ナナイロ。 |
わかっていた、この恋は、最初から。
小気味いい音をたてて、ビニールの包装を破る。中からは安っぽいけど食欲をそそるようなスナック菓子のにおいがして、あたしは迷わず中に手を突っ込んだ。そして、中に詰まっていたポテトチップスを鷲づかみ、口の中に放り込む。
唾液腺を刺激する、辛い香辛料がたまらない。
あたしは手が脂で汚れるのも厭わず、次々にチップを咀嚼していく。
口の中に溜め込んだそれを飲み込んだら、また次のチップスを口に運び、また咀嚼して。それを何度か繰り返したら、あっという間に袋の中のチップスはなくなってしまった。
ぐしゃぐしゃと袋を丸めて脇に放り出し、隣に置いていたコンビニの袋から新しいスナック菓子を取り出す。
さっきの調子で食べ続けていれば、この菓子もすぐになくなってしまうだろう。しかし、心配はいらない。コンビニを何件も梯子して、片っ端からありとあらゆるスナック菓子を買い占めたのだ。その他に陳列された、チョコやポッキーや、キャンディなどには目もくれずに。
わさびしょうゆ味のチップスを手の中に握り締めると、あまりにも脆いそれは呆気なく崩れて胸元やら膝やらに零れ落ちる。油で揚げたそれは、こんな風にすぐに崩れてこぼれるし、周囲を汚す。服につけば油の染みができる。だから、嫌い、という人間もいるかもしれない。でも、あたしは。
「根っからのスナック菓子派だ、このヤローッ!!」
自分の思いの丈をはばからずに叫ぶ。
その絶叫は、誰に聞かれることもなく、空気を一瞬震わせただけで消えていった。
はあ、と一つため息をついて、手の中で粉々になったそれを口に含んで飲み込む。塩っ辛い。でも、甘いのなんかよりずっとイイ。
「チョコみたいに甘いのなんて、クソ食らえだっつーの」
そう言い捨てて、地面に直接座り込んでいたあたしは背中を後ろに倒した。
日差しを受けて暖まった地面は少し熱かったけど、それを気にするような気分じゃなかった。肌をちくちくと刺す土手に生えた雑草も、それを這う虫も、今のあたしの心にゃ箸にも棒にもひっかかんないのだ。
何ともいえないどんよりとした気持ちで、空を見上げる。視界一面に広がる空は、あたしの気持ちなんて知らないのだろう。ムカつくほどに澄み渡っていた。
雲ひとつない、とはまさにこのことだろう。
空になった袋を握り締めた手で両目を覆う。そうするとあのムカつく青が消えて少しほっとした。
「んなぁ」
突如聞こえた鳴き声にびくりと身体を震わせ、あたしは視界を塞いでいた腕をどける。目線を横に向けると、草原の中、潔いほどに真っ暗な猫が、その翠の目でこちらを見つめていた。
「なんだ……にゃんこか。驚かさないでよ」
強張っていた肩の力を抜いて、身体を起こす。いつの間にか近寄ってきていたらしい黒猫は、何か心奪われるものがある様子だ。
警戒する素振りもなく、鼻をひくつかせながらこちらにさらに近づいてきた。
「どしたの」
答えるはずもないが、黒猫に問いかける。黒猫は地面についていたあたしの手元まで来ると、ひんやりと乾いた鼻先をそれに押しつけ、また一声鳴いた。
「あぁ、これか」
鼻を押しつけられた手を目の前にかざして、得心した。手についたスナック菓子のかす。これにつられてやってきたらしい。
ふっと笑って、あたしは手を黒猫に差し出した。
「喰う?」
差し出された手に、黒猫は、きらりとその目を光らせて舌を伸ばしてきた。
細かい棘が立ったような舌が、ざりざりと指先を舐める。痛くはないが、少しくすぐったい。
「おいし? だったら気が合うね。あたしたち」
「なー」
ぺろりと口周りを一舐めして、黒猫が一声鳴いた。
目当てがなくなって、早々に去っていくかと思いきや、黒猫はちょこんとあたしの隣に前足を揃えて座った。
「なぁに? まだ欲しいの、おまえ」
苦笑して、あたしは傍に置いておいた袋を破る。そして、一枚のチップスを差し出す。黒猫は何度か左右に首を傾げ、おずおず赤い舌を出してそれを舐めた後、齧りついた。だが、上手くいかずにぼろぼろと崩れていく。
「あー、おまえ食べるの下手くそだなぁ。しゃあない」
あたしは躊躇わず、もう一枚を手に取り、拳を作ってポテトチップスを握りつぶした。そして、手を開く。粉々になったチップの屑が、そこにあった。
「にゃっ」
嬉々として黒猫は屑の山に鼻先を突っ込んだ。それを見ながら、あたしは口元を緩ませた。
「そんなに美味しい? そうだよね。美味しいよね」
顔周りを屑で汚して、黒猫はつ、と顔を上げあたしを見上げてくる。
「せっかくの美人が、台無しだぞ。ほら、じっとして」
あたしは手を伸ばして、黒猫の顔についた屑を払ってやる。それは髭の生え際にもくっついていて、ぐりぐりと少し力を込めて拭うと、黒猫は気持ちよさそうに目を細めた。
屑を払う自分の手。自慢にもならないけど、女っぽさとは無縁の、節だった指。丸さとか、柔らかさとか、そういうものがない指でも、この黒猫は喜んでくれているようだ。
ああ、そういえば。
あのひとの、指は細くて、でも女性らしい丸みを帯びて、はっとするほど白くて。
日ごろから丁寧に手入れしているのだろうとわかる、綺麗な爪をしていた。
――ねぇ、共存していきましょうよ。わたしたち。わたし、あなたの居場所を盗ろうなんて思ってないの。だから、ね、いいでしょ?
顔を見たくなくて、だから、膝の上に置かれた手ばかり見ていた気がする。
くすくすと鈴をならすような笑い声が聞こえるたび、自分の身体が縮んでいくような錯覚すら覚えた。どうして、あたしの方が、こんなに萎縮してるんだろう? と何度も自問したけれど、答えはついに見つからなかった。
彼女がいなくなって、しばらくして目の前のソファに座ったのは、決して短くない時間を共にした奴だった。
あいつは、ばつの悪そうな顔で前髪をくしゃくしゃとかきあげて、あーとかうーとか唸っていた。そして、何度か心のうちで逡巡したのだろう言葉を口にした。
――あのさ、今日きた奴のことは、気にしなくていいから。ちゃんとカタつけてきたし。
――ほら、ちょっとした気の迷いだよ。たまには違うもんを味わいたくなるっつーか。
―― 一番はおまえに決まってるだろ? 俺のこと一番わかってくれるのは、お前だけだよ。
このときは、ちゃんと顔を上げてあいつの顔をみた筈だ。それなのに、そう言った時のあいつの表情がまるで思い出せない。肌色の絵の具をそこだけに塗りたくったように、記憶の中のあいつの顔はのっぺらぼうだった。
言葉は重ねられれば重ねられるほどに上滑りして行き、何一つ心の中に入ってこない。
こいつは、それをわかっているのだろうか。わかっていたら、こんなことは言わない筈だ。
こんなやり取りは初めてじゃない。使う言葉は違えど、こいつの言うことはこんなやり取りが互いに必要となる事態が起きた初めから、全く代わり映えしていない。
それなのに、なぜ当時のあたしはこいつを許そうと思ったのか。自分のことながらあきれ果てる。それを毎回毎回繰り返してきたことにも。
とりあえずその顔面に膝蹴りを食らわして飛び出してきたのが今という訳だけど。
手の中の菓子屑を食べ終わって満足したのか、野良とも思えない人懐こさで黒猫はあたしのすぐ隣で丸まり、寝息を立て始めた。
その背を撫でながら、あたしは空を見上げる。
最初は、とてもいい友達だった。話していると、とても楽しくて、時間を忘れた。ただ、隣を見たときにあいつがいるのがなんだかすごく嬉しくて。そのうち、話をしなくても、そばにいるだけで十分になって。そうして、あいつが知らないうちにあたしの心の隣に寄り添っていることに気がついた。あったかくて、胸がいっぱいになる存在。
「すき。ずーっとこうやって一緒にいてくれる?」
そう言って笑った、あの笑顔を、この先忘れることはないと思う。
そうして、「彼女」という称号を得て。決して短くはない時が流れて。
あたしは、あたしの思いとあいつの思いの間に隔たりがあることに気づいた。
そのきっかけは、まるで童話のヘンゼルとグレーテルが落としていった小さな小さなパンくずのごとく、二人で過ごす時間の中に散らばっていた。
自分が神経質だなんて思ったことはない。いわゆる女の勘なんて言うものとは程遠いタイプだと自他共に認めている。あたしがもっとそういうものに聡い質だったら、きっとそのかけらの一つで疑惑を持ち、あるいは確信したのかもしれなかった。
あいつの心の居場所が、私の元だけじゃないということを。
そこから先の時間は本当に耐えられなかった。
どんどん自分を嫌いになっていく。
綺麗じゃないあたし。可愛くないあたし。やせっぽちで女らしくないあたし。
素直じゃないあたし。可愛く甘える術も知らないあたし。
あいつじゃなく、あいつの隣にいるだろう女を憎むあたし。
あいつの心を留められないあたし。
そんな自分を殺していったら、残ったのはあんたに対する思いだけで。
この思いまで、殺してしまいたくなくて。
あいつと距離を置くようにした。
暖かい毛皮に置いていた手を膝元において、あたしはじんわりと熱が滲んできた目を固く瞑った。
でも、あいつは、あたしと完全に離れることもなく、まるで気まぐれな猫のようにあたしの元へやってきた。そうして落とされる言葉は、砂糖のように甘かった。
嘘だとわかっていたのに、それなのにあいつの傍にい続けたのは。
離れられなかったのは――その理由はたった一つだけ。
ただ、あたしが、あいつのことを、とてもとても――好きだったから。
だから、そばにいたかった。
たとえ、あいつがあたし以外の誰かの傍で笑っていても。
たとえ、あいつが他の女の子を抱きしめていても。
たとえ、あいつの心を決して私の傍に捕まえることができなくても。
ぽつっと、一滴の雫が頬を伝って落ちた。それを追いかけるようにまた何粒もの雫が落ちる。その内の一滴が寄り添っていた黒猫の頭に落ちて、黒猫が様子を窺うようにあたしを見上げてきた。
泣くなんて嫌だ。泣くなんて情けないことしたくない。まるでそれじゃ、あたしが負けたみたいだ。そう思っても、目から勝手に溢れるそれは止まらなかった。
「なんで……泣くのよ」
自分に問いかける。
あたしは泣きたくなんかない。その意思を無視して流れ出るこの水はなんなのだろう。
あたしは怒ってるんだ。とてつもなく、心の底から、あいつのことを。あいつの隣で微笑んでいる女を。そして――いつまでも踏ん切りをつけられないでいたあたし自身を。
それでも、視界を塞ぐ水の波。本当に、人間ってゆうのは厄介だ。
静かな水音が聞こえて、ポツリと頬を打った何かに目を見開くと、空は晴れているというのに細い針のような雨が降ってきた。
「狐の、嫁入りか……」
これは好都合だ、このまま降り続けて、どうかこの頬を伝うものを隠してほしい。
そう心から願った。
「っくし」
小さな声がして、あたしはまだその膝元にいた黒猫の存在を思い出した。
雨に少し打たれたせいか、艶のあった毛並みが水に塗れ、ぺたりとその厚みを無くしている。その身体を抱き上げて、腕の中に囲い込む。
ぶるぶると震えているその身体ははっとするほどに冷たかった。
あたしは、雨に降り続けてほしいと思った自分が恥ずかしくなる。
「……大丈夫。この雨は、すぐに止むから」
ぎゅっと黒猫を抱きしめて、呟く。
そういってまもなく、冷たい雨は止んだ。
濡れた地上をよそに、空は雫を落としたことなどそ知らぬふりで、真っ青だった。
けれど、その青の中、ナナイロの橋がかかっている。
「……虹、だ」
そうそう見ることのないものに目を惹かれ、じっと見つめる。
薄っすらとした色のそれが、本当に7色あるのかどうか数えてみようかと思ったけれど、あまりにもぼんやりとしていて、分かったのは青、赤、黄ぐらいなものだった。
それでも、あれをナナイロという人間がいるのだから、あたしにはわからない色が、あの橋の中にはあるのだろう。
あいつも。あいつは、それがわかる人間なのかもしれない。そのナナイロ全てを見つけられる人間なのかもしれない。
あたしの前に立った女たち。彼女達も、あたしがそうであるように他の色に紛れて見つけてもらえない自分を、見つけてくれるあいつに惹かれるんだろうか。
ああ、でも。それでも、そんなあいつを好きなったんだとしても、あたしは。
唯一になりたかった。
「なぁん」
腕の中の温もりが一声鳴いて、そして飛び出してしまう。
「あっ」
喪われた温もりが惜しくなって、黒猫が逃げていった先を目で追う。そして、息を呑んだ。
土手を上がった、その先。
そこに、肩で息をする、額を赤く腫らした男が立っていた。
口を一文字に結んで、そのまま立ち上がる。手を固く握り締め、あたしはもう一度空にかかる橋を見つめた。そして、足元に散らばるスナック菓子の袋を見て、そこから足を奴に向ける。
それにほっとしたような顔をする奴に、心臓が潰れそうになった。
それでもどうか、言うことができますように。
終わらせる言葉を。
ナナイロの中の、唯一になりたいというのなら。
説明 | ||
恋人という立場にありながら片思い。長い片思いの恋に終止符を打つために、彼女は立ち上がった。というお話です。 | ||
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