とある武術の対抗手段《カウンターメジャー》 第二章 信仰に殉ずる:三 |
「兄さん」
呼ぶ声がする。懐かしい音声が、心地よく自分の名を包む。
「兄さん、起きて」
起きなければ。起こす声に応えなければ。
「起きて、闘いなさい」
みちりと、右腕が音を上げた。脱臼した音だ。腕を極められ、折られた音だ。筋と筋がぶつりと断たれ、骨と骨がずれる音だ。
「みぎゃあああああああああああ!!」
豚にも劣る悲鳴を上げた。
「闘いなさい、兄さん。あなたは、天羽根流を継いだのでしょう」
次に音を上げたのは、膝だった。鶏の足のように手折られ、膝の裏が破れて、赤く濡れた骨が飛び出した。
「ひぎいいいいいいいいいい!!」
起き上がれない。起き上がりたくない。闘えない。闘いにすらならない。一方的な嗜虐。
「闘えと言っているのよ。痛がれと言った憶えはないわ」
のたうつ顔を下段蹴りが引っこ抜く。仰け反るほど起き上がり、今度は仰向けに倒れる。
「お、おご、ごぼ……」
悲鳴を上げたいのに、うまく上げられない。下顎が割れてしまって、ついでに舌も潰された。止め処なく口から溢れる血が喉に絡んで、息が苦しい。
股の辺りから、ばちんと弾ける音がした。踵を落とされて、睾丸が破裂したのだ。それを確認してから、痛みが脳天まで走りぬけた。
股が焼けるように熱い。血だけではない。小便も精液も、みどろになってはしたなく溢れる。
「お、俺の負けだ、許してくれ!!」
渾身の雄叫びだった。
「もう嫌だ!! 殴らないでくれ!! お前の勝ちだ!! 許してくれ!!」
あらん限りの言葉を言い募る。自分の習った武術も、矜持も、何もかも投げ出して、高らかに自分の敗北を謳いあげる。
そうまでしてでも、今自分の被る痛みを回避したかった。今日まで練り上げてきた覚悟は、容易く霧散した。
武人にあるまじき、醜態だった。
その姿を満足げに眺める目があった。上から見下ろす両の眼は、優しげでさえあった。先ほどまで自分に破壊の限りを尽くした人間のものとは、到底思えなかった。
顔が背く。背中が、遠ざかってゆく。
不意に寂しさを覚えた。ずたぼろに砕かれた隙間だらけの心に、寒からしめる風が容赦なく入り込む。
だからと言って呼び止めるのか。そんな権利も、責任も、勇気も、何もかも今しがた投げ出したと言うのに。寂しいと思いを馳せることすら、自分には許されないのに。
「??」
単純な打倒など、真の意味での敗北ではない。体を幾ら破壊され、這い蹲ろうとも、その心が敗けを認めぬ限り、そこに敗北は無い。
だとすれば、廷兼郎は間違いなく、敗北した。
意識がゆっくりと浮上してくるのに合わせて、目蓋を開く。静かながら、最悪の目覚めである。
もう忘れたと思っていたが、そんなことは有り得なかった。人生最初にして最大の敗北を、忘れられるはずが無かった。
今回も廷兼郎は打倒された。だが、あの時のように心が折れるようなことは無かった。本当の意味での敗北を喫してはいない。
(……どうでもいいか、そんなことは)
敗北か否か、それが本当かどうかなどという、哲学的な問題は捨て置いて構わない。それよりもやらねばならぬことを、敗北した廷兼郎は知っている。勝負は一度一度が決着である。敗北を覆すことは出来ない。
それでも廷兼朗は、もう一度菊池という男に会わねばならないという使命感に駆られていた。
「目が覚めたようね」
気がつくと、傍らに人が座っていた。ふわふわと揺れる見事な金髪は、気絶する寸前に見た人相と一致していた。
その女性が、何気なしに手を添える。それだけで、痛みどころか感覚さえ消し飛び、天に昇る心地を得る。
「あなたが、助けてくれたのですか?」
「私だけじゃないわ。他の仲間も治療したのよ」
女性が顔を向けた先に、多くの人が居る気配がした。徐々におぼろげだった視界が開け、廷兼郎が居る場所の全体像が浮かび上がってきた。
そこは木で出来た箱のようだった。目算で奥行きが三十メートルほど、幅はおよそ八メートルある。高さは幅と同じくらいだろう。壁と天上がゆるやかに丸みを帯びているが、木と木が隙間なく組み合わさり、見るからに頑丈そうである。
地下室か、と廷兼郎は考えたが、それは彼の感覚によってすぐに否定された。
木製の室を包むように、若干ながら水の流れる音が聞こえる。そして彼の体には慣性が働いて、僅かに傾いている。
(木製の船なのか?)
山の中で気絶した自分が、何故こんな場所で倒れているのか。自分のことなので非常に気になるが、まずは何をおいても言わねばならないことがある。
廷兼郎は正座に座りなおし、船に居る人間全てに目を配った。
「この度は山中で行き倒れているところを助けていただき、ありがとうございます」
言い終えて、深々と頭を下げた。体に一本の筋が通った、惚れ惚れするほどの土下座だった。礼を重んずる廷兼郎の所作に、周りの者から少なからず感嘆の声が上がった。
十秒を過ぎたところで、ようやく廷兼郎は顔を上げた。
「そう畏まらんでもいいことよ、字緒廷兼郎《あざおていけんろう》くん」
集団より一歩前に出ている男が、廷兼郎の前に片膝を付いて名を呼んだ。
その異彩を放つ身形に、廷兼郎は心の中で声を上げた。
上着もズボンも、サイズが合っていないものの、まだ常識的だろう。だが、アフロのようなボリュームの髪形は、明らかに異常だった。グリスか何かで固めているのか、甲虫のような光沢を放っているのも不気味だった。
そして首には、何故か小さな扇風機を四つ下げていた。
「俺は建宮斎字《たてみやさいじ》だ。よろしくな」
「よろしくお願いします。ところで、何故僕の名前を?」
建宮と名乗った大柄の男は、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「すまん。悪気はなかったんだが、ちょろっと財布の中身を調べさせてもらったのよ」
それを聞いて、廷兼郎は気を悪くすることはなかった。むしろこちらから説明する手間が省けて、助かるくらいだ。
「学園都市の学生さんだそうだが、何であんなとこにいたんだ?」
「遺跡や寺社を巡るのが趣味なんです。近くまで来る用があったので、せっかくだから白鳥陵に詣でようとしたら、妙な連中が墓を荒らしてました。しかも武器を持ってたので、これは危ないと思って迎撃したら、逆に倒されてしまって……」
淀みなく喋り、事のあらましを伝える。話している廷兼郎でさえ、腑に落ちない部分が多々あったので、これはあらぬ誤解を受けても仕方ないと覚悟していた。
建宮の反応は、意外にもため息一つだった。
「念のために確認したいんだが、あんた一般人だよな?」
「学生という身分ですが、一般人でも合っていると思います」
廷兼郎がそう答えると、横合いから小柄な男が顔を出した。
「建宮さん、そいつはマジで一般人すよ。誰が見たって魔術師には見えないす」
建宮が「そうよな、香焼《こうやぎ》」と同意して、もう一度深く息を吐いた。
またも聞いた、『魔術師』という単語。確か、白鳥陵《しらとりりょう》で争った連中も口にしていたことを廷兼朗は思い出した。白鳥陵にいた連中と彼らを繋ぐのは、どうもこの単語らしい。
それでも、まるで情報が足りない。廷兼朗は、自分の与り知らぬことが怒涛のように押し寄せてくる気分だった。
「とりあえず、帰ったほうがいいのよ。字緒くん」
「はい?」
ただでさえ混乱しているので、脈絡なく話されてもまるで意図が掴めない。
「詳しくは言えないが、一般人の君が関わるべきことじゃない。それだけは確かなのよ」
具体的な説明はなされていないが、言いたいことは十二分に伝わった。廷兼朗は建宮の言葉をようく咀嚼し、おもむろに顔を上げた。
「助けられた身分で厚かましいのですが、謹んでお断りします」
にこやかながらもきっぱりとした口調で、廷兼郎は言った。
「口ぶりから察するに建宮さんは、墓を荒らして、僕を襲った連中を知っているんですよね。そして彼らを追っている」
建宮はそれと分からぬ程度に、眉根をひそめた。
「何でそう思うのよ」
「奴らが逃げたタイミングと、あなたたちが駆けつけたタイミングが丁度良すぎる。それと、あなたたちの装いは、彼らによく似ている。言い方は悪いかもしれないが、僕には同類に見えます」
悪びれる様子もなく、廷兼郎は思ったことをずけずけと言い放つ。おどおど言ったところで内容は変わらないのだから、まだ堂々としているほうがいい。
「いいや、悪くない。その通りなのよ。あいつらは、俺らの仲間だった」
胸倉でも捕まれるかと思っていた廷兼朗に対して、建宮はあっさりと同意した。
「確かに言うとおりなのよ。だからって、連れて行くわけには、やはりいかんのよな」
そう言われて「はい分かりました」と引き下がるわけにはいかない。廷兼朗には廷兼朗なりの目的があるのだから。
「彼らは、恐れ多くも倭建命《やまとたけるのみこと》の墓を荒らしていました。絶対に許せません。一言、言ってやらねば気が済まないんです!」
とりあえず正論のような事をのたまってみたが、単に建宮たちを呆れさせる効果しかなかった。
「だとしても、一般人を巻き込むわけにはいかないんよ」
「僕は確かに一般人ですが、彼らの仲間を四人まで倒しましたよ。それでも、役には立てませんか?」
何とか食い下がるため、廷兼朗が言いつのる。自分の手柄を殊更に言い挙げるのは彼の気性ではないが、この際そんなことは言っていられない。
一瞬、これまで以上の鋭い目つきを建宮が向けてきた。ようやく興味を持ってもらえたようだ。
「倒したって、あいつらと戦ったのかよ?」
「はい。あちらから仕掛けてきたので。殺してはいません」
わざと挑発するように、不遜な口ぶりで言う。建宮はやはり、廷兼朗の言葉が信用できないのか、じろりと睨み付けていた。
「何をくだらないことで揉めてるんだか」
その睨み合いの中に、廷兼朗を看病してくれた、ふわりとした金髪の女性が苛立ち紛れに進み出る。
「何する気なのよ? 対馬《つしま》」
「イギリス清教が連れてきてた、あの彼ならともかく、こんな素人のわがままに私たちが付き合う義理はない。自分の足で出て行かないなら、放り出せばいいでしょう」
挑発的な言葉を吐き、鋭い目で廷兼郎を威嚇する。女性にしては身長が高い部類だ。腰に差しているレイピアの射程が加われば、彼女のリーチは驚くほど長くなるだろう。
女性を前にして、まず戦力を分析してしまうのが、廷兼郎の性分だった。
「そうですね。力ずくって、嫌いじゃないですよ」
自分の好きな方向に事が進み出し、廷兼朗はにこりと微笑んだ。
他の皆も止める気配はなく、二人を囲んで傍観した。
構えてみると、容易に体が動いてくれた。自分でも驚くほど、体力が回復している。電撃によるダメージは残っていない。
右手に刺突も食らっていたが、既に出血は止まっている。力を加えればまた傷が開くだろうが、大きさ自体が大したものではないので、戦闘になれば気にしないで済むだろう。
対馬と呼ばれた女性は、右手でレイピアを引き抜く。左手を腰に当て、真半身で切っ先を長く長く突き出す。
互いに構えを取ったのを確認すると、廷兼郎はすぐさま踏み込んだ。
菊池との対戦では、見に徹しすぎて痛手を被った。恐らく『魔術師』という手合いには、先手を取るのが有効なのだと廷兼郎は学んでいた。
突然の仕掛けに、対馬はすぐさま反応した。
レイピアの切っ先を払うように振るった。剣というよりは鞭に近い動作で、レイピアは廷兼郎の両目を払いに来た。
レイピアの刀身が肉を打つ。但し打たれたのは、廷兼郎のこめかみである。そして打ったのも切っ先ではない。
攻撃がはずれたことに対馬は焦るが、既に廷兼郎はレイピアに負けぬほど右腕を撓らせ、手刀を彼女の顎先に擦過させていた。
冗談のように対馬はその場に座り込み、薄く目を開けたまま佇んだ。
廷兼郎は、目を払おうとしたレイピアの切っ先に対して、さらに踏み込んで切っ先の着弾点をずらしていた。元よりレイピアは斬撃ではなく刺突を主眼に置いた武器である。そのような武器の刀身部分であればさらに切れ味が落ちる。肉が打たれはしても、切れることはあり得ない。
打たれた右のこめかみに、赤い筋が浮かんできた。目を切られるのに比べれば、まるで障りにならない負傷である。
「同行させて、もらえないでしょうか?」
廷兼郎が、よく通る声で建宮に言った。
建宮は戦慄していた。対馬は素人ではない。れっきとした天草式十字凄教《あまくさしきじゅうじせいきょう》の魔術師である。その彼女に魔術を唱える間も与えず、廷兼郎は素早く打倒した。
天草式十字凄教では、何気ない動作などや普段の服装に魔術的意味を付け、魔術行使の痕跡も残さず、また行使の瞬間さえ隠して詠唱《えいしょう》を完了する。例外なく武術を修めている天草式は、闘う動作と魔術の組み上げを直結させている。その詠唱速度は、呪文の読み上げや魔方陣の作成に比べて格段に速い。
廷兼郎の攻撃は、そんな天草式の詠唱速度さえ間に合わせなかった。対馬が油断していた可能性はあるが、それを差し引いても、彼のほうが数段速い。
より間合いを置いたり、予め魔術行使の準備をしておけば、廷兼郎に対して魔術を使うことは可能だろうが、至近距離まで近づかれたら、魔術を行使する時間は無いのかもしれない。
そして武術の実力においては、まるで底が見えない。刃物を全く恐れず、それどころか身を投げ出して機先を制してみせた。自らも大身のフランベルジュを得物としている建宮は、魔術を行使しないでこの男とは立ち合いたくは無いと、素直に認めていた。
確かにこの戦力は本物だ。菊池の一派にいた魔術師を四人も倒したと言う言葉も、今なら素直に信じられる。それでも廷兼郎は学園都市の人間である。ある例外は除いて、魔術師と学園都市の人間が関係を持つのは忌避すべきだ。
こうして悩んでいる間にも、木造船はどんどん目的地へ進んでいる。
黙り込んだ建宮を救うかのように、彼の懐から電子音が鳴り響いた。
「元気にしているか? 教皇代理」
「その声はステイルか。助かったのよー!!」
電話はイギリス清教『必要悪の教会《ネセサリウス》』所属の魔術師、ステイル=マグヌスだった。
天草式十字凄教は、ある事件を境にイギリス清教の組織『必要悪の教会《ネセサリウス》』に所属することとなり、こうしてイギリス清教の人間とも連絡を取り合っている。
この際、野郎だろうと救いの主には違いない。この妙な空気を打破する何かを授けてはくれまいか、と建宮はステイルに期待を寄せた。ステイルはそんな思惑など毛ほども知らず、自分の仕事に徹する。
「何だかよく分からないが、伝達事項があるから読み上げるぞ。学園都市から派遣されるエージェントと同行し、真伝天草式の鎮圧に当たられよ。以上」
その瞬間、建宮は素っ頓狂な声を上げた。
「はああああああ!? な、何なのよその命令は!?」
「さあ? どこで落ち合うとか書いてないが、もしかして接触済みかい?」
「接触してるといえば、してるような気がしないでもないような……」
「ならそいつを連れて行けば事は済む。元は学園都市からの要請らしいから、死んだってこちらの責任じゃない」
ステイルは、「伝えることは伝えた」と言って唐突に通話を切った。一人取り残された建宮は、忘我の体だった。
狙い済ましたようなタイミングでの同行命令。しかも科学サイドの総本山、学園都市からの要請である。先ほどの廷兼郎と同じく、建宮にはまるでこの現状が把握できなかった。
「いいのではないですか、教皇代理」
「諫早《いさはや》……」
初老の男が、廷兼郎の近くに寄って肩を叩いた。
「若いの。身の安全は保障できんが、それでも良いな」
「委細、承知」
諫早の問いに、廷兼郎は厳かに頷いた。廷兼郎の力強い返事を聞いて、建宮は「もうそれでいいならいいのよな」と、投げやりになっていた。
説明 | ||
東京西部の大部分を占める学園都市では、超能力を開発するための特殊なカリキュラムを実施している。 総人口約230万人。その八割を学生が占める一大教育機構に、一人の男が転入してきた。 男の名は字緒廷兼郎(あざおていけんろう)。彼が学園都市に来た目的は超能力ではなく、武術だった。 科学と魔術と武術が交差するとき、物語は始まる |
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