最速の伝え人 四章
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四章 橙。孤独の果て。意志を持つ人に捧ぐもの

 

 

 

「今日はね、アンズのジャムが手に入ったんだー。これ、リーディエちゃんにもお裾分けー」

「ありがとう。初めて食べるな……アンズって」

「ちょっとすっぱいけど、すっごく美味しいんだよー。朝の配達の後のごはんにでも、パンに塗って食べてね」

「うん。何から何までありがとう。エルは優しくて、大好き」

「は、はうっ!その笑顔は反則レベルだよー。おねーさん、本気にしてリーディエちゃんを食べちゃうぞー?」

「いいよ。食べても」

 困ったような、はにかんだ笑み。美少女と触れ合うことを至上の喜びとするダニエルでなくても、可愛らしいと思うのを通り越して、変な感情を抱くような表情だ。

 ――仕事を始めて一週間。まもなく、リーディエ達がこの町に来て二ヶ月が経過する。

 この頃になってリーディエは、まだ少し言葉がたどたどしいところはあるが、おおよそ一般的な十五歳の少女と同じように笑い、照れ、時には怒って、エリクやダニエルといった親しい相手だけではなく、町の多くの人々の心を和ませていた。

 彼女の笑顔は、決して大輪のヒマワリのように眩しくはなく、ピンクのダリアの花のような派手さもない。それでも、その微笑みはささやかだからこそ、人の心に届くのかもしれない。

「じゃ、じゃあ!これ、同意の上で、だからね?ワタシ、変態じゃないからね?よーし、がばーっ」

「んぅ……きつい」

 まさか本当に人間が同種を捕食出来るはずもないので、その代わりとしてダニエルは小さな少女の体を強く抱きしめる。肉付きの薄い少女に比べると圧倒的なほどに豊満な体を押し付け、リーディエはその勢いで跳ね飛ばされてしまいそうだ。

 だが、今日のダニエルのローブは薬品の臭いではなく、甘酸っぱいアンズの香りでいっぱいで、胸に顔を埋めさせられていても、嫌ではない。強く抱くと言っても、さすがに背骨をへし折りにくるような強さではないのだし。

「フォンスのことだから、どうせ職場だと大してリーディエちゃんのこと褒めてないと思うけど、ワタシにはすごく色々と話してくれるんだよ。想像よりずっとよく働いてくれて、町の人からの評判もよくて、すごく助かってるって」

「そんなに?」

「このままじゃ、自分が手紙を届ける時、リーディエちゃんを出せーってブーイングされそうだと心配になるぐらい、とかも言ってるよ。すっかりこの町のアイドルだね」

「エルのお陰。眼帯のままじゃ、ここまで受け入れてもらえなかったかもしれない」

「そうかな……。じゃあ、今日はその報酬ってことで、リーディエちゃんに体で払ってもらおうー!おー!」

「うひゃぁっ、くすぐったい……」

 わざと笑わせるために脇腹に手をやり、逃げられないように足を絡め……お互い座っているというのに、すさまじい体の密着具合だ。このままベッドの上に行った方が自然に見える。

「と、ところで、エルはどうしてフォンスと知り合いになったの?彼氏?」

「えぇっ!?ワ、ワタシが撒いた種とはいえ、結構ドキドキするなぁ、リーディエちゃんと話すの。――えっとね、フォンスは彼氏でもなんでもなく、前に面倒を見てあげて、それから親しくなったの。具体的には、解毒だね。あの人、ああ見えて食いしん坊で、変なキノコを食べちゃったんだよ」

「食いしん坊?……羨ましい」

 少食なリーディエにしてみれば、たくさん食べ物を胃に収められる人間というのは、ただそれだけで尊敬や羨望の対象になる、だからこその言葉だったのだが、ダニエルはもっと一般的な理解の仕方をしたようだ。

「いやいやいや、リーディエちゃんが羨ましがったら駄目でしょ!そんなの言ったらワタシなんて、全然歩かないせいでぶくぶくブクブク太って、このままだと家の床が抜けそうなんだから!!」

「太る……」

 恨めしがるようにダニエルはか細いリーディエの腕を掴み、深刻な顔で吠えるが、そう言われてリーディエもまた彼女の方で悩みを感じる。

 あまりに人々が言うものだから、自分の器量が良いのは自覚させられてしまっている。が、体の方はどうかと言えば、完全に幼児体型。栄養不足等で成長期が遅れていると考えても、十五歳でこの肉付きでは、生涯豊満な肉体とは縁遠いようにすら思えてしまう。

 リーディエは自分の取り得を足だと考え、全力で駆けるのが何より好きだ。自然の風を感じ、木々の匂いを鼻に集めながら疾走し、手紙を。誰かの想いを誰かに伝える。それを喜びとしている。いたずらに空気の抵抗を増やしてしまう脂肪など、彼女の仕事に邪魔なだけだ。だが、だが――エリクの好みが肉付きの良い女性だというのは、話していく内に理解している。そもそも、胸もお金と同じように、ないよりはある方が良い。

 なれば、四肢も胴も全てが細い少女が太りたい、と考えるのもまた自然の欲求なのかもしれない。不思議といくら食べても、体型には出てくれない体質らしいのだが。

「リーディエちゃん」

「うん」

「ワタシは真剣に痩せようと思ってないから良いけど、リアルなダイエット戦士に太りたい、なんて言ったら絶対駄目だからね」

「でもあたし、もう少し……」

「これは、リーディエちゃんの生存のために言ってることだからね!?老婆心で!」

「老婆?」

「ワタシはピチピチです!老婆心っていうのは、お節介を焼く時にへりくだって言う時に使うんだよ」

「知らなかった」

 十五歳の少女が覚えるべき言葉はまだまだたくさんあり、時にはすれ違いもある。その度にエリクより知識量において圧倒的に勝るダニエルが教えてくれるのだが、どうも本来獲得すべきではない語彙まで与えられているらしい。それがリーディエと十も年の離れた青年には、堪えることもあるようだ。

 それ等の言葉の正しい使い方も習っていきたいところである。コミュニケーションの場は以前より圧倒的に増え、徐々にだがリーディエの方からも人に話しかけるようになって来たのだから。

「で、でね。話の大筋は言わずもがな、ってところあると思うんだけど、ワタシって職業柄色々な毒物も扱っているし、丁度その種のキノコの解毒に何が効くかもわかってたの。材料の持ち合わせもあったから治療してあげたら、それから色々な物をくれるようになって、最初は弟分みたいな感じだったけど今はすっかり良い友達だね」

「貢がせてたの?」

「……有り体に言えば、そうかも。だってほら!プレゼントをもらえれば、誰だって嬉しいじゃない」

「うん。あたしも、エリクからもらえるの、楽しみにしてる」

「ふふっ、そうだね。これだけ待たせてるんだから、きっと素敵なのだよ。で、ワタシからもこれ、プレゼントでーす」

「エルからはもう、もらった」

「義眼はアレ、別だよ。きちんと代金も請求させてもらうし。ささやかだけど、きっとリーディエちゃんに似合うよ」

 取り出された小さな小箱は、白い包み紙に赤いリボンと、これ以上がないほどわかりやすいプレゼントの容姿をしている。可愛らしいちょうちょ結びをされたリボンは解かれるために待っているようだ。

「ありがとう」

「いえいえー。早速開けてみて良いよー」

「うん」

 一方を引っ張ると、用意にリボンは抜け落ち、包みを開けることを阻害するものはなくなる。丁寧に紙をはがし、小箱を開ける。そこには、プレゼントの包みを飾り付けていたそれとは比べ物にならないほど煌びやかで、同時に落ち着いた雰囲気も持つリボンが収まっていた。その色は黒。更に白いレースで縁どられている。間違いなくリーディエのためだけに用意された物のカラーリングだ。

「これ、高いんじゃない?」

「感想は二の次に、買った本人に値段の話をされますかな」

「あっ、ごめんなさい。すごく奇麗だけどこれ、高いと思う」

「値段から離れてくれても、良いんだよ……。えーと、まあ、安物かそうじゃないかで言えば、間違いなく後者に分類されるかな。だけどワタシ、大好きな人への出費は気にしないし、色々とあってお金にも苦労はしない生活をさせてもらってるから。そんなことの心配より、今度からそれでしっぽ、結ってもらいたいな」

「うん……。ありがとう」

 今までトレードマークとも言えるポニーテール(家の中では下ろしていることもあるのだが)を結っていたのは他でもない、軍人時代から使っていたリボンだ。いや、あるいはそれは、村で平穏な生活を送っていた頃から使用していたのかもしれない。更に付け加えるなら、くしくもそのリボンの色は今の義眼と同じ緑色だった。

 それを使うことをやめ、新たな友人からもらったプレゼントのリボンを使う。いよいよ軍の物は一切リーディエの生活から消えて、過去との決別を果たす。その儀式が、今の彼女には必要なのかもしれない。

 暗い闇は取り払い、新たな白い光を取り入れる。そのために使われるのが黒い制服やリボンだと言うのは皮肉なところだが、事実として彼女の白髪によく似合うのだから仕方がなかった。

「エルは、すごくセンスがあると思う。本人におしゃれっ気はないけど」

「うふふー。能ある鷹は爪を隠す、ですよ。逆にこう、今のワタシがリボンとかで飾り立てていたら、ミステリアスでマッドな魔女のテイストが出ないでしょ?悪魔と契約した者はプラトニックに清貧に、真理を求めるものなのだよ」

「女の子を求める時点で、それって禁欲的?」

「あくまでそういう設定だから良いんだよー。ただし伝統に則り、猫は飼う!」

「……ジャンは、連れて来ないでね」

 病的なほどの猫嫌いであるリーディエがいる間、黒い毛並みを持つダニエルが愛猫、ジャン君は地下室で大人しくしてもらっている。寝床でくつろいでいる今、自分の意思で一階に上がって来るようなことはないだろう。多くの飼い猫がそうであるように、ジャンもまた物臭であり、何か興味をそそられるような物は既にこの家の中にはない。ジャン以外の生きた生物は――ネズミ一匹でさえ――全てダニエルがなんらかの薬で追い払ってしまっているからだ。

「うーむ、リーディエちゃんも何か動物を飼えば良いと思うんだけどなー。そしたら、ペットトークが出来て、更に楽しいと思うんだ」

「動物はお金がかかるし……」

「共働きだし、なんとかなると思うよー?それに、何も大きな動物を飼わなくても良いんだよ。トカゲとかチョウとか――あ、花でも良いかも。ガーデニング!深窓の令嬢っぽいよ!」

「深窓の令嬢じゃないし……」

「いやいやいや、お姉さん。お姉さんほどお美しいお方であれば、ちょっと良いお召し物を着て、ジョウロでお花に水をやる、それだけで絵になりまさぁ。豪商の一人息子や通りがかりの貴族のお坊ちゃんも、立ち止まらずにはいられませんぜ」

「何キャラなの……」

 しかし、ダニエルの趣味である爬虫類や昆虫類を飼う気にはなれないが、花ならば少し心が惹かれる所がリーディエにはあった。それならば手間はかからないから仕事をしながらでも世話が出来るし、身近な所に華やかな彩りがある生活、というのも悪くはない。そんなに立派な花壇でなくとも、小さな鉢植えに好みの花を植え、それを愛でるだけで出来てしまえることだ。

 赤い花、青い花、ピンクの花、黄色の花、オレンジの花、白い花、黒い花……色々とあるが、さすがにそろそろ無彩色は卒業したい。一度色を失くした生活に、もう一度色が蘇って来たことを象徴するように、黄色の花など良い、と思った。この白い髪はかつて、エリクとそう変わらない金色をしていたのだから。それを取り戻そうとするように。またあるいは、もう戻らないそれを自分自身の代わりに花の色でもって補うように。

「……わかった。ちょっと考えてみる」

「おー、良いねー。ところでワタシ、ちょっと珍しい食虫植物を取り扱ってる商人にツテがあるんだよー。どうかな?こう、ハエとかをぱくーって食べちゃう可愛いコなんだけど!」

「却下で」

「うわーん」

 ダニエルの退廃的と言うか、およそ少女趣味という感覚に逆行する好みは一蹴し、本日の会合は終わった。いつまでだって語り続けることは出来そうだが、既に昼は回り、時計を見れば二時が近い。あまりにお喋りに熱中していては四時などあっという間だ。

「じゃあ、今日はこれぐらいで」

「うん!またいつでも遊びに来てねー」

「ここは、あたしのもう一つの家みたいな感じだから。――いってきます」

「ひゃあ。嬉しいなぁ、もう!いってらっしゃい、頑張ってね!」

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「お疲れ様です」

 そろそろ体が完全に覚えた仕事場への道。もう目隠しをしたって進めるであろうその道をリーディエは、早速ダニエルにもらったリボンを付けて歩いた。もう彼女の名前や顔は町中に広く知られているので、どことなくいつも以上に熱の入った目で見られている気がする。誰もがリボンを変えたことに気付いているのだろうか。もしくはそこまでは気付かなくても、雰囲気が違うことは感じているのかもしれない。

 プレゼントのリボンで髪を結ったリーディエは、間違いなくいつもより明るい笑顔だったのだから。

「うん、今日も十分前行動でさすがだね。……おっ、もしかして。ちょっと後ろを向いてもらって良いかな?」

「はい!」

 元気いっぱいの声。以前なら、中々こんな返事は出来なかった。だが一週間というのは、人を変えるのにここまで作用する時間なのだろう。二十四時間のサイクルが七回もあると考えれば、それも納得出来る膨大な時間なのだと気付く。

「おー、可愛いね。もしかしなくても、エルさんからもらったの?」

「わかったんだ」

「そんな感じの趣味だなー、って思ってね。昔は彼女、今よりずっと派手なドレスまがいの衣装を着ていたりしたんだ。やたらとレースやフリルを使われていて、王侯貴族のお召し物にしてもごてごてし過ぎているぐらいで……。よくあれで錬金術が出来るな、と不思議だったぐらいだよ」

「そうだったんだ……。ふ、ふふっ」

「笑っちゃうだろ?そんな姿で大釜をかき混ぜて、そうかと思えば黒猫と遊んでいるんだ。当時は今のジャンじゃなく、でぶっちょのお爺さんでね。子どもと大人が一つの体の中に住んでいるみたいな人なんだよなぁ」

 フォンス先輩とリーディエの印象はぴったりと同じだった。見た目には年もわからない、話してみても若々しいのか老獪なのかわからない。ものすごく頭が良くも思えるのに、時々驚くほど抜けていて、支離滅裂に見えて理路整然としていて……。

 結局、不思議な人という言葉でまとめることになってしまう。そんな曖昧なくくり方をしては、「では、普通の人とは?」という誰一人として答えられないような問題が立ち上がって来てしまうと言うのに。

「えーと、はい。今日の分の配達ね」

「いってきます」

「うん、僕もすぐに出るよ。――あ、それから時に、リーディエちゃん」

「はい?」

「プレゼントをもらうってことは、もしかしてそろそろ誕生日だったりする?」

「はっきりとは覚えていないけど、これぐらいの季節に」

「お、おお。じゃあ、僕も何か用意するよ。明日の仕事終わりには、絶対ここに戻って来てね」

「そんな。フォンスにはいつも親切にしてもらっているから良いのに」

「おっと、ではリーディエくん。君はエルさんのお世話に全くなってないのかな?」

「…………ずるい」

「大人だからねぇ。じゃあ、そういうことで!」

 さっさと準備を終え、逃げるように出て行ってしまう。それを追いかけるようにリーディエも外に出たが、やはり俊足である先輩の姿を見つけることは出来なかった。

 色々とプレゼントをもらえてしまうというのは、彼女にとって恐縮の限りなのだが、ならばせめて仕事に精を出すことで恩返しをしようと石畳の町を駆ける。夏は深まり、陽は長く、夕方も蒸し暑い。それなりに通気性の良い黒マフラーを巻くことに抵抗はないが――そう言えば、マフラーだ。この黒く長い防寒具だけは、今も手元にある過去の記憶。暗い影。それなのに、これを手放すことだけには強い反抗の意志が働いた。その理由を客観的に解釈しようとすれば、思いつく言葉は執着。いや、愛着。

 なんだかんだで、これだけはもう完全に布地が裂け、役に立たなくなるまで付けているような気がしている。

 白い髪が風になびき、黒いマフラーがひるがえる。絡み合うような二つの彩りのない色は、仕事が板に付いて来た人気の新人郵便屋の後ろを永遠とつきまとう。長い髪はもう必要とされなくなったのだから、少しぐらい短くしても良いのだが、逆にここまで来ると無限に伸ばしてみたい衝動すらあった。手入れがものすごく大変で、既に当たり前となったそれは人に褒められることも少ないのだが……短いよりは長い方が髪形も色々と選べるのだから、切らないでおいて良いだろう。

 南国の木々が生い茂る通り。職人通りに続く道はあえて人の手がそこまで入れられず、自然のままが残されている。そんなものだから、この季節になると甘い果実の匂いが充満し、空きっ腹にも大きな腹にも堪えるという始末だ。今のリーディエはどちらかと言えば前者。バナナにザクロに、イチジクに似た甘い果実に……むせ返るような甘い香りが襲いかかる。もっと南下すれば、こんな匂いが常にあるのだろう。さすがにそこでは暮らせそうにない。

 かなり無理をしてそこを通過すると、よく見知った老夫婦の家があり、今日も今日とて手紙を届ける。息子夫婦からの手紙らしく、リーディエが仕事をするようになってからでも三通目だ。すぐ近くの町にいるにしても、これだけ頻繁に来ているとはかなりマメな性格で、受け取る方としては嬉しいことだろう。

「お爺さん。お手紙です」

「リーディエちゃん、いつもありがとうよ」

「いえ。それでは」

「ゆっくりして行ってもらいたいけど、仕事だからしょうがないねぇ。じゃあ気を付けて」

 主に若者から中年の男性に受けの良いリーディエだが、もちろん老人や女性からもよく愛でられている。つまるところ、誰からも好かれている。それは容姿だけではなく、最近になってやっと人当たりがよくなったのだがその人柄もそうだった。

 決して饒舌ではなく、経験の少なさから失礼なことを言うことも多々あるが、それに気付けばきちんと謝るし、敬語は上手く使えなくても礼節はわきまえている。エリクが“ウサギ”と表現した小動物的な可愛らしさもあるし、逆に愛されないはずがないのだろう。

 そんな訳で、行く先々でリーディエは深く深く感謝され、彼女もまたそれに笑顔で応えた。あのヒナゲシのようにささいで純朴な微笑で。

 甘過ぎる匂いの通りを逆走し、次は北へ。今日は教会へも届けるべき手紙があり、私用ではそこに行かない彼女にとって教会の建物の中に入るのは、二回目のことだ。一回目もやはり配達で、その時は壮年の神父にやはり可愛がってもらえた。

「お手紙です」

 教会の扉は誰に対しても開かれているので、声をかけながら礼拝堂へと入る。すると、以前に会った年齢の割には深い皺を顔に刻んだ神父留守であり、エリクより少し若いぐらいの修道女が待っていた。

「これはこれは。新しい郵便屋の方ですね?」

「はい。いつもの神父様は――いらっしゃらないようですね」

「ええ、少し病気になってしまって。毎日私がお祈りしていますので、じきに良くなると思うのですが……」

「では、リーディエも……えっと、元気になって欲しいです、と言っていたと伝えていただけますか?」

「わかりました。ありがとうございます。リーディエさんと仰られるのですね」

「は、はい。では、あたしはこれぐらいで……」

 いつもよりも緊張してしまったのは、この優しげなシスターがなんとも美しかったからだ。どこか鏡を見ているかのようで……そう、彼女はこの地方には珍しい見事な金髪の持ち主だった。何も金髪の人間全てがリーディエと同郷な訳ではないだろうが、やはり意識してしまうところだ。

「どうもありがとうございました。お気を付けて」

 故郷から来たかもしれない人を見て、郷土に想いを馳せるだなんて、自分らしくもない。

 そう、ふとよぎった気持ちを捨て去り、マフラーをなびかせて夜が近付く町をまた駆けた。陽が落ちると、ほぼ全身黒づくめの郵便屋の姿は見えづらくなるのだが、リーディエに限ってはその髪が闇の中でも目に付く。斥候として働いてみると、それをどう隠すかが課題になったりもしたのだが、町中では多少目立った方が驚かれなくて済む。

 残る十数軒を回り、局に戻って仕事終わりの挨拶。最近はリーディエの方が早かったりもするのだが、今日は負けてしまった。足の速さではリーディエが勝っているようではあるが、やはり仕事の速さでは先輩の方が勝っているのだろう。

「お疲れ様、リーディエちゃん」

「うん、フォンスもお疲れ様です。……そう言えば、教会の神父さんが病気って」

「へぇ……あの人は、体が丈夫って評判なんだけどな。何か悪い病気じゃなければ良いんだけど」

「きちんと診察を受けるのを奨めるべき?」

「うーん、どうだろう。教会の人という立場上、あんまり騒ぎ立てるのも本人達としては本意じゃないから、黙っているんだろうね。長く続くようならで良いんじゃないかな。具体的には、一週間ぐらい様子を見て」

「わかった。また配達で行くことがあれば、訊いてみる」

「そうだね。僕の当番になったら、君が神父さんの話を聞いたという旨を伝えて、色々と教えてもらうよ。実は僕、エルさんとちょっとした仲なだけあって、簡単な診察なら出来るんだよ」

「……意外」

「はは、もちろん、エルさんや本業の医者には遠く及ばないけどね、素人よりはマシってことだよ。だから、僕がちょっと診てあげるのも良いかもしれないね」

 

 結果として三日後、件の神父は何事もなく復帰することとなる。あえて病名を付けるのであれば――腹痛。ただの食べ過ぎによる腹下しだった。中年神父の恰幅がいいことからも頷ける。

 その日、手紙を届けに来たフォンスが呆れ半分、怒り半分で溜め息をついたのは言うまでもない。

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「リーディエ。プレゼント、受け取ってもらえるか?」

 更に一週間が経ち、生活がほぼ完全なる安定を見せた頃、仕事と食事を終えてくつろぐリーディエに声がかけられた。

 その髪にはダニエルの贈り物である黒のレース付きリボン。首にはフォンスが用意してくれた青いリボンタイがある。現状、彼女がもらって来たプレゼントはどれも装飾品だ。そして、エリクが買ってくれたそれは既にわかっている。

「うん。服、だったよね」

「色々と迷ったんだけど、やっぱりリーディエにはシンプルな服こそが似合うかな、と思って。どうだ?」

 手渡された大きな包みを解くと、その中には一着の白のブラウス、薄オレンジ色の袖なしジャケット。そして、上着と同色の膝丈のスカートがその姿を現す。どう考えてもそれなりに値が張りそうな一式だ。

「すごい……こんなに」

「おまえにプレゼントを買うって言ったら、親っさんもかなり無理して、イロ付けて給料をくれたんだよ。だから正しくは俺と親っさんからのプレゼント、だな。気に入ってくれたか?」

「うん。すごくあたたかそう」

 無彩色、あるいは寒々とした色で固められていたリーディエの衣装の中では珍しい、オレンジという暖色を用いた服は視覚的に暖かく、もちろんまた、エリクの気持ちが着る前からリーディエの心を温めてくれる。

 義兄妹でもないし、まして親子ではなく、もちろん恋人同士でもない二人だが、その絆と互いを想う気持ちは間違いなく本物だ。その証明となるものが、これ以上がないほどに安らいだリーディエの表情だろう。彼女はありがとうの言葉の一つもないが、言葉を用いなくてもその感謝の気持ちは既に青年へと伝わっている。

「着てみて良い?」

「もちろん。と言うか、頼む」

「着替える間は、ちゃんと後ろを向いててね。いくらエリクでも、それは駄目」

「あのなぁ……」

「エリクは女の人のことに関して、ほとんど信頼がない」

「うっ。だから俺は……」

「男は皆、狼だから」

 順調にダニエルからは新たな語彙を獲得し続けている。それによって、にわかに彼女が毒舌少女として幅を利かせつつあるのだが、それもまた愛嬌の内だろう。主に相手は男性限定、それも極親しい人物のみなのだし。

「ん……着れた」

「じゃあ、振り向いて良いか?」

「一切の望みを捨てた上で」

「怖いこと言うな……。よし、最期にリーディエの裸を見れるのなら、それで本望だ!」

 残念ながら毒づいてきた白髪少女は一糸まとわぬ姿などではなく、今もらった衣装をそのまま身に着けている。純白のブラウスの胸に締められたリボンタイは、良いアクセントとなっており、それぞれ違う人物の選んだ物だというのに相性抜群だ。わずかばかりだが袖にはフリルがあしらわれており、どことなく気品も漂わせていて、同時に清楚な印象を与える。

 上着は自己主張をし過ぎない色なため、これもまたリーディエの全体的に儚く大人しいイメージと合っている。年相応の幼さも感じられて、無理をしておしゃれをしているような違和感はなく、見事に着こなせていた。

 スカートについても、上着と同じ色なのだから落ち着いた雰囲気は崩さず、ややタイトながらも裾から短く入れられたスリットが、多少の大人っぽさと何よりも機能性を確保している。郵便配達は制服で行うので、私服にまで機能性は追い求めなくても良いような気もするのだが、これには若干のエリクの希望がある。すなわち――。

「生足が見える!」

「蹴り殺します」

「じょ、冗談だよ。そんなちょっとした切り込みぐらいで、足は見えないだろ」

 そこまで短いスカートではないので、見えるとしても膝上が少しめくれる程度だ。それ以上の露出は全く期待出来ない。……そのわずかな地肌がまた良い、ともエリクは考えているのだが、

「うん、やっぱりよく似合うな。さすがに一緒に暮らしていたら、どんな服が似合いそうかな、とかもわかるもんだ」

「あたしは全然わからないのに、エリクはすごい」

「そりゃあほら、俺はいつもリーディエを気にかけてるから」

「……ありがとう」

 この言葉は冗談でも、言い訳でもなく、彼の本心だ。自分やエリクの見た目については何も言えないリーディエだが、エリクが言っていることの真偽はわかる。戦場を逃げ出したあの日から変わらない、優しい青年の目で話すことが嘘であるはずがない。

「けど、冷静に考えたらあんまり着る機会がないよな。その服」

「着る回数が少なければ、それだけ長持ちする。……エリクからもらった初めての服だから、大事にしたい」

「は、はは。可愛いこと言ってくれるなぁ。大好きだぜ、リーディエ」

「その言い方はチャラい」

「結構本気で言ったんだぞ!?俺!」

「冗談」

「こいつめぇ!」

 拳を振り上げ、髪を撫でるように優しく振り下ろす。それから拳を解いて、思い切り頭を撫でてやった。

「う、んっ……、頭が乱れちゃう」

「後で俺が梳いてやるから、ぐしゃぐしゃにさせやがれぇ」

「ん、ふぁぁ……」

「誕生日おめでとう、リーディエ。おまえが生まれて来てくれて、すっごい嬉しいぜ」

「……あたしも、生まれて来て、エリクに会えてよかった」

「おまっ、俺が必死で恥ずかしいのを堪えて言った台詞を……」

「あたしだって、すっごく照れくさいよ……。でも、伝えたかったから」

 いつからか頭を撫でるのは終わりになり、二人は優しく互いの腕を互いの背中に回していた。……と言っても、リーディエの短い腕がエリクの広い背中を全てカバー出来るはずもなく、かなり不格好な姿勢だ。

「ははっ、木にしがみついてるセミみたいだ」

「そのたとえは、女の子に失礼」

 エリクの言葉通りに変な形で抱き合い、二人きりの誕生日パーティーは締めくくられた。ささやかだが、どれだけお金をかけたそれよりも温かなひと時が。

 

 ――願わくはこの時を永遠に。

 決して叶わぬ願いと共に。

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「フォンス。これ、届けられなかった」

 その翌日の出来事だ。初めてリーディエが手紙を届けることになったエリアスという三十代の男性の家を訪れたところ、地図にその名前はない。他の配達先の住人に尋ねたところ、その男性が正にリーディエ達が今住んでいる家を空き家にした張本人だと言うのだ。

 どこに引っ越したのかなどは不明。近所付き合いのある好人物だったのだが、蒸発するように消えてしまったという話だった。

「うーん、どこに行ったのかがわからない、となるとこれはもうどうしようもないね。申し訳ないけど、廃棄させてもらうしか……」

「廃棄……」

 手紙が届くべき相手の下へと届かず、焼かれてしまう。誰かの想いが誰かに伝わらず、途絶えてしまう。

 郵便に携わる者として、そして、人の善意のお陰でここまでまともな生活を営めるようになったリーディエにとってそれは、決して許されざる悪行のように感じられた。その後は、体と口とが勝手に動いてしまう。何の考えもない、反射のようなものだ。

「リーディエちゃん?」

「まだ、諦めるのは早いと思う。明日の夕方、あたしが配達する家の人にも訊いてみれば、どこに行ったのかわかるかもしれない」

「だけどそれで、見つからなければ?」

「その次の日も、そのまた次の日も……町中の人に訊いて、それから考える」

「……時間の無駄になるだろう、と言うのは無粋だよね。それに、止めても僕の目を盗んでやりそうなのは予想が付くから、あえて何も言うことはしないよ。ただし、それにかまけて配達を疎かにするようなら、僕は先輩として注意させてもらうからね」

「うん。仕事は完璧にこなす。たとえそれが、“困難な配達”でも」

 行き場を失くした手紙を自分の鞄の内ポケットに入れ、リーディエは決意を秘めた目で先輩配達人の目を見た。心に何か後ろめたいものを持っていれば、思わずぞくりとしてしまうほどに澄んだ、揺るぎない目だった。

「本当にこの仕事は、君の天職なのかもしれないな。誇りがあり、責任感があり、若さもある。そんな君には、ずっとこの仕事を続けて欲しいよ」

「フォンスにもあるでしょ?」

「若さ以外は、人並み以上にはね。だけど、僕は今までこういった手紙が出ても、精々二日ぐらいしか世話を焼かなかった。それほどには若さと、それと一緒にあるはずの熱意が足りないんだよ」

「だけど、あたしのことは止めないでおいてくれる」

「賭けてみたいんだよ。僕には出来なかったことでも、君は意志を持ってそれに挑もうとしている。揺るぎない決意さえあれば、あるいは……ってね。わかっているとは思うけど、今現在、この国の郵便制度は未熟なんだ。行商人に頼んだりしていた昔からの進歩は、ほとんどないと言っても良い。それを進歩させるのは、君のような若い力なのかもしれないね。若くて熱意溢れる職員が、ある種の執念を持って仕事に従事する。そうすれば――」

「一人では限界があるから、フォンスにも手伝って欲しいんだけど」

「もちろん、僕も老体に鞭を打って頑張らせてもらうよ。でも、僕がついて行けるのはある程度のところまでさ。そこからはもう、足手まといになるしかない。また、君に不平不満を垂らすだけの存在にしかなれない。僕は決して広い世界を知らないけど、閉じた世界のことは知り過ぎてしまっているから」

 こんな郵便物が生まれるのは、決して珍しいことではない。それにいちいちかまけていては、仕事が出来なくなってしまう。だから、どうしてもこういった厄介物は排除されてしまうのだろう。少し社会というものを知っていれば、このことには気付ける。リーディエも、さすがにそこまで世間知らずのおめでた者ではない。むしろ弱者として、人の世界にも弱肉強食の食物連鎖が適用されることを知っていた。

 だが、だからこそ見えるもの、思うことがある。

 人の命など、明日にも消えるかもしれず、この手紙を出した人間も、受け取るべき人間も、これが最後の手紙になるのかもしれないのだ。そう考えると、この場所で朽ちさせてはならない。たとえこれが、昨日食べた果実が甘かっただの、渋かっただのと書かれた、取り留めもない手紙であったとしても。

「じゃあ、お疲れ様でした」

「うん、お疲れ様。また明日」

 見送る小さな背中は、いつも以上に大きく青年郵便屋の目に映った。まるで遠征に向かう中世の騎士のように。

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 それから一週間の捜索。成果は上がらず、いよいよフォンスの目にも、そしてリーディエ自身にとっても、雲を掴むか、虹の橋を渡るかのような無謀な挑戦をしているのだということが明らかになって来る。が、それで諦めるのであれば、初めからあれだけの啖呵は切っていない。リーディエの情熱は本物であって、それは自身の仕事の完遂のためならば、殉じることも名誉とするような気持ちだった。――今度は、あの狂った戒律の存在する軍隊ではなく、普通の、戦士から見れば弱者でしかない民衆のための仕事において。

 ひとまず万策尽きた後、やはり年長者に頼るしかない、とリーディエは事の一切をエリクに話した。彼のことだから、意外な妙案があるかもしれない。それを期待してのことだし、やはり一番頼れる人物は彼に他ならない。

 頭を捻った後、金髪の青年は気さくに呟いた。

「リーディエ。この家が空き家になったのって、どれぐらい前だと思う?」

「え?えーと……ここに来てもう二ヶ月になるから、少なくともそれ以前。引越しを知らない相手から前の持ち主に手紙が来るということは、一年も前ではないと思う」

「そう、おまえの集めた情報だと、いつの間にかにふらりと消えた、って言われてるけど、俺はまあ二ヶ月から三ヶ月ぐらい前だと見る。なんでって訊かれたら、この家の状態がかなり良かったからだ。埃で結構汚れてはいたけど、家具とかは全然古びてないし、生活感も残っていたからな」

 この辺りは、さすがは職人に名を連ねる者だ。家具の状態から、その使われた形跡を見るような力が、軍隊にいたというブランクがあったとしても衰えていない。既に中々に評判になっている彼だが、才能は事実として非凡のものなのだろう。

「で、それから何がわかるの?」

「なに、簡単な推理だよ。今まで自分の家を持ってそこで暮らしていた人間が、そう何ヶ月も旅の空でやって行けるはずもないんだ。事実として、野宿が普通だった軍人を結構やってた俺達でも、あのひと月の旅は楽じゃなかっただろ?」

「確かに……基本的に歩いてだったし、エリクは相当へばってた」

「そ、そういうのは良いんだよ。で、だ。そうなると、相手はこの町を出て放浪の旅に出たんじゃなく、単純に他の町に向かったんだろ。ひと月、ないしは二月で行ける範囲にある町にな。後は、その範囲を郵便屋の情報網を使って、このエリアスって名前を探す。そんで、見つかったら万々歳、その町に手紙を転送すれば仕事は終わりだ」

「……そんなに、簡単に?」

「折角でかい郵便屋っていうネットワークがあるんだから、それは活用しないとな。もちろん、手紙を積んで来る馬車のおいちゃんに頼んで伝えてもらう必要があるから時間は……って、こんなの別に俺じゃなくても、郵便屋の先輩でも考え付くことだな。そんなことをしているって話はされてないんだろ?」

「うん……。今までも、こういう手紙は諦めてたみたい」

「そいつはちょっと、あんまりにずさんな仕組みじゃないか?こうしてこの町にきちんと手紙が届く以上、他の町にも変わらないように馬車は来るはずなんだ。さすがに他国まで調べることは出来なくても、国の中、それかこの町に来る馬車の巡回する範囲内ぐらいは調べられるはずなのに」

「明日、フォンスに訊いてみる」

-6ページ-

 翌朝、新聞の配達の後に昨晩の話し合いのことを話すと、フォンスはなんともばつが悪そうな顔をして、静かに告げた。

「それが、郵便の仕組み上、遠くから来る手紙はあらかじめ、その届け先と現住所に食い違いがないか、調べられるんだよ。だから、少なくともこの町の近辺にそのエリアスさんはいないか、住所届けを出していない、そう考えられる。結果として、現住所を見つけることは極めて難しいんだ。それこそ、本人が誰かに口伝に教えていた情報を得るぐらいしか……」

 結果としてこれで、エリクの考えの半分は外れることとなってしまった。が、二ヶ月で移動出来る範囲内に相手がいる、この考えは外しようがない。

「虱潰しに、その範囲を当たってみる……?」

「う、うーん。推奨は出来ないかな。それに、調べられた範囲は定期的に馬車が行くような、ある程度以上の規模の町か村だけなんだ。地図に載らないような小さな集落となると、それはもう完全に管轄外になってしまう。普通、そういう所への手紙はそれこそ旧来よろしく、行商人に手渡したりするんだけど」

「この手紙を出した人は、引越したことを知らなかった。もちろん、現住所も知らないことになる」

「いよいよ、捜索は困難を極めることになるね……」

 どこかこなれたような風であるフォンスの声は、かつて彼もまたリーディエと同じ壁に突き当たった経験があるらしいことを、何よりも雄弁に語っていた。その壁を乗り越えられるのか、それが大きな課題となり、関門となる。

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「届け所のわからない手紙かー」

 次に頼ったのは、やはりあの錬金術師だ。学問的知識ではこの町で一番、とでも思われる相手だが。

「まずは一般論でいくね。その場合は――第一に、その手紙の中を見ます。そして、その内容を精読。親類の訃報だとか、結婚の報告だとか、故郷で戦争が起きただとか……絶対に伝えなければならない用事であれば、努力を継続します。もしも取るに足らない内容なら――まあ、苦労に見合わないし、その手紙を握り潰すよね」

「それは……それだけは、賛成出来ない」

 どんな手紙であったとしても、それを届ける。郵便屋の使命とは、そうであるべきなのだから。

「次に、ワタシの考え。と言っても、参考にはならないと思うんだけど……見て見ぬふりをするかな。全力で」

「エル……」

「あ、うぅー、その可哀想な人を見る目はやめてよー。けどね、無視をしようとして、それが出来ないようなら――それこそ、大陸中を駈けずり回る覚悟で行こう?自分の仕事に、そして仕事をしている自分に誇りがあるのならば」

「……うん。あたしは、絶対に諦めない」

「だけど、ワタシはそのたった一通の手紙のために、あなたの安定して来た生活を崩すことはお勧めしないよ。ワタシはロマンチストだから、理想論ならいくらでも口にする。けど、それ等全てが実行可能なことって訳じゃない。むしろ、現実的には実現不可能だからこそ、人はロマンを感じ、それを尊く及ばないものだと考えるの。英雄譚の主人公は、紙上だからこそ息をすることが出来る。現実の世界でなら――悩み苦しみ悶えた末、死ぬことしか出来ない」

 いつの間にかに、いつもあるはずの笑みはダニエルの顔から消えている。彼女の真顔というものを、リーディエは初めて見るかもしれない。年齢不詳の彼女だが、その面持ち、にじみ出る貫禄などはその実年齢を覗かせていた。他の同世代の人間よりも波乱に満ちた生活を送って来た女性の、哀しみを帯びた気高さを。

「あたしも……皆は大好きだし、この町を出ようなんて思わない。けど同時に、もう立ち止まれないとも思うの。あたしは郵便屋である自分が好きだから。そして、あたしがあたしを誇り続けるためには、その仕事に嘘をついてはいけないと思うから」

「つまり、自分の預かった手紙は全て届ける、と」

「うん。あたしはもう、後悔をする行き方はしたくない。多くを失って来たことに気付いてしまい、またそれを取り返せたから……」

「――そっか。人は、パンさえあれば生きていける訳じゃないからね。暇はその精神を堕落させ、腐らせ、狂わせる。そのためには何か生きがいを。また、孤独は人を空虚にし、病ませ、死なせてしまう。そのためには伴侶を。あるいは朋友を。

 それに加えて、リーディエちゃんは高潔だから、生きるためには誇りがいるんだね。そのためには、正直でないといけない。他人にも、自分にも。それゆえに傷付くことは数知れず。しかしそれも厭わない。なぜなら、そうしないと生きてはいられないのだから」

 ダニエルの表情には、また優しげな笑みが戻って来ていた。我が子を送る母のように。あるいは人類全てに愛を注ぐ慈愛の聖女のように。

 それに釣られるように、リーディエもまた笑みを漏らした。今度は子が迷子になった末、母親と再会して喜ぶように。

「ワタシは見ての通り、あなたの足の代わりにはなってあげられないけど、できる限りのことはさせてもらうね。たとえば、可能な限り正確な地図の手配とか、フォンスの説得とか」

「この町を出て行くつもりはないって、言ってるのに」

 困ったような笑顔。

「今はまだ、でしょ?果たして、一週間後も同じことが言えるのかな?」

「……お願いします」

「ん、素直でよろしい。後は、リーディエちゃんが骨を折らなくても、その人が見つかるようにお祈りさせてもらうね。……おっと、ワタシは神を信じてないから、誰に祈れば良いんだろ」

「ふふっ、どうしてエルは、そんなに神を拒んでるの?」

 人々の言う神なる存在が不確かであり、本気で信じる気がないことについてはリーディエも同感だ。だが、彼女はまた何か別なこだわりがあるように感じられた。

「んーと……なんとなく、気に入らないから?シスターの服をあんなエロくしたのが神なら、とんだスケベ親父だよね。いや、良い仕事をしたとは思うけど。それから、何かと気まぐれじゃない?だから、ワタシが神を信じないっていうのは、その存在うんぬんより、信頼出来るかどうかで、間違いなく信頼出来ない、って思ってるからかなー」

「そ、そう。なんか、教会の人に話したら、怒り出しそうな理由だね」

「いいのいいの。どうせ、錬金術師なんてそんなによく思われてないんだから。この町の教会にも、一度も行ったことないしね」

 神をも恐れぬ、とはこのことだろうか。正に自由を謳歌している彼女を見てリーディエは、自分がまたもや自由の中に規則を作り、縛り付けていることを意識していた。

 だけど、今度のそれは誰かに与えられたものではなく、自らの意志で選び取ったもの。自分が思うがままに生きることが自由の定義であるならば、厳格な取り決めを作った上で生きるのもまた自由だ。何でも出来るとは、何でもして良いとは、そうであるはずなのだから。

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 その夜のことだ。

 普段のリーディエは、そうそう夢を見ることがない。そのことをエリクに話したところ、芯から深く眠っている場合は、頭がゆっくりと休んでいるので夢を見る気力もないという話だ。朝四時には起きなければならないので、夜眠るのは十時ぐらい、六時間の睡眠は確保しているのだが、肉体労働の後なので体は夢を見る余力もないらしい。

 だが、この夜は違った。リーディエは最初、これが夢ではなく現実だと思ったが、奇妙な浮遊感は夢の中独特のものであり、意識にも薄もやがかかったよう。これは夢に他ならなかった。

 しかし、真夜中と同じく辺りは暗く、足元まで暗闇に包まれている。手の届く範囲すら満足に見ることは出来ず、手探りで前に進むと、足にぶつかる物があった。テーブルや椅子の足だと思ったが、それにしてはやけに感触が生々しい。

 なぜか手に持っていたランプで照らす。するとそれは、肉の付いた人間の足だった。真っ白な肌、薄い肉。筋肉質ではなく細い足。見覚えがある。

 次に足の付け根を照らしてそのオレンジ色のスカートを確認して、薄い胸を視て、顔まで確認しようとしてやめた。これは、あの恐怖の想像の続きだった。

 少女の豊か過ぎて辛くなるほどの感受性が見せた、暗黒の妄想。人との縁が切れた先に存在する絶望郷(ディストピア)の映像だ。この空間に無数に散らばるのはきっと、リーディエ自身の死体。それも凄惨な、地獄の悪魔がしたとしか思えないような殺され方を。あるいは死の間際まで苦しむという餓死の末の。またあるいは、不治の疫病の最果ての……。

 この夢の世界に長くいてはいけない。本能が告げる。夢を無理に終わらせるためには、夢の中で自分が死ねば良い。ナイフを突き刺される夢も、馬車に轢かれる夢も、高い塔の上から落ちる夢も、実際の痛みを感じて絶命する前に夢から覚めることが出来る。

 さて、どうするのが一番効率の良い死に方か?手元にあるランプは活用出来そうだが、どうもこの夢の中の体は自傷行為を禁じられているらしかった。火を自分の服に燃え移らせようとしても、自由に腕が動いてはくれない。この悪夢は、自分の意思で終わらせることが出来ない、呪縛めいたものなのだろうか。

 だからと言って、このまま自分の死体を観賞して回るほど、リーディエの心は強くない。いや、かつての鈍化しきった心であれば、その死体が自分でも、育ての親でも、恩人であり家族たるエリクであっても、その心が何かしらを感じることはなかったかもしれない。少なくとも、心が傷つき、破れ、目には見えない血を流すようなことはないはずだ。

 その頃に比べて、今は違う。今の彼女は、少し口数が少ないだけのただの少女だ。しかもたった十五歳の。

 人の死を身近に感じるには、あまりに幼過ぎる。しかもその死体は、いつか来る自身の死を暗示する双子の妹達のものなのだから。城壁を組むために積み重ねられたレンガのような、死体の山は。

 死体の足を背中に、リーディエは座り込んだ。どこもかしこも暗いが、床はきちんとある。それは木製でも石組みでもなく、ガラスのようにつるつるとした、無機質でひんやりとした感触だ。死体の温度なのかもしれなかった。

 この夢の終わりをそうして待ちながら、時間を潰すためにどうしてこんな悪夢を見ることになったのか、その理由を考える。

 夢に道理を持ち込むのはナンセンスだ、と言う人は多くいるだろう。だが、別にこれは意味のある思索ではない。時間さえ潰せれば、それで良い。たとえ答えが見えたとしても、意識の覚醒と共に消え去ってしまうような曖昧な記憶だろうから。夢の記憶というものは。

「死んだ相手に手紙が届かないのと、引っ越した相手に手紙が届かないのは、同じことなのかもしれない」

 この暗い夢の世界に、恐らく他の生きた住人はいない。そもそも、夢の中で他人のことを気遣う必要なんてない。

 静かなこの世界が嫌なので、考えを口に出す。不思議と広いのか狭いのかわからないこの部屋には声がよく響き、すぐ傍に一緒に考えてくれる友人がいるような感じすらする。それが思考を手伝ってくれて、次から次へと言葉は出て来た。

「友達の想いが伝えられないのは、独りでいるのと同じこと。死んだ人も独り、見知らぬ地へと旅立った人も、孤独……。新しい友達は出来るかもしれない、けど、古い繋がりを捨ててしまうのは……とても、悲しいこと」

 リーディエの古い友人は、家族は、全て死んでしまった。彼等との再会を願っても、それが叶えられることはない。天国から手紙は届かず、声も届かず、当時の記憶すらも薄れ、遂には消えてしまう。なら、せめて生きている人に手紙をもらえるような人には、その手紙を届けてあげたい。それがリーディエの意志だった。

「エルは、孤独は人を死なせると言ってた。……あたしも、そうだと思う。だから、この夢は――」

 無数に散らばる自身の死体。もしもこの夢を見ているのがエリクであれば、その死体達はリーディエではなく、彼の姿をしていたはずだ。

 これは、独りで居続けた人間の、最後の世界。死ぬ時も独りで、看取る人間などいない。そしてその死体は、ゴミのように積まれる。そこに人としての尊厳など感じられず、野生の動物と同じ死に様。

 突如として、光が射す。

 闇の世界の終わり。戦地で何度も見てきた夜明けのように、光の奔流が全ての影を消していった。それに食い殺されるように、リーディエの細い四肢も光の中へと消えていく。

 この夢は彼女の考える悲劇を映し出したものに他ならず、改めて意志を固めたからこそ、終わりを迎えたのだろう。

 ――つまり、何があったとしてもこの手に握った手紙を、届けられるべき相手の手に渡す。

 そうしなければない。それが使命であり、宿命であり、運命であった。

 目覚めはやはり、この夢の中での記憶を全て失わせてしまう。しかしながら、それを恨むことはない。現実の世界のリーディエもまた、同じことを考えているのだから。既に迷いはなく、もう少しして事態が進展しなければ、するべきことはわかっていて、覚悟も出来ていた。

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「エリク。あたし、どうしてもこの手紙を諦めたくはない」

 一週間。可能な限りのことはしたが成果は上がらず、遂に消極的な方法ではなく、積極的な方法に訴えるべき時が来た。そのためには、今までリーディエが親しくなって来た人全ての合意が得られなければならない。勝手に消えるなんてことは、出来るはずもなかった。

 その一人目は、もちろんこの青年だ。

「俺は、おまえの保護者という立場から言うと、厄介事に首を突っ込んでいくのを止めるべきなのかもな。けど、俺は同時におまえの友達として。軍の犬でしかなかった頃から、おまえを知る人間として、自分の意志を持ってくれたのが嬉しいんだ」

「じゃあ……」

 リーディエが何をしようとしているかなど、エリクはわかっている。自分の足で大陸中を駆け回って、エリアスという名前の人物を探し出す。文明的ではなく、原始的な、非効率的な方法。郵便制度がきちんとしていなかった中世以前ならともかく、今の時代にしてはやり方がいささか以上に馬鹿らしい。

 それでも、このやり方しか解決策が見つからない。さもなくば、この手紙を廃棄して、なかったことにするのみだ。

「でも、俺はおまえが大事だ。だから、やることが決まったらきちんと俺に説明して欲しい。その上で、おまえを素直に送り出すかは決めるからな」

「う、うん。わかった。もちろん、そのつもり……だった」

「ほーう?」

 目をそらし、冷や汗を幾筋か流すリーディエを見る。

「とかなんとか言って、俺はおまえの味方だよ。他の人間がおまえを笑っても、俺だけはおまえを支えてる。俺の責任、だもんな」

「どういうこと?」

「親っさんが言ってたんだけど、人っていうのは、付き合う人に影響されるもんだってさ。だから、おまえがこんなに真面目で融通の利かない奴になったのは、生まれ付きってのもあるだろうが、適当やってる俺が反面教師になった結果なんだと思うぜ。それに、元はと言えば俺がおまえを連れ出したんだし」

「……エリクは、すごく真面目な人だよ。あたし、エリクが仕事を頑張ってる話を聞くの、好きだもん。それから、あたしを救い出してくれたことは今じゃ感謝し過ぎていて、どんな言葉でお礼を言えば良いのかわからないぐらい」

「は、はは。……可愛い奴だなぁ、おまえ!」

「そ、そんなことない。服のお陰」

「見た目じゃなくて、いちいち言うことが可愛いって言ってるんだよ。もちろん、見た目も最高に可愛いけどな!」

「やっぱり、チャラい」

「チャラい言うな!」

 お馴染みとなりつつあるやりとりの後、エリクは仕事に、リーディエは仕事の後の一眠りに就く。それから目覚めて向かうのは、フォンスの家だ。彼もまた、仕事がない時間帯は自分の家で休んでいる。当然ながら郵便局で暮らしている訳ではない。

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「フォンス、起きてる?」

 職人通りにほど近い場所に、先輩の家はある。いちいちノックをしないでも良いと言われているので、一声かけてから入ると、彼は机に向かってペンを走らせていた。

 手紙や新聞を届ける仕事をしているフォンスだが、彼自身もかなりマメにペンを手に取る人のようだ。

「リーディエちゃん。いらっしゃい」

 来客に気付くと彼は腰を上げ、書き物を中断して応対に取りかかる。

「書きながらで良いのに」

「いや、そんなに急ぎの手紙ではないからね。それより、君の話の方が大事かな、と思って」

「実はと言うと……そうかもしれない」

「わかっているよ。いよいよ、だね」

「うん……。この町を出ないといけない。また、フォンスには一人で仕事をしてもらうことになるけど」

「それなんだけどね。僕の方で色々とかけ合ってみて、君の処遇を決めたんだ。なぜかって言えば、君の姿勢は郵便屋として本当に誇れるもので、今の時代に生きる多くの仲間はとても真似できない。だから、郵便屋を辞めずに、君の目的を達成するための方法がないかを探してみたんだ」

 リーディエの考えの中で、彼女がやりたいと思ったことは「当たり前」だが、ある人にとっての当然が、またある人にとって異常、あるいは偉業に値することはそう珍しいことではなく、リーディエが成し遂げようとすることは、間違いなく他の郵便を生業とする人間に衝撃や感動を与えるだけの大事だった。

 若さが足りないと自称するフォンスは、この町の配達もあるため彼女に実質的な協力は出来ないが、経験と知識があることを活かして自分に出来ることをやってくれていたようだ。リーディエに自分のかつての望みを託すために。

「ちょっとややこしい話になるかもしれないけど、まぁ、座って聞いてよ」

「ありがとう。フォンス」

「僕がやりたい、やるべきだ、と思ったからこそすることだよ。僕は応援してるから」

 机の引き出しからメモ書きが取り出され、それを下にフォンス青年の説明が始まる。郵便制度に則って話が進められるのだが、要点だけをまとめて話せば……。

「まず、リーディエちゃんはこのままこの町の郵便局に、籍を置いたままでいてもらおうと思うんだ。今の家を出るつもりはないんでしょ?」

「そこまで話はしていないけど、あたしはフォンスもエルも、大好きだから……出来るなら、またここに戻って来たいと思う」

「だよね。僕も、その言葉が聞けてすごく嬉しいよ。だから、名目上はここの職員、ということにしておきたいんだ」

 これに異存があるはずもない。人と人との繋がりを大切にしようとするリーディエなのだから、これは当たり前のことだ。

「それから一方で、リーディエちゃんには“届け先不明配達物係”という役職についてもらいたい。僕や僕の古い仕事仲間で勝手に作った部署なんだけどね。なんか長い名前だけど、通称も決めてあって、それは――」

「“伝え人”」

「どうかな。君の言葉から、そんな言葉を生み出してみたんだ。人の想いを伝えるための、特別な郵便配達人。それが、君のこれからの肩書きになる」

「ちょっと、直球過ぎると思う。もう少しおしゃれに出来なかったの?」

「はは、僕のネーミングセンスはとんでもなく悪いから、勘弁してもらえないかな」

「だけど……嫌じゃない。是非、その名前を使いたい」

 率直な飾らない言葉だからこそ、伝わるものもあるだろう。そして、リーディエは言葉を飾り立てるよりも、素直に表現することの方が性に合っていた。

「それで、その役職に就いてもらう以上、リーディエちゃんには今回だけじゃなく、次からも届けるべき相手の見つからない手紙を預かってもらおうと思うんだ。もちろん、大変な仕事になるから、一年中各地を駆け回って欲しい、という訳じゃないんだけど、なんと言うか、建前とかも色々とあるし……」

「大丈夫。むしろそれが、あたしの望むことだから。他の手紙も、絶対に届ける」

「全く……君は本当に、迷いがないね。見ていて清々しいけど、同時に心配になってしまうな……」

「今のあたしは、大丈夫。あたしによくしてくれた人達のためにも、無理はしないから」

 自分の命の重さを自覚した時のことは、今も記憶に新しい。あの記憶がある限り。また、たとえその記憶が失われたとしても、もうかつてのように命を投げ打つことに抵抗を覚えないようなことはないだろう。仕事を完遂するという決意は、文字通りに一生懸命であったとしても、

「じゃあ、次はエルさんの所に行くのかな?」

「うん。長く、離れ離れになってしまうから」

「きっと、泣いてしまうだろうね」

「……でも、行かないと」

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 決意が鈍ってしまうようなことは、きっともうない。だが、ダニエルは初めて出来た同性の友人で、姉にも母にも似た人で、彼女なくして今のリーディエは存在していなかったに違いない。

 そんな人物だからこそ、細い路地を進むリーディエの足取りは重かった。フォンスは彼女が泣いてしまうことを予想したが、泣くのは果たして、彼女だけだろうか。リーディエもまた、涙なくしては別れがあり得ないような気がしていた。

「エル、お邪魔します」

『うん、いらっしゃいー』

 家の中――主人いわく、魔法店――に入ると、まるで客が来ることをわかっていたかのようにダニエルが椅子に座り、待ち構えていた。片足を失っている彼女は、家の中ですら立って歩くことは少なく、あの日、外に出ていた彼女とめぐり合えたのは、実は大変な確率で起きた出来事なのではないかと思われる。

「もしかして別れの挨拶、かな?」

「……うん。すぐに行く訳じゃないけど、二、三日の内には」

「そっかそっか。寂しく、なっちゃうな」

「またすぐ……!またすぐに、帰って来るから……」

「うん、そうだよね。大丈夫、泣いたりしないよ」

 口ではそう言いながらも、その瞳に涙の膜が張ったからこそ、リーディエは慌てて彼女に駆け寄り、今度は自分から抱きしめた。いつもは強く締め付けられていた方だが、今日のダニエルはやはり、どこか弱々しい。

「あ、ははっ。しばらくリーディエちゃんの柔らかい体を堪能出来なくなると思うと、やっぱり名残惜しいかな」

「……えっと、あたしね、ここの郵便屋は辞めずにいることが出来るみたいなの。だから、仕事が終わったら、ちゃんとまた抱きしめに来るから」

 今にも泣き出しそうな倍も年上の女性を、なだめるために抱きしめる。かつてそうされたようにその頭を撫でて、自身も鼻の詰まった声で話して。

「もう……先に泣かれちゃったら、ワタシもっ……ワタシ、もっ……。ああもう!年取ると涙脆くなっちゃうなぁ!」

「エル、エル……あたし、エルと会えないなんて、一週間も我慢出来ないよ……。んっ、だから、今の内にっ……」

「うん、うん。ワタシもっ、いっぱいリーディエちゃんの匂いを嗅いで、感触を覚えて、マネキンの作成の参考にするねっ」

「そ、それは怖いよ……」

「うそ、冗談」

「……バカ」

 お互いに顔をぐしゃぐしゃにさせながら、姉妹のような二人は互いを抱き続けた。自分の体温を相手に移し、寂しさをそれで紛らわせてもらおうとするように。

「リーディエちゃん、一つ、約束してくれる?」

「うん……」

「死んだり、しないでね。南の方は治安が悪いし、東の森林地域には猛獣もいるから……。もちろん、銃ぐらいは護身用に持って行くと思うんだけど」

「え、えっと……。実はあたしもエリクも、銃は持ってなかったり……普通に買うと、猟銃ですら高いし」

 唯一携帯していた武器であるナイフも、二人を代表してエリクが海に沈めてしまっていた。それ以降は何か武器を買おうとしたこともなく、今になって新たに買い求めようとしても、そこまでリーディエに持ち合わせがある訳でもない。

「……リーディエちゃん。ワタシ、心配で死んじゃうかも」

「し、死なないでっ」

「でも、あんまりに無防備なんだもん……。仕方がないから、ワタシのを持って行って」

「エル、銃なんか持ってるの?」

「一応はね。絶対に使うつもりはないんだけど、リーディエちゃんに使ってもらえるならあの子も本望だよ。……もう五年ぐらいロクに整備もしてないから、ちゃんと撃てるかわからないけど」

 恐ろしく不確かなビンテージものの銃だが、その保管場所は地下室。猫のジャン氏が寝ているはずなのでリーディエは近付くことが出来ず、杖を突いてダニエルに持って来てもらうこととなった。

 結局、猫嫌いについては全く克服出来ないまま、ここまで長くの時間を過ごしてしまった。もうこうなれば、一生に渡って猫の影に怯える生活を送ることとなってしまうのだろうか。それはそれで悔しさもあるが、その声を聞くだけで拒否反応が出るので、やはりその恐怖に打ち勝つようなことは出来ない。

「はい、これだよ」

 たっぷりと時間をかけて運ばれて来た銃は、確かに少し型の古い拳銃だった。ただし、その見た目は想像以上に立派なもので、今はかなり劣化してしまっているが銀メッキされており、装飾も豪華。貴族がアクセサリー的に持つ物でないとするならば、相当に高い位の軍人しか持てないような代物だ。

「これ、昔エルが使ってたの?」

「まさか。ワタシは今も昔もしがない錬金術師、銃なんて持ってないよ。――これは、ワタシのダーリンの物。名前はジャン=ポールって言うんだけど、わかっちゃうよね」

「ジャンって……猫の?」

「そう。死んだかどうかもわからない夫の名前を猫に付けて、可愛がって……。笑っちゃう話かもしれないね」

「ううん。そんなこと、ないと思う。……けど、亡くなった訳じゃないの?」

「高士官だったダーリンは、軍を抜けてからも色々とあってね……。臨時の参謀としてまた軍に呼ばれて行って、行方不明。それから三年、あなた達が来た、と。昔のワタシみたいな女の子と、呑気さの中に軍隊仕込みの険しい顔を持つ男の子」

 過去を語るダニエルの目は、まるで未来を見る予言者のような神秘さがあり、その視線の先には果たしてリーディエがいるのか、他の誰かがいるのか、誰にもわからない。

「エル。あたし、やっぱりこれは……」

「持って行って。ワタシはもう軍とか戦争とかはこりごりだけど、外の世界で生きるのにそれは必要だから。――だけど、その代わりの交換条件を出すなんて嫌なんだけど……もしも旅先で軍に関係のある人に会ったりしたら、この銃を見せて訊いてもらえないかな?ジャン=ポール元中佐を知らないか、って」

「わかった。でも、本当に良いの?もしかしたら、壊してしまうかもしれないし、盗られてしまうかもしれないのに」

「この世界に形のある物は、いつかなくなってしまうものだよ。あの人がワタシの前からいなくなってしまったように。だけど、そうだな……。リーディエちゃんには、きちんと帰って来てもらえると、寂しくなくていいな……」

「もちろん……!絶対に帰って来て、出来るなら旦那さんの情報も持ち帰ってくるから」

「そっか。それは嬉しいな。……じゃ、もうこれ以上リーディエちゃんの顔を見てたら離れられなくなっちゃうから、そろそろお別れ、しよっか。……リーディエちゃん、頑張って。生きて帰ってきてくれさえすれば、ワタシは嬉しいんだから」

「うん。いってきます。……絶対、また会おうね」

「今回ぐらいは、神様に祈ってみるね。必ず再会出来ますように、って。じゃあ……またね。ダーリンはそう言えば、いってらっしゃいで見送っちゃったから……」

 

 あれだけ親しく話していても、ダニエルが今の今まで話さなかったその夫である男性のこと。

 帰らなかった彼の分も、必ず自分はこの町に戻らなければならない。

 行きの時とは比べ物にならないほどの責任感の中、リーディエはまた細い路地を大通りに向けて歩いて行った。夕方の仕事の後、もう一度エリクに今日決まったことを話さなければならない。

 そうしたら、いよいよ出発の日を決めて発つだけだ。

-12ページ-

「リーディエ」

「うん」

 今更になって二人の会話。特に真剣なものに関しては、多くの言葉を費やす必要はない。

 その口調を確かめれば良い。目を見れば良い。それすらなくて、なんとなくの雰囲気だけでも相手の気持ちを知るのには十分だ。

「今日、親っさんと話を付けて来た。俺も、一緒に行くために」

「そう……ありがとう」

 全ての話を終え、予想通りだと頷くと今度はエリクが話をする番だった。彼は彼で一時的に仕事を辞めることにし、リーディエの旅の道連れとなる道を選んだのだ。

「俺なんかじゃ、ほとんど役に立てないだろうけどな……でも、おまえを一人で行かせることも出来ない。良いよな?」

「断ると思う?」

「おまえは、優しいから。決して楽な旅じゃないし、安全も保障されてない。俺のことを考えてくれたら、断るだろ」

「でも、独りも嫌。エリクも、この町に一人残されたら寂しいでしょ?」

「ははっ、こりゃ一本取られた。そうだな、一人で心配して待っているなんて、本当に辛い。俺はきっとそれに耐えられないから、一緒に行かせてもらいたい。良いか?」

「もちろん。それに、エリクは役に立たなくなんかない。あたし、一人じゃ地図もほとんど読めないよ?」

「そ、そっか……。でも当初は一人旅の予定だったんじゃなかったのか?」

「頑張れば、なんとかなると思ってた」

「豪快な生き様だよ、全く」

 自分の胸の位置にある頭を撫で付け、そのまま抱きしめた。女性を抱くことに慣れているエリクだが、やはりこの少女を欲情の対象とすることは出来ないし、今となっては彼女以外の女性に興味を持てない。

 それはやはり、意識として完全に家族となってしまったからなのだろう。エリクに女きょうだいはおらず、実際の感覚はわからないが、今の状況がそれと全く同じだと考えればその雰囲気は掴める。

 手のかかる妹は少しずつ自分で出来ることが増えていき、弱いどころか、まるで感じられなかった意志の力はどんどん強まっていく。更に衣装の変化だけではなく、内面から日に日に美人へと成長し、気高く誇り高い精神は忠誠の騎士にも決して劣らない輝きがある。

 そんな自慢の妹を持って、尚も過保護な兄で居続けるのは情けない話かもしれない。それでも、今はただこれから先、リーディエがどのような未来を自分自身の手で掴んで行くのか。それだけが気になる。その障害は可能な限り取り除こうと思うし、もう他の仕事なんて手に付かない。他人なんて既に世界に存在してはいなかった。

「でも、本当に変わったよな……リーディエ」

「何を急に?」

「いや、まだ半年も経ってないんだよな。俺にはもう、大変な時間が過ぎ去ったように思えるよ。おまえがこうして、普通に話している。しかも俺だけじゃなく、友達も出来たし、仕事先の先輩とも親しくなった。町の皆からは愛されて、今やちょっとしたアイドルだ。もう、昔のことなんて忘れて良いぐらい色々なことがあったよ」

「エリクは……どうだった?」

「俺?俺か――どうだかな」

 思い出されることは、白黒の絵画となった軍隊での記憶と、セピア色になったそれ以前の記憶。鮮明に美しい色が乗っているのは、やはりこの町での二ヶ月のことだけだ。石工としての仕事の記憶は、実は単調なものも多くそう豊かな思い出にはなっていない。それよりもやはり、日々のリーディエとの会話。かけがえのない毎日の回想が活き活きとした思い出となって、頭の中に残り続けていた。そしてそれは、死の間際になったとしても消えそうにはない。

「大したことは、してないよ。もちろん、大事な出会いも楽しいこともあったけど」

「ううん。エリクは、あたしにたくさんのものをくれた」

「いいや。それは全部、リーディエが自分自身の手で掴んだものだ。人にとって大切なものは、決して目に見えない。だから俺が手渡してやるなんてことは出来ないし、自分で気付いて手を伸ばして、空気の中に溶け込んでいるようなそれを手に入れるしかないんだ。……なんて、本の受け売りなんだけどな」

「じゃあ、本も間違っていることはある。エリクがいなければ、あたしが気付くことは絶対になかったから」

「嬉しいこと言ってくれるなぁ。俺なんて、全然立派な人間じゃないんだぜ?細工して少しの酒を呑んで、夕飯食って、ばかすか寝る。それだけの人間なのに」

「それからナンパ者で、あたしを褒める時の言い方が妙にチャラくて、信頼出来ない」

「お、おいおい……」

 リーディエは真顔で、淡々と罵倒に近い言葉を連ねる。その様には正体不明の圧迫感のようなものがあり、大の男であるエリクも軽く後退りする足を止めることが出来ない。

「向こう見ずで、強引で、その癖に小心者。だけど、すごく素敵な人。あたしが巡り合えたのがあなたという人で、本当に良かった」

「リーディエ……」

「あの日、あなたはあたしを抱えて逃げてくれた。それからも手を引いて、いつもあたしを庇っていて……だから、今度もあたしを守ってくれるのは、エリクだけだと思ってる。あたしのこの命、あなたに預けるから」

「はぁ、おまえも大概酷いよな。しかも天然で。――そこまで言われたら、傷の一つも付けさせられないだろ?」

 かつてのエリクがなにがなんでもリーディエを守ろうとしたのは、自分の命の恩人だったからだ。それに、少女が戦場に立つ国の仕組み自体への反骨精神もあった。今となってそれは、自分の家族に生きていたいと願う、人が普通に抱く感情へと昇華されているが、その変化によって気持ちは強まることはあっても、以前より弱くなるようなことは絶対にない。

 エリクは決して自分が特別な人間だとは思っていない。騎士道物語の主人公と自分を錯覚するようなことはなく、リーディエの可愛らしさは本当のものだが、騎士が忠誠を誓う姫君には絶対になり得ない存在だとわかっている。

 だが、捨て去った鉈のような軍用ナイフの代わりに一本の頼りないナイフを、騎士のようにリーディエへと捧げた。あくまで心の中で。照れ臭くて絶対にそんなことは実行出来ないのだから。

「それで、いつ出発するんだ?」

「早い方が良いと思うから……明後日ぐらい?」

「おまえの準備が良いなら、俺は明日にでも発てるぜ。徒歩でえっちらおっちら行くんだろ?」

「当面は。なら、明日の新聞の配達の後にフォンスと話をする。多分、もうするべきことはないから、そのまますぐにでも」

「あー……それなら、出るのは十時ぐらいにしないか?もちろん、朝のな。たまには俺もゆっくり寝たいし、おまえも四時に起きてそのまま、ってのはきついだろ?」

「わかった。出来る限り、万全の状態で行きたいしね」

「そういうこと。じゃあ、今日も早めに寝ようぜ」

「準備は何もないの?」

「起きてからすれば十分だ。カバンに詰めるのなんて保存食と、あるだけの金だけだしな」

「荷物が軽くて、疲れなさそう」

「理に適ってるだろ?」

 

 

 こうして、再び二人は町を出て、広大な南大陸へと歩み出した。大規模な戦争はないが、紛争と賊が横行する大地。必ず生きて帰られるとは限らない危険な旅になるのは間違いない。

 その旅立ちは、フォンスはもちろん、リーディエ、エリクの両名とある程度以上の親交があった人達が見送ってくれた。ただ一人、予想通りにダニエルの姿はなかった。

説明
この章のリーディエは、本当に感情が豊かになっていることと思います
なんとなく、「夢を見る」というのは、たとえそれが悪夢であったとしても感受性が豊かな証かな、とも思ったのでこのしかけを入れた、というところもあります
夢は現実と真逆のものを見るとも言いますし
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