最速の伝え人 二章
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二章 白。暗い部屋。香る懐かしいモノ

 

 

 

 新米青年兵と、負傷した少女兵とが脱走を遂げ、二ヶ月の時が流れた頃。

 尚も彼等の祖国では、戦争が繰り広げられている。宗教でも外交問題でもなく、敵国の資源を求めての戦争だ。資源が枯渇した侵略者は、彼等から見れば敵国。豊かな故国は戦場となり、どれだけ荒れ果てたか知れなかった。

 元から命に別状はないと本人が診断していたが、目とわずかに掠った頬の傷から毒は体内に侵入し、リーディエは三日ほど生死の境をさまよった。もしも即座にエリクが医者の診察を求めなければ、命が失われていても不思議はなかったという。

 その後、二人は船を使って国外に逃れた。母国より文明の発展は遅れているが、それ以上に自然豊かな美しい南の国である。当然、意識を取り戻したリーディエは拒んだが、まもなく町にも敗戦の報は届いた。国土の半分は敵軍の手に落ち、後はいつ国王が決断をするかの段だった。最早、進んで武器を手に取る必要はない。

 出航の日、エリクは海の底へと唯一の装備。軍で一般的に使われているナイフを投げ捨て、強引にリーディエのそれまでも捨ててしまった。軍との関係は完全に断ち切り、新たな生活を始める。そのためには戦闘用の短剣など、必要なかった。料理のためのナイフと、食事のためのフォークがあればそれで良い。

 大海原を横切って、未知の土地で未知の空気を胸に送り込むと、わずかな故郷を恋しく想う気持ちと、新たな生活を始めるのだという決意が改めて湧いて来た。尤も、そう思ったのはエリクだけであり、リーディエは相変わらずの無表情だったのだが。

 「遠く、来たな」

 「来させられた」

 眼帯を付けた少女は、不服そうに言い返していた。さすがに戦場にいた時よりは緊張もほぐれたのだろう。その顔には少しだけ表情らしきものがあって、それにエリクは魅力を感じていた。元からすさまじい美少女ではあるが、困ったような、怒ったような表情はさらに魅力に溢れていたのだから。

 その後は、田舎過ぎず、また都会過ぎない町を探し、二人はひとまずそこに腰を下ろすことを決めた。折よく空き家も出来ていたので、住居の確保にも苦労することはなく、問題はないように思われた。……ある一点を除いては。

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「そろそろ、仕事をしないとな……」

 ある昼下がり。唐突にエリクがそんなことを口にした。リーディエは無表情だが、多少の驚きはあるのだろう。

 町に腰を落ち着けてひと月。今までは隣人の好意と、エリクが体格と若さを活かした町の人の手伝いでなんとか食べ繋いでいたが、元々からして二人の所持金は皆無に等しく、船の運賃を無理矢理に捻出したら、持ち合わせはほとんどなくなってしまっていた。

 リーディエは十一歳の時に軍に“捕らえられ”、斥候としての教育のみを受けたため、料理や洗濯といった家事も苦手であり、おまけに片目の視力を失ったことは視覚に大きく影響を与えている。何かしらの仕事をして金銭を得る、というのは難しい状況と言えるだろう。だが、それでも生きていくためにはお金が必要だ。

「ま、アテはもう見つけてるんだ。俺は石工をしてた、って言っただろ?この町の石工の親っさんの家には、結構邪魔させてもらってたんだ。頼めばきっと、働かせてくれるさ」

「私は……」

「退屈かもしれないけど、家で待っててくれれば良い。最近は少しマシになって来たけど、料理の練習をしたりして、な」

「そんなに料理、下手?これでも、糧食を調理するぐらいはしていた」

「糧食って、芋を蒸すとか、そういうのだろ?微妙な調味料を入れる量とか、タイミングとか、そういうのをもっと覚えていかないとな」

「わかった。けど、私も何かしたい」

「ん、まぁ、そうだよなぁ……」

 自我というものに乏しいように感じられるリーディエだが、彼女が誇り高さ、気高さの持ち主であることは、軍人として顔を合わせている時、既にエリクは知っていた。

 自分が無力な少女であることを自覚した上で軍に身を置き、飢えた男の目に晒されながらも、健気に愚直に危険な任務をこなし続ける。その機械的な仕事ぶりの裏には、男に穢されることを強く嫌悪する気持ちがあった。

 軍を抜けた今でも首に巻いている黒いマフラーを、自殺のための物だと言い切ってみせるほどだ。

「じゃあ、俺が働きながら何か仕事を探すよ。おまえ一人で探させる訳にもいかないし」

「別に、それぐらい一人で出来る」

「出来る出来ないじゃなくて、その、コミュニケーションの問題だよ。和やかな会話とか、出来ないだろ?」

「和やか……確かに、難しい」

「その辺りはこれから練習して行けば良い。だから、とりあえずは俺に任せてくれよ」

「わかった。エリクが帰って来るのをずっと、待ってる」

 無自覚だろうが、なんだかむずがゆい言い方に、思わずエリクの頬が緩む。兄妹でも恋人同士でもない少女との二人暮らしをする時点で、エリクにとっては嬉し過ぎることだが、当の相手は終始このような感じだ。これはこれで良いのだが――。

「服も、なんか良いのが欲しいよな」

「服」

「今のあんたの服、軍にいた頃からの男物だろ?袖も長いし、何より可愛くない。可愛い子はもっとめかし付けないとな」

「そんなの、気にしないといけないの?」

「少なくとも、軍の外で生きるなら」

「……普通に生きるのって、難しい」

「ああ、難しいよ。自由ってのは、それだけ自分で何もかもしなくちゃならないんだ。けど、何も縛り付けるものがない。あんたも昔はそうだっただろ?」

「もう、覚えてない」

「そっか」

 あるいはそれは、彼女が自主的に忘れてしまった記憶なのかもしれない。家族が皆殺された今、その頃の記憶を引きずり続けるのは苦痛以外の何でもないだろう。それに、彼女が軍で生きた数年間は、一口では語り明かせないほど濃密で、暗い思い出に溢れたもののはずだ。楽しかった記憶が全て失われても、そう不思議ではない。

「じゃあ、行って来るな」

「気を付けて」

「なに、敵地に行く訳じゃないんだ。この町は市壁があるから、夜盗の類もそう簡単には入れないしな」

 従軍経験があるからこそ飛ばせる冗談。リーディエがそれで笑うはずもなく、エリクが自分自身で笑うしかないが、彼女が全くの無感動だという訳でもない。少なくとも心配を和らげるという効果はあったのだろう。そう解釈して頭髪を少しいじってから家を飛び出していく。

 エリクは軍にいた頃は短く切り揃えていた金髪を、再び伸ばすようになったが、この国は黒や茶系の髪の人が多く、少し浮いてしまう。だが、それは裏を返せばよく目立つということでもあり、女好きな彼にとってこれは好都合だ。えらく可愛らしい妹のような少女と暮らしているというのは、既に町の大半の人々が知る事実ではあったが、それが彼のナンパの成功を左右する要素にはなり得ない。成果は順調であった。

 ただし、以前ほど純粋に女性と会うことを楽しめていないとも、エリク自身が感じている。その理由はもちろん、一つ屋根の下暮らす少女の存在だ。

彼女のことを深く愛しているから他の女性を愛せない、と言う訳でもないが、どんな時にもついつい気にしてしまう。それは、あまりにも彼女が危うげだから。そうエリク自身は結論付けている。

 そんな彼女のためにも、自分が定職に就き、生活を安定させる。その上で彼女が元そうであった通りの彼女に戻ることを促す。それが現状の彼の使命だった。

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 強い意志を持って青年が家を出て行った一方、家に残された少女はと言えば、まさか昼間から夕食の準備をする訳にもいかず、洗濯物はまだ乾いておらず、新たな洗濯物もあまりなく、この家には本などといった娯楽がなく、そもそも十一の時に修学から離れたため、あまり複雑な文章を読み解く力もなく、完全に手持ち無沙汰だった。

 軍にいる間も、斥候が必要とされる場面以外では暇になることが多かったが、武器の点検など、まだすることはあった。しかし、争いを離れた以上、手入れするべき武器はなく、調理器具を毎日磨く必要もない訳で、趣味もない彼女はただただ、ベッドの上で横たわっているか、少し外に出て陽の光を浴びるかしか出来ない。

「可愛く、ない」

 先ほど、エリクが言っていた言葉を反芻する。

 リーディエは、運動神経はよく、反射神経にも優れている。だからこそ斥候が勤まっていた訳であり、いわゆるところの“野性の勘”なるものもあるのだが、その分複雑な思考は苦手としている。いや、軍隊は深く哲学する兵士を育成しようとはしなかった。まだ多くのことを知る前に世間から隔絶された彼女は、その軍の方針通りの「複雑なことを考えられない兵士」となり、よくわからないことを言われると、必ず繰り返し発音して、頭の中で整理するようにしている。

 今もこうして、衝撃的だった言葉を口にしてみて、その意味をよく吟味してみる。

 もちろん、可愛いことの反対、というその言葉自体の意味がわからないほど無知ではないが、美的センスが乏しく、果たして今の服が自分に似合っているのか似合っていないのか、その判断が付かなかった。

 エリクの方が自分より、圧倒的に世間一般の知識を多く持っていて、女性が着るような服をたくさん知っている。ならば、この服はそのセンスからずれているのだろう。そこで彼は、もっと可愛い服を着させることを希望している。

 なぜ?

 そこでリーディエの思考は止められてしまった。

 二人がそれぞれ別の家で住まうことは非効率的だし、何よりリーディエは今のところ働き口がない。だから同居していることに疑問はないが、結局のところ、二人の関係は少しの間だけ同じ軍に所属していた他人でしかない。

 自分の身内でもない相手に、どうしてお洒落な服を着せようと考えるのだろうか?

 その答えがリーディエには出せず、やがて深く考えるのもやめてしまった。意味がわからない場合は、軍隊でしていたことと同じだ。機械的にそれを処理してしまえば良い。

「私は、可愛い服を着るべき」

 そう定義付け、最後に一度、よくエリクが身だしなみを整えるに使っている、大きな鏡に自分の体を映す。元から家にあったものだが、リーディエ一人で暮らしているならば、真っ先に売り払っていた物だろう。彼女にとって鏡は、障害物があって見えない場所にある物を映し出し、見えるようにするためだけのものだ。それには手鏡程度の大きさで十分であり、不必要に大きな鏡は必要ない。

「………………」

 特に何か感慨を持つこともなく、己の姿を観察してみる。

 背は低い。恐らくもう伸びることはないのだろう。しかし、この低身長があったからこそ、彼女はエリクを庇って尚、生きていられているのだと言える。もしもう少し背が高ければ、あの大針は首を傷付けていただろう。応急処置も出来ないあの状況で首の血管を負傷していれば、命はなかった。

 髪は白い。これは地毛ではなく、いつの間にかにそうなっていた。いつだかわからないのは、軍にこんなに大きな鏡はなく、水面を見るようなこともなかったため、自分の姿を定期的に確認することがなかったからだ。いつか手鏡を見た時、金色の色素が消え失せ、頭髪が真っ白になっていることに気付いた。

 そんな老人めいた髪は、下ろせば腰かお尻に付くほどに長い。これは無意味にしたことではなく、実用性がある。と言うのも、リーディエの髪質は比較的太く丈夫で、それが罠に利用出来たからだ。実際、この髪を抜いていくつものトラップが作られて来た。エリクがもしも知れば、憤慨していることだろうが、別にそんな自分の扱いに関して、リーディエは疑問を抱いたことはなかった。

 いわゆるポニーテールの髪型、これには特に理由はない。ただ、下ろしていると明らかに邪魔になるので、ある程度はまとめ、動きやすいようにしておく必要があった。

 瞳については、左目が完全に失明している。眼球が完全に破壊されることはなかったが、医者の診断によるとどうやっても視力の回復は不可能らしい。そこで完全に摘出してしまった。これは兵士としては損害だったが、エリクによって強引に脱走兵にさせられてしまったため、大きな問題はないのかもしれない。すぐに片目だけの視界にも慣れ、眼帯も最初はわずらわしかったが、醜い状態の眼孔を人に見せるのは、エリクが何よりも止めた。だからこうして眼帯で片目を隠し、あまり外に出ることはなく暮らしている。

 胴体へと目を移せば、そこには女性的な魅力に乏しい平坦な体があるだけだ。見ていて清々しいほどの断崖絶壁であり、実際に水を浴びても何にも引っかかることはなく落ちていく。その姿は、まだリーディエが実際には見たことのない滝にも似ていて、ある種のスペクタクルであった。

「元が悪いから、服ぐらいは着飾れという、嫌み?」

 常に最悪の事態を想定して動く、そんな軍隊での思考は日常的なものの考え方にも影響しているのか、悲観的なリーディエが遂に導き出した結論は、エリクの考えと逆行するものだった。

 しかし、別にそれに腹を立てるという訳でもなかった。自分の命や、自分の体への執着が薄いので、それを否定されたところで何も感じるものはない。むしろ、多少なりとも自分のことが見やすくなり、それが一緒に暮らしているエリクを格調高くさせるのであれば、そのために利用されて良いと考えていた。

 かつてエリクが言ったように、彼女は仕える者ありき、所属する場所ありきの、主人に強く依存した下僕的な考えを教え込まれている。軍を出た今となっては、仕えるべき相手は同居人であるエリクに他ならない。

 彼が自分を着飾らせることを望むのであれば、それに従おうと考えるだけだった。

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「親っさん。良いですか?」

 一方、町の石工の工房を訪れたエリク。

 既知の中だけあり、今更になって事情を話すまでもなく、大概のことを親方は知っていた。もっとも、弟子が独立したそうで今この町に石工は彼一人しかいない。歳は四十がらみと言ったところで、槌やタガネを毎日振るっているだけあってがっしりとした体つきではあるものの、若い人手は必要としていた。

「おお、そろそろ、おれの後を任せられるような弟子が欲しかったんでぇ。その点、お前さんは即戦力にもなるし、教えがいもありそうだ。尤も、おれの知っていることなんて、もう知ってるかもしれんけどなぁ。がっはっは」

「はは、そんなことないですよ。国も違えば、技術も違うと思いますから。――じゃあ、俺を雇ってもらうというのは」

「断る理由もねぇだろ。ただし、楽な仕事にゃあならねぇぞ?その、一緒に住んでるっていう嬢ちゃんに心配かけるかもしれねぇが……」

「大丈夫です。それに、大変な仕事ほどやっていて、自分が生きてるって実感出来ますから」

「今時、熱いことを言ってくれて気持ちが良いねぇ。よし、ますます気に入った!早速、今おれのやってる仕事の段取りを伝えるぞ!」

「お願いします。親っさん!」

 軽く頭を下げると、堅苦しい挨拶をする暇があるなら、少しでも仕事を進めろ、と言わんばかりに工房の中へと手招きされる。それを受けエリクは、弾かれたように飛び出した。

 しばらくの間、銃を握る生活を余儀なくされて来たが、真に握るべき物は石材であり、それを削るための道具であり、身を置くべき場所は林の中でも、天幕の中でもなく、工房の中。そして、するべき仕事は人殺しなどではなく、人の住居を造ったり、美術品を作り出したりすることだ。

 立派な宮殿を作るような都会の石工ではなくても、人がいる所に石工は必要になる。現在、親方が取りかかっている仕事は、小さな石工の仕事の一つ。墓石の製作だった。既に石自体は用意されているが、墓碑銘が刻まれていない。細かい意匠もまだだ。

「さて、お前さん、字は読めるし、書けるな?」

「もちろん。前に話した通り、彫刻家的なこともしていましたから、それなりの仕事が出来る自信はあります」

「よし、それなら一つやって見せてくれ。ちょっとぐらいの失敗なら、おれが直してやれるけど、必要ねぇな?」

 挑戦的な言葉に、満足げな笑みで応える。

「これが墓碑銘の下書きだ。意匠を凝らすのもお前さんに任せるが、とりあえず文字だけ刻んでくれ」

「わかりました。道具は……」

「おう、弟子が使ってたお古があるが、また買い揃えねぇとな。この仕事をきちんとやったら、祝いの品として用意してやらぁ」

「ありがとうございます。じゃあ、早速始めますね!」

 すっかり、仕事道具を握る感覚も失われていると思われたが、三年師事した中で培ったセンスは決して忘れておらず、いざ石碑に向き合ってみると、自分のするべき仕事が次々と浮かび、その通りに手が動く。

 硬い石に文字を刻む仕事は、金属の道具を使っていたとしても、下手にすればその刃が欠けたり折れたりもする。力を入れ過ぎれば石が割れてしまうし、完全に慣れが物を言う世界だ。しかし、エリクのタガネは驚くほど素直に石へと溝を刻み込み、定期的に響くハンマーの音が工房独特の空気感を形成して、その中に心も体も包み込んでしまう。

 工房で仕事をしていると言うよりは、工房と共に仕事をしている、そんな一体感。彫刻道具は四肢にも似ていて、次々と碑文は刻まれていく。柔らかなクリームの上に字を描くように滑らかに、また美しく。

 時間の概念から隔絶されたかのように、エリクは黙々と作業を続けていたが、昼過ぎから既に多くの時間が流れ、夕暮れ、そして太陽の残滓も消え去って宵闇へ。町が静けさと薄暗さに包まれて、やっと槌を振るう手が止まった。

「よう、ご苦労さん」

「はい。お疲れ様です。親っさん」

「しっかし、仕事は速いし、決して雑じゃない。三年だけ修業して、ブランク挟んでこの腕たぁ、恐れ入る。良い師匠に習ったんだろ?」

「そう、ですね……。親っさんには申し訳ないですけど、すごい人でした。たまに大きな街に呼ばれて行って、俺もそれについて行かせてもらったりしてたんです。そこで大きな屋敷の建築を手伝ったり、貧乏な彫刻家の卵と話したりして、色々と学ばせてもらってました」

「そいつはまた……なんか、おれが教えるのが申し訳なくなって来るなぁ」

「いえ、そんなことはないですよ。俺がなりたいのは、デカい仕事をする大都会の石工でも、石像をいくつも創るような彫刻家でもないんです。その夢を叶えるためには、親っさんみたいな職人に教えてもらえないと」

「はっは、嬉しいこと言ってくれるなぁ。じゃあ、今日はこれで上がりだ。また明日、頼むな」

「わかりました!お疲れ様です!」

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 小さなランプを一つ持ち、夜の町へ。ずっと同じ姿勢だったので、背筋を伸ばすとこ気味いい音が鳴ると同時に、改めて疲労感と達成感とを得られる。初日の仕事は、彼にしてみれば満足出来るものだった。親方もそれを認めてくれた。

 とりあえずはつつがなくて、リーディエにも笑顔で報告が出来る。

 酒場から漏れる灯りや、なんとも美味そうな肉や魚の焼ける匂いが寄り道心を誘うが、それ等を全て心から閉め出して、真っ直ぐ家へと向かう。リーディエの手料理は決して美味くはないが、誰が作り、誰と一緒に食べるかが問題であり、エリクにとっての彼女は、大切な同居人だった。彼女を待たせて自分だけが美味しい思いをする訳にもいかない。

 木のドアを開き、小さな妹分に挨拶をする。

「――ただいま、リーディエ」

 返事はなかった。彼女に出迎える気がなかったという訳ではなく、その逆だ。

「……はは、寝てるのか。おーい、リーディエちゃん、ここが戦場だったら、居眠りは許されてねーぞー?」

 料理を用意し、椅子に座ったままの姿勢で白髪の少女は眠りこけている。その寝顔は、ある意味で起きている時よりも愛らしく、ずっと感情豊かに見えてしまう。

 肩を軽く揺すってみても反応はないし、声も届いていない様子。ともなれば、することは一つしかない。

「くくく、起きないのなら、いたずらされても仕方ないよな?」

 まずは手始めに、真っ白な頬を軽く指でつつく。想像通りに滑らかな肌、どこまでも指が沈み込んでいきそうなほど柔らかい頬、どちらも男性にはない感触であり、ずっと触っていたい衝動に駆られるが、あまりいたぶってやる訳にもいかない。豪快に両頬を掴んでやり、ぐにぐにと引っ張って起こしてやる。

「ほーら、さすがにこれなら起きるだろ?」

「ふ、ふへっ!?へひふっ、はなひて!」

「ははっ、夏だからって女の子がお腹冷やして寝たら駄目だぞ?」

「……エリクを、待ってたから」

「待ってたら、寝るのか?」

「あんまり意地悪、言わないで」

 頬を撫でながら、少し不服そうな顔をするリーディエ。二ヶ月以前なら、こんな表情を見せるようなことはなかっただろう。

「悪い悪い。そんじゃ、改めてただいま、リーディエ」

「うん……お帰り」

「無事に親っさんにも働かせてもらえることになったよ。だから、明日からは弁当がないとな」

「弁当」

「そ、まあ、パンになんか挟むような簡単なので良いけど」

「それは……私が作るべき?」

「大した手間じゃないから、俺が勝手に作って行っても良いぜ。リーディエ、ちょっと朝弱いしな」

 軍にいた頃は緊張と使命感があったのだろうか。リーディエが寝坊したことなどなかったが、こうして町に家を持ち、悠々自適な生活を送るようになると、意外なほどに寝起きが悪く、起きてからもしばらくの間はぼーっとしているのが目立っていた。エリクはそれを見て、そこもまた魅力と思っているのだが、リーディエは再び不機嫌な顔を見せる。

「私、そこまで朝弱くない」

「いやいやいや、おまえが朝強かったら、俺なんかどうなんだよ?朝からフルテンションだぜ?」

「エリクはただの馬鹿」

「ぐはっ!おいおい、今日はいやに冷たいじゃねーか」

「寝てる私に、いたずらした」

「なんだ、気にしてたのか?」

「気にする」

「そうかそうか。ごめんな」

 尚も不満そうな顔。それでもエリクを椅子に座るように促し、彼のためのバゲットにナイフを入れて切り分ける。

「もう良い。はい」

「ん、ありがと。……ところでリーディエ、これ、なんて料理だ?」

「ポークビーンズ」

「聞いたことがない料理だな」

「軍で聞いた。豆と豚肉をトマトで煮た料理」

「へぇ、見た感じ真っ赤で、何かと思ったぜ」

「簡単に作れそうだから作った。味も、良いと思う」

「思うって……味見はしてないのか?」

「したけど、私とエリクの味覚は違うかもしれない」

 同じ人間でそこまで違う訳がない……とは言い切れないのが、リーディエの境遇の悲惨さなのだろう。長期の行軍の中で、十分な食料が確保出来ることはまれであるし、彼女の軍の中での身分では、まともに糧食を与えられていたかも怪しい。文字通り、泥水をすするような食生活だったことが予想される。それが丸三年も続けば、正常な味覚が破壊されていたとしても、そう不思議なことではない。

 もしかすると、リーディエが料理をいまいち苦手としているのは、繊細な味覚が機能しなくなっているからなのかもしれなかった。

「そっか、じゃあ、とりあえず食ってみるか」

「うん、食べてみて」

 木のスプーンを手に取り、豪快にそれをすくって口の中へと投入する。不味いという危険性もあるにはあるが、いくらリーディエが年頃の少女と同じように繊細ではないにしても、自分の手料理を食べる前から否定されるようなことをされれば、多少なりとも落ち込んでしまうだろう。しかもエリクには、昼間に一度彼女の料理が不味いと苦言を呈しているという負い目がある。彼女の成長を期待した上での発言とはいえ、厳しくするばかりが年長者の義務ではない。

 たとえ不味くても確実にこの一杯は平らげるつもりだったし、味を改善する必要があれば、一緒に研究に付き合うつもりでいたが……その必要はなかった。

「薄味……いや、トマトの味が活きてる、これ以上の味付けは逆に味を壊すな。煮詰まり具合も丁度良い。適度に豆の食感もあり、肉はほとんど歯を入れなくて良いほど柔らかい。これ、初めて作ったのか?」

「初めて」

「聞いたレシピが良かったのか、リーディエのセンスが神がかってたのか知らないけど、相当に美味いぜ。リーディエも改めて食ってみろよ」

「うん。エリクが喜んでくれて、良かった」

 微妙に的外れなことを言って、彼女もまた匙を握る。リーディエはその細身で小柄な外見から受けるイメージの通り、極端に食が細い。今回の料理も、いくらエリクが腹を空かせて帰って来ているとはいえ、明日のリーディエの昼食になるぐらいの量が作られてしまっていた。

「はむっ、むっ……何を、見てるの?」

「あ、いや、ネズミみたいに食べるんだな、と思って」

 スープを一すくいして、せかせかと、しかし少しずつパンをかじる。その姿は、確かに人の食べ残しを食べるネズミの食事風景に似ている。

「人をドブネズミ扱い?」

「ドブとは言ってないだろ!?なんでこう、おまえは悲観的っつーか、ものの感じ方が極端って言うか……」

「でも、ネズミに良いイメージはない」

「そ、それもそうか。じゃあ、ウサギでいこう。ウサギもこう、ちまちまーって食べるだろ?」

「ウサギ。それなら、良いかもしれない」

 白い髪の毛もそうだしな、と半分は口から出かかっていたが、すんでのところで飲み込むことに成功し、思わず溜め息をつくエリク。先天的なものならまだしも、後から、それも恐らくは軍にいたことによる、心的な負担で変化してしまったものを愛称のように使うことは、よく考えてもみるとはばかられる。そのことを本人は気にしないかもしれない。だが、だからこそ、それを避けるのはエリク自身の役目に思えた。

 長い白髪は、食事のために上下するだけで、さらさらと流れていく。髪の毛が丈夫だからと言って、ごわごわとした髪質という訳ではなく、見る限りでは柔らかくしなやかだ。おまけに甘く良い匂いがすることも、エリクは実体験から知っている。

 軍隊時代から首に巻いているリーディエのマフラーは、現在となっては外出すること自体が少ないので、役目を失ってタンスの中へとしまわれていた。長らくトレードマークとして機能して来たそれを外すことに、少しは抵抗があるだろうと思っていたが、驚くほどあっさりとリーディエは決別し、本当に執着がないことを証明した。そして、それは同時にエリクの頭を悩ませてくれる。

 「(本当に、この娘は自分の外見とかに興味がないんだな)」

 可愛らしく生まれたのに、実にもったいない。エリクはそう思うし、多くの男性、また、女性もそう思うことだろう。

「それと、あれだな……」

「何?」

「リーディエの誕生日って、いつなんだ?」

「唐突」

「ふと気になったんだよ。やっぱりこう、プレゼントぐらいはしたいだろ?」

「正確な日は知らない。でも、夏だった」

「ドンピシャで今じゃねーか!おいおい、こりゃ初給料はプレゼントに消えるな」

「別に、そこまでして欲しくはない。生活のためにお金は必要だし」

「いや、俺の個人的な小遣い、って意味でな?」

「それでも、私は別にプレゼントなんて欲しくない」

「はは、おまえらしいけど、それじゃ俺の気が収まらないんだよ。よくよく考えたら、軍を飛び出して来たのはあの全滅が原因だけど、何もこんなところまで逃げて来て、リーディエの人生をことごとく狂わせちまうことはなかったんだ。最初はすごい嫌がってたしな」

「………………」

 最近となっては珍しくなった、無言の返事。

 彼女が言葉を使わないのは、答えるまでもなく肯定の時、不機嫌な時、そしてどんな言葉を返して良いのかわからない時だ。今は一番初めと、最後のケースが入り混じっているのだろう。

「そのお詫び、なんて安っぽいけど、まあ受け取ってくれよ。そうしないと、また頬つねるぞ?」

「どうして、微妙に脅迫みたいになる」

「おまえが可愛いから?」

「そう」

 ここで赤面まで期待するには、まだリーディエは当たり前の生活に馴染めてはいない。明るい表情、可愛らしい表情よりは、怒りや哀しみといったネガティブな感情の方が出しやすいようだ。

「もう、お腹いっぱい」

「俺には全然食ったように見えないけど、それで十分なんだな」

「いつも食べ物があるから、無理に詰め込む必要はない」

「そっか……」

 残ったものを鍋に戻し、バゲットもしまってしまう少女を見ながら、不意にエリクはその体を抱きしめたくなっていた。もちろん、彼が女好きだからではなく、理不尽を体現したかのように、彼女には悲劇的な過去ばかりがあるからだ。

 父性どころか、母性のためなのかもしれない。彼女を抱きしめ、同じベッドで眠ってあげたい、そんな衝動が性的な欲望を一切度外視して起こってくる。実際に手は少女に伸びず、食事を進めることしか出来ないが……その気持ちは、彼女に幸せな生活をさせてやることで満たそうと考えた。

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「それじゃあ、行ってくるな」

「いってらっしゃい」

 五回目となるエリクが石工の仕事を始めてからの朝。

 目が覚めたばかりのもやのかかった意識の中、リーディエはあることを考えていた。それは、久し振りに外出をすること。

 食材の買い出しのような、生きていく上で必須のことはしているが、純粋に町を見て回ったり、隣人達と話したりするために家を出ることはほぼ皆無であり、その理由は明確だ。

「なんて話せば、良いんだろう」

 第一に、リーディエは他人と事務的なこと以外を話すことに慣れていない。

「可愛く、ない……」

 二番目に、エリクから言われたことが原因で、今の自分の姿を、他人は不快に思うかもしれない。片目を隠している眼帯も気になりはする。

「迷いそう……」

 戦場では、たとえ一度だけ通った道でも、リーディエはほぼ確実にそれを覚えてしまうことが出来た。だが、命のやりとりをするという緊張感が失われ、人の気配があり過ぎる町中においてその方向感覚は発揮されず、むしろ人並みよりも劣る程度の感覚しかない。端的に言えば……。

 第三に、方向音痴だった。

 それなのに、今日という日にリーディエは一人で外出する。これは既に決定事項であり、それを覆すことはない。

 どうして思い立ったのかと言えば、どうしてかはわからない。それでも、外を出歩く目的はこれ以上がないほどはっきりしている。

「エリクに任せていたら、いつになるかわからない。自分の仕事は、自分で見つける」

 二人の家には、本の類がほとんどないし、あったとしても実用的な図鑑の類か、エリクが資料として買って来た建築関連の資料ばかりだ。それを読んで時間を潰すというのは、リーディエにとっては難しく、本に頼らずに家の中で時間を潰せと言われても、答えの出ない無意味な思索を続け、脳をいたずらに疲労させることしか出来ない。

 リーディエに突如として与えられた「自由」は、その言葉通りにあらゆる行動と思考の自由と引き換えに、消費しきれない膨大な時間を作り出してしまった。時間を余らせるということは、何らかの仕事か、「待機する」という命令を受ける日常を送っていたリーディエにとって、恐ろしいことに他ならない。

 妙な悩みかもしれないが、仕事の一つでもしなければ心が休まらないのだった。

「これは、仕事を探す仕事だと考える。そうすればきっと、話せる」

 気合を入れるために、夏場だというのにマフラーをしっかりと巻く。斥候の任務をこなす時と同じように、口まで完全に覆って。

 家の中にいる時は適当に結っていた髪も、改めて年季の入ったリボンで奇麗なポニーテールを結い直す。鏡を見なくても、体が完全に覚えてしまっているので、これだけは迷いなく奇麗に出来てしまえた。

 服は相変わらず、エリクいわく可愛くないものだが、今リーディエが考え付く限りのおめかしはして、いざ家を出る。

 陽の光は窓から取り入れていたが、全身で浴びるのはずいぶんと久し振りだ。思わず目を隠してしまうが、すぐに慣れ、白髪をなびかせ、輝かせ、平穏そのものである南国の田舎町へとくり出す。

 マルシェと呼ばれる市場大通りを、ゆっくりと歩きながら人手が足りていなさそうな店を探すが、どこもそれなりに繁盛しているが、店主とその子どもらしい若者の二人で十分そうであり、元より自分が馴染めそうな雰囲気ではないと、まともな人付き合いに乏しいリーディエでもわかってしまう。やはり、接客を主とする仕事は難しいのだろう。

 だが、エリクのような職人になるにしても、リーディエには一切そのような技術がない。一応、自衛のためのナイフを持ってはいたが、それを器用に扱うだなんて夢の話であり、料理のためのナイフ裁きすら、最近になってやっと怪我を心配されない程度になったぐらい。よくよく考えてみると、何の仕事をすれば良いのかわからない。

 軍を抜け、手元に残ったのは、軍によって色を奪われた髪と、日常生活に役立たない軍事知識、サバイバル知識。そして、人の死すらどうとも思わないほどに鈍化した心だけだった。

「これがあるいは、私への罰……」

 家族は父も母も弟も殺され、自分だけが女だからという理由で生かされた。そこから始まった生活は、日常から逸脱し過ぎていて、果たして生きているのが幸せだったのか、いっそあそこで家族と共に死ぬのが幸せだったのか、彼女には判断が付かなかった。今も、そして未来も、その疑問は呪いのように彼女の頭を度々悩ませるのだろう。

 

「――罰なんて、誰が与えるって言うのかな?神?じゃあ、神を信じていないワタシには関係ない話だよね?」

 唐突にかけられた声に、頭より先に体が反応する。素早く声の方向へと向き直り、ナイフを取り出そうとして、それがないことに気付いた。が、相手もまた武器を持たない一般市民に過ぎない。

「ストップストップー。別に、驚かせるつもりはなかったんだけどなー。可愛い子が妙なこと言ってて、気になっただけ。立ち聞きしちゃってごめんね」

「考えごとをしている時に話しかけられたら、誰でも驚く」

 敵意を込めた瞳で睨む。ついさっき可愛らしいという評価を受けた少女だが、その殺気に近い気迫は軍人だからこそ発することの出来る種類の、どす黒いものだ。

「いや、本当にごめんね。にしても、あなたみたいな子がこんな裏路地に何の用事かな?まさか、ワタシに用なんてないよね」

「裏路地……」

 気が付くと、確かに華やかだった通りではなく、薄暗く道幅も狭い区画に迷い込んでいたらしい。そして、目の前にいる女性の服装は、一言で表すならば黒づくめ。多少細かく表現するのであれば、赤と紫の中間色の暗い色の髪に、黒いローブに黒いマントを羽織り、蛇、もしくは竜を象った木製の杖を左手に持っている。これ等から導き出せるものはと言えば――。

「魔女?」

「よくぞ言ってくださった!そう、ワタシは魔女……ではなく、錬金術師のダニエルと申します。どういう訳か男っぽい名前を付けられてしまったので、エルと呼んでください。お願いします」

「そ、そう」

 急にテンションと口調が変わり、感情に乏しいリーディエといえども、さすがにたじろいでしまう。一方で黒衣を全身にまとったエルことダニエルは更に笑みを深くし、右手を差し出した。

「最近、こんな服装をしてても、きちんとリアクションを取ってくれる人が少なくて……それなのに、あなたみたいな子に理想通りのことを言ってもらえて、本当に嬉しかったの。迷惑かもしれないけど、友情の印として握手させてもらって良いかな?」

「う、うん」

 ぎこちなく手を握れば、それをぶんぶん振り回され、ついでに小さな体を抱きしめられてしまう。相手が女性だからこそ許す行為だが、抱きしめられるということは、互いの体を密着させ合うことを意味し、リーディエにはダニエルの筆舌に尽くしがたいほどに柔らかな肉体が押し付けられた。

 ローブの上からではわかりづらいが、触感からリーディエとは比べ物にならないほどの豊乳がその下に眠っているのは明らかで、圧倒的な質量と弾力性を持ったそれは、そのまま少女の小さな体を跳ね飛ばしてしまいそうにすら思える。

「そろそろ、放して……」

「あっ、ごめんなさい。いやはや、あんまりにあなたが可愛いから」

「酔いそう……」

 強く抱きしめられたことにより、瞬間的に空気が不足したというのもあるが、ダニエルの服から香ってきた薬品の臭いも大きな要因だ。一切それ等の知識のないリーディエに詳細はわからないが、なんとなく懐かしいような気がした。

「よっし、女の子成分の補給完了っ。で、あなた見た感じ、最近この町に来た人なのかな?」

「うん。ひと月前に来た。……あっ、名前は、リーディエ」

「おー、本当にニューフェイスだー。リーディエちゃんね、オッケーオッケー。もう覚えましたよー。白髪のちっちゃい子!」

「ちっちゃい……」

 背丈のことを言っているのだろうが、ついさっきまでダニエルの柔らかさに打ちのめされていた彼女には、別の部分に関しての皮肉にしか思えない。

「で、迷っちゃったのかな?この町、わかりやすい所はわかりやすいけど、わかりにくい所はわかりにくいから」

「それって、普通だと思う」

「あはは、鋭いご指摘で。実はワタシも、ほとんど自分の家の辺りから外に出ないから、この町の地図は頭に入ってないんだよ。で、そのわずかな経験則によれば、ワタシの住んでいる所は抜群にわかりづらい!」

「なのに、そこに住んでるの?」

「住めば都、ってやつだね。まあこの町自体、都会と比べると不便なんてレベルじゃないけど、ワタシみたいな少数派にも寛容な町だからね。居心地悪くとも、住みよい我が家、だよ」

「そうなんだ……」

 兵隊として各地を転戦する生活は、ひと所に留まるということの感覚を奪い去っていった。やっとひと月、この町に住んではみたが、まだ大した感慨はその心に生まれていない。

「んー、なんかお腹減って来たなー。こうしてここで会ったのも何かの縁、ワタシの家でお昼食べていかないかな?ちょっと早いと思うけどね」

「えっと……」

 職を探すために町を歩いていたのだが、独力では見つかりそうもなかった。それに、人見知りどころか、よく知る人間(ここではエリク)とすらあまり会話出来ないリーディエだが、不思議とダニエルとなら会話が成立している。

 逡巡した後、白髪の少女は首を縦に振って応えた。

「ありがとう!ワタシの家はもうちょっと奥まった所にあるから、はぐれないでついて来てね」

 ダニエルは満面の笑顔を見せると、杖を突きながらぎこちなくその場で反対を向き、やはり杖を使って歩き出す。その時、右足が全く動いていないことに気付かないほど、リーディエは斥候として無能ではなかった。

「エル、あなたの足……」

「うん、お察しの通り、右足は義足だよ。ちょっとあってね。……その辺りも含めて、誰にも聞かれない場所で話したいかな。ちょっとあなたには、その目を含めて興味があるの」

「………………」

 反射的に、眼帯に隠された左目を撫でる。目は抜き出すこととなったため、今その中には治療費の問題もあって何もはめられておらず、空間だけがある。

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「では、いらっしゃいませ!エルの魔法店へ!」

「……錬金術師なのに、魔法店?」

「そう!いやー、本当にリーディエちゃんの突っ込みのセンスは神がかってるね。あなたが女神かっ」

「さっき、神は信じてないって言ったのに」

「ふふふー、小気味いいやりとり過ぎて、失神しそうだよ」

「しないで」

 本当に迷路のように入り組んだ路地を進み、姿を現したのはごく平凡な住居……だが名前は魔法店。錬金術師が営んでいるのに、魔法店。基本的に真面目であるリーディエがそれに突っ込みを入れてしまうのは、半ば必然だ。

 内装も至って一般的な家屋と同様だが、錬金術師らしく、様々な薬品や釜戸、それから怪しげな大鍋の用意された工房があり、それが店の四分の一を占めていた。生活スペースは地下にあり、見た目には一階建ての平屋となっている。

「色々と成果を見てもらいたいところだけど、とりあえず地下にどうぞー。夏場でもひんやりしてて良いんだよー。冬は極寒だけどね、その時は上の釜戸の傍で寝れば問題なしっ」

「どうして二階建てじゃなく、地下室を?」

 地下室は脱出に不向き、なんて町では大して関係のない考えがリーディエの頭の中に、反射のように起こった。

「錬金術師っぽいからさ!」

「仕事は一階でしているのに?」

「そう、大事なのは“感じ”であって、それによって得られるロマンなんだよ。リアルなことは考えなくても良い。ワタシは地下室に住んでいることによって、他の何ものにも代えがたいロマンを感じて生きているのだから!」

「………………」

 リーディエには理解しがたいことだが、ダニエルは本気で嬉しそうに話し、自由に動かすことの出来る右腕を存分に動かし、その“ロマン”を表現する。その幸せそうな表情からは、リーディエにだって彼女の感動は伝わった。

「エルは、幸せだと思う」

「ふふっ、ありがとう。リーディエちゃんは幸せ?」

「私、私は……」

 一般的に言えば、幸せに他ならないのだろう。

 世間では、軍に自由を奪われ、人殺しの手伝いをし、最後には自身も殺される危険性もあるような生活を送るより、まともな仕事をして、裕福ではなくとも、必要最低限の物には困らない生活をする。そんな今の日常は幸せに他ならない。

 ただ、今質問されている「幸せ」とは、そんな一般的なものではなく、ダニエルが錬金術師としての生活の中で感じるような、生きがいにも近い感情のように思えた。だから、リーディエには返事をすることが出来ない。

「悲観している内は、幸せかどうかなんてわからないかな。でも、ワタシはそれでも良いと思うよ。若い内は悩んで悩んで、疲れるぐらい悩んで、寝ちゃって。起きて、また悩めば良いんだよ」

「エルも、まだ若いでしょ?」

「それはどうかなー?ま、ワタシが悩み尽くした結果、こうして錬金術師やってるのは確かだけどね。……んじゃ、とりあえず座って座ってー。簡単だけど、ご飯用意して来るから」

「うん」

 石壁に石畳、好意的な言い方をすればひんやりと涼しい造りの地下室には、木製のテーブルと椅子が四脚。後はなぜかベッドが二つ置かれている。それから、毛布を敷き詰めた小さな寝床がもう一つあった。その上には黒毛の主がいて、見知らぬ侵入者の存在に気付いて頭をもたげる。

「エ、エル……」

 その生き物――黒猫の動きに気付き、リーディエはダニエルに助けを求める。が、彼女は既に一階へと上がり、声は届かない。彼女の元へ逃げ出そうにも、黒い瞳に睨まれて腰が抜け、ほぼ唯一の取り柄とも言える俊足が発揮出来ない。

「ね、猫、駄目。しかも黒っ……うあっ、うああーー!!やめてぇ!」

 黒い悪魔はしなやかな足取りで迫ってくる。“他人”であるリーディエを排除しようと。

 逃げ出せるものなら逃げ出したい。だが、この白髪の少女は猫をこれ以上がないほど苦手としていて、中でも黒毛の猫には深い深いトラウマを持っていた。他人からすれば本当に何でもないことだが、リーディエの大きな心の傷となっている。

 大きな茶色の瞳には涙が溜まり、更に一歩、猫が踏み出したことをきっかけに、堤防は決壊した。

「お待たせー。あ、そういえば猫のジャン君がいたと思うけど、仲良くしてくれ……てないよね!?だ、大丈夫?」

「猫っ……い、いやっ」

 ジャンという名前を持つ黒猫は、意外にもリーディエに興味を抱いているようで、顔や手を擦り付けて彼女に好意を示している……が、対するリーディエの顔は、涙と鼻水でぐじゅぐじゅになり、見れたものではなかった。

「ごめんっ、猫、苦手だったんだね。そういうことも十分に考えられたのに、迂闊だったね、本当、ごめん」

「謝る前に、どけて……あたし、うっ……涙、止まんなくてっ」

「ありゃりゃ……これ、苦手ってだけじゃなくて、体質的にも駄目だったりするのかな……。ほら、ジャン君。ワタシが後でいっぱい可愛がってあげるから、離れてね。もー、こんなに嫌がってる子に近付くなんて、いたずらっ子と言うか、ドSと言うか……誰に似たんだろうね?」

 皿の上に用意したパンに野菜類を挟んだものを机の上に置き、比較的大きな体躯の猫をダニエルが彼の寝床へと運搬していく。猫が遠ざかると、リーディエの涙や鼻水も止まったが、一度崩れてしまった顔は中々元には戻らない。そうこうしている内に、ダニエルも戻って来てしまった。

「もう大丈夫だよ。ワタシがちゃんと言い付けたら、勝手に動いたりしないから。……ふ、ふふっ、リーディエちゃん、可愛いね」

「か、可愛くないっ」

「うそ、可愛いよ。さっきのおすまし顔も良かったけど、今のはふにゃふにゃで猫さんみたいだー」

「猫っ」

「ありゃ、たとえ話でも反応しちゃうか。ほんと、苦手なんだね」

「嫌な思い出があるし、犬や鳥に比べて、怖いから……」

「そっか。なら仕方ないね。まあまあ、ならもういじるのはやめるから、気を取り直して食べようー」

 未だに泣いたままのぐしゃぐしゃ顔だが、椅子に座り直してパンを手に取る。具材は比較的あっさりとしたものではあるものの、程よい塩加減でかなり食べやすく仕上がっている。少なくとも、現時点でリーディエが作ることの出来る料理に勝っている腕前だ。

「これ、エルの手作り?」

「もっちろん。錬金術師は作り出す職業だよ?料理一つにしても、自分で作らないと」

「美味しい」

「えへへー、ありがと。リーディエちゃんも料理はするの?」

「うん……けど、あんまり上手くない。昨日は喜んでもらえたけど」

「それなら良かったね。やっぱり、誰かのために作って、その誰かにそれで喜んでもらえたら、次からも頑張ろう、って気持ちになれるもん。ワタシはそんな相手が今はジャン君ぐらいしかいないから、ちょっと羨ましいな」

 嘆くように言いながらもダニエルは、意外にも大口でぱくぱくとパンを腹の中に収めてしまう。ウサギという言葉を使って表現されたリーディエの食べ方とは真反対で、結果としてちまちまと食べる少女の食事風景を見つめ続け、終始にやけきった顔をしていた。

「可愛いなー、リーディエちゃん。まだ出会ってちょっとなのに、こんなにメロメロにされちゃうなんてすごいよねー」

「そんなに私、可愛くない」

「またまた、ご謙遜をー。まず髪が奇麗だし、ちんまい背丈もすごく可愛らしい。顔も抜群に可愛いし、声も、喋り方も、ワタシの好みにぴったり、って感じだなー」

「こんな服なのに?」

「服?あー、そんなのもあったね。けどワタシ、自分の服以外にはこだわらないから。確かに、可愛い服を着ていればより可愛く見えるかもだけど、やっぱり大事なのは中身でしょ!リーディエちゃんのことは、ごてごてと飾り立てる方が駄目だよ」

「そう、なの?」

「ワタシの意見だけどねー。でもまあ、そうだね。思うに、リーディエちゃんにはズボン。これは鉄板と思う。スカートも似合うとは思うけど、こっちだね。上の服は確かに一考の余地があると思うけど……ま、大して一般的な服に頓着しないワタシだから、参考程度に聞いてもらえば」

 さらっと流すが、リーディエにしてみれば、メモを取りたいぐらい大事なことを言われた気分だ。当然と言えば当然だが、軍隊での記憶に過去の記憶を塗り潰された彼女にとって、女性目線のおしゃれの意見ほど貴重なものはなく、それは失われた自分の大切なピースの内の一つだ。早く一般的な少女に戻るため、服選びのセンスなども磨く必要がある。

 それ等の課題をクリアしていく過程で、ダニエルという女性の、しかも話しやすい友人を得たのは大きな収穫だろう。それだけで今日の外出の意味は大いにあった。そして、彼女もまた完全には一般人とは言えない過去を抱えているらしいし、錬金術師であるという時点でアブノーマルな存在なのは確実だ。

「おしゃれと言えば、なんだけど。これはワタシの推測に過ぎないから、間違いだったらごめんね。リーディエちゃん、その眼帯の下、目がないんじゃない?それか、あってもそれは使い物にならない」

「…………その通り。どうしてわかったの?」

「半分は直感で、もう半分は不名誉かもしれないけど、同族の気配がしたから、かな。あなた、軍にいた人でしょう?それも、一年ぐらいじゃない、もっと長く」

 気が付くと、ダニエルは無表情、とまでは行かないが、いくらか柔らかな笑顔が消え、語調も低く落ち着いたものになっている。ここからの話は、お互いが決して楽しくはない思い出を語り合う、ということなのだろうか。

 リーディエは元から無表情だが、心構えは正す。自分の過去を話すのにそれが必要なのはもちろん、陽気なダニエルも軍人である自分のことを同族と言ったのだから、相当に凄惨な思い出があるのに違いはなかった。

「丸三年。今年で四年目だった。でも、春の終わりに抜けた。正確には部隊が全滅して、その時の仲間が逃げることを強く勧めた」

「リーディエちゃんはそれ、嬉しかった?」

「当時は余計なことをされたと思っていた。今もその気持ちはある」

「そっか。軍人って、そういうものだよね。自分の全てを国のため、軍のために捧げようって思っちゃうもん。だけどそれ、夢なんだよね。いつか覚めて、自分の愚かさに気付く。その時にはもう、大きな物を失っていて……あなたも、視界が半分になっちゃったね」

「そういうエルは、足を?」

「失ったと同時に、目が覚めちゃった。ワタシがしてたのは、こういうことだったんだ、って。ワタシ、軍の研究員だったんだよね。だから直接的には人を殺してないし、軍人さんがどんなことを考えながら戦っていたのかよくは知らない。けど、ワタシが開発した武器は、どれだけの人生を狂わせ、途切れさせたのかな、って気付いた。でもそれが実験中の事故で足を失ってからなんて、人間がどこまで自己中心的なのかわかるよね。人がいくら傷ついても見て見ぬふりが出来る。けど、自分は出来ない」

「それは――」

 人間誰しも、自分の身は可愛いものだから。

 そう言おうとして、はっと気付いた。それは、二ヶ月前までのリーディエ自身が持っていた死の哲学とは、対極に位置する価値観だったからだ。

 軍の役に立つためなら、たとえ敵兵と刺し違えることも辞さない。そんな狂った死生観の中で生きていたのは、誰だったのか。自分でも驚くほどに自分を客体化出来てしまい、過去の自分を嘲り笑ってしまえた。――死ねばそれまでなのに、どうしてそうも簡単に命を投げ出せるのか。

「簡単なことなのに、悩むことはいっぱいあるよね。軍の関係者って、皆そうなんだよ。ワタシはそれから悩んで悩んで、逃げて、ここで暮らしている内に吹っ切れちゃった」

「どうやって?」

「あれはもう、完全に若気の至りだったんだけどね。朝から次の朝まで、ずーっと起きてたことがあったの。この辺りの地域に完全な冬はないけど、結構涼しくなる時期で、朝晩は冷えたのに、家の外でね。

 そしたら、なんて言うのかな……この世界って、太陽と月が交互に顔を出す、その当たり前が繰り返されて成立してるんだな、って。人間も同じで、朝起きて、夜に寝て。究極的にはこれの繰り返し、それが人生。そう気付いた時、日々を楽しく暮らせればそれで良いかな、って思ったんだよ。自分の大好きな錬金術に没頭して、たまにあなたみたいな女の子と話して……それがワタシの人生」

「…………すごい」

「すごくないよ。錬金術で成功して、錬金術で失敗して、錬金術の基本を思い出して、今度は錬金術で遊んでる。死ぬまでワタシは大釜を煮詰めるしかない、それだけの人間なんだよ。……あ、もちろん錬金術師として、不老不死は目指してるけどね。一応は」

 そう自虐的に締めくくると、パンと一緒に運んで来たコップの中のものを流し込んだ。酒……ではなく、砂糖もジャムも入れない紅茶だ。上品な香りがこれでもかと言うほどに感じられるが、リーディエにとっては少々飲みにくかった。

「私には、それ一本に打ち込めるものがないから。上手な逃げ方も、わからない」

「けど、誰かと一緒に住んでいるのなら、その人に思いっきり甘えれば良いんだよ。自分も安心出来るし、きっと、その甘える相手の心配も少しはマシになるんじゃないかな?後、ワタシならいつでも空いてるんで、甘えに来てくれて良いんだよ?」

「エルは、骨が折れそうなぐらい抱きしめるから、怖い」

「そ、そこまでの馬鹿力じゃないんじゃないかな!?ほらワタシ、辞書より重い物を持ったことがない系の人種だから!」

「うそ。甘え方もよくわからないけど、エルがそう言ってくれるのなら、また来たいと思う。そしたらまた、色々と話して?」

「あ、ありがとっ。やった、これでワタシ達、ほんとに友達だよねっ」

「うん……。エリクはちょっと違うから、エルが初めての私の友達」

 軍に全てを壊された以降では。それに、きっと同じ村の友人などは残らず殺されているのだろう。

 今度はリーディエから握手を求め、それにダニエルはすさまじい速度で反応して握り返した。さすがに最初の時のように激しいものになることはなく、常識的な力の強さで互いの手のひらの感触を感じ合う。

 ダニエルは若干いやらしくはあるが、幸せそうに笑顔を作り、それを見ているリーディエもまた、大笑いには及ばないが……軽く頬の緊張を緩め、控えめな微笑を漏らした。

「あー、可愛いなぁ、もう!決めた、リーディエちゃんは今日からウチの子!引き取っちゃう」

「そ、それは困る。エルが大変だし、あたしも……」

「今の人と一緒の方が良い?」

 小さく首肯。やはりダニエルの手前、全面的にそれを肯定するのも申し訳ない。

「エルも好きだけど、何よりエリクが寂しがりそうだし」

「寂しがるのは、そのエリクさんだけ?」

「……あ、あたしも、ちょっとは寂しい」

「そっかそっか。じゃあ、無理に引き離しちゃ駄目だよね。そもそも、こんな薬臭い家はリーディエちゃんみたいな子には合わないかな。今朝もちょっと硫黄を使った実験をしてたんだけど」

「硫黄?」

「銃なんかに使われている黒色火薬の原料だよ。この家に銃なんかないけど、色々と使いではあるからね」

「だから、か……」

 出会ってすぐ、ダニエルと抱き合った時に彼女が感じた懐かしい臭いは、すなわち火薬の臭い。忌々しくさえある、銃や大砲の硝煙の臭いだった。二ヶ月縁のない生活をしていれば、長年嗅いでいたものもすっかり忘れ去られてしまった。人殺しの武器を象徴する臭気など、忘れてしまった方が健全なのだろうが……。

「嫌なこと、思い出させちゃったかな」

「ううん、気にしてない」

「それなら良いけど、あんまり抱え込んだら駄目だよ?本当に。子ども扱いは嫌かもしれないけど、頼られるためにワタシ達みたいな大人はいるんだから。辛くなったり、なんだか嫌になったりしたら、いつでも言ってね?」

「わかった。もしも限界が来たら、甘えてみようと思う」

「よろしいっ。じゃあ、あんまり引き止めちゃうのも悪いよね。今日はお話してくれありがとう。そこまで送って行くね」

「私の方こそ、あなたに会えてよかった」

 机を支えにゆっくりとダニエルが立ち上がり、そのまま杖を突いて一階への階段に向かう。見送られるのなら、先を歩くべきだっただろうが、あえてリーディエはこの錬金術師の後ろについて歩くことにした。もう慣れているのだろうから、階段を踏み外して転げ落ちるようなことはないだろうが、やはり心配になってしまう。そして、既にダニエルとは他人ではなく、友達という関係になっている以上、そうして彼女が怪我をすることは、リーディエにとって許せない事態になっていた。

「階段、大丈夫?」

「うん。実は寝起きとか、逆に寝る前はたまーにこけちゃうけどね。でもワタシ、案外頑丈だから打ち身を作るぐらいで平気だよ。たまにそのまま気絶しちゃうけど」

「危ない」

「冬なんかだと、そのまま召されそうだよねぇ、確かに」

 いよいよもって、リーディエがダニエルに引き取られるというより、ダニエルの介護をしてあげたくなるような気もして来るが、彼女はこんな感じで上手くやっているのだろう。それに、肉の薄いリーディエに比べれば、色々とクッションになるものがある分、多少は派手に転げ落ちても助かりそうだ。

「なーんか、それっぽく扱われるのって久し振りだなぁ」

「それっぽく?」

「ワタシの知人の間では、ワタシがこの体になった理由も含めて、すっかり周知のことだから。下手に腫れ物触るみたいにしない方が良い、ってことでざっくばらんに接してくれてるんだけど、たまには優しい言葉をかけてもらうのも、大切だよね」

「私、うっとうしい?」

「まさかー。変なこと頼むみたいだけど、リーディエちゃんにはこれからも、過保護なぐらい優しくしてもらいたいかな。そのお返しに、ワタシもリーディエちゃんを思いっきり愛でるってことで!」

「それ、お返しになってる?」

「なってるよー。誰かに大切にされる、そうして人って、安心出来るんじゃないかな?」

「安心」

 簡単にはその言葉を受け入れることが出来ず、山彦のように繰り返す。

 今のリーディエには、間違いなく平穏が与えられている。過去がどうであったかは差し置いて。だが、平穏無事である、それすなわち安心することが出来ている、ということを意味するのだろうか?

 既に彼女は、家族と一緒の平穏が、外的な力によって破壊されることがある、というこの世界の理を知っている。外部の人間に壊されずとも、内部から崩れていく、という例も枚挙に暇がない。エリクが進んで崩壊に加担するとは思えないが、リーディエ自身が知らず知らずの内に、二人の関係を悪化させてしまう、その危険性は潜在的にあるのだと、彼女は自分自身で考えていた。

 更に付け加えるならば、今のリーディエは暇を持て余している状況であり、何か仕事が与えられなければ、心の健康は保たれないかもしれない。ならば、安心しきった状態とは決して言えないだろう。

「そう、誰かに愛してもらえれば、安心って出来るんだよ。どんな絶望の中でも。その逆もまたしかり」

「逆……今の、私?」

「あなたは、ワタシが愛してるよ。それに、エリクさんもきっと、リーディエちゃんが好きで仕方がないんだよ。今はそれにリーディエちゃんが気付けていないだけ。……愛されるのに、資格なんていらないんだよ。誰でも愛されて良いし、愛しても良い。どんな人でも等しく、ね」

「私、そこまで言ってないのに」

 でも、その言葉に救われた気がした。人の中にいながらも、孤独に生きて来たリーディエは、今もなお自分の存在に悩み、“愛される資格”なんてものが自分にはないと考えていたのだろう。ダニエルに資格という言葉を使って表現されるまで、無自覚なものではあったが。

「ごめん、昔のワタシがそうだったから、勝手に予想して言っちゃった」

「謝らなくて良い。正に、そうだった」

「やっぱり似てるね、リーディエちゃんとワタシ。うん、改めて運命の出会いな気がするな。……よっ、と。じゃあ、今度こそありがとう。またいつでも遊びに来てね。一応、簡易の地図を渡しておくから」

「うん。ありがとう」

 本当に軽くペンを走らせただけのものではあるが、決して粗雑な作りではない紙に書かれた地図を受け取り、リーディエは自分の家へと……と思い立ったところで、足が逆を向いた。

「うん?もしかして忘れ物?」

「そ、そうじゃなくて、すっかり忘れてた。私、何か仕事がしたくて、町の中を歩いているんだった。私のことをよく知ってくれたエルになら、安心して聞ける。何か私の出来そうな仕事はない?」

「お、おーっと、そんな大事な用事の途中だったんだ。けど、お仕事、かぁ……。ワタシもそれなりに人脈はあるつもりだけど、リーディエちゃんがするお仕事ね……何か特技とかはある?」

「特技。走れること?後、偵察は出来る」

 斥候時代からの、唯一の取り柄が足の速さ。次に、長くそれを続けたことによって得た偵察、観察の技術。それが町の仕事の役に立つのかは別問題なのだが。

「走る、ね。それなら、心当たりはあるかも。会話も少なくて良い仕事だけど、最低限の挨拶ぐらいはしないといけないよ。それは大丈夫?」

「挨拶ぐらいなら、仕事と割り切ればなんとかなる」

「そっか、なら今度、友達に話を通しておくね。最近、長年務めていたベテランの人が辞めちゃって、一人で仕事をすることになって大変そうなんだよ」

「何の仕事?」

「郵便屋さんだよ。誰かの想いを誰かに伝える、素敵な仕事だと思わない?ワタシも、足が健在で、体力もあったらやってみたい、って思うぐらいロマンティックなお仕事だと思うなー」

「ロマン……」

 この年齢不詳の錬金術師(少なくともエリクより年上ということはなさそうだが)が、ロマンなるものを追い求めて日々を送っていて、どうやらそのロマンを感じる嗅覚とも呼べるものは、常人のそれよりもずっと鋭敏であって、リーディエにしてみれば郵便屋など、ただ機械的に手紙や小包を運搬するだけの仕事だと感じられるが、そう言われてみれば人と人を繋ぐ、かけがえのない職業のように思えて来る。

「もしかして、嫌?」

「ううん……出来ると思う。やってみたいって、思う」

「なら良かった。でも、リーディエちゃんみたいな子が手紙を届けに来たら、それを読むどころの騒ぎじゃないかも。ワタシだったら、延々と引き止めてお話しちゃいそうだもん」

「エルなら、それでも良い。仕事に差し障りの出ない範囲で」

「そ、それは難しいかなー。ワタシ、本当にリーディエちゃんが好きになっちゃったから」

 これだけ想われていて、リーディエも悪い気持ちはしなかった。何より、同性の知人(友人に限らず、身近なところに女性がいる、それだけで珍しく感じられる)が出来るというのが新鮮で、斬新な驚きと安らかな幸福感が訪れる。それも絶え間なく。

 二時間と経っていない、本当に一瞬の間ではあったが、リーディエはこの出会いにある意味でダニエル以上に感謝していた。滅多に自分から話を切り出そうとしない彼女が、今夜エリクが家に帰ったら、真っ先に今日の日の小冒険と、変わり者だが愛に満ちたこの人物の話をしようと考えたほどだ。だが、すぐにその必要もなくなってしまう。

『すみませーん、注文の品を届けに来ましたー』

 温厚そうであると同時に、どこか間の抜けた声がノックの音に続いて家の中へと飛び込んで来た。一枚板を隔てたその声が誰のものか、リーディエにも初めはわからなかったが、間もなく誰であるかは判明する。

「あ、注文をしてた石屋さんかな。ちょっとごめん、先に頼んだ物を受け取るね」

「うん」

「はいはーい、こんな奥まった所にまでありがとうございまーす」

 それなりに年季の入った物なのだろう、木製のドアが軋みながら開き、外の男性と錬金術師の魔法店の間にあった障壁が取り去られる。すると、そこに立っているのは長駆で金髪の青年。リーディエもよく知る“石工”であるエリクだった。

 それにはリーディエも驚愕するが、エリクも思わず言葉を失う。事情を知らないダニエルだけが取り残されたが、すぐにおおよそのことがわかったらしい。

「おおっと、もしかしてお兄さん、エリクさん?」

「あ、ああ……そうだけど、まさか依頼品の配達先でリーディエに会うなんてな……。そこまで広い町じゃないけど、よりにもよってこんな所に」

「こんな所?」

 ぎろり、と鋭い眼光が飛ぶ。

「こ、このような、迷いそうな所に、ほとんど家を出たことのないリーディエが来るなんて思えなかった、と言いたかったんです!」

「それならよろしいです。でも、リーディエちゃんと一緒に暮らしている人が来てくれて良かったよ。ワタシはこんなんだから、わかりやすい通りまで送って行ってあげるのも手間だし、逆に心配されちゃう始末だから。まだ仕事中だと思うけど、とりあえず大通りまででも連れて行ってくれないかな?」

「え、ええ。良いっすよ、全然。と言うか俺としても彼女を一人で行かせるのは不安なんで」

「そこまで私は子どもじゃない……」

 三白眼になって反論するも、二人からしてみればリーディエは十近く歳の若い子ども。いくら言ってみても評価はそう簡単には変わってくれない。そればかりか、下手に大人だと主張すればするほど、子どもっぽいと思われてしまう始末だ。

「えーっと、じゃあこれ、注文の品です。これで間違いありませんか?すごく精巧な下書きだったんで、仕事もしやすかったんですが、もし彫り間違いがあったりしたらいけないので」

「はい、確かに。文字も……うん、間違ってないね。これ、エリクさんが一人で?」

「まあ、そうなりますね。でも、これって石版のレプリカでしょう?俺、こんな仕事は初めてだったもんですから、いい勉強になりましたよ」

「そう、ヘルメスが残したというエメラルド・タブレットのレプリカ。と言っても、実物をワタシが見た訳じゃないから、頭の中に入ってる錬金術の基本をそれっぽくデザインした下書きを渡しただけなんだけどね。『下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし』……相変わらず、痺れる文句だよね!」

「は、はあ。俺にはわからないですけど」

「わからなくとも良い。そう、今は……」

 不敵に笑い、石版をその辺りの壁に立てかける。わざわざ石工に頼んだ物なのだが、別にそれを研究に使うという訳ではなさそうだ。そもそも、彼女の言葉が確かなら、レプリカと言うよりは彼女が石を加工する技術を持たないのでその専門家に頼んだだけの、彼女が考えた彼女のための創作物だ。それに実用性はないと言っても差支えはないだろう。

「代金は先払いしてたよね。それじゃ、どうもありがとうございました。また今度、何か思い付いたらお願いさせてもらうねー」

「はい、ごひいきにお願いします。ところでそれ、何の用途に?」

「用途なんてないよー。ただのインテリアー。だってほら、こういうのがあった方が、錬金術師っぽくない?それに、見ているだけで太古のロマンに想いを馳せられるでしょ!」

「は、はぁ……。リーディエ、こんな人なのか?」

「こんな人」

「なら、仕方ないな」

「仕方ない。でも、いい人」

「それはわかるよ。遊びに全力になれる人だからな」

 エリクとダニエル、二人を比べるとダニエルの方が圧倒的に変人度は高いだろうが、本質的には似た者同士なのかもしれない。悠々自適に暮らすことを愛し、適当そうに見えてもやることはしっかりとやっている。そして、そんな二人だからこそリーディエの世話を焼こうとするのだろうか。常に切羽詰まった面持ちの彼女を。

「では、今度こそリーディエちゃん、またね。エリクさんも、可愛い子を危ない目に遭わせないように!」

「うん。また」

「なんか、すっかり仲良くなったみたいですね。やっぱり男だけだと限界があると思いますから、助かります。じゃ、ひとまずは俺に任せてください」

 

 周囲を巻き込む暴風を巻き起こす、そんな嵐のような錬金術師の家を、元軍人の二人は後にした。

-8ページ-

「ダニエルさんとは、どこで会ったんだ?」

「この辺りで」

「大雑把だなぁ。どうしてまた、こんな……悪い言い方をすれば、ちょっとヤバめな所に」

「考え事をしていたら、ここに来ていた。それに、あんまり危険な所とは思えない」

「いやいや、そうは言っても、この町の中で一番治安は悪い区画だと思うぜ?狭苦しくて、薄暗い裏路地なんて」

「私には、丁度良いかもしれない」

「だから、そういう後ろ向きなこと言うの禁止な。あんまり悲しいことばっかり考えてたら、良いことも見逃しちまうぜ?」

「今日はもう、良いことがあったから。これ以上を望むのは、贅沢」

「禁欲的って言うのか、なんて言うのか……。ま、あんたがそう思うんなら、これ以上俺の考えを押し付けることもしないよ。人間、身の丈に合った、自分らしい生活をするのが一番だからな。毎日をそこそこに楽しんで」

 ロマンを追い求め、毎日を楽しむ考えのダニエルと、身の丈に合った幸せを追求するエリク。やはり、二人の人生観には似通った物があるようだ。そのことに気付き、小さくリーディエは笑みを漏らす。声も出さず、誰にも気付かれずに。

「で、考え事ってのは?」

「えっ」

「いや、言っちゃ悪いけど、あんたが自発的にうんうん唸りながら考えてるのは、珍しいと思って。いつも悩むとしたら、俺が言ったことがきっかけだったろ?」

「…………自分自身で考える余裕が、やっと出来てきた」

「そりゃ良かった。やっと軍の影を振り払えたんだな。――あんなの、早く忘れるに限る」

「多分、完全に忘れることは一生出来ない」

「そうだ、な」

 しかし、実際にその記憶は薄くなって来ていたのだろう。いや、その上から積み重なる思い出がいくつもあるので、隠れて見えなくなっているのかもしれない。四年もの従軍生活は濃密で、たった二ヶ月の自由な生活で覆いつくせるものではないはずなのだが、間違いなくリーディエの心はその緊張を解いて来ていた。それは事実だ。

「で、考え事は?」

「どうしても聞きたいの?」

「まあ、気になるだろ?」

「仕事を、したい」

 殊更、隠そうとしていることではない。エリクが反対することもないと考えていたし、いつまでも仕事を用意してくれない彼への嫌みとしての意図も、いくらかはあった。

「珍しく家の外に出てたのは、それが理由か。……いや、本当にごめんな。単純にするべきことが多かったし、あのダニエルさんみたいな、ちょっと変わった職種の人が仕事を頼むことも多くてな。あんまりリーディエの仕事探しに役立ちそうな人と会わなかったんだ」

「でも、エルは郵便屋の友達に話を通してくれるって」

「郵便屋?そうか、すっかり忘れてたな。なるほど、それなら斥候からの転職に良いか」

「そう、私も思う」

 しばらく歩くと薄暗い路地を抜け、再び華やかな大通りがその姿を現す。そこかしこから呼び込みの声や、賑やかな喋り声が聞こえて来る。これが、当たり前の町の風景。しかし、リーディエはこの騒がしい人の群れが苦手だった。それは多分、村にいた頃から変わらないのだろう。話をするのは嫌いではないが、どうせ話すなら外より、家の中で落ち着いて、の方が良い。

「さて、じゃあ俺はもう良いな?今日はちょっと仕事も少ないから、早く帰れると思うけど」

「わかった。ちょっと早めにご飯の準備もしておく」

「いや、今日は俺が作るよ。家事は二人で分担するって決めてたからな」

「けど疲れてるなら、無理はしなくて良い」

「気なんか遣わなくてもいいんだって。休みたい時には休むから、たまには俺にも、リーディエに手料理を振舞わせてくれよ?」

「エリクは普通に料理が上手いから、自信を失くす」

「はは、じゃあ、そっから技術を盗んでもらわないとな」

「頑張ってみる」

 頭をくしゃり、と撫でてエリクは大通りをゆっくりと歩んでいく。工房は大通りを抜けた先にある職人街にあり、結構な距離があるはずだ。

「郵便屋になったら、この町を走り回る……」

 頭を動かすよりも、足を動かした方が気持ちの良いリーディエにとってそれは、実に魅力的な話だった。

説明
「日常」を描き始めた二章。この日常というのは作品通してのテーマの一つですが、この章から肉体的なハンディキャップという、繊細な話題にも言及することとなっています
「ライト」じゃないなぁ、と思うのですが、それと平行して血みどろの闘争を演じさせる訳じゃないので、その辺りバランスは良いかなぁ、と思っていたり
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