フェイタルルーラー 第七話・ウルヴァヌスの夜
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一 ・ ウルヴァヌスの夜

 

 憎い。全てが憎い。

 愛する夫と子供たちを殺され、女は血の涙を流し半狂乱で泣き叫んだ。

 

 赤々と燃え盛る邸宅から、彼女と幼い末の息子を連れ出してくれたのは、古くから家に仕える執事だった。

 何もかも失った。何故こんな事になったのか、女には何ひとつ理解出来なかった。

 

 彼女の夫は、古くからレニレウス王家に仕える重臣だ。

 先代の王は絶えず臣民を思いやる、それは素晴らしい王だった。それが王子が即位してからというもの、浪費によりひどい財政難に陥ったどころか妾姫を多数抱え、贅沢三昧をさせる始末だ。

 

 財務を担当していた夫――ブレミア伯爵は、何度も新王を諌めた。

 

 だが王は耳をそむけるように、何も聞き入れはしなかった。特に精霊人出身の妾妃を王は寵愛してやまず、莫大な資産を彼女のために注ぎ込んだ。

 活発な経済活動により維持されていた国は、王の怠慢により徐々に荒れ始めた。領民が飢餓に苦しむ中、政を顧みず王としての一切の職務を放棄し彼は遊び呆けた。

 

 王への不満が高まる中、文官たちは穏健派と急進派に分かれ、秘密裏に勉強会を催すようになっていった。

 勿論勉強会など建前に過ぎない。その実いかに対立派閥を追い落とし、権力を握るかを談義していたのだ。

 急進派に属していたブレミア伯爵が襲われ邸宅が焼かれたのは、まさにそのさなかだった。王の嫡子を擁立する穏健派の仕業だと誰もが思い、火の粉を振り払うように皆一様に口を閉ざした。

 

 伯爵襲撃事件以降、急進派は解体され、王が病気でこの世を去るまで皆が沈黙を続けた。伯爵一人に王家批判の罪を着せたのだ。

 女はこの世の全てに復讐を誓った。そしてそのための道具となる組織を自らの手で創り上げた。

 その名を、至高教団といった。

 

 

 

 血のような赤い月の夜、廃墟に一人の男が佇んでいた。

 真夜中に独り黒いコートを纏い肩にカラスを止まらせている姿は、明らかに並の人間ではない。

 

 彼の背後にあるのは天をつく巨木と、辺りを赤黒く染め上げる満月だけだ。

 長い年月の中で破壊し尽くされた古代神殿遺跡。その祭壇がある広間に立ち尽くし、男は不意に足元へと目を移した。

 

 深紅の月光が彼の影をどす黒く伸ばし、それは白い床へと落ちる。

 男がゆっくりと歩を進めると、床はざりざりと耳障りな音を立てて擦れ合った。

 

 見れば白い床と思われていたものは、辺り一面を埋め尽くす人骨だ。緑柱石の碑文が祀られている祭壇の周囲は、見渡す限り乾いた白骨で覆われ、闇夜に差す赤い月光が不気味な空間を生み出している。

 

 広間の中心には、先程の巨木がそびえている。

 何百何千とも思える人骨の山を見れば、この巨木が今までどれだけの養分を吸い上げて来たのか想像に難くない。

 その幹は優に数十人で囲める太さを誇っている。あまりにも巨大に成長してしまったために神殿の天井は落ちて瓦礫と化し、月の光に全てをさらけ出していた。

 

 男が祭壇に向かって歩き出した時、彼は不意に気配を感じた。

 前方から現れたそれは黒髪と黒衣を音も無く引きずっている。さながら影が一人歩きしているようだと男は思った。

 

 男に気付いた影は、爛々と燃えたぎる赤い瞳を彼へ向けた。

 目以外は何もかもが黒い。髪も長衣も肌でさえも。ただ月をそのまま映したような血色の瞳だけが、驚くほど印象的だった。

 

「……貴様は『罪』。マルファスといったか」

 

 影は明瞭に人語を話した。だがその声色は、冷たい地底から鳴り響く亡者の嘆きにも似ている。

 マルファスはこの影に見覚えがあった。正しくは、数十年前に見かけたと言うべきだろう。

 

「お前も呼ばれたのか、シェイルード。いや、今は代行者『死』となったのだったね」

 

 代行者『罪』と呼ばれた男――マルファスは顔を上げた。

 

「今夜は赤い月、ウルヴァヌスの血月が輝く夜だ。人ならざる者だけが、呼ばれるように集う夜。あと二人、グシオン殿と新しく『狂』となった者が揃えば、久方ぶりの顔合わせとなるだろう」

「……あれはもういない」

 

 シェイルードの呟きに、マルファスは一瞬言葉を失った。

 

「まさか……。グシオン殿は消滅されたのか」

 

 マルファスの言葉に、シェイルードはにべも無く答えた。

 

「そうだ。私がこの手で葬った。あれは本当に不快極まりない奴だったが、最期まで己を礼賛しながら消滅していった。己の望む『完全なる神』とやらを目の当たりにして嬉しかったのだろうよ」

 

 感情も抑揚も無い声でシェイルードは言った。

 予想はしていたものの、マルファスは失意を抑え切れなかった。

 あの時、グシオンが育てようとした子供を殺してさえいれば、結末は違っていたかもしれない。

 

 だが彼にもまだ切り札は残っている。

 不死身の代行者をも打ち倒す可能性を秘めた神器。黒森で見かけた少年の剣が彼の手許にあるうちは、まだマルファスの思惑からはずれた訳ではない。

 

「貴様の考えている事など、王冠の力を使わずとも解るぞ『罪』よ。神器を持つ者に、この私を倒せるか試させるつもりだろう。だがそう上手くいくかな」

 

 何も語らず眉ひとつ動かさないマルファスに、シェイルードは嘲笑うように言った。

 

「神器を探し出して手札にするのは良い案だ。だが上手くやるなら利用する者を選ぶべきだな。一人や二人に探させるより、更に効率のいいやり方があるだろう?」

「何が言いたい」

「……十年ほど前、復讐心にかられたつまらん女がいた。目的のためなら手段を選ばない女だ。だからその耳元で囁いてやった。『深淵の神を現世に顕現させて、全ての命を滅ぼせばよい』と」

 

 シェイルードは静かに薄笑いを湛えた。

 

「神器を集めれば、四王国全てを敵に回しても余りある軍隊を持てると吹き込んでやり、使い方も教えた。奴らは深淵の神にしか興味がないようだからな。神器を勝手に集めてくれる」

「お前が奴らを扇動していたのか。あの至高教団を」

「扇動では無い。種を蒔いただけだ。奴らは神器を集める。その見返りに私が奴らの望む神を顕現させる。歴とした取引だろう」

 

 まるで他人事のようにシェイルードは淡々と語った。

 その間にも血のような月は煌々と輝き続け、赤と黒の不気味な世界を照らし出す。

 

 その時、入り口から大きな影が伸びた。

 マルファスが振り返ると、そこには山のような大男が立っている。見覚えはまるで無いが、その気配は確かに代行者のものだ。

 陰から姿を現した男はゆっくりと二人へ歩み寄った。黒い耳に巨大な尾を持つその姿は獣人族に見える。

 

 男は無言で祭壇へと歩み寄った。

 比較的長身のマルファスよりも更に背が高く、その巨躯は重厚な筋肉に覆われている。両腕には鉤爪手甲をはめ、破れた装束を纏う様はまさに無頼漢だ。

 

「貴様が『狂』か。なるほど、その名に相応しい容貌だ」

 

 シェイルードの言葉にも、『狂』は何も言わなかった。

 祭壇に立つ二人を一瞥すると、男はすぐに背を向け歩き出した。

 

「どこへ行く『狂』。貴様の探している白狐族の男なら、もうこの国にはいない。どこへ行ったか知りたいか」

 

 その言葉に、ちらりとだけ男は振り返った。その双眸は怒りと喜びに打ち震えているように見える。

 これほど複雑な感情をあらわにする者を、マルファスは未だかつて知らなかった。

 

「ここから南西にネリアという国がある。奴はそこへ向かったようだ。後は貴様の好きにするがいいさ」

 

 シェイルードの言葉が届いたのか、『狂』と呼ばれた男は無言でその場を立ち去った。

 後には二人の赤黒い影だけが残される。

 

「……さあ賽は投げられた。ヒトどもに対する起爆剤としては十分だ。それに『狂』が白狐族の男と戦うのは、貴様の本意でもあるだろう?」

 

 その問いにマルファスは無言で返した。

 

「貴様が私を消滅させようと目論んでいるのと同じように、私も貴様を葬り去りたいのだ。いわばこれは、ヒトどもを駒とした私と貴様のチェスゲームとも言える」

「人は駒では無いよ。お前はそんな下らない事のために、四王国や教団を利用しているのか。僕を斃したいなら、今この場で遣り合っても構わない」

 

 冷たく輝くスミレ色の瞳に睨まれ、シェイルードは笑い声を上げた。

 小さく一言呟くとシェイルードの前には混沌とした影が現れる。影たちはずるずるとシェイルードに這い寄ると、徐々に彼の姿を覆い隠していった。

 

「それも面白いが、どの道、我々代行者は自らの『望み』を叶えなければ己の死すらままならぬ。私が消滅するのは、姉上を手に入れた時だけだ」

 

 どろりとした闇は、今や完全にシェイルードを覆い尽くした。

 現れた時と同じように、彼は影の中へと帰ってゆく。

 

「ひとつだけ忠告をくれてやる。グシオン消滅後、すでに次の代行者『執』は決定している。ネリア王の傍近く仕えたクルゴスという男だ。貴様に与する代行者は、一人もいないと心しておくがいい」

 

 嘲笑だけを残し、シェイルードは影となって消え失せた。

 誰もいなくなった祭壇で、マルファスは独り空を仰ぐ。赤い月はすでに無く、銀色の輝きだけが天空から降り注いだ。

 

 マルファスの肩からカラスが一声上げて飛び去り、辺りは再び静寂へと戻っていった。

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二 ・ 友達

 

 暗闇に鬨の声が響く中、エレナスは膝をつき、ただ呆然としていた。

 

 村全体が教団の構成員ならば、その罠にむざむざ掛かったのは自分の落ち度だ。

 思えば王都エレンディアにいた老婆がそう差し向けたと言える。すでにあの時、彼らは教団の掌で踊らされていたのだ。

 

 司祭の老人は、セレスの交換条件に鈴を提示した。

 だがあの鈴はセレス自身が持っているのだ。発見されればすぐにでも殺されてしまうかもしれない。

 

 そう思いながらエレナスはふらふらと立ち上がり、剣を鞘へ収めた。追いかけなければ。

 見れば村を包囲している軍勢は、村のそこらかしこで激しい戦闘を繰り広げている。

 

 不意に火の手が上がり、倉庫や酒場が赤々と燃え始めた。激しい炎は村全体を嘗め尽くし、その熱気にエレナスは鼻口を覆った。

 降りかかる火の粉を払うようにフードを被り、彼は村から逃れようとした。

 

 その時、彼の行く手を一騎の軍馬が遮った。

 見上げれば鋼の鎧に豪奢なサーコートを纏わせ、戦用の鉄王冠を戴いた壮年の男だ。その威厳にエレナスは、この男がダルダン王だろうと直感した。

 

「何者か」

 

 ダルダン王がおごそかに口を開いた。

 すでにエレナスの周囲は、円を描くように兵士たちが取り囲んでいる。

 

「我が軍と領民以外でここにいる者は教団員とみなす。そうでないのであれば、自らの身の証を立てよ」

 

 ダルダン王が見守る中、エレナスは静かにフードへと手を掛けた。

 内から現れた中性的な少年の面持ちに、一瞬誰もが息を呑む。緩やかに肩へかかる白金色の髪もさることながら、彼らを更に驚かせたのは人間ではありえない長さの耳だった。

 

「私はこの通り精霊人で、人間ではありません。教団は亜人種を滅ぼそうと画策しています。これで教団員ではないと分かって頂ければと存じます」

 

 意を決しエレナスは王を見上げた。

 ダルダン王の厳しいまなざしと髭を蓄えた頑健な表情は、鋼鉄の意志を窺わせる。

 エレナスの言葉に、王は兵士たちを下がらせた。

 

「では訊こう、異種族の旅人よ。このような地に何用で参った。此方に旅をする目的など何もなかろう」

 

 全てを見通す鋭い眼光に、エレナスは隠しおおせる気がしなかった。その場凌ぎの偽りを申し立てたとしても、看破されるだろう。

 

「私の名はエレナス・ファス=レティ・カイエと申します。我々はネリアの森を荒らした密猟者を追って、此方まで参りました。先程その者たちが教団員と知ったばかりです」

「……我々、とな。では連れはどこにおる」

「教団の司祭によって……連れ去られました」

 

 まるで自らの罪を告白するかのように目を伏せ、エレナスは小さく言葉を吐き出した。

 ダルダン軍の伝令が小声で奏上し、王は静かに口を開く。

 

「そうか。難儀であったな。此方も確認が取れた。司祭が一人、我が軍の包囲を突破して逃亡したようだ。傍らに子供を一人抱えてな」

 

 王の言葉にエレナスは唇を噛み締めた。早く追わなくては。気ばかりが焦り、彼は王を見上げた。

 

「失礼は重々承知の上ですが、一刻も早く追わなくてはなりません。どうかご容赦下さい」

 

 それだけ言うとエレナスは後も見ずに走り出した。

 背後から声がした気がして振り返ると、ダルダン王が彼を見ている事に気付いた。

 

「エレナスよ。あの子供はネリアの王族と見受けるが、お前は従者なのか」

 

 王の観察眼に驚き、彼は立ち止まり一礼をした。

 

「いいえ。……大切な友達です」

 

 そう告げ、彼は踵を返して老人が逃げた方向へと走り出した。

 走り去るエレナスの背中を見届けると、ダルダン王は再び指揮を執り彼の戦場へと戻って行った。

 

 

 

 司祭の老人とセレスを追い、エレナスはひたすら走り続けた。

 休む間もなく走り続けているというのに、老人の姿は掻き消えたかのようにまるで見当たらなかった。

 

 すでに夜明けも近く、昨晩一睡もしてないエレナスはとうとう力尽きてその場へと倒れ込んだ。

 冷たい大地は火照る体から徐々に体温を奪っていく。

 

 それすら心地よく、彼は目を閉じた。

 これから太陽が昇ると、陰ひとつ無い大地は熱した鉄板のようになるだろう。理解をしていても体は動かず、ただ耳に誰かの足音が聞こえるのみだ。

 

 誰だか判らない足音を聞きながら、エレナスは意識を手放しそうになる。

 近付く軽い足音は優しい旋律のように彼の耳をとらえ、遠い昔に耳にした子守唄を思い起こさせた。

 

 顔を覗き込まれる気配を感じて、エレナスはそっと目を開けた。

 彼の傍に屈み込む誰かがいる。だが起き上がろうにもすでにその体力すら無い。

 

「……何やってるのあんた。こんな所で寝たら死ぬわよ」

 

 聞き覚えのある少女の声がする。

 顔を上げようにも力が入らず、彼は再び目を閉じた。

 

「ちょっと……。面倒くさい奴ね。全く」

 

 手を取られ、そのまま地べたを引きずられる感覚がした。エレナスが再び目を開けると、倒れた場所からそれほど離れていない岩場の陰だ。

 傍らに膝をついている少女を見やると、青灰色の髪に濃紺色の衣装を纏い、傍らに鳥カゴを携えている。彼女の装備は民生品にはあまり見られない型で、闇に紛れ、素早く動くにはうってつけの作りだ。

 

「君は……。あの時の奴隷商人か」

「本当は、奴隷商人じゃないわ。あたしの名はノア・ノエル。レニレウス王直属の諜報部隊に所属している」

「諜報部隊……軍人なんだな。諜報員が身分を明かしてしまったら、殺されたりしないのか?」

 

 小さなハンカチに水筒の水を浸し、ノアはエレナスの汚れた顔を拭いた。

 

「あんたバカじゃないの。他人の心配なんかして。あんたがあたしの事を吹聴しなければ問題ないわ。それよりもあんたに死なれると仕事にならないんだから、しっかりしてよね」

 

 自分とそれほど歳の変わらない少女に叱咤され、エレナスは目を伏せた。

 

「王都ブラムに送り込んでいた諜報員と連絡が取れなくなって随分経つわ。あんたたちを尾行して内情を探るのがあたしの仕事よ」

 

 見れば岩陰の向こうにはうっすらと陽光が立ち上り始めていた。もうすぐ夜が明ける。

 

「少しだけ、眠ってもいいかな」

「……寝てるあんたを殺すつもりも無いから、勝手に眠ればいいわ」

 

 ノアがそう呟いた時には、エレナスはすでに眠りに落ちていた。

 自らも岩陰に座ると、彼女は鳥カゴから顔を覗かせていた鳩にエサを与えた。

 

 何かを書き連ねた手紙を鳩の脚に結びつけるとそのまま放ち、空を見上げる。

 鳩は明け方の空に羽ばたくとゆっくりと舞い上がり、南へと飛び去って行った。

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三 ・ 夜に飛ぶ鳥

 

 深い眠りの中、エレナスは鈴の音がした気がして目が覚めた。

 外を見ると太陽は天頂をとうに過ぎている。辺りは徐々に太陽が傾き始め、ノアが小さな鍋で肉の破片を煮ているのが分かった。

 

「もうすぐ日が落ちるわ。食べたら出発するわよ。夜の間に距離を稼がないと時間が掛かりすぎる」

 

 塩漬け肉のスープが入った容器と匙、硬いパンを押し付けられ、エレナスはぼそぼそと食べ始めた。

 

「君は眠らなくて平気なのか? こういった作戦には慣れているようだけど」

「少し仮眠を摂ったし、この程度なら訓練よりも楽だわ」

 

 ノアは軽く食事を摂ると、すぐに様子を見に外へと出て行った。

 彼女が戻って来る頃にはエレナスも食事を終え、片付けをしていつでも動ける体勢にしていた。

 

「ダルダンって本当に何も無い所なのね。地形図との比較をしてみたけど、この分ではしばらく村も街も無いわ。水は川で補給するしかないわね」

 

 荷物を抱え早足で歩きながらノアは言った。

 軍人としての訓練による賜物なのか、その歩みはエレナスよりも速い。

 

 王都ブラムへ向けて距離を稼ぐために、二人はひたすら夜道を進んだ。

 有難い事にあの夜以来、死人兵は全く見かけず、気温差と砂嵐、飲料水以外の問題はさしてなかった。

 

 村を出発して数日後、遥か彼方に何かの建造物が見えて来た。

 中心には巨大な樹木がそびえており、エレナスはそれが村なのではないかと思い内心ほっとした。

 だがそれをノアに伝えても、彼女からはそっけない返事しか返って来ない。

 

「この辺りに村なんて無いはずよ。あんたよくこの暗がりで遠くなんて見えるわね」

「精霊人なら暗闇でも目は利くだろう。何も不思議な事じゃない」

 

 エレナスの言葉に何故かノアは黙り込んだ。

 何か気に障るような事でも口にしたかとエレナスは思いを巡らせたが、まるで心当たりが無い。

 

 しばらく無言で歩き続け、夜明けを迎える前に目ぼしい岩陰を見つけて二人は退避した。

 火口箱で火をおこし、川の水を沸騰させて不純物をすくい取る。茶葉を入れたカップに湯を注ぎエレナスに渡すと、ノアはぽつりと口を開いた。

 

「あたしは……純粋な精霊人じゃないんだ。父親は人間なの」

 

 突然の告白に驚いて、エレナスはノアを見つめた。

 彼女の耳の形はどう見ても精霊人そのものだ。人間と精霊人の混血は存在しない訳では無い。だが総じてその子供は、耳の長さが二種族の中間くらいになる。

 どちらかにより近いというのはまれであり、エレナス自身そういった事例に遭遇するのは初めてだった。

 

「あたしが生まれてすぐ父は、母とあたしを家から追い出したらしいわ。あたしの耳を見て、不義の子と思い込んだと死んだ母が言ってた」

 

 内容の重さにエレナスは言葉を発せず、黙りこくって彼女の話を聞いた。

 

「父親を恨んだ頃もあったけど、自分は自分だからさ。外見は精霊人だけど夜目は利かないし、聴覚も人間並み。寿命だけは二種族のちょうど中間くらいだから、あたしの父親はやっぱりその人なんだと思う」

「……前向きなんだな」

「まあね。落ち込んでても仕方ないからね。それに追い出されてシオンに行き着いた事で、現レニレウス王であるカミオ様に拾って頂けたんだから」

 

 ノアが口にした故郷の名前に、エレナスは驚きのあまり手を滑らせた。銅製のカップが軽い音を立てて、エレナスの足元を転がっていく。

 エレナスのただならぬ様子にノアも顔を上げた。

 

「君はシオンに住んでいた事があるのか。……もしかして十年前の襲撃事件を知っているんじゃないか」

「覚えているわ。あの事件で母が殺されたもの。母を亡くしてからすぐ、お城に連れていかれたのよ」

 

 ――繋がった。エレナスは心の中でそう思った。

 教団との繋がりは不明だが、少なくとも襲撃事件とレニレウス王、そしてノアはどこかで関わっている。

 王城でレニレウス王に対面した時、神器の剣を知っていたのもエレナスに対して鎌をかけたのだ。

 

「俺もあの街で育ったんだ。あの襲撃の日、俺も両親を亡くした」

 

 エレナスは不意に口を閉ざした。ノアがどこまで知っているのかも分からない今、多くを語るのは危険だと判断したのだ。

 二人はそれきり会話をやめ、それぞれ交代で眠って太陽の照りつける日中をやり過ごした。

 

 

 

 夕方に起きて二人は食事を摂り、村と思しき場所を目指した。

 途中焼け焦げたような廃墟の横を通り過ぎると、言葉に表せない不気味さだけが辺りを支配していた。

 枯れた木々がねじれた枝だけを張り巡らせ、それは風に打たれるとぎしぎしと鳴り響く。

 

「薄気味悪い所ね。こんな所に本当に村なんてあるの?」

「向こうにかなり大きい枝を張った木が見えるんだ。何も無いとは思えないけど」

 

 不安を隠しながらエレナスは先へと進んだ。

 その時、頭上から鳥の声が聞こえた気がして彼は夜空を見上げた。

 

 夜に飛ぶ鳥がいるだろうか。

 冴え渡る宵闇の中、一羽のカラスが宙を舞っていた。黒いカラスは辺りを気にかけることもなく、ただ悠然と北の空を目指した。

 

 導かれるように、エレナスは夢中でカラスの後を追いかけた。

 ひたすら走り続け辿り着いたそこは、朽ち果てた古代の神殿遺跡だった。

 

 地図にも載っていないのか、ノアは何枚もの地図や地形図をひっくり返しここを示すものを探した。

 入り口にはぼろぼろになった彫刻がかろうじて残り、柱は倒れ石床は砕け散っている。

 奥には巨大な樹木が天をつき、まるで主が到着したかのように二人を出迎えた。

 

 人ひとりがようやく通れる程度の門扉をくぐり石床を進むと、廊下の壁には埃にまみれた創世神話が刻まれていた。

 創世神アドナの誕生に始まり、末神を伴っての立ち隠れまでを綴ったレリーフが、ここがアドナが祀られた神殿であると告げている。

 

 神殿奥にうごめく人の気配に、二人は用心深く進んだ。

 彼らよりも先にここを訪れた者がいる。廊下の奥にぼんやりと灯る暖かい炎がそれを物語っていた。

 

 エレナスとノアは声も立てず、合図だけで扉前へ散開した。

 柄に手をかけ一気に扉を押し開くと、内部からは黒い影が躍り出る。

 

 逆光で顔すら見えないそれは、鞘を払いながら横薙ぎにエレナスへ斬りつけた。

 急に襲いかかって来た相手に対して、エレナスも剣を抜き放った。仄暗い廊下に、輝く光の軌跡が現れる。

 

 青白い火花を散らし、神器の剣は相手の刃を受け止めた。

 その微かな白光の中に、エレナスは知っている男の顔を見た気がした。

 

 相手もそう思ったのか彼らは互いに飛び退き距離を取る。

 その時男の背後から影が伸び、新手が姿を現した。正体不明の存在が一人だけだと思っていたエレナスは虚を突かれ、ノアに下がるよう口を開いた瞬間。

 

「ローゼル! 下がってろ!」

 

 エレナスの声を掻き消すように男が怒鳴った。

 見れば男の背後から現れたのは、長い黒髪の女だ。やはり逆光で表情は窺えないが、右手には剣、左手には松明が握り締められている。

 

 女が差し出した松明で辺りはつぶさに照らし出された。

 闇に慣れた目には沁みるように眩しく、エレナスとノアは咄嗟に顔をそむけた。

 

「お前……あの時の」

 

 いつか聞いた声に目を開けると、そこにはセレスの小屋で会った男がいた。

 

「セレスは……。息子はどこだ? お前と一緒にいるんじゃなかったのか!」

 

 父親の剣幕にエレナスは何も答えられず言葉を失う。

 掴みかかるリザルをローゼルが抑えるが、エレナスは俯き、謝罪の言葉を口にするしかなかった。

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四 ・ 最後のダルダン王

 

 走り去るエレナスを見送ったダルダン王は、教団の掃討作戦を続行した。

 

 すでに潜入していた工作員が人質を解放すると同時に包囲を狭め、逆らう者は斃し、投降する者は捕虜として捕らえる。

 自暴自棄になった教団員が村中へ火を放ったが、戦場慣れしたダルダン軍が動揺するはずも無く、彼らはただ己の任務を全うした。

 ここで一人とて逃せば、ゴズ鉱山から援軍が出るだろう。例え援軍がなかったとしても、鉱山の構造上篭城されると陥落までに時間がかかりすぎた。

 

 たった数十人では訓練された兵に敵う訳も無く、ブルン村の奪回は滞りなく終了した。

 勘付かれないために消火活動を急がせ、ダルダン王は軍を一度ガルガロスまで撤退させた。

 翌日にはゴズ鉱山を目標としているにしては幾分遠回りに見えるが、攻めやすく守り難い開けた村では殲滅戦に移行しやすく、兵を休められなかったのだ。

 

 城塞都市ガルガロスは、初代のダルダン王が東方の要、第二の王城として築いた要塞都市だ。

 巨大な城壁は幾重にも建てられ、巨大投石器ですら破壊しきるには数十日を要するだろう。

 

 砦内には国外からもたらされた土で畑が作られ、食肉用の家畜も肥育されている。

 唯一厳しいのは水源だったが、国境を分断する大空洞の支流からかろうじて水を引く事が出来た。

 

 またこの都市は王都を凌ぐ地下大神殿を有し、信心深い歴代の王たちは足繁くこの地へ通った。

 現王ギゲルも例外ではなく、月に一度は大神殿へと足を運んだ。不幸にもその信心深さを逆手に取られ、教団の侵入を許した事にギゲルは誰よりも憤怒していた。

 

 未明にガルガロスへ帰還すると、王はすぐさま兵と騎馬を休ませ、残りわずかな糧食と水を分け与えた。

 明日にはゴズ鉱山を解放し王都へ向かわなければ、打つ手は無くなるだろう。

 

 王は侍従が勧める食事も摂らず、独り地下神殿へと向かった。

 守護神像が祀られている祭壇へと跪き祈りを捧げながら、彼は国の安寧と守護を願った。

 

 王にとって神とは自らを構成する心の一部だ。

 存在するかしないかと訊かれれば、心の中に存在すると答えるだろう。

 最後に頼りになるものは自分自身であり、その原動力となるものが自己肯定だと王は認識していた。

 自らが民の拠り所となり、彼自身は内にある信仰心を源としている。何かにすがるのでは無く、自らの心を頼みにしているのだ。

 

 ふと背後に気配を感じ、王は誰何した。

 押し黙ったままのそれを侍従と理解し振り向くと、そこには見知らぬ一人の男がいた。

 編んだ黒髪に黒いコート、そして暗いスミレ色の双眸に王は驚き身構える。

 

 王は衛兵を呼ぼうとしたが男の容貌に既視を感じ、その場に彼は立ち尽くした。

 男は身じろぎもせず王を見つめると静かに口を開いた。

 

「ダルダン王ギゲルよ。お前に頼みがあって来た」

 

 表情も無く、淡々と男は話した。

 王はこの男が守護神像によく似ている事に気付いた。その心中を察してか、男は自らの名を彼に告げる。

 

「我が名はマルファス。五百余年の昔、ダルダンの若き王に王器を与えた者」

 

 その言葉を聞き、王は無意識に膝をついた。

 

 城の地下にある神殿へ、衛兵にも悟られず入れる者などいる訳がない。

 亡国の危機に現れ、ダルダンを導くという逸話は真実だったのかもしれない。そんな淡い期待を抱いた王の耳に届いた言葉は、彼の予想を裏切るものだった。

 

「お前の持つ王器を返還して欲しい。じきに四王国の時代は終わりを告げ、一人の王によって大陸が統べられるだろう。王器は各々の手にあってはならないのだ」

「何故……です。あなたは我らダルダンをお見捨てになるのか」

「そうではない。王器を返還してもらえるなら、お前にあの死人の軍を打ち破る方策を授け、今ある真実を教えよう」

 

 マルファスの出す交換条件にギゲルの心は揺らいだ。

 実際ブルン村の戦闘では死人兵がいなかったのが幸いしたが、占領されて時間の経ったゴズ鉱山では、多くの鉱夫が死人兵になっていると予想されていた。

 残り少ない戦力を温存するためにも、この交渉を受け入れるしか残された道は無かった。

 

「……ならばお受け致しましょう。民のためにも、これ以上の深手は負えません」

 

 王の決心に、マルファスは頷いた。携えていた黒曜石の剣を確かめると、ギゲルはマルファスへ捧げ渡した。

 

「王の覚悟に感謝する。この剣は僕が責任を持って管理すると約束しよう」

 

 渡された剣を背負い、マルファスはギゲルへと向き直った。

 

「では死人兵の話をしよう。あれを斃すにはいくつか方法がある。物量で押し潰し破壊する方法。そして神器を用いる方法だ」

「神器ですか。我がダルダンでもいくつか集めていた記憶がありますが、あれをどのように使用するのです」

「死人兵は神器そのものを触媒とした術で操られている。一体ずつ神器で術を断ち切る事も可能だが、元から断つのが最善だろう」

 

 元から、というのは術者を倒すという意味だろうか。

 西アドナでの主流は、幾何学図形に古代文字を書き込んだ紙を触媒とする術だ。幾何学図形によって発動する術は異なり、それぞれの師によってその内容は秘匿されているという。

 物質を触媒とする術があるなど、一度も耳にした事が無い。

 

「元から断つというのは、術者を狙うといった意味でよろしいか」

「いや。術者を倒すだけでは難しいだろう。術の触媒とされた神器そのものを破壊するしかない。神器を持つ者ならば、それが可能だ」

「毒をもって毒を制す……という訳ですな」

 

 ギゲルの言葉にマルファスは静かに頷いた。

 

「武具形の神器が最も扱いやすいだろう。神器を所持する者が敵の懐へ入らなければならない危険が付き纏うが、破壊出来れば全ての死人兵は再び屍へと戻る」

「ならばその役目、この私が担いましょう。所蔵していた神器が、このような所で日の目を見ようとは嬉しい限り」

 

 最後の王たるギゲルの覚悟にマルファスは微笑んだ。

 王器を返還してしまえば、彼はもう王ではない。その事実をギゲルが臣民に隠すか公表するかは彼次第だが、もし公表したとしても彼の臣民たちは最後まで共に戦うだろう。

 

「最後に、現在大陸で起きている事柄について話しておかなければならない。有り体に言うと、現在王器を所持している王は、ネリア王フラスニエルだけだ」

「なんですと! そんな……バカな。アレリアだけならいざ知らず、あのレニレウスが王器を手放すなど考えられない」

 

 王器の放棄は王権の放棄に等しい。

 それは今この場で王器を手放したギゲルが最も理解していた。

 

「どちらも好んで放棄した訳ではない。新しく『守護神』となった者が、国自体を放棄した結果だ。この事を知っているのは四王国ではお前だけだよギゲル。恐らくレニレウス王カミオは、この事実を伏せたままにするだろう」

 

 ギゲルは驚きのあまり両手をつき、うなだれた。

 

「王器を失ったアレリアを護るためにネリアは盾となる事を選んだ。今現在はレニレウスからの侵攻を警戒して国境を封鎖しているようだが、そのレニレウスから王器が失われた事までは知らない。今後レニレウスは失った力を補填するために、ネリアに使者を送ると僕は見ている」

「レニレウスがネリアの軍門に降ると……。あの傲岸不遜な男が。そこまでする理由があるという事ですか」

「そうだ。全ては至高教団が元凶であり、その教団を生み出す主因となったのが先代のレニレウス王。この因果はもう誰にも断ち切れない」

 

 マルファスはそこで言葉を切った。

 見れば天井のステンドグラスからは朝陽が差し、鮮やかな色彩が白い石床を染め上げている。

 

「王都を奪回した後、どうするかはお前次第だよギゲル。ダルダンは広大な国土を有するがために、知らぬうちに尾を喰まれていても気付かないものだ」

 

 ギゲルが顔を上げると、すでにマルファスはその場にいなかった。

 謎かけのような言葉だけを残して、彼の神は心の中から永遠に消え去った。

 

 侍従が様子を窺いに現れるまで、ギゲルはその場で独り苦悩し続けた。

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五 ・ 父と子

 

 セレスが王都ブラムへ拉致されて数日が経った。

 

 村はずれの岩陰に馬車を隠していたらしく、縛り上げられて放り込まれると、馬車は音を立てて王都へとひた走った。

 どのくらいの時間が経過したのだろう。それすら把握も出来ず、彼は馬車に揺られ続けた。

 

 食事も与えられはしたが殴られた頭がひどく痛み、しばらくは水を口にするのがせいぜいだった。

 セレスが気絶している間に持ち物を漁られた形跡があったが、外套の内ポケットに隠した鈴には気付かれていないと知り、彼はほっとした。

 

 子供と侮っているのか、目隠しもされていないために、自分の置かれている状況は手に取るように理解出来た。

 連れ去った老人の他には御者が二人おり、時折馬たちを休ませ食事を摂る以外は、二人の御者が交代で馬車を走らせ続けているようだった。

 

 セレスの挙動は老人が逐一監視していたが、怯える子供のふりをしておけばそれほど脅威ではない。

 

 彼にとっては何よりもエレナスが気にかかっていた。

 判断を誤る事は無いだろうが、拉致された事で自責の念にかられていると思うと心が痛んだ。

 

 ――あの人は父に似ている。

 

 セレスはふとそう思った。

 エレナスが自らの心の内を明かす事は滅多に無く、他人には目に見えない壁を周囲に張り巡らせているように感じていた。

 何十年も生きる間、他人に失望したり裏切られる事もあったのだろうか。傷ついた心を覆い隠すように振舞う様が、どことなく父親に重なって見えたのかもしれない。

 

 

 

 馬車に揺られる事数日、王都ブラムに到着したセレスは、窓も無い一室に監禁された。

 清潔なベッドや磨かれた調度が置かれている様子を見ると、城内にある小部屋のように思える。

 

 老人は世話役の男性を一人付けると、セレスを一瞥し部屋を後にした。

 頑丈な扉には外からカギを掛けられているが、今すぐ殺される心配も無いだろうとセレスは安堵した。

 

 世話役の男性を見ると、四十代くらいで気立ての良さそうな顔立ちだ。

 他の教団員と同じ白い法衣を纏っているが、絹で織られた司祭の法衣とは異なり、簡素な麻で仕立てられている。恐らく修道士なのだろうとセレスは思った。

 

「……おじさん誰? 何でぼくはこんな所にいるの」

 

 何も知らない子供のようにセレスは男に訊ねた。

 必ずエレナスが捜しに来てくれると信じ、セレスは最大限の情報を得ようとしたのだ。

 

 そんなセレスの思惑も知らず、男はにこにこと微笑んだ。

 椅子に腰掛けるセレスと同じ目線になるよう膝を折り、彼の目を覗き込んだ。

 

「初めまして。私はベレン。司祭様から君の世話を言い付かった者だよ。君の名前を教えてもらっていいかな」

「……ぼくはセレス。ねえ、おじさん。ぼくここから出たいんだけど」

 

 セレスの言葉にベレンと名乗った男は困った表情をした。

 

「ごめんな。君は大切なお客様だから、外に出してはいけないと言われているんだ。その代わり、私に出来る事があれば何でも言って欲しい」

「じゃあ、何かお話してよ。ここは窓も無いから、つまらない」

「分かった。何のお話がいいかな」

 

 ベレンは立ち上がると奥から椅子を一脚運んで来た。それをセレスの前へ置き腰掛けると、優しく微笑む。

 

「ここはダルダンの王都なの? ぼくダルダンに来るの初めてなんだ」

「ああ、そうだよ。ここは王都ブラム。ベリル山脈から流れる、アレリア湖の地下水を引いて造られた水の都だ。あまり風の音がしないのは、都中に木々が植えられているからなんだよ」

 

 気のいいベレンは、訊けば何でも教えてくれた。

 故郷の事。家族の事。

 中でもセレスの興味を引いたのは、今年九歳になるというベレンの一人息子の話だった。

 

「私の息子は生まれつき病弱でね。教団の修道士となったのも、薬代を稼ぐためだったんだ」

「ここってお給金もらえるんだ。修道士の人たちは皆、キシャしてるのかと思ってた」

「キシャ? 喜捨の事かな。司祭を目指す者はしているね。私のようにお金が必要な者は、喜捨はしないんだよ」

「……いつか、殺されるかもしれないのに?」

 

 セレスの指摘に、ベレンは一瞬口を閉ざした。それでも彼は俯いたまま頷いた。

 

「何よりも息子が大切だったから……。私の本職は細工師なんだけれど、その稼ぎだけでは賄えなかった」

 

 まるで自身に言い聞かせるかのようにベレンは呟いた。

 自分の命よりも、子供を救いたいというのが親の心なのだろうか。セレスはふと、こんなにも愛されている彼の息子が羨ましいとすら思った。

 

「そうだ。もうすぐ夕飯のようだから、厨房に何か作らせて運んで来るよ。一緒に食べよう」

 

 ベレンはそう言い立ち上がると、扉の外にいる見張りに声を掛け、一人部屋を後にした。

 その隙にセレスは外套から鈴を取り出すと、ベッドに近寄り枕の下に鈴を押し込んだ。

 

 ここまで隠しおおせて来たのに、鈴が見つかってしまっては意味が無い。

 他に適当な隠し場所も見つけ出せず、セレスは神妙な面持ちで食卓へと移った。

 

 しばらく待っていると、銀の盆に食事を載せたベレンが戻って来た。

 世話役というよりは監視のようだとセレスは思ったが、口には出さなかった。

 

「さあ食べよう。大したものが用意出来なかったけど、おいしいと思うよ」

 

 盆の上にはレンズ豆のスープやパンの他、リンゴの砂糖漬けが載っている。

 好物の登場にセレスは目を輝かせた。

 

 リンゴはネリア北部の特産品であり、故郷にいた頃はそれこそ毎日口にしていたものだ。

 懐かしい甘さに、セレスはふと父を思い出した。

 

 母が亡くなった後、三歳だったセレスはローゼルへ預けられた。リザルは悩み抜いたが、幼児を抱えたまま男手ひとつで育て上げるのは無理があったからだ。

 七歳を過ぎ、一通り身の回りの事を出来るようになってから、父親の許で暮らすかどうかを大人たちに迫られた。

 幼少期から叔母や祖父の許で育ち、父親とは月に数回会う程度だったセレスには、彼の世界を覆すほどの重みがある話だ。

 彼を巡って父と祖父は更に険悪になり、セレスは八歳にして森番として一人で生きる決意をした。

 

 ――自分が大人だったら、もっと力があれば、誰も傷つかずに済んだのではないだろうか。

 

 気がつくとセレスの視界は涙で曇り、大粒の滴がはらはらと伝い落ちた。

 

「お父様……お兄ちゃん……」

 

 食べるのをやめて泣きじゃくるセレスを気遣い、ベレンはそっと頭を撫でた。

 隣の部屋にいるからね、とだけ声を掛け、彼はセレスを残し部屋を出た。

 

 誰もいない箱のような部屋の中で、セレスは独り涙を流し続けた。

説明
創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。ページによる視点の切り替えが細かくなっています。15937字。

あらすじ・常人には見えない赤い月『ウルヴァヌスの血月』は、代行者たちを神殿遺跡へ呼び寄せた。
一方セレスを連れ去られたエレナスは、ダルダン軍によって包囲されていた。
第六話http://www.tinami.com/view/563397
第八話http://www.tinami.com/view/571600
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