声のない歌
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 喫茶店で彼女はあたしに小さなつつみを差し出した。

 

 青いこぎれいな包装紙に淡いピンクのリボンが飾られたそれは、見かけの割に

重かった。

 

 「これ、何?」

 (いいから開けてみて)

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 

 あたしは夢があった。世界にはたくさんの人がいて200を越える言語がある。

一生のうちにどれだけの人と会えるか分からない。どれだけの考え方や価値観や知識に

接することが出来るのか。たとえ接することが出来ても言葉が分からなければ、何の

意味もない。

 

            It has no sense to me. 

 

だから、あたしはたくさんの言葉を学んで通訳になる。それが、夢。小学校の

頃からの。

さいわい親はあたしにほどほどの頭をくれたので、努力の二字でなんとかなった。

目指す大学にも、入れた。しかし。

 

 うまいこと行かないのが、世の常なること。わたしの大好きな父が他界してしまった

のだ。母は、あたしの願いをかなえさせてやろうと思っていたようだが、あたしは母の

体が仕事ができるほど強くないことを知っている。やむなく、休学。

そして、あたしは母との生活費と自分の学費のためにバイトに出た。

 

 毎日の単調な生活。

 朝に出て、夕方帰る頃には何もやる元気は残っていない。テレビを見ながらご飯を

食べて、おふろへはいって、寝る。その繰り返し。

 

 「父と、同じだ」

 

 と、ふとあたしは感じた。

 

 子どもの頃、そんな父を見て「大人って、何が面白くて生きているんだろう」

 なんて思ったことがあった。いま自分がその立場に立っている。そう。生きるって

事はなまやさしいものじゃないのだ。でも、父のようにはなりたくない。

 

 死ぬまで

 働く

 

 あたしは、いや。

 でも。

 

 父には妻とあたしがいた。

 父は「おまえの顔を見るのが一番うれしい」と口癖のように言っていた。

 いま、あたしはその気持ちが分かる。

 でも、あたしには愛すべき子どもはいない。

 

 (いっそ、恋人見つけて結婚しちゃおうかな)

 

 なんて、思う。でも、そのたびに小学生のあたしが叫ぶ。

 

 (通訳になるの!いろーんな人とお話できるようになるの!おともだちになるの!)

 

 しかし、現実を生きるあたしは疲れてきていた。

 

 

 あたしがバイトしてたレストランに一人の女の子がいた。オーナーの一人娘。あたし

と一緒に流し場で皿洗いをしてた彼女はいつも意志を通わせるとき首から下げたメモ帳

に文字を書き込んで、見せる。

 

 最初不思議に思ったのだが、実は彼女は声を出すことが出来なかったのだ。

 病気のためにやむなく声帯を失った彼女は人の言うことが聞けても、自分の意志を

声で伝えることはできない。

 

 私と同じ年。服の事とか、映画の事とか、おいしいものの話とか。おしゃべりが

したくてたまらない筈なのに、彼女、それが出来ない。文字を書くという時間を要する

作業によって、伝えたい気持ちがみるみる痩せてゆく。そんなふうに見えた。あたしは

とてつもなく可愛そうに思った。

でも本人はいたって明るく、笑顔を絶やさない。あたしはそれがうらやましかった。

 

 ある時、思い切って話しかけてみた。

 「ねえ、手話、できる?」

 彼女は可愛い目を見開いて、そして、話し始めた。

 (菅原さん、手話、分かるんですか?)

 彼女の手は、そう言った。

 「うん。あたしコミュニケーションに興味があるから、手話にも通じてるんだ」

 (うれしい!)

 

 彼女は語る。すごいすごい。

 職場ではおそらくだれも手話は出来ないのだろう。もしいたならあのメモ帳は

いらないはずだから。

 色々、教えてくれる。

色々、尋ねてくる。

 音楽が大好きで、遊佐未森をよく聞いてたという彼女。こうなる前は自分でも作曲

したり歌を歌ったりしていたそうだ。シンガーになるのが夢だったそうだが、今は

歌うことができなくてさびしいという。

 

 夢を絶たれた、あたしと、似ている。

 

 でも、どうしてこの子はこんなに明るくふるまえるのだろう。あたしは不思議

だった。

 

 それからこの娘とよくつき合うようになった。一緒に服を見に行ったり、映画にも

行ったりした。親に内緒で六本木に飲みに行ったり。

 あたしの家に帰って寝るだけの単調な生活はどこかへ行ってしまった。

 

 

 バイトを辞めるその日。彼女はあたしを喫茶店へ呼び出した。あたしはもっとそこで

働いていたかったのだが、なにせ不景気なので人員整理のために、契約切れのバイトは

更新が出来ないのだ。 

 彼女は目を輝かせながら、つつみをあけるあたしを見ている。

 出てきたのはオルゴールだった。

 

(ね、鳴らして)

 

 彼女に促されるまま、ネジを巻く。

 

 「うわぁ!」

 

 あたしの好きな曲。

 

 「どうもありがとう!」

 (どういたしまして!)

 「よく知ってたね」

 (だって、菅原さん、仕事しながらいつも歌ってたでしょ?わたしもこの歌、

歌えるんだよ)

 

 あたしは凍りついた。

 

 歌える…って…どうやって…

 

 しかし彼女はオルゴールに合わせて歌い始めたのだった。

 

 (空は今にも 泣きだしそうなのに

  ボクの言葉に 耳も貸さず

  強情な君は 傘も持たずに出て行く…)

 

 彼女の手が歌う。あたしは、ただ息を止めて見ていることしかできない。

 

 (きっとさみしい しずくに打たれ

  やり場の無い 気持ちに 唇を噛むだろう

 

  だから ボクも一緒にいくよ

  二人で 雨の街 駆けよう

 

  そうすれば きっと

  そうすれば 

 

  素直な 気持ちで笑える…)

 

 彼女は急に歌うのをやめた。

 

 (菅原さん、どうしたの?)

 

 あたしはこらえることの出来ない感覚で満たされていた。

 

 オルゴールは鳴り続ける。

 

 声を永久に失った人が「歌う」ということを考えるだろうか。

 跡形もなくあきらめて、「歌」から離れようとするのではないか。

 歌うことが好きだったならなおのこと。

 

 しかし、彼女はそうではない。ハンデがあるにも関わらず、あたしの目の前で、

それをやってのけた。

それなのに、生活に埋もれ自分の夢から逃げようとしていたあたしは…

 

        はずかしい…       すごく…

 

 (だいじょうぶ?どうしたの?)

 

 我に返る、あたし。

熱いものが頬を伝ってる。いっけない!

 

 ごしごし

 

 「へへへ。ごめん。感動しちゃった。歌、上手なんだもん」

 (そんなぁ。菅原さんって、おおげさ!!)

 笑う、彼女。

 

 あたしの中で、

            何かが、

                       始まった

 

 

 今、あたしは某新聞社に勤務してる。

 通訳にはなれなかったけど、得意の語学を生かしての仕事。やっぱり、バイトで学費まで

賄うのは無理だった。

 けど大丈夫。あたし、あの頃よりずっと生き生きしてる。

 自分で言うのも変だけど、ね。

 

 彼女のところへはなかなか忙しくて行けないけど、でも、きっと元気にしてると

思う。きっと彼女に会わなかったら、あたし、ただのOLになってただろう。

考えただけでぞっとする。それはそれでしあわせかもしれないけど、でも夢を

あきらめてしまうのは、やだな。

 なんだかあたし、偉そう。過ぎてしまったからこそ言える台詞。

 

 「おーい!菅原!記者会見だ!行くぞぉ!」

 

 「ほへぇ。ちょっと待って!今行く!」

 

         おわり

説明
単調な日常。
夢を失いかけていたあたしに、声を失った彼女が送ってくれたものは…

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