内外反転
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『早く飛び込んじゃいなよ』

『ほら、はーやーくー』

 薄闇の中、場違いなほど明るい声が私の耳を刺激する。

『蹴飛ばしてあげようか?』

 そのほうがまだいいかな……と思ってしまう。こんな冬の寒い時期にプールに入りたいなんて思うわけない。緑色のぶよぶよした何かが漂っているプールだ。汚い、不衛生だ。ぬめぬめもする。どうして学校側は冬場に掃除をしようとしないのだろう。ああ、嫌だ……本当に嫌だ……。

『グズグズすんなよ、ホラ』

「いたっ」

 手の甲を踏まれてしまい、ついつい声が漏れてしまった。声を出さないと誓ったのに。

『ちゃんと声が出るじゃないですかー? ねー、葵(あおい)ちゃん?』

「……」

 沈黙を貫く。私なりのせめてもの抵抗だ。彼女に屈しない……ため。それが出来ているのかはよく分からない。私は何をやっても大抵うまくいかない。駄目な人間。ある意味、出来損ない。だからこそ、今のような状態になるのだろう。

『チッ。つまんねーなあ』

 その声と共に私は蹴落とされた。極寒にも感じられる冷水の中を手探りでかき分けて、水面から顔を出す。

「ぷはっ」

 動揺は特になかった。彼女たちならやるだろうと思ったからだ。蹴飛ばされた時に、眼鏡がどこかにいってしまった。濡れた髪で視界が遮られて、まともに前を見ることが出来ない。ぬめぬめとする水を手ではけて、視界を確保。といっても、暗いし眼鏡はないし前を見ることが出来ない。彼女たちのゲラゲラと笑う声が徐々に遠ざかっていく。どうやら今日はこれで終わりらしかった。汚水にまみれた私を触りたくないんだろうな、勝手に納得してプールサイドのほうへ移動する。

「大丈夫かい」

「えっ」

 声が聞こえて驚きながら顔を上げると、眩しい光。誰かが手元に持ったライトでこちらを照らしているようだ。

「手を貸すよ」

 声から察するに男子生徒だ。すっと出された右手に戸惑う。というよりはこの状況に。誰かに見つかるのは予想外だった。

「余計なお世話だったかな」

 少し悲しそうに彼は言った。

「……手が汚れちゃうよ?」

「気にしないよ、そんなの」

 あっさりと答えられた。私は彼の手を掴んで、ようやくプールサイドへとあがる。

「あの、ありがとう」

「うん? どういたしまして。あと、コレ。渡良瀬(わたらせ)さんのものでしょ。プールに落ちそうだったけど、沈む前になんとか掴めたよ」

 苗字を呼ばれて少しビクッとしてしまった。彼は知り合いの人なのだろうか。視界がぼやけて誰かまではよく分からない。眼鏡を受け取って掛けた。

 短すぎず、長すぎない黒髪、すっと細い顔立ち。

「……佐上(さがみ)くん?」

「そうだよ」

 なんてことはない。同じクラスの佐上彰考(あきたか)だった。男子のことは詳しくないから、分かるのは名前ぐらいだった。

「佐上くんはなにを……?」

 普通に考えて、私が落ちてすぐに助けに来るなんて、その様子を見ていたとしか思えない。

「プールの更衣室の上でダラダラとしていただけさ。あそこって外から梯子で簡単に登れるでしょ。そしたら、暴行の現場に出くわしたものでどうしようか、思ってたら渡良瀬さんはプールサイドに落とされて、青木さんと後藤さんは寮のほうに戻って行ったから、助けようと思いまして」

「……そう」

 出来れば落とされる前に助けて欲しかった、と思ってしまう。そして軽い自己嫌悪だ。彼は何も悪くないのに彼に対する不満が少しでも出てしまったことに。

「もうちょっと早く助けてあげればよかったとは思うんだけど、僕って臆病だからさ。ごめんね」

「いや、充分だよ。助けてくれてありがとう」

「ならよかったけど、服とかどうする?」

「あー……」

 制服に目をやると、薄緑色に軽く染められている気がする。黒めの制服だからよく見ないと分からないだろうが。ジャージに着替えるしかない、か。

「ジャージをロッカーから持って来ればそれでなんとかなるかな」

「じゃあ僕が取ってくるよ。しばらくの間、ここで待ってて。勝手にロッカー漁って問題ない?」

「え? う、うん。大丈夫」

 佐上くんは私の言葉に頷くと、水浸しの私を置いて校舎のほうに駆けていった。思ったより、行動的な人だった。

 それはさておき、思ったより水に濡れたことで体が冷える。雪の中を歩くのと同じぐらい寒い気がする。そんな経験はないのだけれども。ああ、嫌だなあ。なにかにつけて嫌になる、自分が。どうしてかなんて、考えようとしてもきっと無駄なんだろう。そういうヒトはそういうヒト、私はこういうヒトなのだ。横文字で簡単に言えば、ネガティブ。日本語で言えば、内向的消極的ダメ人間、とかだろう。

「できるだけ風が当たらないところに……」

 そう独りごちながら、私はコンクリートの壁に囲まれたシャワーの下に移動した。夏に使用したときはここから温水シャワーが出てきてた気がする。あの夏の一瞬を切り取って今シャワーからお湯を出すことが出来ないのかなあ。

 ハア、と溜息をついて見ると、息は白く濁った。薄闇の中だとより一層白く、冷たいものに感じられる。私が吐くものが全て冷たく、私はすでに死んで凍っているヒトのように錯覚する。実際、そうだったらどうなるんだろう。あのプールの中で溺れ、プールが凍ってしまい、冬が終わって春が始まるころに、プールの氷が解け、中からは私の凍死体が……。いや、水死体が凍ったものだから……結局どっちになるんだろう。よく分からなくなってしまった。

「あれ、渡良瀬さーん?」

 佐上くんが戻ってきた。コンクリートの壁から顔を出して、こっちこっちと手招きをする。

「ああ、ここにいたんだ。ここなら風もあたらないね」

「うん。さすがにあのままだと寒くてね」

「まあ、そうだよね。ジャージはこれでよかったよね」

 佐上くんの手にあるジャージを確認すると、確かにそれは私のものだった。

「ありがと、ちょっとぬめぬめが気になるけど、着替えることにするよ」

「どうせならシャワーを使ったらどう?」

「え? 使えるものなの?」

「温水は厳しいだろうけど、バルブを回せば水が流れるようになるはずだよ。どうせシャワー一回分ぐらい使ってもバレないだろうし、やろうか?」

「……それは、できるならやって欲しいけど、大丈夫なの? っていうかなんでそんなこと知ってるの?」

 私はあやしいものでも見るように彼に尋ねていた。佐上くんはそんな視線など意に介さず、飄々とも淡々とも取れそうな口ぶりで言った。

「僕はどちらかと言えば変人なんだよ、渡良瀬さん。普通の人が偶然プールの更衣室の上にいるわけないでしょ。常習的にここに来ているからね。探検気分で周りを観察したことがあるからさ」

 それからの佐上くんの行動は素早く、私には詳しく何をしているか分からなかったが、私の上からシャワーが出てきたので、私は冷たいとは思いつつもできるだけ体に付いたぬめりや汚れを洗い落とした。

「もう大丈夫」

 と外で待っている佐上くんに伝えて、水を止めてもらった。しかし、さっきまでは考えていなかったが、どこで着替えればいいのだろう。当然拭くものなどないし、着替えるスペースもない。

「はい、タオル」

 悩んでいる間に、パッとそれを渡されて、驚いてしまった。

「え? タオルあるの?」

「僕が持ち歩いているスポーツタオルだけどね。小さいし、水気を取るぐらいしか効果はないよ。ああ、安心してね。今日は都合がいいことに使ってなかったから」

「あ、ありがとう。でもどこで着替えよう……」

「ここでいいんじゃないの。コンクリートで覆われてるし、僕が外で誰か来ないか見張っているよ。それにだいぶ暗くなってきた。これじゃ、もし僕が覗こうとしてもほとんど見えないでしょ。見えるところまで近づくとさすがに渡良瀬さんも気づくでしょ。第一、僕は――」

「いや、もういいよ。佐上くん」

 彼にそんな意思はないことは明白だと思ったので、それ以上の口論を述べることは止めて貰った。なんだか野放しにしていたら、私の体型が貧相だから、とでも言われそうな気がしたのだ。気がしただけだけれど。

 黙々と素早く制服からジャージへと着替えを済ませた。背中を見せている佐上くんに声をかける。

「着替え終わったよ。色々とありがとね」

「どういたしまして。それじゃ僕がすることはもうないかな」

「うん。あとは自分で寮まで帰るよ。制服はスペアがあるから、明日の学校にも問題はないし……」

 根本的な問題は残ったままで、どうしたらいいのか分からないのだけれども。

「ああ、話は変わるけど。渡良瀬さん、聞きたいことがあるんだ」

「なに?」

「渡良瀬さんってさ、自分が嫌いかい」

 その質問は私の心臓を抉るかのように鋭かった。嫌い。嫌い。好きではない、ではなく嫌いなのだ。容姿も端麗ではない、勉学もそこそこ、性格はこの通り卑屈。悟られないように悟られないようにと、自分を隠そうとしてこれまで会話を繰り返してきたが、そんなのは無意味だったのだ。私の自己嫌悪は結局外に溢れ出ている。だから、きっと私は、今日みたいに虐げられるのだろう。それもそうだ。普通の人が私みたいな人間を見たら、憤慨することだろう。自己否定を続けて生きていくほど惨めなことはない。そうと分かっていても生きている矛盾がきっと腹立たしいのだ。

「え……う……」

 私は言葉出なかった。肯定して良いのか、悪いのか、分からなかった。だから、答えない。

「まあ、それは明日聞かせて貰うよ。僕は自分が大好きでね。ナルシストと言ったほうが良いぐらいさ。今日僕が色々とやったことを貸しにして、明日の放課後付き合って貰うよ。いいかな?」

「え、それはいいけど……予定もないし……」

 彼の主張の大部分が理解できない……というより、どういった意図で言っているのか分からなかった。彼は何がしたいのか、分からない。

「じゃあそういうことで。放課後、屋上で待ってるよ」

 佐上くんはそう言うと、貸してくれたタオルを置いてさっさと歩いて行ってしまった。彼の意図は分からないけれど、それは明日には分かりそうだし、濡れた下着も気持ちが悪いので、小走りで寮へと戻っていった。

 

 

 

 昨日はあの後も色々と大変だったものだ。制服を洗うのを不審がられ誤魔化したり、夕食の時間が過ぎているのに、なかなかやって来ない理由などを説明したり……全てはプールに落とされたせいなのだが、それを報告することはしなかった。したところで、さらに報復が悪化するだけだろう。そんなわかりきっている選択を私はしようと思わなかった。

 屋上はこの学校に入ってから一度も行ったことがない。正直、昨日のことが夢だったのではないかと軽く思ってしまう。佐上くんは今日学校に出席していないし、屋上に向かう必要があるのか分からなかった。もともと屋上へは鍵が掛かっていて出られないはずなのだが、屋上への扉は開け放たれていた。

 ――佐上くんはそこに立っていた。屋上のフェンス越し。一歩踏み出せば落ちる絶壁に。

「な、なにしてるの!?」

 私はすぐさま彼のもとへと駆け寄った。彼はグラウンド側から見えない場所に立っており、屋上に来た私ぐらいしか彼の存在に気づく人はいないだろう。

「やあ、昨日ぶりだね」

 振り向く顔は昨日のままだ。違うのは昨日よりもその顔がより明るく、細部まで見渡せるぐらい。彼はフェンスに捕まりながらこちらを見ていた。

「そうじゃなくて、なんで、そんなところに!?」

「ハッハッハ。驚くのも無理はないけど、やめてよ。会話にならないじゃないか。驚いたらここから飛び降りるよ。そしたら責任を取るのは渡良瀬葵さん。君だよ」

 身を挺した脅迫に、私は従うしか無かった。

「な、なら私はどうすればいいの……」

「ここで僕と会話をするだけでいいさ。簡単だよね」

 わけが分からなかった。彼がこんなことをしてまで、私と会話をする必要があるのか、ということ。なぜ、彼はこんなことを平気でやれるのか、が。

「昨日の続きさ、渡良瀬さん。君は自分が嫌いだろう。少なくともそう思っているだろう」

「う、うん……」

 有無を言わせない言葉は、会話というよりは尋問に近かった。

「僕はナルシストでね。自分が大好きなんだよ。だから、昨日みたいなことをすることは僕の人生において片手で数える程度だろう。僕を知っている人からすれば異常事態さ。まあ、そんなことは渡良瀬さんに取っては知りようがないし、僕のことを詳しく知っている人なんてそうそういない。だからどうだっていいのさ」

 佐上くんは一呼吸を置いて喋り出す。

「気に食わないのは、渡良瀬さん。君のふるまいだよ。ああ、もちろん渡良瀬さんがトロいとか、頭が良くないとか誰かに迷惑を掛けたとか、そういうことなんかどうだっていいんだよ。だから、ふるまいというよりは考え方だね。人それぞれに考えはあるっていうよね。だから、お互いのことを尊重しあうべきだ、と。よくある言葉さ。お互いに認め合うことが大事っていうね。でも僕は君を認めるわけにはいかないんだよ。なぜか分かるかい」

 言葉出なかった。私の何がいけなかったのか。そもそも私は何か過ちを犯していたのかすら分からなかった。

「まあ分かるわけないさ。だからこそ、僕は君の考え方を認めるわけにはいかないのさ。自分が大嫌いだと考え、自分を嫌悪し続ける、そう捉える君自身の存在をね。僕と対極さ。全てが反転していると言ってもいい。自分が大好きな僕と、大嫌いな君。それぞれの考え方を認め合うことは出来ない。認めたら、自分の主張がブレるからだ。だからこそ、僕は君を否定しなくちゃならないんだよ」

「な、なんでそんなことのために、ここまで……」

 明らかにおかしい。命を投げ出してはいないものの、投げ出そうとはしている彼の行いは。

「僕は自分が可愛いさ、ナルシストだからね。死にたいなんて微塵も思っていないさ。それでも矜持が一番大事なんだよ。その矜持を守ることが大事なのさ。だから君のそれを壊そうと思ってね。自分が大嫌いなら、なんで君は生きているのさ。死ねばいいだろう」

「それは……」

「結局のところ、君の主張は全てが紛いものなのさ。ふるまいから溢れる私は自分が大嫌いだ、という行動も他人からしてみれば、それをアピールする人間にしか見えない。だからこそ、昨日のようにされるんだよ。努力し生きている人に対して目障りでしかないからだ。まあ暴行がそれで容認されるわけではないがね。今回の因子は君にもあるってことさ。それを考えずに、虐げられる私が嫌いだの、嫌だのと考えているようでは、悪化する一方なのは目に見えている」

 佐上くんは言葉を紡ぐ。

「ま、僕が君に思っていることはそれだけさ。これで僕がやりたかったことは終わりだよ。さよならだ」

 その言葉と共に、佐上くんは落ちていった。フェンスを掴んでいた手を離し、ゆっくりと悠然と、恐れるもののないように、解放されたかのように。あっけなく彼は地面へと落下していた。下にはコンクリートしかない。この高さからでは確実に死を免れないだろう。

 私はそれを事実として受け止められていなかった。彼の命を賭した言葉は、私の内部を瓦解させるには充分だった。死にたいなんて思っていない、と言ったのに、あっけなく死を選んだ彼の行動。私を見た彼が思ったこと。

 全部、逆……。好きなものほど、嫌いで、嫌いなものほど、好き……だと佐上くんは考えていたのではないか。ナルシストと主張し、裏で自分のことを心底嫌っていたのではないか。逆に私は嫌い嫌いと言いつつ、そんな自分を好いていたのではないか。

 屋上の上から下を眺めると、そこには赤い人の形をしたものが一つ落ちていた。彼は死に、もういない。その他の何が正しいかなんて考えたく、なかった。私の中がこれ以上壊れたら、きっと彼と同じことをすると確信めいた何かが私の中にあるからだった。

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