Cocktail Kingdom 五〜六章 |
五章 受け入れるべきもの
「未来は、変わりましたか?」
王が本来ならば帰ってくるという日。しかし、昨日届いた手紙の内容によれば、もうしばらく遅れる可能性があるということだ。ことによれば、向こうで王が襲撃に遭っているという可能性もある。
そう考えると気が気ではなかったが、宰相としての義務もまた果たさなければならない。早朝、いつものように祠に供え物をし、挨拶がてらに言葉を発してみる。あの巨体の姿はないため、その言葉にどれだけの意味があるのかはわからないが、一応何か言っておくのが礼儀というものだ。
『うむ……。好転したとも、言い切れないがな』
「――っ!詳しく、詳しく聞かせてくださいっ」
立ち去りかけると、思いがけない声が頭の中に響く。慌てて振り返ると、何もない空間の中に薄ぼんやりとした像が現れ、やがてそれが完全に形をなした。火を司るドラゴンのためか、その姿を現す時の様子は、蜃気楼の出現に似ている。
「王のあちらでの動きが、未来を変えたと?」
『先日は自ら、未来視が見る景色は可能性の一つであると言ったのに、よほど興味があるのだな』
「そういう意地悪は良いですから、教えてくださいっ」
『未来は、途端に見えなくなったという。霧が張ったような状態だな。お前が言う、無数の他の可能性もまた、今は見えなくなっている状態なのであろう。この意味がわかるか?』
「……推測することしか出来ません。ですが、霧がかかっているかのような情景とは、まるでこの世界の始まりの時の混沌を連想させるようです。つまり、まだ何も存在していない代わりに、なんでも存在する可能性がある。よりわかりやすい言葉を使うのであれば――」
『不確定の未来』
「激動の中にあり、あのカーバンクルの未来視が追いつかない。可能性の例示すら出来ない状態、ということですか。確かに、良くなったとも、悪くなったとも言えないようです。ここからは、完全に私達の働きにかかっている、という解釈も成立するようですが」
霧が晴れた時、そこにあるのは以前と変わらない絶望の未来か、王の語る理想の一端が実現した世の中なのか、それはまだわからない。しかし、選び取るのは人間。どうなったとしても、その未来で生きるのは人間だ。ドラゴンは守護しながらも、決して人間世界には深く関わらない。
冷酷な表現になるが、ドラゴンにとってはどうなっても良い。だからこそ、プリシラよりもずっと冷静でいて、今の状況を楽しんでいるようですらあるのだろう。
「一応、ありがとうございました。王が帰られた時、このこと伝えれば……手放しで喜びはしないでしょうが、多少は励みになるはずです」
『そうだな。……それから、プリシラよ。あの王が戻った翌日で良い。私への捧げ物はいらないから、代わりに王を連れて来い。可能であるならば、騎士達と共に』
「……まさか、アル様を頭からばりばり食べるとか、言い出しませんよね」
『人間は不味い。煮ても焼いてもな』
「そ、それなら安心ですけども。了解しました。忘れず、連れて来ます」
「王は……まだ戻られませんか」
夕刻となり、宰相がこなすべき公務も、兵士達の熱の入った訓練も終わった頃。王のいない玉座の間に用意された自分の机に突っ伏したプリシラが漏らした。
遅くなるかもしれないとは連絡を受けていても、やはり本来帰るべき日に元気な姿を見られないのは心に堪えるものがある。未来が見えなくなったとは、王の身に何かがあったから、という解釈も成り立つのだから。
「プリシーちゃん。あまり思い詰め過ぎるのはよくありませんわよ。あの王様のことですから、ふらっと虚をついて現れるに決まっています」
「ベル様……。稽古は終えられたのですか?」
声がした方へと目を向けると、予想通りに一人の女性騎士が立っている。そもそも、こうして王城に出入りする可能性のある女性は彼女一人だ。それに、いい加減にその声と、気品溢れる話し方も記憶してしまう。視覚に頼ろうとする必要もなかったのだが。
「ええ。やはり、テオドール様がいないと無理をさせられなくて安心ですわ。……あの鬼、もう向こうの国に士官してしまえば良いですのに」
「ふ、ふふっ。また、心にもないことを。ベル様やヨハン様と、テオドール様は長い付き合いなんですよね」
「ま、まあ。ですけど、今のテオドール様はただの鬼畜教官でしかありませんわ。かつての騎士としてのテオドール様のことは確かに尊敬していましたが、今のあの方なんて……」
その先の言葉はなく、口をぽかんと開けたままで、少しして気不味そうに口をつぐむ。以前もそうだが、かの中年騎士に関係するとなると、珍しく彼女も感情を露わにするようだ。
「そ、それより、プリシーちゃん」
「はい。わたしに何かあるのですか?」
「――これは、このベルの予想でしかありませんが、王様は恐らく、今回のことを機に大事な決断をしなければならなくなるのであろうと、そう思いますの。つまり、国の地盤を固めるべき時は終わりが近づき、これからは近隣諸国や、国内で起こるのであろう様々な問題を解決して、王様の理想とする国へと近付けていくという仕事が待っている、ということですわね」
「そう、ですね……。王もわたしも、たくさんの決断をしなければならないと思います。常に最良の選択肢を選んでいきたいとは思いますが、その選択によって失われるものも、絶対にある……そう、わたしは考えます」
政治とは、何かを犠牲すること。それ体現させたのが前王国であり、それは同時に、アルフォレイオス自身が感じていたあらゆる王達の“誤り”だ。その誤りの例外はなく、父王すら含まれている。
だが、奇麗事だけでは国が動かないということも、宰相であるプリシラは。そして、言葉にはしないが王自身もまた気付いている。これからしなければならない選択は、切り捨てるものを可能な限り減らし、最後には何一つとして切り捨てられない世の中を作るためのものだ。――そんな選択が、容易なはずもない。
「そこで提案なのですが、王様が不在な良いタイミングです。プリシーちゃん、もっとアルフォレイオス様という方について、深く知ってみたいとは思いませんか?」
「……王について、ですか。それはつまり、どういう」
「あの方の生まれ育ち、なぜ王位を継がないのか、どうしてここまで、あなたのことを好いてくれているのか。色々とあります。その色々を、プリシーちゃん、あなたは未だに知らないでしょう?こんなにも近くにいて、出会ってから六年も経っているというのに」
秘密がない人間というものは、恐らくいないだろう。ベルトランにもプリシラが知らない秘密が多く眠っているし、プリシラもまた皆に隠していることはある。全てを打ち明けることが出来ている人間なんていないだろうし、いたとすれば、それはどこかで道を違えた人間ではないのか、とすら思える。――そして、彼女にとっての王。アルフォレイオスとは、謎の塊であった。
食べ物の好み、女性の好み、彼の理想、自分との共通点。様々なことを知っている。だが、今ベルトランが挙げたもっとも深い所にある情報は、どれ一つとして知らない。むしろ、究極的に言えばただの騎士でしかないベルトランが知っているらしい、ということが驚きなぐらいだ。
「しかし、わたしと共に政治を行っていく上で、それ等の情報が必要であるならば、王自らが話されるのではないでしょうか?かなりプライベートなお話になりそうですし、本人の口以外から聞いてしまうというのは……」
「あら、プリシーちゃん。あの王様とこれほど長くいて、まだあの周りが見えているようで見えていない人が、必要に応じて自分の身の上話をされると思いますか?」
「……た、確かにそこは疑問ですけども。そもそも、あの王なら、わたしに話していないということすら――」
忘れてしまっている可能性があると、そう感じさせられてしまう。どうでも良いことはへらへらと語る割に、一番肝心なことを忘れてずるずると引っ張って行ってしまう。それが、今まで共にいた時間でプリシラの感じた王の欠点の一つだ。
「でしょう?それに、ベルが見たところ、王様はプリシーちゃんにすごく真剣みたいですし、自分の口からこのことを語るのは、やはり難しいのかもしれません。殿方というものは、たとえ朴念仁のあの王様であっても、気にかけている女性には弱いところを見せたくはない生き物ですもの」
「し、真剣って。わたしは王にとって、ただの妹みたいなものですよ」
「うふふ、だからこそ、ですわ。妹に舐められたいと思う兄はいないものでしょう」
「な、なるほど。……わたしは別に、どんなお話を聞いても、変わらず王を尊敬していると思いますが」
人として、男として、そして、王として尊敬をしていなければ、今ほど王のことを慕ってはいなかっただろう。今更どんな過去が暴かれても動揺はしないだろうし、何をしていたとしても、それは彼の今の高潔さを作った一要因であると信じることが出来る。
「まあ、あまり悪い話はないのですけどね。このベルは一応、プリシーちゃんがやって来るまでは、もっとも王様に近い所にいた人間であると自負しておりますので、大体の事情を知ることが出来ました。今のプリシーちゃんが知るように、滅茶苦茶なエピソードも多かった訳ですが、重要な部分だけを切り出すとします。
――最大の疑問はやはり、なぜ王位継承権がないかでしょう。しかも、まだ王様が小さな頃から王位は姫様に、と決められていました。当然ながら、従来では第一子が王位を継ぐのが当たり前なのですが、プリシーちゃんは詳しく聞いていませんよね」
「はい……。ただ、王は自分より妹君の方が適していた、自分は落ちこぼれだった、などと言われていましたが、単純な勉学でも、人格面でも、お二人は揃って優秀であったと記憶しています。もちろん、王はわたしが出会った当初はまだやんちゃな面もあり、常にお淑やかであられた王女様と比べれば、王族らしくはなかったかもしれませんが、だからと言って……」
「まあまあ、落ち着いて。このベルが見ていたところ、幼い頃のやんちゃさでは、姫様の方が上でしたわ。それにも関わらず、後継者が姫様に決まったのは幼少の頃です。王様が十歳、姫様が七歳の時であったと記憶しています。当時、ベルもまた幼く、お母様と共によく城へ行ったものでしたが、その時によく王様と会ったものでしたわ。……尤も、王様自身にその当時の記憶はないそうですけどね」
「確か、ベル様のお家は薄くですが、王家と同じ血を引かれているのでしたっけ」
「ええ。それで、その頃に王様自身から、姫様に王位を譲るように父王様に言われたのだ、というお話を聞きました。プリシーちゃんは知らない話だとは思いますが、実はアルフォレイオス様は第一子ではなく、その上に王女様がおられたのですわ。ただし、その方は王妃様が産まれた方ではなく、公式にはなかったことにされていますが」
異母姉……王家のスキャンダルとしてはよく聞く話ではあるが、貴族達の世界と触れずに育って来たプリシラからすれば、どこか現実離れした言葉だ。しかも、それが自分の仕える王家に関係しているとは。
「歳は王様より五個上でしたが、王様が二歳の時には亡くなられて、わずか一枚の絵が残っていたのみでした。妾の子に王位が継承されないことは王女様の生前から決められていたことですが、王様はそのことに深く心を傷められて、二年遅れて誕生された姫様があまりにもお姉様に似ていらっしゃったことかあり、その生まれ変わりであると信じている節があったのです。そして、王様は王位を与えられるのは姉上にこそ相応しい、姉上が亡くなられた今、その生き写しの妹が女王になるべきだと仰られました。それが、十歳の男の子の言うことですよ。あの時にはもう、今の気高さの片鱗が垣間見えていたのであると、このベルは確信していますわ」
「……そんなことが。では、王は本当に王としての資質がなかったから、王位を継げなかった訳ではないのですね」
「ふふっ、それは、プリシーちゃんが一番よく知っていることでしょう?あの王様が、王に相応しくないはずがありませんわ。――尤も、あまりに革新的な考えをお持ちだったため、事実上追放されて今に至るのですけどね」
「王自身は、マイナスには捉えられていないみたいですが」
状況からすれば、王位を継がないことが決定している王子が旅に出て、本国とは違う土地で国を興すなど、悪いように解釈しなかったとしても、それが追放であるとわかる。だが、王はこの話を驚くほど素直に受け入れ、絶対に必要な臣下としてプリシラを選んだ後、極少数の騎士のみを連れてこの地に赴き、今こうして国家を作り上げている。前向きな明るさと、王としての資質は、言葉にしなくても明らかだ。
「ちなみに、今では亡き王女様の絵も失われていますが、ベルが覚えている限りでは、確かに姫様にそっくりで、しかしこのベルにも似ている所は多く見受けられましたわ。もしかすると、王様がベルを哀れに思ってくださったのは――っと。完全な蛇足でしたわ。
ですから、王様にとっては王位を継がれていないことこそ、誇りであり、姉上様への最大の愛の形なのだと思います。もちろん、姫様のことも深く愛しておられて、何よりもプリシーちゃんのことが好きな訳ですけどね」
「ベ、ベル様っ」
「恥ずかしがることでもありませんのに。けど、実は王様がプリシーちゃんのことを溺愛しているのにも、きちんとした理由はありますのよ」
「えっ、そ、そうなのですか」
まさか、自分もまた亡くなった姉に似ている、ただそれだけの理由で傍に置いてもらっているのかもしれない。そんな風に考えると、わずかに胸が痛んだ。
「王様が胸の大きな女性のことが大好きなのは、ウェールズ王家の伝統だそうですわ。もう、歴代の王妃様はもちろん、お姫様も巨乳ばかりで、現在の姫様もプリシーちゃんほどではないにしても、大きなお胸をお持ちだったでしょう?全く、揃いも揃って馬鹿な一族ですわ」
「よかった……って、素直に喜んでいいのでしょうか、それ。後、ベル様。日々の訓練で体重と一緒に胸も小さくなってしまったからって、思いっきりわたしを見ないでください。元からベル様は大きかったのですから、少しご飯を多めに食べれば、すぐに戻りますよ」
「あらあら、持つ者の余裕ですわね。ですが、あえて苦言を呈しますがプリシーちゃん。運動をしない日がずっと続いていますけども、お腹や二の腕は大丈夫ですの?ベルの見立てでは、そろそろ二の腕のぷにぷにが危なそうなのですが」
「……な、何を仰られるんですか。は、はは……嫌ですねぇ」
真剣な話は終わった、とばかりにベルトランが俊敏な動きでプリシラの腕を捕まえ、もう片方の手で容赦なく二の腕に掴みかかる。すると、ふにゅん、と音が鳴りそうなほどの柔らかさと共に、予想の通り思い切り肉が掴めてしまう。
ついでに遠慮なくお腹の肉をも触られ、やはり太って来ているそれが露呈してしまった。
「か、なーり太ってますわね。プリシーちゃんは細身で巨乳だからこその希少価値なのに、このままではどこもかしこもむちむちになってしまい、王様にも見捨てられてしまいますわよ」
「うっ……だ、だって、ハインツさんのお料理、すごく美味しいですし、お仕事で疲れちゃうので、その分たくさん食べないとで……」
「馬鹿食いすれば、それは太りますわよねぇ。プリシーちゃん」
「は、はいっ」
「これからも太り続けます?それとも、ベル達騎士の準備運動の半分でも体を動かして、頑張ってダイエットしますか?」
「そ、それは……………………」
長い長い沈黙、葛藤。
プリシラは、自分があまり運動は得意ではなく、体力もない方であると自覚している。それに、運動なんかをするぐらいなら、公務に忙殺されている方がまだ我慢出来る気がする。
だが、太り始めているのもまた事実。今動けば、事態が深刻化する前に食い止めることが出来、そのまま体重を落とすことも出来るだろう。政治と同じだ。
そして、王だって胸が大きくて太っている自分よりも、細身で胸だけが大きい自分のことの方が好きなはず。
王に嫌われることと、自分が運動しなければならないこと、二つの嫌なことを天秤にかけ、悩みに悩んで――。
「が、頑張って痩せます。それで、その、皆さんはいつもどれぐらいの準備運動をされているのですか?」
「兵舎を五周してから、個別訓練に入りますわね。プリシーちゃんはまず、二周から始めてみましょう。とっても楽ですわよ」
「へ、兵舎って、結構増築されてますよね。もちろん、元からあった兵士の方々が寝泊りする部分だけで……」
「当然、兵舎全体を大回りするのですわ。プリシーちゃんの身体能力を考慮しますと――半時間ほどは走り続けてもらう計算ですわね」
「や、やめてくださいっ、し、死んじゃいます……」
「では、このまま太り続けます?」
思考が二巡目に入る。痩せはしたい、だが、走るのは嫌だ。そんなことで体力を消耗してしまっては、公務に支障を来すのではないか、という考えもある。だが、やはり痩せたい。二つの想いがしのぎを削り合い――。
「が、頑張ります」
「このベルも、応援させていただきますわ。どうかプリシーちゃん、頑張ってくださいね」
「はい……」
自業自得とはいえ、流れ出す涙を止めることが出来ないプリシラであった。尚、こうしている間も、王は二つの国の戦争を回避するべく、尽力しているはずである。
*
「かなり、遅くなってしまったな。兵の皆はもう、兵舎で休んでくれ。テオドールも、城に入ったら勝手に自室で休んでくれて良い。きちんとした帰還の報告は明日にして、とりあえず俺はプリシラにだけ挨拶して来よう」
「畏まりました。しかし王、もう宰相ちゃんも寝ている時間なのでは?」
「そうか……。さすがにこの時間は非常識かもしれないな。一応、部屋の前まで行って、まだ起きているようなら邪魔するとしよう」
王が自分の城を目前にした時、既に月は高く昇り、時刻は十二時か一時に思えた。普通、プリシラは日付が変わるぐらいには眠りに就いている。やはり、どれだけ有能とは言ってもあの小さな体に宰相としての激務は堪えるのだろう。しかも、今は王が不在であることで更にこなすべき仕事が増えているはずだ。
出来るだけ体を休ませてやりたい。眠っているのであれば起こすようなことはしたくないが、同時に早く帰還を知らせて安心させてやりたいという気持ちもある。王の帰還が遅れたことで一番心配しているのは、間違いなくあの娘だ。ほんの数時間の差かもしれないが、安心して眠るのと、不安に思いながら眠るのでは夢見が全く違う。
大事な臣下、そして愛する妹分のため、自身の休息を望んでいる体を押して彼女の部屋に急ぐと、扉からはかすかにランプの光が漏れていた。何かを感じたのか、まだ起きていたらしい。
「プリシラ。起きてるのか?」
ノックをし、声をかけるが返事はない。となれば、後は寝ているしかないだろう。ランプを点けたままなら家事の危険もあるし、もう一度ノックをしてから扉を開ける。すると、やはり小さな体の宰相は机に突っ伏し、日記らしいノートを開けたまま眠ってしまっていた。日記を書いている途中に力尽きたのか、あるいは自分のことを待ちがてらゆっくりと書いていたら、睡魔に屈してしまったのだろう。
「お前、案外寝方は豪快なんだよな」
机に突っ伏し、そのまま眠ってしまうのはプリシラの得意技だ。見た目だけであれば線が細く、とてもではないがこんな寝方は出来そうにない彼女だが、机に押し付けると苦しいのか胸を机の上に乗せ、自分の腕を枕に寝息を立てている。晩夏が近いとはいえ、まだ夜も蒸し暑い季節なので風邪の心配はしなくても良いかもしれないが、このままでは寝違えてしまいかねない。
優しく揺すっても全く起きる気配がなく、起こしてしまうのはやはり忍びないので、ゆっくりと上体を動かし、腕をどけ、椅子を引き、肩と膝の裏にしっかりと腕を回し、生まれて始めてお姫様だっこなるものを実践してみる。
王自身、まさか騎士ではなく王である自分がこのようなことをするとは思っていなかったが、状況的にはこれが一番起こしてしまう危険性も低く、プリシラの体重も軽いからなのか安定しているため最適に思えた。
起こさないようにゆっくりとベッドに寝かせ、彼女が起き出してしまわないのを確認すると、そのまま部屋を後にし……かけて、ふと悪戯心が湧いた。
「ま、ちょっとぐらい寝顔を観察してやっても、罰は当たらないよな」
プリシラと共に政治をして来て、彼女の多くの表情を見て来た王だが、実は寝顔というものを見たことは少ない。彼女の癖を知るほどに、その寝ている姿を見て来たことはあるが、大抵そのまま放置するか、起こしてやって部屋に帰らせるばかりだった。
なんとなく、女性の寝顔というものは見てはいけない、ある種の神聖さがあるもののように感じていたし、一番無防備な表情であるそれを見られたと知れば、プリシラ自身も烈火のごとく怒っていただろう。だが、今回はプリシラも深く眠っているようだし、自分なりの成果を出して帰って来れたという満足感と、ほとんど寝ておらず、酷く疲れているために発生する謎のテンションにより、悪魔の心が芽生えている。いつもとは状況が違うのだ。だから。
少女の寝顔を見るためだけに、無限の言い訳の言葉を並べ、いざ力の抜け切ったその顔を覗き込む。可愛らしく整いながら、いつもは一定の緊張を保っているその顔も、今では緩みきっている。表情の崩れ方は顔を真っ赤にして照れている時と同じぐらいで、頬に触れてみればさぞ柔らかいことだろうが、さすがにそれをするのは危ないだろう。
ちょっとした悪戯心と興味心だけで彼女の寝顔を見ているので、やはり起こしてしまうのはいけない。
しかし、それにしても久し振りに見る少女宰相の顔は、もう懐かしさすら覚え、いかに自分がこの少女に依存して生きているのか、自分自身のことを客観的に感じ、王は苦笑を漏らした。この少女と出会ったのは六年前だが、当時からやはり、彼女はどこか普通とは違っていた。
可愛らしさもそうで、十二歳の時から胸もやや大きかった印象を受けたが、そればかりではなく、もっと根本的に凡人とは。いや、下手をすれば人間とは違う、そのようにすら思えている。きっと思い違いなのだろうが、この不思議な魔術めいた魅力は、人を惑わす可愛らしい悪魔なのかもしれない、なんて思う。
本当に悪魔であるのなら、この辺りには尖った歯が生えているのだろうか。小さく開けられた口を見ながら思い、もういい加減に許してやろうとベッドに背を向ける。扉に手をかけ、開けようとすると、小さな声がした。
ぼーっとした、寝言のような声だったが、その言葉は確実に王のことを呼んでいる。
“王”という誰もが呼ぶ称号などではなく、ただ一人が呼ぶことを許されている“アル様”という愛称を。
「プリシラ。すまない、起こしてしまったか」
振り返ると、やはり少女はベッドから起き上がり、寝ぼけた目をこすりながら王のことを呼んでいた。青い瞳が辺りをぐるぐると見回し、やがて王の金髪を見つけて静止する。
「アル様……帰っていらしたんですね」
「ああ、さっきな。無事に、帰って来れたよ。それに、亜人達にも多少は受け入れてもらえたのだと思う。俺は人とそれ以外の区別もなく、全ての命が当たり前に生きられる、そんな世の中を作りたいって、そう伝えて来た。たくさん拍手ももらえて……俺は、それを信じてみたいと思ったんだ」
「そうですか……。やりましたね、アル様。だから、未来が不確定に――」
「なんだって?まさか、ドラゴンが何かを言って――も、もう寝やがったのか」
プリシラは言葉の途中で再び意識を失い、ベッドの上にその身を転がらせる。ほとんど倒れるように体を落としたため、軽く寝巻きの裾がまくれ上がり、腹が見えてしまった。
「おいおい、女の子が腹出して。って、やけにぷにぷにして来てないか?女ってこんなものなのかもしれないが、男ならとっくに危険信号が出てるぞ、これ」
思わず意識がない相手に苦言を呈してしまうと、「だから、頑張ってダイエットしますからー」と、寝言なのか本心なのかわからない声が漏れた。
いよいよもってこの部屋にいづらくなり、慌てて逃げ出すように飛び出し、王も自分の私室へと帰っていった。
「王。おーう、起きてください」
眠りは深く、薄明かりの世界に少女の声だけが響く。瞼の外にある世界に光があることから、もう朝であるということはわかっているが、中々体は動いてくれなかった。足や腕がずっしりと重い。
「あんまり起きないようでしたら、踏んじゃいますよ?……っと、いけないいけない、王的にこれはご褒美でしたっけ」
「なんだ……お前はいつから、俺付きのメイドになったんだ?」
体を起こせそうにはないが、なんとか目と口を開く。目の前にはプリシラがいて、昨晩とは全く逆の構図だ。少女の少し意地悪そうな笑顔があり、一人で起きるよりもずっと良い目覚めに思える。
「昨日のお返しです。ま、まあ、王の寝顔をなんかをわたしが見ても、何も楽しくはないですけどね」
「鍵、締めてなかったのか。もし開いてなかったら、どうしてたんだ?」
「その時はローペさんにお願いするつもりでした。あの方、意外と早起きですからね」
「高が悪戯にそこまで本気を出すなよ……」
話している内に、体に血が回り始めた気がする。ベッドから上半身だけを持ち上げると、ぐっとプリシラとの距離が縮まる。彼女も寝起きのはずだが、全く寝ぼけている様子はない。
「昨日はあんなふにゃふにゃの顔だったのに、プリシーは朝強いな」
「そういう王は、弱いですよね。たまに学問所も遅刻されて来ていましたし」
「あ、あれは……変に気を使ったメイドが悪いんだ。叩き起してくれて良いってのに」
「仕方がありませんよ。王の寝顔、本当に気持ちよさそうで、起こしてしまうのが申し訳ないほどですから。今日はわたしを起こしてくれたという前科がありますし、容赦なく起こしましたけども」
「前科って、俺も出来るだけ起こさないように気を付けたんだぞ?た、確かに寝顔を見ていたのは余計だったけど、それぐらいの報酬はもらっても……」
「ありがとうございます。机で寝るのは慣れてますけど、さすがに一晩あれで寝てしまうと体が痛いですからね」
わざわざ報復に来るぐらいなのだからもっと怒っているだろうと思ったが、意外にも素直なプリシラを見ると、調子が狂わされた気がしてしまう。それとも、また食事をおごれとでも言い出すのだろうか。
「それより、昨晩はきちんと挨拶が出来なかったので。――アル様、お帰りなさい。手紙に遅れるかもしれないと書いてあるのを読んで、結構本気で心配しちゃったんですよ」
「ああ、ただいま。心配させてすまない。けど、お前を半日ほど余計に心配させてしまっただけの……と言うには足りないかもしれないけど、自分の中では納得の出来るだけのことが出来たよ。これで、衝突はかなり回避することが出来ると、信じたい」
「そう……ですか。それは良かったです。本当に」
「プリシラ?」
言葉とは裏腹に、宰相の顔はどこか悲しそうなものだった。王が不在だった頃の寂しさを思い出しているという訳でもなさそうだし、理由もなく彼女が暗い顔をするとも考えがたい。何か原因となることがあったのだろうが、寝起き頭の王が考えつくはずもなかった。
「王。そのことも含めた話になると思うのですが、今日はわたしと一緒に、あのドラゴンの山の祠にまで来てくれませんか。多分、ドラゴンともまた出会うことになるので、王にしてみれば……」
「いや、何か理由があるのだろう?それに、俺は東国で思い切り啖呵を切って来たんだ。その俺が、今度はドラゴンを差別して忌避するなんて、あべこべだろう。もう一度あのドラゴンと会うぐらい、訳もないさ。だから、喜んでその招きに応えよう」
「ありがとう、ございます。けど、王……」
「なんだ?まだ不安なことがあるのか」
「いえ。これは、わたしが弱いだけ……。あなたのことを好きになり過ぎてしまった、わたしの責任ですから」
「人を好きになることは、悪いことじゃないだろう。俺もお前のことは大好きだ。……と、そういえば、お前がこれだけ素直に好きって言うなんて珍しいな。昔はよく、『アル様、好きー』とか言ってたのに」
「そ、そんな馬鹿みたいな言い方してません!わたし、昔もしっかりとしていましたもん!
もう、アル様に真剣な話を期待したわたしが馬鹿でした。アル様はどうせ、わたしの体のことが好きなだけなんでしょうっ」
「あー、そういや、それな。お前、太ったな」
「なっ!?」
図星を突かれ、照れて赤かった顔が、真紅へと染まる。恥ずかしいのもあるだろうが、そこにある感情は明確な怒りだ。過去にベルトランによって女心がわかっていないと指摘され、未だに改善することが出来ていない自覚がある王であっても、今正にプリシラの怒りのツボを突いてしまったのだということはわかった。
「アル様……アル、様。…………アル様ーっ!!」
「おーおー、お、俺は大人気だな。そんなに呼んでもらえるなんて」
ぷるぷると震える宰相には、もちろん可愛さもあるが、王の頭の中では警鐘が鳴り響いている。ああ、これは手が出る。殴られる。グーで一発どころじゃない、十発は行く。踏まれもするか。いくら細身で力のない彼女であっても、軽く出血はするだろうな。やはり、女に体重の話題は禁句だったのだろうか。
数秒の内にいくつもいくつも反省するべきことが思いつき、それを謝罪するよりも先に――。
「アル様の馬鹿ーっ!!がんばって、ダイエットしますもん!言われなくてもーーーーっ」
固められた拳が、思い切り王の右頬を殴り飛ばしていた。再び王の体はベッドの上に転がり、マウントを取ったプリシラはその後も、なんらかの打撃を、何回か続けていたのだろう。そのことについての王の記憶は、ない。
「しかし、全員で会いに来いなんて、あの時以来だな」
ドラゴンは今回、プリシラだけではなく、王、そして騎士達も共に連れて来るように行っていた。それはつまり、彼等が全てを破壊し尽くされたこの地に来て、ドラゴンと出会った時と同じ。ともなれば、ドラゴンが一体何を言い出そうとしているのか、ある程度の予想は付く。
「彼は――ドラゴンですね。彼は、もう王がどのようなことをして来たのかも、知っているのだと思います。その上で、皆さんのことを呼んだ。ともなれば、今一度契約を交わそうとしているのでしょう。新しく、より今のこの国に相応しい契約の誓いを」
「そうか。わざわざ自分の前で言わせて言質を取るなんて、露骨にプレッシャーをかけて来るものだな」
「あら、王様。きっと、それだけ信頼されているのですわ。信じたいからこそ、多くの言葉を求める。……そう、これは男女のコミュニケーションにもとてもよく似ていて――」
「ベル。ヨハン達はどうした?」
「準備をされていますわ。このベルはプリシーちゃん以上の早起きなので、もう支度は終えていますが」
「意外だな」
「むっ、失礼してしまいますわ」
尤も、一番早く起きているのは最年少のカミュであり、偶然兵舎の前で彼を見つけたプリシラが他の騎士に、今朝は山に向かうことを伝えさせたのだった。
そして待ち合わせ場所である町の西門に真っ先に現れたのはベルトランで、王にとってもプリシラにとっても意外でしかない。
「このベル、毎朝早くに起きて髪を整え、服にはきちんと均等に香水をかけ、見苦しくないように鎧を着込んで、急な呼び出しにも対応出来るようにしていますのよ。王様は、今一度ベルの評価を見直す必要があるのだと思いますわ」
「あーあー、悪かった。お前が適当に見えてきちんとしているのは、昔からそうだったな。けど、別に今日は戦いに行くのでもあるまいし、鎧はなくて良いんだぞ?むしろ、その方が俺にとっては好都合で……」
「王様。ベルの役目は、あなた様のことをお守りすることです。しかも、今のあなた様は――」
「よし、よくわかった。その辺りの説教はヨハンに頼もう。お前にまで叱られていたら、体が持たん」
「わかっていただければよろしいのです。王様はベルにとって“特別”なのですから、何があったとしても、お守りしない訳にはいきませんわ」
確固たる意志の宿ったアメジストの瞳を向けられ、それ以上言葉を続けることが出来なくなってしまう。以前にも王が感じていたことだが、本当に彼の周りには全力で彼のことを尻に敷こうとする女性ばかりが集まっている気がする。
プリシラはまだ大人しいとは思っていたが、先ほど殴られた以上はうかうかとしていられない。やはり、恐ろしい女性であることに変わりはないのだ。
「わ、わたしにとっても、王は特別ですからねっ」
「ん、どうした、プリシラ。焼きもちか?可愛い奴だな、お前は」
「違いますっ。そ、その、わたしにも王をお守りしたいという気持ちはありますし、けど、王に守ってももらいたいと言うか……」
「わかっているさ。旅立つ前にも約束しただろ」
「はい…………」
「あら、このベルが預かり知らぬところで、そんな密談を?」
「ベ、ベル様っ。話が途端に変なことになってしまいそうですから、あんまりほじくり返さないでください!」
「なるほどなるほどー。まあ、男性と女性ですものね。これは無粋でしたわ。いつまでもお幸せに」
「ベル様ぁ……」
女三人寄れば姦しいとは言うが、この二人であれば三人目はいらないらしい。ベルトランに集まる速度で負けたのがよほどショックだったのか、首を痛めるのではないかというほど頭を下げつつヨハンが来て、眠気のためか機嫌が悪そうなテオドールをカミュが連れてくるまで、二人のうるさい……もとい、騒々しい……でもなく、賑やかな話は続いた。
しかし、全員が揃うとさすがに静かになり、それぞれが真剣な面持ちで山へと馬を走らせる。例外はやはり女性陣であり、ベルトランは相変わらずの、感情が読めない笑み。プリシラの表情は、やはり晴れやかなものではなかった。
どこか悲しげなそれが気になる王だったが、本人が話さないのであれば深く追求するつもりはなかったし、ドラゴンの祠にまで辿り着くことで、彼女の憂鬱の理由も判明した。
王達にとっては初めて来ることとなる山は、草一つ生えない不毛の地、という言葉がこれ以上もないほどにマッチする寂しげな場所で、唯一祠だけが美しく整備されていた。かつては打ち捨てられていたものを、プリシラが復元したのだろう。恐らくは魔術的なプロセスによって。
「着いたが……ドラゴンの姿は、ないな」
あれだけの巨体だ。遠くからでも見えるはずだが、祠に近付いても現れない。ドラゴンも寝坊をしているだなんて締まらないことは、あまり考えたくはないのだが。
「すぐに出て来ると思います。一応、念のため……」
ぱん、とプリシラが一つ手を叩く。あまり力強い柏手ではないが、澄んだ朝の空気の中を音が響き渡る気がして、一瞬後には空間が異常に歪むのが見えた。
瞬き一つで空間の歪みは一つの像を作り上げ、真紅のウロコを持つ巨体の神獣が姿を現す。その瞳は巨体にしてはつぶらで、優しげな青の色を映し出している。
「ずいぶんと久し振りだな。ドラゴン」
『――――――、――――』
「翻訳、しますね。……息災のようだな、王よ」
「前に会った時より、ずいぶんと親しげだな。まあ、あまり背筋を伸ばして話さなくて良いのなら、楽でいいが」
巨体の獣が、今の人間には理解出来ない。しかし、それほどに難解で繊細な言語を荒々しい大口から発声するのは、何度見ても不思議な光景だ。もちろん、それを解し、訳すことが出来るプリシラの学の深さも、ある種不自然なほどのものである。
「こうして、全員と顔を合わせることが叶ったことを、とりあえずは嬉しく思おう。だが、人の国の王よ。私は、お前に試練を与えなければならない」
「試練だと?それは」
「私は既に、子供ら……つまり、精霊から伝え聞く話で、お前がどのようなことを東国で話し、それがどれだけの者の心を動かしたのかを知っている。――安心すると良い。絶対にとは言えないが、大規模な戦乱は起きないことだろう。心を読む能力を持つ精霊が、多くの亜人にあった敵意が形を潜め、逆にお前と、お前の国を信じたいと思うようになったと聞く。もちろん、考えを改めた者が全てではない以上、小さな戦いは起き、それによって命が失われることもあろうが、とりあえず当面は、暗い未来はあり得ないだろう」
「……そうか。だが、あなたもずいぶんと話を引き伸ばすのが好きだな。俺としては、早くその試練とやらの内容を聞きたいのだが」
内心としては大喜びだが、王として、このドラゴンと契約を交わした者として、軽々しく喜びの声を上げることは出来なかった。表面上では平静を装い、ドラゴンとの会話を進める。
「そう急くな。今に伝える。あの国で語ったことが真実であるか、それを問いたいと思うのだ。全ての生き物を受け入れるということは、当然ながらそれは亜人だけではなく、他の異種族ともまた共存することを意味する。そんな国を創る覚悟が、お前にはあるか?」
「他の異種族?亜人以外に、人と同じような国家を持つ者がいるという話は聞いたことがないが、もしもそういう種族がいるとしても、俺の決意は変わらない。俺が理想とするのは、何者も差別を受けず、何者も飢えず、何者も争い合うことがない国だ。そして、何世代かかるか知れないが、そんな国を世界に広げたい。もちろん、俺が生まれ育ったあの国にも」
「そうか。では、我が半身、プリシラよ。お前が話せ。
――はい。王、騎士の皆さん。今までわたしが隠して来たことを、話す時が来てしまいました。皆さんは、きっとわたしの裏切りにも等しい行為を、批難されると思います。それだけのことを、して来ました。ですから、どうかわたしと、彼のことを憎んでください。それでも、わたしと彼は皆さんのことを嫌うことはしません。むしろ、喜んで憎まれ役を引き受けて……影で、この国を。亜人と人間が手を取り合うことを目指す国を、支え続けます」
「プリシラ。どういうことだ?俺や、ベル達が……いや、俺が、お前を憎むことなんてあるはずがない。何の話なのかは知らないが、俺にはその自信がある。だから……そんな、悲しい顔をするな」
赤髪の少女の顔には、あるいは絶望があった。あるいは哀しみがあり、あるいはどこか吹っ切れた、どこか一線を越えた、人外の狂気めいたものさえあった。王の言葉を受け、再び口を開くよりも先に、声もなく大きな青い瞳から涙をこぼす。静かに、しかし雨垂れのような数の涙の雫を。
「けど、王はきっと、後悔します。わたしも、ものすごく後悔したんですからっ……。わたしとアル様は、近付き過ぎてしまった。アル様はわたしの兄になろうとしてくださって、わたしは、アル様に相応しい妹になろうと、頑張り過ぎてしまった……。けど、それじゃ駄目だったんです。だってわたしは、あなたとは違う。ハインツさん達、亜人とも違う。あのカーバンクルの子のような精霊でもなく、他の生き物とは全てが違う――今、目の前にいるこのレッドドラゴンと同一の存在なんですから。醜く、恐ろしく、人とは住まう次元が違う。そんな、絶対的に違う生き物なんですから――っ!」
赤竜の少女は、涙を流しながら、声を振り絞る。炎のような髪の毛は、かの神獣のウロコの色と同一。無限に湧き続ける泉のように涙を落とす瞳の色は、ドラゴンと同じ深い空の色。そして、感情が昂ぶり過ぎたためなのか、自らそれを出そうと望んだのか、服の背面が裂け、そこからは一対の骨ばった紅い羽が生えていた。また、スカートを押しのけて一本のトカゲに似た尾が出て来ている。その色は、やはり紅。
「ドラゴンとは、人や亜人や動物よりも古い生命で、最初から王者として創られたものでした。それゆえに、他の生き物よりも圧倒的に強く、寿命や死という概念が希薄です。ですから、繁殖の必要はなく、強力な個体がいくつかいれば良い、そう設計されていました。繁殖の必要がないということは、性別の概念も必要なく、ドラゴンには男も女もありません。
ですが、ドラゴンは人を守り、増長の過ぎた人を殺す存在でした。ドラゴンは他の生命とは比べ物にならない叡智を持っていますが、人間と全くの交流がなければ、判断を誤る恐れがある。ですから、人と会話する能力を与えられました。一つは、二つの人格、二つの性別。ドラゴンは男と女、二つの人格を持ち、男であり、女であるがゆえに、性別を持たない生命となりました。一つの考え方では、暴走してしまう危険性があったからです。
もう一つは、そのどちらかの人格。多くは女性の人格を、人そっくりの外見の肉体を与え、分離する能力。これは、人と実際に会話するために与えられたものです。ですが、このドラゴンは、こちらの能力を使わずに長い年月を生きて来ました。男性の方の人格が、あまりに想像力と知恵に富み、女性の人格と相談するということを必要としなかったためです。
ですから、女性の人格は――わたしは、ずっと産まれたままの子ども同然でした。ですが、そんなわたしも遂に体から離れ、人と交わるべき時が来たのです。それが、かつてここにあった国の増長。加えて、アルフォレイオス様。あなたという、王族のはみ出し者の発見です。新たなこの地の王にはあなたが相応しいと彼は考え、わたしをあなたの国へと向かわせました」
いつしかプリシラの涙は止まっており、長く長く話した後、代わりにその小さな体が心配になるほど咳き込んだ。呼吸はほとんど挟まれず、人間としてはかなり無理のある話し方をしていたためだ。
「プリシラ。それは、本当なんだな」
「――はい。こんな創作、ちょっと出来ませんよ。
そう、全てわたしと彼が考えた、お話だったのです。わたしはほとんど知識というものを持っていませんでしたが、ドラゴンとして持つ頭の良さはあり、あっという間にあらゆる知識を頭の中に入れることが出来ました。それに、ドラゴンは様々なブレスを吐きますが、それは魔術的なプロセスを踏んで使われるもの。魔術の才能は初めから溢れていました。
そして、飛び級をしてあなたと出会い、宮廷魔術師となり、父王様に入れ知恵をして、あなたをこの地に旅させることを仕組みました。……最悪ですよね。全部、全部わたしの自作自演だったんです。あなたはいつか、わたしとの出会いを運命と呼んでくださったと思います。まだ、わたしが宮廷魔術師だった頃。けど、全てが予定調和でした。何もかも、嘘だったんです」
赤竜の声は震え、再び涙が込み上げて来ていた。羽を生やし、言葉と共に尾を揺らしても、その姿は人間と変わらない。
「プリシラ。お前は、全部が嘘だと言うのか?」
「……はい。わたしは、あなたを利用したくて近寄った、薄汚い女でした。まだ娼婦の方が気高い生き方をしています。本当に、ゴミのような女だったんです」
「じゃあ、お前は俺の好みがこんなだと思って、その姿をしているのか?」
「え……?」
「だから、お前の胸が大きいのも、嘘かって訊いてるんだ。その溢れんばかりの胸は、偽物なのか?」
この場におよそ相応しくない質問に、プリシラの涙が吹き飛ぶ。だが、答えない訳にもいかない。少女は首を横に振った。
「いいえ。これは、その、初めは普通の十歳ぐらいの体だったんですけど、こう育ってしまって」
「そうか。なら、お前が俺のことを兄のように慕い、好きだと。愛していると言ってくれたのも、全部嘘か?お前は嘘で俺の褒め言葉に顔を赤くして、ベルやテオドールに茶化されてキレていたのか?お前は、嘘で俺を守ってくれると、ついさっき。そして、ほんの一週間ほど前に言ったのか?」
「――違います!この胸にある温かい気持ちは、嘘なんかじゃありません。彼に言われたことではありません。本当に、あなたのことが愛おしくて。あなたの手が温かく、優し過ぎて……だから、こんなにも本当のことを打ち明けるのが怖くて、哀しくて、あなたと別れたくないと思ったんですっ!
けど、だからこそ、あなたを騙しているというのが嫌で。嫌で嫌でたまらなくて、何度も心の中で、あなたに謝りました。そして、人間に生まれて来なかった自分を、呪いました。どうして、普通にあなたと出会って、あなたに愛してもらえなかったのだろう、って。どうして、わたしは彼の中でぼんやりと生き続けなくて、外の世界に触れなければならなかったんだろう、って。本心で、思い続けていました」
「それなら良いだろ。この馬鹿が。ドラゴンでも嘘つきでも、お前は俺の好きなプリシラだ。むしろ、それぐらいミステリアスで他とは違う方が魅力的だろうが。それに、この胸が本物って言うなら、それだけでオールオーケーだ」
「えっ……?な、何をっ」
震える少女に王は駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。背中に腕を回す時、その羽が邪魔だったが、腕を伸ばしてその羽ごと抱きしめる。そして、必要以上に体を密着させ、わざとプリシラの豊満な胸が自分の体に強く押し付けられるようにする。
「ア、アル様っ…………」
「お前が俺のことを本当に好きでいてくれて、今まで俺のことを支え続けてくれていた。
それだけで、もう他に何も不満はない。俺は、お前のことが変わらず――いや、前以上に、お前のことが好きだ。どうしようもないぐらいに後ろ向きで、自分のしたことを後悔しておどおどして、生まれ持った可愛い羽や尾を恥じて、そんなとんでもなく馬鹿なお前のことを、誰よりも愛している」
王に抱かれ、滅茶苦茶に体を擦り付けられながら、プリシラは何度も激しく上下に、その尾を振った。相当な力で地面に叩き付けられるそれは、岩に亀裂を入れ、無数の小石を周囲に撒き散らしている。
「ドラゴンでもなんでも、上等だ。むしろ、その方が良い。だって、俺が目指すのは人間だけの国じゃない。だから、俺の恋人もただの人間じゃスケールが小さ過ぎるからな」
「えっ、えっ……?こ、こここ、こいび…………」
「丁度良い機会だ。おい、ドラゴン。お前の半身は、今日この時から俺の恋人だ。絶対に幸せにする自信があるから、俺に寄越しやがれ」
巨体のドラゴンも、そして、もちろん後ろの騎士達もベルトランを除いて驚愕する中、更に王は前人未到のことをやってのけた。顔をこれ以上がないほどに真っ赤にし、しかし尾は素直にばたばたと振り回しているプリシラの口を、自らの唇で塞ぐ。
長く長くキスは続き、やっと唇を離した王もまた、かつてないほどに顔を赤くしていた。
「どうだ、ドラゴン。お前の半身とこれだけ熱いキスの出来る男が、人を差別することを許すと思うか?なんと言っても、守護神に欲情して抱きしめて、恋人宣言までする罰当たりな恐れ知らずな奴なんだぜ――」
「本当、罰当たりです!」
それ以上口を開かせないように、プリシラの頭突きが王の下顎を押し上げる。王は軽く舌を噛んでしまい、なんとも言えない痛みにのたうち回った。
『……プリシラよ』
「はい…………」
『幸せに生きると良い』
「はい…………って、あ、あの、良いんですか?と、と言いますか、わ、わたしは恋人がこんなにえっちな人なんて、嫌ですからね!あんな時に胸の話なんかするし、こ、こんな大勢の前で、キ、キ、キ……!うあぁぁーん!!」
痛みを紛らわせようとしているのか、なぜかその場でぴょんぴょん跳ねている王の体にプリシラはしがみ付き、何度も何度もその胸をぽこすかと叩いた。
「ばか、ばか、ばかーー!」
「ふー……おいおい、やめろよ。そんなにおっぱいを押し付けられたら、またキスしたくな――」
「舌を噛んで死んじゃえー!!」
再び頭突きが炸裂すると、今度こそ王は思い切り噛み、軽口も叩けない痛みを味わうこととなった。
『人選を……間違えたのではないだろうか』
六章 いつまでも共に
夜。約束もしていないのにプリシラは王の部屋へとやって来て、二人で共に夜空と月を見ていた。数日前のように、風を浴びながら。手を繋いで。
「濃い一日だったな」
「誰が濃くしたんですか……。全く、もう」
早朝、羽と尾を出現させてしまったプリシラは、もうそれをしまい込むことが出来なくなっていた。これもまた魔術によって管理していたのだが、今のプリシラではしまうという動作が出来ないらしい。
だが、その理由は彼女自身にも、王にもわかっている。
魔術で操っているとはいえ、羽も尾も、少女の体の一部。そして、王はその人とは違う異形の姿さえも、愛してくれた。それどころか、自分という他とは違う存在を、わざわざ恋人にし、褒めてくれた。ならば、最愛の人が褒めてくれた人外の証を隠してしまうようなことは、とてもではないが出来なかった。
もちろん、この姿を見た事情を知らない国民は、兵士達は、恐れもした。だが、プリシラだということがわかると半分はそれを受け入れ、もう半分は怖がりながらも、王や騎士達が平然と触れ合っているのを見ると、考え方を改めたようだった。
「これから、再出発だな。俺も、この国も、そして、俺とお前も」
「わたしとアル様は、変わりませんよ。アル様自身が、そう言ってくださったじゃないですか」
「いや。前より俺は、お前のことを好きになった」
「……どうしてですか?胸が嘘じゃないとわかったから?」
「まさか。……いや、それもあるが、自分の正体だけじゃなく、自分の心の葛藤まで全部さらけ出して、お前は本当にすごいよ。人とかドラゴンとか関係なく、心が立派で、俺なんかよりずっと強い。その――そうだな、高潔な魂を知って、俺は前よりお前のことが好きになった」
「も、もう。わざと、わたしを恥ずかしくさせるために言っていますでしょうっ」
「ははっ、本心だよ」
照れながら、離れていきそうになるプリシラの肩を抱き、絶対に離さまいとする。
「どこにも、逃げませんよ。わたしがいるべき場所は、あなたのすぐ傍です。今までも、これからも。たとえどれだけ時間が経って、あなたがいなくなってしまっても、わたしはこの国に。この場所にいます」
「なんだ。お前の言ってることの方が、恥ずかしくないか?」
「ちゃ、茶化さないでくださいっ」
「ありがとう。ずっと一緒に、いような」
「はい。そうしましょう……」
今度はプリシラの方から王の体へとしなだれかかっていき、抱き合った時のように二人の体が密着する。唯一違うのは、向かい合っていないため、胸を押し付ける形にはならないことぐらいだ。
「ああ、そうだ。一つ発見があったんだ」
「発見?なんですか」
「このドラゴンの羽の皮膜って、硬そうに見えて全然柔らかいんだな。ぷにぷにしてて、すごい気持ち良いぞ」
「ひゃっ、ひゃんっ。急に、何して……ひゃんっ」
「お、くすぐったいのか?神経なんか通ってなさそうなのに」
「そ、そうではなくて、羽の軸の部分に触れられるのが……」
「ああ、こっちか。よし、すりすりしてやるか。こっちはちょっと硬いけど、つるつるしてて、やっぱり気持ち良いよな――ぶあっ!?」
べしん、と羽がはばたき、王の顔を思い切り打つ。その力強さと風圧に、王は二メートルほど吹き飛ばされてしまった。
「ま、またそんな変な遊びばっかり……ひ、卑猥ですっ」
「いや、羽は胸よりマシだろ?」
「マシとか、そういう話じゃないです!――もう、本当に、アル様はえっちで、なんか軽くて、そういうところは、良くないと思いますっ」
「じゃあ、嫌いか?」
「そ、それは……ダメなところも、大好きです。でも、あんまり恥ずかしいのはやめてください」
指で遊びながら、なんとも気不味そうに呟く。
「ああ、わかったよ。じゃあ、これで仲直りな」
赤面するプリシラを、羽ごと後ろから抱きしめ、無言で頷き合った。
「いつまででも、一緒にいましょう」
「ああ。いつまでも、ずっと」
こうして、ドラゴンと共に生きる国、ウェールズ王国は第一歩を踏み出した。
永遠にも近い時間を生き続けるこの国は、その後何度も危機を迎える。
だが、王とその傍にいる赤竜の宰相は、いくつもの困難を乗り越え続け、その絆はいくつもの世代を越え、いつまでも、いつまでも続いていく。
これは、その偉大なる先祖の、建国と契約の物語。長く続く国の歴史の、ほんの序章部である。
説明 | ||
これで終わりです 最後だけあり、かつてない甘さ、壁ドン不可避展開となっております |
||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
261 | 261 | 0 |
タグ | ||
Cocktail_Kingdom | ||
今生康宏さんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |