真・恋姫無双 EP.110 悪魔編(1) |
額の汗を拭い、愛紗は空を見上げた。ここしばらくは快晴が続き、作業をしていると汗が滲んでくる。敵の襲撃に備え、堀を作ったり柵を建てたりしていたのだ。
「少し休むか……」
そう呟くと、愛紗は近くの木の幹に立ったまま寄りかかって体を休めた。いつ敵が襲撃してくるかわからないので、休む時でも地面には座らない。
「ふう……」
人知れず、溜息が漏れる。疲れが原因ではなく、最近、頭を悩ませているある噂のせいだった。
(桃香様の病院に運ばれた兵士が、原因不明の病気で亡くなった。すでに十名だ。いずれも、手の施しようもないほどの大怪我だった)
そのまま怪我で亡くなってもおかしくはないほどの状態だ。それなのに死因が、病気という不自然さが奇妙な噂を呼んだのだろう。
(助からないとわかった患者は、毒物を盛って殺している……そんな馬鹿げた噂がいったいどこから広まったのか)
治癒術師として無能な自分をごまかすために、桃香が殺していると囁かれているのだ。当然、愛紗はそんな噂を信じてはいない。だが、兵士の士気に影響が出ているのも事実である。
(身近で桃香様のことを知る者ならば、噂の馬鹿馬鹿しさに気づくだろう。しかし多くの民が、本当の桃香様を知らない。大半の者にとっては、他の領主よりはマシという程度だろう。すべての者の希望が叶うわけではないからな)
桃香は優しすぎる。それゆえ、八方美人と思われる事も少なくない。領主には向いていないが、袁紹に頼まれて引き受けてしまったのだ。
(あの時、無理にでも止めるべきだったのか)
愛紗の心に、後悔が浮かぶ。
村に戻った愛紗を、星と桔梗が出迎えた。
「どうしたんだ、二人して」
珍しい行動に愛紗が訊ねると、二人は顔を見合わせてから星がまず口を開いた。
「実は先ほど、桃香殿に会って来たのだがな……」
「我らを気遣ってか、気丈に振る舞っておったようだが、かなり参っている様子じゃった」
「……噂のことだな」
二人は頷く。
「ここは我らよりも、義姉妹のお主の方がよかろうと思ってな。我らには無理でも、お主になら腹を割って話すかもしれん」
「私も心配はしていた。わかった、話を聞いてみよう」
愛紗はそう約束をして、二人と別れると自分の天幕に戻る。すぐにでも桃香に元に行きたかったが、埃まみれのままではさすがによくないだろう。簡単に汗を拭い、着替えをしてから再び外に出た。すると、待っていたかのように劉協がふらりと現れたのである。
「やあ、関羽さん」
「これは、劉協様……どうか、されましたか?」
口でそう言いながら、愛紗は内心で舌打ちをした。正直、彼のことは苦手だった。桃香に言われているから、それなりに敬意を払って接しているに過ぎない。
「これから桃香のところに行くつもりかい?」
「え、ええ」
「余計なことかも知れないけど……今は会わない方がいいんじゃないかな?」
「なぜですか? 姉が困っているようなら、相談に乗るのが妹だと思いますが」
愛紗の言葉に、劉協は理解を示すように頷いて見せた。
「確かに関羽さんの言う通りかも知れない。でも、桃香の性格を考えるとどうだろう?」
「桃香様の……」
「そう。彼女は本当に辛い時こそ、それを隠そうとするんじゃないかな」
愛紗はハッとする。思い当たることは、いくつもあった。
「桃香様は何でもご自分で抱え込んでしまわれる。少しでも肩代わりが出来ればと常に思っているが、私に出来ることは少ない。義姉妹だからこそ、もっと甘えて欲しいと思っているのに……」
「それが出来ないのが、彼女の魅力でもありますよ。実直だからこそ、袁紹は桃香に領主の座を任せたのだろうしね」
「……」
うつむく愛紗に、劉協が優しく微笑む。
「噂は所詮、ただの噂です。彼女を知る者はもちろん、誰も信じてはいないでしょう? 身近な者が気にせずにいれば、やがて他の者たちにも伝わります。何より、桃香によって助けられた者も多い。きっと、わかってくれますよ」
「そう……でしょうか」
「ええ。だから今、関羽さんに出来ることは黙って見守ってあげることです。あなたが心配すればするほど、桃香は平気を装います。それが逆に、彼女を知らぬ者の目に欺かれていると映ってしまう恐れがあります。辛いでしょうが、ここは我慢です」
「……わかりました」
どこか安堵した様子で、愛紗は柔らかく微笑んだ。
「私は難しいことは苦手で……劉協様にここで会えて良かったです」
深く頭を下げると、愛紗は自分の部隊がいる方へと足を向ける。それを劉協は見送り、感情のない目でジッと見つめていた。
いつもの大岩の上に、桃香の姿はあった。
「また、一人なんだね」
「劉協様……」
膝に埋めた顔を上げ、桃香が少年に呟く。人払いをしたので、ここへは誰も来ないはずだった。けれどこの少年だけは、いつもどこからか現れるのだ。
「亡くなった人がいたそうだね」
「……」
「もう、嘆く力もないほどかい?」
「……一人にしてください。今は何も、考えたくはない」
「桃香が心配なんだよ。だから散々迷ったけど、これを持って来たんだ」
劉協はそう言うと、小脇に抱えていた木箱を見せる。とても高価そうな、木箱だった。
「これがあれば、どんな病気や怪我も治せる」
「……薬草、ですか?」
「もっと、すごいものだよ」
そう言うと、劉協は木箱の蓋をゆっくりと開けた。桃香はわずかに身を乗り出して、その中を覗き込む。茶色い木の根のようなものが、白い綿に包まれて収められている。
「特別な方法で仮死状態にあるだけだよ。血が流れれば、再び蘇ることができる」
「これは……人の腕?」
「そう、あの天の御遣いの切り落とされた右腕さ」
「――!」
「知っているだろ? 彼が曹操を助け出すために、右腕を失った美談をさ。あそこの処刑場から、こっそり拾ってきたんだ」
桃香は大岩から降りて、劉協の元にやって来た。その目は、箱の中から離れない。劉協はそんな桃香の耳元で、囁くように言う。
「これはいわば、神様の手だよ。どんな怪我や病気も、あっという間に治してしまうだけの力がある。君が心から求めていた、奇跡の力だ……」
「奇跡の力……でも、これじゃ役に立たないんじゃ?」
「大丈夫、さっきも言っただろ? 血が流れれば蘇る。この腕を、桃香の右腕に移植するんだよ。そうすれば君は、神様の力を手に入れられるんだ」
「移植だなんて、どうやって?」
「簡単だよ。桃香の右腕を切り落として、その傷口に天の御遣いの腕をくっつければいい。後は勝手にくっつくさ」
桃香の喉が鳴る。そして自分の右手を、じっと見つめた。
劉協はその様子を横で眺めながら、楽しげに笑った。その笑みは、ゾッとするほど冷たく、暗い眼差しだったのである。
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