チハタンのケニB ラヴリネンコ流の本領
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 戦車乗りの朝は早い。

 遥は翌日の朝五時には校門の前に立っていた。

「うわっ、ほんとにこんな時間から校門が開いてる。用務員のおじさん大変そう」

遥は自転車を駐輪場に止めて、戦車格納庫に向かう。早朝訓練には間に合わないだろうが、放課後の訓練までにはケニB(九八式経戦車B型)の点検を終えたい。いつ納入されて、どれくらい放置されていたのかは聞いていないけれど、搭乗員自らが点検し整備するのが戦車の基本だ。

「丹波さん、おはようございます」

 声の主はケニBの操縦士をかってでた戦車道教室師範代の平野伊織だった。

「あ、平野さん。おはよう」

「どうしたんですか、その格好?」

「戦車の点検するからツナギの作業服を着てきたんだけど」

 颯爽と姫カットの黒髪をなびかせる伊織は制服をかわいらしく着こなしていた。

「平野さんこそ、これから整備するんだよ。制服のままじゃ汚れちゃうよ」

「ご心配なく。要領を踏まえてしっかりと点検すれば服や手足を汚すことはありません」

「そういうものなの?」

「そういうものなのです」

 伊織は自信たっぷりに応じる。戦車道の師範代ともなれば整備の奥義の一つや二つ会得していてもおかしくないのかもしれない。遥はこの件に関してよけいな質問はしないことにした。

「清乃さんはまだ来てないのですか?」

「見てないけど、先に来てるかも」

 二人は一緒に歩き出す。

「末吉さんとは昔から仲がいいの?」

「いいえ、ちゃんとお話しするようになったのはここに入学してからです」

「なんだか意外。ずっと前からの友達みたいに見えたから」

「全然出身地も違いますから。でも小学生の時から、顔と名前はお互い知ってました。地方ブロック大会とか全国大会ではしょっちゅう戦ってましたから」

「ふーん。そうなんだ」

 北海道の片隅で、たまたま近所に住んでいたロシア人のお姉さんからちょっと戦車道を習った程度の遥には知るよしのない世界だった。少しうらやましく思った。

「でも、ほんとにあたしが戦車長でいいのかな? 戦車に乗ってたのは中一の頃までだし、大会に出たこともないし、みんなの足を引っ張っちゃうんじゃないかな」

「戦車長の経験はないんですの?」

「いちおう装?手から戦車長まで一通りは経験してるけど、特に優秀だった訳でもないから」

「だれしも最初から優秀だったわけではありません。これから研鑽していけばいいのです。だいじょうぶ。自信を持って。私や平野さんがしっかりサポートします」

 伊織の言葉は心強かった。

 

 格納庫の直前まで来たところで、二人は女子小学生の集団に遭遇した。初等部の戦車道部の子達だろう。お揃いのタンカーズジャケットを着た小さな戦車乗りたちは、駆け足で遥と伊織の脇を通り過ぎていく。口々に「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」と何度も声を掛けられ、挨拶をしかえすのが大変だった。

「すばらしいです! 『乗り物には油をさし、生き物には挨拶する』 戦車道の基本が身についていますね」

 伊織は小さな戦車乗りたちの後ろ姿を見送りながら目を細めた。

「あたしも小学生の頃はあんな風だったのかなぁ」

「あの子達の1/3くらいでもうちの教室に通ってくれればいいのですが」

「え?」

 伊織はいたずらっぽく笑った。

 

 格納庫の手前には一輌の戦車が停まっていた。九七式中戦車に姿を模した指揮戦車だ。鉢巻アンテナ付きの砲塔からは主砲が撤去されて不自然な感じがする。車内には作戦指揮用の机や通信機が増設され、車体前面には機関銃の代わりに九四式37o戦車砲が据えられている。特別仕様車なのか、戦闘室の背後からさらにロッドアンテナが2本生えていた。その脇で、体操服姿の清乃がタンカーズジャケットを着た上級生に何か頼み込んでいた。

「先輩、是非サインください」

「え〜、サインなんてしたことないし〜」

「お早うございます」

 遥と伊織は声をそろえて挨拶した。

「あ、丹波ちゃんひらちゃん、おはよう」

「おはよ」と上級生。

 清乃は興奮したよう様子だった。

「ひらちゃん、丹波ちゃん、聞いてよ聞いてよ」

「どうしたの?」

「なにごとですか?」

「ここにいるの、あの武富志摩先輩なの!」

「まあ、武富志摩先輩といえば、昨年のプラウダ高校との練習試合でIS-2重戦車の操縦席展望窓を撃ち抜いて撃破した名砲手じゃないですか! お初にお目に掛かります」

 伊織は武富志摩先輩にぺこりとお辞儀した。

「いや〜、命中するまで3発無駄にしちゃったし、もたもたしてるうちに小隊の仲間は全滅しちゃったし、試合も結局負けちゃったし、あれからプラウダ高校は懲りちゃったんだか直視バイザー付きのJS-2は公式戦に出さなくなっちゃったからね〜 いろいろごめんね〜」

その話は遥も新聞で読んだことがある。「チハタン、スターリンを撃破!!」とかいう見出しで、試合に勝ったはずのプラウダ高校が気の毒なくらい意気消沈し、全車行動不能で全滅した知波単学園がお祭り騒ぎになったという不思議な試合だ。

「今日からから戦車道部に入部しました平野伊織と申します」

 伊織が改めて挨拶する。。

「一年精密機械科の丹波遥です」

 遥もつられて会釈した。

「昨日も会ってるよ〜。うち、五郎八ちゃんの『さくら號』の砲手だし」

「『さくら號』って、昨日の九七式中戦車ですか?」

 遥が聞き返す。

「そ〜だよ〜。旧型車体に57o砲の旧型砲塔のチハ車九七一三号車のパーソナルネームなんだ〜」

 フランクな雰囲気の武富志摩先輩はどこか眠そうに見えた。なぜか、射撃の達人といわれる人たちは、おっとりしてるというか、ぼ〜っとしてる風な印象の人が多い。遥はそんなことを考えていた。

 

 不意に指揮戦車の向こう側から、けたたましい目覚まし時計の鐘が鳴り響いた。

「おっと、時間だ」

 腰にぶら下げた目覚まし時計の鐘を止めたのは左藤五郎八先輩だった。

「集まったなッ、初等部のヒヨコどもっ! まずは挨拶だーッ。おはようございますっ」

 五郎八先輩の甲高い大声が広い格納庫に鳴り響く。

「おはようございま〜す」

 すくなくとも八十名はいるであろう初等部の子達が声をそろえて挨拶する。

「あたしが高等部戦車道部第二中隊中隊長の左藤五郎八さんだ。おまえ達ヒヨコどもの指導教官をやることになった。これから一年、いっぱしの戦車乗りになるように、この五郎八さんが鍛えてやる」

 戦車乗りの地声はでかい。拡声器などなくても格納庫の隅々まで声が届く。

「よろしくおねがいしま〜す」

五郎八先輩はコホンと一つ咳払いしてさらに続けた。

「いいかい、ヒヨコどもっ。これから五郎八さんが言うことを後から続けて唱えるんだっ」

 五郎八先輩は初等部の子達を一人一人見渡してから、ひときわ声を張り上げた。

「戦車を信じ、仲間を守れ! 戦車道は愉しい!」

「せんしゃをしんじ、なかまをまもれ。 せんしゃどうはたのしい!」

 ちいさな戦車乗りたちが一斉に復唱する。

「大変よろしい! 自分たちの戦車を自分たちで手入れするんだ。そうして自分たちの戦車を隅々まで知り尽くせ。戦車は必ず応えてくれる。戦車は一人じゃ動かせない。戦車乗り一人一人が自分の役目を果たすことで戦車は初めて動くんだ。だが、与えられた役目だけをやっていればいいわけではない。お互いの仕事を手助けすることで信頼と余裕が生まれ、困ったことにも立ち向かえるようになる。そうやって、自分の戦車での役目、自分の小隊での役目、自分の中隊での役目を考えて動けば、戦車の力を最大限引き出せる。戦車道はその先にあるっ」

 五郎八はここで一呼吸間を置いた。

「おほん、ここで初等部のヒヨコちゃん達に紹介したい連中がいるのだっ。丹波ちゃん、よっしー、ひらりん、出ておいで」

 不意に名前を出されて、遥は驚いた。

「え? は、はい」

「よっしーって、アタシですか?」

 と清乃。

「ひ、ひらりんですか?」

 指揮戦車の裏側から現れた三人に、少なくとも八十名はいるであろう初等部の小さな戦車乗りたちの好奇の目が注がれる。

 五郎八はなにか捜し物があるらしく、服のポケットをまさぐり始めた。胸、おしり、腰とポケットに手を突っ込み、裏地を引っ張り出したり、ヒューズやらナットやらを取り出したりしてるうちに、タンカーズジャケットの内側のポケットからくしゃくしゃに丸まった紙くずが転がり落ちた。

「おっと、いけね」

 五郎八は落とした紙くずを拾うと、丁寧に広げなおした。メモ書きのようだった。

「聞け、初等部のヒヨコたちッ! ここにいる三人は、高等部の編入試験でわざわざ我が校に入学し、戦車道のさらなる高みを目指す熱き情熱に燃えた『流れ者三人衆』である」

 五郎八の背格好には避釣り合いな甲高い、どちらかと言えばこどもっぽい声が格納庫内に響き渡る。「おお!」「へー」「すごーい」小さな戦車乗りたちが口々に感嘆の声をもらす。

 いえ、そんな大それた目標があって来たわけじゃないんです。遥は一歩前に出て、そう言いたかったけれど、初等部の小さな戦車乗りたちのあこがれと敬意に満ちたまなざしを浴びながら、期待に反する真実を告げる勇気はなかった。

「ブレザーの制服を着てるのが平野伊織こと『ひらりん』。玉田流戦車道の美人師範代だ。機動戦に長けた流派でどんな長距離でも戦車を転がしていくぞっ。隣の体操服が末吉清乃こと『よっしー』。中学戦車道選手権で最優秀砲手に選ばれたことのある名狙撃手だ。聖グロリアーナの推薦入学を蹴ってウチに来た気骨のある戦車乗りだッ」

 五郎八先輩が手にした紙くずには三人のプロフィールが箇条書きされているようだった。伊織と清乃のプロフィールを説明するたびに歓声があがった。二人の経歴は華々しく、そして輝いている。並々ならぬ努力と訓練、そして才能のたまものだろう。それに比べたら遥のやってきた戦車道は公園の砂遊び程度の代物だ。

「そして、ツナギの作業服を着てるのが丹波遥こと『タンバちゃん』。ロシア発祥の謎の流派ラヴリネンコ流の使い手よ。あのプラウダ高校にも習得してる戦車乗りはいないっ。この五郎八さんの一番弟子でもあるのッ」

 格納庫内がざわめいた。

 初等部の生徒が一人手を挙げた。

「いろは中隊長、しつもんがあります」

「なに、『みずのん』。言っちゃいなさい」

 六年生くらいだろうか、みずのんと呼ばれた少女は続けて話す。

「ラブリンコ流とはどんな流派なんでしょうか?」

「え、どんな流派かって?」

 五郎八は不意に毒矢にでも射貫かれたかのような顔をすると、両腕を組んで小首をかしげた。さらに右手の人差し指を宙でくるくる回すと、視線をどこへともなく泳がせた。

「え〜と、ラブリンコ流派ねぇ、たしか…… そう。その名の通り、愛ね。戦車への愛を大事にする流派だと思うよ。愛は大事。愛こそすべて。で…… 機先を制して相手を覆滅する、コテンパンにね。そんな感じ」

 正しくはラヴリネンコ流で、偽装と伏撃に重きを置いた守りの流派なのだ。もう名称も内容も原形を留めていなかった。

 五郎八は額の汗をぬぐうと、メモ紙を再びくしゃくしゃに丸めポケットの中に突っ込んだ。

「まあ、詳しいことは『らぶりん』から訊いてネッ!」

 五郎八先輩は、ぞんざいで捻りのないあだ名をつけるのが好きらしい。

「では、三年生から六年生は各自戦車の点検を。点検終了後、各戦車長は小隊長に報告。小隊長は各車の状態を、この五郎八さんに報告しなさい」

 五郎八は遥たち三人を横目でちらりと視線を送る。

「一年生と二年生は『らぶりん』、『よっしー』、『ひらりん』の前に整列っ、三人から操作の基本を習うようにっ。それでは始めっ!」

 唐突な指導担当指名に三人は驚いた。

「えええ?」

「アタシら、まだ自分たちの戦車の試運転もしてないんですよ?」

「でも私たち、まだ正規乗員試験も受けてませんし……」

 五郎八は涼しい顔で遥たち三人の抗議を受け流す。

「いっぱしの戦車乗りなら、後輩の指導くらいできるでしょ。他人にうまく説明できないってのは自分もよくわかってないってことじゃない? これもテストの一環だから、がんばってよ、タンバちゃん、よっしー、ひらりん」

 五郎八はにやりと笑った。

 

「ところで、どーして三人とも支給したタンカーズジャケット着てないの?」

 遥たち三人は顔を見合わせた。誰もそんな話は聞いていない。

「佐藤先輩。あたしたち、まだ何も支給されてませんけど」

 五郎八は訝しげに、腰にぶら下げた図?の中身を確認すると一瞬不吉なものを見つけてしまったかのような表情をした。

「あらら、ごめん。あたしが伝票持ってたわ」

 五郎八は照れながら三人にピンク色の伝票を手渡した。

「あとでそれを持って、兵站科に行ってちょうだい」

 そんなやりとりをしてる間にも、次々と高学年の子たちが各戦車の点検状況を報告に駆けつけていた。五郎八が報告を受け、頷くたびに腰の目覚まし時計が揺れる。

「みずのん、強制換気ファン起動ッ!」

 五郎八の号令とともに、みずのんと呼ばれた少女が壁付けされた制御盤に駆け寄りボタンを押し込む。換気口ダンパーが開く軽い金属音がすると、格納庫の強制換気ファンが大きなうなりを上げる。

「第一小隊から第六小隊は各車エンジン回せッ 五郎八さんのシキ車に続けっ!」

 小さな戦車乗りたちは一斉に戦車の中に潜り込み、エンジンを始動させる。一発で掛かるものもあれば、なかなか掛からないもの、もうもうと排気管から白煙を吐き出すものもいる。ガソリンエンジンの九四式軽装甲車はともかく、ディーゼルエンジンの九七式軽装甲車は始動にコツがいる。

「慌てなくていいからねーっ。全車掛かってから出発だーっ!」

 強制換気ファンの轟音とエンジンの爆音をかき消すような五郎八の大声。小さな戦車乗りたちは砲塔の天蓋から身を乗り出したり、操縦席のバイザーを跳ね上げた状態にして五郎八中隊長に真剣なまなざしを向ける。

 相棒の武富志摩が戦車の中に乗り込んだのを確認すると、五郎八は指揮戦車の砲塔に仁王立ちして、右手を高く掲げゆっくりと振り下ろした。六個小隊の小型戦車が指揮戦車を先頭にぞろぞろと時速5qでゆっくり進み出す。

 

 騒々しい左藤五郎八中隊長の去った格納庫はバンドワゴンが通り過ぎたあとのような静けさだった。取り残された低学年の戦車乗りたちは、指導を丸投げされた三人の前に整列する。

 これは遥にとってまったく予想していない事態だった。九八式軽戦車の整備と点検だってしなくはならない。そのうえ、小学生の指導もしなければならないとは。

「清乃さん、丹波さん、初等部の指導は私がしますので、二人に点検整備をお任せしてもよろしいでしょうか?」

 伊織が目を輝かせながら提案してきた。

「でも、いいの?」

「ハイ、これは実家の生徒さんを増やすチャンスかもしれませんし」

「ひらちゃんは商魂たくましいなぁ。じゃあさ、アタシと丹波ちゃんでざ〜っと点検したら、そっちを手伝うよ」

 伊織は初等科の生徒達の前に進み出る。そして自分の周りに小さな戦車乗りたちを集めると、質問を投げかけた。

「このなかで、戦車運転できるよって子は手を挙げてくれるかな?」

 初等科の生徒達の経験の有無を確認しているようだった。

「じゃあ、機関銃撃ったことのある子は?」

 

 遥と清乃はその隙に、九八式軽戦車の点検をはじめた。

「足回りはアタシが見るから、丹波ちゃん中の方おねがい」

 清乃は片手に小型のハンマーを持ったまま屈み込み、履帯・転輪・起動輪・誘導輪・サスペンションアームを調べ始めた。

「うん、わかったわ」

 遥は砲塔のハッチを開け、車内に潜り込んだ。日本戦車に乗るのは初めてだが、なにか違和感があった。操縦席のシートにはビニールが被せてあったし、主砲の肩当てや同軸機関銃のグリップには使い古された感がない。古い部材の合間に新たに作り起こされた部品が取って付けられたレストア車輌の趣がまるでないのだ。まるっきりの新品みたいだった。

防危板の裏側に取り付けられた後坐測尺の浮標を、念のため一番手前まで戻しておいた。主砲の駐退液の量は適正なんだろうか? 永く放置された車両なら照準器のレンズにカビが生えてる事だってある。おそるおそる照準器を覗き込む。大丈夫なようだ。レチクルがきれいに見える。200m刻みで2000mまで目盛りがあった。おそらく、榴弾用の照尺だろう。たとえ2000m先の目標に当たったとしても、37o徹甲弾の威力は微々たるものだ。砲弾ラックには七割くらいの砲弾が収められたままになっている。同軸機関銃の予備弾倉は規定数揃っているようだ。だが、一度ぜんぶ車外に運び出してチェックした方がいいだろう。薬莢の汚れや錆、変形は排莢不良の原因になる。

車外では清乃が念入りに調べているらしく、あちこちをハンマーで軽く叩く音が響いてくる。遥は操縦手席に座り、計器やスイッチ類の確認をする。小振りな丸ハンドルの間から計器盤を覗くというのは戦車らしからぬ不思議な経験だ。燃料は半分ほど残っているようだ。だが、いったいいつ入れたものやら。あまり長いこと放置されてるとタンクの底に水が溜まってる可能性もある。整備記録がちゃんと残っていればいいのだけれど。胸のポケットから手帳を取り出して、速度計に組み込まれた現字形距離計の示す数字を書き込んだ。戦車も自動車とさほど変わらない。走行距離、運転時間を目安に定期的に整備や部品交換を行わねば動かなくなってしまう。250q? この数字が正しいなら、この戦車は散歩程度の距離しか走っていないことになる。一周しちゃったんだろうか、それとも故障してメーターを交換したあとなのか、今現在も壊れたままである可能性も捨てきれない。バッテリー液の比重も計っておいた方が良さそうだ。

「あ、油圧操向方式か……」

 遥は丸ハンドルを握ってつぶやいた。戦車道に用いられる戦車で油圧式操向方式を採用したものはほとんど無い。当時の技術レベルでは扱いにくいやっかいな代物だったのだ。フランスのシャールB1等がいい例で、作動油の劣化が激しいので頻繁にオイル交換しなければならず、それが損耗を高める一因になったのだとか。一説によると100時間も運転しないうちにオイルを交換しなければならなかったらしい。ケニBはどれくらいの頻度でオイル交換する必要があるのだろう?

「この子はけっこう手が掛かるかもしれないなぁ」

 いずれにせよ、このケニBの来歴を知っている人物を捜し出し、いろいろ聞き出した方が手っ取り早そうだ。

 不意に砲塔のハッチから呼びかける声がした。

「丹波ちゃん、丹波ちゃん、ちょっと出てきてよ」

 声の主は清乃だった。遥は操縦手席から砲塔に移動してハッチから顔を出した。

「どうしたの?」

「あれ見てよ。ひらちゃん、小学生にタンカーズジャケットのおしゃれな着こなし方レクチャーしてるんだ……」

見れば、伊織は一人の女の子をモデルに仕立てて、こうすると足が長くすらっとして見えるとか姿勢はこうした方がキレイに見えるだのと事細かく説明していた。さらには櫛を取り出して髪型までアレンジし始めた。初等科低学年の戦車乗りたちは、伊織の周りに集まってその様子に食い入った。「いいなー」だの「先生。次、あたしもやってくださーい」だの「すごーい」だのという声が次々とわき上がる。なんとも巧みな人心掌握術に遥は心底驚いた。

 遥と清乃の視線に気づいたのか、伊織はにっこり微笑むと二人を手招きした。

「お二人とも、ちょっとこちらに来てください」

 遥と清乃は九八式軽戦車から飛び降りると、言われるがままに伊織のそばに進み出た。自分も伊織にファッションコーディネートされてしまうのだろうかと、遥は少し不安になった。ツナギの作業服をファッショナブルに着こなすのはどう考えても無理だろう。

「マリちゃん、この二人にジャケットの下に着てるTシャツを見せてくれるかしら?」

「ハイ、いおりせんせい」

 さっきまでモデルをしていた少女が羽織っていたタンカーズジャケットを脱いで見せた。

「ひらちゃん、これちょっといいかも」

「へー、こんなTシャツ売ってるんだ」

 マリちゃんの着ていたTシャツにはディフォルメされた九七式中戦車の正面図イラストと「せんしゃだいすき!」の文字がプリントされていた。

「背中はどうなってるのかな?」

 遥がそう言うと、マリちゃんは得意げに背筋を伸ばしたままくるりと後ろを向いた。伊織が伝授した美しいターンらしい。

 背中にはディフォルメされた九七式中戦車の後面図イラストと「せんしゃどうはおとめのたしなみ」の文字。イラストは可愛らしくあしらわれているが、このTシャツを街中でおしゃれに着こなすには高度なセンスが要求されるだろう。

「へー、袖にV字が一本はいってるのか」

 清乃がそう呟くと、マリちゃんが説明し始めた。

「それ『せーきんしょー』なの。一年せんしゃどーを習うと一本もらえるの。あたし一年生からはじめて二年生になったから一本もらったんだ」

 マリちゃんはどこか誇らしげだ。

「『せーきんしょー』?」

「丹波ちゃん、『精勤賞』のことだよ。警察官なんかが一定期間まじめに勤務するともらえるやつ」

「じゃあ、このTシャツは戦車道部のオフィシャルグッズというか、ユニフォームってこと?」

「どうも、そのようです。ここに集まった初等部の皆さんが着てますから」

「アタシらも希望すればもらえるのかな?」

「私も欲しいですが、着こなすのは難しそうです」

 そんなやりとりのあと、遥と清乃は伊織を手伝って初等部の子達の指導をし始めた。まずは戦車の基本と搭乗員の役割分担を説明し、大まかな点検の仕方、取り扱い方の見本を見せる。時間はあっという間に経ってしまった。

 

 朝練のあとのシャワーは格別だ。土埃と油のにおいの染みついた体をキレイに洗い流す。だが、そのあとがよくない。ほどよい疲労感と、湯上がりの爽快感は一時間目から幾度となく遥をまどろみへと誘う。遥はそのたびに教科書を読まされたり、大きな音を立てて机に頭をぶつけたりした。

 昼休み、遥は清乃や伊織と一緒に別棟にある兵站科へと赴いた。支給品のタンカーズジャケットを受け取るためだ。

「兵站科って、あまりよその学校じゃ訊かないよね」

「アタシもよく知らないんだけどさ、輸送とか補給とか物流関係を勉強する科らしいよ。もともとは輜重科っていったんだって」

「英語で言うところのロジスティックスですね」

「あ、英語だとちょっとかっこいいかも」

「丹波ちゃんって案外ミーハーだね」

「そ、そお? でも、なんで堅苦しい名前の科が多いのかな、化兵科とか兵站科とか築城科とかさ」

「あら、丹波さんは知らなかったんですか。知波単科学園はもともとエンジニア科しかない学校だったんですよ」

「でも、エンジニアって技術者のことでしょ。なにか関係あるの?」

「エンジニアは元々『工兵』って意味なんですよ。優秀な工兵を養成するために作られた学校、それが知波単科学園。だから、他の学園艦だと『商船科』とか『船舶科』とかで操船していますが、ウチは『船舶工兵科』ですよね。それに知波単だけが『学園船』と名乗っているのは陸軍とゆかりが深かった名残なんだそうですよ」

「お〜、そっか〜。だから学園船なんだ。アタシもよく知らなかったよ」

「ところでこの伝票はどこの誰に渡せばいいのかな?」

 遥はけさ五郎八先輩に渡されたピンクの伝票を取り出した。

「丹波さん、その伝票なんですが……」

「どうかしたの、平野さん?」

「近所のスーパーのチラシの裏に印刷されてるんですよ。しかもほとんど手書きだし。この伝票、ちゃんと使えるものなんでしょうか?」

 伊織は自分の持ってる伝票の裏を見せた。そこにはピーマンとニンジンの値段が克明に記されていた。

「ひらちゃん。いくらなんでも、そりゃないでしょ〜」

 清乃は笑いながら自分の伝票を確認した。

「ほらほら、確かに手書きっぽいけどさ、部長の印鑑も顧問の先生の印鑑も生徒会長の印鑑も押してあるし、問題ないんじゃないの」

 しかし裏面には砂糖の特売が明記されていて、赤鉛筆で念入りに三重丸が描かれているという使用感たっぷりの風情があった。

「アタシ、どーして気づかなかったんだろう。不安になってきたよ」

「資源を大切にするエコロジーな校風なんだよ、きっと」

 遥は二人の不安を打ち消そうとした。だが、自分でも確信を持てないでいる事を友達に信じ込ませるような芸当のできる遥ではなかった。ついつい視線が泳いでしまう。

 

 三人はトラックヤードにたどり着いた。鋼材を積んで到着したトラックやら、コンテナを積んで出発するトレーラーが慌ただしく出入りしている。遥は事務所とおぼしきプレハブ小屋のドアを叩いた。

「すみません、兵站科で戦車道のタンカーズジャケットの支給を受けるように言われてきたんですが……」

「はいは〜い、いらっしゃ〜い。え〜と、被服の支給ね。伝票はあるかしら?」

 事務机でパソコンの画面をにらんでいた兵站科の二年生水谷吉穂が応対する。右耳に青鉛筆を挟み、制服の胸ポケットにはマーカーやらボールペンやらがペン立てのような勢いで突っ込まれていた。

「これでいいんでしょうか?」

 遥は恐る恐る手作りの風合いに満ちあふれたピンク色の伝票を差し出した。清乃と伊織も自分たちの伝票を手渡す。

 吉穂は受け取った伝票の文面を読み上げる。

「え〜と、此ノ伝票ヲ持参セシ者ニ戦車道被服装備一式支給スベシ……か。ざっくりしてるわねぇ」

 そう呟くと、緊張している遥たち三人を頭のてっぺんから足のつま先までじっくりと見渡した。

「三人ともあまり見ない顔だけど、編入生かしら?」

「はい、そうです」

 伊織が愛想よく微笑みながら答えた。

「戦車道を履修するなら、もっといい学校が幾らでもあるのにわざわざウチに来てやるなんて……。勝利の栄光とは縁遠い生活になるとは思うけど、まあ、がんばって」

 そう言いながら兵站科の二年生水谷吉穂は伝票をひっくり返し、ぷっと小さく噴き出した。伝票の前世がスーパーのチラシだと気づいたようだった。

「これ作ったのゴロハチでしょ?」

「え、あの、左藤五郎八先輩から渡されたんですが、無効なんでしょうか?」

 遥は不安になって聞き返す。嫌な汗が頬を伝う。

「あ、ちょっと待ってね」

 吉穂はさっきまで作業していた事務机に戻ると、パソコンを叩き、プリンターから書類を吐き出させ、どこかに電話を掛け「7YP一、9ABR一、それから7BT一」と、なにか発注するようなそぶりを見せ、ロッカーから何かの綴りを取り出した。

「次からは、この正規の書式に則った伝票用紙を使うように、暴れん坊のゴロハチに言ってくれるかしら」

 吉穂はきょとんとしている遥に伝票用紙の綴りを渡す。

「必要とされる物を、過不足無く、必要とされる場所に遅滞なく供給するのが兵站科の仕事よ。少々伝票に不備があっても何とかするけど、毎回毎回毎回お手製の紙切れを寄越されるとちょっとね」

 吉穂の苦笑いにつられて、遥たち三人も苦笑いする。

「必ず左藤先輩に伝えます」

 程なくして、ドアをノックする音が響いた。

「水谷先輩、先ほど発注された戦車道被服装備一式三人分お届けに参りました」

「あ、ご苦労様。中に入って、ここにいる戦車道の新人さん三人に渡してくれるかしら。ちゃんと受け取り票にサインしてもらってね」

「了解しました。入ります」

 ドアが開き、紙袋を持った兵站科の一年生が入ってきた。遥たちはかるく会釈した。

「三木さん、ショートボブの子が7BT、姫カットの子が9ABR、一番小柄な子が7YPね」

「わかりました」

 三木は三人に紙袋を手渡しながら説明する。

「春と秋の二回二着づつ、ユニフォームが支給されます。夏用と冬用です。破れたりすり切れたりした場合も申請すれば再支給します。服のサイズが合わない場合は交換に応じます。どうしてもオーダーメイドのユニフォームを作りたい場合は、こちらの紙に書かれた指定店でお願いします」

 

 放課後、制服姿の三人は戦車道部の部室にいた。高等部戦車隊の看板がものものしい。戦車道部とは名乗っていないようだった。吹奏楽部が学校によって、吹奏楽局だったり吹奏楽部だったりするのと同じようなものだろうか。まずは何より、自分たちに割り当てられた九八式軽戦車(ケニB)の来歴を調べねばならない。遥は事務机で書類の整理をしている園田部長を見つけると、挨拶もそこそこに口を開いた。

「園田部長、ケニBの点検記録ファイルを見せて欲しいんです」

「あら、丹波さん。今朝は三人ともご苦労様でした。いろはちゃんに使い回されて、初等部の訓練指導してたんですって?」

「ハイ、いきなりなんでビックリしました。小さい子に教えた事なんてなかったからすごく戸惑って。初等部から戦車道部があるのも驚きでした」

 清乃が感想を口にした。

「学園艦に初等部があること自体が珍しいのだけど、ウチの船は人口も多いから小学校も作られたのよ。よその学園よりも戦車道との関わりが深いから、必然的に初等部にも戦車道部ができたという風に聞いているわ。初等部の戦車道部はどちらかと言えば、本格的な戦車戦よりも((戦車競技|タンカスロン))を目標に据えているの」

「あの、タンカスロンってなんですか?」

 遥が聞き返す。

「あら、丹波さんは知らないの?」

 園田隊長は意外そうな顔をする。清乃と伊織の二人も驚いたような表情をして振り返った。三人の反応に遥は悟った。戦車道を嗜む者として知っていての当然の専門用語なのだろうと。だが、近所に住んでいたロシア人のお姉さんに手ほどきを受けただけの遥は、その辺りの込み入った知識がすっぽり抜けているのだ。

「スキー競技でクロスカントリーとライフル射撃を行う戦車を使うバイアスロンというのがあるでしょう。あれの戦車版みたいな競技なんですよ。決められたコースを走って、標的を射撃してタイムとポイントを争うんです」

 伊織が説明する。

「ええと、それって基礎訓練が競技になってるっていうこと?」

「まあ、ぶっちゃけそうなるねー」

 清乃が気さくに肯定する。今度は遥が驚く番だった。戦車道は礼儀作法に則った戦車と戦車のぶつかり合いだ。うろうろ走って、標的を撃つのはただの訓練でしかない。そんな壁打ちテニスみたいな訓練だけを切り取って競技と呼ぶのは何か違う気がした。そもそも、そんな訓練は実戦では気休めにしかならない。いままで習っていたラヴリネンコ流戦車道とは何かが違う。遥は考え込んでしまった。

「どうしたの、丹波さん。難しい顔をして?」

「はい、園田部長。あたし、戦車の動かし方は知ってますが、戦車道そのものはよくわかってないような気がして」

「ふふふ、かんたんにわかっちゃうものなら、誰も苦労したりないわ。はいこれ」 

 園田部長はキャビネットから数冊のファイルを取り出すと遥に手渡した。

「あなた達の欲しがっている九八式軽戦車B型第114号の点検記録ファイル。そしてこっちが取り扱いマニュアルとメンテナンスマニュアル三人分ね。一日も早く、ケニBを自在に操れるようにがんばって」

 園田部長はそう言って微笑んだ。

 

 放課後、三人は再び戦車格納庫に集まった。

「あら、お二人はタンカーズジャケット着ないんですか?」

 タンカーズジャケットをおしゃれに着こなした伊織が、朝と代わり映えのない格好の二人に質問した。

「いやぁ、試着はしたけどさ、初日から点検作業で汚したくないからさぁ」

 体操服姿の清乃はそう言いながら、照れくさそうに頭をかいた。

「それに、こっちの方が動きやすいし」

 ツナギの作業服を着た遥も持論を展開する。

「ですけど、そもそもタンカーズジャケット自体が作業服じゃないですか」

「ひらひらしたスカート穿いて、作業服ですよっていわれてもなぁ。どっちかって言うと試合用のユニフォームのイメージが強いよな、タンカーズジャケット」

「ところで、丹波さん、腰にぶら下げてる大きなハンマーは何ですか?」

「あ、アタシも気になってたんだ、それどうするの」

「え、これ? プラスチックハンマーだよ。シフトチェンジ用の。前は普通のハンマー使ってたんだけど、シフトレバーへし折っちゃったことがあって、プラスチックハンマーに変えたの」

「あ〜そっかぁ、丹波ちゃんロシア戦車乗りだったんだよね〜」

 清乃は得心がいった顔をした。

「ほんとにハンマーでギアチェンジするんですか。あれはジョークの類かと思っていました」

「え? 二人ともハンマー使わないでシフトチェンジできるの? すごい!」

「いやいやいや、フツーはというか、ロシア戦車以外はハンマーでガンガンたたき込まなくてもギアチェンジできるんだよ」

「そうです。変速機の音を聞けば今の回転数がどのくらいで、ギアチェンジする頃合いかどうかわかりますよ」

「ひらちゃん、それは相当熟練しないと無理だよ」

 ロシア戦車はたいてい後輪駆動式で、車体の一番前に座っている操縦士はシフトレバーの下から車体の後端まで延びている長大なロッドを介して工作精度のよろしくない歯車がぎっしり詰まった変速機を操作する。剛性のあやふやなロッドと、いい加減な歯車のハーモニーが滑らかなシフトチェンジなど机上の空論だと言わんばかりに立ちはだかる。だから、力ずくでシフトレバーに渾身の一撃を叩き込まなければ、変速などできないのだ。

「M5軽戦車はオートマチックだって聞いたことあるな。どんなふうなのかな?」

「信頼性はあったんでしょうね。後継のM24でも同じ変速機を使ったと聞きますけど……。でも清乃さん、砲手が専門じゃないですか?」

「操縦もできるよ。一通りの仕事がこなせていろんな戦車を扱ってなくちゃ、いいプロの砲手にはなれないからね」

 清乃と伊織のそんなやりとりを聞きながら、遥は用意した手袋を取り出した。綿の手袋の上からキッチン用の薄いゴム手袋を二枚重ねて嵌める。こうすると、表面の一枚目が破れても内側まで浸透しないし、ぴったりと指先にフィットして、ネジと座金を組み合わせるような細かい作業も無理なくできる。手袋の指先の空気を抜きながら、指先の動きを確かめる。少々つっぱった感覚はあるが素手で指先を怪我するよりははるかにましだ。

「ずいぶん厳重に指先を保護するんですね、その手袋」

「あたし、あまり肌が油に強い方じゃないんだ。手を洗ってるうちにアカギレになったこともあるし」

「ああ、わかります。アカギレは嫌ですね」

「へえ、丹波ちゃんもひらりんもアカギレになった事あるんだ。たいへんだね。アタシは全然なったことないな」

「うらやましいなぁ」

 遥が呟く。

「清乃さん、見るからに肌が強そうですもんね」

「ちょっと何それ、褒められてる気がしないんだけど」

三人は笑い出した。

ひとしきり笑ったあと、遥は二人に提案した。

「まず今日は、足回りエンジンまわりを重点に点検して走れるようにしようよ」

「そうですね。走ってこその戦車ですし」

「だね〜。外に引っ張り出さないと((野外照準規正|ボアサイト))もできないしね」

「じゃあ、あたし足回りのグリスアップするね」

「エンジンと変速機は私と清乃さんでチェックします」

「点検マニュアルも手に入ったし、念入りに調べてみますかぁ」

 遥は格納庫の奥にあったスチール棚からグリースガンを手に取った。そしてグリース缶を探す。これだけ戦車があるのだから、18g入りのグリース缶が山積みされてもおかしくはない。だが、それらしき物がまるで見あたらない。グリース類の保管庫なんてあっただろうか。辺りをきょろきょろ探してると、背中の方から声がした。

「丹波ちゃん、どうかした?」

 清乃だ。

「グリース缶が見つからなくて。木のへらも……」

「グリス缶? 木のへらってどうすんの?」

「缶からグリースガンにグリス入れるのにへら使うでしょ?」

「え?」

 清乃は少し驚いたような顔をした。

「丹波ちゃん、これ知ってる?」

 清乃はスチール棚の下の方から、表面が蛇腹状になった太長いチューブをつまみ上げて遥に見せた。中味の重さに耐えられずにぐんにゃり曲がったチューブは、なんとなくトノサマバッタの腹部を彷彿させた。

「なにそれ、見たことないよ」

「グリスガン貸して」

 清乃は遥からグリースガンを受け取ると、手際よくチューブの先端のフタを外してグリースガンにセットしてみせた。

「このチューブに入ってるのがグリスだよ。はい」

 今度は遥が驚く番だった。清乃から渡されたグリースガンをじっと見つめる。

「すごいね、カートリッジ式なんだ。こんな便利な物ができたんだね。いつもグリースの詰め替えで周りを汚しちゃうのが嫌だったんだ」

「丹波ちゃん、このチューブ入りグリスさ、アタシ達が生まれるずーっと前からあるんだよ。近所のホームセンターにも売ってるし」

 遥は衝撃を受けた。今までの手間と苦労はなんだったのだろう?

「そうなの? 知らなかった……」

「同じ量を買うなら、缶入りグリースの方が安いんですよ。でも、こちらの方が便利ですね」

 戦車道教室師範代の伊織が解説した。

「安かったから、ずーっと缶入りグリースを使ってたんだ……」

 遥はサンタクロースの正体を知った子どものような気分になった。

「え、ラヴリネコ流戦車道習ってたときのことですか?」

「うん……」

「あ、その、でも、特殊なグリースなら大容量の缶入りしか流通してない物もありますから、そんな類の物ではないですか」

「ロシア戦車はそんな気の利いた物使ってないよ」

 

 たとえ泥沼に数十年沈んでいても、キレイに水洗いすれば動いてしまう簡素・単純・大雑把なロシア戦車には要所要所に特殊なグリースを使うなんて細かい配慮はない。

「ほらほら、二人とも黄昏れてないでさっさと動かそうよ。そうしないと主砲や同軸機銃の調整できないしさ」

 清乃に促されて、遥と伊織は作業を開始した。

「アタシ、エンジンと変速機のオイルチェックするよ」

「では、私も」

「ひらちゃんは、マニュアルと点検ファイル見ながら指示出してよ」

「でもお二人に任せて、私だけ楽する訳にはいきません」

「せっかくもらったタンカーズジャケット、初日から汚しまくるわけにもいかないじゃないのさ」

「大丈夫です。服を汚したりはしませんから」

 伊織は引き下がらなかった。

「やっぱり、あたしと末吉さんで作業した方がいいと思う。みんな油まみれだと、マニュアルも点検記録もべとべとに汚しちゃうし」

 遥がそう言うと、伊織はちょっと頬をふくらませた。

「もう! わかりました。でも、手が必要ならすぐ言ってくださいね」

 

 それから二時間後、油とほこりにまみれた遥と清乃とおろしたてのタンカーズジャケットをおしゃれに着こなした伊織は、点検の終わった九八式軽戦車を見上げていた。

「平野さん、あたし達とほとんど一緒に作業してたよね」

「ええ、お手伝いしました」

「どうして、服にも手にも汚れ一つないの?」

「これでも師範代ですから」

「ひらちゃん、それがひょっとして玉田流戦車道の奥義?」

「母が言うには、戦車乗りは名人の域の近づけば近づくほど青あざを作ったり衣服に汚れをつけたりしなくなるそうです。私はまだまだですね」

 伊織は恥ずかしそうに、二人に右の掌を見せた。親指と人差し指の先の指紋がくっきりわかる。油汚れだ。

「それでまだまだ? 自慢していい特技だよ。ひらちゃんに比べたら、アタシと丹波ちゃんなんか使い古しのウエスみたいなもんじゃない」

 清乃の言葉に、遥と伊織は思わず笑いだした。

「それでは、さっそく試運転してみましょう」

伊織はそう言うと九八式軽戦車の操縦席に滑り込んだ。十分な視界を確保するため操縦席正面のバイザーを跳ね上げる。

「強制始動用の圧搾空気ボンベ積まなくても大丈夫?」

 遥は車体によじ登り、砲塔のハッチから心配そうに覗き込む。

「そんな装備は元からないんですよ」

「丹波ちゃん、強制始動用圧搾空気ボンベなんてロシア戦車以外じゃ滅多に採用してないよ」

 遥は振り返って、清乃の方を見下ろした。

「え、そうなの?」

「なんだか丹波ちゃんの戦車知識って、ロシア戦車に偏ってるね」

「ロシア戦車しか触ったことないから……」

「いーなー、アタシもでかい大砲撃ってみたいよ。107o砲とか130o砲とかさ」

「一番大きくても76.2o砲止まりだったよ、あたしの習ってたとこ」

「それでもいーなー。75〜76.2o級は戦車道の定番火砲だしね」

「あの〜、そろそろ始動させたいのですけど」

「あ、平野さんごめん」

 遥は慌てて九八式軽戦車から飛び降りた。

「では、エンジン始動いたします」 

伊織は簡素なコンソールパネルに始動鍵を差し込み、始動ボタンを押した。統制型百式直列六気筒空冷ディーゼルエンジンが息を吹き返す。消音器がもうもうと白煙を吐き出し、遥は慌てて格納庫の換気ファンのスイッチを入れた。

「やったね、丹波ちゃん。一発で掛かったよ」

 清乃がエンジン音に負けないくらいの大声で叫ぶ。しばらくすると消音器から白煙が出なくなった。

「流石は師範代のひらちゃんだね。あっという間に白煙消しちゃった。このエンジンさ、頑丈で燃費はいいんだけど、煙幕みたいな白い排気煙を出す悪癖があるんだよ」

「そうなんだ。扱いが難しそうだね」

「慣れれば、どうって事ないよ。慣れるまでが大変だけどさ」

 清乃はいたずらっぽく笑う。

「演習場を走ってみませんか?」

「いいね。少し慣らし運転してみようよ、丹波ちゃん」

「そうだね、行ってみようか」

 清乃はすいすいと砲塔によじ登り、ハッチの中に消えていった。遥は作業用に使っていたゴム手袋を外し、綿の手袋の上から革の手袋をはめ直した。そしてロシア戦車兵御用達のクラッシュパッド付き戦車帽を被った。中学の頃まで使っていた帽子だ。額のクラッシュパッドにはキリル文字で((Харука|ハルカ))の刺繍。砲塔の右側に滑り込む。九八式軽戦車の円錐形二人用砲塔はかなり窮屈だった。乗り込んだというよりも、わずかばかりの隙間に挟まってるような感覚だ。開発された当時も砲塔の狭さは問題視されていたようで、九八式軽戦車の後継車輌である二式軽戦車では、武装と装甲を強化した上で砲塔形状を容積に余裕のある円筒形に改良されている。

「ふたりとも、準備はいい?」

 遥は車内通話装置のスイッチを入れた。清乃は遥の肩をぽんと叩いて、指でOKサインを出した。

「よろしいですよ」

戦車帽内蔵の受話器から伊織の声がした。

遥は砲塔から上半身を乗り出し前開きのハッチ越しに格納庫の出入り口の向こうを見据える。

「第一速、前進」

「第一速、前進します」

 三人を乗せた九八式軽戦車はゆっくりと進み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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