とある武術の対抗手段《カウンターメジャー》 第一章 脳髄盗取:一 |
脳髄盗取:一
旨い。旨すぎる。
綿飴のように繊細で滑らかな歯応えと喉越し。舌にいつまでも残るまろやかさと濃厚なコク。どれを取っても、いかなる料理に勝るものがある。
足りない。こんなものでは足りない。一キロ弱の量ではまるで足りない。もっと食べたい。もっともっと食べて、満たさなくてはならない。自分の能力を、自分の頭を、自分の精神を。
人間の脳髄は、かくも美味なるものだ。
第二学区にある訓練施設で、廷兼郎は男と向かい合っていた。屈強な体つきの相手は、ゆさゆさと体を振ってリズムを取り、踏み込む機会を窺っていた。
対する廷兼郎は、肩口から伸ばした左手を緩く開き、右手は臍の前で、掌を下に向けて置いている。
男は鋭いステップから、勢いを殺さずワンツーを放つ。踏み込んだ分伸びてくる拳が、廷兼郎の顔面目掛けて走る。
次の瞬間、男は右腕を伸ばしたまま、がくりと膝を突いて呻き声を上げた。廷兼郎は左ジャブを弾き、右ストレートを左手で受け止めると、そのまま手首を極めていた。
一瞬の攻防に、周りで見ていた学生からは称賛の声が上がる。
「このように、相手の手の甲をこちらに向けた状態で握り、親指で薬指の付け根を押さえます。ここにはツボがあるので相手は力が入らず、逃げることは出来ません」
空いた右手で関節技を極めている左手を細かく指差して説明する。学生たちはその説明を熱心に聞いている。
廷兼郎はこの訓練施設で、戦闘技術の教導を行っていた。彼は高校に特待生として入学し、その入学条件に訓練施設での戦技教導も含まれているため、定期的に訓練施設での実技訓練を警備員《アンチスキル》や風紀委員《ジャッジメント》に対して行っていた。
廷兼郎は、こうした仕事をこなせば学費は免除、そして生活費と家賃も保証されるとあって、むしろ労働することが楽しいとさえ思えていた。
「それでは二人一組になって、今までの動きを練習してください。仕手は顔ではなく腹を狙ったりと、色々工夫してみてください。受手は無理に綺麗に極めようとしなくて良いですから、初めはゆっくりやってみてください」
先ほどの屈強な男は「お願いします」と挨拶し、今度は廷兼郎から繰り出された右手を掴み、捻り上げてみせた。
「いいですね。藤原さんは体が大きいから、より力で押さえ込むようにしても有効でしょうね」
「プロレスの脇固めみたいに、押さえ込んだほうがいいですか?」
「相手が一人の場合は、それで大丈夫だと思います。ただ、複数居た場合は脇固めをして寝転んでるところを攻撃される可能性があるので、どちらも憶えて、状況によって使い分けることが理想です」
「なるほど。分かりました」
そうしている間に訓練時間が過ぎ、チャイムが鳴り響いた。他の学生たちは既に手を止めていた。
チャイムが鳴り終わる頃には、皆その場に正座して、背筋をぴんと伸ばしていた。
「それでは、今日の訓練を終了します。お互いに、礼!」
「ありがとうございました!」
「自分に、礼!」
「ありがとうございました!」
「神前に、礼!」
「ありがとうございました!」
世界最高の科学技術を誇る学園都市の中であろうと、武道は礼に始まり礼に終わる。廷兼郎は開始と終了の礼を徹底し、それを行えない者には、絶対に自分の技を教えないということを堅く決心していた。
例えそれが観念的に過ぎず、非効率的だと言われても絶対に譲れないと、戦技教導官に就任する際の面接で宣言していた。
そんな廷兼郎の決心は、風紀委員と警備員の前では杞憂に過ぎなかった。彼らは皆、自分から志願して加入しただけあって、やる気とモラルは非常に高い水準にあり、廷兼郎の主張をすんなりと受け入れてくれた。
三つ指を立てた礼を終えると、皆はジャージから着替えるために更衣室へ向かった。
「字緒さん、さよなら」
「はい、さようなら」
「んじゃ廷さん、あばよ」
「はい、さようなら」
「字やん、またね」
「はい、さようなら」
風紀委員の年齢層は小学生から高校生まで存在し、高校一年生の廷兼郎は、年下にも年上にも教官として接しなければならない。
廷兼郎としては、あまり教官面をしたくないので、『教官』や『先生』といった単語で呼ぶのは遠慮してもらっている。そのためか、フレンドリーすぎて教官としての示しがつかない場面が多々あった。
そこが例外的に未成年で訓練施設の戦技教導官になった廷兼郎の、唯一の泣き所だった。
「このままでいいのか。もっとビシッとしたほうがいいのか。示しがつかないって言われても、同年代なんだからしょうがないよ。この際ヒゲでも生やすか!」
「何を一人で喋っていますの」
「そげぶッ!?」
驚いた廷兼朗が振り向くと、そこには制服に着替え終わった白井黒子が立っていた。
「白井さんか。脅かさないでくださいよ」
「空間移動は神出鬼没が身上ですの」
「ここで発揮しなくてもいいでしょうに」
「ところで廷兼さん、この後何かご予定はありますの?」
「この後の予定ですか? トレーニングに当てようかと思ってますけど……」
「つまりは暇ですのね」
「何て身も蓋もない言い方!」
ガーンと衝撃を受けた廷兼郎の肩にぽんと手を当て、白井はにっこり笑った。
「さ、行きますわよ」
「ちょ、ちょっと待って。どこ行くんですか? せめて着が??」
廷兼朗が首に掛けていたタオルが、ふわりと道場の床に落ち、人の姿は掻き消えた。
固法美偉《このりみい》は、同じ支部の風紀委員《ジャッジメント》の学生たちと相談していた。警備員《アンチスキル》からの要請を受け、今動ける風紀委員の全てを動員するため、大慌てで可動人員の確認をしていた。
「固法先輩、人手を連れて来ましたの」
虚空から現れた白井を見て、固法はほっと安心した顔を見せた。
「ありがとう。急に呼び出しちゃってごめんなさいね」
「お気になさらず。風紀委員として当然ですわ。ねえ、廷兼さん」
「はい。全く、その通りです……」
白井に促された廷兼郎《ていけんろう》の返事は、ほとほとか弱いものだった。彼の肩は、見るからにがくりと下がっていた。
「字緒《あざお》くん、何その格好?」
「見ての通り、道着です」
「そんな急がなくてもよかったのに」
急いでいたわけじゃなくて、空間移動《テレポート》で有無を言わさず連れて来られたんです、という説明さえ億劫《おっくう》になるほど、街中での道着姿は廷兼郎の精神をがりがりと削ってくれた。
「風紀委員だから、当然なのです……」
とりあえず廷兼朗は、白井の言葉に乗っかることにした。
「それで、人手が要る仕事って何ですか?」
「第二学区にある研究所から、治療を受けていた患者が脱走したそうなの」
「研究所で治療?」
「何でも高次の脳障害を患ってるとかで、病院では手が付けられないんですって。だから一刻も早く見つけて、治療しないといけないのよ」
「どこに逃げたか、分からないんですか?」
「ええ。学園都市の監視システムにも、今のところ引っかかってこなくて。だから全学区の風紀委員と警備員を上げて捜索しているの」
「それはまた、大捕物ですな」
事情を大方把握した廷兼郎は、難しい顔をしていた。
「どうしましたの?」
「いや、治療中に脱走したってことは、その治療がつらかったのかな、と思って」
「夢遊病患者かもしれませんわよ」
「夢遊病で徘徊してるのに、監視システムを抜けられるとは思えないな」
「まあ、そうですわね。でも治療がつらくて逃げていては、治るものも治りませんわ」
確かに白井の言うとおりだ。廷兼郎の懸念は単なる杞憂に過ぎない。今の時点では、早く脱走した患者を捕まえ、治療に専念させることが大事である。
「患者の身体的特徴は?」
「研究所からデータを貰ってるから、携帯に送るわ」
「携帯、ですか……」
白井が口紅ほどの小さな携帯端末を出しているのに対し、廷兼郎は全身をくまなく探っていた。白井に突然空間移動《テレポート》させられたため、携帯端末は第二学区の訓練施設に置きっ放しであった。
「字緒くん、携帯くらいちゃんと持ってなさいよ。急ぎの用があっても、所持品はしっかり確認しないと」
「まあまあ固法先輩、わたくしと一緒に捜索させますから」
そうして白井からフォローを受ける形で、廷兼郎は患者の捜索を開始した。
そこはかとなく納得のいかない廷兼郎だったが、風紀委員の仕事だから仕方が無いと諦め、白井とのツーマンセルで本格的に捜索を開始した。
「患者の名前は安治並甲佐《あじなみこうさ》さん。年齢は十五歳。身長は一五八センチ。体重五十三キロ。髪は黒。人相はこんな感じですわ」
白井の見せてくれた写真には、利発そうな青年の顔が映っていた。脳障害の治療中ということだったが、写真を見た限り肌の色艶は健康体そのもので、一見しただけでは病人と思えない。
「脱走当時の服装は?」
「脱走したのが夜半だったので、紺のパジャマだそうですわ」
「パジャマですか。それなら歩いていればすぐ分かりますな」
「ええ。道着くらいに目立ちますものね」
廷兼郎がしかめた顔を向けるが、白井は何処吹く風といった様子で笑っていた。
「まずはこの路地から探しますわよ」
あらかじめ決められた捜索範囲に従い、白井たちは建物の間にある路地へと入っていった。
たまに学生が近道に利用するだけで、人通りなど殆ど皆無の路地である。脱走した患者が、学園都市の水も漏らさぬ監視システムをすり抜けていることを考えれば、こうした場所に逃げ込んでいると言うことは想像に難くない。
細いながらも入り組んだ路地を、二人で手分けして捜索する。白井は空間移動《テレポート》を行いながらどんどん捜索範囲を消化していく。
廷兼郎は軽く「俺いらなくネ?」と思ったが、そんな気持ちは、薄暗い路地の奥に人がうつ伏せに倒れてるのを発見した時に、一瞬で吹き飛んだ。
身形から女子学生であることが分かった。ただならぬ事態を予感した廷兼郎は、すぐさま走り寄った。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
呼びかけても返事がない。それどころか身動《みじろ》ぎ一つ起こさない。
廷兼郎は女性を抱き起こした。
ぎくりと、廷兼郎は一瞬だけ硬直した。
「どうかなさいましたの?」
廷兼郎の異変に気付いた白井が、すぐ傍に空間移動《テレポート》で現れた。
「白井さん、すぐ警備員に連絡してください。あと一応病院も」
「その方、気絶していますの?」
白井の問いに、廷兼郎は力なく首を振った。
「死亡しています」
白井が息を呑む。駆け寄って女子学生の左手の脈を取り、瞳孔の開き具合を観察する。こういうことは風紀委員だけあって、対応は迅速かつ正確である。
そして白井は、女子学生が生存反応を示さないことを確認した。
もはや脱走した患者探しどころではない。急いで警備員に連絡し、白井は彼らを誘導するために路地の入り口へと向かった。
いきなり死体に出くわすなんて、ミステリー小説さながらの体験である。これも学園都市故か、という変な納得の仕方をする廷兼郎は、女子学生の頭部を抱えている右手に妙な違和感を覚えた。
(何だ、これは?)
頭部が軽すぎる。まるでボールでも抱えているような感覚だ。尋常な人間の頭の重さではない。
人間の頭部と言うのは、成人ではおよそ六キロほどの重さがある。成長期の女子学生といえど、それなりに重いはずである。
職業柄、人間の頭部を叩いたり、抱えて締め上げたりすることが多い廷兼郎は、敏感にその違いを察知した。
「……失礼」
物言わぬ女子学生に一言詫びて、廷兼郎は彼女の頭部を軽く揺すった。そして彼女には申し訳ないが、廷兼郎は吐き気がこみ上げるのを禁じ得なかった。
「こちらですの。女子生徒が一人、死亡しているのを発見しましたの」
到着した警備員を引き連れて、白井が現場に戻ってきた。
「君が第一発見者かね?」
「はい。ここにこう、うつ伏せの状態で倒れていました。起き上がらせて確認したのが、十三時二十五分のことです」
「分かった。では詳しく事情を聞きたいので、同行してくれたまえ」
「了解です。それと、気になることが……」
女子学生が数人の警備員に取り囲まれる様を見ながら、廷兼郎は苦々しい顔をして言った。
「恐らく彼女は、脳が無くなっている」
廷兼郎の話を聞いていた警備員が、怪訝《けげん》な顔で廷兼郎を見ていた。
説明 | ||
東京西部の大部分を占める学園都市では、超能力を開発するための特殊なカリキュラムを実施している。 総人口約230万人。その八割を学生が占める一大教育機構に、一人の男が転入してきた。 男の名は字緒廷兼郎(あざおていけんろう)。彼が学園都市に来た目的は超能力ではなく、武術だった。 科学と魔術と武術が交差するとき、物語は始まる |
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