口にしていない。空腹感も度が過ぎて、胃のあたりの感覚が無くなってきた。それ以外は、赤ちゃんが出てきたところから始まり、腰、膝、腕、首筋、体中が痛い。しかも出産で体力を使い果たし、微塵も身体を動かす力が残っていない。確かにこれでは闘えない。

『あとは秋良がどうするかに懸かっているわね。』

 秀麗の言葉が頭を巡った。自分はここで秋良が戻って来るのを待つしかないのか。もし、秋良が戻ってこなかったら…。戻ってきても腕を空にしていたら…。その時は生きてはいられない。天井のシミを見つめながら、真奈美はそう考えていた。

 

 新生児ボックスに入れられた赤ちゃんとともに、秋良はロビーに戻ってきた。ボックスは秘書が持っている。代議士夫人は赤ちゃんを見て、かつて妊娠している真奈美を見た時と同じように、ハンカチで口元を覆った。

「それでは出生証明書をいただけるかしら。」

 夫人の言葉に促され、秋良は胸ポケットに手を差し入れた。

「結果を出したわけですから…。」

 無駄だとはわかりつつも代議士夫人に存続の約束を取り付けたいと、秋良が話し始めたが、彼は不思議なものを感じ、途中で言葉を切った。誰かが俺を見ている。手を胸ポケットに入れたまま、その感覚がやって来る先を探ると、新生児ボックスにいる赤ちゃんが、見えるはずもない瞳を自分に向けているのだ。今度は、赤ちゃんを見ながら言葉を続けた。

「…プロとして認めていただきたいですね。」

 あるはずもない、しかし秋良には見えた。赤ちゃんが自分を見ながらわずかに笑い、そして小さな、本当に小さな手の平を広げ、自分に向って差し伸べているのだ。こいつ、俺の声が解るのか。そう思った瞬間、秋良の脳裏に、真奈美と過ごした記憶が、コップに移したサイダーの泡のように弾け上がる。記憶のフラッシュ映像はもう止めることができなかった。

 真奈美との出会い、ケンカ、ストーカーからの救出、一緒にした買い物、そして初めてのセックス。妊娠を確認した時の真奈美の顔、つわりでトイレに飛び込む真奈美、喰い続ける真奈美、そして不格好にも大きなお腹を突きだして歩く真奈美。自分は手のひらをポクンと押されてこの子と出会った。エコーの映像ではよくわからなかったが、ベッドに入ってきた真奈美のお腹を触ってこの子の姿を思った。何と言っても極めつけは、先程味わった分娩室での闘いと、生まれ出たこの子との直接の出会いだ。ああ、そうだ。この子がここにいることには意味がある。でも、その意味は誰にもわからないだろう。きっと真奈美と自分だけにしかわからないのだ。

 秋良は胸ポケットから出生証明書を出す代わりに、小型の拳銃を取り出した。クアランプールに到着した夜、街の闇ルートで仕入れたカー(Kahr)CW380。全長12・6センチだが殺傷力のある本物の拳銃だ。

「あなた、何出してるの?」

 拳銃を見て驚き叫ぶ代議士夫人。

「その新生児ボックスをよこせ。」

 拳銃を夫人に据えたまま、威嚇的な視線で秘書に言った。秘書は、夫人の顔色を見ながら、渋々ボックスを秋良に渡す。やがて異変に気付いた現地の用心棒たちが、秋良の周りに集まってきた。秋良の拳銃を見て騒然とする病院内。病院のスタッフはすぐに警察に通報した。

「あなた、そんなことしたら、生きて日本には戻れないわよ。」

 当然のことながら代議士夫人は、本物の拳銃を向けられた経験なぞない。眼の前に据えられた拳銃の銃口を見ると、いくら威圧的に言おうとしてもその声は震えていた。

「最後の最後で、プロにはなれませんでした。申し訳ありません。」

 秋良は銃口を夫人に向けたまま、じりじりと出口に向かう。もちろんもうひとつの手には新生児ボックスが握られている。用心棒たちは間合いを詰めはじめた。秋良は、拳銃の銃口を上に向けると一発発砲した。悲鳴とともに地面に這いつくばる婦人と男達。その隙に秋良は脱兎のごとく外へ出た。その瞬間、到着したパトカーと遭遇。警官は銃を抜いて秋良に狙いを定め『フリーズ』と叫ぶ。秋良は一瞬その動きを止めた

「そいつは、赤ちゃん泥棒だ! 」

 病院からの誰かの叫びに、警官たちの眼の色が変わった。彼らが銃を構えたままにじり寄って来る。ここで警官に捕まってしまったら、いくら真実を伝えたところで、代議士夫人の地位と影響力には対抗できない。秋良は腹を決めた。そばにいるタクシーの運転手を銃で脅して外にたたきだすと、自分が運転席に飛び込む。彼の動きとともに警官たちが一斉に発砲した。秋良は、鎖骨と脇腹に焼けるような熱さを感じた。それでも彼はボックスに銃弾が当たらないように身体で庇いながら、アクセルを精一杯踏み込んだ。

 

 クアラルンプールの人々は、天気予報を話題にしない。天気予報が出ても、「晴れときどき曇り、所によっては一時カミナリを伴った豪雨」という予報ばかりだ。今日は雨が降りそうだからといって傘を持って出かける人もいない。入道雲が立ちのぼり風向きが変わったなと思ったら「雨のニオイ」とともにザァーと降り出す。しかし、どこかで時間をつぶしていれは30分程でまた太陽が照りつけるのだ。真奈美は隠れ家の入口のそばにある大窓から、やがて止むはずのクアラルンプールの雨を眺めていた。

 秀麗が買ってきた食事を取り、ベッドで少し休んだ真奈美は、多少体力を取り戻した。痛いほど張ってくる乳房が、母乳の行き先を求めて真奈美を苦しめた。病院を出てからもう一日が過ぎようとしていが、秋良も赤ちゃんもまだ帰ってこない。私は取り返しのつかないことをしてしまったようだ…。徐々に言い様もない後悔と絶望感が真奈美に忍び寄ってくる。

 その時、真奈美は外木戸を開ける音を聞いた。そのあまりもの乱暴な開け方に、真奈美は胸騒ぎを覚える。不安な気持ちで、入口のドアを開けた瞬間、ずぶぬれの男が倒れ込んできた。恐怖のあまり飛びのいた真奈美だが、身動きもせずフロアに横たわるその男の顔を改めて覗き込んだ。泥にまみれてはいたものの、今度は見間違わなかった。真奈美が待ちつづけていたあの、ベルヴェデーレのアポロンである。しかも、彼が後生に抱えてきたボックスの中には、真奈美が産んだあの赤ちゃんが居た。

 真奈美は秋良にメッセージが届いたのだと知った。自分が命がけで臨んだ賭けに、ついに勝ったのだ。

「秋良。」

 喜びが心の底から湧きあがり、真奈美は、ずぶ濡れになるのも厭わず、秋良の身体に抱きついた。

「ぐふっ。」

 秋良が変なうめき声を出す。改めて秋良の身体を見つめ直すと、泥にまみれた彼の肩と腹部から、ドクドクと血液が流れ出ていることがわかった。

「秀麗さん、秀麗さん、来てください。」

 真奈美の叫びに、秀麗がリビングに飛び込んできた。

「秋良、あんた、こんな傷で何してたの?」

「警官に…撃たれた…奴らを…振り切るのに…時間がかかって…。」

「喋っちゃダメ。」

 秀麗は彼が喋ることを制止した。喋るにあわせて血液が流れ出るのだ。真奈美が涙声で秀麗に訴える。

「血が止まらない…これじゃ失血して死んじゃう。赤ちゃんが戻っても、秋良が居なくなったら意味が無いんです。なんとかしてください。お願いします。秀麗さん。」

「ほんとにもう…。」

 秀麗は電話をかけに、キッチンへ走っていった。秋良はボックスを指差し、かすれる声で真奈美に話しかけた。

「こいつさ…俺の声がわかるみたいで…。」

「喋らないで。」

「俺の声聞いたら、笑いやがんの…。」

「もういいから。」

「あ、また笑いやがった…。見えたか?…今…真奈美の鈴が聞こえたからな…それがわかったんだ…。」

 真奈美は、アンクレットなど身につけていない。もう秋良の耳には幻聴が聞こえてくるのだ。

「やだ、息をして、お願い。秋良、息をして、私たちを置いていかないでーッ…」

 秋良は真奈美の腕の中で、顔に笑みを浮かべながら、目を閉じた。

 

 真奈美は、キッチンで朝食の準備をしていた。よくよく見れは秋良が準備てくれた隠れ家は、とてつもなく古い一軒家で、リビングもキッチンもおよそ使用に耐えるものではなかった。秀麗は真奈美の体力が回復したことを確認すると、この家を出て故郷の香港に戻っていった。しかし真奈美は、この一軒家に留まり、精力的に掃除や模様替えをして、日本式とは程遠いものの、なんとか住めるような家に設えた。 今ではこの下町の市場で買った綺麗な花で飾られたキッチンで、同じく市場で選んだマレーシアの国花ブンガ・ラヤ(ハイビスカス)があしらわれたかわいいエプロンを身につけ、家事をすることが楽しくなっている。

 この家で特に気に入っているのは、以前絶望的な気持ちで雨を眺めていた大窓だ。この日は、朝だと言うのに家に差し込む光は力強く、明け放れた大窓から常緑広葉樹の香りを含む風が気持ちよくそよいでいる。

 部屋の奥から赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。真奈美の顔に自然に笑みが浮かぶ。

「母乳あげるから連れてきて。」

 真奈美が部屋の奥に声をかける。しかし、赤ちゃんの泣く声だけで何の返事もない。

「馬鹿ね、秋良はいないのに…。」

 真奈美はそう独り言を言って、赤ちゃんの元へ向かった。足元のアンクレットの鈴が、相変わらずすずしい音を奏でている。そして、今は一回り大きくなった赤ちゃんを抱いて大窓の近くに戻ってくると、真奈美は外の色彩の鮮やかな花々を眺めながら、赤ちゃんに母乳をあげ始めた。

 やがて、外木戸が開く音がした。入口に鍵が差し込まれる音ともに、ドアが大きく開くと、強い日差しを背負って、ナップザックを担いだ精悍な男のシルエットがそこ浮かんだ。真奈美は、その男を認めると、顔に一層の笑顔を浮かべ、赤ちゃんに乳首を含ませたままの恰好で、その男の胸の中に飛び込んだ。

「おいおい、母乳が飲めないだろ。それでも母親か。」

 真奈美は、男の言葉に構わず、久しぶりに感じるこの男の香りの中に全身の身をゆだねた。

「おかえりなさい。日本の用事はすんだ?秋良。」

「ああ、なんとかね。」

「そう…ところで出生届は何と言う名前にしたの?」

「鈴子だ。」

「今どき珍しいけど…でも、いい名前だわ。」

「これが、戸籍謄本。」

 真奈美が見ると、『夫/秋良、妻/真奈美、長女/鈴子』という表記がしっかりと見えた。

「これで鈴子のパスポートを取れば、日本に帰れるぞ。」

「日本は危なくない?」

「ああ、あの代議士も、国会で証人喚問を受けることになった。夫人も俺達を追っかけるどころじゃないだろう。」

 真奈美は、その背後で秋良が動いたことは十分わかっていた。

「すずちゃん、やっと日本に帰れますよー。」

 乳首に吸いついて離れない鈴子を見ながら、真奈美が嬉しそうに話しかけた。

「真奈美、日本に帰ったら何がしたい?」

「まずは、お母さんやミナミにすずちゃんに会わせてあげたいわ。」

「そうか。」

「それに、あなたのお母さんにもね。」

「馬鹿言うな。そんな必要はない。」

「秋良、まだわからないの…。」

 真奈美はシャツの上から秋良の鎖骨に残る銃弾の傷痕を指で撫ぜた。

「あなたがすずちゃんを守って死にそうになったことは、すずちゃんは全然知らない。あなたもそんなこと言わないでしょ。親ってそういうもんじゃない?」

「そうかな…。」

 真奈美はすずちゃんをはさんで、秋良の腰に手を回すと、背伸びをして彼に優しくキスをした。おとぎ話ではない。真奈美は本当に幸せそうだった。

 

 

説明
代理出産という違法ビジネスに引き込まれた真奈美。そこで出会ったった秋良に、真奈美は命を賭けてのメッセージを送り続ける。母性とは、出産とは、親子とは…。そしてその関係の中で生まれる根幹的な愛に、はたして秋良は気付くことができるのだろうか。妊娠から出産のプロセスで作り上げられるガチな男女関係。先端の医学的知識と共に語られる未婚男女必読の恋愛小説です。「2012.12.06.鈴子誕生記念作品」
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