オリオン座流星群 |
いつの頃からだろう。夜空を見上げなくなったのは。東京の夜空は、空気が汚いだけではない。明るすぎる。残業で遅くなった夜中ですら、あちこちに煌々と店の看板やら街灯が目に入り、見上げても星など見えはしない。そして、私自身がいろいろなものに対する心の震えを失いつつあるからだろう。ボーっと星を見ながら歩くような歳ではないのだ。
子どもの頃、真っ先に覚えたのが「冬の三角」であった。真冬なら南の空にくっきりと一際明るい青白い星、おおいぬ座のシリウス。左上にこいぬ座のプロキオン、反対の右上にあるのがオリオン座のベテルギウス。ギリシア神話の棍棒を構えた巨人の右肩に相当する赤色巨星。ここまで見つかれば、あとは巨人の腰ベルトに見立てられる三連星、左足の部分にも明るい青白い一等星リゲル、と続けて見分けることができる。全天には動物やら神話の登場人物やら道具やらに見立てた星座が他にも溢れていたが、どこが頭やら足やらもわからない中、不思議とオリオン座だけはすんなり巨人の姿を思い描くことができたから不思議なものだ。成長してからも、やはりオリオン座がいちばん好きな星座で、見える季節であれば真っ先に探していた気がする。
高校時代、家の中でどうしようもない息苦しさを感じる時があった。そんな時、いつからか夜中に外に出て散歩をするのが習慣になっていた。家の周囲は田畑、養豚場といったいかにもな田舎で、若者が時間を潰せるような施設はなにもなかった。コンビニエンスストアですら、山をひとつ越えなければなかった。ちなみに十五年以上経った今でも、状況は変わっていない。
気障かもしれないが、それでも秋から冬にかけて、空気が冷たくなり始める頃の夜空はちょっと気に入っていた。田舎だけに空気も澄んでいて、視力の悪い私ですら、空いっぱいに星が広がっているのを感じることができた。そして、ひとしきり夜空を見上げ、ぐるりと家の周囲を歩いて戻ってくると、あの息苦しさはどこかに消え去っているのだった。
高校二年の秋だった。やはりいつもの如く外に出たものの、予想以上の風の冷たさに家に戻ろうかと考えた。しかし少し歩けば体も温まるだろうと思い直し、いつもより長めの散歩を始めた。おそらく夜中の一時をすこし回っていただろう。こんな田舎の、しかも寒い季節に真夜中に出歩く者などまずいない。私は一人きりで、夜空を見上げながらゆっくり歩いていた。
「わっ」
突然ドンっという衝撃に見舞われ、女の短い悲鳴がすぐ近くで聞こえた。私は軽くよろめいただけで済んだが、声の主は尻餅をついて目の前にいた。前を向いていなかったせいで衝突したのだ、と状況を理解するのに数秒を要した。そもそも、このような時間に人と遭遇することなど、全く予想していなかった。
「ボーっとしてんじゃねえよ、ホラ」
目の前の女が手を差し出した。さすがに意図を察して、その手を取って引っ張る。それにしてもずいぶん荒っぽい喋り方をする女だ。自分と同世代のように思えたが、かすかに化粧の香りがした。
「何でこんな時間に歩いてんだよ」
おそらく、彼女のほうも前を見ていなかったに違いない。いくら夜中とは言え街灯もあるし真っ暗というわけでもないのだ。夜中の徘徊、不注意もお互い様だと分かっていて、それでも文句を言いたいらしい。何故か、酔っ払いが衝突した電柱相手にケンカを売っている様子を想像してしまい、思わず笑ってしまったのがいけなかった。
「テメエ、何笑ってんだよ!」
「・・・ごめん。笑ってしまったことも、ぶつかって転ばせてしまったことも。考え事しててさ、あと、ずっと星見ててさ」
たぶん、そんな言い訳じみたことをボソボソ喋ったのだと思う。それを聞いた彼女の反応は、想像もつかないものだった。
「ん・・・?アンタ、K君じゃないの?」
突如名前を呼ばれてうろたえたものの、ともかく答えた。
「確かに、Kだけど・・・」
「ホラ、アタシ、T、覚えてない?中学のとき同じクラスだった!」
喋り方が年相応の女の子のものになったことで、私もあっさり記憶から彼女の顔を思い出すことができた。闇に慣れてきた目で見てとれる彼女の服装はかなり派手で、やはり化粧をしているようであったが、それでもその面影は確認することができた。
「覚えてるよ。同じ班だったし」
ただのクラスメイト、だけではなく、理科の実験やら放課後の掃除やらも一緒だったことで、比較的よく会話をする女子の一人だったのだ。勉強は苦手だったが気さくで明るく、私でも話がしやすかった。高校が違ったので中学卒業以来ということになるが、そういえば以前原付に二人乗りしている彼女に似た女の子を見掛け、まさか、と思ったことがあった。果たしてそれは彼女自身であったのだろう。
「うわー、久しぶりだね!ねぇ・・・」
中学時代と同じ、元気な口調。しかしその後に続く彼女の言葉は真夜中の空気に飲み込まれていった。今ならわかる。たぶん『最近どうしてるの?』といった台詞で会話を繋ごうとしたのだろう。私への好意があったかどうかはともかく、彼女にとって私は失ってしまった時間の象徴であり、私と会話をすることでそれを一時的にでも取り戻したような気持ちになれたかも知れないのだ。しかし彼女自身がその台詞に―少なくとも、彼女の価値観で―何の意味もないことを察してしまったのだ。近況の会話をすればするほど、その喪失感はより大きく広がっていくことを彼女は知っていたのだ。だから、『ねぇ』の後に続く言葉は永遠に失われた。そういう意味で彼女はその時点で十分に賢く、まっとうであったのだ。少なくとも夕食時に時折思いついたように、
「最近学校はどうなんだ」
と尋ねてくる私の父親などよりはよほど。あれから十五年以上経った今だから、当時の彼女程度に私も賢くなったからわかる。しかし、もう十五年経ったらわからなくなるものなのかも知れない。そういう類の賢さ、まっとうさ、というものが確かに存在するのだ。
「寒いし、もう、帰るね。じゃあね」
数秒の沈黙の後、ストンと断ち切るように彼女は言い放った。当時の私が、
「危ないし、送っていくよ」
などという気の利いたことも言えないことも彼女にはちゃんと分かっていたのだ。賢く、まっとうで、スマートで、そして優しかったのだ。私に言えたのは、かろうじて、
「うん、じゃあ、気をつけてね。特に前に」
という台詞だけだった。彼女は可笑しそうにあははと笑って、手を振って夜の闇に消えていった。私はその後暫く、彼女の去っていった方を眺めていた。夜風の冷たさを思い出すのに、暫く時間がかかった。
東の空、低い山に半分隠れてオリオン座が見えていた。
その方向から、つーっと白い線を引いて星が流れた。
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