恋姫†先史〜陰皇后紀〜 〜第一話 その名は麗華〜
[全1ページ]

 

―――荊州南陽郡新野県

 

「三国志」の物語が始まる、おおよそ二百年前のこと。

 

 当時、新野には陰家という豪族が居を構えていた。

 

 かつての春秋時代の斉の覇者・桓公の宰相にして、「管鮑の交わり」の故事で有名な管仲の末裔であると称し、この新野の地で大荘園を保有する大豪族である。

 

 そんな陰家の当時の当主は、((陰陸|いんりく))という男であった。

 

 彼は、少なくとも当時の庶民や奴婢たちから見れば、羨ましいほど恵まれている男だった。

 

 なにしろ、先祖は司馬遷の「太史公書(史記)」にも名を残している名臣。そして陰陸自身は新野どころか南陽郡でも有数の大地主にして、大富豪である。その上、彼には後継ぎとなる男子もいたし、なにより、黒目黒髪の美しい妻を娶っていた。

 

 誰が見ても、何一つ不自由しない人生を送っているかに見える陰陸であったが、彼もやはり人間である。彼には大きな悩みがあった。

 

 それは、正妻の((ケ少容|とうしょうよう))との間に、なかなか子どもが生まれないことである。

 

 陰陸にはすでに世継ぎとなる予定の、((識|しき))という長男がいたが、その陰識は少容が生んだ子ではなく、数年前に亡くした前妻との間に儲けた子だった。

 

 前妻を亡くし、途方に暮れていた陰陸を不憫に思ったのか、新野の豪族の一つにして、陰家とは親戚関係でもあるケ家が、彼に再婚を勧めた。

 

 ちょうどケ家に未婚の娘がいたため、陰陸の再婚相手に持って来いと言わんばかりに話が進み、かくして陰陸は、新しい妻を娶ったのである。

 

 その娘こそが陰陸の現妻のケ少容なのだ。

 

 こういう親戚同士、家族同士で話を決めてしまう結婚の場合、夫婦仲が悪く、しまいには破綻するという話をよく聞くものだが、陰陸・少容夫妻には全くそんな兆しは見えなかった。

 

 陰陸は少容のことを亡き前妻の如く愛し、大事にしたし、少容もやや年上の夫を支え、さらには実の子でない陰識に対しても、実の母親のように接し、教育した。

 

 そんな風にうまくいっていた夫婦であったが、何故か、なかなか子どもができないのだ。

 

 だが、悩みこそあったものの、陰陸も少容も、焦りはしなかった。

 

「無理はしない。気長に待つ」

 

 二人はそう決めて、いつか、可愛い赤ん坊が生まれることを祈りつつ、のんびりと過ごしていた。

 

 ちょうどこの頃、大漢帝国の都・長安では、「大司馬・安漢公」の王莽が自らを「仮皇帝」と称し、着々と帝位簒奪の算段を勧めていた最中であったが、嵐が起こっているのは都・長安一帯だけであり、新野の荘園の畑の((粟|あわ))の穂は、陰家の夫婦がごとく、優しいそよ風にゆっくりと揺れていただけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気長に待つこと数年、その日はついにやってきた。

 

 生まれて初めて、かつてないほどお腹をぱんぱんに張らせたケ少容は、その日、突然の痛みに悶え苦しみ、邸の女中たちによって寝床へと運ばれた。

 

 すぐに医者が呼ばれ、さらには新野中の親戚という親戚が、皆駆け付けた。

 

 少容が医者の指示の元、歯を食いしばって痛みに耐えながら頑張っている間、その枕元で、夫である陰陸、義子である陰識、そして、少容の兄である((ケ奉|とうほう))や、その叔父の((ケ晨|とうしん))及び、ケ晨の妻である((劉元|りゅうげん))といった面々が懸命に励ました。

 

 そして、皆が息をのんで見守る中、ケ少容は、ついに念願の子を産んだ。

 

 女の子であった。

 

 最初の鳴き声を聞いた後、真っ先に生まれたばかりの赤ん坊を抱き抱えたのが、父親の陰陸であったことは言うまでもない。

 

 それはともかく、ひと段落ついた後の陰家は大盛況であった。

 

 出産を終えたばかりの少容と、生まれたばかりの赤ん坊の女の子は静かな所で休ませたうえで、一族そろっての大宴会が開かれた。その日の陰陸はたいそう太っ腹で、宴会に集った親戚・友人・知人たちにはもちろん、邸の使用人たちにも酒や肉を与え、皆で女の子の誕生を祝ったのである。

 

「あー、今夜は酒がうめえや!」

 

 陰陸の義兄であるケ奉が、杯を傾けながら言った。

 

「おい、陸。このケ奉の妹に、子を生ませたからには、覚悟しておけよ! もし今後、少容を悲しませるようなことをしたら、この兄がすぐに殴りこみに来るからな。覚えておけ! がーはっはっは!」

 

「ははは。覚えておくよ、義兄さん」

 

 ケ奉の、到底冗談には聞こえない言動に苦笑する陰陸。

 

「おいおい、その辺にしておけよ、奉」

 

 見かねてそう言ったのは、ケ奉の叔父にして、ケ家の現当主であるケ晨だった。その妻である劉元は、ついさっき赤ん坊の「兄」となったばかりの陰識少年に優しく話しかけていた。

 

「識くん。お兄さんになったわね。おめでとう。大事な妹さんなのだから、絶対に大事にするのよ」

 

「うん。もちろんだよ。俺の妹は、俺が守る!」

 

 まだ十歳になったばかりの陰識少年が頷いた時だった。

 

「がーはっはっは! 次伯、それは頼もしいな、おい!」

 

 酔っ払ったケ奉が、陰識の背中を叩きながら言った。

 

「腹違いとはいえ、お前の大事な妹だ! 絶対に泣かすなよ!」

 

「な、泣かさないよ、奉おじ上!」

 

「奉、それくらいにしておけ」

 

 酔ったケ奉を諌めるケ晨。そんな彼らを微笑ましげに眺めながら、劉元が陰陸に尋ねた。

 

「ところで、陰陸さん」

 

「なんですか?」

 

「生まれた赤ちゃんのお名前、もう考えてあるのですか?」

 

 ああ、そのことか、と思った陰陸は、杯の酒をぐいと飲み干すと、こう答えた。

 

「ああ、そのことなら、少容に任せることにしましたよ。なにしろ、少容は、ずっと前から名前をつけたがっていましたから。ま、落ち着いたら、彼女とじっくり話し合って決めますよ」

 

「まあ、それは良いことですね。でも、真名はともかく、諱が決まった暁には、すぐに私たちにも教えてもらえないでしょうか?」

 

「ははは。もちろんですよ」

 

 そう言って陰陸は微笑んだ。

 

 こうして、賑やかな夜は更けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、それから数日後の静かな夜のこと。

 

 少容の容態が安定したのを見計らって、陰陸は妻と我が娘のいる寝床へと足を運んだ。むろん、先日に劉元と話したことを、妻と考えるためである。

 

 赤ん坊の女の子は、夜泣きすることなく、母親のすぐ隣で、すやすやと眠っていた。

 

「よく眠ってるね。この子はきっと、よく育つだろうな」

 

「ええ、そうでしょうね」

 

 陰陸・少容夫妻は微笑ましげに我が娘を見た。

 

「ところで少容」

 

「はい、貴方?」

 

「この子の名前は、決まったのかい?」

 

「ええ、もちろんですわ」

 

 そう言うと、少容はいつの間に書いたのであろう、彼女自身の懐から、一枚の絹を取り出し、夫に手渡した。

 

「私、もし女の子が生まれたら、必ずこの名前にすると、前々から決めていました」

 

「流石だね。どれどれ……」

 

 絹を受け取り、そこに書かれた文字を読み取る陰陸。そこには大きな文字で、こう書かれていた。

 

「麗華」

 

「なるほど、((眉目秀麗|びもくしゅうれい))の『((麗|れい))』に、((華麗|かれい))の『華』で、『((麗華|れいか))』か。いい名前だね」

 

「そうでしょう?」

 

「うん。ところで、どっちなんだい?」

 

 陰陸はふいに尋ねた。阿吽の呼吸がごとく、少容は夫の意をすぐに理解した。それは、諱なのか、真名なのかという意味にほかならない。

 

 しばらく間を置いた後、彼女はこう答えた。

 

「どちらでもありません。そして、どちらでもありますわ」

 

「なるほど……」

 

 陰陸は何度か頷いた後、妻に意を確かめた。

 

「少容。君も諱と真名が全く同じだったね。それにあやかったのかい?」

 

「たしかに、それもあります。ですが……」

 

 少容は、窓から見える無数の星々を見上げた後、再び視線を我が娘、麗華に向け、彼女の頭をそっと撫でてやりながら、夫の質問に答えた。

 

「たしかに、『真名』は大事でしょう。ですが、私は、この子を『真名』で呼ばれたくらいでカッとなって怒りだすような、そんな物騒な子に育てたくはありません。だからこそ、どんな人相手でも名前を呼んでもらえる真名を名付けたいのです」

 

「そういうことか……」

 

 妻の言葉を聞いた陰陸は、しばらく考えるそぶりを見せたが、やがて穏やかな微笑みの表情になると、寝ている我が娘のおでこをそっと撫でてあげた。

 

「そうだね。よし、麗華。お前は誰に対しても優しくて、思いやりのある子に育つんだぞ。そして、可愛く育って、良い旦那さんに巡り合うんだぞ」

 

「あなた、早すぎますわよ」

 

「笑わないでくれよ。僕は真剣に願ってるんだから」

 

 そんな夫婦の仲のいい会話を、星たちも微笑みながら見下ろしているかのようだった。

 

 その後の数年間で、父・陰陸は、妻・少容との間にさらに二男(陰興、陰就)を儲けつつも、我が娘が本当に可愛く育つか心配であったが、それは杞憂に終わった。

 

 麗華と名づけられた赤ん坊は、わずか数年後には、長くてさらさらとした黒髪と、大きくてぱっちりした黒き瞳の持ち主に育ったのだから。

 

 美少女・陰麗華の名前は、間もなく新野一帯でたいそう評判となるのだが、それはもう少し後のお話。

 

 

 

 

 

 

(登場人物紹介)

・((陰麗華|いんれいか)):真名は麗華

 出身地:荊州南陽郡新野県

 「陰皇后紀」のメインヒロインとなる少女だが、この時点では、まだ赤ん坊。

 

・((陰陸|いんりく))

 出身地:荊州南陽郡新野県

 新野の大豪族・陰家の当主にして、三男一女(識・麗華・興・就)の父親。

 CVイメージ:郷田ほづみ

 

・((ケ少容|とうしょうよう)):真名は少容

 出身地:荊州南陽郡新野県

 陰陸の妻。新野の豪族、ケ家の一員。ケ奉の妹で、劉秀の姉婿・ケ晨の姪。

 CVイメージ:鳴美エリカ

 *歴史書には単に「ケ氏」としか記されていないため、少容の名は作者が勝手に名付けたものです。

 

・((陰識|いんしき)):字は((次伯|じはく))

出身地:荊州南陽郡新野県

 陰麗華の異母兄。陰家の次期当主。

 CVイメージ:大原さやか(幼少期)

 

・((ケ奉|とうほう))

出身地:荊州南陽郡新野県

 陰麗華の母方の伯父。新野の豪族・ケ家の一員にして、劉秀の姉婿・ケ晨の甥。正義感が熱く、故郷・南陽を愛する「南陽男児」。

 CVイメージ:天田益男

 

・((ケ晨|とうしん)):字は((偉卿|いけい))

出身地:荊州南陽郡新野県

 陰麗華の母方の大伯父にして、劉秀の次姉・劉元の夫。新野の豪族・ケ家の当主。一男三女の父親。

 CVイメージ:杉田智和

 

・((劉元|りゅうげん)):真名は((雪|しえ))

 出身地:荊州南陽郡蔡陽県舂陵郷

 劉秀の次姉にして、ケ晨の妻。一男三女の母親。

 CVイメージ:岩男潤子

 

 

 

 

 極めて不定期な投稿で、申し訳ございません。

 今回、完全新作の「陰皇后紀」の出だしを書いてみました。(光武帝紀本編とは外れた「外伝」的な話です)

 問題は、これが続くか、ですが。

 さて、この時点では、赤ん坊に過ぎない『陰麗華』ですが、後に、光武帝・劉秀の物語が進むに従って、極めて重要な人物となります。

 史実でも、かなりヒロインらしいお嬢様ですので。

 ちなみに、麗華の諱と真名を全く一緒にしてしまったのは、作者がどうしても、変に名前を付けたくなかったからです。

「真名を呼ばれて怒る」のが当たり前の恋姫世界において、異色なキャラを作ってみようと思った次第です。

 元々男だった武将を美少女にしたキャラ達と違い、元から女性だった人物を、可能な限り、そのまま描いて行こうと思います。

 ちなみに、今回登場した麗華の家族・親戚たちですが、光武帝の物語が進むに従い、彼ら、彼女らも、様々な事件に巻き込まれていくことになります。

 今後も、可能な限り、書き続けてまいりたいと思います。

 

説明
『三国志』の物語が始まるおよそ二百年前。
荊州南陽の新野の地に、一人の娘が生を受けた。
「三国」の恋姫たちが乱舞する時代から見れば、遥かな昔話となってしまった、一人の少女の物語を、語っていこう。
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
2456 2371 7
コメント
麗ちゃんの外伝スタート。後に絶世の美女と謳われた彼女がどの様な物語を紡ぐのか、続きを楽しみにさせていただきます。あー、俺も更新作業しないとなぁ〜。(汗 CVイメージですが、結構苦心されたようですね?(苦笑(不識庵・裏)
タグ
恋姫世界の過去時代 劉秀 光武帝 陰麗華 昔話 完全オリジナル 真・恋姫†無双 恋姫†無双 

家康像さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com