渾天儀 |
「とりあえず、お茶でもどうかね」
茶器をひと揃え盆に載せて知己の天文学者が部屋に入ってきたとき、私はちょうど部屋の隅に置かれた渾天儀をまじまじと観察しているところだった。
「それが気になるか?」
「ええ。どのように使うのかよくわかりませんが」
複雑に組まれた幾本もの円環はどこか知的好奇心をくすぐる。まるで子どもが新しいおもちゃを手に入れたときのようだ。ただ、子どもの遊具と違うところは下手に触れない物であることと、説明されてもおそらく理解するのに相当な困難を要しそうなところであった。実際、彼は茶を淹れながら六合儀がどうとか玉衡がなんとかといろいろ説明してくれるのだが、さっぱりわからなかった。
「まあ、今となっては骨董品とかわらんよ。観測機器も日々進歩しているし、もう補助器具として使うこともないから、そうして部屋の片隅に飾ってある」
勧められて席に着き、青磁の茶杯を受け取った。色目・香り・味と、順に愉しんでいく。彼もまた、対面に腰掛けて茶を少しずつ口に含んでは、満足そうに白く長い顎ヒゲを撫でていた。いまどきこのあたりでも珍しい灰色の深衣を纏い、長い白髪を大雑把に結った様は、まるで深山の仙人のようにも見える。
あらためて部屋を見回してみる。部屋の中には膨大な書物や巻子、六分儀や望遠鏡などの機器が所狭しと置いてあった。
大きく取った天窓からは夜の闇が覗いている。
「どんな物でもいつかはその役目を終えるのだから惜しいとは思わんが……やはり思い出深い品だからな」
「いつから手元にあるんですか?」
「わしが子どものときからさ」
彼が子どもの時分からということは、私が生まれるよりさらに二、三十年は前だ。目を見開いて驚いていると、彼は何本か抜けた歯を見せて笑いながらさらに続けた。
「驚くのはまだ早いぞ。なんせわしの父親が若い頃に使っていたものをもらったのだからな。すでに一世紀近くは経っている」
「……さっき不用意に触らなくてよかったです」
もし間違って壊すようなことがあったら二度と顔向けできないところであった。
「普段からまめに手入れはしているし、雑に扱わなければ大丈夫だがな」
「けど、それだけ大切にしているということでしょう? なら、やっぱり気が引けますよ」
妙に緊張してのどが渇いてきた。茶を呷って潤すと、すぐにもう一杯注いでくれた。
自分の分も注ぎ足し、またゆっくりと味わいながら渾天儀を眺めている。その目は、遠く懐かしい過去を振り返るかのように細められていた。
しばらくして、彼がおもむろに口を開いた。
「わしの父親も天文学者でな。この国も古くから西方の国々と同じように天文学は盛んで、父は官吏として暦作りに携わっていた。その姿を見て育ってきたからか、わしも漠然と、将来はこの人と同じような天文学者になろうと、子どもながらに思ったもんだ」
「親の影響ですか」
「ああ。ただ、それまでなんとなく思っていただけのわしに、天文学を追究するきっかけをくれたのは、あの組まれた円環の集まりだったと言って間違いない」
彼は立ち上がると渾天儀のそばまで歩み寄った。節くれだった指が真鍮の環に刻まれた目盛りをなぞる。
「九つの頃だ。父の私室に置かれていたこれを見たわしは一目でその形状に惚れ込んだ。あとはもういろいろな角度から嬌めつ眇めつさ。さっきのおまえさんと同じように、目をキラキラさせながらな」
「……キラキラしてましたか?」
「うむ。キラッキラしとった。ま、それはさておき、俄然欲しくなったわしは父にねだって譲り受けた。拒まれることもなかったから、おそらく父も好奇心や探究心の芽を摘む気は、ハナからなかったのだと思う。そのかわり、使いこなせるようになれと言われた。もし、途中で飽きて投げ出すようなことがあれば取り上げてしまう、と」
なかなか厳しい父親だったようだ。それとも息子が自分と同じ道に興味を持ったことがうれしくて、しっかり後ろをついてきてもらいたかったのだろうか。
「あとはいろいろと父から教わるうちに、すっかり天文学の分野で学究の徒となってしまった」
「お父上は喜んでいたでしょう?」
「まあ、わしも好きでやっていた分、飲み込みも早かったしな。それに」
今度は隣にあった望遠鏡を覗きこみながら話を続ける。天窓からは星がよく見えないので、ただ覗いているだけのようだ。
「この道を追究した者にしか知りえないものもある。それを知ることが出来たのは導いてくれた父と、この渾天儀のおかげだ。おまえさんもあちこち回って写真を撮るうちに、世の中のほとんどの者が知らない世界を垣間見たことはあるだろう?」
私は強くうなずいた。たしかに、まだ限られた人間しか見たことのない絶景を目にしたこともある。うまく説明できないような不思議な体験をしたことだって、一度や二度ではない。
「ただ漫然と生きていくことも出来るなかで、世の理に触れる機会を得られるのは、それだけで幸運なことだよ。たとえば月ひとつ見上げてみてもそうだ。遠目から見る分にはきれいなものだが、一度望遠鏡を覗きこんでしまえば、その表面はごつごつしていてそんなに美しいものではない。多くの者は興味を失ったり落胆したりすることだろう。しかし、我々学者やそれに準ずる者はもう一歩も二歩も踏み込んで、調べ、考え、答えを導き出す。その行為自体に意味を見出す。なにも学問に限らず、どんな分野にだって門外漢にはわからん求道者だけの『新しいことを知る楽しみ』というものがあるわな」
彼は望遠鏡から目を離すと「すまん、思わず説教くさくなってしまった。今度はおまえさんの話を聞かせてくれ」と、元の席に戻ろうとした。それを引きとめ一枚撮らせてほしいと頼む。
「わしもそう先は長くないだろうから、これを記念にしようか」
「縁起でもないこと言わないでください。あれだけ達者に自分の考えを述べることが出来るなら、まだまだ長生きしますよ」
少し離れてカメラをかまえる。
老いた天文学者と彼をその道へいざなった渾天儀。切り離して別々に撮ってしまっては、おそらく意味がない。直感がそう告げている。
――運命的な被写体との出会い。
(これもまた、写真を撮ることが好きな者たちの特権なのだろう)などと考えながら、私は指に力を入れた。
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2013年4月4日作。読みは「こんてんぎ」。偽らざる物語。 | ||
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