トゥングスワ=ルフツビ その4
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09

 

G市郊外。車から降りる六人。

 

間際老人、運転手に声をかける「いつになるかわからんが、帰るときは連絡するから」

「分かりました、お気をつけて」

一行が角を曲がるまで見届けた運転手、長閑な田舎の辺りに目をやり、

ダッシュボックスから出してきたサンドイッチが入っているらしきランチボックスと文庫をポンと叩いて『さて、どこでピクニックしようかな?』

 

 

「ここですね」

呼鈴を押す辰野。家の中からは音がしない。

将又はファインダから目を離して「あら。やっぱり連絡無しで来たら駄目だったかも」

「いやいや、連絡して万が一また慌てて逃げられても困りますしね」とは間際老人。

釜田が「何故逃げる必要があるの?今更婚約者がどうのこうのじゃあるまいし。そりゃ婚約者の一族が絶えた一因ではあるけどね...」

そこに「あらあら!まぁまぁ!」後ろから声。

振り返ると楽しそうに微笑んでいる老婆がひとり。

「とうとう見つかっちゃいましたか」

 

 

 居間で辰野から経緯を聞きながら頷く白髪の雨神。

「そうですか、皆さんご苦労様でした。それではなんでも答えますよ」

「先生はまだ散歩から帰ってこないのですか?」

「私も途中まで一緒に歩いていたんですがお水に豆をつけたままなのを思い出して、一人で帰って来たんです。最もソラヤマは構想を練り込んでる最中だから一人の方がいいのかもしれないけど」

夫の事をソラヤマと呼んでいるのが、かつての編集者と作家の関係を思い起こさせる。

「構想って、新作でも描くつもりなんですか?」

「いいえ新作でなくて、続き」

辰野は鳥肌が立つのをおぼえた。「まさか」

「ソラヤマはひと月前に『夢のる舟』に乗り込みました...私をおいて一人でね」

「雨神君、どういう事かね?『夢のる舟』とは」

「間際先輩、おぼえてますか?『トゥングスワ=ルフツビ』の中に山の頂上に有ると言葉としてだけ出てきたものです」

玄関の戸が開いて老人が入ってくる。

間際慌てて席を立ち「先生!お久しぶりです!」

ソラヤマ、ぼんやりと一同を見回して「雨神のお母さん、この人達は誰ですか?」

お母さん?老婆はその言葉を気にせず

「うーん、こちらが間際さんのお父さんで、他の方はみんなあなたのファンです、ね」

「これは驚いた、こんなに沢山の人が僕の漫画を読んでくれているとは知りませんでした。ファンレターなんて一度しか来たことなかったのに...みんなシャイなのかな?」

にっこり笑って「何も無いのですが、どうぞゆっくりして行ってください。雨神のお母さん、美味しいものを出してあげてください。申し訳ありませんが僕は書斎に戻ります」

といって頭を下げながら一行の前を通り、奥の部屋に消える。

間際老人、はっとして雨神をみる。先生は…

「思い出したよ。山の頂上、魔法使いが蓄えていた沢山のガジェットのひとつ。それに乗り込んで何かをすれば世界が元に戻るという『夢のる舟』

佐久治君が描いたラストでは出て来ずじまいで頂上自体が爆発して終ってしまったアレかね?』

釜田も「それが何なのか、どんな形なのかも分からなかった舟だったよね」

雨神は古い傷を労るような表情で言った。

「ソラヤマ自身は作品の事は語りませんでしたが『夢のる舟』とは、タイムマシンのようなものだったのではと思うんです。

 痴呆に落ちたはずのあの人の心は今、漫画家だった時代に戻ってしまったのです。

あの夜逃げの後、私達二人は式もあげずに籍だけ入れまして、ごく普通の夫婦として暮らしてきました。子供も一人いまして、今は海外で作詞か何かして食べているそうです。

 ソラヤマからわたしに、欲しいものを全て与えてもらった平凡な人生。しかしその生活は漫画家ソラヤマリンの消滅によって成り立ったものでした。私は、そのことを今だにとても悔いています。ソラヤマの『トゥングスワ=ルフツビ』、果たしてどんな結末だったのでしょう。少なくとも佐久治君のような悲劇的なものではなかったはずなんです。

私は、欲張りなのでしょうか?」

「僕達みんな、それが知りたくてここまで来たんですよ」

「あの時ソラヤマが連載を中断する事になってしまっても、あまり残念がっていなかったのが不思議でした。まるで何かに保証されているような雰囲気で『すでに舟に乗って時が満ちるのを待っているから』などと言っていました。

…ソラヤマは、昨日ペンとか紙とかを探していましたから、今おそらく机に向かっているでしょう」

「何を描くのかは分かっている。しかし、何が描かれるのかは分からない、か」

「見に行っていいかね?」

「いいですけど、多分何も見せてくれないと思いますよ。その代わり、襖越しに声をかけてみてください。面白い事が起こりますよ」

 

書斎の前、

間際老人が襖を少し開いて中を覗く。ソラヤマの背中しか見えない。

意を決して声をかけようと「エヘン」と軽く咳をする。

と、中から声。

「そろそろ煙草は控えた方が身体に良いんじゃないですかね?間際さん」

驚く間際老人。…声をおぼえててくれたんだ。話を合わせる。

「少し前から禁煙を始めましたが、咳だけ残りまして」

「禁煙か、良いじゃ無いですか」

襖ごしでは、互いの老いた姿が見えないのだ。

「時に先生、原稿はどのような塩梅で?」

「誠に申し上げにくいのですが、重い腰を上げてようやく取りかかったところなんです」

ネームを描いてるんだ。

雨神が言葉を継ぐ「何か必要なものはありますか?」

「雨神君、僕のインク壜は何処にいったのでしょうか?」

「…あれは先日の掃除の時にひびがはいったので、捨ててしまったのです」

「そうでしたか?」

「そうでした」

「そうですか。では、夕方迄に新しい物を探してきて貰えませんか?」

「おなじようなインク壜が店にありませんと思いますが」

「僕は牛乳壜でも良いんですが、原稿の上で倒したら大事ですからね」

「では先生が喜ぶような壜を探して来ましょう」

「お願いします。それとあとひとつ…いやふたつかな、僕は言っておかなくては」

「何でしょう」

「えーと僕の担当は、今、間際さんか、雨神君か、どちらなんだろう?」

「二人でやってます」

「それなら二人に言っておきます。連載もあと2話となりましたが、この二回、僕の好きに描かせて貰います。その代わり、今から一気に描き上げます」

この宣言、やはり先生は『トゥングスワ=ルフツビ』を描き直そうとしている!

なんというタイミング!

「しかし、一線から遠退いていた先生は、身体が持つのだろうか?家族としては、辞めさせたいのではないかね?」

「勿論そうなんですが、ソラヤマが悔やむ事があって心を病むのを見るのは、身体を看病するよりもっと辛い。そして今が、例え老いてボロボロになってしまった今がその瞬間だとすれば、私達は作品を完成させる事に全霊を注ぎたい」

「漫画家も鬼なら、編集も鬼だ。やはりお前は優しい地獄の使いだな」

「…間際先輩」

よし、こうしようと間際老人は、また襖の向こうのソラヤマに話し掛ける。

「なぜ一気に描くのですか?身体が持ちませんよ」

「今でなくてはいけないのです。言うならば、今まさに時が満ちたのです」

時が満ちる…辰野の葉書にもあった言葉だ。

「分かりました。ラスト2話分先生に任せました。しかしこちらも子供達の少ない小遣いで本を作って生活させてもらっている立場です。力不足で仕上がった漫画なぞ載せたら子供達に申し訳が立たない。どうでしょう、アシスタントをつけるのは?」

雨神が小声で間際老人に「ソラヤマが手伝ってもらうのを好まないのは知っているでしょう」

「ああそうだったな。しかしその彼にアシを付けさせたのは僕だぜ」

「そうでした」

「今言ったのは、昔と全く同じ口説き文句なんだ」

しばらく黙考のあと、部屋中のソラヤマが口を開く。

「分かりました。ただし枠引きとベタだけですよ」

「ありがとうございます。インク壜がくる頃に合わせて呼んでおきます。それで、あとひとつ言っておくこととは?」

「それは…やっぱりまたあとにします」

何なんだろう?

 

一行はそれ以降ソラヤマに声をかけず、リビングに戻った。

「雨神君、先生は本当に描くつもりだろうか?」

「おそらく夕方迄気分が安定していたら、夜から描き始めると」

「確信が有るのかね?」

「ソラヤマと何年一緒にいたと思ってるのですか?ボケても彼は彼です」

間際老人は、また作戦を練りだした。

「よし、辰野さん、あなたはペンは持てるかね?」

「いいえ、絵の方はからきし駄目なので字書きの方に流れたんです」

「釜田さんは?」「読み専門です」

「佐久治君は?叔父さんの絵に興味があるくらいだから、どうなの?」

「真似事というか友人の漫画の手伝いぐらいならしたことはあります」

「じゃあやってみよう。後は、栗川君、久々にお願いします。二人で手伝いながら、中の様子を教えて下さい」

「この歳で、また先生の『トゥングスワ=ルフツビ』の原稿を手にできるとは、何という幸せと恐怖!」

「僕達が顔を出すとややこしいので襖の向こうで声だけの応対をしましょう」

(つづく)

 

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