世界一のワイン
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 ボクがこの酒場で働き始めて7年。

 店主であるアナグマの親方はここらで名高いワイン作りの名人だ。

 普通なら何年も寝かせるところのワインを、それは素敵な秘伝の方法で、

ほんの数日のうちに極上の物を作り出す。

 酒場はいつも繁盛し、ワイン好きのタヌキの夫婦、カラスのじいさん、

隣町で教鞭を取る物知り顔のヤギの先生、いろんなみんながやってきて、

ワインの香りを楽しんだ。

 ボクも秘伝の方法を、親方からよく教わって、店に出すまで腕を上げた。

 ボクの作りだすワインはいろんなハーブを調合し、香りが良く、宝石の

ような色が自慢だ。ボクのワインも人気があった。

 

 ある日の事。旅人が酒場に立ち寄った。

 ほこりだらけのマントをはおり、くたびれたカバンを背負ったオオカミだった。

 オオカミは数あるワインの中から、ボクの一番自慢のワインを注文すると、

グラスにほんのちょっぴり注がせ、とがった鼻で、つんつんと香りを確かめた。

 

 「ああ、これはよいワインだね。誰が作っているのかな?」

 

 ボクは嬉しくなって微笑むと、オオカミに軽くお辞儀をした。

 オオカミはこわれものをくわえるようにそおっと口に含み、ゆっくりと喉を

通らせると大きくため息をついて、こう言った。

 

 「悲しい、味わいだ」

 

 ボクは、はっとした。

 オオカミはしばらくの間、考えるように黙った後、ボクの心を見通すような

灰色の目でこう続けた。

 

「ここから北へはるかの所に、ルーダの森というところがある。そこに住む

ガードラという年取ったウサギは世界一のワインを作るそうだ」

 「世界一の、ワイン?」

 「ただし・・・」

 「?」

「おれや、おまえのような者は味わえない。その森には家族や、親友、恋人と

一緒に行かなければ入れないそうだからな」

 

オオカミは、ふっふっと悲しそうに咳をすると、代金をおいて出ていった。

 ボクは、ぼうっと立っていた。

 オオカミはボクの事、知っていたのだろうか。

 

 ボクは10年より前の記憶が、ない。アナグマの親方のいうことには、崖崩れに

巻き込まれた旅の乗合馬車で、生き残ったのはボク一人という。親、兄弟が

いたのかさえも分からない。分かっているのはボクが「人」だということ。

名前さえ思い出せないボクに、親方はマティという名をつけてくれた。

 

 それからの間、「世界一のワイン」の事が頭からはなれなかった。

 どんな香りなのだろう。

 どんな色をしてるのだろう。

どれくらい時間をかけるのだろう。

 「世界一のワイン」の思いが、ふくふくと心の中で大きくなっていった。

 

 そんなある日、親方はボクに旅に出ろという。

 もう一人前だ。どこへいっても通用するだろう。自分の大事なものを探しに

行っておいでと。

 

出発の日。ボクは自分の作ったワインを、これまた親方の秘伝の傑作である

保存用の箱に入れてもらい、「親友」として老犬バウをつれ、キンモクセイの

香る春の朝を北へ向かって旅だった。

 

 

 

 

 ボクらは町に到着すると、まず酒場に立ち寄る。店主にボクのワインを

見てもらうためだ。どの酒場の店主もボクのワインの色と、その味わいに驚き、

ほめてくれる。しかし、どんなほめ言葉もボクの聞きたいものではなかった。

 

ボクらの旅は続いた。

 

 けだるく時を止めるように流れるドート大河を三日をかけて小舟で渡った。

鏡のように澄んだ水には、空色に、古びた小舟と上の櫂をとるボク、そして

白い年取った犬の姿しか映っていなかった。

 

 歩くとその葉先の実をちゃりんと鳴らす鈴掛草の野原も歩いた。小さなその実は

バウのもしゃもしゃの毛やボクの服につき、野原を越えてもしばらくその可愛らしい

音をたてていた。

 

 難所といわれるガウト山も越えた。山は雲間にボクらの虹の影を写してみせ、

その素敵な色にボクらは疲れを忘れた。

 

色々なみんなに会った。

 

 だあだあおしゃべりをしながら豆をより分けているイノシシのばあさんたち。

 泣いてる赤ん坊を一生懸命あやしているうち自分も悲しくなってべそをかく

小さなイタチの子守。

 

みんなそれぞれ大事なものを持って暮らしている。しかしボクはそれが無い。

大事なものはルーダの森にあるに違いないのだ。ガードラというウサギの作る

世界一のワイン…。

 

 しかし、街に寄るたび、ボクのワインは少しづつ減ってゆき、ボクの期待も

ちょっとずつしぼんでいった。

 あのオオカミはボクを騙したのではいう気持ちがよぎる。でも、ボクを

憐れむように見ていたあの灰色の悲しげな目に嘘はなかった。そう自分に言い聞かせ、

北へ歩みを進めていった。

 

ある日、ボクもバウも雨にうたれ、身も心も濡れそぼって、やむなく小さな家の

戸を叩いた。

迎えてくれたのは若いウサギの夫婦だった。服を乾かしてもらい、温かい

キャロットスープをご馳走になり、ボクらは元気を取り戻した。

 

 夫婦には子供たちが5人いた。みんな犬を見るのは初めてらしく、バウを見て

くちくち笑った。バウも鼻をふんと鳴らし、ほうきの尻尾をぱさぱさ振った。

 

 このウサギの家族も大事なものを持っている。しかし、ボクはそれをまだ手にしていない。

夜。ボクは最後のワインを夫婦にふるまう事にした。ボクの旅はここで終わるのだ。

 

 若い主人は宝石色のワインの色を大きな黒い瞳で楽しんだ後、ゆっくりと口に運んだ。

 「ああ、これは、悲しい味わいです」

 ボクは思わず立ち上がった。子供たちはびっくりして一斉に耳をぴんと立てた。

 ああ、これこそボクが聞きたいと思っていた言葉だったのだ。

 

 ボクはせきこむように言った。

 

 「御主人!ガードラと言うワイン作りのウサギをご存じありませんか?

ルーダの森に住んでいると聞いたのですが」

 

 主人はびっくりした様子でちょっとの間耳を立て鼻をふくふくさせていたが、

こう答えた。

 

 「ええ、ガードラは私のおばです」

 

 ボクは大きくため息をついた。やっと、見つけた。

 

 「ボクはその方の作る世界一のワインをぜひ見てみたいと長い旅をしてきたのです」

 「そうでしたか。でも、おばの作るワインが世界一かどうかは知りません。

 ワインの価値を決めるのは作る者によるのではなく、味わう者によるからです」

 「ぜひ、案内していただけませんか。ガードラの所へ」

 「あなたはワインに興味がおありのようだ。ただ、ガードラのワインの倉は

 3年に1度しか開かないのです。味わうためにはその日まで待たないことには…」

 

 ボクは椅子に腰を落とした。

 

 「それは、今度は…いつなのですか?」

 

 主人は、にいと笑って言った。

 

「あなたはついていなさる。明日が、その日ですよ」

 

 

 その日の夜は穏やかな月夜だった。空にはいまにもわらわらと落ちてきそうな

たくさんの、星。そしてアナグマのおかみさんが焼くホットケエキのような、

黄色くておおきくてまん丸な、月。

 

この夜、ワインを味わうためにルーダの森で宴が開かれるという。

 森へ出かける前にボクはガードラを訪ねた。かなり年を取っていることが

ヒゲの張り具合いで分かる。

 これまでの事を話すと目をしょぼしょぼさせて、彼女は言った。

 

 「そうかぃ。灰色目のカミルがおまえの所まで行ったかぃ」

 

 あのオオカミの事だ。

 

 「彼を、ご存じなのですか?」

 「あぁ。あいつぁ一所にいつまでも居られない男でなぁ。この世界をあちら

 こちらとまわっておるゎ」

 「彼がボクに、あなたが世界一のワインを作ると・・・」

 「そんな事言ってたかぃ。ワインっていうのは味わう者によって、良くも悪くも

 なる。時や、場所にもよる。一緒に味わう者にもよる。カミルはおまえさんの

 心をのぞいて、あたしのワインがきっとおまえさんに何か見せてくれると思ったんだろぉ」

 「見せる、って何の事でしょう」

 「ふうふう。今夜、わかるだろうょ。ところで、おまえさんは一人かい?一緒に

 味わう者がいなければ、今夜はルーダの森に入れないよ」

「この犬が、ボクの親友です」

 

 バウは自分の事を言われて胸を張る。

 

 「ふうふう。よろしい」

 

 

 

 ボクはガードラに案内されて、森の中の開けた場所に丸テーブルがたくさん

ならべてある会場にやってきた。

 

 「トトや、この方をテーブルへ案内しておくれ。この方の親友はこの犬だそうだ」

 「かしこまりました」

 

 トトと呼ばれた若いウサギはボクの前を歩いてゆく。

 テーブルにはもう、随分といろんなみんながやってきていた。 

 トナカイの二人ずれ、ハイイログマの老夫婦、オコジョの親子など、ほとんど

満席だった。

 若いウサギは言った。

 

 「もしよろしければ、あちらにおいでのお嬢様と御一緒のテーブルでは

 いけないでしょうか。あの方も、親友として猫をお連れでございます」

 

 <人>だ。

 

 着ている服からするとこの土地に住んでいるようだ。貝で作った首飾り。

椿色のリボンにまとめられた金色の長い髪を月の夜風に遊ばせている。

 

 ボクは挨拶をした。

 

 「御一緒させて頂いて、よろしいでしょうか」

 

 彼女はちょっと驚いた様子でボクを見るとにっこりして言った。

 

 「ええ、どうぞ」

 彼女の茶色の猫がいかにも眠そうに、にやあと鳴き、ボクのバウはふんふんと

鼻を鳴らして笑った。

 

 「ごめんなさい。わたし、<人>に会うのは久しぶりなものですから」

 「ええ、実は、ボクもなんです」

 「あの、お名前を…」

 

 彼女が言いかけたとき、ガードラが集まったみんなに呼びかけた。

 

 「皆さん。今年も、この日、素敵な月夜になりました。では、

 感謝を捧げたのち、楽しむことにいたしましょう」

 

 −私たちのために、自然の恵みを下さった方に、感謝を−

 

 テーブルの一同がその言葉に和し、グラスに素敵な赤が注がれ始めた。

 

 (ああ、これが、ボクにとっての大事なものなのか)

 

 月の光に照らされた赤。今まで感じたことのない香り。グラスを持つボクの手が震えた。

 

 「このワインの味わい方をご存じですか?先回は来られていませんでしたね?」

 「何か特別にあるのですか?」

 「ええ」

 

 彼女はワインをつつと口に含むと両手を開き、ふうとそれに吐息をおくる。

 不思議で素敵な香りがテーブルの上に漂う。手の平の上で彼女の吐息が白く輝き

丸い空間を作り出す。猫がひょいとテーブルの上にのって、のぞく。

 

 「これは…」

 

 空間の中に、風景が広がる湖のほとりの景色。小さな家の庭にはたおり機を

出して仕事をしている、彼女。

 

 「これは、わたしの思い出。ここにきているみんなは親しい人とこうやって、

 思い出をワインで味わうんです」

 

 こんなワインは見たことも、聞いたこともない…

 

 「ほら、この方が、このワインの事を教えてくれたの」

 

 旅のオオカミ。仕事を一息いれた彼女とお茶を楽しんでいる。ガードラが

灰色目のカミルと呼んでいた、ボクにこのワインの事を教えてくれた、彼だ。

 

「あなたも、どうぞ」

 

 彼女に言われるまま、ワインを口に含み(その香りのすばらしさと言ったら!)、

ふうと吐息を送り出す。

 ボクの手のひらの風景。ここまでたどり着くまでに見た、さまざまな思い出の景色。

 そして今は懐かしい、酒蔵で働くアナグマの親方や、おかみさんをみていた。

 

 「あなたもワインをお作りになるのね」

 「ええ…あっ!」

 

 突然ボクの景色が吹雪の平原のように真っ白になってしまった。

 

 「ああ、ボクはやっぱり、駄目なんだ」

 「どうされたのですか?」

 「ボクはこの時より前の記憶が、無いんです…」

 「お気の毒に…」

 

 すまなそうな彼女にボクは微笑んで、言った。

 

 「どうぞ気になさらないで下さい。出来れば、お願いです。あなたの

 思い出を見せていただけませんか?」

 「わたしのでよろしければ」

 

 彼女は恥ずかしそうに笑い、吐息を送り出す。彼女の手の平には

楽しそうに遊んでいる子どもたち。

 

 「これが、わたしなんです」

 

 金色の髪のかわいい小さな女の子が駆けている。手をつないでいる、

黒髪の男の子・・・・

 

 パチン!

ボクの頭の中で何かが、はじけた。つっかえぼうを外された粉引きの

水車のようにゆっくりと回り始める何か…

 

 「君は、セレア!セレア・デル・カナートだね?!」

 

 彼女は目を丸くした。

 

 「あ、あなたは…」

 「そう、ボクは…ボクはデール・アッカ・ド・ザール。これが、ボクだ。ボクだ!」

 

 ちょうど今、女の子の花つみを手伝っているこの男の子が、ボクなのだ!

 

 「デール…あなたがデールなの?南への旅の途中で行方不明になったと聞いて

 わたし、ずっと…ずっと…」

 

 いつの間にかボクの手の平の吹雪は止み、ボクとセレアの思い出は一つとなって、

アセチレンの燃えるときのような、青い光のかけらを放っていた。

 

 

                  ※

 

 ボクはいま、ガードラの所でワイン作りの手伝いをしている。アナグマの親方に

教わった方法で、3年に一度の彼女のワインが1年に一度になった。ガードラは

鼻をふくふくさせて喜んでいる。

 

 そしてボクは、ボクにとっての大事なものが何かを理解した。それは、

探して見つかるものではなく作りだしてゆくもの。ボクとそして、もう一人と一緒に。

 

 来年、ワインの倉を開くときに、ボクはこの土地の習慣に従って、真っ白な衣装と

スズランの花を持って湖のほとりに迎えに行くつもりだ。金色の髪はきっと素敵に

スズランで香ることだろう。

 

                < おわり >

説明
「人」のボクは幼い頃の記憶が無い。アナグマの親方のところでワインつくりを手伝っている。ある日、旅人のオオカミから『世界一のワイン』について聞かされ、旅に出ることにする。青年が本当に大切なものを見つけるまでの童話。
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