誕生日 |
彼女が部屋に入ってきたことは気づいていたが、振り向いてカウチを勧めた後は、ひたすらネイルの塗り直しに励んでいた。
「ねえ、樹璃さん。聞いて下さい」
「なにが?」
20代も半分過ぎた身には少し色が薄すぎたかも知れないと思いつつ、薄笑いを浮かべて枝織が押しつけてきた、パールピンクのネイルカラーを指に塗る。あまりに熱中していたから、枝織の様子が違うことに気づかなかった。
「あのね、わたし――」
背後に立った枝織の告白は樹璃を驚愕させた。
あんまり驚いたので、マニキュアを塗っていたブラシの先が中指の二つ目の節まで薄桃色に塗らしたし、それに慌てる余裕も無かった。
「本当、なのか?」
「本当ですよ」
何か文句でもあるんですか? と言いたげに組んだ腕の上でツンと顎を逸らして、枝織は樹璃に流し目をくれた。高校を卒業していらい、久しぶりに見るトゲのある目つきだ。
何となく女学生にもどった気持ちにワクワクしながら、それを抑えて、樹璃はもう一度、たずねた。
「本当なのか。殴ったって」
「本当よ。何度聞かれたって、私、こんな所でいじましい嘘なんか言いませんから」
枝織は塗り直したグロスが可憐に光る唇で断言した。
「殴りました。薫幹さんを」
胸を張って、堂々と、枝織は返答した。
――なんて不行跡だ。
樹璃は反射的に叫ぼうとした言葉を呑み込んだ。
今の告白がどれだけ樹璃の心を掻きむしるのか、枝織はまったくもって理解していないのだろう。
多少の、彼女らしい打算と損得勘定で樹璃の心を推し量ることはあったとしても。枝織は今までも、これからだって、樹璃の心の中の、湿って濡れた柔らかい部分には全く興味など無いのだから。
いじましい嘘ってなんだ。こんな所ってなんなんだ。
樹璃はさっと床に目を落とすと、務めて深呼吸した後、ともかく話は終わっていないと小声で呟いてから枝織を見上げた。
枝織はまったくもって堂々とした女王気取りで立っており、さっきから非難すら込めて投げかけている樹璃の視線を受けても、彼女の細い両脚にはまったく揺らぐ様子はなかった。枝織の、ファッション誌の受け売りのままに、とにかく細く細くと肉を減らして、まるで小鳥の足みたいになった2本の白い足は、樹璃の部屋の分厚い絨毯をこれでもかと踏みつけて立っている。
樹璃は湯気を立てているマグの隣にマニキュアのブラシを叩くように置くと、ちらりとバタード・ラムのあめ色を見てから、気がかりをようやく口にした。
「それで、大丈夫なのか」
枝織は目を眇めた。
「それってどういう?」
「どう、って……その、殴ったんだろう?」
「だから?」
この質問も彼女の気にいらなかったらしい。
「覚悟のつかない人ですね、樹璃さん。貴方はいつも肝心なときは決断から逃げるんです。都合の悪い選択はしたくないから、他人がお膳立てするまで、か弱い女の面を見せびらかして、男が助けるまで待ってるんです」
「決断ってなんの話だ。私は心配しているんだ」
「どっちをです」
「え……?」
「誰をです? 私ですか? それとも薫幹さんです?」
「どっちも心配だよ」
枝織はふっと首を振ると、薄く笑ってから猫なで声になった。
「じゃあ、もっと、わかりやすく、聞きますね」
小柄な気配が樹璃の後ろに立った。足に負けず劣らず細く白い右手が背後から樹璃の首を抱く。背中に柔らかい圧迫感があって、枝織が身体を寄せたと分かる。また新しく変えたボディバターの香りがした。先日のデートで樹璃が何度も香りを確かめたソープと同じ香りだ。
「ねぇ、樹璃さん」
とびっきり甘えた声が樹璃のつむじに掛かった。枝織は立てた親指で樹璃の端正な顎の縁をなぞってから、淡いオレンジ色の夜着から覗く鎖骨に人差し指と中指を置いた。
「どっちの返事を先に聞きたいですか。薫幹さんの怪我の具合ですか。それとも、警察に連れて行かれた私の処分について?」
ぎょっとした。
怪我の具合? 警察? いったいどんな殴り方をしたというのか。どくどくと心臓が跳ねる。試合前の緊張ならいくらでも耐えられるが、こんな緊張はごめんだ。
幹。アメリカで仕事があると張り切っていたのに、怪我とは。重傷なのか。
彼の繊細な顔が血に染まって、地面に蹲る姿を想像してぞっとした。
枝織と拗れるような関係は無かったはずだが、枝織の気性だ。かっとなって、何か器物で殴ったのだろうか。幹の反射神経ならうまく避けると思うが、だけど、しかし、端が引っかかって裂傷になることもありえる。
樹璃は眉を顰めた。ぐっと唇を噛む。そういう古典的な仕草が男受けを狙っているのだと、枝織が棘を刺すように寝物語で呟いてからは、できるだけしないように気を付けているのだが。
これから、幹と枝織はどうなるだろう。幹の仕事や、ピアニストとしてのポジションから鑑みて、顔面に傷が残ったら。賠償金は? 刑事告訴? 示談はどうだ。しかし薫家が立ててくる弁護士に対するとなれば、樹璃が関与することを実家は許してくれないかもしれない。
よもや枝織が実刑に。殴打程度なら執行猶予だろう。いや、しかし。枝織はこんなところでのうのうと喋っているが、彼女の事だ。事の大きさが分からずに警察から抜け出してきたのかもしれない。二人で借りているマンションの場所など両親に伝えていないだろうし。今頃、枝織の実家は大騒ぎでは。
ともかく、事の状況を把握しなければ。財布にはさほどの金は入っていないが、500万くらいならすぐに引き出せる。いっそ私が幹の元に出向いて話を付けた方が。ともかく。
「枝織。幹の容態はどうなんだ。怪我の具合は。重傷ではないんだな」
「あーあ」
枝織はため息をつくと、樹璃の耳殻の後ろに口づける。ふ、と息を吹きかけられて、ぞくぞくとイヤらしい痺れが樹璃の背中から後ろ腿まで走りぬけた。クスクス、と笑う声。
「枝織。笑い事じゃないんだぞ! 人に怪我をさせておいて」
流石にカッとなった樹璃が立ちあがると、抱きついていた枝織も引きずり上げられる。
「きゃっ」
目の前で身体に絡んでいる腕を掴んで、華奢な恋人を力尽くで前へと引き出すと、ガサリと音がした。
無残に首の折れたオレンジ色と暗い紅色の薔薇が鼻先に突き出される。暗紅色の薔薇は潰れ、花弁が散ってラッピングの薄紙の中にぱらぱらと落ちている。
枝織はくすりと笑った。
樹璃の手を掴んで、むりやりに花束を結ぶリボンの上を握らせる。それから背を丸めて上目遣いに樹璃を見た。
「お馬鹿な樹璃さん。殴ったわ。凶器はその花束」
枝織は後ろに手を組み、ふらっと歩いてからカウチに座ると、樹璃が放置したままのマニキュアを手に取った。
「もういいでしょ。ね。座って。私が塗ってあげる。私が塗ったネイルで薫幹さんとデートなんてしませんよね」
樹璃はぽかんと口を開けて枝織を見た。
枝織は一息ついて膝に両手をついてから立ちあがると、樹璃の手を握ってカウチに座らせてから、樹璃の白い宝石細工みたいな鼻梁と、赤い宝石そのものみたいな唇に口づけた。
「枝織」
「なぁに、樹璃」
枝織はもう一度、唇に口づける。舌先でゆっくりと唇を辿ってから、温かい唇の合わせ目に舌を差し込んで、つ、と前歯を擽って顔を離す。
「私は……」
枝織は絨毯の上に膝をついて座ると、息を詰めて俯いた樹璃をじっと見上げる。結構な時間、樹璃は口の中で何かもごもごと言葉を選んでいたが、結局は何も言わずに数粒の涙を零しただけだった。
いくつになっても少女らしい枝織の両目は、その変化を少しも逃さないように樹璃を観察していた。そして、樹璃が気持ちを落ち着けたころ、樹璃に立腹する余裕を与えずに、にっこりと笑って、また残酷な言葉を告げるのだ。
「お誕生日おめでとう。大好きよ」
説明 | ||
樹璃枝織でお誕生日の一コマ。 二人とも26才、二人で折半したマンションに暮らしています。 枝織ちゃん、意地と根性で樹璃と同額の家賃を払ってると思います。 |
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